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サイレント・ブルー  作者: kaku
9/15

9 羽化

烏丸(からすまる)(たか)(ひろ)です」

 と、顔のない男の人は言った。

 前と同じように、自分には、その人のお顔は見えない。

―あのお顔がない人はお顔がない人なのに、どうしておねえちゃんを知らないふりするのかな。

 「おねえちゃん」がお仕事をしている場所で、「おねえちゃん」に挨拶をしている顔のない男の人を見ながら、自分はそう言った。

―同じ匂いがするな。

 それに対して、「にんじゃ」の人が小さく呟いた。

―どういうことじゃ? サイ。

―あれは、わしと同じ者。同じ役目を担う者。

児相(じそう)(児童相談所の略)に新しく入った人?」

 「おねえちゃん」の隣の椅子に座った男の人が、お顔がない人からもらった小さい紙みたいなのを見ながら、そう聞いた。

「はい。中塚(なかつか)先生が休まれるので、僕が担当になったんです」

「じゃあ、あんた臨時の人か」

「まあ、そうです」

―おじちゃんも、ジソウの人なの?

―否。そうではない。

 「おねえちゃん」達が話している言葉はよくわからないから、「にんじゃ」の人にそう聞てみたけれど、こちらもよくわからなかった。

―あれは、おそらく子を守る者ではない。我らが守護する者とは、異質の者じゃ。

「今日は、施設長さんの光村さんは、いらっしゃらないんですか?」

「光村は、もうすぐ来ます」

「じゃあ、待たせてもらっていいですか?」

「まあ、帰れって言ってもあなた帰んないんでしょ?」

「そうですね」

 ただ。それでも、わかることは一つだけあった。

―どうして、あの人はおねえちゃんのことを知らないふりするんだろう?

 周りの大人達が話すことはわからないけれど、それだけは自分にもわかった。

―それは、今はわからぬな。姫は、何かおわかりか?

 「へんなかっこう」の人が、自分達の一番後ろにいる、「ひめおねえちゃん」に尋ねた。

 だけど、「ひめおねえちゃん」は、何も言わず、お顔がない男の人を見つめていた。

「千華ちゃーん、どこ?」

 そうしたら、「おねえちゃん」のいるところの外から、そんな声がした。

「あ、ここよ。どうしたの、芽衣さん」

 それを聞いて、「おねえちゃん」は椅子から立ち上がった。

「すいません、私芽衣さんのところに行っていいですか?」

 そうして、隣に座っている男の人に聞いた。

「ああ、いいよ。いても意味ないから」

―失礼な言い方しなはるね。

 そんな男の人を見て、「ぬい」が、あきれたように言った。

「じゃあ、失礼します」

 けれど、「おねえちゃん」はそのままお部屋を出て行った。

「いやあ、あの人鋼の心臓持っていますね」

 「おねえちゃん」がお部屋の外に出て行った後、お顔のない人は、そう言った。

 お顔がないのに声が聞こえるのは、何だかヘンだった。

「何で?」

「だって、すごいこと言われたのに、スルーして行きましたよ」

「……あんたも、たいがいだよ」

 男の人は、おこったような顔で、そう言った。

「どうしたの? 芽衣さん」

 「おねえちゃん」の方は、ろうかにいた女の子に声をかけていた。

 体をまげて、女の子にお顔を近づけている。

「あのね、トイレに行きたいの」

「ああ。じゃあ、一緒に行こうか」

―おトイレぐらい、一人でいけないのかな。

 それを見て、自分はそう言った。

―まだ幼い子。それは無理なのじゃろう。

 それに対して、「みはる」がそう言った。

―それにあのまま、あの者と対峙するのもきつかったようじゃしな。渡りに船だったのじゃ。

 これには、「ひな人形」の人も、そう言った。

―でも、ぼくは一人でいけたよ。

 だけど、こう言ったら、しばらくみんな自分をびっくりしたように見た。

―何じゃ、坊主。妬いておるのか。

 でもすぐに「にんじゃ」の人が、そう言った。

―ちがうよ!

―サイ、子どもをからかわないでください。そうか、坊はえらいな。

 「みはる」がそう言って、自分の頭を撫でてくれた。

 いつもだったらそれはうれしいことなんだけれど、今はそれがとても嫌だった。

 「おねえちゃん」は、「メイ」と呼ばれている女の子と一緒にトイレに行って、外で待っている。

  それを見て、自分はぷいっと横を向いた。



『ぼくは、ひとりでといれにいけるから』


「はいっ???」

 帰って来て早々、そんな文字が、テーブルに置いたナツ用のパソコンの画面に打ち出され、千華子は目をぱちくりとさせた。

「ど、どうしたの???」

 何故いきなりナツがそんなことを言うのか千華子にはわからず、だけどパソコンの前で、何故かふんぞり返っているナツの様子が見えるような気がした。

「まあ、ナツの年なら、一人でトイレに行けるようになる頃だよね……」

 だがしかし、ナツの年にはたいていの子達がトイレに一人で行けるようになっているはずだと思いながら、千華子は呟いた。

 そうして。

 ふと、気付いた。

「ナツ、自分のこと思い出したの?」

 「自分が一人でトイレに行ける」ということは、ナツが自分のことを思い出したから言えるのだ。

 けれど、ナツ用のパソコンには、何も打ち出されなかった。

「ナツ?」

 千華子はけげんに思い、ナツの名を呼んだ。


『ぼくのしたいをさがして』


 だが、次に打ち出された文字には、千華子はがっくりさせられた。

「まあ……それが一番の目的で、東京(ここ)に来たんだけどね……」

 千華子は、ナツ用のパソコンの前で、ぐったりとうなだれながら言った。

 東京に来たのは、確かに証人保護プログラムを受けるためではあったが、田村が「それに多分、この「流れ」に乗れば、ナツ君のことも解決するような気がするのよ」と言ったことも、大きかったのだ。

 何せ、手がかりが何一つない。

 ナツは、千華子にタロットカードやオラクルカードで自分の死体を探してもらおうと思っていたようだが、それはできないのだ。

 何と言っても、タロットやオラクルカードは、抽象的すぎて、はっきりとした「答え」が出ない。

 それらのキーワードを元にリーディングしていくのがタロットやオラクルカードのやり方だから、無理なのだ。

 千華子とて、どこにあるかわからないナツの死体を捜してやりたい、という気持ちはある。

 あるのだが、

「その方法がね~わかんないのよ~~~!」

 千華子は、床に手をついたまま、そう呟いた。

 いっそのこと、タロットカードの占いの方法である、Yes/NOの展開方法で日本全国四十五都道府県、「ナツの死体ある?」と聞いてみようか、とも思う。

 これは、単純にカードの正位置と逆位置と言われる、カードが逆さまになった状態で占う方法である。

 この展開方法は、質問した答えがYesなら正位置で出て、NOならば逆位置に出る。

 占い方法としては単純だが、そう簡単ではないのだ。

 例えば、タロットカードには「太陽」という、めちゃくちゃに良い意味のカードがある。

 これが正位置に出たら、まずその質問は「Yes」であり、逆位置なら「NO」である。

 それと同じで、「死神」というめちゃくちゃに悪い意味のカードが正位置で出たらそれは「NO」だし、逆位置で出たら「Yes」なのである。

 だが、タロットカードは、そんな明暗はっきりとした意味のカードばかりではない。

 「力」のカードで正位置が出たら「Yes」なのだが、それは「Yesなんだけれど、努力が必要よ★」という意味になるのだ。これが「正義」のカードとなると、「うーんと、五分五分かなぁ」となるのだ。

 はっきり言って、リーディングしにくいし、死体を捜しているのに、「Yesなんだけれど、努力が必要よ★」とか、「うーんと、五分五分かなぁ」とか出ても、力が抜けるだけだ。―と、そこまで考えた時だった。

「方法は……聞けないのかな?」

 ふと、思いついて千華子はそう呟いた。

 タロットカードに、「ナツの死体はどこにあるのか?」と聞くことはできなくても、「どんな方法で探せばいい?」と聞くのはありかもしれない。

 千華子はテーブルの前から立ち上がると、ベットサイドの上に置いたタロットカードを取った。

 そうして、それを片手に持ってまたテーブルの前に戻る。

 ナツ用の小型パソコンを少しずらして、千華子はタロットをテーブルの上に置いた。

 意識を集中して、タロットのカードをシャッフルし、一枚のカードを取り出す。 

「『法王』……」

 出てきたのは、「法王」のカードだった。

 「法王」のカードは、聖職者の男性が描かれている。

 文字通り、「法王」である男性だ。

 すべての人々に知識や助言を与える存在であり、慈悲深い心の持ち主でもある。このカードが出たら、「助けてくれる人がいる」という意味があるのだが、それはイマイチピン!とこなかった。

「法王……、聖職者、宗教関係、助言者、専門家」

 千華子は、「法王」という言葉から想像できる言葉(もの)を呟いていった。

 そしてふと、「専門家」と呟いた後にひっかかりを感じる。

「『専門家』……これは、つまり「専門家の手を借りろ」ということ?」

 だが、しかし。

 「死体を捜す専門家」となると、世間一般的な常識から考えても、「警察」が一番妥当である。

 警察へのツテならある。

 只今、証人保護プログラムを受けている真っ最中である。

 加藤とか戸口とか小倉とかには、連絡先も仕事場絡みだが、千華子は教えてもらっている。

「けれど、それは、現実的に難しいよね……」

 証人保護プログラムに関わることならばともかく、「幽霊の男の子の死体を捜してくれ」とはとても頼めない。

 と言うか、頼めるわけがない。

 私情で警察は使えないし、何よりも「幽霊」という言葉が出た時点で、怪しさは倍増である。

「うーん」

 カードを片手に、千華子は唸った。


『わかんないの』


 テーブルに置かれたナツ用の小型パソコンの画面に、そんな言葉が打ち出された。

「うーん……」

 タロットのリーディングは抽象的で、それを現実の言葉に変換するのが占い師の役目なのだが、「死体を探す」ということ自体が非現実すぎて、その「現実の言葉に変換する」ということが難しいのだ。

 千華子は、頭をがしがしと掻いた。

 

『おばちゃんだめ』


 すると、パソコンの画面に、新しい言葉が打ち出された。

 どうやらニュアンス的に、「あばちゃんはダメなの?」と言いたいらしい。

「おばちゃんって、田村先生のこと?」


『うん』


「確かに、田村先生は幽霊の『専門家』だけどね……」

 ナツの打ちだした言葉を見ながら、千華子は再度頭を掻いた。

 そう……田村は、確かに幽霊が「見える」。

 それに未来のことも見えることがあるらしく、そこから千華子に助言を与えてくれたりすることもわかっていた。

「ただ、今回の件に関しては、ちょっと聞きにくいんだよねぇ」

 だが、しかし。

 「ナツの死体を探す」という件で鑑定を頼むのは、何故か躊躇ってしまうのだ。

 もし田村がナツの死体の場所がわかるのならば、もう既に千華子に何らかの助言をくれているような気もするのだ。


『やってみなきゃわからない』


「まあ、頼むだけは頼んでみようか」

 千華子は、ナツがまた打ち出した言葉を見ながら、呟いた。

 鑑定を頼むにはお金がかかるが、ナツの死体探しは、正直立て続けに事件が起こったこともあって、何もやっていないのだ。

 タロットカードやオラクルカードでは探せないし、自力で探そうにも、そのスキルもない。

 ナツに「やっぱり難しいんだ」と思ってもらうためにも、そして何か手がかりを掴むためにも、「何か」をしないといけない。

 それが田村に鑑定を頼むと言うのは他力本願もいい所かもしれないが、今の千華子に思いつくのはこの方法しかなかった。

『理由は何であれ、千華ちゃんが一度、離れる必要があるってことだと思うわよ。「教師」としての瓜生千華子からも、「今」の千華ちゃんからも』

 けれど、不意に田村が言っていた言葉が脳裏を横切った。

「……」

 その言葉が、何を意味するのか。今の千華子には、わからない。

 ピンポーン

 と、その時だった。

 インターフォンの音が鳴った。

「えっ?」

 思わず、千華子は声を上げてしまった。

 一昨日東京に来たばかりの自分には、わざわざ訪ねて来るような知り合いはまだいない。

 けげんに思いながら立ち上がり、壁に備え付けてあるインターフォン用の画面を見た。

 すると、そこに写っていたのは、自分のことを、「はーちゃん」と言っていた、あの女の子だった。

『お姉ちゃん、遊ぼう!』

 まるで千華子が画面を見ていることをわかっているように、「はーちゃん」は笑ってそう言った。

 千華子はとっさに、どうしようかと思った。

『あの手の子どもにヘタに関われば、何かあった時、瓜生さんの方が責任を問われます。瓜生さんの性格では気になさるとは思いますが、極力関わらないようにしてください。私の方も、児童相談所への通報を念頭に置いときます』

 だが、加藤の言っていた言葉を思い出す。

「……」

 千華子は、インターフォンの電源を切った。

 加藤の言うとおり、今の千華子は言ってみれば囲われの身である。

 よけいなトラブルを起こす可能性は、少しでも避けなければならないのだ。

「お姉ちゃーん、いないのー?」

 しかし「はーちゃん」はあきらめず、今度はぱんぱんと、玄関のドアを叩き始める。


『うるさい』


 小型パソコンの画面にも、ナツが怒ったような感じで言葉を打ち出してくる。

「うーん、そうなんだけどね」

 千華子は苦笑しながら、小さい声で言った。

「だけど、後のことを考えたら、今はこうするしかないの」

 ドンドンドンドン!と繰り返し聞こえる音は、さらに大きくなってくる。

 時々、がんがんっとドアを蹴っているような音も聞こえた。

「開けてよ~!」

 何か悲壮な感じで叫んでいる声。

 泣いているのかもしれなかった。

 その声が一瞬、

『先生、助けて! 私を助けてよっっ!』

 新見じゅえるのものと重なる。


『だめ』


 と、その時だった。

 ナツが千華子の思いを読んだように、パソコンの画面にそんな言葉が現われた。

「うん……」

『マママア、ママアアァァァァァァ!』

 新見じゅえるは千華子に助けを求めていたけれど、本当に求めていたのは、母親だった。

 あの「はーちゃん」が本当に求めているのは、千華子ではない。

 本当に構って欲しいのは、自分の母親―そして父親のはずなのだ。

 多分、千華子がここでドアを開けて、「はーちゃん」を招き入れても、自体は変わらない。

 千華子の所で母親にしてもらいたいことをしてもらって、そして母親のところに戻っていく。

 それは、当然のことのように。

 そして、そのことがあの「はーちゃん」にとっては、悪いことに繋がっていくのだ。

 どんなに優しい人でも、その「優しさ」を赤の他人に当然のことのように請求されたら、怒りを感じる。

 それは、幼い子どもであろうとも例外ではない。

 でも、だからと言って、このまま放っておいてもいいのだろか、とも思う。

 加藤は「児童相談所の通報も考えておきます」と言ったが、やはり毎日「はーちゃん」に会わない分、緊急性は感じないかもしれない。

 と、そこまで考えた時だった。

 千華子はふと、児童相談所の職員と名乗った、烏丸のことを思い出した。

 烏丸はとぼけていたが、あの男は、まちがいなくバイト先で声をかけてきた男と同一人物だ。

 それは、ナツも「お顔がない人」と言っているから、まちがいない。

 本当は帰ってすぐに、烏丸のことをナツにくわしく聞こうと思っていたのだが、トイレに行ける発言で、すっかり吹き飛んでしまっていた。

 しかし、あの男の肩書きは、「児童相談所の職員」である。

 それが本当かどうかはわからないが、相談しても良いかもしれない。

―何故、この時そう思ったのか。

 後から思い返しても不思議だった。

 一度だけしか会ったことがない、思いっきり不審な雰囲気満載だったあの男に、何故「はーちゃん」のことを相談しようと思ったのか。

 ただ。この後千華子が取った行動は、思わぬ結果を導き出す。

 それは、本当に思わぬ結果だったのだ。


「ネグレクトの子どもがいる?」

 次の日。

 まず、夜勤が明けた光村に、出勤した千華子は「はーちゃん」のことを相談してみた。

「はい……」

 千華子が光村の言葉に頷くと、木村は、ちらっとドアの方を見た。

 そして声を心なしか小さくして、

「あなたは、マンスリーマンションだったわよね?」

 と、聞いてきた。

「そうです」

「警察の人には言った?」

 この質問は、光村が千華子の証人保護プログラムについて知っているから出たに違いない。

 だから千華子は、

「ここに来て、すぐにその子に会っています。警察の方も、多分ネグレクトじゃないかって……」

 と、余計な言葉は挟まずに言った。

「……まあ、警視庁(あっち)の人だから、あまり緊急性は感じないかもね。正直、忘れていてもおかしくないし」

「そうなんですか?」

 だが、千華子は不思議に思った。

 ネグレクトは子どもの命に関わることだ。

 それなのに、「緊急性を感じない」とは、何か釈然としない。

「千華さん、全国の児童相談所に寄せられる虐待相談件数ってどれだけだと思う?」

「え?って……どれくらいなんですか?」

「おおよそ、五万件以上よ」

「えっ?」

 光村の言葉に、千華子は目を見張った。

「もちろん、日本全国の数を合わせての数だから、それぐらいになるんでしょうけれど。でも、ここ東京都は新宿にある児童相談センターを合わせて十一ヶ所あるけれど、県によっては、二つしかないところもあるの。東京都の場合は、一年間に四千件ぐらいの虐待相談件数があるみたいだけれど、単純に計算しても、三百件近くの相談を一つの児童相談所で受け持つことになるわ。まして、日本の児童福祉士が受け持つ相談件数は、一人当たり百件前後。欧米では一人当たり十数件と言うから、桁が違うのよ」

「児童相談所の職員の数は、少ないんですか?」

「私が言ったのは、虐待(・・)の(・)相談件数よ。児童相談所は、他にも相談の受付とか、子ども調査、診断(社会診断、医学診断、心理診断)、とか、判定会議の実施と援助内容の決定、援助の実行とか、一時保護している子ども達のこととかも児童相談所の仕事なの。もちろん、それを一人の人がやるんじゃなくて、手分けしてやっているけれど、県で二つしかないところとか、数も少ない分、場所が広範囲になって対応するのも大変になってきていると思うわ。東京みたいなところは逆に数が多くて、対応が大変みたいだし。正直なところ、『今すぐ対応しないと命に関わる』ぐらいの緊急性がないと、児童相談所も動きようがないの。『今すぐ対応しないと命に関わる』件をさばくのだけでも、必死な状態なのよ」

 それは、千華子が思ってもいなかった事実(こと)だった。

「世間では児童虐待が明るみにでる度に、児童相談所の人間を責めるけれど、そんなに単純じゃない。それに、虐待が見つかっても保護をする場所も、空きが少ないのよ」

「空き?」

「預かる先の場所。児童()養護施設()のことよ」

「……」

「まあ、この辺まで話すと、もう一日じゃあ足りないぐらいで、仕事になんないからね。とりあえず話しを戻すと、児童相談所に通報しても良いと思うけど、まずは管理会社の方に通報した方がいいかも。そして……」

 光村がそう言いかけた時だった。

「おいっ! 光村おるかっっっ」

 玄関の方から、がれた怒鳴り声が聞こえた。

 とたんに、光村の目がすっと細められた。

「千華さん。携帯がそこの机の上に置いてあるから、圭君に連絡してください。芳賀(はが)さんが来たと言えばわかるから」

 そして、そう言いながら部屋のドアを開けた。

「おい、光村!」

 またしても、ガラ声が玄関から響いてくる。

「あ、はーい。今行きます! 急いで連絡して」

 玄関にいる芳賀に返事をして、光村は部屋を出て、パタンとドアを閉めた。

 その言葉に何かしら含む物がありそうな気がしつつも、千華子は言われた通り、テーブルの隅に置かれていた携帯を手に取った。

 そうして、電話帳のボタンを押し、野間の電話番号を呼び出す。

 トウルルという音がして、「はい」と少し不機嫌そうな声で、野間が電話に出る。

「あ、野間さん。瓜生です」

『何、いきなり。今移動中なんだけど』

 自動車で通勤しているらしい野間は、不機嫌そうに言った。

 「光村さんから伝言です。芳賀さんが来られています」

 だがそれなら手短に言わなければと、千華子は野間の言葉を遮るように言う。その瞬間、野間が小さく舌打ちした音が聞こえた。

『わかった。急ぐから。それから、忠告。芳賀さんの言うことは、とにかく頷いといて。あの人が、うちの指導員不足の原因だから』

 それだけ言うと、通話は切れた。

 千華子は、携帯をテーブルに置きつつ、野間の言葉の意味を考えた。

 あの、芳賀と言う人。

 人に命令口調で言うことに慣れているような感じがした。

 そして、野間や光村の態度から考えても、千華子が苦手としているタイプの人間のように思えた。

―瓜生先生は、教師失格ですね。

 一瞬。以前言われた言葉が、千華子の脳裏を過ぎった。

 あの教頭も、「自分は正しい」と常に思っている人だった。

 その教頭に言われた言葉が、千華子の「心」を殺したのだ。

 ただ。

 それでも、あの頃と違うことが、一つだけある。

 それは、自分が「経験」を積んだことだ。

 確かに、あの頃の自分は、心ない言葉で「心」が死んでいった。

 だけど今の自分は、それに対して、「心」を守る術を知っている。

「おいっ、お茶も出てこんのか!他に人がいるんだろう、何しとるんだっ!」

 そんな声が廊下に響く。

 おそらく、大きな声を出すことで、自分の力を誇示しているのに違いない。

 千華子は軽く息を吐くと、部屋を出て台所に向かった。そ

 うして、冷蔵庫から麦茶の入ったボトルを出すと、食器棚から来客用だろうと思われるお茶セットを取り出した。

そ れをお盆に載せて、千華子はお客が通されているらしい、玄関のすぐ近くの、テレビのある部屋に向かった。

「遅い!」

 失礼しますと部屋に入った瞬間、怒鳴られた。

 テレビの前に置かれたテーブルの奥の方に、恰幅のいい六十代ぐらいの男性が座っている。

 どうやらこの男が「芳賀」らしい。

 光村はちらっと横目で千華子を見ると、芳賀の方に視線を戻した。

「あんたは元教師じゃないのか! 全然気がきかんな!」

 初対面の千華子に、そう言い放つ男が人格者とは言い難い事は、子どもでもわかる。

「千華さん、この方が理事の芳賀先生です」

 しかし、それなのに児童養護施設の理事長をやっている。

 心の中で、千華子は「メダマドコー!」の顔文字を作ってしまっていた。

「初めまして。瓜生千華です」

 それでも、千華子はお茶を芳賀の前に置きながら挨拶をした。

「仕事ぶりはどうだ? 警察に押し付けられた物件だ。遠慮なく、使っていいからな」

「芳賀先生、もうすぐ野間先生が来ますから、あまりその話題は出さないでください。子ども達もいますし」

 芳賀は傲岸不遜に言い放ち、それを少し硬い表情をした光村が宥めるに言った。

「自分が客と思われたら、かなわんからな。どうせ警察からたんまり金をもらってるんだ、わしらの税金から出された金使っているんだから、しっかりと働いてもらえ!」

 その言葉の意味は、千華子にはわからなかった。

 千華子は、一応この「愛育園」から「給料」をもらう、という話は警察からも聞いていたからだ。

「芳賀先生、それなんですけど。明日から千華さんに夜勤に入ってもらおうと思っているんです。しばらくは、私と一緒に。でも連続ではきついので、夜勤の後はお休みをもらってもらおうと思っています」

「おう、しっかり働いてもらえ!」

 恰幅の良い体を揺らしながら、芳賀は笑ってさっきと同じ言葉を言った。

「それと、千華さんには給料の振込み用の口座を作ってもらうように言われていたんですが、私達と同じように『お給料』を払うんですよね?」

「お、そうだったか?」

「はい」

「そうだったな。忘れ取った」

 芳賀が笑って言う言葉に、千華子は思わずおいっと突っ込みそうになった。

 と、その時だった。

「香ちゃーん、どこ?」

 芽衣が、階段のところで呼んでいるような声が聞こえた。

「千華さん、行ってあげて。子ども達のこと見ていて」

 それを聞いて、光村が千華子にそう言った。

「わかりました」

 千華子は光村の言葉に頷くと、お盆を片手に部屋を出た。

 階段の方に行くと、芽衣が階段の中央に立っていた。

「どうしたの、芽衣さん」

 千華子は階段に立っている芽衣に声をかけた。

「芽衣ちゃん、テレビが見たい」

「ああ、今お客さんが来ているから。台所で、私の携帯で見よう。他の人達は、どうしているの?」

「悠ちゃんとあっちゃんは、お部屋で宿題している。愛理ちゃんとゆきちゃんは、部活に行ったよ」

 「あっちゃん」と言うのは、小学六年生の「(あつし)」と言う名の男の子のことだった。

 「(あい)()」は高校一年生の女の子、「ゆきちゃん」は「幸恵(ゆきえ)」と言う名の中学三年生の女の子のことである。

 今のところ、千華子がきちんと交流しているのは、この芽衣だけであった。

 他の子ども達は、遠巻きと言うか、「誰、これ」という感じで千華子を見ているようなのだ。

「そっか。じゃあ、台所に行こう」

 そんなことを話していると、

「おはようございます!」

 がちゃっと玄関のドアが開いて、野間が現われた。

「おう、野間っ。遅いぞ!」

 その声を聞いたのか、テレビのある部屋から、芳賀の声が聞こえた。

 野間はちっと顔を歪めるが、

「こんにちは、芳賀さん。来ていらっしゃったんですか」

 愛想の良い笑顔を浮かべ、テレビのある部屋へと入って行った。

 どうやら、権力者にはごまをするタイプらしい。

 だが、しかし。

 芳賀のような傲慢な男が児童擁護施設の経営者だとするならば、はっきり言って、世も末のような気がした。

 千華子の児童養護施設の経営者のイメージは、高潔と言うか、人徳者という感じだった。

 もちろん、千華子を退職へと追いやった教頭も教育者だったから、仕事内容で人徳者とか高潔な人物とか決められないのは、わかっている。

 けれど、芳賀のキャラクターは、あまりにもあまりな感じがした。

「千華ちゃん、テレビ見たい」

 と、その時だった。

 芽衣がくいっと千華子の手を引っ張りながら言った。

 その言葉に、千華子は我に返り、

「ああ、ごめんね。台所に行こう」

 芽衣と手を繋ぎながら、そう言った。


 結局、芳賀は二時間ぐらい居座っていた。

 その間千華子は、芽衣に携帯でテレビを見せつつ、洗い物をしたり洗濯機を回したりしていた。

 二階で勉強しているらしい男の子達も、芳賀が来ているのを察しているらしく、降りてこなかった。

「疲れた……」

 ぐったりとした顔をして、台所に野間が入って来た。

 その後に光村がやはり疲れた顔で入って来る。

「もう、昼近くだぜ。勘弁してくれ……」

 椅子にぐったりと座りながら、野間が小さく呟く。

「圭君、疲れているところを悪いんだけど、二階に行って悠馬君と篤君の宿題見てきてくれる? あの子達、昼から学校のプールに行くらしいから」

「はいはい……」

 だけど光村は容赦なく、野間に仕事を言いつける。

 野間はぐったりとしつつも、椅子から立ち上がった。

「千華さんは、ホットケーキミックスでお昼ご飯作ってくれる? 急いで作れる物がいいんだけど」

 そして、千華子にはそんなことを言ってきた。

「わかりました。じゃあ、炊飯器を遣っていいですか? 人参ケーキを作って、後コンソメスープを作ればいいですか?」

 この「愛育園 若草の家」では、ご飯も職員が作っている。

 予算が決められている上に、子ども達の栄養バランスも考えなくてはいけないらしい。

「まかせるわ。私は、洗濯物を干したらちょっとパソコンで仕事するから」

「芽衣ちゃん、テレビ見たい」

「そう? じゃあ芳賀先生は帰ったから、居間のテレビで見ていいよ」

「じゃあ、俺は二階のガキ共の部屋にいるわ。メシできたら呼んで」

 芽衣が椅子から降りて、台所を出て行くと、それを追う様に、野間がよろよろとなりながら出て行った。

「なんか、野間さん疲れていますね」

「まあ、ね……」

 だが、それは推して知るべしだろう。

 あの芳賀と言う男は、あまり接したくない相手だ。

「芳賀さんが、園長さんなんですか?」

 千華子は、園長とこの施設長である光村しか、千華子の正体を知らせていないと、加藤から聞いていたので、そう尋ねてみた。

 「正確には、理事と言う名の、園長代理。芳賀さんは、園長の息子さんなの」

「そうですか……」

 それで、あんなにえらそうなのかと、千華子は思った。

 もしかしたら、「外」で働いたことがないのかもしれない。

「昔は、あんな人じゃなかったんだけどね」

 そんなふうに、ポツリと光村が呟き、千華子が「えっ?」と思った時だった。

 バイブにしていた千華子の携帯が、ズボンのポケットの中で震えた。

 ポケットの中から携帯を出して画面を見ると、実華子の名前が画面に出ていた。

「誰から?」

「妹からです」

「あら。じゃあ、出ていいわよ。でも、手短にね」

「すいません」

 千華子は光村に謝ると、ピッと、通話のボタンを押した。

『ちぃちゃん!?』

 とたんに、受話器越しに実華子の声が聞こえた。

「み、みぃ……」

 声が大きい、と千華子は言おうとしたが、

『どうして連絡くれないのよ! 東京に行ったんでしょう!?』

 実華子は容赦なく、言葉をそう続けてきた。

 顔をしかめて携帯を耳元から話すと、聞こえていたらしく、光村が口を押さえて笑っていた。

『ちょっと、ちいちゃん! 聞いているの!?』

「ごめん、みぃ。今仕事中だから。仕事終わったら電話するから」

『仕事? 前と同じファーストフードじゃないの?』

「うん。くわしいことは、帰ったら電話で言うから」

『……ちゃんとしてよ!』

 受話器越しに、しぶしぶと実華子が頷くのがわかった。

「うん。わかったから。じゃあね」

 そうして、千華子がぴっと、通話終了のボタンを押した瞬間。

 光村がお腹を抱えて爆笑していた。

「光村さん……」

「ごめんなさい、でも、おかしくて……ふふっ」

 そうしてふと真顔になって、

「妹さんは、知っているのね」

 千華子が警察から証人保護プログラムを受けていることはぼかして、そう聞いてきた。

「はい。家族には言っていいって言われているので」

「そう……仲が良いご家族なのね」

「まあ……心配は、してくれているとは思います」

 千華子は、微苦笑を浮かべながら言った。

 ただ、家族とは、もう三年も会っていない。

 心配はしているのだろう、とは思う。

 いつもは盆と年末に、帰省を促す電話しかしてこない実華子が、こんなふうに電話をしてくるのだから。だけど。

―何を馬鹿なことを。お前を養う金など、ないぞ。

―そうよ。せっかく良い仕事に就いているのに、馬鹿なことを言わないで頂戴。

 両親が、千華子に言い放った言葉。

 千華子の「心」よりも、自分達の「保身」を優先させたあの言葉は、三年経った今でも千華子の心に刺さったままだ。

「まあ、色々あるかもしれないけれど。心配してくれる家族があるってことは、いいことだと思うわよ」

 そんな千華子に、光村は言った。

「私には、そんな家族いないから、うらやましいわ」

 そうして、さらりと付け加えられた言葉は。

「私も、この愛育園の出身なの。芳賀さん―理事にも、昔は勉強とか教えてもらったりして、お世話になったわ」

 千華子が、驚くには十分な内容(もの)だった。


『ようするに、すごく問題ありまくりの施設だってことね』

 その日の夕方。仕事を終えてマンスリーマンションに戻った千華子は、約束通り実華子に電話をかけた。

 そうして簡単にだが、児童養護施設で働くことになったこと、勤務内容や、愛育園の様子などを話したのだ。

 全てを聞き終わった実華子は、千華子にごもっともな言葉を言い放った。

『何で、そんなところで働いているのよ』

「しょうがないじゃない。私だって、そんな場所だなんて、思ってもみなかったんだもの」

 千華子は、ため息を吐きながら実華子に言う。

『だってね、ちぃちゃん。問題があって、他所じゃ絶対に首になっていそうな人と、恩があってよほどのことがないと辞められない人しか残っていない職場なんて、どう考えてもブラック企業としか考えられないじゃない。まして、児童養護施設なんて、ただでさえ大変な仕事なのよ。子ども達は、好きで親と離れているわけじゃないから、その相手をするだけでもきついのに。それがきつくなって、辞めていく人も多いんだよ』

「まあ、ねえ……」

 千華子は、実華子の言葉に、頭を掻いた。

 確かに、実華子の言うとおりではあるのだ。

 今日は光村に言われてお昼ご飯を作ったが、そのお昼ご飯を見たとたん、「不味そう!」と悠馬は言い放った。

 たまたま光村が帰る仕度をしていて、「じゃあ、悠馬君は自分で作ったのを食べてね」と言いながら台所に入って来て、悠馬の分の食事をひょいっと取り上げた。

 そうして、「これ、私がもらうわね」と人参ケーキを流しの方に持って行って、「ごめんなさい、香ちゃん!」と悠馬が半泣きで謝って、まあ事はすんだのだが。

「確かに、ためされているような気はする」

『でしょ? 児童養護施設に預けられて、実の親に引き取られた子ですら、親をためすために問題行動を起こすって聞いたことがあるわ。ちぃちゃんは、嫌にならないの?』

「しょうがないじゃない。それに、あんただって、学校で先生していて、似たようなことは、しょっちゅうじゃないの?」

『まあ、そうだけど。でも、やっぱり学校って「外」だからね。けれど、児童養護施設って、「家」じゃない。それなのに、いるのは赤の他人……もちろん、頭ではわかっているけれど、理不尽なものもあるんじゃない? 』

「まあ、ねえ……」

 千華子も教師だった頃、新学期は子ども達に試すような行動をされた。

 わざと危ないことをする、「ダメだ」と言われた行為をする、授業中にふざけた態度を取る……等は、毎年の恒例行事みたいなものだった。

『……そういう言葉を聞くと、つくづく、ちぃちゃんって子どもの仕事向きだなって思うわ』

 曖昧に同意する千華子に、実華子はため息を吐くように言った。

「みぃ」

 一方の千華子は、妹の言葉に、目を見張る。

『父さん達も、そう言っていたし。だから、ちぃちゃんが教師を辞めること、反対したんだよ』

「えっ……?」

『まあ、父さん達の言い方もあれだったし、本音じゃなかったとは思わないけどね。と言うか、ばりばり本音だったんでしょうけど。でも、ちぃちゃんが教師になりたくて頑張っていたこと、一番知っていたし、ちぃちゃんが教師の仕事大好きだったこともわかっていたからね。一回復帰に失敗してもさ、復帰さえすれば、教員って最低三年は休職保障されているでしょ? だから、何回かチャレンジすればって思っていたみたいよ』

 思ってもいないことを、実華子は千華子に告げた。

『ただ、私はそんなことされたら、子どもや他の先生達に迷惑だってことは、経験上わかっているからね。ちぃちゃんの選択は、正しかったと思うよ』

 フォローのつもりなのか、言葉もない千華子に、実華子はそうも付け加えた。

 あの頃。

 千華子は、退職をすることが一番良い方法だと思っていた。

 自分の病気のこと、復帰のこと、そして周りのこと……色々考えて、周りの人達や、プロと言われる人達にも相談して。

 そして、「教師を辞める」ということが一番だと、そう結論を出したのだ。

 その結論は、今でも正しかったと千華子は思っている。

 あのまま教師を続けていたら、自分は確実に死んでいた。

 だけど。

 その結論の裏で、両親がそんなことを考えていたとは、思いもしなかった。

『まあ、今さら気にしないで良いと思うよ。ちぃちゃんは教師を辞めても、ちゃんとやっているしね。……ただ、今回のことは、父さん達も死ぬほど心配しているから』

「みぃ……」

 慰めるような妹の言葉に、千華子は返す言葉がなかった。

『とりあえず、連絡はちゃんとしてよ!』

「わかった」

 今は、念押すような妹の言葉に、頷くことしかできない。

 じゃあね、と言う言葉で通話は切れた。

 千華子は携帯をテーブルの上にコロンと置くと、軽くため息を吐く。

 今の「家族」と「千華子」を繋いでいるのは、実華子だ。

 妹は、「両親」と「千華子」のどちらも味方せずに、中立の立場を貫いている。 それが、彼女なりの家族へのスタンスだと千華子は思っていたが、それだけではなかったのかもしれなかった。

  三年という時間が、短いのか長いのか、千華子にはわからない。

 ただ、父や母に言われた言葉が、この三年頭から消えることはなかった。

 考えて、考えて、悩んで悩んで出した結論を、自分達の矜持―ようは、世間体の考えで否定されたのだ。

 千華子は、教師を辞めたことで、自分の人生が終わるとは思いたくなかったし、終わらせるつもりもなかったのに。

 ただ、それでも。

―ほら、千華子。おやつを作るよ。ニンジンケーキを作ろう。

―学校の先生になりたいのか。じゃあ、大学に行かないとな。

 確かな愛情(もの)は、与えられていた。

 それだけは、確かな事実(こと)だった。

 ピーンポーン

 と、その時だった。

 インターフォンの音が聞こえた。

 携帯の画面を見ると、もう夕方の六時半を過ぎていた。

 愛育園の仕事を終えて、実華子と携帯で話していたから、それぐらいの時刻にはなるだろう。

 なのに、来客を告げるインターフォンの画面に映ったのは、「はーちゃん」だった。

 いくら夏場で日が長いとは言え、幼い子どもが外に出て良い時間ではない。

『お姉ちゃんいる?』

 千華子は返事をしないまま、テーブルの携帯に手を伸ばした。

 そうして、インターフォンの画面に映った「はーちゃん」の姿を、携帯のカメラで撮影する。

 安易に、手を伸ばすべきでないことは、わかっている。

 だけど、「何もできない」と思い込んで、本当に「何もしない」ことを選ぶこともできなかった。

 だから千華子は、とにかく、「通報する」ことにした。

 マンスリーマンションにいる、幼稚園ぐらいの女の子。

 周りの人達に、食べ物を強請り、何ら関係のない千華子の所に遊びに来る。

 これだけでも、十分に「はーちゃん」のいる環境はおかしいことがわかるだろう。

 だけど、「通報」してもすぐに効果はないだろう、ということもある程度予想している。

 でも、相談する場所は、何も一つでなくて良いのだ。

 加藤は「通報も考えてみる」と言っていたが、別に警察関係は、加藤だけではない。

 この近くにも交番はあるだろう。

 そこに行けば、十分「通報」したことになる。

 それに、千華子の仕事場には、正真正銘の「児童相談所」の職員が来るのだ。

 だから、烏丸に相談することも、もちろんするつもりだった。

 この際、烏丸の正体は関係なかった。烏丸が「児童相談所の職員」と名乗っている以上、「虐待児の通報」は、彼にとっては仕事の一つのはずだ。

 そして、光村も言っていた、管理会社の通報も、するつもりでいた。

 幸いにして、「はーちゃん」のいる部屋は入っていくところを見ていたので、部屋番号もわかる。

 この手のマンションの管理会社は、たいていホームページを持っているから、公開されているアドレスに、「はーちゃん」の写真を添付して送ることにしたのだ。

 パシャという音がして、携帯の画面に「はーちゃん」の写真が映し出される。

 千華子はそれを確認すると、インターフォンの電源を切って、パタンと携帯を閉じた。

 そして、今度はぱかっと仕事用のパソコンを広げる。

 ワードを起動させると、千華子は今日の日付をまず打ち込んだ。

 次に携帯で今の時刻を確認して、それを打ち込む。

 その次には、「はーちゃん」の着ている服や身なりを打ち込むために、携帯の画面で、もう一度撮った写真を呼び出した。

 そうして、改めて「はーちゃん」の姿をじっと見る。

 初めて会った時と、同じ服を着ているような気がした。

 つまり、「はーちゃん」はこの三日間ずっと同じ服を着ている、ということになる。

 ドンドンドン!

 と、その時だった。

 玄関のドアが、乱暴に叩かれる音が聞こえた。

「お姉ちゃん開けてよ!」


『うるさい』

 

 すると、引越し用の段ボールの中にあるはずの、ナツ用の小型パソコンが、いきなり仕事用パソコンの隣に現われて、画面にそんな言葉を打ち出した。

「どうしたの、いきなり」

 千華子は、目を丸くしてそう言った。

 ナツがそんなことを言うことは、今まであまりなかった。

 殺された「かあくん」のために水を千華子に頼んだりしていたし、新見じゅえるの時にも、悪口等は言ったりしていなかった。(「おねえちゃんをいじめた人なのに」ぐらいは言っていたが)

 それに対して、


『ばか』


 と、四十八ポイント、ゴシック体で言葉が打ち出された。

「ナツ……?」

千華子は困惑気味に、ナツの名を呼ぶ。

だが、ナツ用のパソコンの画面は、いきなり黒くなってしまった。

 どうやら、強制終了をしたらしい。

「えーと、強制終了すると、パソコンが壊れるんだけど……」

 自分でもそれ何かずれてないか、と思う言葉を言う千華子に、後ろの人達も同感なのか、微妙な雰囲気を後ろの方から感じた。

「すいません、何とかなりませんか」

 思わず後ろを振り向いてそう言ってみるが、返って来たのは、「ごめん、力になれなくて」と言っているような「感じ」だけだった。


―これ、坊!

 「みはる」が怒ったような声で自分を呼ぶけれど、じっとしていることはできなかった。

 ぱっと「おねえちゃん」がいる部屋を出て行く。すると、「おねえちゃん」の部屋の前に、女の子が立っていた。

「お姉ちゃん開けてよ!」

 どんどんとドアを叩きながら、大きな声でそう言っていた。

 だけど、「おねえちゃん」はドアを開けることはしなかった。

 この女の子のことは心配しているけれど、「おねえちゃん」は、家の中に入れてあげることはしない。

 すると女の子は、今度はガンガンと、ドアを蹴り出した。

 だけど、やっぱり「おねえちゃん」はドアを開けなかった。

 女の子は、

「開けてよぉ……」

 とうとう泣き出してしまった。

 でもやっぱりドアは開かなくて、女の子はしばらく泣きながら開かないドアを見ていたけれど、やがて泣き止まないまま、歩き出した。

 「おねえちゃん」と初めてお仕事場に行った日と同じように、はしっこのお部屋に戻って行く。

 その後を、自分は着いて行った。どうしてなのかは、わからない。「

 おねえちゃん」と同じように、無視をすれば良かったのに、何故かそうしてしまったのだ。

―坊?

 後を追いかけて来てくれたらしい「みはる」の声がしたけれど、自分は女の子の後を追って行った。

 ギィと玄関のドアを開けて、女の子がお部屋の中に入って行く。

「ママ……?」

 そのお部屋は、真っ暗だった。そうして、たくさんのお弁当の空とか、お菓子の袋とか、他にも色々なものが下に落ちていた。

「ママ、いないの?」

 そしてそのお部屋には、女の子以外の人はいないみたいだった。

「ママ……」

 女の子は、たくさんの物が落ちている床に座って、泣き出した。

 「おねえちゃん」のお部屋も、「おねえちゃん」一人だけしかいないけれど、下にたくさんの物は落ちていない。

「ママ……ママ……!」

 暗いお部屋の中で。女の子は「ママ」とい言いながら、泣いていた。

 「ママ」。

 その言葉の意味は、知っていた。

 「おかあさん」のことを、「ママ」と言う人もいる。

 「おねえちゃん」に憑いた「かあくん」も、「おねえちゃんのおしえご」の人も、「おかあさん」のことを、「ママ」と呼んでいた。

 だけど。

「なっくん……なっくん……!」

 次に「女の子」が言った「なまえ」は。

 どこかで、聞いたことがあるような気がした。

 自分の名前は、「ナツ」。

 それしか、自分は覚えていない。

 だから「おねえちゃん」は、自分のこと「ナツ」と呼ぶ。

 「おねえちゃん」の後ろにいる人達は、「坊」とか、「坊主」とかと呼ぶ。

 誰も「なっくん」なんて呼んでいない。

 だけど。

 そうーだけど。

 それは、前にも聞いたことがある呼ばれ方だった。

『ママ、ママ、助けて!』

 ぐわんっと何か頭を叩かれたような気がした。

 頭が痛い。とても、痛い。痛くて、息ができない。苦しい、苦しい、とても苦しい。

―坊!?

 「みはる」の声が聞こえた。

 だけど、自分はお返事をすることはできなかった。

 苦しくて、苦しくて、たまらなかった。

―助け……

 伸ばした手は、届かなかった。

 助けて欲しかった。

 まだ、死にたくなかったから。

 なのに、伸ばした手を、握り返してはくれなかった。

 おねえちゃん!

「ナツ!?」

 その瞬間。

 ふわりと、何か温かいものを感じた。


 その瞬間。

 何故か千華子は、ナツの名を呼んで立ち上がった。

 パソコンを立ち上げつつ、レイキヒーリングの仕事をしていた時だった。

 明日は初めての泊まりの仕事だから、明日の分までのレイキを先に送って、送った時の感想も、フリーメールに書いて保存する作業をしていたのだ。

()が(・)あった(・・・)の(・)?」

 そうして、自分の誰もいないはずの空間を振り返る。当然、そこには誰もいない。

 だが、千華子にはうっすらと人が動く気配が感じられた。

 ゆらりと人影が揺れたような気がした。

―大丈夫だから。

 その人影が誰なのかは、()の(・)千華子にはわからない。

 ただ、その「声」は、女の子のような気がした。

「……お姉ちゃん?」

 知らず、千華子はそう呟いた。

 どうして、そう思ったのかはわからない。

 千華子には、「姉」はいない。

 だけど、確かにその声は、「姉」のものだった。

 と、その時だった。

 一瞬だけ、透き通った繭のような物に包まれて、丸くなって眠る子どもの姿が見えたような気がした。

「ナツ!?」

―眠っているだけ。大丈夫だから。

 そうして、また、そんな「声」が聞こえた。

 まるで、千華子を労わるように囁かれる声だった。


 次の日。

「ナツ?」

 朝、出勤の支度を終えた千華子は、ナツ用のパソコンをテーブルの上に置いて、呼びかけてみた。

 だが、小型パソコンは真っ暗なままで、何の文字も打ち出されはしない。

「やっぱり駄目か……」

 それを見て、千華子は小さくため息を吐いた。

 昨日。何故か、ナツに何かあったような気がした。

 咄嗟にナツの名を呼んだものの、霊感がない千華子には、何があったのかもわからない。

 ただ、その直後に「大丈夫だから」という言葉が聞こえて、白い透明な膜に包まれて眠るナツの姿が、一瞬だけ見えたような気がしたのだ。

 あれは、多分自分の後ろにいる幽霊達の一人だ。

 だから多分、ナツはその言葉通り大丈夫なのだろう、とは思う。

 だが、やはり霊感のない千華子には、ナツがどんな様子なのかイマイチ掴めずにいる。だから、気になってしまうのだ。

 そうして。

 後、千華子には一つ気になることがあった。

 それはあの「声」が聞こえた時、自分が無意識に呟いた、「お姉ちゃん」という言葉だった。

 千華子には、「姉」はいない。

 そんな話は母からも、父からも聞いたことがなかった。

 だから、昨日あの「お姉ちゃん……?」という言葉を呟くまで、自分に姉がいるとは、考えもしなかったのだ。

 だけど。千華子が知らなかっただけで、千華子が生まれる前に、もしかしたら、亡くした子どもがいたのかもしれない。

 千華子は、考えもしなかったけれど、父や母は、そんな哀しみを抱えていたのかもしれないのだ。

「……」

 ナツ用のパソコンをパタンと閉じながら、壁に掛かった時計を見ると、もう出かけなければいけない時刻だった。

「ごめん、ナツのこと頼むね」

 千華子は、お泊り用の荷物が入ったリュックを肩にかけると、そう言って、自分の後ろを振り返って呟いた。

 もちろん、返ってくる言葉はない。

 だけど、何となく、「大丈夫」と言われたような気がした。

 外に出ると、カッと夏の強い日差しが目に入った。

 千華子は、その日差しの強さに一瞬目を閉じる。

ミーンミンミンミン

ミーンミンミンミン

 すると、響くように蝉の鳴き声が聞こえた。

 今日も暑くなるのだろう。

 そうしてふと、千華子は視線を自分の部屋とは反対側にある、「はーちゃん」の部屋の方に向けた。

 同じドアが並んだマンスリーマンションの廊下には、人の気配はない。

 もしかしたら、「はーちゃん」は、あのコンビニに行って、また客に何か買ってくれるようにねだっているのかもしれない。

 昨日のうちに、このマンスリーマンションを管理している不動産会社には、メールで連絡しておいた。

 ネグレクトを受けている可能性がある、子どもがいる、と。

 だが、それがどれだけの効果があるのか。

 明日夜勤が明けたら、交番にも行こうと思って、泊まりの荷物の中には、「はーちゃん」を撮影した写真と、昨日ワードでまとめた「はーちゃん」を見た時の記録を、ファイルにまとめて入れていた。

 とにかく、できるとは全てしておこうと、千華子がそう思いながら駐輪場へと歩き出した時だった。

バアッパアッ―!

 と、自動車のサイレンの音が聞こえた。

 音のした方を見ると、

「こんにちは、瓜生さん」

 駐車場の出入り口に止まった白い軽自動車から、烏丸が顔を出して挨拶して来た。

「烏丸さん、どうしたんですか?」

 千華子は、驚いて目を丸くした。

「ここに住んでいらっしゃると聞いて。私もこの近くなんですよ」

 そう言いながら、烏丸は指で助手席を示した。

「乗ってください。送りますよ」

 そうして、思ってもいないことを言われた。

「はあ?」

 千華子は、思わずそんな声を出してしまう。

「仕事行かれるんでしょう? 私も愛育園に用事がありますから、送りますよ」

 けげんな顔をした千華子に、笑いながら烏丸は言った。

 だが、千華子にしてみれば、それは「不審」以外の何者でもなかった。

 だから「帰りも自転車を使うので」と、断ろうと思った。

 が、しかし。

 この男に「はーちゃん」のことを相談しよう、と考えていたことを思い出す。

 「お話したいこともありますので、それじゃあよろしくお願いします」

 千華子はぺこりと頭を下げて、烏丸の車に近寄った。

 烏丸の表情が一瞬、何か鋭いものになったような気もしたが、構わずに車に乗り込む。

「何ですか、お話したいことって?」

 車を方向変換しながら、烏丸が聞いた。

「多分……同じマンションの子が、ネグレクトを受けています」

「ネグレクト?」

「ええ。五歳ぐらいの女の子で、自分のことは『はーちゃん』と言っています。近所のコンビニのお客におやつを買ってもらうようにねだったり、私のところにも、よく『遊ぼう』と行って来たりしているんです」

 車を運転する烏丸を見ながら、千華子は言った。

「何か証拠はありますか?」

 烏丸は、まっすぐに視線を前に向けたまま言った。

「記録は取りました。インターフォン越しですが、携帯で写真も撮っています」

「随分、ぬかりないですね」

「そうですか?」

 千華子は、烏丸の言葉にそう聞き返した。

 記録をしっかり取るようにしたのは、昔取った杵柄だ。

 労災申請の時に、弁護士にとにかく「記録」をしっかり取るように言われて、思い出しながら書いていた経験から、できるだけ時間が経たないうちに記録をまとめたのだ。

「その記録、見せてもらえますか?」

 運転中ではないのかと思ったが、とりあえず、千華子は持っていた泊まり用の荷物の中から、クリアファイルに入れた記録と写真を取り出した。

 ちょうど信号が赤だったようで、車を止めた烏丸は、千華子が手に持っていたクリアファイルを、前を見ながら取り上げた。

 そうして、クリアファイルから見える記録の部分をちらっと見ると、

「随分としっかり記録されていますね」

と言った。

「そうですか?」

 時系列順に、できるだけくわしく、でも長くはならないように書いたつもりである。

「この手の記録を書かれたご経験があるんですか?」

「今は、ネットでも色々調べられますから」

 烏丸の言葉通りだったが、千華子はそう言って誤魔化した。

 だが、嘘ではなかった。一応ネットで、記録の書き方は再度確認したのだ。

 この手の記録を書く時は、まず日付と一緒に、その日の天気と時事のニュースを書いて、事実のみだけを記入する。

 そこに、「主観」はできるだけ入れないようにしなければならない。

「なるほど……」

 烏丸は、ファイルを車のドアポケットに入れると、信号が変わったのか、ハンドルを握り締めて、車を動かし始めた。

「そういうことに、しておきましょうか」

「すいませんが、よろしくお願いします」

 その言いように引っかかるものはあったが、千華子は頭を下げた。

 とにかく、今は「はーちゃん」のことが、何とかなる方が先だった。

 ネグレクトを受けているならば、対応は早い方がいい。

「何故、そこまで気にかけるんです?」

 ふいに、そう烏丸が尋ねてきた。

「えっ?」

「どうして、見ず知らずの子どもにそこまで気にかけるんです?」

「児童相談所の方だって、そうじゃないんですか」

 運転をする烏丸の横顔を見ながら、千華子は言った。

「色んな子ども達を気にされて、仕事をしていらっしゃるでしょう?」

「それは、仕事だからです」

 だが、千華子の言葉を遮る様に、烏丸は言った。

「……できることを、したいなと思っただけです」

「できること?」

「その子、毎日私の部屋に来るんです。コンビニのお客さんにもお菓子をねだっていて、迷惑になっています。このまま、それを続けられても正直、迷惑なんです」

 それは、千華子の本心だった。

 毎日尋ねて来られても、千華子は自分の部屋に入れるつもりはなかった。

 結局、あの「はーちゃん」が欲しいのは、母親―自分の両親からの愛情なのだ。 千華子が与えられるものは、何もない。

 そう……何もないのだ。

 千華子が何を与えても、それは、「はーちゃん」の寂しさを埋めることにはできない。

 新見じゅえるが、結局は母親の愛情欲しさから、千華子を糾弾する母親の言葉に頷いたように。

「……それは、前のお仕事からのご経験からですか?」

 一瞬。

 烏丸の言葉に、千華子は教員だった頃のことを言っているのかと思った。

 だが、この男が知っているのは、ファーストフードで働いていたことである。

「後悔は、したくないんです」

 だから千華子は、そう答えた。

 この男が、何者かはわからない。

 「児童相談所の職員」という肩書きを()は(・)持っているけれど、本当は違う職種の人間なのかもしれない。

「無駄になるかもしれませんよ」

「その時は、その時です」

「偽善とは思わないんですか?」

「そこまでのことはしていませんよ」

 どこか問い詰めるような烏丸の言葉に、千華子が苦笑しながら答えると、烏丸は、それからは何も言わなかった。

 黙って前を見て運転していたので、千華子はそんな男の様子を横目で見ながら、この人は何者なんだろう、と思った。

 幽霊のナツには「お顔がない」ように見え、以前確かに千華子と会ったことがあるのに、初対面のふりをする。本当に、わけのわからない男だった。

「着きましたよ」

 そんなことを考えていたら、いつのまにか「若葉の家」に着いたらしい。

「あ、ありがとうございました」

 千華子はお礼を言って、助手席から降りようとした。

 と、その時だった。

「あんた……何者だ?」

 ポツリと前を向いたまま、烏丸は呟いた。

「ただの……そこらへんに転がっている一般人ですけど」

 思わずそう答えたら、烏丸は、それ以上は何も言わなかった。

 千華子にしてみれば。

 お前に言われたくない、という心境だった。


「烏丸さんと何かあったの?」

 それは、夕飯の準備をする時刻になった頃だった。

 子ども達の洗濯物をテレビのある部屋で並べていた時、部屋を覗き込んで来た光村に、そう尋ねられた。

「はい?」

 千華子は思わず、テレビの前に洗濯物を並べていた手を止めて、振り向いた。

「ここに送ってはもらいましたけど……」

「それは、知っているわよ。そうじゃなくて、何かあったの?」

「ああ。光村さんにも相談した子のことを、烏丸さんにも相談しました」

「それだけ?」

 あっさりとそう言った千華子に、光村はけげんそうに尋ねて来る。

「はい」

 だが、千華子にはそれ以上言いようがなかった。

「そう……」

 千華子の言葉に、光村は何かを考え込むような顔をした。

「あの……光村さん?」

「ああ、ごめんなさい。何でもないの。それよりも、夕飯に必要な物買い忘れていたから、ちょっと店まで行って来るわね。お留守番、お願いできる?」

「あ、はい」

 千華子は、光村の言葉に頷いた。けげんに思ったが、光村が「何でもない」といった以上、聞くことはできなかった。

「すぐに帰って来るから」

 そんな千華子を見て、光村は廊下を通り過ぎて行った。

 光村の様子は気に掛かったが、とりあえず、千華子は洗濯物をテレビの前に並べた。

 小学生までの洗濯物は職員がすることになっていて、中学生や高校生は自分ですることになっている。

 時々、どう見ても部活動のユニフォームだなと思う物が混じっている時もあるが、そういう物は洗って干しはするが、たたまないように光村には言われていた。

 「自分のことは自分で」というのが、この「愛育園 若草の家」の基本方針なのだ。

 普通の親と一緒に暮らしていたら、洗濯や掃除はしなくてもよいかもしれないが、ここではそうはいかない。

 千華子が中学生だった頃は、自分の洗濯物は母親まかせだった。

 取り込んでたたむぐらいはしていたが、それも母親に言われて、渋々といった感じでやっていた。

 部屋の掃除も、高校生になったらさすがに自分でやるようになったが中学までは母親がやってくれていた。

 そういったことをあの頃は当然のことのように思っていたが、母が仕事の合間をぬって家事をやってくれていたから、千華子は毎日清潔な服を着て、清潔な部屋で過ごすことができていたのだ。

  だがこの「若草の家」にいる子ども達は、「親」と一緒にいても、千華子が「当たり前」だと思っていたことは、与えられていなかった。

「千華ちゃん、芽衣ちゃんテレビ見たい」

 千華子が洗濯物を並べていると、芽衣が入口から顔を出して言った。

「あ、いいわよ。洗濯物を蹴らないようにしてね」

 この芽衣の母親は、シングルマザーで芽衣を生んだ。だが、芽衣以外にも後二人子どもがいて、今は四人目の子どもを妊娠中らしい。

 全員父親が違う兄妹で、芽衣の兄と姉も違う施設に預けられている。母親は全く面会に来ないと、記録には書いてあった。

「ねえ、お腹空いた。ご飯まだ?」

 芽衣が「見たい」という番組のチャンネルに合わせていると、篤が部屋に入って来ながらそう言った。小学六年生の食べ盛りには、すきっ腹はつらいのだろう。

 この篤は、高校一年生の愛理とは姉弟で、母子家庭だった。最初は母親が病気をしたので、入院している間「若草の家」で預かる、いわゆるショートステイのはずだったのだが、退院後、母親は男と失踪してしまったらしい。

「ちょっと待ってね。今、香ちゃんがちょっとお買い物に行っているから。待っている間に、洗濯物持って行って」

 千華子はそう言って、篤の洗濯物を指差した。

「後で持っていく」

「駄目。今、持って行って。もうすぐご飯だし、夜は篤君達もテレビ見るじゃない。邪魔になるでしょう?」

「うるさいババアだなっ。わかったよ!」

 篤はめんどくさそうにそう言って、畳んである自分の洗濯物を持ち上げた。

 この手の会話も、普通の家庭だったら、よくあることなのかもしれない。

 だけど、篤はこんな会話は、おそらく母親とはしていない。

 ショートステイでこの「若草の家」に来たのは、幼稚園の時だった。

 姉の愛理にしても、もし母親の元にいたら、家庭のいざこざで高校受験どころではなかったかもしれない。

 ここにいる子達は、「親と一緒にいる」よりは、この「愛育園 若草の家」にいる方が、まだマシなのだ。

 だが、「親」から引き離された子ども達の気持ちは、単純ではない。

 そんなことを考えながら、千華子が洗濯物を並べ終えて立ち上がった時だった。

 ガラガラガッシャーン!

 二階から、何かが勢いよく倒れる音が聞こえた。

「うるせえんだよっっ!」

「勝手に使うなっっっっ」

 それと同時に、篤と悠馬の怒鳴りあう声が響いてくる。

「どうしたのー?」

 千華子は慌てて部屋を飛び出し、階段を駆け上がった。

 二階は二部屋あり、階段を入ってすぐが悠馬と篤の部屋、その奥の方にある部屋が、愛理と幸恵の部屋だった。

 声は、悠馬と篤が使っている部屋から聞こえてきていた。

 一階の部屋と違って、二階の部屋は開閉のドアになっている。

 千華子は悠馬と篤の部屋のドアを、がちゃりと開けた。

「入ってくんなよ、この馬鹿!」

 入ってくるなり、そんな罵声を浴びせられた。

「そういうわけには、いかないでしょう」

 実際、部屋の中はぐちゃぐちゃだった。

 篤が投げつけたのか、洗濯物が散らばっている。

「出て行けよ!」

「どうしてこうなったの?」

 怒鳴りつける悠馬を無視して、千華子は篤に話しかけた。

「こいつが俺のDS勝手に触ってたんだよ!」

「ちょっと貸してもらってただけじゃないかっっ」

 自分を指で刺して叫ぶ篤に、悠馬はそう叫び返した。

「勝手に借りたの?」

「見てただけだよ!」

「嘘付け! 勝手にプレイしてたじゃないかっっっ!」

「ちょっとぐらい良いんじゃないかっっっ!」

「それは、悠馬君が悪いよ」

 怒鳴り合う二人に割って入るために、千華子はそう言葉を発した。

「このあいだ、芽衣さんがあなたのDS触ろうとしたら、すごく怒ってたじゃない。自分がされたら怒ったのに、どうして他の人の物を触るの? それは、おかしいよ」

「そうだ、泥棒なんだぞっっ」

 千華子は、間違ったことを言ったつもりはなかった。

 子どもは、基本的に自分に甘くて、他人には厳しい。

 自分の物には触れられたくない。

 だけど、自分が触れたかったら、他人の物には触れる。

 だからこそ、それが「いけないことなんだ」と、何回も確認しなければならないのだ。

 ただ。

 後から思えば、この時の悠馬にも、それは十分わかっていたことなのだろう。

 けれど、どうしても「やってみたい」と思ってしまったのだ。

 そうして、それが篤にばれてしまって、責められて。

 何とか気まずさを誤魔化そうとして、怒鳴りあっていたところに、()華子(とな)が来て、また責められて。

 悠馬としては、「責められること」に対して、敏感になってしまったのだろう。

 だから。爆発してしまったのだ。

「うわぁぁぁぁ!」

 そう叫び、千華子や篤に散らばった洗濯物を投げつけ始めた。

「ちょっ、悠馬君!」

「止めろよ、馬鹿!」

「うるせぇうるせぇうるせぇっっっっっ」

 手を振り回し、床に散らばった洗濯物以外にも、鉛筆や玩具を千華子と篤に投げ付ける。

 これは危険だから止めさせないと、と千華子が投げ付けられる物を手で庇いながら、悠馬に近づこうとした時だった。

「やかましいっっっっ!」

 ばあんと部屋のドアが開いて、つかつかと、篤の姉である愛理が入って来た。

 そうして、悠馬が物を投げているのにもかかわらず、悠馬の後ろに回り、ごんっと拳骨で彼の頭を叩いた。

「な、愛理さん!?」

「うるさいのよ、いい加減にしてくれない!? あんたは何時だってそうやって暴れるけど、うんざりなのよ! あんたは暴れれば周りが言うことを聞くと思っているかもしれないけれど、世の中、あんた中心に回っているんじゃないのよっっっ!」

 愛理は、殴られた頭を抱える悠馬の襟首を掴み上げ、ゆさゆさと揺らしながらそう叫んだ。

「痛いよ、痛いよ、愛理ちゃんがぶった~!」

「愛理さん、もう止めなさい!」

「ふざけないでよっ! 勝手に人の物取って使っていたくせに、勝手にぶち切れて、部屋メチャメチャにして、散らかしてっっっ。もう、本当に嫌になってくるわっっっ」

 千華子は、泣き叫ぶ悠馬に怒鳴り続ける愛理を止めようとしたが、愛理は、言葉を続けた。

 それは、愛理の溜めに溜めていた思いが爆発したようにも見えた。

「いいかげんにして欲しいわよ! どうしてあんたみたいな奴と一緒に住まないといけないのよっっっ。毎日毎日、気に入らないことがあったら叫んで! 怒って物投げて、倒してっっっ。うるさいのよ!!」

「うるさい、うるさい、うるさいっっっ!」

 愛理の言葉をかき消すように、悠馬は叫んだ。

「俺はお家に帰るもんっ! もうすぐ帰るもんっっっっっ。愛理ちゃん達とは違うっっ」

 泣きじゃくりながら、悠馬はそう言った。

「愛理さん、もういいから」

 もう一度、千華子がそう言って愛理を止めようとした時だった。

「何言っているの? あんたが、家に帰れるわけないじゃない! あんたの母親は、あんたが家に戻るの嫌がっているのにっっ」

 愛理は、とんでもない爆弾を落としてくれた。

「愛理さん!?」

「あんたが帰って来れば、落ち着いて生活できないってさ! そりゃそうだよね、気に入らないことがあったら、泣き喚いて暴れて、物投げて!! 私があんたの母親でも帰って来て欲しくないわよ!」

「嘘だ……」

 泣いていた悠馬は、愛理の言葉に、呆然となって呟いた。

 信じられないような表情で、愛理を見上げている。

「嘘じゃないわよっ。私、圭君から聞いたもの。あんたの母親が、『あの子が帰って来たら、安心して暮らせなくなる!』って言って、引取り拒否しているってこと! 圭君も笑いながら言っていたわ。あんたみたいなキチガイがいな子、自宅に帰れるわけないってっっっっ」

「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だうそだああああああああああああ」

 愛理の言葉を遮るように、悠馬は叫びながら立ち上がった。

「あんたみたいなキチガイ、実の母親だって引き取りたくないわよ」

 そんな悠馬の様子を見て、勝ち誇ったような表情で、愛理は言った。

「嘘だあああああああああああああああああああああああああ」

 悠馬は絶望した表情で、顔を歪めて部屋を飛び出した。

 「悠馬君!」

 悠馬はそのまま、ドンドンドンと、荒い足音を立てながら階段を降りて行った。千華子は慌てて後を追いかけようとしたが、

「私、謝らないからね」

 ポツリと呟かれた言葉に、愛理の方を振り返った。

「だって、そうでしょ? 全部本当のことだもの。悠馬は、自分が気に入らないことがあれば、怒鳴ったり暴れたりして、私達とても迷惑していたの。それなのに、あの子が私達にしたことは許されて、私が今したことは責められるの?」

「……悠馬君を、探してくるわ。もうすぐしたら光村さんが戻られるから、それまで皆をお願い」

 千華子は、愛理にそれだけ言うと部屋を飛び出して階段を駆け下りた。

 愛理の言うことも、一理あった。

 悠馬は、自分の言い分が通らないと、癇癪を起こして物を投げたり、泣き叫んだりして、何とか自分の言い分を通そうとしていた。

 それに、愛理は苛立ちを感じていたのだろう。

 だけど、やっぱり言って良いことと悪いことはある。

 いやそもそもの問題は、何故悠馬の母親が言ったことを、愛理が知っているのか、ということなのだ。

 だがそんなことは、後で考えることだった。

 千華子は下まで降りて、ぐるっと辺りを見回した。

 そうして、すぐにテレビのある部屋まで行くと、

「芽衣さん、悠馬君を知らない?」

 入口から部屋を覗き込んで、テレビを見ている芽衣に聞いた。

「芽衣ちゃん、知らないよー」

 テレビに夢中な芽衣は、テレビの画面を見たまま、そう答える。

「そう、ありがとう」

 一応、台所と職員用のロッカーが置いてある部屋、風呂場とトイレも見たが、悠馬の姿はなかった。

 千華子は玄関に行くと、たたきに置かれた靴を確認する。

 悠馬の物がないことを確認すると、ズボンのポケットから携帯を出しながら、自分の靴を履いた。

 登録したばかりの光村の携帯番号を呼び出すと、通話のボタンを押す。

『はい、光村です』

 ワンコールで、光村は携帯に出てくれた。

「光村さん、すいません。瓜生です」

『どうしたの、千華さん』

「悠馬君が、篤君とケンカして、外に飛び出して行きました。今、探しに行っています」

『悠馬君が? どうしてケンカしたの』

「篤君の3DSを勝手に触っていたみたいです。それで篤君とケンカしているところに、愛理さんが怒鳴り込んで来て、悠馬君に、悠馬君のお母さんが引き取り拒否していること、言っちゃったんですよ。それで、悠馬君は泣きながら外に出て行きました」

 手短に光村に話しながら、千華子は外に出る。玄関の周囲には、悠馬の姿は見当たらない。

『どうして愛理ちゃんがそのことを知っているの?』

「わからないです。愛理さんは、野間さんに聞いたって言ってましたけれど……」

 その点に付いては、千華子は言葉を濁した。

 はっきりとしたことがわからない以上、決め付けることはできないと判断したからだった。

 それに、今は、そのことを考える時ではない。

 電話の向こうの光村も、同じことを判断したのだろう。

『わかりました。すぐに戻ります。千華さんは、今、悠馬君を探しているの?』

「はい。家の周辺を探しています」

『じゃあ、そのまま家を中心にして探してみてください。場所を移動する場合は、連絡を必ずして。それから、携帯の電源は絶対切らないようにしてね』

「はい、わかりました」

 てきぱきと光村から出る指示に千華子は頷くと、携帯を切った。

 そうして、携帯をズボンのポケットの中に入れて、改めて周囲をぐるっと見回した。

 小学三年生の足では、そう遠くには行けないはずである。

 家を出てすぐのことを考えると、この周辺にいるはずなのだ。

 自転車で近所をまわってみようかとも思ったが、自転車という乗り物はスピードが出る分、周囲を見る余裕がなくなるかも知れないと考え直し、千華子は歩き出した。

 住宅街に「愛育園 若草の家」はあるので、周りは一軒家やアパートばかりだった。

 とりあえず、家の近くの周辺の家々を見て回る。

 不審に思われない程度に、家の庭先やアパートの様子を伺いながら、千華子は歩いた。百メートルほど歩いたところで、緑のフォルムを概観に持つコンビニがあることに気付いた。

 この道は、千華子が通勤に通る場所ではなかったので、あるのは知らなかった。

 もしかして、と思いコンビニの中に入ると、案の定、本を立ち読みしている悠馬の姿があった。

「悠馬君!」

 千華子が声をかけると、悠馬は読んでいた漫画の単行本らしきものを、千華子に投げ付けてきた。

「こっち来るな、このクソばばあっ!」

 千華子は、とっさに投げ付けられた本を手でキャッチした。

 その隙に、悠馬はコンビニの外へと出て行く。

「悠馬君!」

 千華子はキャッチした本を棚に戻すと、悠馬の後を追った。

 悠馬はコンビニの駐車場を走り抜け、道路へと飛び出た。

「待って、悠馬君!」

 その後ろ姿に、声をかけた時だった。

 千華子のすぐ横を、すごいスピードで車が通り過ぎた。

 そうして、千華子の前を走る悠馬の前に止まると、バンっと助手席のドアが開く。

「悠馬君!?」

 次の瞬間、悠馬はその車に飛び乗った。

 信じられないその光景に、千華子は目を丸くする。

 何故、悠馬がその車に飛び乗るのか。

 だが、混乱したのは一瞬だった。

 すぐさま、ナンバープレートを確認する。「八王子」と書かれた文字下、数字四桁だけは何とか見て取れた。

 そうして、コンビニの駐車場を振り返る。

 千華子は、一か八か、賭けてみることにした。


『悠馬君が、車に飛び乗った?』

 タクシーに乗って、携帯を開くと、千華子はまず光村に連絡をした。

 コンビニの駐車場に戻ると、運良く客を乗せていないタクシーが止まっていたのだ。

『どういうこと?』

 光村は千華子の話を聞くと、そう尋ねてきた。

「わかりません。悠馬君の知り合いに、車を持っているような人っているんですか?」

 タクシーの前を走る車に視線を向けたまま、千華子は言った。

 タクシーはすぐに走り出したおかげで、悠馬の乗った車には追いつくことができた。

 悠馬を乗せた車は、住宅地のあまり大きくない道路を、速いスピードで走っている。

『聞いたことないわ。あの子の身近で車を持っている大人なんて、私達かあの子の母親ぐらいよ』

 光村の答えは、もっともなものだった。

「あれ、多分無免許だよ」

 と、その時だった。

 タクシーの運転手が、車を運転しながらそう言った。

 千華子は、携帯を片手に持ったまま、運転席の方を見た。

「見てごらん、蛇行運転をしている」

 そうして、運転手の言葉に、座席の頭に手を置いて、座席の間からフロントガラスを見る。

 確かに、悠馬が乗った車はスピードを出しながらも、ふらふらとした走り方をしていた。

「慣れていない運転者に多いけれど、まったく乗ったことがない可能性もあるね」

「!」

『千華さん。その車のナンバープレートわかる?』

 その言葉が聞こえたのか、光村がそう尋ねてきた。

「わかります」

 千華子は、タクシーに乗る前に確認した、ナンバープレート番号を、光村に教えた。と、その時だった。

 悠馬が、後頭部座席の窓から、上半身を出し、千華子が乗ったタクシーに向かって、“ファック”のポーズをしてみせた。

「何だ、あの子は」

 不快気に運転手が呟くのを聞きながら、千華子は後頭部座席の窓から顔を出して、言った。

「悠馬君、降りなさいっ」

「嫌だね! 俺はお母さんの所に帰るんだ!! ひー君に連れて行ってもらうもんねっ!」

「知らない人についていっちゃ駄目よ!」

「ひー君は知らない人じゃねーよ、ばーか!」

 そう言うと、悠馬は車の中にまた顔を引っ込めた。

「あの子、あなたの知り合い?」

 運転手にそう聞かれ、千華子は頷いた。

「はい。仕事先での子で……」

「あんな頭のおかしい子を相手にするなんて、あなたも大変だなあ。あんな子は、児童養護施設にでも入れてもらって、治療してもらえばいいのに」

 どうも、児童養護施設を何かしらのものと勘違いしているらしい運転手は、そう言った後、

「ただ、悪いんだけど。うちも商売だから、事故とか起こされたりしたら、たまんないんだよね。このまま行くと、この辺では一番大きなショッピングセンターに出るんだ。そこまでにしてくれないかな」

と、言葉を続けた。

『千華さん、無理しないで。こちらでも手は打っているから』

 運転手の言葉が聞こえたのか、光村も電話越しにそう言ってきた。

「わかりました。すいませんが、そこのショッピングセンターまでお願いします」

 携帯を片手に、千華子は運転手に言った。

『千華さん、一旦通話は切るけれど、ショッピングセンターに着いたら、また電話ください』

「はい、了解です」

 そして、光村の言葉に頷くと、一旦携帯の通話を切る。

「どうも、前の車もショッピングセンターに行くつもりみたいだよ」

 運転手が、前を見ながら千華子に教えてくれた。

 見ると、ウィンカーも出さずに、悠馬が乗った車が、ショッピングセンターの駐車場らしい場所に入っていく。

 どうやら、裏道を通ってこのショッピングセンターに来たようだった。

「地元の子かもしれないね。この道からショッピングセンターまでの道を知っているのは、だいたい地元の人間だから」

 運転手の言葉に、千華子は携帯をズボンのポケットにしまいながら、何かしら、嫌な予感がしていた。

 新見じゅえるは、まだ中学生だったけれど、あの親が我が子の死を望むサイトを見て、殺人に手をかけた。

 今は、子どもかネットを見ることは日常的なことだ。

 何も、パソコンだけで見る必要はない。

 携帯だって、スマホだって、携帯用のゲームだって、ネットは見ることができる。

 戸口は、「プロバイダの判断でサイトは閉鎖された」と言っていたが、「閉鎖」されただけであって、当事者同士が連絡先を知っていれば、問題はない。

 今は、携帯番号を知らなくても、住所を知らなくても、本名すら知らなくても、連絡を取れる手段は幾らだってある。

「お客さん、駐車場の入口止めますか?」

 考え込む千華子に、運転手が声をかけてくる。

「お願いします」

 その言葉に頷きながら、千華子は今考えたことを、頭の中から追い払った。


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