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サイレント・ブルー  作者: kaku
7/15

7 未来(ねがい)

 田村は、閉じていた目を、ふっと開けた。

 外が騒がしい。

 その「外」とは、もちろん、田村の思考の「外」のことだ。

 空気が、揺れる。

 自分に対抗しようとする者達が、近づいてきている。だ

 が、手出しはできない。

 だから、彼ら(・・)は(・)、苛立っている。

 否。苛立っているのは、彼のみか。

「姉さん」

 妹の真紀が、ドア越しに、ノックをしながら呼びかけてきた。

「お通しして」

 それに対して、田村は静かにそう言った。

「失礼します」

 そんな田村に答えるようにして、男が二人、入ってくる気配があった。

「失礼します。田村美紀さんですね」

 言葉は丁寧だが、「お前のことは知っているぞ」、と含みのある言葉が耳に届く。

「県警の、安藤と申します」

「同じく浦賀(うらが)です」

「本物?」

 だが、田村はまず、妹にそう確認した。

「まちがいないみたい」

「……もしかして、目がお悪いんですか?」

 勝手しったるなんとやらで、妹が答えるのを見て、「安藤」と名乗った方の声が、問いかけてくる。

「ええ。弱視です」

 妹との短い会話だけでそれ気付いた安藤に感心しつつ、それに、田村はあっさりと答えた。

 田村には、安藤の姿も浦賀の姿も、ぼんやりとしか見えない。

 その代わりに、はっきり(・・・)と(・)見えるものがある。

 それが、視力と引き換えに田村が持った「力」だった。

 だがそれを、この男達に言うつもりはなかった。

 また、その必要もない。

「あなたと親しい、瓜生千華子さんについて、少々お尋ねしたいことがあって参りました」

「根拠は?」

 田村は、淡々とした声で問うた。

「えっ?」

「その方と、私が親しいと思う根拠は何ですか?」

「彼女の携帯を調べたら、こちらの電話番号が履歴にあったんですよ」

 田村の問いに、安藤の隣にいた浦賀が苛立ったように口を出してきた。

 田村には、その男の姿に、別のモノタチが重なって見える。

 怒り、焦り、嫉妬。そして傲慢。

 それらの感情が、彼を導く未来(さき)

 ……余計なものが、見え過ぎる。

「真紀、悪いけど……」

「すいません。浦賀さんは、こちらにお願いできますか?」

 姉の言わんとすることを察してくれた妹は、浦賀を別の部屋に案内しようとした。

「夜中に、携帯電話にかけているじゃないですかっ!」

 どんっと田村が座る机を叩きながら、浦賀が叫んだ。

 その姿が、田村の目には、二年後に彼が見るであろう景色(もの)と重なる。

 二年後、この男は、己のその傲慢さゆえに、失職する。

 その時、上司に当たる人物に叱責されるのだろう。

 だが、そんな映像(モノ)を、田村は見たくないのだ。

「―あなたには、話していません」

 だから、田村は淡々とした口調でそう言った。

「なっ!」

「浦賀、言われる通りにしろ」

 安藤が、絶句した浦賀に、声をかける。

「安藤さん!」

「捜査中だ」

 落ち着いた、諭すような声で、安藤は言った。

 浦賀はまだ何か言いたそうな表情(かお)をしていたが、両手を握りしめると、カツカツカツと、荒い足音を立てながら、真紀の後に続いて部屋を出て行く。

「……すいません。なかなか、自分の感情を抑えられない奴でして。今、全国で、子どもの不審死が相次いで起きているんで、気が立っているんでしょう」

「つまり、その一連の事件に、千華ちゃんが何らかの関係があると?」

「少なくとも、三度、彼女は関わっています」

 一度目は、ホームページのサイトを発見している。

 彼女が住む地域の交番に届けられたアドレスは、まちがいなく、事件一連に関わっているものだった。

 そして二度目は、広川由香(ゆか)だ。

 彼女は、千華子のことを知っていた。

 教員を辞めて惨めなはずの千華子が、明るく元気に働いている姿を見て、息子の死の原因を押し付ける気になったらしい。

 そして、三度目は―

「単なる偶然では?」

 だが、田村はあえて安藤のその考えを断ち切るように言った。

 安藤の求める答えが、違うことはわかっていた。

「偶然が三度も続けば、普通は疑います」

「その根拠は?」

 まるで言葉遊びのように、田村は言葉を続ける。

 それに、安藤は苛立ちを感じた。

「そんな風にして、占いに来る方を惑わしていらっしゃるんですか?」

 実際、警察に逮捕される自称「占い師」や「教祖」は、数限りなくいる。

「あの(・・)()は(・)、その(・・)()()と(・)同じ(・・)こと(・・)を(・)して(・・)いました(・・・・)か(・)?」

 しかし、田村はそんな安藤を見透かすように言った。

 あまり見えていないはずの眼で、真正面から安藤を見る。

 田村の指摘に、安藤は息を飲んだ。

 千華子のことは、実はある程度までは調べてあった。

 元教員であること。ネットで、占い師のような仕事をしていること。

 教員であった頃の評判は、決して悪くないようだった。

 明るく、仕事熱心な先生だったと、かつての同僚達は、皆口を揃えてそう言っていたらしい。

 九州の県警から送られてきた報告書には、そう記入されていた。

 彼女のサイトのアドレスは、すぐに調べがついたから、捜査員の女性を使って、申し込みをしてみたのだ。

 モデルは、広川由香容疑者……否。今は、広川由香は己が子どもを殺した犯人だ。

 申し込みの返事は、翌日には来ていた。

 だが、それは申し込みを断る内容だった。

『お問い合わせをありがとうございます。

 当サイトは、ヒーリングサイトでございます。よって当サイトの目的は、レイキを利用して心身共にリラックスをすることです。

 お客様がお望みのようなことを成就するようなお手伝いをしたりすることはできません。

 せっかくのお問い合わせですが、そのような理由で、お力にはなれません。まことに申し訳ありませんが、ご了承ください。

 ただ、お子さんを育てていく中では、なかなかお苦しいこともあると思います。お一人で悩まずに、まずは、専門家の方々にご相談されたらいかがでしょうか?

 お住まいの町の子育てセンターなど、お子さんのことを相談できる場所があると思います。そこに、まずはご相談に行かれてください。もしわからなかったら、役場に問い合わせれば、教えてくれるはずです。あまり気負わずに、話をされるだけでもけっこうだと思います。ただ、そのような場所には、同じような悩みを持つ方々もいらっしゃいます。

 そのような方々とお話できたら、同じ悩みを共有でき、また専門家の方のアドバイスを聞けば、お子さんにとって、良い方法が見つかるやもしれません。

 お力になれず、大変申し訳ありません。ですが、あなたは十分にがんばっていらっしゃいます。御自分を責めずに、助けを求めてみてください。

 そして助けを求めた人があなたを批難したら、別の方に助けを求めてください。必ず、あなたを助けてくれる人達がいることを、忘れないでください』

 と、メールには書いてあった。

 それを読んで、メールを出した女性捜査員は、泣いていた。

 「姉に見せたいです」と、泣きじゃくりながらそう言っていた。

 本当に、誠実そのものと言った内容(メール)だった。

 警察の捜査を意識したのかもしれない、とも思ったが、彼女がそんなことを思いもしない様子であることは、尾行している捜査員達の報告からも見て取れた。

「悪意が起こした出来事を、悪意で繋げるのは、何故ですか?」

 そして田村は、黒曜石のごとき瞳を安藤に向けまま、言葉を重ねる。

「あなたは、いったい何が欲しいんですか?」


 白い花火が、数え切れないほど爆発したような、感覚。

 千華子が感じたのは、まずそれだった。

『先生!』

 そして聞こえてきたのは、まだ少女の者の声。

「新見さん……?」

―呼びかけてはならぬ!

ばさりとはためく狩り衣の袖に、口を塞がれる。

 千華子はその瞬間、はっとなった。

 狩り衣姿の男が、千華子の隣に立っていたのだ。

―呼びかけると、取り込まれるぞ!

狩り衣姿の男―「セイ」は、そう厳しい表情で千華子に言った。

―そぎゃんたい、じっとしとって!

 そして、自分の前にいる女が、叫ぶ。

 束ねた黒髪と、農民らしき着物姿。ちらっと横顔を見せた後は、前を向いたので、その顔はよくわからない。

「『ぬい』……?」

 だが、千華子はやはり「セイ」の時と同じように、彼女(・・)の(・)こと(・・)を(・)知って(・・)いた(・・)。

 ただ、それは「本能」ではなく、記憶の隅に、何かがひっかかる。

―今はそぎゃん時じゃなかっ。しっかり気持ちば持ちなっせ!

そんな千華子の考えを読むように、「ぬい」が、くわのような物を構えながら叫ぶ。

『先生、助けて! 私を助けてっ! そこにいるんでしょう? どうして助けてくれないの!?』

 そして続いて聞こえて来た、慟哭。

 ―その声の持ち主は。

 チリン

―名前を呼んじゃダメ!

 だが千華子がその声の持ち主の名を呼ぶ前に、今度は後ろの方から声が聞こえた。

 それは、まだ幼い男の子の声だった。

 いつも自分の傍にいて、パソコンのワードで会話もしていたけれど、「声」を聞いたことはなかった。

 ―それは、千華子が初めて聞いたナツの「声」だった。

 ナツ、と千華子は塞がれた口で小さく呟く。

『どうして!?』

 一方、新見じゅえるの声は、苛立ちを増した。

『私がこんなに困っているのに。どうして助けてくれないの!私は、こんなに悲しい目にあったのにっっっっ』

 その瞬間。

 千華子の目には、まるで巨大なスクリーンのように、大きな映像が映った。

『あなたは、どうしてこんなこともできないの!?』

 その映像に映ったのは、中年の女性の顔。

 怒りに顔を歪ませ、嫌悪の瞳をしていた。

『妹のてぃあらは、ちゃんとできるのに。どうしてあんなに勉強していても、こんな点数しか取れないの! 本当にあんたって子は、何もできない子ねっっっ』

 新見じゅえるは、いつも教科書丸写しする勉強をしていた。

 それは、おそらく何時間もかかる作業であっただろう。

 だが、そんな勉強方法では、手間ばかりかかって、本当の意味での「理解」は得られないのだ。

 理科や社会ならば、少しは効果もあるかもしれない。

 しかし、国語や算数―特に算数は、ただ教科書を写しただけでは、理解できない部分もあるのだ。

 それに、暗記教科と言われる理科や社会も、その「知識(・・・)」の(・)意味(・・)をきちんと理解しなければ、それはただの記号にすぎなくなる。

 だから、その子にあった学習方法をする必要があるのだ。

「特別支援」とは、何も子どもを差別するために行なうものではない。

 どんな子にでも、適切な支援を行なうことが目的なのだ。

 そのことを、新見じゅえるの母親は理解しなかった。

 否―理解することを、拒絶していた。

 どんなに千華子が言葉を重ねても、理解することを拒否し続けた。

 「子どものいない先生には、私の気持ちはわかりません!」と言う言葉で。

 理解できないわけではなかった。

 自分の子どもが、何らかの「障害」を持っているということを、大抵の親達はまず、認めたがらない。

 すぐに納得などできるはずがない。

 「子どものため」と思い、療育に積極的な親でさえ、そうなるまでには、途方もない「絶望」と「否定」の感情を持ち、苦しむのだ。

 だけど。

 新見じゅえるの母親は、それだけじゃあなかった。

 おそらく、彼女は己の子どもと「自己同一化」していた。

 子どもが受ける「評価」を、まるで己のこととして捕らえていたのだ。

 だから。

 そう―だから、新見じゅえるが何らかの障害―おそらく学習障害―をあることを、決して認めようとはしなかった。

 彼女にとっては、それが「自分が障害を持っている」ことに等しかったのだ。

 だけど、そうすることで追い詰められるのは、そう思い込んでいる親ではないのだ。

『あんたなんか、私の子じゃあないっ!』

 冷たい視線をした母親が、大画面の中でそう言い放つ。

 親から、そんな言葉を言われた子どもは、どんな思いなのか。

 その言い放つ親は、一瞬でも考えたことがあるのだろうか?

 チリン!

 と、その時だった。

 後ろにいたナツが、警告するように、鈴を鳴らした。

『ねえ、先生。私、かわいそうでしょう?とても、かわいそうでしょう』

 その瞬間、ねっとりとした声が耳に届く。

 チリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリンチリン!

 それをかき消すように、必死な音で鈴が鳴った。

―笑止っ! 自分を見捨てた母の機嫌を取る為に我らが守る者を、窮地に追いやった者が今更何を言う!!

 そんな千華子の前に、今度は、忍者の格好をした男が、空中に現れた。

「『サイ』……?」

 その瞬間、千華子の意識が、その「サイ」の方に向く。

『誰!? 私と先生の邪魔をするのはっ!』

―己がした不始末は、己で処理するしかない。そなたが今、そのようなことになったのは、己が選択し、積み重ねた結果じゃ。我らが守る者に救いを求めたとて、そなたは救われぬ!

『だって、私はかわいそうなのよ! ママは私のこと、何もできないって言うの。そんなことないのに! ()だって(・・・)殺せたん(・・・・・)だ(・)から(・・)!』

 その時。

 大画面に映ったのは、セーラー服の少女が、小さな幼児を、どこかの橋の

上から放り投げる姿。

「……!」

 その映像見た瞬間。千華子は、大きく目を見開いた。小さな幼児を投げ捨てている少女の横顔は、まぎれもなく、新見じゅえるのものだった。


 「彼女の教え子である新見じゅえるは、殺人を犯しています」

 田村の問いかけに答えず、安藤は言った。

 しかし田村は何も言わず、安藤の言葉の続きを待つ。

「どうやら、彼女が見つけたサイトと同じサイトで、殺人代行を請け負ったようなのです」

 だが、その瞬間。

 田村の瞳が揺れた。

「それは……子どもが、殺人代行のサイトを閲覧していたということですか?」

「はい。そして、それを見た新見じゅえるは、そこで親の一人が募集していた、我が子の殺人代行の一つに応募したようです。そして、殺人は、実行された」

「テレビでは、全然そんなことは言っていないようですが?」

「事件が事件ですので、報道規制を強いています。犯人の実態がわからないうちから模倣犯が出てこられても、困りますので」

「……その事実と、千華ちゃんをどうして関係付けようとするんですか?」

「彼女は、新見じゅえるの母親のせいで退職する羽目になったと聞いています」

 安藤達の捜査で、その事実はすぐに浮かび上がってきた。

 所謂モンスターペアレントの親に上手く対応できず、そうこうしているうちに力量不足と管理職に責められて、精神的な病を経て、休職から退職に至ったと聞いている。

「もう、三年も前のことなのに?」

「まだ、三年とも言えますよ」

 田村は、安藤の言葉に目を細めた。

 そこに潜む、一つの思惑。見え隠れする彼の真意は、ある意味わかりやすいぐらいだった。

「つまり、その殺人代行のサイトを作ったのは千華ちゃんだと言いたいんですね?」

「……あくまでも、一つの可能性、ですよ」

「ならば、今の時点では、証拠はないのでは?」

 一方安藤は、田村の切り替えしに、舌打ちをしたい気分だった。

 実際、瓜生千華子がそのサイトにアクセスしたのは、一度きりだった。

 それも、近所の交番に届け出る前日のアクセスのみ。

 その後、彼女はいっさいそのサイトには訪れていない。

 そちらの捜査も既にされており、彼女の「関与」は、ほとんど「シロ」と上層部も見ている。

 だが(・・)、それ(・・)で(・)は(・)困る(・・)の(・)だ(・)。

「……あなたの欲しいものは、手に入らない」

「えっ?」

 そんな安藤の思考を叩き切るように、田村は言った。

「私は、あなたが望むような情報は持っていません」

 見えないはずの目には、何が映っているのか。

 田村は、安藤を真っ直ぐに見て言った。

「姉さん、いい?」

 と、その時だった。

 コンコンと、入口のドアがノックされる。

「入って」

 田村が返事をするのと同時に、カチャッとドアが開き、真紀が入って来た。

「矢野さんから、電話が入っているの。急ぎみたいなんだけど……」

「わかったわ」

 田村は頷いたが、矢野、と言う言葉に安藤は引っかかりを感じた。

 地方の警官に過ぎない安藤でも知っている、政界のファクター的存在の男と同じ苗字だった。

「すいません、用事が入ったので」

 暗に帰れという田村に、安藤は問うた。

「あなたは……何者なんです?」

「ただの、占い師……霊能者ですよ」

 それに、田村はあっさりと答えた。嘘を言っているつもりはなかった。


「な……んでっ……!」

 出て来た言葉は、まずそれだった。

 どうして、と。

 千華子の知っている新見じゅえるは、人殺しができるような子ではなかった。

 いつも自分に自信がなくて、おどおどしている子だった。

 でも、笑った顔は可愛くて、一生懸命、母親の期待に答えようとしていた。

 普通の―本当に、普通の子どもだったのだ。

『だって、ママが言うんだものっ! 私は何もできないって。でも、人を殺すことぐらいやったら、認めてやるって!』

「……っ!」

『本当にダメな子っ! アンタみたいな子はね、一度人を殺してみるぐらいなことをしたらいいのよっ! できるわけないでしょうけどねっっっ』

 信じられず、呆然とした千華子の耳に、ヒステリックな女の声が届く。

 そして、大画面に映されるのは、新見じゅえるの母親。

 心の底から、軽蔑していることがわかる、その表情。そして、嫌悪の瞳。

「……!」

 千華子は一瞬、昔、自分を見つめた管理職の目を思い出した。

『瓜生先生は、本当に教師失格ですね』

 そう言った時の管理職の目と、大画面に映し出される新見じゅえるの母親の瞳が、重なる。

 千華子は、あの管理職の言葉と瞳で、「心」を殺された。

 だけどその後静養して、たくさんの人達に助けられて、何とか、今は自分の力で生活できるようになった。

 でも、新見じゅえるは。実の母親に、―一番自分を認めて欲しい母親に、否定されてしまったのだ。

 たった、十三歳の女の子が。

『だから、探したの。人を殺して欲しい人達が集まっているサイト。そしたら、簡単に見つかった。ねえ先生、知ってた? 世の中には、自分の子どもを殺して欲しいと思う人がたくさんいるんだね』

「……新見さん」

 千華子は、新見じゅえるの言葉を遮るように、そう呟いた。

―お姉ちゃん!

―いたらん同情は、せんでよか!

 だが、その呟きを隠すように、ナツとぬいが、それぞれ叫ぶ。

「ナツ……ぬい……」

―あたが大切なもんはなんねっ! いたらん同情で、それば手放すつもりねっ。

 大切なもの。

 チリンチリンチリンチリンチリンチリンチリン

―おねえちゃん!

 例えば、それは顔も見たことがない、声も聞いたことがなかった、幼い幽霊の子。そしてその子が必死で鳴らすその鈴は、年に二回、必ず盆と正月に帰省を促す妹が、「修学旅行のおみやげ」とわざわざ送って来てくれた物だ。

 大切なもの。

千華子は、タロットで出た、「正義」を思い出した。

『それなのにママは酷いのよ! 『あんたなんか、私の娘じゃない!』私、人を殺せたのに。殺して(・・・)あげた(・・・)のに(・・)!!』

「……!」

 その瞬間。千華子の脳裏に、新見じゅえるの姿が浮かんだような気がした。

 セーラー服を着た、真っ黒い顔の少女。ただ、口だけが大きく開いていた。裂けている、と言ってもいいのかもしれない。

「……ごめんね」

 千華子は、小さく呟いた。

『先生!?』

 新見じゅえるは、「悪霊」となっていた。

 霊のことはほとんど知らない千華子でも、それは、一目でわかった。

 どうして新見じゅえるが、悪霊になってしまったのか、千華子にはわからない。

 子どもを殺した後、どうやって母親に報告したのか。そして、どうして天降(あもり)(かわ)で死んでいたのか。

 ただ千華子にわかるのは、千華子がこのまま新見じゅえるの傍に行っても、彼女が救われることはない、ということだけだ。

『何で、何でなのぉぉぉぉぉぉ!』

 だが、新見じゅえるは千華子のその返事を聞いた瞬間、それこそ、地の底から叫ぶような声を出した。

『何で、何で、私を助けてくれないのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。私は、とてもかわいそうなのにっっっっっ』

 千華子は、きつく目を閉じた。

 かつての教え子の絶叫。

生きていた頃は、あんなに明るい笑顔だったのに。あの輝くような笑顔は、確かに、希望に満ちていたのに。

―いたらんことは、考えんでよか!

 そんな千華子に、ぱしっとした言葉を「ぬい」がかけてきた。

―今のあん子ば、あんたは助けることはできん。あん子が本当に傍にいて欲しいのは、あんたじゃなかっ!

 そう……それは、千華子もわかっていた。

 新見じゅえるが、本当に傍にいて欲しいのは、千華子ではないのだ。

……どうして子どもは、あんなにも「母親」を求めるのだろう? 

 どれだけ否定をされても、どれだけ酷い言葉を投げつけられても、最後に子どもが選ぶのは、「母親」なのだ。

『マママア、ママアアァァァァァァ!』

 千華子の耳に、母を呼ぶ子どもの叫びが届く。

―戻りなっせ。そして、あん子の叫びば、届けなっせ。

 つらくて、さらにきつく目を閉じた千華子に、「ぬい」は、まるで囁くように言った。

「え……?」

―現のことは、生きている人間にしかできん。あん子のために、あんたができることをしなっせ。

 そうして、次の瞬間。

 千華子は、ぽんっと肩の部分を、軽く押されたような気がした。

“あんたが、この子の姉ちゃんね。仲良うしてやって”

 昔。そう言って、自分を覗き込む人がいた。眠っている赤ちゃん(いもうと)の上にいて、ふわふわ浮いていた。

 優しく笑って、頭を撫でてくれた。

 千華子は落ちていくような感覚の中、そのことを思い出す。

“幸せになんなっせ、二人共。私ののうなった子ども達の分まで”

 そう。

 その人は、囁くようにそう言った。

 それは、今思えば、まるで祈るようにも聞こえた。


「千華ちゃん、しっかり……!」

ばあんっと、目の前で手を叩かれたような感覚がした。

「柚さん?」

 泥酔していたはずの柚木が、必死に呼ぶ声が聞こえ、千華子はハッと我に返った。

「え……?」

 そうして、目の前に広がった光景に、目を見開く。

「千華ちゃん……」

 なんと柚木は、ホテルの玄関前にしゃがみ込み、お腹の部分を腕で覆うようにしていたのだ。

「どうしたんですか!?」

 千華子は慌てて柚木に近寄ろうとしたが、柚木は必死な様子で首を振った。

「前……!」

 えっ?と、千華子が思った瞬間だった。

 ぱーんと、何かが弾かれるような音が聞こえたような気がした。

 そうして、千華子の足元に転がってきたのは。

「……ッ!」

 血の付いた、包丁だった。

「なんなのぉっ」

 そして、辺りに響く、女の甲高い声。

 千華子はとっさに、その包丁を靴で踏みつけた。

「ナンなのっ、何なのおっ なんなのおっっっ」

 ―その女は、千華子から少し離れた場所で、倒れていた。

 そして、そう叫びまくっていた。

「新見さん……?」

「あんたのせいでぇ、あんたのせいでえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」

 以前よりはるかに年を取ったように老けて見え、怒りのためかその表情は、歪んでいる。

 だがまちがいなく、その女は、新見じゅえるの母親だった。

 そして、バタバタと動かしている彼女のその手には、赤い鮮血が付着している。

「柚さん!?」

 血塗られた手と、包丁と、座り込んだ柚木。

 それら一連のことが、千華子を一つの結論へと導いていく。

「私は、大丈夫だから……」

 柚木は顔をしかめながらも、そう言った。

 だがその顔色の悪さは、尋常ではない。

「柚さん!」

 千華子は人を呼ぼうとしたが、足元にある包丁に、はっとなった。

 今、ここで千華子が人を呼びに行ったら、柚木は一人になる。

 まして、凶器である包丁を置いたまま場所を移動すれば、どうなるのか。

「……っ」

 千華子は、ぎゅっと唇を噛み締めた。

「あんたのせいで、私の娘は死んだのよっ!あんたのせいでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」

 その間も、新見じゅえるの母親は、ずりっずりっと倒れた身体を揺らし、ほふく前進をするように動こうとしている。

 何故に、彼女は過剰なまでに、自分を責めるのか。

 どうして、自分を包丁で刺そうと思うほどに、憎むのか。

 まったく、千華子にはわからなかった。

「あんたのせいでぇぇぇぇぇぇぇ」

 ただわかるのは、今自分に向ける表情で、彼女が自分の娘を見ていた、ということだ。

 新見じゅえるの母親は、彼女の望む通り、「宝石」のごとく輝けなかった、自分の娘に、憎しみ一杯の表情を向けていた。

 新見じゅえるは、どんな気持ちでこの母親を見ていたのだろうか。

「新見さんは……死んだのですね」

『マママア、ママアアァァァァァァ!』

 泣き叫びながらこの母を呼んでいた新見じゅえるの声が、千華子の耳元でこだまする。

「そうよっっっっ。あんたのせいで死んだのに、あんた達のせいで死んだのに、どうしてあんた達は旅行なんかに行くのっっっっ。どうしてそんなに楽しそうなのぉぉぉぉっっっっ」

 新見じゅえるの母親は、倒れたまま、きっと千華子を見上げて、そう叫んだ。

「新見さんは……じゅえるさんは、いつだって頑張っていました」

 千華子は、そんな新見じゅえるの母親に、呟くように言った。

「確かに、勉強の理解は遅かったです。時間もかかりました。でも、できるまで頑張っていた子なんです」

 そう……新見じゅえるは、何でもできる子ではなかった。

 特に勉強は、他人よりも何倍も時間をかけないと、身に付かなかった。

 それでも、一生懸命、何度でも千華子に質問に来ていた。

 テストだって、いい点ではなかったけれど、ちゃんと「やり直し」をして、まちがったところは、今度は絶対にまちがえないようにしよう、としていた。

「それに、勉強もスポーツもあまり得意ではなかったですけど、折り紙や工作なんかは、とても上手でした。日記も、読んでいて『いいなあ』と思える文章が書ける子でした」

 特に粘土の工作が上手で、図工で「お店屋さん」を作った時は、パンを一つ一つ丁寧に、本物そっくりに作っていた。

「だから『将来、お菓子を作ったり、洋服を作ったりする人になるといいかもね』って私が言うと、うれしそうに笑っていました」

 千華子は、その時の新見じゅえるの笑顔を、今でも覚えていた。明るく、屈託のない笑顔だった。

 だけど。―あれから三年経った今。

『何で、何で、私を助けてくれないのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。私は、とてもかわいそうなのにっっっっっ』

 あれは、千華子が覚えている新見じゅえるではなかった。

 真っ黒い顔の少女。ただ、口だけが大きく開いている―

「なのに、何で……何で、あんな暗い場所にいなくちゃいけないんですか! 何であんな暗い場所で、死んでからも救われなくて、叫んでなきゃいけないんですか!?」

「千華……ちゃん?」

 すぐ隣で、柚木がけげんそうに自分の名を呼んでいることはわかっていたが、千華子は、自分を止めることはできなかった。

「私は、新見さんのあんな姿なんか望んでなかった! あんな姿を見るために、教員を辞めたんじゃないっ!! なんで……なんで、あの子があんなに願った未来(もの)が、真っ暗になんなきゃいけなかったんですかっ!」

 それは、千華子の心の底からの叫びだった。

「あんな未来(もの)、私は望んでいなかった!」

 そう……自分が望んでいたのは、新見じゅえるが、笑顔でいる未来だった。

 「母親が望む自分」から解放されて、真っ直ぐに、本来の自分らしい未来を掴んでいる、新見じゅえるの姿だった。

 その時に、彼女が自分の言った言葉をもう一度思い出してくれれば、教師になった意味はあった。……そう思って、退職も決意できたのだ。

「千華ちゃん……」

「何よ……何よ何よなによなによナニヨナヨニナニヨっっっっっっっ」

 だが千華子の叫びを聞いて、新見じゅえるの母親は、叫んだ。

「あんたなんかに、あんたなんかに、あんたなんかに、私の気持ちなんかわかるもんですかっっっっ!」

 目を真っ赤にして、きっと千華子を睨みつけて来る。

 「自分の子どもに、あれこれ望んで何が悪いの! あの子があんなに何もできない子だから、私があれこれ言われるのよ!? どうして、あんな何もできない子が、私の子どもなのよっっっっっっ!」

 その言い放たれた言葉に、千華子は唇を噛み締めた。

 赤の他人である千華子ですら、その言葉は、刃となって心に突き刺さる。

「挙句の果てに殺人者よ!? あんな子……あんな出来損ないの子、産むんじゃなかったっっっっっっっっ!」

「っ!」

 絶叫だった。

 その絶叫は、紛れもなく、新見じゅえるの母親の思いなのだろう。

 だがそれは、あまりにも、本当にあまりにも、残酷な言葉だった。

 否―非情な言葉だった。

 千華子だって、一時は教師だった身である。

 「手のかかる」子どもを指導していくことが大変だったのは、十分経験している。

 時として、上手くいかないことだってあった。

 正直、「この子がクラスにいなければ」と思った時だって、あった。

 教師だって、人間なのだ。

 どうしたって、「相性」というものもある。

 だけど。そう―だけど。

 絶対に、そんな自分の感情は見せようとはしなかった。

 それは、「大人」として絶対にやってはいけないことだと思っていたからだ。

 それは、「親子」だって、同じはずなのに。

 確かに、「相性」はあるかもしれない。

 「育てにくい子」と言うのも、あるかもしれない。

 だが、その言葉を、その言葉だけは、言ってはいけなかったのだ。

 そう……「新見じゅえるの母親」で、あるならば。

 例え、本心からそう思っていたとしても。

―勝手なものじゃな。結局、最後まで大切なのは、己か。己の我欲が生み出したものも直視せず、他人のせいにする。己の妄執が、己の選択が、それ(・・)を生み出したとは、思わなんだか。

 と、その時だった。

 ふわりと空中に、一人の男が現れた。

 狩衣姿に、頭には鳥帽子を付けたその男は、

「セイ……」

 千華子も知っている、「霊」だった。

―悔いて嘆くようであれば、まだ猶予はあったものを。否、そのようなモノがあれば、このような結果になりはせんかったか。

 その「セイ」の眼差しは、真っ直ぐに新見じゅえるの母親へと向けられていた。

―返してやろう、そなたの娘を。そこまでして、求めるのであればな。

 そうして、セイは、狩衣の袖をふわりと動かした。

「何……?」

 その瞬間、千華子は大きく目を見開く。

 セイの袖の下から現れたのは、黒っぽいもやみたいなものだった。

―ママア……。

 それが、何かの言葉を発しながら、新見じゅえるの母親に近づいていく。

―ままあままままああままあママアママアママアままあままままああままあ……

 それは、「何か」を希求する声だった。 

心の底から、望んでいる―。

 だけど。どうして、「大人」は言えるのだろう。

 子どもが、心の底から望んでいるのに。

 そうして、千華子はまた聞くのだ。

 「かあくん」の母親と同じ言葉を。

「いやああああ、来ないでぇぇぇぇ!」

 己の子を拒絶する言葉を。

「っ!」

 その言葉が、千華子の胸に突き刺さる。

 どぉぉぉぉぉん!

 それと同時に、地の底から響く音が聞こえ

た。

「いややややややああああああああああ」

 暗いもやが、新見じゅえるの母親に覆いかぶさるようにまとわり着く。

―ままあままままああままあママアママアママアままあままままああままあ……

 子どもは、どれだけ親に拒絶されても、求めるのだ。

 その、心を。その、愛情を。

 たとえ、それが自分の望む形ではなくても、自分を殺しながら偽りながら、希求する。

 親からの、愛情を。心の、底から。

 「何で?」と、赤の他人の千華子ですら、思うのだ。

 当の子どもは、さらに思うだろう。

 どうして自分の母親は、自分をこれほどまでに拒むのか、と。

 その胸が千切れるほど、そう思うだろう。

「安易だな」

 と、その時だった。いきなり、声が聞こえた。

パーン!

 それと同時に、何かが断ち切られる感覚がある。

 その瞬間、新見じゅえるの母親を覆っていた黒いもやが、見えなくなった。

「誰……?」

 千華子は、その人物に見覚えはあった。

 先日、バイト先で千華子に声をかけてきた男だった。

 そう―ナツが、『お顔がない』と言っていた男。

「誰だって、優秀な子どもが欲しいさ。人間だって、しょせん生き物だ」

「何……?」

 そうして言われた言葉は、とてつもなく不快なものだった。

「うっ……!」

 だが、自分のすぐ隣にいた柚木のうめき声を聞いて、千華子はそれどころではない、と思い直す。

「柚さん!」

「大丈夫ですか!?」

 そして千華子が柚木に声をかけるのと同時に、ホテルから人が出て来る。

「救急車を呼びましたから!」

「ありがとうございます!」

 千華子はホテルの従業員らしき人に声をかけられ、礼を言った。

 千華子も、柚木が少しでも回復するように、治癒力を上げるレイキの記号(シンボル)を小さく柚木の背に指で描き、そのまま手を背中に置いた。

 遠くから、救急車のサイレンが聞こえてくる。

 そんな中、新見じゅえるの母親の方を見ると、彼女の周りには、ニ、三人かの人が取り囲んで、呆然としている彼女の肩を、体格の良さそうな男の人が抑えていた。

 その中に、さっきの男の姿はなかった。

 呆然とした新見じゅえるの母親の表情からは、何の感情も読み取れない。

―連れて行かれたから。

 その時、ふいに千華子の耳元にそんな言葉が聞こえた。

 えっ?と思ったが、

「救急車が着きました!」

 そんな言葉に、はっと我に返る。

「同行者の方ですか?」

「はい、そうです!」

 駆け寄ってきた救急隊員に頷く千華子は、その瞬間、男のことも聞こえた言葉のことも、意識から離れていった。


 ばしゅっと言う音がして、その人は消えてしまった。

―小賢しいことをする。

 「にんじゃ」の人が、手に持っていた「かたな」をどこかにしまいながら、怒ったように言った。

 さっきまで、「おねえちゃん」の傍に、知らない人がいた。それは、もちろん生きた人じゃない。

 だけどその人を、「にんじゃ」の人が「かたな」で叩いたら、いなくなってしまった。

―さっきの人は、おねえちゃんに何をしたの?

―自分達にできなかったことを、この場になっても、託そうとしよったのじゃ。

 自分がそう聞くと、「みはる」もやっぱり怒ったような声でそう言う。

 と、その時だった。

『容赦ないな、あんた達』

 そんなふうに話かけられた。

 とたんに、「みはる」達の表情が怖くなった。

 声のした方を見ると、何故か、顔のない人が自分達に近づいて来ている。

『あの母親が連れて行かれたのは、地獄だろう? あの母親を守護していた者達が助けを求めても、無理はない』

 そう話しながら近づいてくる顔のない人を邪魔するように、「にんじゃ」の人と、「ひな人形」の人が、その前に立った。

―それ以上、近づくな! 

 ずいっと「にんじゃ」の人が、顔のない人に刀を向ける。

『破魔の力を持つ者が、二人か。何故、君達は彼女(・・)の(・)()を(・)閉じさせて(・・・・・)いる?』

 けれどその顔のない人は、そう聞いてきた。

―必要ないから。いらないから。

 その問いに、「ひめおねえちゃん」が、まるで歌うように答えた。

必要(・・)ない(・・)?』

―うん。いらないもの。

 顔のない人は、「ひめおねえちゃん」を見たようだった。

 顔がないから、どこを見ているのかわからないけれど、なんとなく、そんな感じがした。

『君が、彼らのリーダーか』

 そうして、顔のない人は、「ひめおねえちゃん」に、そんなことを聞いてきた。

―そんなことは、知らない。

 だけど、「ひめおねえちゃん」は、そう、歌うように答えた。

―お顔がない、あなたは誰?

そうして、「ひめおねえちゃん」がそう言った時、ぱーんっと、大きい音がした。

 びっくりして目をつぶって、それから目を開けてみると、顔のない人は、もういなかった。

―逃げたようじゃな。

 手に持っていたうちわみたいなものをパタパタと動かしながら、「ひなにんぎょう」の人が言った。

―今のお顔がない人、誰?

―生き人のごたっばってんが……。

 「ぬい」も、戸惑っているようだった。

―姫は、ご存知か?

 「みずち」が、「ひめおねえちゃん」に聞いた。

 だけど、「ひめおねえちゃん」は、黙ったままだった。

 黙って、「おねえちゃん」の方を見ていた。

「おねえちゃん」は誰かに声をかけられて、救急車に乗ろうとしている。

―姫。

 もう一度、「みずち」が、「ひめおねえちゃん」を呼んだ。

―あんたは、あん子達の姉ちゃんばい。心配じゃなかとね!

 怒ったように、「ぬい」が言った時だった。

―動き出す。あの子は、動き出すの。

 そう、「ひめおねえちゃん」が言った。

―そうしたら、わかる。あの人のことも。あの子が動いた先に、あの人はきっといる。

 まるで、歌っているようにそう言った。

 

 結局。

 新見じゅえるの母親は、現行犯逮捕された。

 千華子が見かけたあの男達は、今思えば、私服の刑事達だったのだ。

「何で、あんなことしたんだろうね……」

 病室で、柚木は新見じゅえるの母親が逮捕されたニュースを見ながら、ポツリと呟いた。

 パイプ椅子に腰をかけた千華子は、柚木の隣でテレビの画面を見ながら、唇を噛み締める。

 あの後。

 柚木と一緒に、千華子は救急車で病院に向かった。

 柚木は刃物で腹部を刺されていたものの、そこまで深く刺さっていなかったので、手術する必要はなく、何針か縫うぐらいですんだ。

 ただ、柚木は旅行先ということと、マスコミが押しかけて来るかもしれないということで、数日は入院することになったのだ。

 千華子は柚木が治療を受けている間、警察から事情聴取をされたが、ほとんど「わかりません」としか、答えることができなかった。

 何故、九州にいるはずの新見じゅえるの母親が、この中国地方にある街に来たのか。

 何故、柚木を刺したのか。

「私が、安易だったかのもね……」

 そうため息を吐き、柚木が言った。

「柚さん」

「柳瀬先生から学童の話を聞いて、これはすぐにでも千華ちゃんに直接言わなきゃって思って……ここまで来たんだけど。考えてみれば、話は携帯でできるし、資料だって、郵便で送れば良かったのよね」

 柚木が千華子のある街に来ようと思ったのは、新見じゅえるに憑依されていたからだ。

 昨日、病院から戻った後、夜遅かったにも関わらず、田村がわざわざ連絡をくれたのだ。

 『大変だったみたいね』と、あいもかわらず、千華子は何一つ話していないのに、田村はそう言った。

 そして、『千華ちゃんの友達は、使われたみたいね。その女の子が、千華ちゃんの所に来るために、わざわざこっちまで行くように仕向けたんだよ』と、言葉を続けた。

「柚さんのせいじゃあないですよ。誰だって、自分に探偵が付けられているなんて思いもしませんから」

 だがそのことを柚木に言うことはできず、千華子は別のことを口にした。

 新見じゅえるの母親は、新見じゅえるが死んだ後、妹のてぃあらの担任だった柚木に、どうやら探偵を付けていたらしい。

 それは柚木だけではなくて、新見じゅえるの担任だった教師、てぃあらの担任だった教師にすら、交代で付けていたらしいのだ。

 だが、たった一人だけ付けられていない担任がいた。

 それが、今はもう教師を辞めていた、千華子だったのだ。

 その事実を事情聴取の時に刑事から聞いた時、千華子は本当に驚愕した。

 「何で……」と、思わず呟いてしまったほどだった。

 千華子には、わからない。

 娘の死後、かつての担任達に、探偵を付けてまで身辺を調査させた、新見じゅえるの母親の気持ちも。

 そして、本当は自分の母親に助けて欲しかったのに、千華子に助けを求めた、新見じゅえるの気持ちも。

 ただわかるのは、テレビが伝える「繁華街のホテルで人を刺した女性が、心神喪失の状態で話ができない」という事と、田村に教えてもらった、『もう、新見じゅえるの霊は、この世にはいない』ということだけだった。

「病室に来た刑事さんが言っていたんだけど……新見さん―じゅえるさん、殺人の容疑が出ていたんですって。千華ちゃん、知ってた?」

「いえ……」

 本当は、知っていた。

 けれど、まさか柚木にあの(・・)()のことを話すわけにもいかず、千華子は首を振る。

「新見さんが天降川で死ぬ前にね、幼稚園の男の子がやっぱり天降川で水死体として発見されたの。だから、新見さんが続けて死んだ時、地元じゃけっこう大騒ぎだったの。だって、二人続けてだからね。だけど、その男の子が中学の制服を着た女の子と一緒だったという目撃証言があったらしくて……新見さん、その時、学校休んでいたらしいの」

 千華子は、ぎゅっと目を閉じた。

 おそらく、警察は、新見じゅえるを疑っていたのだろう。

 そして、新見じゅえるの母親に事情聴取をしたのだ。

 母親は、その後に新見じゅえるを責めて、追い込まれた新見じゅえるは、自殺したのかもしれない。

 あるいは……新見じゅえるの母親が、手を下したのかもしれない。

「何を……求めていたのかな?私や他の先生達に探偵付けて、どうして欲しかったのかな」

 呟くように、柚木は言った。

「……わかりません」

 それに対して、千華子は小さく呟く。本当にわからなかった

 。新見じゅえるの気持ちも、その母親の気持ちも。

 千華子にわかるのは、新見じゅえるは死んでもなお、母親の愛情を求めていて、だけどその気持ちが叶うことがなかった、ということだけだ。

「私には、わかりません……」

 願ったのは、唯一つ。

 教え子の、幸せだった。

 後にも先にも、それ以外望んだことはなかった。

 だが、その願いは叶わなかった。そう……叶わなかったのだ。

「わかりません、本当に……!」

「千華ちゃん……」

 かわいい女の子だった。

 本当に、心の底から未来を信じていた。

 幸せになると、信じていたのだ。

 あんな死に方を、あんな惨い事をする子ではなかったのだ。

 千華子は目を閉じたまま、流れていく涙を止めることができなかった。

 だけど、その涙が、新見じゅえるに届かないことを、十分にわかっていた。



 どこかの場所で。女が、放心したように座っていた。

 その女には、一人のセーラ服を来た少女が、縋り付いている。

 その顔は黒く、笑っているのか、泣いているのかわからない。



―そこは、どこかも、わからない。永遠に、わからない……。



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