第10話 イリア・スーラ
「「「「「イチニ、イチニ、イチニ、イチニ、イチニ、イチニ…」」」」」」
揃えた掛け声と、一つになった足音が青い空に響く。
梅雨の谷間の晴れ日の今日は、まだ6月だというのに、空の色は夏そのものである。
魚里高校ダンジョン部、その二軍の選手たちは、学校のグラウンドの外周を集団でランニングをしていた。
イリア・スーラという名の衝撃から一日タツマは、復部して初めてダンジョン部の練習に参加していた。
ダンジョン部の練習といっても、二軍選手のやれることと言えばただのランニングである。
グラウンドは現在、同じダンジョン部の一軍の専用スペースとなっている。
二軍の選手達がグラウンドを使えるのは、一軍の選手が休憩を挟むその間か、ダンジョンに実習に出ている間のどちらかである。
スペースは有限、時間も有限。ならば広いグランドがまず一軍の選手に与えられるのが自明の理であろう。だからこその一軍・二軍なのだから。
二軍選手は、一軍選手を遠巻きに羨みながら、校内をランニングする事しかできないのだ。練習時間のおよそ半分以上が走り込み。これではダンジョン部というよりもマラソン部といったほうが良いかもしれない。
「イリア・スーラか…」
タツマは走りながらグラウンドの中にいる桃色の髪の少女を横目で盗み見る。
イリアスーラを抑えること、それが週末に予定される一軍対二軍の紅白戦で、タツマに与えられたオーダーである。
“抑える”と言っても、イリアと直接戦って、勝てということではない。
相手をぴったりとマークし、相手が魔物を倒す前に、魔物を倒して魔石とポイントを奪う。それがダンジョン競技における“抑える”という言葉の意味である。
ダンジョン競技においては、相手チームへの直接の危害や、妨害は認められていない。
一匹の獲物を取り合った時の故意でない接触は“クロスプレー”として認められてはいるが、相手を故意に攻撃するような行為は反則となっている。
仮に相手チームへの攻撃が許されてしまえば、ダンジョン競技は試合開始早々、両チームと魔物達による泥沼のバトルロワイヤルへと化すであろう。ダンジョン競技はあくまでスポーツなのだ。
「抑えろって言われてもなあ…」
タツマの目線の先の少女は、両足を揃えて前に伸ばした姿勢で、座りながらの前屈運動を行っていた。運動は苦手なのだろう。ぷるぷると指先をふるわせながら、靴のつま先へと手を一生懸命伸ばしてはいるが、その距離は一向に縮まっていない。
小柄で小学生のような見た目といい、柔軟体操も満足にできない運動神経といい、タツマにはイリアを魚里のエースだとはどうしても思えなかった。
タツマにとってのエースとは、今でもやはり“彼女”の事を意味するのだから。
イリアが必死に両手を伸ばすその先に、ウィリス・野呂柿はいた。
準備運動中のウイリスは、戦装束の軍服ではなく学校指定の体操服を着用している。
ショートパンツから生える白くて長い足が、夏の太陽の光を強く反射している。
ウィリスは立った状態からゆっくりと股を開いていく。二本の足はほぼ180度に開き、まるで一本のまっすぐな物差しのようにベッタリと地面についた。
「流石だな」
とても魔法使いとは思えない柔軟性に、タツマは舌を巻く。あれなら物理アタッカーとしても、魚里の一軍を張れていたではないかと、意味のない仮定の話を考える程に。
ウィリスは股裂きの姿勢のまま、さらに上半身を前傾させていく。
下半身に続き、上半身までもベタリと地面と接着する。地面と胸骨に挟まれて、ウィリスの豊かな胸の膨らみがアバラの横からこぼれ出た。
とても高校生とは思えない、肉感である。
「…流石だな」
タツマは再び、舌を巻いた。
「タ・ツ・マ・が、見なきゃいけないのはあっち! ウィリスさんは私の獲物!」
ランニング中にも関わらずカヤが両手でタツマの頭を横からぐりんとひねった。タツマの視界は問答無用でイリア・スーラの元へと戻る。
小さなエルフの少女は、遂につま先に指が届いたらしく、一軍のチームメイト達に「届いたよー」と実演を交えて報告していた。
そんな少女を愛らしいと思ったのか、気の毒だと思ったのか。
『膝が曲がってしまっている』とは誰も指摘するつもりは無いようだった。
「…なあカヤ、替わってくれないか? ターゲット」
タツマはイリアからカヤへと目線を移すと、昨日からずっと考えていたことを切り出した。
タツマの相手はイリア・スーラ。カヤの相手がウィリス・野呂柿。昨日、厳島コーチから指令されたことだ。
一軍選手達の中でも、特に警戒すべき4人のポイントゲッター達、即ち、イリア、ウィリス、バーン、金太の4人を、タツマ、カヤ、イクアラ、そしてもう一人の二軍選手がそれぞれマンツーマンで抑えにかかる。それが厳島ミヤジの立てた作戦だった。
作戦自体にはタツマも賛成しているし、それ以上の作戦などないとも思っている。
紅白戦まであと五日。二軍の仲間たちとの連携プレーを練習する時間も場所もない。マンツーマンで個人対個人の勝負に持ち込むのが、もっとも分のある戦いであるのは間違いない。
しかし、自分がイリア・スーラをマークしなければならないということには、タツマは納得できていなかった。
イリアの魔法が凄まじいのはタツマにも解る。威力だけならば、ウィリスの数倍か数十倍はあるかもしれない。
だが、総合力で考えると、やはりウィリスの方が上ではないかとタツマは今でも思っている。
その思いは、ストレッチをしている二人の姿からますます強くなっていった。
例えどんな魔法の才能を持っていたとしても、あの身体能力では、宝の持ち腐れであろうと。
土曜の紅白戦でもっとも警戒せねばならぬ相手は、イリア・スーラではなく、ウィリス・野呂柿に違いないと。
「それは無理よ。射程の短い私じゃイリアを抑えきれないもの。ウィリスさんと決着つけたいタツマの気持ちはわかるけど…」
「抑えきれないって、カヤの足なら問題ないだろう?」
韋駄天の守護に風の魔法を持つカヤは、タツマの足より文字通り倍は早い。カヤであれば、イリアが呪文を唱えきる前に魔物を殲滅する事は容易いはずだと、タツマは考えていた。
「それは無理だな。イリア・スーラのアビリティー、詠唱☆超短縮の前では、どんなにカヤの足が早くとも追いつけんさ」
タツマの疑問には、カヤの反対側でタツマに並走していた、イクアラが答えた。
「詠唱☆超短縮?」
タツマは、そのどことなくマヌケな響きのアビリティーを復唱することで疑問に変えた。
詠唱短縮ならばタツマも聞いたことがあったが、超短縮など聞いた覚えがない。
「イリアだけが持つレアアビリティーの名だ。具体的にはどんな呪文だろうと、『どーん』の三文字‥、いや、二文字か? それだけで魔法を発動させることができる。上級魔法だろうが、精霊魔法だろうが、なんだってだ」
「はい?」
イクアラの説明に、タツマはマヌケな相槌しか打てなかった。
魔法には詠唱が必要である。それは大気中に含まれる魔素や、精神体の存在で戯れる精霊達に力を借りるためには絶対不可欠な儀式なのだ。
また、魔法の階級が上がれば上がる程、詠唱は長くなるものだ。そのため、魔法使いは詠唱の時間をブロッカーに稼いでもらうのが通例となっている。
僅かな例外として、ウィリス・野呂柿のように、詠唱の短い低級や中級の魔法を、必殺の域まで洗練させてしまうような選手もいるにはいるが。高校生冒険者の中では滅多にお目にかかれない。
つまり、魔物を倒しきってしまう程の強力な魔法を発動するならば、長い詠唱というのは絶対条件であるのだ。「どーん」で発動できれば誰も苦労はしない。おまけに一種類の魔法ならともかく、全ての魔法を同じ呪文で発動出来るなど、魔法の常識を根底から覆している。
「イリス・スーラにとってはな、同じ『どーん』でも微妙に違いがあるらしい。とは言っても、その違いは誰にも解らぬらしいがな。正に紙一重というやつだよ」
語られた内容に、今度は相槌も打てなかった。タツマは今更ながらに気が付いた。厳島からの指令は、もしかしたらとんでもない貧乏くじなのではないかと。
「おまけに、詠唱から魔法の種類が判断できないから、マークする人間は完全にお手上げなのよ。やれることは、イリアが『どーん』と言い終わる前に、敵を殲滅することだけね。ちなみに、イリアの光魔法の射程は恐ろしく長くて、魔法自体の速度もとんでもなく早いわよ」
「って、なんだよそれ? つまりイリアが魔物を視界に収めた瞬間から、一秒か二秒以内には魔物を倒さないとアウトってことかッ?」
タツマの言葉に、カヤとイクアラは頷く事で答えた。タツマは気付いた。イリア・スーラへのマンツーマン。もしかしたらではなく、確実に貧乏くじであったことを。
タツマは再びイリアへと視線を向ける。天使のように愛らしい桃色の髪の少女は、今のタツマには、天使に擬態する悪魔にしか見えなかった。
その時不意に、イリアとタツマの目が合った。
イリアはタツマとは面識はない。しかしランニング中のタツマが、同じチームの選手であることは、イリアにも解ることだろう。
ニコリと笑うと再び屈伸運動を再開し、つま先に中指で触れた後、反応を伺うように、首だけをくりんとタツマの方に向けた。
タツマはイリアから目を逸らすと、再び前を向いての集団ランニングに集中する。
屈伸をするイリアの膝は、やはりゆるやかな「く」の字に曲がっていた。
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紅白戦まであと3日と迫った水曜日、タツマは物陰に身を隠しながら、イリア・スーラを追っていた。イリアの背格好は小学生か、頑張っても中学生一年生ぐらいにしか見えない。
それはイリアの個人的な問題ではなく、成長の遅いエルフの一般的な特徴である。夏至を過ぎたばかりの6月下旬とはいえ、放課後の練習後の今の時間は、太陽も沈み、薄暗い。そんな中、小さな少女をこそこそと追いかける色黒で細マッチョな高校生。その絵面にはいささか危険なものがあった。
もちろんタツマがイリアを追っているのは、不埒な事をすることが目的ではない。タツマのストーキング行為は監督による指令なのだから。
「…イリアちゃんをどうやって抑えていいか解らない? 大丈夫大丈夫! タツマ君ならイケるわよ!」
昨日の練習後。タツマは職員室に戻っていた厳島の元を訪れた。ジャージ姿の厳島は自分のテーブルで、三連プリンを付属のプラスチックのスプーンで幸せそうに食べていた。
「簡単に言わないで下さいよ。二文字で精霊魔法を唱える相手とどうやって張り合えっていうんですか?」
タツマが厳島の元を訪れたのは、イリア・スーラの対策を相談するためだ。イリアのアビリティー、詠唱☆超短縮の前では、どんなにタツマが早く動いたとしても、とてもイリアを抑えきれるとは思えない。
月曜、火曜と、イクアラ達と散々相談し合い、シュミレーションを重ねたものの、イリアを抑える事のできるビジョンはタツマには浮かばなかった。
「何言ってるの、その為のオルタ様でしょ? こっちは本物の女神様がついてるんだから、あなたとオルタ様なら必ずやれるわ!」
自信満々にそう宣言する厳島は、タツマ達の勝利を疑っていないのだろう。スプーンを唇で咥えながら2つ目の三連プリンの封をあけた。
「いや、だって、そのオルタ様が無理だって」
「ふぇっ?」
タツマの言葉を聞いた厳島は、透明プラスチックのスプーンを咥えながら、間抜けな声を上げた。
「昨日、イリアさんの魔法練習をこっそり見に行ったんです。その後でオルタ様に聞いてみたんです。いけますかって。そしたら無理ですって。髪の毛の攻撃だと半径10メートルの以内の敵ならどうにかなるそうですけど、敵がそれ以上離れていると、イリアさんの詠唱の早さには間に合わないって、オルタ様自身が言ってたんですよ。…こっくりさんで」
「えっ? だってオルタ様、水魔法が使えるのでしょう? 本物の女神のオルタ様なら、無詠唱で超強力な水魔法もお茶の子さいさいでしょ?」
厳島の認識は正しい。精霊に乞うて力を借りねばならないイリアと違い、女神とは精霊を自由自在に操れるものだ。それこそまるで手足のように。
いくらイリア・スーラの詠唱が短いとはいえ、無詠唱のオルタの魔法には叶わないだろう。それが厳島が、タツマをイリアにぶつけた理由でもあったのだから。
「はい、おれもそう思って聞いてみたんですよ。そしたら、オルタ様って攻撃系の水魔法は一切使えないそうなんです。オルタ様のお父上の方針で、『女たるもの戦いなどに出るべきではない。家を守り、夫に尽くすのが、正しい女神のあり方だ』って言いつけられてたらしくて。だから子供の頃から、回復魔法か、掃除、洗濯、料理、生花、茶道に必要な水魔法しか使ったことがないって、オルタ様が言っていました。…こっくりさんで」
「ちょっ、何なのよその昭和の父系家族の女性像は!? だって言ってたじゃない! 蛇のストーンゴーレム相手に付与魔法っぽい物使って調伏させてたって!」
「いや、だからそれが回復魔法だったそうなんです。蛇達はオルタ様の神気に反応して動きを止める仕組みになってたんだってオルタ様が言ってました。…こっくりさんで」
あの時タツマを襲った石の蛇は、資格なき者がオルタの目を覚まさぬようにとオルタの父が設置していた試練であったらしい。
万が一暴走した時の為に、オルタだけが止めることのできる安全装置も付けた上で。
話を聞く厳島の顔がどんどんと青くなっていく。
「そ、そんな…。ね、ねえ、オルタ様! 本当は大丈夫ですよね? 使えないフリして、実はバリッバリに攻撃魔法使えたりしますよね? イリアちゃん相手に無双できますよね? ね?」
両手を合わせ、神に祈るような形で、厳島はオルタに問いかけた。合わせたの両手の先には、プリンのスプーンが山頂の旗のように立っていた。
タツマの腰元の鞘に収まっていたオルタはするるっと髪の毛を伸ばすと、厳島が手に持っていた三連プリンのスプーンをつかんで、ぽーい、とゴミ箱にむかって放り投げた。
狙いは正しく、ゴミ箱からカランという小さな音が立った。
「匙をぽーいと、投げちゃいましたねえ…」
「ええ、投げられちゃったわね、匙。私まだプリン食べきっていないのだけど…」
暫く二人の無言の時が続く。辺りには、テーブルに放置されたままのプリンを、オルタがじゅるじゅると啜り上げる音がだけが聞こえていた。
「ど、ど、ど、どうしよう、タツマ君! 私、あんな賭けしちゃったじゃないの! オルタ様さえいれば、負けるだなんてこれっぽっちも思ってなかったんですもの!」
「どれだけ行き当たりばったりなんですか、貴方は!」
厳島と五井の賭けとは、タツマ達二軍が勝てば五井監督は引退。その代わり、一軍が勝てば五井監督は厳島を好きにできるというものだ。性的な意味で。
「どうしてくれるのよタツマ君! 返して! ねえ返してよ! 私の初めてを返してよぉおっ!」
「厳島コーチ! 落ち着いて! 職員室の他の先生方があらぬ誤解をしています! というか、ついでに余計なカミングアウトまでしないでくださいー!」
…その後しばらくして、ようやく落ち着いた厳島は、タツマと二人で、職員室の他の先生方の誤解を必死にといた後、どうにか持ち直し、凛とした表情でタツマに言った。
「大丈夫よタツマくん、完璧な人間なんて一人もいないわ。イリア・スーラにだって弱点はあるのよ!」
「本当ですか! 流石は厳島コーチ! それで、どんな弱点なんですか!?」
弱点という言葉にタツマは喰いついた。厳島は魚里のヘッドコーチ、戦略を立てる事に関しては、魚里高校冒険者部随一の能力を持つ人間である。
しかし厳島は、タツマの質問にこう答えた。
「知らないわよ、私は」
「へっ?」
今度はタツマが驚く番だった。そんなタツマに対して、厳島は懇願とも脅迫とも取れる指令を出すのであった。
「タツマ君ならきっとイリア・スーラの弱点を見つけることができるわ! おねがいだから必ず弱点を見つけてきてね! 私の貞操の為にも! 初めての相手があんな男だなんて私は絶対にゴメンよ! 万が一あなた達が紅白戦で負けちゃったら、タツマ君にきっちりと責任をとってもらうから! それが嫌なら絶対に勝ちなさい!」
「あんた何口走ってんだー!」
そのような一幕があり、監督命令の名の元に、タツマはイリアにはりついていた。練習後の帰宅途中のイリアをこっそりと追いかける形で。
イリアの日常生活を知ったところで、何の役にも立たないのではないかとはタツマとて思ってはいたが。他に手がかりもないのでどうしようもない。
その時、下校中のイリアが突然足をとめた。彼女が足を止めたのはゲームセンターの前。イリアはショーウィンドウ越しに何かを見つけると、店内へ小走りでかけ出した。
「イリアさん、ゲームが好きなのかな?」
タツマもイリアの後を追い入店する。人気の多い、ゲームセンターの店内でも、桃色の髪のエルフの少女は特に目立っていた。
イリアはUFOキャッチャーの前に貼り付き、真剣な表情でガラスの中を見据えていた。
UFOキャッチャーの中にあったものは、NPB、即ちニッポンプロフェッショナル冒険者リーグのマスコットキャラクター達であった。
ニッポンプロフェッショナル冒険者リーグとはその名の通り、リーグ戦で冒険者達が腕を競い合う、ニッポンで一番人気のスポーツビジネスである。タツマ達高校冒険者達に共通する夢といえば、甲子園に出場し、その後プロ冒険者リーグで活躍することにあると言えよう。
ニッポンには、甲子園を含め全国各地に12の上級者向けダンジョンと、そこを本拠地とするプロ冒険者クランが存在しており、ここヒロシマにも一つのプロクラン存在している。
そのチームの名前はレッド・ヘルバトラーズ。通称赤ヘルである。
地域密着型で、ヒロシマ県民達に心から愛されているそのチームは、冒険者リーグきっての弱小クランとしても知られている。
そのレッド・ヘルバトラーズのマスコットキャラである、不細工で真っ赤なアークデーモンを、イリアのつぶらな瞳が真剣に睨みつけていた。
コインを投入して、二つのボタンを操作する。縦と横の並行移動を終えたアームが、自動的に下へと伸ばされていく。
竜の顎のように開いたアームの先は、アークデーモンから20センチほど離れた虚空を空振った。
…それからおよそ二十分、イリアはUFOキャッチャーに張り付いていた。
言い換えれば、あれから二十分、イリアはアークデーモンの捕獲を失敗し続けた事を意味している。もはや不器用というレベルではない。
そして幾度目となるか解らない無慈悲なアームの空振りの後、財布を取り出したイリアの顔が絶望の色に染められた。
タツマも正確には数えていないが、少なくとも20回以上は挑戦していた筈だ。
きっと両替するお金も尽きたのだろう。イリアの瞳がにわかに揺らぎ始めたのが遠目にもわかった。
これまでずっとイリアを遠くから見守っていたタツマであったが、ここで初めて、イリアに接触することを決めた。
本来であれば、このまま放っておいて尾行を継続する方が正しい判断なのであろう。
しかし、UFOキャッチャーで5000円近く散財しながら、一個のぬいぐるみもとれない少女を、見捨ててしまうのは心が痛んだ。
タツマは意を決すると、イリアの方へと近づいていった。
「替わってもらえないかな?」
声をかけられたイリアは、逡巡しながらもう一度自分の財布を見て、泣きそうな顔で一歩後ろへと下がった。タツマは200円を投入しアームを動かし始める。
UFOキャッチャーはタツマの得意とするところである。
ボタンを二度押した後、アームは的確な位置にピタリと止まる。伸ばされたアームでアークデーモンの大きな頭がしっかりと掴み上げられると、無事、賞品の受け取り口へと運ばれていった。
ぽすんっと、ぬいぐるみが受け取り口に転がる軽い音が聞こえた。
タツマが赤ヘルのマスコットを手にとって振り向くと、イリアが絶望の表情を浮かべながら、タツマの手にあるマスコットを見ていた。自分がずっと欲しかったものが、目の前で奪われてしまったと思っているのだろう。
そんな少女に、タツマは、アークデーモンのぬいぐるみを差し出した。
「はい、あげるよ。イリアさん」
イリアはしばらくぽけーっと、呆けていた。タツマは自分の失敗に気が付いた。タツマがイリアを知っていても、イリアがタツマを知る由はない。いきなり見知らぬ人からぬいぐるみを貰うなどと、イリアでなくとも戸惑って当たり前というものだ。
「(やってしまった)」そう思ったタツマではあったが、イリアは、突然すさまじい勢いでぬいぐるみに飛びついて来た。まるで獲物を見つけた蛙のように。
「くれるん? いらんのぉ? ええん? ええん? ホントにもらってええん?」
「あ、ああ…。もちろん」
見た目とは全く不釣り合いな広島弁に、タツマ肝を潰す。
「うわー、ええ人じゃけぇ! ええ人じゃけぇ! アモンさん貰ってしもうたけん!」
アモンさん。というのはレッド・ヘルバトラーズのマスコットであるアークデーモンの愛称である。
イリアは手にしたアークデーモンをぎゅっと胸に抱いた。本当に嬉しいのだろう、エルフの耳がまるで犬の尻尾のように、ぴこぴこと激しく揺れていた。そのあまりの喜びように、タツマの腰が引けてしまうほどに。
「そ‥、それじゃあ、オレはこれで…」
そしてそのまま踵を返して立ち去ろうとしたのだが、イリアの小さな手が、タツマの服の裾を掴んでいた。
「ま、待って! お、お礼! お礼がしたいけん! ここ、これからご飯食べにいかん?」
イリアの紅潮する頬は、アークデーモンを貰った喜びなのか、それとも見知らぬ男性を食事に誘う恥ずかしさからきていたのか。
上目遣いの少女の様子は、タツマの庇護欲を突くように刺激した。
しかし、追跡がタツマの仕事である以上、不用意に仲良くなるのは避けたかった。何よりイリアは、週末に倒すべき敵なのだから。
「気持ちだけで十分だよ。それにお金、ないんでしょ?」
イリアははっとなって財布を見た。タツマからも見えた彼女の財布は、銅とアルミの貨幣が数枚残っているのみであった。
そしてイリアは、再び顔を絶望の色に染めながらこう言った。
「晩ごはん、どうしよぉ………」