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サイレント・ブルー  作者: kaku
8/15

8 孵化

 それは、伸ばされた手。「助けて」と。自分に、差し伸べられた手だった。


「証人……保護プログラム?」

 その言葉を聞いたとたん、千華子は目を見張った。

「はい。聞いたことはありますか?」

 千華子の問いかけに、目の前にいる初老の男―小倉が、頷いた。

 千華子が今いる場所は、県警の署長室だった。

 柚木の見舞いが終わり、病院から出て来た時に、県警から携帯に電話があり、呼び出されたのだ。

 千華子としては、あまり行くのに気が進まなかったが、襲われた当事者のすぐ側にいた人間としては、そうは言ってもいられない。

 だから午後からのバイトを、無理を言って休みにしてもらい、県警にまで出向いたのだ。

 正直、何故事件が起きた場所を管轄としている警察署ではゆく、県警なのか千華子も不思議だったが、「お手数ですか、県警の方まで来ていただけませんか?」言われた以上、警察の捜査については何も知らない千華子には、拒否することもできない。

 それに、新見じゅえるの母がどんな様子でいるのかも知っておきたかった。

 それもあってバスを乗り継いでわざわざ出向いた県警に来たのだが、県警の署長だと言う、小倉の話は千華子が思ってもいない類のものだった。

「どういう……ことですか?」

 千華子は、眉根を寄せながら小倉に尋ねた。

「ご存知ありませんか?」

「映画や漫画で、その言葉を見たり聞いたりしたことはあります」

 証人保護プログラムとは、事件の証人として裁判等で証言する人物を、保護することを目的としている。

 千華子が今まで映画や漫画で見たり読んだりしたのでは、どこかの教会に匿われたり、偽名を使って別人に成りすましたりしていた。

「でも、日本では適用されていませんよね?」

 千華子がそう尋ねると、

「お詳しいですね」

 小倉は、目を丸くした。

「でもそれと、私とどんな関係があるんですか?」

 しかし千華子はそれには構わず、真正面から切り込んでみる。

 千華子の真っ直ぐな問いかけに、小倉はすぐに真面目な顔になった。

「その証人保護プログラムを、あなたに受けて欲しいのです」

「え?」

「詳しいことは、私がご説明します」

 今度は千華子が小倉の言葉に目を丸くしていると、そう言いながら、署長室に男が入って来た。背広を着た、四十代ぐらいの男だ。

「警視庁から参りました。戸口(とぐち)と申します」

 戸口はソファに座っている千華子の傍まで来ると、ペコリと頭を下げる。

「あ、どうも」

 千華子も戸惑いつつも、ペコリと頭を下げた。

 でも、戸口の言葉に、引っかかりを感じた。

「警視庁の……方なんですか?」

「ええ」

 千華子の向かい側のソファに座りながら、戸口は頷いた。

「瓜生千華子さんですね」

 戸口は、そう言って千華子の名を呼んだ。

「私の名前を、ご存知なんですね」

 千華子は、戸口の目を見ながら言った。

「ええ。情報提供者として、存じ上げております」

 それに対して、あっさりと戸口は答えた。

「えっ?」

「あなたには、率直に申した方が良いようなので、説明しますが、あなたが発見して交番に通報してくださったサイトは、現在、重大な事件に関わっています」

 その言葉に、千華子は、はっとなった。

 そんな千華子に戸口は頷き、言葉を続ける。

「そう……あなたのバイト先で、熱中症で死んだ広川克実君。彼の母親は、実行犯である、小野(おの)(りゅう)(すけ)に克実君の殺害を依頼したのです。そしてあなたの教え子である新見じゅえるは、それとは逆に、殺された山上月人(ライト)君の母親から殺害を依頼され、実行した」

「……っ!」

 その瞬間。千華子は、ずきんっと、胸の痛みを感じた。

「そしてそれは、あなたが通報してくださったサイトを通して、取引されたものでした」

「えっ!?」

 しかし、続けられた言葉は、千華子が思ってもいないものだった。

……否。そうではない。どこかで、もしかしたら、とは思っていた。

 だが今それは、確かな現実となって、千華子の目の前に現れたのだ。

「あの……サイトがですか?」

「ええ。あれは、『我が子を殺してくれる者を探すサイト』として、十分機能していたんです」

「現在は、プロバイダーがサイトを閉鎖してくれましたが、それでも、このサイトを利用して起こったと思われる事件が、全国でも起こっているのです」

 戸口の言葉に補足するように、小倉も千華子に説明してくれる。

「そして、それらの事件の内、あなたの周りで起こった事件は二件。……我々は、あなたの身近にこのサイトの関係者がいるのではないか、と考えています」

 しかし、次に戸口が言った言葉は、千華子を驚愕させた。

「どういう……ことですか?」

「そのままの意味です。我々は、あなたの身近な人間が、このサイトの経営者ではないか、と考えているのです」

「何故ですか?」

「広川克実君の母親である、広川由香は、あなたのことを知っていました。しかし、あなたはご存知なかった」

 そうですよね?と確認するように言った戸口に、千華子は頷いた。

「それは、誰かが、あなたのことを彼女に教えたということです。それも、かなりの悪意を持って」

「悪意……?」

 だが千華子には、戸口の言うことがイマイチわからなかった。

「簡単に言えば、あなたを犯人にしようとしている可能性がある、ということです」

「!?」

 しかし、この言葉は、驚愕と言葉では言い表せないぐらいの衝撃を、千華子は受けた。

 もし言葉に「重さ」と言うものがあったならば、メガドン級レベルの衝撃度だった。

「考えられないかもしれませんが……人は、時として理不尽な理由で他人に恨みを抱くものなんです」

 そんな千華子に、戸口はそう言葉を続けた。

「あなたの元同僚を刺した、新見じゅえるさんの母親……新見(にいみ)佐智子(さちこ)容疑者も、自分の娘が死んだ後、自分の娘の担任であった教師達を、探偵を使って素行調査させていました。どう考えても、それはおかしい行動です。でも、新見容疑者にとって、それは『正義』だったのです。『自分の娘をおかしくした犯人』を探し出すために」

「……っ!」

 千華子は、ぎりっと唇を噛み締めた。

『先生にはわかりませんっ。私の気持ちなんて!』

 新見じゅえるの母親は、かつて担任だった千華子にそう叫んだ。

 新見じゅえるに、何とか特別支援を受けるようにできないかと、模索していた時期のことだった。

「例え御本人に心辺りがなくても、『恨み』を持たれる可能性は、十分に有り得るのです」

 戸口の言葉は、重く千華子の胸に響いた。

「それが……私に証人保護プログラムを受けて欲しい理由ですか?」

 千華子は、その胸の痛みを堪えるようにして、戸口に尋ねる。

「あのサイトのことは、もう単なる『イタズラ』では済まないところまで行っています」

「私があのサイトで見たチャットも……冗談ではないってことですか?」

「ええ。実際、あのサイトを通じて起こったと思われる子どもの殺害事件は、今わかっているだけでも、十件ほどあります」

「そんなに!?」

 事態は、千華子が思っているよりもはるかに凶悪になってきているようだった。

「あなたには、是非ともこの証人保護プログラムを受けてもらいたい―いや、受けてもらわねば、と我々は考えています。これ以上の犠牲者をださないためにも」

 戸口の隣に座る小倉も、そう言葉を重ねた。

「つまり……そのサイトを作った犯人は、私の身近にいて、私に恨みを持っている人物だと言うのですか?」

「その可能性は十分にある、ということです。もちろん、その人物のことを、あなたが知らない可能性も高いです」

 戸口の口調から、それが確かな現実(リアル)なんだと、千華子にも感じられた。

「私は、どうすればいいんですか?」

「我々の提案する証人保護プログラムを受けて、ひとまずその人物の前から消えていただきます」

「消える……? つまり身を隠すってことですか? ここでの生活を、全て放り投げて」

「そうです」

 千華子の問いに、戸口はきっぱりと頷いた。そこに誤魔化しなどは、存在しなかった。

「あなたにとっては、理不尽なことをお願いしています。ですが、是非引き受けて頂きたいのです。犠牲になった子ども達のためにも」

―おねえちゃん。

 鞄に入れたはずの携帯の鈴が、ちりんっと鳴ったような気がした。


『悪い話じゃない、とは思うわよ?』

 携帯越しの田村の声は、いつも通りだった。ただ、今回は千華子が正式に依頼した「鑑定」なので、あえてそうしているかもしれない。

「先生……」

 田村はいつも好意で千華子に助言をくれる。

 今回の件も相談すれば、何らかの助言をしてくれることはわかっていたが、自分の一大事なことだからこそ、千華子はきちんとお金を払って助言を受けたかった。

『千華ちゃんには前にも言ったけど、宿命って動かせないのよ』

「宿命……ですか?」

『私にも、その辺はよくわからないの。人の宿命って、とても複雑に折り合ってできているから。ただ、宿命だけは動かせない、ってことはわかるのよ。その宿命をどう乗り越えていくかは、その人次第だけどね』

「私が、証人保護プログラムを受けることは、宿命だってことですか?」

『そうね』

 千華子の言葉に、田村は頷いた。

『ただ、誤解しないで欲しいのは、その証人保護プログラムは、ただの「流れ」でしかないってことよ』

「流れ?」

『理由は何であれ、千華ちゃんが一度、離れる必要があるってことだと思うわよ。「教師」としての瓜生千華子からも、「今」の千華ちゃんからも』

「先生……」

『確かに、理不尽な状況じゃあるけれど、生活の保証はされているんでしょう?』

「はい。それは大丈夫だって、言っていました」

 お金の心配はしなくていい、と戸口は断言していた。

 確かにこのマンションを引き払うことにはなるが、証人保護プログラムを受けている間は、荷物を預かってくれる場所も紹介してくれ、代金も負担してくれるらしい。

「レイキの方も、居場所さえ明かさなければ、続けていいそうです」

 多分、この辺は捜査上の理由も絡んでいるのだろう。

 姿を消した千華子が、ネットでは「普通」に営業していることで、犯人を焦らすつもりなのかもしれない。

 だが、理由は何であれ、レイキヒーリングの仕事が続けられるのはありがたかった。

 長期ヒーリングのお客も多いので、途中で中断することは避けたかったのだ。

『それに多分、この「流れ」に乗れば、ナツ君のことも解決するような気がするのよ』

 そして、次の瞬間。

 千華子は田村のこの言葉に、背中をポン!と押されたような気がした。

「……それは、『宿命』なんですね?」

 千華子は、問うように田村に言った。

『そうね』

 それに、田村は頷いた。

「わかりました」

 その言葉に、千華子も頷いた。

「その『流れ』に、乗ってみます」

 そして、その瞬間。全てが、動き出したのだ。


「ごめんね、千華ちゃん」

「おねえちゃん」の「おともだち」は、そう言って頭を下げた。

「柚さんのせいじゃないですってば」

 そんな「おともだち」に、「おねえちゃん」は、そう言って笑う。

 「おねえちゃん」は、「おともだち」のことを、「ゆずさん」と呼んでいるようだった。

 二人が話しているのは、病院の前で、「おねえちゃん」は、「おともだち」が「たいいん」するから、と言ってこの病院に来たのだ。

「でも、私が余計なことしたから、千華ちゃんにまで迷惑をかけたようなものじゃない」

「私は、うれしかったですよ。柚さんと久しぶりに会えて」

 歩きながら、二人はそんなことをお話していた。

「おねえちゃん」が、「おともだち」に会えてうれしかったのは、本当だった。  「おねえちゃん」に酷いことをした人を「おともだち」は連れてきたけれど、「おねえちゃん」は、ちっとも怒っていなかった。

「今度は、私が会いに行きますから」

「千華ちゃん……」

 だけど、今の言葉は、半分嘘だった。

 「おねえちゃん」は、「おともだち」に会いたいと思っているけれど、「会いに行ける」とは思っていない。

 笑っていたけれど、そのお顔はどこか寂しそうに見えた。

―願掛けじゃ。

じっと、「おねえちゃん」を見ていると、「みはる」がそう言った。

―がんかけ?

―そうなるようにと、願いを込めて行なう呪いじゃ。

 そう言って、「みはる」は頭を撫でてくれる。

「じゃあ、柚さん」

 病院のタクシーがたくさん並んでいる場所に来ると、「おねえちゃん」はそう言った。

「うん。わざわざありがとうね」

 「おともだち」の方は、タクシーに乗ろうとしていた。

「駅まで送れなくてすいません」

「ううん。見送りに来てくれてありがとう。今度は、ゆっくり飲もうね」

「はい」

 「おともだち」の言葉に、「おねえちゃん」は、こくんと頷いた。

 それから、「おともだち」はタクシーに乗っていってしまった。

 「おねえちゃん」は、笑顔で手を振っていた。

 そうして、タクシーが見えなくなると、手を下ろして、ふう、と息を吐いた。

 だけどしばらくしたらお顔を上げて、歩き出した。

 「おねえちゃん」は、歩きながらバックから携帯電話を出した。

 携帯電話のボタンを押すと、耳に持っていく。

『ちいちゃん?』

―相手は、そなたの「守り人」のようじゃな。

 そんな「おねえちゃん」を見て、「ひな人形」の人が言った。

「うん。ごめんね、仕事中だった?」

『学校だけど、今日私日直だから大丈夫よ。どうしたの、めずらしいじゃない。何、お盆に帰る気になったの?』

 携帯から聞こえる声に、「ぬい」は少しだけ哀しそうな顔になった。

 そして、それは「おねえちゃん」も同じだった。

「ごめん、みぃ。お盆には、帰れなくなった……当分、帰れないかもしれない」

『どういうこと!?』

 とたんに、携帯電話から聞こえる声が、怖いものになる。

「警察の証人保護プログラムを受けることになったの。だから、引っ越すことになってね。今のところも、今日引き払うの」

『ちぃちゃん!?』

「警察からは、家族だけには知らせていいって許可もらっているから、一応連絡しとこうと思って」

『それって、何か事件に巻き込まれたってことじゃないっ!』

「まあ、そうなんだけど」

『何暢気に他人事のように言っているのっっっ』

その瞬間、とてもおっきな声が、携帯から聞こえた。

「み、みぃ……声、大きい……」

『誰が大きくさせてんのよっ! 全然連絡してこなくて、やっと連絡してきたと思ったら、何、証人保護プログラム!? どこのハリウッド映画よっ。日本じゃそんなものやってないわよっっっっ』

―さすがに聡いな。

 それを聞いて、感心したように「にんじゃ」の人が言った。

―当たり前のことば言いなすな。そぎゃんことより、実の姫さんが言わす通りたい。たいぎゃ不義理して、いきなりこぎゃん連絡だけんね。ほなこつ、不義理もええところばい。

「ごめん、みぃ」

 「ぬい」の声が「おねえちゃん」に聞こえるはずはないのに、携帯電話で話す「おねえちゃん」は、「ぬい」に謝っているみたいだった。

『謝ってないで、ちゃんと教えてよっ。いったい何があったのよっ!』

「……くわしいことは、メールでいい? ここじゃあ、さすがにちょっと話せなくて」

『じゃあ、今すぐメールしてっ!』

「えっ? ちょっと、みぃ」

『後でなんて聞かないからねっ。絶対にメールしてよ、今すぐっ!』

 そう言うと、携帯から声は聞こえなくなった。

「えーと……」

 「おねえちゃん」は、がしがしと頭を撫でていたけれど、短くため息を付くと、さっき出てきた病院へと戻って行く。

 そうして、病院の中に入ると、すぐ入った場所にある長い椅子に座って、携帯のボタンを打ち始めた。

―坊主。お前も、千の姫と共に行くのか?

 と、いきなり「みずち」がそんなことを言った。ぴっくりして「みずち」を見ると、

―お前にとっても、つらいことがあるやもしれん。お前だけでも、あの霊能者のところに残るか?

「みずち」は、そう言った。

―蛟、それは。

 「にんじゃ」の人が、少し戸惑うような感じで言う。

―理の姫が何をお考えか、我は知らぬ。ただ、この幼子が何も知らぬまま、巻き込まれるのは、理不尽と言うもの。

―まあ、それはそうじゃが……。

 「みずち」の言葉に、今度は「みはる」がそう言った。

―行くよ。

 でも、そう答えた。

―おねえちゃんと、一緒に行く。

 そう答えた。たとえ「ひめおねえちゃん」が行っちゃダメと言っても、「おねえちゃん」と一緒に行くつもりだった。

 「おねえちゃん」とは、離れちゃいけない。

 ずっと一緒にいなくちゃダメだと。

 そう思っていたから。


「あら」

 弱視の目を細め、田村は自分から少し離れた場所へと、視線を向けた。

 そこは万人が見たら何もない空間だが、田村の瞳には、一人の少女が立っているのが見える。

 その少女は、外見上は小学校の低学年ぐらいに見えるが、外見どおりでないことは、田村も良く知っていた。

「あなたが直々に来るのは、珍しいわね」

 田村は、その少女に声をかけた。

―今、大丈夫?

 田村には「聞こえる」その声は、やはりあどけない。

―あの子に付いて行きたいって人達がいるの。でも、今回はちょっと無理そうだから、どうにかして欲しいの。

 だが、言っていることは、やはりその年齢相応の者とは言い難かった。

 もっとも、彼女のような存在には、外見と実際の年齢は関係ない。

 自分の好きなように姿を変えられるし、この少女の霊も、死んでから二十年以上経っている。

 まして、「生まれて来なかった」状態で、「成長」している存在だから、ある意味通常の「霊達」よりも力があるのだ。

 昔、「七歳までは神の内」とは言っていたが、それはあながち迷信とは言えない。

 幼くして亡くなった者達は、その純粋さゆえに、その霊力は格段に強いのだ。

「あなたの説得では、上手く行かなかったの?」

―私じゃ、納得してくれない。「みはる」達のこともあるから。

 確かに、「みはる」は、この少女が「あの子」と呼ぶ千華子が、教員だった頃に「付いた」霊の一人だ。

 白い浴衣をまとう「みはる」は、元々、娼婦―遊女、と言われる者達の一人だった。

 死後も手放した子どもの姿を求め、長い間千華子が勤めていた学校にも留まっていたらしい。

 そこで明るく元気に働く千華子に惹かれ、最初は嫉妬で呪い殺そうとしていたらしいが、千華子が教員を退職に追い込まれても、休職していても、めげずに生きている姿を見ていて、いつの間にか、彼女を守護する存在の一人になってしまっていた。

―違う。

 だが、田村のその考えを断ち切るように、幼い声がした。

―それは、あの子の「力」。あの子の「力」が、三春を癒したの。だから、シロとクロもあの子の「守護」になったの。

「そうね」

 田村は、少女の言葉に微笑みながら頷いた。

 千華子には、本人にも気付いていない「力」がある。

 その大部分は、この少女達に封じられているが、それでも、類まれなヒーリング能力とリーディング能力があるのだ。

 そのヒーリング能力で、死に掛けていた飼育小屋のうさぎ達の心を癒し、それゆえに、そのうさぎ達は、千華子を守護する存在になったのだ。

 千華子がネットのレイキヒーラーとして、お客に困らないのは、何も「三年間やってきた積み重ね」が効いたのではない。

 通常であれば、ネットで、しかもレイキのみでお客が途切れずにやっていくのは難しい。

 たいした集客もせずに、口コミだけでお客が来るのは、そのヒーリング能力の高さゆえなのだ。

 幽霊達が集っていたあのマンションに住み、己が自覚しないまま幽霊達を浄化させていたことを考えても、そのヒーリング能力の高さは尋常ではない。

―だけど、これから行く先に、「あの人達」は連れて行けない。あの子に、そんな余裕はなくなるから。

「連れて行く気はないのね?」

―あの子に助けてもらうことしか考えていない人達だもの。連れて行く価値もないでしょう? 

 そう言って、にっこりと笑った。

「……わかったわ」

 田村は微苦笑を浮かべながら頷いた。

 少女は、生まれる前に亡くなった者が持つ、特有の残酷さを滲ませている。

 それは純粋がゆえに持つ、迷いのなさだ。

 彼女が守護する千華子であれば、そういった切捨て方は好まないだろう。

 だが、千華子が相手にするべきは「死人」ではない。

 まだ、生きている人間なのだ。

―ありがとう。

 少女は、ぺこりと頭を下げた。

 そして、その瞬間、少女の姿は消える。

 田村は、目を細めて少女がいた空間を見つめた。

 もちろん、現実の田村の目には、その空間がぽんやりと白く見えるだけだ。

 そして千華子の未来も、こんなふうに真っ白なのだ。

 どんな未来が待っているのか、田村にも、「視えない」のだ。

『どうして、その子にそこまで肩入れするのかね?』

 万が一の時に介入を頼んだ矢田の言葉を、田村は思い出した。

「……面白い、からよ」

 そして、その言葉に答えるように、小さく呟く。

 初めて出会った時から、千華子の未来は「視えなかった」

 今、こうして千華子が元気にアルバイトをしながらレイキヒーラーをしている姿も、そしてナツという幽霊が彼女の元に来ることも、田村には「視えなかった」のだ。

 今まで、そんな人物は、家族以外にいなかった。

 田村が望む望まないに関わらず、他人の「未来」は、田村の目に「視えて」しまう。

 全くの赤の他人で、「視えない」のは、千華子が初めてだったのだ。

 だから、千華子に「行く」ようにアドバイスはしたが、その未来(さき)にあるものは、実は田村にもわからない。

 ただ、まちがいなく運命の流れは、千華子に「旅立つ」ことを要求していた。

 それは動かしようのないもので、それゆえに田村は、「宿命よ」と千華子に告げたのだ。

 その「宿命」に、千華子がどのように立ち向かっていくのか。

 そのことに、田村はとても興味があった。

「あなた達も、そうじゃないの?」

 田村は、少女が置いていった者達を見つめた。

 うつろな表情をした者達が、田村を取り囲んでいる。

 少女に置いていかれてしまった者達は、自分達が救われなかったことに、絶望していた。

 どうして、と。何故に自分達は救ってもらえぬのか、と。

「救ってもらうという考え方がある以上、あなた達はまだあそこにいるべきね」

 そうして、田村がそう呟いた瞬間。

 周りにいた者達は、霧散した。

 それは、消えてしまったのではない。

 本来いた場所に、彼ら(・・)は(・)戻ったのだ。

 救ってもらおうと、旅立つ千華子に憑いて行ったが、確かに少女の言うとおり、あのマンションにいた者達まで意識を向ける余力は、千華子にはない。

 それに生きていようが死んでいようが、自分を救えるのは、自分しかいないのだ。

 それに気づいた時、人は前に進むことができる。

 他人にどうにかしてもらおうと思っている間は、どうにもならない。

「それは、私もなんだけどね」

 田村はそう呟くと、小さく笑った。


 東京までは、夜行バスで移動した。

 新幹線も考えたが、金銭的なものを優先したことと、引越しの後始末などのことも考えると、夜まで時間があった方が良いだろうと判断したからだった。

 けれど、こうして東京に着いた今、少しでも長くあの街にいたかったからだと、千華子は思う。

 三年。

 衝動的に静養していた実家を飛び出し、教員の仕事を退職して、荷物も借りていた家も整理して、あの街に降り立った。

 バイトをしながらレイキヒーリングをして、慎ましく暮らしていた。

 バイト仲間と食事に行ったりすることはあっても、あまり遊ぶことはなかった。

 ただ、それでも。

 あの街で、千華子は少しずつ「働く自分」というものを、取り戻していったのだ。

 労災申請をしてそれが認定されたのは、あの街に来て一年後のことだった。

 そうして三年経った今、店長から正社員の話が出るまでになった。

 正社員としてやっていく気はなかったが、それでも、自分の仕事ぶりを認められたのはやっぱりうれしかった。

 その店長には、証人保護プログラムを受けると決めた次の日に、バイトを辞めると告げた。

 理由は、妹が病気になったため、その看病のために実家に戻る、ということにした。

『そう……妹さんのために』

 店長は、とても残念そうな表情をしていたが、

『僕としては残念だけど、身体に気をつけて、頑張ってね』

 と、言ってくれた。

 パートやバイトの人達にも挨拶をして、きちんと自分なりのケジメはつけられたと、千華子は思う。

 ―少なくとも教員の時のように、職場には何も言わずに去る不義理をしなくてすんだ。

 そのことは、千華子の気分を少し楽にしてくれた。

 それでも、ただでさえ相田が辞めて穴が空いていたシフトを、さらに空けてしまったのは、やはり心苦しかった。

 でも、今。自分は東京にいるのだと、千華子は思った。

 昨日まで感じていた思いは薄れ、今は何か高揚にも似た気分でいる。

 早朝の東京は、さすがに空気もひんやりとしていて、涼しい。

 だが日差しは強く、今日も暑くなることを思わせた。

 強い日差しに目を細めながら千華子がバスターミナルの建物に入って行くと、

「瓜生千華子さんですか?」

 入口近くの椅子に座っていた女性が、立ち上がりながら、そう聞いてきた。

「あ、はい」

 おそらくこの人物が、戸口の言っていた「迎えの者」なのだろうと、千華子は思いながらその人物に近寄った。

「初めまして。警視庁の加藤(かとう)(しおり)と申します」

 パンツスーツを着た女性ー加藤は、自分の名前を名乗ると、ペコリと頭を下げた。

 黒のショートカットの髪が揺れる。

 年の頃は、千華子と同じぐらいだろうか。

「瓜生千華子です。お迎えをありがとうございます」

 千華子も、そう言ってぺこりと頭を下げる。

 それを見て、加藤はにっこりと笑った。

「戸口が言っていた通りの方ですね」

「えっ?」

 戸口とは、ここに来る前に、県警であの後もう一度会っていた。

 そこで千華子は、児童養護施設で働きながら身を隠すこと、住まいと必要な家財道具はもう用意してあるから大丈夫なこと、千華子の荷物はその住まい近くの貸し倉庫に預けることができること、住民票はこのままにして置くことなどを、くわしく戸口からレクチャーされたのだ。

「とても素直な方だと、戸口は申しておりました」

 その言葉に、千華子は目をぱちくりとさせてしまった。

「とりあえず、車にご案内します。道すがら、色々説明させてもらいますから」

 しかしそんな千華子の様子に目を細めながら、加藤は千華子を促した。

「はい……」

 千華子はけげんに思いながらも、加藤の後ろに付いて行った。

 早朝のせいなのか、千華子がイメージした東京の道路とは違い、二車線道路でありながら、閑散としていた。

 加藤の車は、路肩駐車をしていたが、その横を通る車の姿もなかった。

「早朝の東京は、あまり車が通らないんですね」

 千華子は、加藤の車に乗りながら言った。

「ああ、そうですね。瓜生さんの到着が早朝でしたから、助かりました。あと一時間もしたら、込み始めますよ」

 シートベルトを締めながら、加藤もそう答える。

「こんな朝早い時間に、お手数をかけて申し訳ありません」

「仕事ですから、お気になさらないでください」

 そんな受け答えを千華子としてから、加藤は車を発進させた。

 まだ早朝と言える時間でも、通り過ぎる駅前の大通りには人の姿が見える。

 千華子が住んでいた街も大きな方ではあるが、やはり東京は何でも動き出す時間が早いのかもしれなかった。

「外の景色が珍しいですか?」

 千華子が街の風景をじっと窓越しから見つめているのに気付いたのか、加藤がそう声をかけてきた。

「すいません。あまり都会の風景って見慣れてなくって」

 だがあの街に来た時も、最初はこんな感じだった。

 人の多さ、建物の高さ、車の多さ。

 二車線道路が当たり前にある街に住んだのは、昨日までいたあの街が初めてだった。

「瓜生さんに住んでいただく街は、東京の中心部からは少し離れていますから、ここよりは落ち着いていると思いますよ」

「そうなんですか?」

「『東京』と言っても、色々ですからね」

 そう言って、加藤は一度言葉を切った。

 そしてこの流れに乗ってしまおうと考えたようだった。

「瓜生さんに行っていただく街は、ここから一時間ぐらい行ったところにあります。舞場まえば市というところです」

「舞場市……」

「昔、そこにある山に天女が下りてきて舞いを踊ったから付いた名前だそうです。『愛育(あいいく)(えん)』……瓜生さんが勤める児童養護施設については、戸口は何か言っていましたか?」

「いえ。児童養護施設だってことぐらいしか……」

「そうですか……まあ、仕方ないかもしれませんね」

 戸口は、警視庁では上の立場にあるのか、加藤は短くため息を吐くと、千華子に説明をしてくれた。

「瓜生さんに行っていただく愛育園ですが……瓜生さん、児童養護施設と言うと、どんなところだと思いますか?」

 だがいきなりそんなことを聞かれ、千華子は戸惑ってしまう。

 大学で教員になるための勉強をして、教員としても働いていたが、児童養護施設の知識は、ほとんどない。

「正直、親御さんの都合で一緒に暮らせない子とか、親御さんを亡くした子達が行くところ……程度しか、知りません」

「あ、それ、誤解ですから。最近では親がいない子は、ほとんどいません。ネグレクト(育児放棄)や虐待で入ってくる子達が多いです」

「そうなんですか!?」

「もちろん、親御さんの仕事等の都合で、子どもの世話をするのは難しいという理由で入ってくる子達もいます。ですが、世間一般のイメージとは逆に、親はいるけれど、きちんと世話をする時間もあるけれど、親御さんが子どもを育てる力を持っていなかったり、困難を感じて預けたりする例が増えているんです」

 一瞬。泣き叫んでいる「かあくん」が、千華子の脳裏を過ぎった。

「一般の方々は、あまりこの事実をご存知ないようなんですよね」

 前を見ながら、加藤は言葉を続ける。

 確かに、その言葉の通りだった。

 以前教師だった千華子ですら、その事実を知らなかったのだ。

 もし、「かあくん」の母親がこの事実を知っていたのならば。

 あんなことには、ならなかったのだろうか。

 母親が我が子を殺すために殺人代行を依頼する、ということにはならなかったのだろうか?

 苦い気持ちで、千華子は加藤の横顔を見つめる。

「まあ、話を戻しますと、愛育園は「園」と名前が付いていますが、普通の一軒屋と変わりません。暮らしている子ども達も五名だけです」

 そんな千華子の気分を変えるように、加藤が言った。

「そんなに少ないんですか?」

 千華子のイメージでは、児童養護施設とは、大人数で暮らす場所だった。

 「いわゆる、『グループホーム』と言われているものです。長期的に家庭に戻ることができない子ども達を対象に、通常の児童養護施設では体験できない『家庭』の雰囲気を体験させることが目的なんだそうです。愛育園には同じ市内に、後四つ同じような施設を持っていますが、瓜生さんに行ってもらうのは、その中の一つです」

 本当に、呆気にとられるような言葉だった。

 いや、驚愕と言うべきか。

 加藤が説明してくれるのは、千華子が知らなかったことばかりだった。

 戸口から、証人保護プログラムの間は児童養護施設で働いて欲しいと言われた時には、親のいない子ども達を相手にするのかと簡単に考えていたが、実情は千華子が思う以上に難しいようだった。

 子どもを相手に仕事をするのは、三年ぶりだ。

 短い期間の仕事ではあるが、やっていけるのか、不安になってくる。

「くわしい仕事内容は、愛育園の職員が説明してくれることになっています。それと、住民票は……」

「そのままにしています」

 戸口は、住民票はそのままにして東京に来るように、千華子に行った。

 証人保護プログラムを受けることを隠すためと、説明はされている。

「それじゃあ、瓜生さん。愛育園では、瓜生さんの名前は、『瓜生千華』になっています。出身は、昨日までいた街にしています」

「あ、はい」

「瓜生さんの事情(こと)を知っているのは、愛育園の園長と、若草の家―瓜生さんが行くホームの施設長しか知りません」

 何故、愛育園という児童養護施設が証人保護プログラムの滞在先に選ばれたのか、その理由を千華子は知らない。

 だが、児童養護施設の方でも証人保護プログラムのことを了解しているのは、どこか不思議な気がした。

「それと、過去のことを色々聞かれると思いますが、『ハンバーガショップの店員だったが病気で休職していた』と言ってください。病気のことに関しては、本当のことを言ってくださってかまいません。後、御家族のことも普通に話してもらって結構です」

「かまわないんですか?」

「捜査に支障がない部分は、かまいません。あまり嘘を重ねると不自然になりますから」

 千華子が偽るのは、名前と職歴と出身地ぐらいだ。

 それも全て偽るのではなく、ハンバーカーショップで働いていたのは本当のことだし、病気になっていたのも本当のことだ。

 ただ、教員であった時のことを言わないだけである。

 それは、「瓜生千華子」の子だけを抜いた偽名も同じだった。

「嘘を付く時は、本当のことを混ぜた方がいいんです。そうすれば、ばれにくくなりますから」

 さすがに、加藤はその点に関してはプロだった。

「だから瓜生さんは、御自分の名前と、お仕事のこと、出身地のことだけ注意していてくだされば大丈夫です」

 その三つを注意することですら、千華子にはいっぱいいっぱいになりそうである。

「できるだけ早期解決になるように、我々も勤めますから、ご協力をよろしくお願いします」

 それは、東京に行く前、戸口にも言われた言葉だった。

「加藤さん、この事件の捜査はどこまで進んでいるんでしょうか?」

 ただ前と違うのは、千華子が加藤にそう聞いたことだった。

 正直、不安だった。仕事のこと。そして、自分のことを偽ること。

 いつまで、そんな生活が続くのか。

「すいません、捜査員皆鋭意努力中としか、今は言えないんです」

 だが加藤は、心の底からすまなそうにそう言っただけだった。

「そうですか……」

「でも、そんなにお待たせしないということだけは、お約束します」

「はい」

 加藤の言葉に頷きながら、千華子は車の外の景色に目をやった。そうすることしか、できなかった。


『こわいの』


 加藤と別れ、新しいアパートの部屋に入ったとたん、鳴った携帯電話の画面に、そんな文字が浮かび上がった。

「ナツ……」

 持って来た旅行用のスーツケースをたたきの上に置いていた千華子は、携帯の画面を見つめて、小さくナツの名を呼ぶ。

 多分、これは千華子に「こわいの?」と聞いているのだろう。

「そうだね……」

 千華子は、そう言ってぐるりと新しい住居であるアパートの部屋を見回した。

 ここは、所謂「マンスリーマンション」と言われている部屋だった。

 キッチンまでぶち抜きで組み込まれたワンルームの部屋に、テレビやベッド、テーブルといった簡単な家具と、必要最低限の家電が置いてある。

 昨日までいた街のマンションの部屋は、最初あまり物がなかった。

 教員をしていた街から引っ越しをする時、教員時代の仕事関係の物はほとんど処分したし、「仕事のために使おう」と思って買っていたスキャナやDVDデッキ、コンポも処分して、必要最低限の家電ぐらいしか持って来なかったのだ。

 だけどファーストフードで働いたお金と、レイキヒーリングで貯めたお金を使って、少しずつ、家具や電化製品を買い足していった。

 あの部屋は、千華子が「働く自分」を取り戻して行く中で、作り上げていった部屋(もの)だったのだ。

 でも、この「マンスリーマンション」の部屋は、最初から作られている。

 作られたこの部屋で、自分がどんな生活を送るのか、想像もできない。

 ただ。

「まあ、まだ始まってもいないからね」

 そう。新しい生活は、始まってすらいない。

 今日は東京に来ただけで、正式な出勤は明日だ。

 『今日はゆっくりしてください』と、加藤にも言われている。

 彼女は、明日も来てくれるらしい。

 捜査の一環だとは言っていたが、やはり一人で新しい職場に行くのは緊張する。

 それに、三年前は本当に「一人」だったけれど、今はそうではない。

 確かに姿は見えないけれど、ナツが傍にいてくれるのだ。

「ま、何とかなるでしょ」

 そんなことを思いながら千華子が携帯を見る。


『ばか』


 だが今度画面に現れたのは、そんな文字だった。

「ナツ……?」

 

『ばかばかはか』


 最後の言葉は、濁点が抜けていて、「はか」になっていた。

「えーと……」

 千華子はどう反応していいかわからず、携帯を片手に固まってしまう。 

 すると携帯は、次の瞬間画面が真っ暗になってしまった。

「ナツ?」

 何故か自分に背を向けて、いじけている姿が見えたような気がした。

 千華子は、ナツがどうしてそんな風になってしまうのかわからず、ポリポリと頭を掻きながら自分の後ろを見た。

 何故か深いため息を吐かれたような気がした。


―これ。

 座っていたら、こつんと頭を叩かれた。

 声で、それが「みはる」だとわかった。

―あまり、大人を困らせるでないよ。

 でも、「みはる」の声は怒っていなかった。

 「おねえちゃん」と同じで、どこか困ったような感じがするだけだ。

 その声を聞いていたら、また涙が出て来た。

―あん子んことが、心配なんね。

 次に聞こえて来た声は、「ぬい」だった。

―まあ、あん子も頑固もんじゃあっけんね。心配にもなるたいね。あぎゃんふうに虚勢ば張られたら。

 そうして、頭をなでられる。

 「ぬい」の言葉はよくわからなかったけれど、優しかった。

―ばってん、あんたがおるけん、あん子も虚勢が張れるとばい。もうちょっと張らしてやってくれんね。

―わかんない……

 だけど、「ぬい」の言うことはやっぱりわからなかった。

 どうして、平気じゃないくせに平気と言わなきゃいけないのか。

 「きょせいをはる」ことを何故しなきゃいけないのか。

―「大人」じゃからな。

 それでも、同じおとなの「ぬい」や「みはる」には、「おねえちゃん」の気持ちはわかるのかもしれない。

―あん子は大丈夫。

 もう一度、「ぬい」は言った。

―あんたが傍にいてくれとっけん、大丈夫とよ。

 それも、よくわからなかったけれど。

 「だいじょうぶ」だという言葉に、うなずきたいと思った。


 千華子は暗くなった携帯を片手に、画面をしばらく見つめていたが、やがてぽりぽりと頭を掻くと、携帯をテーブルの上に置いた。

 とりあえず、ナツは何の反応も示さない。

 それだったら、やるべきことをやるか、と千華子は玄関の出入り口に置いた旅行バックの中から、瓶のスプレーを取り出した。

 以前買った、「環境フォーミュラ」である。

 とりあえず、この部屋の「浄化」を一応して、それから荷物を広げようと思ったのだ。

 シュッ、シュッと一部屋しかない空間にスプレーをして、瓶を小さなテーブルの上に置いた。

 そして、その時部屋の中に、熱気が充満していることに気づいた。

 まだ早朝と言える時刻ではあるが、今は真夏の季節なのだ。

 千華子は、部屋に一つしかない窓を全開にした。

 夏特有の強い日差しが、ベランダ越しにも見えた。

 東京は「都会」というイメージが強いが、このマンスリーマンションは、静かな住宅街と言った感じの中にある。

「散歩に行ってみようか、ナツ」

 窓の桟に手をかけ、千華子はテーブルの携帯に声をかけた。

 だが、携帯の画面は沈黙したままである。

 千華子はそれを見て、軽いため息を吐いた。

 子どもは一度いじけると、自分から気を取り直すまで、そのままだ。

「じゃあ、私は行ってくるね。近くにどんなお店があるのかも確認したいし」

 とは言っても、周辺にどんなものがあるのか何もわからずに行くのは、この暑い最中に無謀とも言えるので、千華子は持っていたバックの中から、パソコンを取り出してテーブルの上に置いた。

 ネットは無線Lanになっているらしく、パソコンを起動したらすぐに繋がった。

 加藤に聞いた住所を入力して検索すると、地図が画面に現われた。

 それによると、どうやら近くにコンビニがあるようだった。

 千華子は場所を確認すると、その地図を携帯のアドレスへと送る。

「じゃあ、行ってくるね」

 そうして、携帯にメールが送られて来たのを確認すると、どこにいるのかわからないナツに声をかけて、立ち上がった。

 微かに、人の気配みたいなものが動いたような気もしたが、あいも変わらず、ナツの姿は千華子には見えない。

 帽子をかぶり、千華子は財布を入れたバックを手に持って、外に出た。

 まだ朝の時間帯とは言え、外は強い日差しが照りつけている。

 アスファルトの照り返しのせいか、熱気が下からも漂ってくる。

 その瞬間、千華子は外に出た自分を、馬鹿だと思った。

 だが、食材が一切なく、調味料類もマンスリーマンションの中には置いてなかったので、何か食べる物は購入しなくてはならない。

 もっと遅い時間に行くと、さらに暑くなるのは想像に難くなかったので、千華子は帽子を深くかぶり直すと、思い切って歩き出した。

 まだ早朝と言っても良い時間帯だが、蝉の声が響いていく。

 日差しが強く、自分の体を焼いているような気がした。

 それでも、携帯を片手に、コンビニへの道を歩く。

 じっとりと汗が額に張り付き、首筋には幾筋も流れていく。

 昨日までいた街でも、こんな炎天下の中出勤していたけれど、東京の暑さは、あの街とはまた違ったもののように、千華子には思えた。

 だから、青いフォルムのコンビニが見えた時は、ほっとなった。

 ウィィィンと自動ドアが開き、冷たい空気が千華子を包むと、体の力が抜けたような気がした。

 やれやれと思いながらレジ近くの籠を取り、何を買おうかと思いながら、棚の間を歩いた。

 基本的に、コンビニは正規の値段で売っているし、品揃えの種類もないので、生活用品を買うのには向いていない。

 だが今のところ、歩いていけそうな店はこのコンビニしかわかっていないので、千華子は小さめの調味料類と、インスタントのみそ汁、レトルトのカレーとシチュー、そしてお米二キログラム、インスタントコーヒーを籠の中に入れた。

 後はちょっとしたお菓子でも買っていこうかと、お菓子の棚に千華子が移動した時だった。

「お菓子買うの?」

 という声が、下の方から聞こえてきた。

 はい?と、視線をお菓子の棚から、声がした方に千華子は視線を向けた。

 すると、小学校一、二年生ぐらいの女の子がにっこりと割って、千華子が持つ籠の縁を持っていた。

「えーと……」

 千華子は、目を見張った。

 一見すると、それは微笑ましい光景だったかもしれない。

 だけど、おかしかった。

 その女の子は、千華子の持つ買い物籠の縁を、当然のような表情で握っていたのだ。

「はーちゃんはね、このお菓子が好きなの」

 自分のことをはーちゃんと呼ぶ女の子は、千華子にそう言いながら、お菓子に手を伸ばす。千華子は咄嗟に、

「それ、私は好きじゃないの」

と、言ってしまった。

 実際、「はーちゃん」の手を伸ばそうとしたのはスナック菓子で、千華子はあまり好きではなかった。

 それに千華子が買いたいと思っていたのは、クッキーだったのだ。

「お客様、チキンが揚がりましたが、いかがですか?」

 と、その時だった。

 レジの方から、店員がそんなふうに話しかけてきた。

「あ、はい」

 千華子は思わずそんな返事をしてしまったが、「はーちゃん」は千華子の買い物籠から手を離して、たったったっと走り出して店から出て行ってしまった。

 千華子は思わず呆気に取られてしまったが、

「危なかったですね」

 そんな千華子に、レジの所に立っていた男の店員が、声をかけてきた。

「あの子、ああやって、うちの店の客に声をかけては、お菓子を買ってもらおうとするんですよ」

「え?」

 千華子は、その言葉に目を丸くした。

「何人かのお客さんが被害にあいましてね、うちも注意はしているんですが、最近は夏休みになったせいか、毎朝来るんですよ。うちとしても、本当に困っていまして……。お客さんも、注意してください」

「はあ……」

 どうやら店長でもあるらしいその男の言葉に、千華子は曖昧に頷くことしかできなかった。

 その後会計を済ませた千華子は、外に出た。

 冷涼な店内とは打って変わって、強い日差しが、肌に突き刺さってくる。

 ねっとりとした熱気もまとわりつくようで、千華子は思わずため息を吐きそうになった。

「ねえ」

 そうして、歩き出そうとした時だった。

 千華子は、ふいにそう話かけられた。

 振り返って見ると、さきほどの「はーちゃん」が、後ろに立っていた。

「暑いね」

 そうして、にっこりと笑いながら千華子にそう言った。

「こんなに暑いと、冷たい物が飲みたいよね」

 そうして無邪気に、千華子が持つ買い物袋に手を伸ばしてくる。

「今は、まだ朝早いよ」

 千華子は、その手を避けるようにして、持っていたビニール袋を、反対の手に持ち替えた。

「お家に帰って、宿題しないと」

 ここで変に同情して、「はーちゃん」に何かを買うことは、絶対にしてはいけない、と千華子は思った。

 このコンビニでは、この女の子は既に「迷惑な存在」となっている。

 良かれと思ってやったことなのに、結局はこの女の子を追い詰める結果になるかもしれないのだ。

 「はーちゃん」は、千華子が咄嗟にビニール袋を持ち替えたことに、むっとなったようだった。

「大丈夫だもん、宿題なんてないもん!」

「まだ幼稚園なの? だったら、よけいに一人でこんな朝早くから外に出ちゃだめよ。誰かお家の人はいないの?」

「もういい! けちんぼ!」

 「はーちゃん」は言い捨てるように叫ぶと、くるりと踵を返して走り出した。

 暑いアスファルトに陽炎が立ち、その後ろ姿がまるで幻のようにも見えた。

「生きている子……よね?」

 今までが今までだったので、思わずそう千華子は口にしてしまう。

 そうしてふと、シャケのおむすびを買っていなかったことを思い出した。

 ただでさえいじけている所を置いて来てしまったのだ。これでシャケのおむすびを買ってこなかったのならば、さらにいじけそうな気がした。

 いじけた子が、さらにいじけるとどうなるのか。

 それを想像して、千華子はあわててコンビニへと戻った。

 いっそのことシャケのおむすびではなく、サケのフレークを買っていこうかと考えながら。

 だから。

 この「はーちゃん」のことは、早々に忘れてしまっていた。

 ―そう。「自分には関係ない」と、思い込んでいたのだ。


 その次の日。

 千華子は、加藤に連れられて来た「愛育園」の門の前に来ていた。

「愛育園」は、本当に住宅街の中にある一軒家だった。

 門にも、小さく「愛育園若草の家」と表札が付いているだけで、そこが児童擁護施設だとは、言われるまで気付かないんじゃないかと、千華子は思った。

「本当に、普通の一軒家なんですね」

 その表札を見ながら、千華子は加藤に言った。

「そうですね。だから、駐車場も一台分しかなくて、職員さん用に近くの駐車場を借りているんですよ」

 加藤の言うとおり、千華子達はここから歩いて五分ぐらいの、小さな駐車場に加藤の車を置いて来た。

 と言っても、千華子のいるマンスリーマンションから、車で五分ぐらいの距離のようなので、どうやら自転車で通勤した方が良さそうだな、と千華子は加藤の話を聞きながら、そんなことを考えた。

 加藤を先頭にして、門を開けて中に入る。

「こんにちは。加藤です」

 そうして、加藤が玄関先で挨拶をすると、

「いらっしゃい、お待ちしていました」

 少し低めのアルトの声と共に、ドアが開いた。

 出てきたのは、長い真っ直ぐな黒髪を一つに後ろで括った、二十代後半ぐらいの女性だった。

「今回はお世話になります。こちらは警視庁からお預かりしました、瓜生千華さんです」

 本当に普通の一軒家の玄関先で、加藤は千華子をそう紹介した。

 事前に話してもらった通り、千華子の名前は、「瓜生千華」と紹介された。

「まあ、こんな所で話すのも何ですから、中へどうぞ」

 頭をぺこりと下げた千華子を一瞥すると、その女性はそう言って、歩き出した。

 千華子と加藤もそれに倣って、靴を脱ぎ、家の中に入っていった。

 真ん中に大きな廊下があり、そこを中心にリビングやお風呂、トイレといった部屋が並んでいる。

 女性が加藤と千華子を案内したのは、一番突き当たりにある台所だった。

「あ、(かおり)ちゃん」

 預かっている子どもの一人なのか、台所にいた小学校低学年ぐらいの男の子が、女性を見て近寄って来る。

()(うま)君、お客様が来ているから、ちょっとお部屋に行っていてくれる?」

「麦茶飲みたくなったら、どうすればいいの?」

「すいませーんて、声をかければいいよ」

「わかった」

 「香ちゃん」と呼ばれた女性の言葉に、男の子はこくんと頷くと、そのまま台所を出て行った。

 とんとんとんと軽く、階段を上っているらしい音が聞こえる。

「どうぞ、お座りください」

 そうして、女性は千華子達にそう声をかけると、自分は冷蔵庫の方に行き、ガラス瓶に入った麦茶を出して来た。

 それをテーブルに置くと、今度は食器棚からグラスのコップ二つ出して、そこに麦茶を注ぐ。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 目の前にお茶を置かれて、千華子はぺこりと頭を下げた。

「それでは、改めてご挨拶させていただきます。この『愛育園』の施設長・光村(みつむら)(かおり)です」

 千華子と加藤の向かい側に座った光村は、そう言った。

「よろしくお願いします」

 千華子は、べこりと頭を下げた。

「瓜生さんは、教員の資格をお持ちなんですね」

「あ、はい」

「小学校の教員資格に、高校と中学もお持ちなんですね。……失礼ですけど、何故お辞めになられたんですか?」

「光村さん、それは……」

 加藤が横目でちらっと千華子を見ながら、やんわりと制するように言ったが、

「体を壊しましたので」

 千華子は、あっさりとそう言った。

 それは嘘ではなかったし、実際問題として、子どもを預かる立場にいる光村としては、少しでも不安要素は排除しておきたいだろう、と思ったからだった。

「……なるほど」

 それに対して、光村は目を細めた。

「それでは、瓜生さんにしていただくお仕事の説明をさせて頂きます。この『愛育園』には、現在五名の子どもが生活しています。高校生が一人、中学生が一人、小学生が二人と、後幼児が一人です。先ほどの悠馬君は、小学生です」

「あ、はい」

「私達は、交代で子ども達を見ていますが、瓜生さんはしばらくの間、昼間を担当してもらいます。朝九時半出勤で、退出は夕方の五時半です。今は夏休みですから、幼児さんと小学生の子達のお世話が主な仕事だと思ってください。それからお給料は銀行振り込みなので、本日中に銀行口座を作ってください」

 てきばきと、光村は仕事の内容を千華子に説明してくる。

「それから、出勤の方法ですが……今お住まいの場所からは、車で出勤されますか? 歩いてだと、ちょっと距離がありそうですし、バスとかの通勤も難しそうですよね?」

「自転車を買って、それで通勤しようと思っています」

 前に使っていた自転車は、持って来るには荷物になると思って、処分したのだ。

「それなら、子ども達が使っている自転車で、余っている物がありますから、お使いになられますか?」

「いいんですか?」

 光村の申し出は、千華子にとってはありがたいものだった。

「後のことを考えると、その方が良いと思います」

 その言葉から、光村が千華子はここに長くいないだろうと考えていることが見て取れた。

「それじゃあ、よろしくお願いします」

 だが実際のところ、千華子もここには長くいないだろうな、と感じている。

 だから、光村の申し出はありがたかった。

「じゃあ、明日からよろしくお願いします。振込み銀行は、郵便局でも大丈夫ですよ。ここからすぐの所にもありますから、一番作りやすいと思います。それから、自転車のことですが、こちらにどうぞ」

 光村はそう言いながら立ち上がった。

 千華子と加藤も立ち上がり、光村の後についていった。

 光村は台所から出てすぐある隣の部屋の、ドアを開ける。

「荷物は、この部屋に置いてください。突き当たりのロッカーに入れて、鍵はかけてください。それから、明日タイムカードを渡しますから、それできちんと押すようにしてください。では、自転車の鍵を今からお渡ししますから、ちょっと待っていてください」

 その部屋は、どうやら事務所として使われているようで、パソコンが一番左側の机の上に置いてあり、正面にロッカーがあった。そして、右側の壁にある窓の下には、

「マリア像……」

 上半身像の、美術室に置いてあったぐらいの大きさで、赤ん坊のイエス・キリストを抱いたマリア像が、飾り棚に置いてあった。

「一応、うちはキリスト教系の施設なんですよ。子ども達には全く強制はしていないんですが、園長の方針で、像だけは置くことにしているんです。母性の象徴、ってことみたいです」

 マリア像を見る千華子に、光村はそう説明した。

「母性の象徴……ですか?」

「ええ。園長曰く、そのマリア像って、青いベールと服装は、母性を象徴しているそうです」

 千華子は、光村の説明を聞きながら、もう一度マリア像を見た。

 目を閉じて、赤ん坊を抱いている姿。こんな姿を、「静謐」と言うのだろうか。

「まあ、実際は、こんな風に目を閉じている暇はないと思いますけどね。子育てをしている時は」

 光村は、引き出しから自転車の鍵らしき物を取り出しながら言った。

「目を閉じている間に、子どもはどこかに行ってしまいますから」

 その言葉には、実感がこもっているなと、千華子は思った。


 結局加藤は、千華子と一緒に歩いて郵便局に行くと、そのままマンスリーマンションまで一緒に来てくれた。

 歩いてだと、三十分以上かかったが、加藤は文句も言わず、千華子に付き合ってくれた。

 だがそのおかげで、千華子は愛育園の行き方もだいたいわかったし、愛育園に行く途中に、大型のスーパーマーケットがあることもわかった。

「すいません、加藤さん。ここまで付き合ってくださって、ありがとうございました」

 マンスリーマンションの前まで来ると、千華子はぺこりと頭を下げた。

「いいんですよ。これも仕事ですから」

 そんな千華子を見て、加藤はにっこりと笑った。

 それは、「刑事」と言う彼女の仕事を一瞬忘れるような、飾りのない笑顔だった。

「それに帰りはタクシーで帰りますから、心配されないでください」

 そうして、千華子を安心させるようにそう言った。

 「瓜生さんにはしばらくご不自由をおかけしますが、一刻も早く解決できるように、私達も鋭意努力しますので、どうかよろしくお願いします」

「はい」

 と、加藤の言葉に千華子が頷いた時だった。たったったっと軽い足音が聞こえたと思ったら、

「あ、ケチなおばちゃんだ!」

 聞き覚えのある、幼い声がした。

 声のした方を振り返ると、そこには、昨日コンビニで出会った「はーちゃん」が立っていた。

「あのね、このおばちゃんドケチなんだよ!はーちゃんに何も買ってくれないの」

 そうして、千華子の隣にいた加藤を見上げて、千華子を指差しながらそう言った。

「……あなた、どこの子?」

 だが加藤は、「はーちゃん」の言葉を遮るようにして、逆に問いかけた。

「知らない人を、そんな風に言っちゃいけないって、お母さんは言わなかったの?」

 思ってもいなかったらしい加藤の言葉に、「はーちゃん」は目を丸くした。

「知らない人には、物をもらっちゃいけないってことも、言われなかった?」

「そんなイジワル言うと、虐待なんだよ! おまわりさんに、逮捕されるよっっ」

 「はーちゃん」は甲高い声で叫ぶが、

「私、おまわりさんよ」

 加藤のこの言葉には、絶句した。

「知らない人に、そんなことを言ってはいけないわ。お母さんは、お家にいないの?」

 加藤が重ねるように言うと、「はーちゃん」は、だっと走り出して、マンスリーマンションの方へと走り出して行った。

 そのまま、一階の一番はしっこの部屋の方へと入っていく。

「あの子のこと、ご存知なんですか?」

 それを見送りながら、加藤は千華子に尋ねてきた。

「昨日、近くのコンビニで出会った子です」

「そうですか……。気をつけてください。あの子、きっとネグレクトです」

 そうして、千華子が目を見張ることを言った。

「え……?」

「もしかしたら、私の勘違いかもしれません。こんなマンスリーマンションにあんな幼い女の子がいるのは、夏休みのせいもあるかもしれないので。でも、それにしてもあの子の身なりは、気になります」

 言われてみれば、「はーちゃん」の格好は、あまり「綺麗」と思える類の物ではなかった。

 髪の毛もぐちゃぐちゃで、お風呂に入っていないのかもしれなかった。

「あの手の子どもにヘタに関われば、何かあった時、瓜生さんの方が責任を問われます。瓜生さんの性格では気になさるとは思いますが、極力関わらないようにしてください。私の方も、児童相談所への通報を念頭に置いときます」

「あの子のことは、放っておけってことですか?」

「はい。まずは、ご自分のことを優先してください」

 加藤の言葉は、もっともなことだった。                   証人保護プログラムを受けている立場である以上、今の千華子は、他人のことは必要以上に関わらない方がいい。

 幾ら千華子が素人だろうと、そのぐらいはわかる。

「わかりました。気をつけます」

「できるだけ、早い解決に努めます。ご協力、よろしくお願いします」

 加藤の言葉に頷いた千華子に、彼女はそう言って、頭を下げた。


『おかえり』


 パタンとドアを閉めると、テーブルの上に置いたナツ用の小型パソコンの画面が明るくなり、ワードの画面にそんな文字が打ち出された。

「ただいま」

 千華子は、ほっとした表情に思わずなってしまった。

 今日の朝まで、千華子が呼びかけても、うんともすんとも言わなかったのだ。

 特効薬になるかと思った、シャケのおむすびを出しても反応がなく、千華子はどうしたものかと、考えあぐねていたのだ。


『はやかったね』


 千華子がテーブルに近づいて、持っていたバックを置くと、そんな文字がパソコンの場面に打ち出された。

「今日は、挨拶だけだったから」

 千華子はそれを目で確認すると、そう言いながら冷蔵庫の方に近づいた。

 買ってきた物を、冷蔵庫を開けて入れていく。

 こういうことをしていると、つい三日前まで暮らしていた街と変わらないな、と思った。

 ただ暮らしている街が違うだけで。

 だけどこの街には、田村はいない。

 相田も、そして一緒にバイトをしていた店長や熊谷達もいない。

 明日から、千華子は光村達と一緒に、あの児童擁護施設で働くのだ。

 そこまで考えて、ふと、千華子は冷蔵庫の中にある、シャケのフレーク瓶に目を止めた。

「ナツ、今日のご飯はシャケのおにぎりにしようか」

 フレークの瓶を冷蔵庫から出しながら、千華子はナツに尋ねた。

 だけど、ナツ用の小型パソコンが、千華子のすぐ近くに現われることはなかった。

「ナツ?」

 千華子はフレークの瓶を片手に、ナツ用のパソコンが置いてあるテーブルに戻った。

 と、その時だった。

 ゴンっと言う音がして、テーブルの上に、女神のオラクルカードが現われた。

「ナツ……?」

 千華子は、ナツ用のパソコンの画面を見るが、「はやかったね」という文字以外は、打ち出されていなかった。

 しかし、このオラクルカードが出されたということは、ナツの言いたいことは、オラクルカードにアドバイスをもらえ、と言うことなのだ。

「これ、今しなきゃ……いけないのね」

 パソコンの方から、「さあ、早くしやがれ。さっさとしやがれ」という圧力が、何となく、漂って来ているのだ。

「……わかりました、聞いてみます」

 千華子は、カードを切って意識を集中させた。

 すると、一枚のカードが、テーブルの上に落ちてくる。

「『アエラキュラ』……」

 そのカードに描かれた女神は、「アエラキュラ」と言って、ケルトとドイツの女神だった。

 カードには、「開花」という意味もあり、「ゆっくりする、焦らない」というメッセージが込められている。

「焦っちゃ駄目ってことかな?」

 千華子が、小さく呟きながらカードをケースに戻していると、またしても、ゴトン!という音がした。

 次に現われたのは、タロットだった。

「はいはい、これにも聞けってことなんだね」

 もう既に慣れてしまった千華子は、タロットをテーブルに広げて、シャッフルをした。

 そうして意識を集中させて、一枚のカードを抜くと、

「『悪魔』……」

 それは、「悪魔」のカードだった。タロットの中でも、「死神」に次いで「不吉なカード」

と言われているそのカードは、鎖に繋がれた男女が、悪魔に囚われている絵柄になっている。

 だが、タロットカードは単純なものではない。

 その絵柄から、メッセージを「悪魔」と言うカードからアドバイスを引き出すとしたら、「今はそこから動かずに、耐えていけ」ということになる。

 結局「アエラキュラ」と同じ意味なんだろうな、とそう思った時だった。

 ふと、「悪魔」のタロットの男女のイラストに、目が行った。

 「悪魔」の縛られた男女のイラストにはね首にも鎖が巻き付いていた。

 それは、男女を繋ぐ鎖にもなっている。

「首……」

 ふいに、あの時の「お顔がない」とナツが言っていた男を思い出した。

 暑い駐車場で、お供えされた花束を見て、『自己陶酔の塊だな』と言っていた。 そして、柚木が刺された時にもいた男。

『誰だって、優秀な子どもが欲しいさ。人間だって、しょせん生き物だ』

「……」

 あの時言われた言葉を思い出して、千華子は唇を噛み締めた。

 もしかしたら、あの男が関わってくると言うのだろうか?

 千華子は、そんなことを考えながら、「悪魔」のカードを、じっと見つめた。

「まさかね……」

 千華子は微苦笑しながら、タロットカードを、ケースの中にしまった。

 東京まで来てあの男に再会するなど、その時は、考えもしなかった。


「泥棒!」

 門から入ってすぐ横の駐輪場に自転車を止めたとたん、そんなことを言われた。

「はっ?」

 自転車を止めて鍵をかけようとした千華子は、その言葉に目を丸くした。

 小学生ぐらいの男の子が、玄関から千華子をじっと見て、指差しながらそう叫んでいた。

「それ、家の自転車だろっ。勝手に使うんじゃねーよ」

 見ると、それは昨日台所にいた男の子だった。

 確か、光村は「悠馬君」と呼んでいた。

「借りたのよ」

 だから、千華子はそう答えた。

「誰にだよ!」

「光村さんに」

「嘘付け!」

 男の子―悠馬は、顔を真っ赤にして千華子に叫んだ。

「嘘じゃないわよ」

「嘘だ!嘘だ!嘘だっっっっ」

 まるで「自転車を借りた」ことを認めたくないかのように、悠馬はそう叫び続けた。

「何やってんだ」

 と、その時だった。

 叫んでいた悠馬の頭をがしっと、若い男が押さえ込んだ。

「け、(けい)君」

「玄関先でうるさいんだよ、悠馬。ちっと黙っとけ」

「だ、だって、この人泥棒なんだよっ!」

「やかましいわっ!んじゃ、この人が泥棒だって言う証拠はあるのか」

「勝手に使っていたもん!」

「誰もかれもが、お前みたいに勝手に人のモン使わねーっての!」

「痛い、痛い、痛い、止めて、圭君!」

「うるさいんだよ、黙っとけ!」

 若い男はさらにぎりぎりと悠馬の頭を抑え、悠馬は半泣きで叫んでいる。

「あの……」

 そんな二人の様子を、千華子は呆気になりながら見つめていたが、いつまでもそのままにしておけないので、おそるおそる声をかけた。

「あ、失礼。光村さんから聞いています。ここの職員の野間(のま)です」

「もう、圭君のばかぁ!」


「うるせーて言っているだろうっっっっ」

 だが、混沌(カオス)であった。喧しさ×二乗。

 何と言うか、正直こっちが、「うるせー」と言いたいぐらいだった。ファーストフードでバイトしていた時も、子ども客はいたし、マナーの悪い親子連れもいた。けれど、こんなふうに騒騒しいことはなかった。

 そこまで考えて、千華子はふと気付いた。この「騒がしさ」には、覚えがあった。三年前。毎朝、「教室」で感じていたものと同じだった。

 子ども達が笑い、泣いて、ふざけて。

「すいません、瓜生さん」

 だが、そこで野間に声をかけられて、はっと千華子は我に返った。

「うるさくてすいません。入ってください」

 くいっとあごを動かすと、野間は千華子に中に入るように促した。

「はあ……」

 悠馬を止める方法も乱暴だと思ったが、初対面の相手にする態度ではない。

 千華子は、これもまた呆気にとられたが、初めての職場である。

 とりあえず、野間の言葉に素直に従うことにした。

「ばかああああああ!」

 だが、入った瞬間。そんな叫び声が耳を直撃した。

 そして、どーん!と何かを倒すような音がする。

「あ、気にしないでください」

 どうやら二階から悠馬が叫んでいるような声がしたが、野間は手を振りながらそう言った。

「はい?」

「あいつは、発達障害を持っているんです。広汎性(こうはんせい)発達障害ですね」

 野間の言葉に、千華子は一瞬息を飲んだ。

 「発達障害」という言葉は、嫌でも、「かあくん」や「新見じゅえる」のことを思い出させる。

「一度感情を爆発させると、あのまんま。しばらくは、収まんないな」

 だから、笑いながらそんなことを言う野間が、信じられなかった。

「瓜生さん。あんたは、携帯持っています?」

「えっ? あ、はい」

 だが、急に野間は話題を変えてきた。

 携帯はいつもズボンのポケットに入れているので、千華子は素直に頷いた。

「携帯は、いつも身に着けるようにしておいた方がいい。あいつらには、何をされるかわからないんで」

「えっ?」

「悠馬が、いいがかりつけていたでしょ? あれと似たようなこと、他の子達にもされる可能性があるってこと」

「はっ?」

 思わず間抜けな声を出してしまった千華子に、前を歩いていた野間が振り返った。

「まあ、気をつけていたら、大丈夫だと思いますけどね。子どもらを、甘く見ない方がいい。児童養護にいる子達は、『大人』を見たら、まず疑う。特に初対面の大人は、『敵』と見なすから」

「……」

「世間一般の『かわいそうな子達』のイメージは、抱かない方がいい。あれらは、『大人』をよく見ている」

 そう言いながら、野間は笑った。

 どこか、千華子を試すような笑いだった。

 二階から、がっしゃーん!と、また何かが倒れる音が聞こえた。

「……とりあえず、私は何をすればいいんですか?」

 その音を聞きながら、千華子は野間に尋ねた。

 千華子の言葉に、野間は少しだけ目を見開いたが、

「荷物置いたら、仕事内容説明しますよ」

 とだけ言って、また前を向いて歩き出した。

 その姿を見て、千華子は軽いため息を吐いた。

 前途多難。そんな言葉が、思い浮かんだ。

 とは言っても、しばらくの間は、ここの仕事をこなすしかない。

 確かに、証人保護プログラムの受け入れ先として来た場所だが、「給料」をもらうのだ。

 「給料」をもらう以上、「好き」や「嫌い」の感情で、物事は決められない、と千華子は思い直した。

 昨日光村が教えてくれた部屋にあるロッカーに荷物を置き、タイムカードを押すと、台所で、簡単に野間が仕事の内容を説明してくれた。

「光村さんは、今日は十時から来ます。俺が泊まりで、本当なら九時半には帰れるんですが、しばらくは光村さんが来るまで超過勤務です」

「他の方は、いらっしゃらないんですか?」

 千華子が尋ねると、

「本当は後二名いたんだけど。先月、辞めた」

 向かい側の席に座った野間は、短くそう答えた。

「えっ?」

「だから、今は光村さんと俺とあんただけです。今日の泊まりは光村さんで、明日はまた俺が泊まるってシフトになっています」

 それは、かなりハードな勤務なのではないか、と千華子は思った。

「あんたが仕事に慣れるまでは、俺達がこの勤務体系でやります。正直、慣れない人に夜勤を任せるのは、不安なんで」

 どこかトゲのある野間の言葉はひっかかったが、千華子は黙って聞いていた。

 確かに千華子には嫌味にとれる言い方だが、彼がここの子ども達のために、ハードな勤務をこなしているのは事実なのだ。

「それで、私は九時半に来たら、まず何をすればいいですか?」

「……あっちの部屋にチビがいるんで、今日はとりあえずチビ達の様子を見ながら、手が空いている時に、簡単にでもいいんで、掃除をしてください。洗濯物もやってあるから、干してくれれば助かります」

「わかりました」

 野間の言葉に、千華子はこくんと頷いた。

 野間は何か言いたそうな顔をしていたが、椅子から立ち上がり、台所から出て行った。

「おい、芽衣(めい)

 そうして荷物を置いた部屋のすぐ隣にある襖を、がらっと開けた。

 千華子も、台所の椅子から立ち上がって、野間の後を追う。

「なあに? 圭くん」

 舌足らずな声が、襖の向こう側から聞こえた。

「昨日、香ちゃんが言っていた、新しい人が来たぞ」

「え、(れい)ちゃんじゃないの?」

「玲ちゃんは、辞めたって言っただろう?」

 野間は部屋の中に入りながら、芽衣と呼ばれた女の子と話をした。

「何で玲ちゃんは帰って来ないの?」

「それは、俺にもわからない。それよりも、今日から来た、『瓜生千華』さんだ」

「千華ちゃん?」

「そうだな。『千華ちゃん』だ。色々教えてあげてくれ」

 くいっと野間にあごで示された千華子は、

「 こんにちは」と言って、芽衣がいる部屋に入った。

 だが、芽衣は千華子を見たとたん、顔を強張らせた。

 じっと千華子を見上げ、ぱっと野間の後ろに隠れてしまう。

「ほら、こんにちは」

 野間は面白がるように芽衣を自分の前に押し出そうとするが、芽衣は首を振って逃げようとする。

 千華子は、それを見て、

「洗濯物は、庭に干せばいいんですか?」

 と、野間に尋ねた。

 ちょうど芽衣がいた部屋は庭に面していて、サッシの窓が開け放たれてあった。そこから、庭に出入りできるようになっている。

「……洗濯機の前に置いてあるから、こいつを見ながら干してください。芽衣、ちゃんとしていろよ」

「うん」

 半分涙目になりながらも、玲は頷いた。

「じゃあ、芽衣さんは何をしている?」

 不安そうに出て行く野間を見つめる芽衣に、千華子はそう尋ねた。

 彼女が遊んでいるのを見守りつつ、洗濯物を干そうと千華子は考えたのだ。

 実際、野間は嫌がる玲を千華子の方に行かせようとしていた。

 自分を避ける芽衣を見て、千華子がどんな反応をするのか試していたのかもしれないが、千華子はまあ、無理はないなと思ったのだ。

 初めて会った「大人」に、「幼児」が警戒心を持つのは、当たり前のことだった。

 自分と同じ「幼児(もの)」ではない。

 自分には敵わない力を持つ、「大人」。

 そこに、恐怖心と警戒心を持つのは、無理もないだろう。

 本能的なものだと言ってもいい。

 と、そこまで考えた時だった。

 ふいに、千華子は殺人犯に会った時の、「かあくん」の様子を思い出した。

 あれは、殺された幼子の霊が見せた夢だった。見も知らぬ大人に声をかけられて、手を伸ばした「かあくん」は、どんな気持ちでいたのだろうか?

 普通であれば、「恐怖」を感じる場面であったはずなのに、「かあくん」にとっては、自分を孤独から救ってくれる救世主に見えたのだろうか? 

 そして、新見じゅえるに付いていった幼子も。

 自分が殺されるなど夢にも思わず、自分が欲しているものを与えてくれると期待して、その手を伸ばしたのだろうか?

「千華……ちゃん?」

 この幼子は、きちんと与えられているのかもしれない。

 実の両親と離れて暮らしているけれど、見知らぬ大人に「恐怖」を感じている。 その程度には満たされているのかもしれない。

「芽衣ちゃんは、テレビを見ている」 

 だが、幼い声でそう言われて、千華子は、はっと我に返った。芽衣が、不思議そうに千華子を見ている。

「わかった。私は、庭で洗濯物を干しているから、何かあったら言ってね」

 千華子は芽衣の言葉に頷くと、部屋から出て風呂場の方へと歩き出した。

 大学の時から一人暮らしをしているから、洗濯物を干したり洗ったりするのは慣れているつもりだったが、さすがに子ども五人分というのは、量が半端なかった。

 大人ならば、だいたい一日分でいいが、子どもはそうはいかない。

 まして夏の盛りで夏休みの今、何度も着替えが必要な子もいるだろうし、高校生や中学生だったら、部活の練習で体操着なんかも毎日のように洗わなければならないのだろう。

 千華子は、籠三つ分に山のように盛られた洗濯物を見て、そう思った。

 洗濯籠を抱えて芽衣がいる部屋に戻ると、芽衣は自分で言っていた通り、教育番組を見ていた。

 その音をBGMにぐるりと部屋を見回すと、サッシの窓の近くにハンガーがまとめて置いてあるのを見つけた。それを窓際に移動させると、千華子はカラカラと窓を開ける。

 外のたたきに置いてあったつっかけを履いて、庭に出た。

 とたんに、かっと焼きつけるような日差しが肌に刺さってくる。

 千華子はその日差しの強さに、目を細めた。

「すいません」

 と、その時だった。庭先にいた千華子に、呼びかける声があった。

 日差しの強さに目を細めていた千華子は、

「はい」

 と声がした方に視線を向けた。

 一瞬。

 光の強さのせいか、その人物の顔は見えなかった。

「こちらは、『愛育園 若草の家』ですか?」

 低めのバリトンの声。その声を、千華子は前に聞いたことがあった。

 チリンと、携帯に付けたストラップの鈴が鳴る。

―おねえちゃん!

 その音と重なるように、ナツの声が聞こえたような気がした。

 そして次の瞬間、逆光で見えなかった顔が、千華子の目に映る。

「あなたは……」

 その顔には、見覚えがあった。

『誰だって、優秀な子どもが欲しいさ。人間だって、しょせん生き物だ』

()で(・)、ここ(・・)に(・)いらっしゃるん(・・・・・・)です(・・)か(・)?」

 千華子は驚きのあまり、そう尋ねてしまった。

 その男は、ナツが言っていた、「顔のない男」だったのだ。

 だがその男は、千華子の問いかけに、きょとんとした表情になった。

「えーと、どちら様ですか?」

 そして、逆にそう千華子に尋ねて来る。

「えっ?」

「僕、ここに初めて来たんです。中塚(なかつか)先生が休まれるので、僕が担当になったんですよ。えと、ここは『愛育園若草の家』ですよね?」

 本当に心の底からわかりません、という顔をして言葉を続けてくる男を、千華子はじっと見つめた。

「あの……」

 そんな千華子に、男はとまどったような表情になる。

「千華ちゃん? どうしたの??」

 と、その時だった。

 いつまでも部屋に戻ってこない千華子に不安になったのか、部屋の方から芽衣が声をかけてきた。

 千華子は、はっとなって、窓のサッシを開けると、

「何でもないよ、芽衣さん。お客さんが来たから、圭君に教えに行ってくれる?」

 そう言った。

「すいません、玄関の方に回ってもらえますか?」

 そして振り返りながら、男に玄関の方を見指差しながら言った。

「あ、すいません」

 男はぺこりと頭を下げると、庭を出て行った。でも、その直前。

 千華子は、男の瞳が、その愛想の良さとは全然関係ない、鋭い目つきであったことに気付いた。

 チリンと、携帯に付けたストラップの鈴が、また鳴った。

「うん……わかっているよ、ナツ」

 日差しの眩しさに目を細めながら、千華子は小さく呟いた。



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