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第16話 風坊カヤ



「糞ッ‥! 糞ッ…! タヌキの分際で! この私を馬鹿にした‥ッ!」



美しい顔が怒りに歪み、可憐な小さな唇からは不釣合いな罵声が次々と飛び出す。



「潰すッ! 潰すッ! 潰してやるッ‥!」



カヤは地面に四肢を投げ出したまま、犬のように無様に吠えた。

金太の後を追って走っていた一軍の選手が、ぎょっとしてカヤの方を振り返ったが、声をかけることはしなかった。



「あのタヌキッ‥! 許さない‥ッ! 絶対に許さない!」



負け犬の遠吠えはもはや金太には届かない。

仮に金太が聞いていたとしても、悦びに頬を緩めるだけだろう。

それを思うとカヤの心は一層荒れた。まるで秋の台風のような気性である。



今でこそ、その様を滅多に表に出す事はないが、風坊カヤは元来激しい性格の持ち主である。

それは彼女の種族が天狗の末裔であることに起因している。

天狗とは慢心と怒りの魔族である。慢心によって鼻を伸ばし、怒りと酒によって顔を赤くしたと伝えられる天狗。仏道に帰依しながらも、その気性故に魔道へと堕ちた妖怪なのだ。


その厄介な性質は、先祖返りで極端に濃い血が蘇ったカヤには、一族の誰よりも強く受け継がれていた。

俊足の神である韋駄天の加護も、天狗の慢心を更に増長させる要因となってしまった。

中学に入ったばかりのカヤは、実力をともなった慢心に第二次反抗期まで加わり、家族はほとほと手を焼いていた。


そのカヤの性格が、ある頃を境に徐々に鳴りを潜める事となる。それはある人物との出会いによって。



『あのウィリスさんに競り勝ったんだよ! 最っ高だよ、須田君!』



罵倒の後に肺の空気を全て吐き出した後の僅かな間。

酸素を激しく吸い込むカヤに、タツマの勝利を告げる、チームメイトの歓喜の声が届いた。



地を這って相手を罵倒することしかできない自分とは違い、タツマはきっちりと自らの仕事をこなしていた。

脳裏に浮かぶ顔が、金太からタツマへと変わった時、怒りは波のように引いていき、別の感情の波が押し寄せて来る。



「タツマが最高だとか…、何よ今更!」



風坊カヤを変えたのは須田タツマであった。



「そんな事、私が‥! 私が一番よく知っているのに‥ッ!」



カヤの慢心を、恋心に上書きすることによって。









カヤとタツマが初めて出会ったのは3年以上前の話になる。

中学一年の時のクラスメイトであったタツマとカヤの出会いは、席が前と後ろという、ごくごくありきたりのものだ。


最初のホームルームのくじ引きで決めた席順は、男女の偏りも、身長の差も考慮されていていないランダムなものだった。平均より若干小さめなカヤの前に座ったのは、そのカヤと同じぐらいの背丈の黒髪のヒト族の少年だった。


後ろを振り返って「よろしくな」と言ってきたタツマの表情を、カヤは全く覚えていない。

カヤは頬杖をついたまま、窓の外を眺めていたのだから。



「ハァー…」



タツマの自己紹介に、視線すら動かさず、関わるなという意思をため息に変えて吐き出した。

タツマには目線すら寄越さなかった。それが2人の出会いだった。



人と人との出会いとは、往々にしてその後の関係にまで影響を及ぼす。


カヤはこの日のことを今でも後悔している。

この時、ニッコリと微笑んで自己紹介をしていれば、タツマは自分の事を女性として見るようになったのだろうかと。

休みの日には手を繋いで、2人で並んで歩く今があったのだろうかと。



タツマとカヤが初めてその目を合わせたのは、失敗した出会いから1ヶ月程後のこと。


それまでの1ヶ月は、カヤにとってのタツマは、学校の黒板の下の方を若干見えづらくさせるだけの存在だった。

当時のタツマは短めのほとんど坊主のような髪型で、つんつんと逆立っていた。

タツマの後頭部を見ながら、カヤはある日ふと思った。



「(まるでバフンウニみたい)」



瀬戸内海のバフンウニは、小振りで味が悪く、中身も詰まっていない。





カヤは海が好きだった。


しかし泳ぎが好きだったわけでも、砂浜で日焼けすることが好きだったわけでもない。

何の変哲もない。工業地帯の泡だった汚れた海が好きだった。


天気の良い日は電車に乗って、隣町まで出かけると、日が沈むまでぼーっとするのが好きだった。

生活排水がどぼどぼと海に落ちる防波堤。魚といえば泥臭いボラしかいない為、釣り人も避けるポイントである。

そんな場所で、制服のまま地面に寝転ぶのが好きだった。

太陽の光を存分に吸い込んだセメントからは、じんわりと放射熱が染み出してきて。背中から伝わる温もりが思春期のささくれた心を癒してくれた。

誰もいないその場所で、死ぬまでずーっと寝転んでいたいと真剣に考えていた。



カヤにとっての聖域に、ある日その男が無断で踏み込んでくるような事さえ無ければ…。



「あれ‥? 風坊か?」



カヤを見下ろすその顔は、どこかで見た顔だった。



「大丈夫か? 腹でも痛いのか?」



その少年が、自分の前の席に座っているバフンウニだと気づくには、少し時間がかかった。



「ヒマ潰しよ」



それが、カヤのタツマへの初めての言葉だった。

タツマは辺りを見渡すと、「ここでか?」と訝しげに言った。その言葉は、自分のお気に入りを貶されたようで気に食わなかった。



「何でここにいるのよ?」



それは問いかけではない。出て行けという意思表示であった。

自分のお気に入りの場所から出て行けと、それだけを言ったつもりだった。



「もうすぐ部のダンジョン実習が始まるからな! いつもよりランニングの距離を増やしたんだ!」



タツマは嬉しそうに笑顔で答えたが、カヤにとって心底どうでもよかった。

暫く一人で何かをしゃべっていたが、無視を続けているとタツマは「じゃあな」と言う言葉を残して去っていった。カヤの方からは返事は返さなかった。



それから毎日、タツマはカヤの邪魔をしに来た。

最初は、来る度にカヤに話しかけていたタツマではあったが、カヤが何の言葉も返さないという事がわかると、その内「よっ」という一文字の短い挨拶以外はカヤに言葉をかけることはしなくなった。

その代わり、カヤが寝転ぶその場所をぐるりと回ってから立ち去るようになった。

毎日毎日、カヤの元を訪れては、「よっ」と声をかけた後、カヤの右足の辺りから頭を抜けて、左足の方へと、ぐるりと弧を描いて走って去っていくのだ。


タツマの当てつけがましい行為に我慢できるほど、当時のカヤは大人ではない。



「なんで私の側を走るのよ! 嫌がらせのつもり!?」



ある日、近づく足音に気付いたカヤは、起き上がって先制攻撃を食らわせた。

いつもこちらを無視していた少女が、突然自分に声をかけた事にタツマは驚いていたようだが、ちゃんと質問には答えた。


カヤを指さしながら、タツマはこんな事を宣ったのだ。




「…えーっと、折り返し地点」




言われたカヤは一瞬なんの事かわからなかった。その言葉の意味を遅れてようやく理解した時に、カヤの顔が怒りで赤く染まった。


自分のあずかり知らぬところで、カヤは運動場の赤いコーンと同じ扱いにされていたのだ。



天狗の一族の名残である、赤い髪が風に吹かれて逆立つ。




「…潰すッ!」




カヤはタツマに向かって犬の威嚇のような低い声で唸った。



「そうか、風邪ひくなよなー。風坊」



しかしタツマはあっけらかんとそう言うと、立ち上がっていたカヤを中心に、やはりぐるりと弧を描きながら曲がり、その場を去っていった。

宣戦布告したカヤを置いて。



「ちょ…、ちょっと! 潰すって言ったでしょ!? 何で行っちゃうのよ!」



タツマはその場でランニングしながら振り向く。自分を呼び止めたカヤを、疑問を込めた眼差しで見つめながら。



「…? だから風坊はそこでヒマ潰ししてんだろ? 邪魔はしないぞ。また明日学校でなー」



瀬戸内海のバフンウニは、中身が少ない。


カヤは走り去るタツマの後頭部を、ぽかんと口を開けたまま見送った。






次の日、堤防へと続く道路の先を睨みつけながら、カヤはいつもの場所に立っていた。


しかしカヤはいつものように防波堤に寝転んではいなかった。世話しなく足を踏みならしながら、あの男を待っていた。

誰かにこれほど苛立ったのはカヤには初めての経験だった。

そんなカヤの心など知るわけもなく、待ち人はいつもと同じぐらいの時間に、いつもと同じ表情でやってきた。



「よっ、風坊」



そしていつもと同じような挨拶をすると、いつものように、カヤを折り返し地点に復路へと突入する。

汗にぐっしょりと濡れた背中が、しかしその日に限っては、鋭い声で呼び止められた。



「待ちなさいよ! バフンウニ!」



タツマは一旦足を止めて、きょろきょろと辺りを見渡すと、首をかしげながら、再び足を動かし始めた。



「アンタのことよ!! このバフンウニ頭!」



「…なんだよその、バフンウニって?」



「バフンウニもしらないの!? トゲの短いウニの事よ! あんたにそっくりなやつよ!」



タツマはカヤの罵倒に対して「へー、そんなウニがいるのか」と言っただけっだった。

ウニ、と言われて一般の中学生が思いつくのは、紫のトゲトゲの奴か、スーパーのパックに入った黄色い卵巣のみだろう。

カヤのように檀家から獲りたてのバフンウニを大量におすそ分けされるような家でもない限りは。



「風坊は物知りだなあ。でも俺の名前は須田タツマだからな。須田でもタツマでも好きに呼んでくれよ。それじゃあまた明日なー」



ウニに痛覚はない。バフンウニという表現は、まさにタツマにピッタリの渾名だった。

しかし立ち去ろうとしたタツマの後ろ襟を、カヤは掴んで思いっきり引っ張った。



「勝負しなさいよバフンウニ。毎日走ってるんだから、足には自信があるんでしょ?」



カヤは堤防と公道の交わる場所を目と顎で指し示す。堤防の先端である2人が立つ場所から、その終わりまではおよそ300m。短距離走としては十分な距離であろう。



「いいな、やろうぜ風坊」



タツマは楽しそうに笑って言った。






結果は、タツマのパーフェクトな敗北だった。



天狗族の健脚に加え、守護神である韋駄天のアビリティーである『神速』を持つカヤの前に、ヒト族でなんのアビリティーもないタツマが勝てるわけがなかった。

アビリティーを使ったカヤの足は、最速の獣人と呼ばれる豹族の獣人よりもなお速い。

全国、全種族合わせても最速クラスの中学生と、それなりに速いだけのヒト族の中学生の300メートル走には、距離にして100メートル以上の開きがあった。

タツマにとって、これほどまでに誰かに差をつけられたのは初めての経験だった。同じ中学の冒険者部の仲間にいる犬族の獣人とも、勝つとまでは行かなくとも、少なくとも勝負にはなっていたはずなのだから。

天狗の末裔であるカヤは、赤い髪の毛以外はヒト族と全く同じ容貌である。

ヒト族の中では足に自信を持っていたタツマは、あまりにも明らかな敗北に愕然としていた。



「なんで…」



ようやく言葉を絞り出したタツマの疑問に、カヤは小振りの美しい形の鼻を僅かに天に向けながら、こう言った。



「私、天狗なのよ。それも韋駄天様の守護付きのね。ノーマルのヒト族が張り合えるだなんて思ってた?」



タツマはカヤの言葉に反応できなかった。

守護付きの人間と出会ったことは何度かあったが、勝負をしたのは初めてだった。


タツマがいつか行きたいと夢見る甲子園。その出場選手には守護持ちがゴロゴロいると言われている。

血と守護に由來する圧倒的な力量差に、タツマは負け惜しみも言えなかった。



「ねえ、いつまで突っ立ってるの? 目障りだから消えてくれないかしら?」



その言葉を切欠に、タツマは逃げるように走り去っていった。よくわからない叫び声を上げて消えていった。

遠ざかる咆哮を聞きながら、邪魔者がいなくなりスッとしたはずのカヤの心が、罪悪感で鈍く痛んだ。



「なんで‥」という少年の掠れた声が、海鳴りに混じって耳の中を暴れ続けていた。


お気に入りのコンクリートに寝転ぶ気には、その日はなれなかった。








「…なんで?」



次の日、その言葉はカヤの口から放たれた。



「よぉっ! 風坊!」



僅か一日前に完膚なきまでに叩き潰した筈の男が、コンクリに寝転ぶカヤを上から見下ろしていたのだから。



「もう一度勝負だ!!」



…果たして、二度目の勝負もカヤの完勝であった。

しかしタツマは、一度目のように呆然と突っ立ってはいなかった。ゴールである堤防の終わりから、100メートルほど引き返すと、地面を見ながら、一人でウンウンと頷いていた。

カヤがその事を奇妙に思ったことは不思議な事だった。

自分以外の人間が何をしようが関係ないと思っていたはずなのに、気まぐれから生まれた好奇心が、カヤに質問をさせてしまった。



「何やってんのよ?」



タツマは、カヤの方を振り向くと、右足で地面の一点をさした。

そこは、堤防を形作るのコンクリとコンクリの間の、一本の境目だった。



「昨日は、ここで負けた。」



そこからタツマは二歩だけ前に進む。



「でも、今日はここで負けた。一メートル以上も前進したぞ」



タツマの言葉に、カヤは開いた口が塞がらなかった。この男は本物の阿呆だと、そう思った。一メートルをニヤニヤした表情で確認するタツマに、カヤは苛立った。



「バッカじゃないの! 一メートル縮めたぐらいで何ができるのよ!」



カヤはタツマに唾でもかかりそうな勢いで噛み付いた。なにがそんなに腹がたったのか、カヤにもわからなかったが、とにかく気に食わなかった。



「でも、少しずつでも縮めていけばいつかは届くかもしれないぞ。毎日一メートルずつ縮めれば」



対してタツマはカヤを苛立たせる天才であった。容姿、表情、考え方、そして性根。カヤにとっては全てが残らず気に食わなかった。



「脳みそ足りてないの!? その理論で言えば最後にはワープできるわよ!」



カヤの言葉に、「確かにワープは無理だな」とタツマは頷いた後に、



「それじゃあまた明日な。風坊」



と勝手にカヤに別れを告げて去っていった。




「…また、明日…?」




カヤの眉間の筋肉が、ピクピクと動いた。



次の日カヤは封印していた追い風の魔術まで使って、タツマをもう一度、徹底的に叩き潰した。

タツマが必死で縮めた1メートルを、さらに10メートルの差に返して10倍返しで突き返した。

僅かな喜びを掴んだところで相手をさらに深い谷底へと突き落とす。カヤにそのような意図はなかったが、これは何よりも効果的な手法である。


タツマの目が若干潤んでいたような気がしたが、もはやカヤは、タツマに悪いとはおもわなかった。

べそをかくタツマを見て心がスッとした。これでもう挑んでくることはないだろう。そう思うと、清々しい開放感すら感じた。



「畜生ッ! また明日だ! 風坊!」 



タツマは明日の再戦を勝手に誓って走り去っていった。後ろからタツマの背中にぶつけられた『また明日じゃないわよ!』という罵声が、聞こえたかどうかは定かではない。



それから一週間。毎日のようにタツマはカヤに挑んできた。

その度にカヤはタツマを叩き潰した。二度と容赦などしなかった。

しかし、潰しても、倒しても、タツマは次の日にはケロリとした表情で勝負を挑んでくるのだ。



いつまで続くのかと思われていたタツマとカヤの勝負は途中で水入りとなった。



梅雨の季節の到来である。

雨の日に、海で寝転ぶような趣味はカヤにはない。



学校では、カヤは一切タツマに話しかけることをしなかった。タツマの挨拶を以前と同じのように無視し続けた。

無視しながら、何故かカヤの心はカサカサと荒れていった。



「梅雨なんて嫌いよ」



雨のグラウンドを見ながら、カヤは誰にも聞こえない声でそう呟いた。







梅雨も終わりに近づいていた6月下旬の夜。 カヤは、近所の書店で参考書を探していた。期末テストまであと2日に迫っていた。



「あれ…? 風坊か?」



参考書を探していたカヤの耳に、聞き覚えのある声が後ろから侵入してきた。

いつかの焼き直しのようなそのセリフにカヤの心臓が跳ねた。突然声をかけて驚かすなと、そう思った。



「…なんでここにいるのよ」



「俺だって試験前ぐらい勉強するさ。家も直ぐ側だしな」



カヤの問いに、やはりタツマは見当違いな答えを返した。



「そういや風坊は最近来ないんだな。あの堤防」



「雨なのに行くわけないでしょ」



カヤの言葉に「そりゃそうか」とタツマは言った。



「それじゃあな風坊、晴れたらまた勝負しようぜ!」



タツマは一番薄い参考書をつかむと、カヤを置いて去っていった。



「…バッカみたい」



カヤの呟きは、少しだけ声のトーンが上がっていた。



「雨の中、あの堤防まで走りに行ってたのかしら。私と勝負したくて」



呆れ混じりため息は、僅かばかりの熱い湿気が含まれていた。



「…アイツ、この近くに住んでたんだ…」



そこでふと、カヤは気付いた。「タツマはこの書店が近所」といっていた。

書店からあの堤防までは二駅分。往復で10キロ以上離れている。カヤがいつも電車を使っている距離である。

そういえばと思い返す。カヤに挑んでくるタツマは、毎日全身に大量の汗をかいていた事を。

片道5キロのランニングの後に、自分に挑みに来ていた事にカヤはその日初めて気が付いた。



「…潰すッ、潰すッ、あの男ッ! 次こそは絶対に潰してやるッ!!」



書店で突然大声をあげたカヤを、他の客達がギョッとして振り向いた。



「梅雨もテストも、早く終わればいい!」と、カヤは思った。





テストが終わった日の放課後、カヤは防波堤に立っていた。

今日こそ本当の実力差をみせてやると、ぐりぐりと足首を回しながらタツマを待っていた。

防波堤の上には、封のあいていないスポーツドリンクのペットボトルが鎮座していた。

負けたことに言い訳できぬよう、タツマにゆっくり休憩を取らせてから引導を渡すつもりだった。



「遅いわね…」



照りつける太陽から生まれた喉の渇きに、カヤはスポーツドリンクを飲んでしまおうかとも思ったが、思いとどまった。

刺すような西日と梅雨の後の湿気に苛立ちながら、ずっと防波堤の終わりを見つめていた。



その日タツマは来なかった。時計の針が10時を回った頃、カヤはようやく家路についた。





「…なんで金曜は来なかったのよ…」



週明けの月曜日、カヤは学校で初めてタツマに話しかけた。腹の中の何かを押し殺したような、震えた低い声で。

タツマはカヤから話しかけて来たことに、若干目を丸くして驚きながらも、「おはよう、風坊」と言った。



「なんで来なかったって聞いてるのよ!」


カヤは挨拶は返さず、先ほどの言葉を、今度は荒い声音で繰り返した。タツマはきょとんとしていたが、暫くしてようやく言葉の意味に気がついた。



「ああっ! ひょっとして風坊は金曜あそこに行ってたのか? わりいわりい、週末は冒険者部の合宿でヤマグチ県のダンジョン行ってたんだよ」



「はぁあっ!?」



「中学生が潜ってもいいダンジョンなんてなかなかないしな。でもおかげで週末はみっちり潜ってこれたぜ!」



「聞いてないわよ! ヒロシマのダンジョン事情なんて!!」



「それもそっか。ところでカヤは今日はあそこ行くのか? 俺も相当練習したからな、いつものようにはいかないぜ?」



「知らないわよ! そんな事!」



カヤは顔を火のように赤くしながら教室から出て行った。クラスメート達が何事かとタツマに尋ねたが、タツマも首をひねるばかりであった。




その日の放課後、いつものように防波堤までランニングをしたタツマを、「知らない」と言っていたはずのカヤが待っていた。

学校指定のジャージを身につけ、運動靴を履いて、入念なストレッチを済ませた状態で、小刻みなジャンプを繰り返しながら体を温めていた赤髪の少女は、遅れてやってきたタツマを無言でギロリと睨んだ。



「よ、よぉ、風坊…?」





その日、タツマとカヤの差はさらに開いた。








期末テストが終われば、直ぐに終業式となる。


終業式を明日に迎えた日、カヤは苛立っていた。夏休みに入れば放課後の勝負も無くなる。

40日間の夏休みを、長すぎると感じたのは初めてだった。カヤの目の前には、そんなことは全く気にしていないであろう、バフンウニ頭が、すやすやと寝息をかいている。

40日間、この男から解放されると思うと、なぜだか無性に腹がたった。


だからカヤは、幸せそうに眠るタツマの後ろ襟を思いっきり引っ張った。

気管が圧迫されて、牛乳パックを潰したような音がタツマから漏れた。



「グッ・・ゲホッ、何すんだよ。風坊」



カヤは不機嫌そうに目を細めながら、こう言った。




「ねえ、冒険者部って楽しいの?」




一学期の終業式の日、カヤは冒険者部に入部届けを出した。

「最高に楽しいぜ!」そう言ったタツマの言葉を信じたわけではないが、物は試しと言うものだ。

タツマの言葉は正しかった。カヤの夏休みは、最高に楽しい夏休みへと変わった。


楽しい理由がタツマが側にいたからだということには、半年程後になってようやく気付く事ではあるが。



夏休みの間に、カヤはタツマのことを、アンタともバフンウニとも呼ばなくなった。

いつの間にか、自然に「タツマ」と読んでいた。

タツマと呼ぶ時の「マ」の音が、少しずつ柔らかい物へと変わっていった。


縁という物は奇妙な物で、二学期も、三学期も、タツマとカヤの席は前と後ろだった。

カヤは後ろから、成長期を迎えたタツマの背がぐんぐんと伸びていくのを見ていた。

放課後の堤防で、タツマの足がどんどんと早くなっていくのを、カヤは足音から感じていた。

ひょろひょろとした剣の素振りが、だんだんと鋭いものになっていくのを、カヤはいつも隣で見ていた。


秋の大会の地区予選で、ウィリス野呂柿に負けたタツマが、「いつかウィリスさんを倒す」と粋がる度に、「まずは私を倒してみなさいよ!」と、釘を刺した。

正月の初詣に誘われたときには、「行く!」と一も二もなく頷いた。待ち合わせ場所にイクアラとやってきたタツマを見て、久しぶりに苛立った。

2月の中頃に、なんとなくスーパーの甘いものコーナーが気にかかったが。結局買ったのは甘辛い醤油味のせんべいだった。



「檀家さんから貰ったのよ。うちの家、お寺だから」



タツマは、「へー、寺の子っていいなあ」と言いながら、せんべいをパリパリと食べた。なぜ嘘をついてしまったのかは、カヤにはわからなかった。



それを恋心だと認識できたのは二年になって2人のクラスが別れた後のこと。

クラス分けの表を何度も確認したが、タツマの名前はそこになかった。

カヤの前に座った、見知らぬ男子生徒のサラサラヘアーを見た時に、世界が黒く塗りつぶされた気がした。自分がタツマに恋をしていたのだとようやく気付いた。



カヤが自分の気持ちに気付くのは、すこしばかり遅すぎた。タツマとカヤは既に親友となっており、タツマはカヤを女性とは見てくれなかった。

当たり前の事である。2人の馴れ初めは、どう贔屓目に見ても少年漫画のライバルの男の子同士といった手合のものだったのだから。



誰にも負けない俊足の少女は、恋のスタート地点においては大きく後退していた。



女の子らしく言葉遣いを改めて、髪を梳いて、鏡の前で笑顔や綺麗に見える角度の練習をした。休日は可愛い服を着るようになった。汗をよくかいてしまった夏の日には、タツマから一歩離れて歩いた。

棘がとれて、家族とも自然に接するようになったカヤを、両親は女の子らしくなったと喜んだ。

もっとも、肝心のタツマはカヤに目覚めた女らしさに気付かなかったが。



最初は甲子園には興味はなかった。ある日タツマに「何で冒険者部に入ったんだ?」と言われた時に、咄嗟についた嘘だった。

それがタツマの目標だったということは知っていたが、コウシエンが何のことだか本当は良く分かっていなかった。

冒険者部に打ち込むにつれて、その嘘は結果的に本当になった。

甲子園というのが、高校生の冒険者部の総体のことだとわかると、当たり前のようにタツマと同じ高校を受けようと決めた。

中学2年が終わる頃には、「甲子園に行きたい」と本気で思えるようになった。但し、「タツマと一緒に」という枕言葉がつくが。



こうしてカヤは、長い時間をかけて、自分の恋心を熟成させていった。

天狗の激しい気性は滅多に表に出なくなった。怒りで真っ赤に染めていた顔は、思春期の少女らしい想いで薄く柔らかい赤に染まるようになった。

たまに血がぶり返したかのように怒りが湧き上がることもあったが、タツマの名を唱え、その顔を思い浮かべると、不思議と心が静まっていった。



それはちょうど、今のカヤのように。




「タツマ…」



敗北の悔しさと屈辱から生まれた毛細血管の膨張が、ゆるりと収束していく。

口を尖らせて、ふーっと長い長い息を吐いた後に、カヤはもう一度「タツマ」と呟いた。カヤの心で荒れ狂っていた激しく醜い感情が、節分の鬼のように逃げ出していく。



カヤは砂浜から上半身だけ起こすと、リュックから手製のスポーツ飲料のボトルを取り出した。

ブドウ糖を溶かしこんだ、一リットルのスポーツドリンクを、カヤは焦ることなくゆっくりと飲み干していく。

コクコクと、小さな音が立つ。鳴らした喉から汗が滑るように流れ落ちて、カヤのシャツに染みこんでいった。


ドリンクを空にした後に、再びカヤは砂浜に大の字で寝転んだ。試合終了まで時計は50分を残している。

カヤはゆっくりと深呼吸しながら、自分の足を撫でつける。

無茶をさせてしまったことを謝りながら、「あと何分で行ける?」と問いかける。

足に残る痺れの具合から、動けるようになるまで、あと10分ぐらいだと経験が教えてくれた。


カヤにとって、相手にペースを乱されて、足が動かなくなるのは初めての事ではない。

中学の時、冒険者部に入ってからは、毎日のようにあの堤防までタツマと駆けていたのだから。

持久力だけはチーム一だったタツマと一緒に、往復10キロの道のりを、毎日毎日、練習後に走っていたのだから。

5キロと5キロのマラソンに、300メートル走を真ん中に挟んで。

自分の想いに気付いてくれないタツマに、しばしば走るペースを乱されながら。倒れるまで、走っていた。


「君、大丈夫かね?」


尋ねてきた審判に、カヤは人差し指を天に突き上げて、問題はないとアピールした。ベンチの厳島が、準備していた交代要員の投入をやめた。



カヤは腕時計のアラームを、試合開始から80分の時点に合わせる。


焦る必要はない。今は休養だけに集中する。

10分で休憩して、10分で金太に追いつく。その後まだ30分は残っている。その三十分の為に、カヤは今はただ、足を溜めることだけを考える。

大きく呼吸して、体に酸素をできるだけたくさん取り入れる。熱い砂浜に水平に身を横たえ、足の先まで血液を巡らせる。


ふと、一人で堤防に身を投げ出していたあの頃を思い出す。今の自分はあの時と同じ姿で寝転んでいる。



「タツマ…」



待ち人は来ない。しかしタツマはここにいる。同じチームで自分と共に戦っている。



足の回復を祈りながら、カヤは魔法の呪文の続きを唱える。



「タツマ‥」



それは苦しいときの魔法の言葉。



「タツマと一緒に甲子園に…」



嘘から生まれた約束は、いつの間にか力ある言霊を宿していた。



「タツマと一緒に甲子園に行く…!」



天狗は情の深い種族でもある。彼の為の誓いを裏切ることは決してない。



「だから動いて…、私の足ッ!」



―ピピピピピピ―



腕時計のアラームが鳴る。カヤは身をぐるりと回しながら立ち上がる。未だ震える膝からは、まるでパンクしたタイヤのように、力がするすると抜けていくが、カヤの意思までが抜けてしまうことはない。



情の深い天狗の血は、カヤの思いを裏切らなかった。



立ち上がる。

立ち上がったその時に、無駄な力とともに震えも抜けた。大地を踏みしめる確かな感触がカヤの脳に伝わる。


『行ける』という確信に、一々喜ぶことはしなかった。その唇はすでに魔術の詠唱を始めていたのだから。



「纏い風!」



カヤは風の魔法を背中に背負う。カヤにとって追い風とは待つものではない。自分で作り出すものだ。




「私がタツマを…、甲子園に連れて行く!」




そして自らが彼の追い風となる為に、終わっていたはずの最速の少女が、再び大地を蹴りあげた。



高く高く、そのまま空へと飛び上がるのではないかというような足の振り上げに、砂の粒が飛沫のように舞った。





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― 新着の感想 ―
[良い点] 読み返したけど、このページの表現大好きだ。 再開して欲しいなぁ。
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