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プロローグ 午後9時の淑女




「いらっしゃいませぇ!!」



威勢のよい掛け声に、若いカップルがぎょっとなって立ち止まる。縦縞模様の店員が、カウンター越しにギラギラとした笑顔を向けてくる。

カップル達はさっと目線を切ると、奥の冷蔵庫へと早足で向かう。



夏の夜。今日も今日とて熱帯夜。街に散らばるコンビニは、山も河も遠ざけてしまった現代人にとっては、涼を得られる数少ない場所である。


そんな夜のコンビニで、しかしまるで昼飯時のラーメン屋のような挨拶を思い切り良く投げつけたのは、15歳のヒト族の少年、須田タツマであった。

キレのある動きで少年は働く。買い物カゴに適当に放り込まれていた酒や弁当のバーコードを、機械で次々と読み取っていく。大げさでテンポのよい動きは、コンビニの店員というよりも、やはりラーメン屋の店員によく似ていた。



「以上! 7点で2131円になります!」



夏とはいえ、冷房が必要以上に効いているコンビニの店内。大学生と思われるそのカップルは



「(暑苦しい……)」



と、思った。



「ありがとうございましたぁ!!」



代金を払い、自動ドアから出て行くカップルの背中に、サヨナラの挨拶が大きな声でぶつけられる。

まるで豆で追われた鳩のように、恋人たちは夜のコンビニから逃げ出した。



「おうタツゥ。今日は随分と威勢がいいな。何かあったか?」



食料品の補充と賞味期限の確認をしていた、40を少し超えたぐらいの男がタツマに笑いかけた。

大きな口につぶらな瞳、ふくよかな頬には吹き出物の痕がいたるところに残っている。どう贔屓目にみても色男ではない。

身に纏うのは、タツマと同じ縦縞のコンビニの制服。大きめの制服に、中年のだらしない肉体が収まっている。

偶にオオサンショウウオか何かの獣人かと問われることがあるが、一応、歴とした純血の人族である。



「俺、ダンジョン部に復帰出来たんです! 今日から俺も、魚里のダンジョン部の一軍なんです!」



タツマの声は、明るく、大きい。



タツマの元気の源は明らかであった。

一昨日の紅白戦を終え、名実共に魚里高校冒険者部に復帰したタツマは、今日から一軍の練習に加わった。一週間前まで、一軍どころか退部扱いとなっていたはずのタツマが、だ。


言葉足らずの報告は、事情を知らぬ人間にはまるで要領を得ないだろうが、彼の事を子供の頃から知っている者にとっては、それだけで十分だった。



「ほんとかあタツゥ! よかったなぁ! よかったなぁ!」



コンビニの経営者である江田島えだじま海平かいへいは、タツマに負けぬほどの大声で顔を歪めて喜んだ。黒目がちのつぶらな瞳から、涙が次々と毀れた。


店に響く「バンザイ」に、こっそりと立ち読みを続けていた客が居心地悪そうに帰っていく。客のいなくなった店内は、暑苦しい少年と、暑苦しい中年の専用スペースとなってしまった。



暑苦しい中年、江田島海平という男はタツマの両親の親友であったらしい。

らしいというのは、タツマには両親の親友という感覚が未だ持って理解できないからだ。ふとした時に一緒に食卓を囲んでいる人間。仲の良い親戚のような感覚に近い。

両親が「カイさん」「カイさん」と呼んでいたため、タツマも自然とカイさんと呼ぶようになった。


海平の経営するコンビニはタツマの住むアパートから500mほど離れた場所にある。

タツマの生まれる前は老舗の個人経営の商店だったらしいが、もう20年も前にフランチャイズのコンビニチェーンに乗り換えたそうだ。

タツマが小学生の頃などは、毎日のように海平のコンビニに寄り道しては、いつも何かを頬張っていた。

カイさんはお菓子をくれる人。小さなタツマにとってはそういう認識だったのだろうが、タツマは海平によく懐いた。

今や亡き両親は、当時のタツマに何度も注意していたが、その悪癖は中学に入るまで治ることはなかった。海平も、「これは内緒だぞ」といいながら、悪童への餌付けをやめようとはしなかった。

歳は30程離れてはいるが、海平とタツマの間には奇妙な友情が成立していた。故に、両親の親友などという周りくどい関係は、タツマには今でもピンとこないのだ。



タツマの両親の死後は、海平はタツマの事を何かと心配して手をつくしてくれた。

高校に入ってからは、タツマは平日のみ、夜8時半から10時半までの一日二時間という短い時間ではあるが、海平のコンビニでアルバイトをしている。

二か月前、タツマが冒険者部を退部になった時には、怒りのままに学校に掛けあったが功を奏さなかった。

海平が、ぐしゃぐしゃに泣きながら魚里高校の校長に訴えた事は、無意味であったが、願いは叶った。


今、海平は「よかった。よくやった。」と、タツマの頭をぐしゃぐしゃと撫でていた。



「…そうだカイさん。そういう事で俺、シフトを減らしていただきたいんです。無理言って少ない時間帯しか働けないくせに、申し訳ないんですが…」



「ああ、もちろんだ。もちろんだとも! それでどうする? 日にちを減らすか? 時間を減らすか?」



「できれば時間を。9時半から10時半とかでは駄目でしょうか?」



「ああ、かまわんさ。もともと俺が裏で飯食ってる間だけのヘルプだからな。‥しかし、金の方は大丈夫か? 冒険者部は色々と入用なんだろう?」



「あっ、それについては大丈夫です! 先日ちょっとしたつてで魔石を大量に手に入れることができたので」




オルタの迷宮でタツマ達が手に入れたイソギンチャクの魔物の魔石は、未管理ダンジョンの天然物の上質な魔石だったこともあり、その総額は200万円を超えた。

迷宮の情報提供者である厳島は、分け前を頑として受け取らなかった。カヤ達と三等分した収入は、換金手数料の一割を除いても一人頭60万円に近い額が残されることになる。今も昔も、冒険者は当たればウマい。

ダンジョン部は何かと金のかかる部活であるが。今回の臨時収入は、タツマ達の高校三年間の部活動を支えてくれることだろう。



一方、オノミチ水道迷宮でタツマ達が倒したサハギンの変異体の魔石は、学園の部活動内のことであるのでタツマ達は手にする事はできない。

ダンジョン部の活動において、金銭の譲渡が発覚した場合は、全国高校冒者連盟から厳しい制裁が与えられる。ダンジョン部はあくまで学校の部活動であるからだ。


変異体の魔石は、迷宮税を控除されても5000万円もの収入になると見積が出た。

厳島はその全額を、遠征費や部員の武具の新調に充てると明言している。金銭の譲渡は禁止であるが、必要経費に使われる分には問題はない。





「そうか、困ったことがあればいつでも言えよ。…それじゃあ俺は裏で飯食ってくるから、後は頼むな」



そう言って、海平はコンビニのすぐ隣にある自宅へと裏口から抜けていった。

グスグスと鼻をすすり上げる音も、扉を閉めれば聞こえなくなった。



途端に、人気がなくなった。



タツマは一人だけで夜のコンビニに取り残されている。夏の新商品を宣伝する販促用の有線放送だけが店内に響いていた。

客は誰も入ってこない。何故だかはわからないが、平日のこの時間は誰も客が入ってこないエアポケットになっている。



時計の針が、午後9時を指した。



「(来る……ッ!)」



乾いた唾を飲み込む。

エアコンの冷気が、まるで冬の風のような冷たさを纏った気がした。そのくせ、梅雨特有の粘着くような湿気が、タツマの首筋を撫でつける。



密室から、外の世界へ繋がる自動ドアが、開く。



「いらっしゃいませぇ!」



不安を振り払うように絞り出した大声は、空元気という言葉が適当であろうか。



須田タツマには苦手が少ない。

持ち前の図太さと尾を引かぬ性格は多少の事は見逃せるし、我慢する以前に忘れてしまう。

オルタの出し汁入りの味噌汁ですら、最近は抵抗なく飲むことができるようになった。



しかしそのタツマとて、苦手なものは存在する。

自動ドアの向こう、四角く切り取られた黒い闇に浮かび上がたのは、タツマの予想通りの人物であった。



美しい。とても美しい女性だ。

真っ白な肌に、ウェーブがかったライトブラウンの髪。

外から侵入してくる夏の生暖かい風で、背中に流した髪の毛が一房、風に吹かれて僅かに乱れる。

吹き込んだ風とともに嫌味にならない程度の香水の匂いが漂ってくる。柑橘系の香りが鼻の奥を突く。

女は乱れた髪を右手でつっとかき上げると、再び後ろへと流した。顕になった白く形のよい首筋が、冷たい色気を醸し出している。



目が合う。

ぱっちりと大きく透き通った目には、心まで見透かされているような気持ちになる。

左目の下には印象的な泣きぼくろが映えている。

大きな目の美しさにも決して負けることのないそのホクロは、まるで月明かりの中でも輝く一等星のようである。

泣きぼくろというには、いささか勝ち気なホクロであった。


タツマの姿を認めると、女は口元に笑みを浮かべた。

人の物とは思えぬ妖しい笑みだ。厚みと艶のある唇がふわりと開く。



「ねえ」



熟れたアケビのような、ねっとりと甘い声が、妖しい唇から零れた。



「いい夜ね。今日も」



英語をそのまま直訳したような気障な夜の挨拶も、彼女に限ってはしっくりと来る。

良く伸びた背筋がすっとまがると、買い物カゴに手を伸ばす。

ライトグリーンのワンピースから伸びた手は、白い薄手のレースの手袋に肘のあたりまでおおい隠されている。手袋とワンピースの間に、僅かに覗く白い肌も、手袋と同じぐらい真っ白である。

買い物を肘の内側にぶら下げると、背中をふたたびすっと伸ばした。

日傘でも差せば、きっとどこか遠い国の御令嬢にしか見えないだろう。



時計は9時をさしている。

午後9時にやってくるこの名も知らぬ女性のことを、タツマは心の中で『午後9時の淑女』と呼んでいた。



午後9時の淑女は左へ折れ曲がると、雑誌置き場の方へと歩いて行く。

タツマのいる場所からは棚が邪魔をして死角になっている。


バサリ、バサリ、と次々と商品が買い物カゴに詰められていく音だけが聞こえる。

音が聞こえる度に、タツマの拳に、じっとりと汗がにじんでいく。




須田タツマには苦手が少ない。



そしてその数少ない苦手が、午後9時の淑女であった。



高校生になり、海平のコンビニでアルバイトを始めるようになって程なく、タツマは彼女と出会った。

出会った、と言っても自己紹介などした試しはない。

タツマは彼女の名前など知らないし、彼女もタツマの事など知らない。知っていたとしてもコンビニの制服の胸元のプレートに『須田』と書かれている苗字ぐらいであろう。



夜のコンビニバイトの店員とその客。ただ、それだけの関係である。

あるはずなのだが、タツマは彼女の事が苦手であった。

苦手であるのにはもちろん理由もある。




-ドスッ-




レジのカウンターに買い物カゴが置かれる。女性の細腕で持ち上げていた物にしては、重く、鈍い音だった。



「(今日はまた……、随分と多いな……)」



震える手を延ばすと、それに触れる。買い物籠に平積みされた雑誌の山に。

雑誌のバーコードというものは裏表紙に記載されている。しかし、カゴの中に積み上げられた雑誌は全て表を向いていた。

赤いゴシック文字で大事なところを隠されただけの豊満な裸体が、タツマの視界に飛び込んでくる。


午後9時の淑女が購入した物、買い物カゴの中に入っているそれらは全て、18歳未満閲覧禁止の男性向け成年雑誌であった。

いつものことではあるのだが、やはりタツマは慣れる事ができない。



実写だろうが、二次元だろうが、官能小説だろうが、種類は問わない。そういう類のものならば彼女は何でも買っていく。

いや、なんでもという言葉には語弊がある。男性向け雑誌だけを購入するのだ。

まるで未成年で法的に購入できぬタツマに見せつけるかのように。



「(仕事だ。これは仕事だ)」



火照る顔をごまかすように下を向き、一心不乱にバーコードを読み取ろうとする。

しかし、そうすると表紙の裸の女性と、しっかりと見つめ合ってしまう。


これはいけない。

逃げるように視線を上げると、午後9時の淑女のツンと上向いた形のよい胸が視界に飛び込んできた。

これもいけない。

慌てて更に目線を上げる。

そこには午後9時の淑女の顔があった。彼女の口元は、不敵に歪んでいた。



「…ねえ」



「(来た…!)」



タツマの体がビクリと震える。

目の前で赤く艶っぽい口が開く。



「最近見なかったけど、どうしたの?」



女性の質問はタツマの想像したものとは違っていた。思わぬ肩透かしに、緊張が緩んだ。



「あ…、ちょっと部活の方が立て込んでいまして…」



不意を突かれた形となったタツマは、律儀にそう答えていた。

オルタと出会って以来一週間以上、先日の紅白戦までは無理をいってバイトを休ませて貰っていたのだ。二度の土日を挟んで、今日のバイトはおよそ10日ぶりの出勤となる。


「ねえ」



「(今度こそ来た!)」と思った。



「部活は何をやっているの?」



今度の質問もタツマの予想外であった。「ダンジョン部です」と素直に答えると、女性は少しだけ目を開いた後に「そう……」とだけ呟いた。



「ねえ」



三度目の質問に、タツマは三度肩を震わせた。今度こそ、三度目の正直であった。



「あなたが来なかったせいで、私、すごく溜まっちゃったんだけど」



レジのカウンターをくるくると人差し指で撫でながら、午後9時の淑女はそういった。

「(やっぱり来た……ッ)」そう思ったが、言葉にはださない。

溜まった。というのはタツマが会計する成年向け雑誌に違いない。他の不埒な考えをタツマは必死で振り払う。



「こんなにいっぱいだと。私の体が持たないわよねえ」



「体が持たない」僅かに浮かんだ邪な考えをタツマは必死に振り払う。

ジリジリと追いつめられているような、窮屈な気持ちになりながら。何と言葉を返すべきか解らずに黙っていた。



「だって本って重いもの。持って帰るのは大変よねえ」



片手でひょいと買い物かご持ち上げていた女は、惚けた口調でそう言った。

口を開いても相手の思う壺である。タツマは無言で、バーコードを読み取り続ける。



「ねえ」



しかし、例えタツマが黙っていても、口撃の手は緩まない。



「こんなに一杯買っちゃって、私、どうやって処理すると思う?」



『処理』という言葉に、再び不埒な想像が浮かびかける。

「わかりません」と、顔をぶんぶん左右に振る事で、良くない想像を追い払う。



「チリ紙交換よ、資源は無駄にしちゃだめよ」



午後9時の淑女はずいと前に体を乗り出すと、「あら? 何を想像しちゃったのかしら?」と、勝ち誇った顔で言った。



タツマが午後9時の淑女を苦手とする原因はここにある。

会計の時の彼女との問答タイム。

「ねえ」から始まるじくじくとした時間が、タツマはとにかく苦手であった。


彼女は、タツマが働いている平日の、午後9時にしかこのコンビニを訪れない。

海平も他のバイトの店員達も、そんな女性は見たことがないと言う。

実は見たことがあるのかもしれないが、男性向け成年雑誌を堂々と何冊も買っていくような女性は知らないと、口をそろえて言う。




痴女。




の一種であろうということは女という物に疎いタツマですらわかる。

タツマをからかうことで、何事かおぞましい欲求を満たしている事も、なんとなく想像がつく。

もちろん、タツマとてこの状況からどうにか脱け出したいとは思っている。しかし、店長兼保護者代わりの海平に相談しても



「別にいいじゃないか。美人なんだろ?」



と、ニヤニヤしながらタツマの肩を叩き、取り合ってはくれなかった。

美人だから良いという問題ではない。美人だからより問題なのだ。と訴えても、「わかったわかった。これは内緒だぞ」と言って給料袋に成人向け雑誌を放り込もうとしてきたために、それ以降は海平に相談することもやめた。

おまけに午後9時の淑女がいる時間は、何故か他の客が一人も入ってこない。

ひと目をはばかる必要もないからだろう、午後9時の淑女の辞書には、遠慮とか手心というものはない。それどころか、その行為は日増しにエスカレートしていた。



午後9時の淑女とタツマの戦いは、こうして誰にも知られること無く二ヶ月近く続いている。戦いというのもおこがましい、タツマの一方的な連戦連敗ではあるのだが。


何故自分がいる時間なのか。何の為にこんな事をするのか。

痴女の心理と行動原理など、タツマには分かるわけも無かった。



タツマは最後の一冊をビニール袋に詰めこんだ。

一袋に押し込んでは破れてしまうだろうから。10冊ずつ、二つに分けて袋に詰めた。




「ふうっ…」と短く息を吐き出したタツマを、午後9時の淑女はいつの間にかカウンターに両肘をついて見上げていた。


花の形に開いた両手に顎を乗せている。

タツマを見上げる大きな目が愉しそうに揺れている。



「…ねえ、知ってる?」



会計の値段を告げようとしたタツマを、今日五度目の「ねえ」が遮った。



「女って、欲の深い生き物なのよ」



そう言って彼女はクスクスと笑う。元々がとびきりの美人なのだ。笑った顔もやはり綺麗だった。

言葉の意味も、楽しそうな理由もわからないが、タツマは「はぁ」と、短い相槌をうった。



「…ええっと、二十点で合計9120円になります」



午後9時の淑女は左手で頬杖をついたまま、右手だけで財布を取り出すと、1万円札を渡してきた。



「一万円、お預かりします!」



マニュアル通りの接客に入ると、タツマの声は思い出したようにハキハキとしたものに変わっていった。

いつもの習慣と、漸く終るという開放感が、タツマに快活さを取り戻させていた。



「880円のお返しになります! ありがとうございましたぁ!」



礼をした。これで終ったとタツマは思った。あとはこのまま、彼女が去っていくのを見送るだけだ。



しかし、今日の彼女はそれを良しとしなかった。

彼女は受け取ったお釣りの内200円だけをタツマに突き返した。



「ねえ」



6度目の「ねえ」は新記録だった。



「追加で、フランクフルト食べたいわ」



「あ…、は、はいっ!」



タツマは200円を受け取り、レジの横の保温棚からフランクフルトを取り出した。

しかし紙袋に入れようとしたタツマを午後9時の淑女が制した。



「袋はいらないわ。すぐに食べるから」



「はいっ! かしこまりまし……………た?」



元気よく返事をしたタツマの動きが、そこでピタリと止まった。



袋はいらない。そう言われたものの、タツマにはどうして良いか解らない。

トングーでフランクフルトを掴んだまま、間抜けな顔で立ち尽くしてしまった。



午後9時の淑女はカウンターに両手で頬杖をついたままである。

頬杖をついたまま、その両手にはいつの間にか二つの買い物袋をぶら下げている。

両手の塞がっている相手にフランクフルトを手渡す方法など、マニュアルには載ってはいない。



「ねえ」



7度目の『ねえ』は、今までで一番甘い声だった。





「貴方が私のお口に入れてくれない? 私の両手、塞がっちゃってるでしょ?」





戦慄が、走った。



午後9時の淑女は、頬杖をついたまま、上目遣いで口を「あん」とあけた。



赤い唇と赤い口内がタツマの目に飛び込む。歯並びのよいきれいな口だ。歯の奥で舌が悪戯っぽくチロチロと動いている。



ダンジョン一筋のタツマとて、年頃の男の子である。

女性の口にフランクフルトを放り込むと言う行為に、思うところがないわけではない。



タツマはトングーに挟んだフランクフルトを午後9時の淑女の口元に運ぼうとした。が、彼女の口が不機嫌そうに動いた。



「ねえ、私に鉄まで食べさせる気? ちゃんと貴方が棒を手で持って、私に食べさせてくれないかしら?」



反論はできない。タツマはフランクフルトを手に持ち、震える手で、背徳感に蝕まれながら、言われるがままにフランクフルトを差し出していく。


そろりそろりと、それを彼女の口元へ運ぶ。


赤い唇にフランクフルトの先端だけをそっと乗せたが、午後9時の淑女が動きだす気配はなかった。

口を開けたまま、目だけで「ちゃんと奥まで入れろ」と訴えた。



空気に鉛でも混じっているかのように重たい。

震える手で、フランクフルトをもう少しだけ押し込んでみる。フランクフルトが赤い口内にゆっくりと飲み込まれていく。

開けたままの口が閉じられる気配はない。ぱっちりとした美しい目が、もっと入れろと催促するようにタツマの顔を見上げている。泣きぼくろが妖しい色気を余計に引き立てている。

どこまで入るのか。人の口内というものは、驚くほどに深かった。



―コツン―と、フランクフルトの先端が口内の奥に当たった感触が合った。

午後9時の淑女はそこでようやく口を閉じた。



姿勢を正し、両手に買い物袋をぶら下げる。

立ち去る前に、彼女は一度だけ、タツマの方を振り返った。



「ほひひょうひゃま」



いつもの勝ち誇った笑みではなく、子供が見せるような純粋な笑顔だった。

甘い桃を食べた子供のような、幸せな顔だった。



自動ドアが締まった後に、『ごちそうさま』と言われたのだと初めて気付いた。

『ありがとうございました』をいい忘れたことには、タツマは気が付かなかった。



タツマのバイトのシフトは明日から夜の9時半からとなる。


彼女が一瞬見せた幸せな笑顔が、脳裏にしがみついている。


彼女とももう会うことはなくなるのだと思うと、ほっとしたような、どこか寂しいような、居心地の悪さを感じた。




「……本当に、変わった人だったな……」





午後9時の淑女が、明日から午後10時の淑女に変わることは、タツマは未だ知らない。







10月です。

今日から2章の再掲載の開始です。

再掲載に辺り、文章には色々と手を加えていきますが、ストーリーの変更はありません。


既に一度読んでくださっている方へ、お待たせしました。淑女です。

初めて読んでくださる方は、途中で「おや?」と思っても、どうかエピローグまでお付き合いください。

最後には読んでよかったと、そう感じて頂ける章になっているのではないかと思います。

二章も文庫一冊分となっておりますが、個人的には、受賞した一章よりもずっと好きな章なのです。

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