第1話 未知のダンジョン
「‥こんな所に本当にダンジョンなんてあるのかよ…?」
次の日は雨こそは上がっていたものの、灰色の雲が空を覆い隠す土曜の休日であった。
タツマは早朝から地図を片手に一人で登山道を登っていた。ヒロシマを流れる一級河川であるオオタ川。その源流にほど近い場所に赤く丸がつけられている。
ヒロシマ市内から電車とバスで2時間。最寄りのバス停からは徒歩30分。そこにある小さなダンジョンに眠っているという女神に会いに行くためだ。
こんな所にダンジョンなんてあるのだろうか、そもそも、女神なんて本当にいるのだろうか。
厳島が自分を騙しているなどとは思えないが、彼女が昨日タツマに語った言葉を信じきることもできなかった。
「…いやいやいや、何言ってんですか、厳島さん! 神様はみんな神界にお住まいのはずでしょう! 俺に死んで天に登れってことですか!?」
神々が地上で暮らしていた時代は遥か昔の話である。
神話の時代には人間が神に会いに行ったとか、神とともに暮らしていたという伝説も残ってはいるが、ある時を境に全ての神々は下界に別れを告げ、神界へと旅だってしまったという。小学校の歴史の教科書にも記されてある史実である。
世界各地にある神社や神殿も、神を祀っているだけで、神々が実際にそこに住んでいるわけではない。
神主や司祭達は神殿から祈りが届いて、神々が願いを聞き届けるくれるのだと謳ってはいるが、実際は眉唾物の話である。
気まぐれで奔放な神々が何万人もの願いにいちいち耳を傾けるわけがない。
「世界中の神々はラグナロクを最後に皆天界に昇った。そう伝えられているわよね。でもねタツマ君、物事には何事も例外という物があるのよ。天界に昇る事を拒絶して、人間界に居残った神も少ないながら存在したわ。その残された神々の一柱に、絶望の縁に沈み、独りでダンジョンへと籠もった河の女神がいるという言い伝えがあるの。自らを石の中に封印してね」
「ちょ、ちょっと待って下さい厳島さん! 封印とか、石の中とか、絶望の縁とか、それって会いに行って大丈夫なんですか? 祟り神か荒神かなんかじゃないですよね?」
タツマの質問に厳島はつっと横向きに視線を逸らした。答える気はないらしい。
「…と、とにかく会いに行ってみなさい! どうせ駄目元、イケれば儲け物。タツマ君に冒険者として甲子園に行きたいという気持ちがあればね。本当は諦めてないんでしょう、夢。だって貴方のトレーニングの仕方、陸上選手のものじゃないもの」
厳島の指摘は正しい。
本当に陸上選手を目指しているのなら、わざわざ足場の悪い河原や砂浜でランニングをする必要はない。
剣を振るう為の筋肉と動きを鍛える必要などない。
諦めたはずの夢、それを諦めきれていないのは、本当はタツマとて気付いていたはずなのだ。
ただ、蓋をして見えないようにしていただけだった。
結局の所、タツマには厳島の提案を跳ね除ける理由など存在しなかった。誰よりも神の守護を求め、甲子園へと行きたかったのは、他でもないタツマ本人だったのだから。
そして今、タツマは一人でダンジョンへと向かっていた。ソロでダンジョンに潜るというのは、タツマにとって初めての経験である。
「管理されていないダンジョンだから何が起こるかわからないわ。絶対に一人で行かないこと。明日の二軍の練習は休みだから、二軍の冒険者部の選手の中の誰かと一緒に行くのよ。カヤさんとかイクアラ君ならタツマ君もよく知っているでしょう? 事情を話せば喜んで力を貸してくれる筈よ」
別れ際に、厳島は何度も念を押すように一人では行くなと忠告していた。
しかしタツマは、その言葉を聞き入れることはなかった。
厳島の言う通り、同じ中学の冒険者部であったあの二人ならば、タツマが頼めば一も二も無くダンジョン探索に協力してくれるに違いない。それでもタツマは二人に連絡を取ることはしなかった。
タツマに退部勧告がつきつけられたあの日、一軍を掴みとっていたはずの二人は、タツマの退部を取り消せと五井に猛反発した為に、揃って二軍へと落とされてしまったと聞いている。
その時のことが申し訳なくて、何と謝るべきかわからなくて、タツマはあの日以来二人と碌に会話もしていないのだから。
胸に何かが支えたような息苦しさを感じ、タツマは大きく息を吐きだした。
日こそ射さぬものの、高い湿度と気温が、タツマの体力をじわじわと奪っていた。
そろそろ一休みするかと、リュックから携帯食と水筒を取り出そうとした時、視界がにわかに開けた。
そこには夏草に覆われた古ぼけた祠と、その直ぐ背後の岩肌にある、縦に大きく避けた洞穴があった。
「これが…、そうなのか?」
祠は粗末で小さなものだった。大きさは一斗缶程度であろうか。
風雨にさらされ続けた二寸角の柱は、今にも崩れ落ちそうなほどに腐食していた。
誰が置いたのか、ワンカップの日本酒が封を開けた状態で放置され、雨水がたまり、緑の藻が中に蒸していた。
何かダンジョンに関する手がかりはないかと、タツマは祠を調べてみたが、木の札に、なにやら読めない文字が書かれていた他は、何も見つけることができなかった。
次に縦にさけた洞穴を見る。そこがダンジョンの入口であることは間違いないだろう。
中学生用の初級ダンジョンであれば、タツマは何度もチームメイト達と潜ったことがある。
魔素と呼ばれるダンジョン特有の霊気というものが、穴からは染みだしていた。
タツマが潜っていた管理された初級ダンジョンとは違い、肌を刺すような剥き出しの霊気ではあったが、
「入るしか、ないよな」
観察を続けていても、これ以上は何も見つけられないだろう。
タツマはリュックから冒険者服を取り出した。衝撃吸収に重きをおいたゴム製のジャケットとズボンに、関節を守るプロテクター。現代の冒険者の標準の軽装装備である。
着替えを終え、一度だけ大きく深呼吸をするとゆっくりと洞窟へと潜っていく。
未知のダンジョンの中で、タツマは自然と短刀を強く握りしめていた。
狭い裂け目を、壁を這うように進んでいくと、不意に広い空間へと躍り出た。
ヘッドライトで確認すると、洞窟の中は想像以上に広い。
地面には大小の丸い石が石の絨毯を形成しており、想像していたよりも足場は良い。壁面は青く暗く、奥からひんやりとした冷気が吹き込んでくる。
辺りから物音は聞こえず、生き物の気配もない。湖の底のように静まり返っている。
「ここが、このダンジョンのセーフティーゾーンか」
ダンジョンにはセーフティーゾーンという物がある。
セーフティーゾーンは、ダンジョンの入口に存在する事が多く、そこには何故か魔物は一匹も入ってこられない。
甲子園のセーフティーゾーンなどは、ここの数十倍の広さを誇り、そこが客席となり、巨大モニターで冒険者達の闘いが中継される。客席を埋め尽くす何万人という観客が、それぞれの贔屓のチームを応援するため、大合唱をあげるのだ。
しかしここは無名で無管理のダンジョン。魔物はいないが、人気もない。
この無名のダンジョンのセーフティーゾーンからは2本の道が伸びていた。
一つはタツマが今入ってきた細い裂け目。もう一つはダンジョンの奥へと続く直径がおよそ3メートル程のトンネルのような道であった。
取るべき道は一つである。タツマはもう一度ゆっくりと深呼吸をして、体と心を落ち着かせると、ダンジョンの奥へと進んでいった。
襲撃は突然だった。
セーフティーゾーンからトンネルを30メートル程進んだところで、ダンジョンはタツマに牙を剥いた。
上空からの不意打ちを、タツマは前に転がることで何とか躱した。
細い道から広間へと出るその場所に、まるでタツマを待ち構えていたように、何者かが降ってきた。
完全な死角の攻撃から、逃れる事ができたのはただの幸運である。
タツマは転がって立ち上がると、直ぐにライトで魔物の姿を視界に捉える。
それはイソギンチャクに牙のようなものが生えた、みたこともない魔物だった。
体高は70cm程であろうか。赤い口をゆらしながら、「グェッ グェッー」と、まるで笑うように鳴いていた。
タツマはそちらに警戒しながらも、すかさず辺りを見渡していく。
ざっとみただけで、同じ生き物が6体はいた。
「(数が多すぎる…、一旦退くか!?)」
冷たい汗を背中に感じたが、イソギンチャクの魔物達がタツマに襲いかかってくる様子はない。
いや、ジリジリとタツマに向かってにじり寄ってはいるようだが、ほとんど動いていないのだ。
「(こいつら、移動が得意じゃない、待受型のモンスターなのか?)」
タツマの推測を肯定するように、イソギンチャクの魔物は根元の吸盤をのんびりと動かしているだけだ。
易い獲物に見えた。数こそ多いがこれほど動きが鈍い魔物であれば脅威ではない。
一匹一匹数をへらしていけば良いだけだ。タツマは短刀を手に駆け出した。
入り口を陣取る最初の魔物に対し、体を屈め、下から腕をすくい上げるように一撃を放つ。
「ギィェエゥエゥエ―!!!」
魔物の断末魔、ではなかった。
タツマの刃が届く寸前に、魔物は突然耳をつんざく悲鳴を上げた。
鹿の泣き声を何十倍にも大きくしたような魔物の咆哮が、タツマに正面から炸裂する。
脳の真ん中に直接ハンマーを打たれたような衝撃だった。
タツマは一撃を入れることを諦めて、イソギンチャクの脇を駆け抜けた。
撤退だ。
揺れる視界の中、乱れる心を必死で押さえつけてセーフティーゾーンを目指す。
30メートルが恐ろしく長く、長く感じる。ようやく広間へと飛び込むと、同
時に地に倒れ伏した。
「…ハァッ、…ハァッ、…グッ…、ゲホッ」
呼吸は荒く、口元から涎の筋が伸びていく。心臓は太鼓のように激しく鳴り続ける。
安全地帯へと戻ってきたというのに、恐怖と動悸が収まらない。
「‥ゴホッ、…グッ、一歩間違えれば…、やられてた…ッ」
未知のダンジョン探索、ソロでのダンジョン探索が、こんなにも恐ろしいものだとは思っていなかった。
魔法が使えなくとも、アビリティーなどなくとも、戦えるとおもっていた。
そんなものはただの思いあがりだった。守護を持たぬ人族の、身の程知らずの勘違いでしかなかったのだ。
魔物の咆哮に込められた“恐慌”のステータス異常の効果により、タツマの心はみるみると弱気に支配されていく。
「やっぱり無理かッ‥、オレには…!」
あの程度の魔物も倒せない自分が、冒険者になりたいなど、甲子園に行きたいなどと笑わせる。自分の力では、何一つも成すことはできないのだから。
冷たい石畳でうつ伏せになり地面額をこすりつける。
体を動かすことができない、恐怖で顔を上げられない。
無様な敗北者に向けて、頭上から聞き覚えのある声が投げつけられるまでは。
「おかえり、タツマ」
「シュルルッ、我々を置いて行くからそうなるのだよ」
顔を上げれば、中学の時のチームメイト、風坊カヤと、イクアラ・スウェートの二人がタツマを見下ろしていた。