第1話 トラウマ(挿絵アリ)
注意・抽象的な挿絵アリ
「雨か?」
目覚まし時計の音で目を覚ましたタツマは、朝の乾いた唇でそう言った。
タツマの部屋の窓は東向きである。
ベランダにつながる大きめの窓からは日は射していなかった。
天気予報では晴れだと言っていたが、予報というものは必ず当たる物ではない。
天気とは神のように気まぐれなもの、人の予想など簡単に裏切る。
タツマは雨の具合を確認しようと、引き戸のガラスをがらりと開けた。
神とは天気のように気まぐれなもの、人の予想など簡単に裏切る。
タツマの目に飛び込んできたのは、一面の髪であった。
暗く感じてしまったのは、髪のカーテンが太陽を遮っていた為らしい。
狭いベランダの物干し竿に、黒い髪がまるで暗幕のようにぎっちりとぶら下がっていた。
タツマに気付いた黒い幼女が、振り返ってペコリとこちらにお辞儀をしてきた。
踏み台に乗ってせっせと作業をしていたのは、タツマの守護神オルタである。
オルタと髪のカーテンは繋がってはいない。干されているのは変異体との戦いで引きちぎられてしまった髪に違いない。
変異体との戦いの後、ロープ代わりに使ったオルタの半身はタツマが担いで持って帰ってきていた。
仮にも女神の肉体である。捨てるわけにもいかなかった。
「……えーと、おはようございます。オルタ様」
それだけ言うとタツマは部屋へと踵を返した。
以前のタツマなら、ここで二度寝に入っていた所だろうが、あの紅白戦以降、タツマとオルタには確かな絆が生まれている。
一人の人格ある者として、互いを認め合うようになった。
タツマにとっては不可解なことでも、オルタはきっと何かを考えているはずだ。
クリアファイルに入れられたこっくりさんセットを持ちだすと、タツマは再びベランダに出る。
「ええーっと、オルタ様は一体何をしてらっしゃるんですか?」
タツマはオルタとよく会話をするようになった。解らなければ聞く、思ったことがあれば伝える。人と人との関係の基本であろう。それは人と神でも変わらない。
オルタはするるっと髪の毛の手を伸ばすと、五十音順表を一文字づつ指し示していった。
ほ し た ほ う が い い だ し が で ま す
「………………………………………………………それは、たのしみです」
変異体によってちぎられたオルタの髪は15M程。もはや何年分になるのかもわからぬ物量を前にして、タツマはようやく、それだけを言った。
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「オルタ様!」
短剣から伸びたオルタの髪が、ボブゴブリンの足を縫い止める。
「氷槍!」
間を置かず、ウィリスの氷魔法がボブゴブリンの心臓を貫いた。絶命したボブゴブリンが魔石へと変わる。
―シャァアッ!-
「ウィリスさんッ!」
どこに潜んでいたのか、魔法を放ち、無防備なウィリスに向けてイボイシトカゲが飛びかかる。しかし、魔物の牙が届く前に、射線に入った鉄巨人が魔物の顎をがっちりと掴んでいた。
「アイアン先輩、そのままで!」
動きを止めた魔物に向けて、イクアラがロングソードを振り下ろす。
部の備品である大きめのロングソードは、イクアラが愛用していたバスタードソード程の業物ではないものの、代替武器としては十分なシロモノである。
イクアラのロングソードがイボイシトカゲの胴を真っ二つに切り裂いた。
「みんな、イボイシトトカゲは保護色で身を隠すわ! 影の輪郭で索敵しなさい!」
スピーカー越しに厳島の指示が飛ぶ。学生冒険者達の力強い返事が、ダンジョンに響いた。
ここはニコウヤダンジョンの4階。石と砂利の階層の砂利の道である。
先週の土曜日に行われた紅白戦から3日が過ぎた。
火曜日の今日は平日ではあるが、全国高校冒険者選手権の大会は曜日など構わず開催される。
ダンジョン部や応援団部の授業は午前のみ。タツマ達は午後の二時間の授業を公休して、クレ市のニコウヤダンジョンへと移動していた。
戦いの舞台となるニコウヤダンジョンの石と砂利の階層は、入口から二つのルートに別れている。
長く狭い石の通路と、短いが面積が広い砂利道のルートだ。
石のルートは堅くて白い大理石が続き、どこかゴシック建築の城内ような荘厳さがある。
砂利道のルートは、白い親指程の石が敷き詰められており、禅寺の枯山水のような趣がある。
今日から初采配となる厳島は、この二つのルートを二つのグループで攻略することを選んだ。
通常、グループを分ける場合にはそれぞれのグループをバランスよく、魔法使いと物理アタッカーを均等に振り分けていくのが常套手段である。
しかし、厳島のとった戦略は少々異なっていた。
長く硬い道のりを駆けるグループに、カヤ、金太、バーン、コールの魚里高校でも最速の4人を選んだ。
先の紅白戦では、太陽と砂にやられ足では魅せることのなかったバーンではあったが、暗く、冷たい迷宮の中ではその真価を発揮する。獣人最強とも呼ばれる狼男は伊達ではない。
バーン達の進む大理石の通路は、真っ白な床が続くために、トラップの判別も容易である。
同じくチームを二グループに分けてきた対戦相手を完全に置き去りにし、石の通路を4人はひた走っていた。速攻で次々とポイントを重ねながら。
もう一本の砂利道のルートは、タツマ達5人が慎重に、ゆっくりと進んでいた。
広い通路は乱戦になりやすく、砂利に紛れたトラップや魔物を正確に見極める必要があるからだ。
中級ダンジョンであるニコウヤダンジョンには、トラップといえばせいぜい刃のついてないトラバサミや、ぬるりと滑る転び石ぐらいしか存在しないが、トラップに足を取られた状態でモンスターに襲われては危険である。急ぎながらも、用心深い探索が求められる。
タツマ達は相手チームと牽制し合いながら、同じペースで迷宮を進んでいた。
迷宮競技はマラソンではない。相手と同じペースで移動しても相手より多く魔物を倒せば問題はない。
ウィリスの正確な魔法コントロールに、アイアンの的確なブロック、攻守に器用なオルタを武器とするタツマに、一撃の威力が大きいイクアラの爆発力。
彼等の奮闘により、相手チームの主力相手にほぼ五分の試合展開を繰り広げていた。
そう、五分である。
厳島の戦略では、二つのルートで圧勝をする予定であったが、タツマ達の砂利道のルートでは相手を一向に突き放せないでいた。
その原因は、一人の少女にあった。
「ど、どーん‥」
詠唱の声も覇気がない。イリアの魔法はコントロールが大きく乱れ、迷宮の壁に炸裂した。
「ご、ごめんじゃけえ」
「気にするなイリア! 次だ!」
オルタの鞭がイボイシトカゲの頭部を捉えた。短くなったオルタの髪は射程と威力こそ半減したものの、持ち前の器用さは健在である。後頭部を強く叩かれ、脳震盪を起こしたイボイシトカゲは眩眩とよろめいた。
「イリア! 今だ!」
「ど…、どーん」
再びの低い爆発音が響く。
タツマに促されたイリアが、今度こそと放った呪文は、魔物から3mほど離れた地面を掘り返しただけだった。
魚里高校のエースであるイリアは、今日、一匹も魔物を倒していない。
その一部始終をモニターで見ていた厳島が、苦い顔で、唇を噛んだ。
「…間違いない。イップスだわ」
その後の厳島の行動は迅速だった。
控え魔法使いである長月黒史を、イリアに変わり戦線に投入した。
エースを下げる事は、相手チームを勢いづかせるのは間違いなかったが、これ以上イリアを使い続けると、イリアの精神的外傷が取り返しの付かないところまで大きくなる危険があった。
長月に代わりリリーフカーに乗ったイリアは、「ごめんじゃけえ、ごめんじゃけえ」とぽろぽろと泣いていた。長月の投入によって、タツマ達の行く砂利道のルートは相手チームに競り勝った。
カヤ達が行く石のルートが圧勝であったために、結果的に魚里高校は快勝で準々決勝へとコマを進めた。
スコア的には快勝だったものの、しこりの残る勝利であった。
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試合を終えた魚里高校の選手たちはバスで学校の部室へと帰ってきた。試合後のミーティングの為である。
簡単な全体ミーティングを済ませた後に、厳島はタツマ達主力の8人だけを残し、居残りミーティングを行った。
「さて、なんで居残りなのか、解るわよね?」
厳島の表情は硬い。勝った後の監督の顔とは思えなかった。
イリアが「ごめんじゃけえ、みんな、ごめんじゃけえ」と、目を赤く腫らしながら謝っていた。
泣きじゃくるイリアの頭をすぐ隣にいたタツマが優しくなでる。
「イップス…」
重い空気の中で、ウィリスがポツリと言った。
イップス。それは、精神的外傷に起因する運動障害のことである。
イップスはプロ・アマチュアにかかわらずアスリートに等しく起こりうる問題だ。
バスケットボールのプロ選手がフリースローが全く入らなくなったり、プロゴルファーが1mのパットを必ず外すようになる。
心理的なトラウマが体を萎縮させ、正しい運動への神経命令を乱す。それがイップスの原理であり、魔法使いであるイリアにも同様の事が起こり得る。
そもそも、魔物と命がけで戦う冒険者というものは、中世の昔よりトラウマと戦い続けて来た職業なのだ。
試合中、イリアが可怪しかったのは明らかだった。
もともと、細かいコントロールが苦手なイリアではあったが、今日の彼女のプレイは苦手や不調で片付けられるレベルではなかった。
イリアと同じ、魔法使いのポジションであるウィリスは、イリアの不調の原因を正しく理解していた。
同じルートを走っていたアイアンもイクアラも、コクリと頷き、ウィリスの言葉を肯定した。
「正解よ。じゃあ、誰が悪いかも解るわよね?」
そう言うと厳島は、一人の選手へと目線を向けた。イリアがビクリと、小さな肩を震わせる。
全員の視線が一箇所に集まる中、タツマは責められる少女を庇うように立ち塞がった。
「イリアは‥、イリアは悪くありません! イリアを責めないで下さい!」
イリアは非常に小柄である。タツマの背中にすっぽりと隠れてしまうほどに。
タツマは全員の視線を堂々と受け止める。「タツマくん……」という震えた小さな声が、背中越しに聞こえた。
チームメイトは互いに支えあうもの。チームメイトとしてイリアを守ってみせる。
タツマはそう、心に決めた。
厳島はそんなタツマの目を見て、しっかりと頷いてこう言った。
「ええ。イリアちゃんは悪く無いわよ。だって悪いのはタツマ君、貴方だもの」
「……へっ?」
厳島の目と声は冷ややかであった。
「……あれっ?」
周りを見渡すと、皆が厳島と同じ目で自分を見つめていた。
ただ一人、カヤだけが哀れみと慈しみの視線をタツマに向けていた。
「えっ、お、俺?」
「俺?」という質問に対し、全員がコクリと頷いた。
イリアに向けられているとタツマが思った視線は、最初からイリアのすぐ側にいたタツマに集まっていた物だった。
タツマのフォローに回る者は誰もいない。カヤですら、悲しい瞳で首を縦に振った。
「解らない? じゃあタツマ君、ちょっとオルタ様を伸ばしてみなさい」
タツマに命じられたオルタの髪の毛が50cm程伸びた。
「ひぃうっ!?」
タツマの背中にしがみつくようにピッタリとくっついていたはずのイリアが、50cm程後退した。
「もう少し伸ばしてみなさい」
オルタの髪の毛がさらに1m程伸びた。
「ひぃうっ!?」
イリアはさらに、1m程後退した。
「はいっ、あと2m」
「ひぃうっ!?」
オルタの髪がさらに2m程伸びると、イリアはさらに下がろうとしたが、部室はそこまで広くはない。
壁にぶつかると、自分の体を出来るだけ小さくしようとしているのか、部屋の隅で頭を抱えてうずくまってしまった。
「………ええーっと、これは一体、どういうことでしょうか?」
憐れな愚者は、オルタとイリアを見比べながら、なおも状況を理解していなかった。
厳島は「未だわからないの?」と溜息を吐きながら胸元のボールペンを外すと、
「つ・ま・り、紅白戦の時のタツマ君の鬼畜作戦がきっちりイリアちゃんのトラウマになっちゃってんのよ!? どーしてくれんの? ねえ、どーしてくれんのよ!?」
「痛い! 痛い! 痛い! ボールペンのキャップでアバラをグリグリするのはやめて下さい! ごめんなさいごめんなさい! 地味に痛いからやめて下さい!」
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「…とは言え、今回の件はタツマ君にイリアちゃんを抑えなさいと指令した私の責任でもあります。そこで…」
ひとしきり制裁して落ち着いた後、厳島はそう切り出した。
財布を取り出し、その中からスッと一万円札を取り出すとタツマに突き出した。
「タツマ君、イリアちゃん。明日の練習はいいから二人でデートしてきなさい」
「へ? デート?」
「デデ、デート? タタ、タ、タツマ君とデ、デート?」
厳島の発言に、当事者の二人はもちろん他の選手達もざわめいた。
厳島の発言に驚くもの、眉を潜めるもの、誰にも解らぬ程に不機嫌になる者、
金欠の厳島がポケットマネーから万札を出したことに驚く者など、その様子は様々であったが。
「エースと遊撃手が噛みあわないようじゃ甲子園には絶対に行けないわ。明日、二人で遊んで少しでもいいから仲良くなって来なさい。イリアちゃんを傷つけた分は、あなたが責任持ってフォローするのよ。タツマ君」
「あ…、はあ、なるほど。そういうことですか」
厳島の意図を理解したタツマは厳島から一万円札を受けとった。手渡すときに厳島が一万円札を中々掴んで離さなかったのは、一万円という出費はやはり辛かったからに違いない。
イリアは「デート」という単語を、顔を赤くし、目をパチパチ閉じたり開いたりしながら繰り返していた。
そのやりとりを見守っていた親友のリザードマンと天狗は
「…ふむ、他の女に貢がせた金で、喧嘩した別の女とヨリを戻すために逢引する‥か、タツマの奴、結果だけ見れば立派なヒモかジゴロだな」
「私は…、私だけはタツマを見捨てない。いつかちゃんと更生させるもの」
天狗は情の深い種族である。愛する人間が畜生道に落ちるのならば、手を差し伸べて拾い上げる。それが風坊カヤという少女である。
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「ねえ、遅いわよ」
「え? ……あ、はぁ?」
今は未だ火曜の夜。イリアとの約束は明日である。
タツマの目の前には午後9時の淑女がいる。
店に入るなり、今日は雑誌コーナーには寄らず、そのままツカツカとタツマの方へとやってきた。
時計の針を見ると、夜10時を指している。
なぜ、午後9時の淑女がこの時間にいるのか、何が遅いのか、タツマにはよく解らなかった。
「シフトよ。いつもは9時にはここにいたじゃない?」
「あっ、そのことですか。バイトの時間を短くしてもらったんです。ダンジョン部は練習時間が長いですから」
「そう、そういうこと……。だったら昨日の内に言って欲しかったわ。私も長い間抜け出すわけにもいけないのよ」
「ご、ごめんな…さい?」
タツマは責められている意味も、彼女の言葉の意味も解らなかったが、ひとまず謝っておいた。女性に冷たい目を向けられた時は謝っておいた方がいいと、今日、タツマは身を持って知ったのだから。
「あら? いい子ね。謝ってくれたから許してあげる。私もお腹空いちゃったもの」
そう言うと、午後9時の淑女改め、午後10時の淑女はクスリと微笑むと、雑誌コーナーへと向かっていった。
午後10時の淑女の晩御飯は、今日もタツマが手づから食べさせるフランクフルトだった。