5 過去
『先日熱中症で亡くなった幼児が、殺害された可能性が出てきました』
苦い。
コーヒーを飲みながら、千華子は思った。
『亡くなった幼児は、伊佐木市の会社員広川正彦さんの長男・克実君。警察は当初、遊んでいた克実君が、駐車場に止められた車に入り込んでしまったためと見ていましたが、その後の調べで、克実君は睡眠薬を飲まされていたことがわかり、殺された可能性があるとして、殺人事件として捜査を開始しました』
一夜明けた後の朝のテレビは、事実を伝える。
苦い事実を、まるで何かへ報告するかのように。
『警察は、克実君がいた車をレンタルした男性と、一緒にお店に来た母親に話を聞き、慎重に捜査を進める予定です』
テレビには、あの殺されてしまった幼子の写真と、バイト先の店が映っている。 千華子は、もう一口コーヒーを飲んだ。
それは、無常な事実だった。
千華子があの幼子の幽霊に見せられた夢は、結局、何もかもが現実に起こったものだったのだ。
母親に死を望まれ、殺された子どもと。
我が子の死を望み、逮捕されてしまった母親と。
どちらが哀れなのかなど、一目瞭然だ。
まだニュースには流れていないが、今日中には、真実は明るみに出るだろう。
そうなれば、誰もがあの母親を、「母親失格」と非難するに違いない。
実際、我が子を赤の他人に依頼して殺させるなど、言語道断の事態だ。
だけど。
そう―だけど、と千華子は思うのだ。
何故にあの母親は、我が子を殺さねばならない程、思いつめてしまったのか。
何が原因で、そうなってしまったのか。
どうしても、千華子は、そのことが気にかかってしまうのだ。
……だがそれは、考えても、仕方のないことだった。
事態は、千華子には手の届かないところにある。
警察が捜査をし、やがて裁判となって、裁判官が判決を下すのだろう。
そこまで考えて、ふと思った。
あの母親は、どこのサイトで殺しの依頼をしたのだろうか?と。
もしかして、自分が見つけた、あのサイトなのだろうか?
「……」
さらにそこまで考えて、千華子は、持っていたカップをテーブルの上に置いた。
これもまた、考えても仕方のないことだった。
たとえそうだとしても、自分が関わるべきでないことは確かだった。
だが、苦い思いは残る。
どうしようとないとはわかっていても、千華子は、自分が抱える苦い思いを消すことはできなかった。
と、その時だった。
ごとんっと、テーブルの上に置かれたナツ用のパソコンの近くから、何かが落ちたような音がした。
「ナツ?」
千華子がテレビから体の方向を変えて、ナツ用のパソコンを覗き込むと、その隣には、オラクルカードが出現していた。
「ナツ……」
これまで、タロットカードから携帯、果てはナツ用のパソコンと、何もない場所に出現しているので、今さら驚きはしない。
だが、オラクルカードは初めてだったので、千華子は目を丸くした。
「オラクルカードに聞けってこと?」
千華子がそう聞くと、
『うん』
パソコンの画面が明るくなって、そんな文字が打ち出された。
千華子が仕事で良く使うのは、「女神のガイダンス・オラクルカード」だ。
女性のお客が多いので、「女神」のカードだと、やはり女性にはうれしいカードが出たり、参考になったりすることが多いようなので、オラクルカードでメッセージをもらう時は、このカードを主に使っているのだ。
タロットカードのように具体的な「答え」は出ないが、それでも、「助言」はもらえる。
千華子はカードを箱から出すと、意識を集中させた。
トランプと同じように、カードを切っていると、一枚のカードが、テーブルの上に落ちる。
「『マート』……」
エジプトの女神・「マート」のカードだった。
マートは、誠実さや公平、そして正義を司る女神である。カードの意味は、「公平さ」。
前にやったタロットの「正義」と、重なる部分があるように、千華子は思えた。
つまるところ、これは「公平であれ」というアドバイスなのか。
一時の感情に流されず、もちろん、世間の言葉にも流されず、冷静に行動しろ、というー
「……」
それはある意味、もっともなアドバイスだった。
第三者であり、警察でも裁判官でもない千華子には、あの親子と現実的に関わることはできない。
また、その資格もない。
ぐうの音も出ない、というのはこういうことだ。
そんなことを思いながら、千華子がため息を吐いた時だった。
『もういっかい』
そんな文字が、テーブルの上に置いた、パソコンの画面に打ち出される。
「えっ、また??」
千華子は、思わずそう尋ね返したが、まるで「そうだ」と言うように、パソコンの文字は動かない。
千華子はもう一度、意識を手元のオラクルカードに集中させた。
そうして、カードの束から引き出したのは、「聖母マリア」。
その名の通り、救世主を産んだ女性のカードだ。
オラクルカードでは、子育て中の人や教師、ヒーラーを見守る人としている。
「聖母……母親。そして、ヒーラーを見守る人……」
その時。
ふいに、一昨日届いたメールを思い出した。
「レイキで子どもが言うことを聞くようにして欲しい」と書いて来た、母親。
例えレイキヒーリングでその願いを叶えることはできなくても、「解決方法」のアドバイスをすることは可能だった。
机上の空論と言われようが、千華子には、それができる知識と経験があった。
千華子は、オラクルカードを片手に持ったまま、ゆっくりと立ち上がり、仕事用のデスクに歩いて行った。
「現場検証?」
バイト先の事務室で、似合わない言葉を聞いたとたん、千華子は眉を寄せた。
「そう。警察から、本部に申し入れがあったんだって」
千華子の言葉に、パイプ椅子に座った店長がそう頷いた。
「また……するってことですか?」
だが、現場検証はあの男の子が―かあくんが救急車で運ばれた後に、一度されたはずだ。
「本部の係の人が言うには、犯人が逮捕されるからってことらしい。今朝のニュースで、あの子殺された可能性が出て来たった言ってたじゃない? ってことは、もう一度調べなおす必要があるってことじゃないかな」
「そうですか……」
目を伏せて、千華子はそう言うしかなかった。
「まあ、期日はまだ決まっていないらしいんだけど、ただねえ、そのまだ『決まっていない』ってのが、問題なんだ」
「店は……閉めますよね?」
「そこを、瓜生さんに聞いてみたかったんだよ。どう思う? その間、店開けられると思う?」
店に入って早々、店長から事務室に来て欲しいと言われた時は何事かと思ったが、店長は、そのことについて、千華子に意見をして欲しいようだった。
「本部は何て言っているんですか?」
ちなみに「本部」とは、文字通りこのファーストフードの店舗を一括に管理している、県の支部のことだ。
千華子のバイト先であるこのファーストフードの会社は、世界中に支店があるが、各国ごとにその国にとっての「本社」を作り、その「本社」が、「支社」として、県ごとにそれぞれ「本部」を作っている。
だから、千華子のバイト先である店を直接管理しているのは、この「本部」であり、店長はこの「本部」から出向している「社員」でもあるのだ。
「できたら、開けて欲しいってことだった」
「無理ですよ」
だが千華子は、店長の言葉に首を振った。
「現場検証って、駐車場ですよね? しかも今回はけっこう大掛かりになるんじゃないんですか? そうなると、車は停められますか? うちの駐車場は、ただでさえ小さめなんです。そのせいで事故でも起きたら、目も当てられません」
「そうだよねー。熊谷君もそう言ってた」
そして店長も、千華子の言葉に頷く。
「熊谷さんにも相談されたんですね」
まあ、彼は店長と一緒で、この店では、店長以外では唯一の「社員」だ。
真っ先に相談していても、何も不思議ではなかった。
「ただねえ、警察の方は期日の方をはっきりしてくれないし、そうするとさ、材料の仕入れも調節しにくいじゃない。それとね、やっぱりそういう時って人が集まるでしょう? 正直、売り上げのことも考えるとね……」
店長は、野次馬で集まる人達のことを言っているのだろう
。実際、「かあくん」が救急車で運ばれた後は、現場を見に来た野次馬の人達が、そのまま店へと流れて来た。
ある意味、売り上げを伸ばすチャンスとも言えるのだ。
―決して、良い気持ちはしない。
あの殺された「かあくん」のことを考えると、店長の言うことは、あまりにも非常識のように思える。
だが、たいていの人間が考えることでもあるのだ。
そのことを、千華子はよく知っていた。
「もし何かあった時、責任は本部に行くんですか?」
今朝飲んだコーヒーが、まだ喉のあたりにあるような気がした。
苦い気分を押し殺しながら、千華子は聞いた。
「本部がすべて責任を負うつもりなら、お引き受けしても良いと思いますけど」
「それって、何らかの対策を本部にしろってこと?」
「私達だけでやれと言うのであれば、絶対に無理です」
自分の言葉に頷く千華子を見て、店長はため息を吐いた。
だが現実的な問題として、通常の業務をこなしながら、現場検証をしている警察がいて、店のスタッフ達だけで店を回転させるのは難しい。
おそらくは、前回と違って大掛かりな検証になるだろうし、注目度も格段に違ってくる。……母親が我が子を殺すために、赤の他人に殺害依頼をしたという事件は、マスコミには格好のネタになるだろう。
「警察の方は何て言ってきているんですか?」
「まだ、くわしいことは何も言ってきていないらしい」
「じゃあ、その時にまた考えればいいんじゃないんですか? 警察の方とも相談してからでないと、わかりませんよ」
「そうだね」
店長は、二回目のため息を吐きながら頷いた。
「店長」とは言え、彼はいわゆる「中間管理職」という立場だ。
千華子の言うことも、「本部」の言うことも、どちらの言い分も「わかる」のだ。
だからこその、ため息なのだろう。
「お話はそれだけですか?」
だが、千華子の方は壁の時計を見上げながら聞いた。
そろそろ、バイト開始の時刻になるのだ。
「あと、もう一つあるんだ」
そんな千華子に、待ってと言う様に、店長が手を振る。
「はい?」
「瓜生さんは、ここに来てどれくらいになる?」
「かれこれ三年です」
教員を辞めて、この街に引っ越して来て以来、千華子はこの店でずっとバイトをしてきた。バイトやパートの者達の中でも、一番長く勤めている。
「もう、そんなになるのかあ」
店長は、広い額に手を当てて頷く。
「店長?」
「瓜生さん。社員になる気はない?」
一瞬、千華子は何を言われたのかわからなかった。
「―はい?」
「本部から、そういう話が来ているんだ」
確認するように返事をすると、店長はそう言葉を続けた。
「えええっ」
思ってもいないことを言われて、千華子は目を丸くした。
「本部」の社員は、基本的に新卒で採用された者ばかりである。
中途採用もいるかもしれないが、千華子は、聞いたことがなかった。
「店長?」
思わず、本当ですか?という意味を込めて、店長を呼ぶ。
「一応、本部は本気なんだ」
「でも、バイトが社員になるなんて話は、聞いたことがないです」
「前例がないわけではないんだよ」
数は少ないけどね、と店長は言った。
「今まで言ったことはなかったけど、うちの店ね、実は県下の店の中でも、売り上げが二番目なんだよ」
「―はい?」
「売り上げが一番目の店は、県下でも有数の繁華街にあるから、それは納得なんだけどね。中心部から車で三十分も離れた、こーんな郊外型の店舗が、売り上げ二位なんだ」
「そうなんですか?」
店長の言葉に、千華子は少なからず驚いた。
店長の言うとおり、千華子のバイト先であるこの店は、県庁がある市の隣にある。
市町村合併で街の範囲が広くなった昨今、いくら隣の市とは言え、中心部からは三十分ぐらいかかるのだ。
それに、店は国道沿いにあるが、この辺一帯は主に住宅街であり、学校からも少し離れている。
「学生」と言う、格好の上客達から見ても、少し遠い場所にあるのだ。
「うん。それとね、うちの店に『研修』に来た社員は、評判が上々なんだよ。掃除とかの指導もしっかりやるし、率先して働くってね」
「それは、店長の力量じゃないんですか?」
そのことと自分が社員になる話が繋がらず、千華子はそう言った。
「本部は、それだけじゃないと思っているみたいだよ?」
だが、店長はそう言葉を返して来た。
「店長……」
「実際ね、いきなり二位になったんじゃなくて、少しずつ伸びていったんだよ。これってさ、ようするに、初めてこの店に来た人達が、この店を気に入ってくれてリピートしてくれるようになったから、こんなふうに伸びていったんだ」
「そうなんですか?」
「うん。その伸び始めた時期がね、瓜生さんがバイトを始めた時期と重なっているんだよ」
「偶然ですよ」
「違うよ。三年間『延びてきている』んだ。売り上げが下がった月は、瓜生さんが来てから一度もない」
千華子の言葉を、店長はそう言って否定した。
「その実績を買って、本部は瓜生さんを社員にしたらどうだろうって、言ってきたんだ。……考えてみてくれない?」
どうやら本気らしい店長の言葉に、千華子は言葉もなかった。とりあえず、
「はい……」
と頷くことしかできなかった。
事務所の更衣室に行きながら、千華子は軽くため息を吐いた。
正直、社員の話は思ってもいないことだった。
傍から見れば、まあ、ラッキーな申し出ではある。
不況の嵐が吹き撒いているこのご時勢に、「正社員」と言う安定した立場が手に入るのだ。
だが、この仕事は楽ではない。
正社員は、熊谷のように研修として現場に出た後は、店長となってそれぞれの店舗に勤める。
サポートとして社員が入る店もあるようだが、それはよほど大規模な店舗か、繁華街にある店舗のみだ。
千華子のバイト先である店の規模では、「研修」を受ける社員がよくて一人配属されるぐらいである。
つまり店についての責任は、全て社員である店長にかぶさってくるのだ。
千華子は、店長が自分より後に店に入ってくるのを見たことがないし、先に帰る姿を見たのも、この三年間で数える程だ。
千華子のバイトに入る時間帯のせいかもしれないが、そんな店長を見ていると、楽な仕事ではないことはよくわかる。
た だ、それでも。
店長はその仕事を「楽しい」と思っていることは、傍から見ていてもよくわかった。
子どもはまだ小さいらしく、七五三やら運動会やらの時は休みを必ずとるが、それ以外は精力的に仕事をこなしている。
その感覚は、千華子にも覚えがあった。
教師の仕事をしていた頃、確かに忙しかったが、充実感でいっぱいだった。
あの熱情を持てば、おそらく仕事をこなしていくことも可能であろうが、多分それは無理だろう。
千華子にとって、この仕事は「バイト」でしかない。
確かに店内清掃に燃えたり、出勤時間をきちんと守ったりして、真面目に仕事はこなしているつもりだが、それ以上のことをするつもりはなかったし、する気も起きないのだ。
思いがけず、日頃の仕事を評価され、それはもちろんうれしいのだが、「社員になってくれ」と言われると、考えてしまう。
そんなことを考えながら、千華子が更衣室のドアを開けようとした時だった。
ガチャッとドアが開き、制服のエプロンと帽子を点けた相田が出てきた。
「遅かったのね。遅刻?」
その口調には棘が潜んでいるようにも思えたが、千華子はとっさに答えられなかった。
返事をする前に、相田の肩を見てしまったからだ。
案の定、そこには何も(・)なかった(・・・・)。当たり前だ。
千華子が昨日見た風景が異常だったのだ。
相田を見たとたん、千華子の脳裏に、昨日の出来事がよみがえる。
泣く赤ん坊を抱く相田の肩に見えた、同じ赤ん坊の幽霊。
そして、アスファルトの上に頭を抱えてしゃがみ込み、絶叫していた母親。
「相田さん……」
「何?」
自分ではなく、ドアの方(相田的にはそう見えたらしい)を見ながら自分の名を呼ぶ千華子に、相田は、不満げに答えてくる。
「……昨日は、ありがとうございました」
そうして、ゆっくりと千華子は視線を相田の顔に戻しながら言った。
それ以外に、言葉を返すことができなかったからだ。
だが、相田にはそうは見えなかったらしい。
「それ、嫌味?」
と、言われてしまった。
「相田さん?」
千華子が相田の名を呼んだ、その時だった。
ナンデ、ナンデ ナンデ~~~~~!
「!?」
ドウシテ、ドウシテ、ドウシテ、ドウシテッッッッ!?
それは、どす黒い何か(・)だった。
そのどす黒い何かは、相田の耳の部分に、重なるようにして浮かび上がっている。
ドウシテワタシダケ、ドウシテワタシダケ、ナンデアンタハエラソウニ、ワタシヨリモミジメナクセニッッッッッッッッッッッッッッ
それ(・・)は、叫びだした。
どす黒い感情を放出しながら、千華子に向かって叫んできた。
アンタナンカ、アンタナンカ、アンタナンカ、アンタナンカ、アンタナンカ、アンタナンカ、アンタナンカっ!
―お姉ちゃん!
―坊主、触るでないっ!
その瞬間、まるで冬の冷気のように清浄な空気が、千華子とそれ(・・)の間に走った。
「先に行っているわよ」
そして千華子がはっと我に返ると、相田がそう言って、店の方と歩いていくところだった。
「何……?」
冷や汗が出た。
冗談抜きで、千華子の額には汗がびっしょりとわいて出ていた。
昨日見た風景も異様だったが、さっき見たもの(・・)は、それ以上だった。
それが何なのかは、千華子にはわからない。
だが、その禍々しさは感じ取ることができた。
額にかいた汗を拭い、ドアに背を預ける。
そして、深いため息を付いた、その時だった。
ふと、千華子は着ていたTシャツの裾の部分が、強く握りしめられているように感じた。
あくまでも「感じた」だけであって、実際にTシャツの裾は、何も変わっていない。
だが、多分「感じた」通り、握り締められているのだろう。
「ナツ?」
小さい声で呼びかけると、さらにTシャツの裾が強く握り締められたように「感じた」。
「……だいじょうぶだから」
そう言って、千華子が慰めるようにTシャツの裾の部分を叩くと、涙を浮かべたナツの姿が見えるような気がした。
『私も長いことこの仕事しているけれど、幽霊にギャン泣きされたのは、初めてだったわ……』
携帯越しの田村は、疲れたようにそう言った。
「す、すいません……」
バイト先から帰ってマンションの部屋に入ったとたん、バックの中に入れた携帯が鳴った。
表示された番号は田村のもので、千華子が慌てて携帯に出ると、開口一番そう言われてしまった。
どうやら例のごとく、千華子の後ろの人達と同じく、ナツも田村のところに行ったらしい。
『まあ、仕方ないのかもしれないわね。かなり強烈なモノを見たんでしょ?』
そうして田村は、あいも変わらず、千華子が何も言っていないのに、まるで見てきたようにそう言ってきた。
「先生……」
『生霊、ね。まあ……子どもが泣くのも無理ないか』
「そんなに怖いモノなんですか?」
『千華ちゃんに見えたってことだけで、もう十分やっかいよ』
千華子の問いに、田村はあっさりと答えた。
だが、その言葉を聞いて、千華子は絶句してしまう。
『まあ、難しく考えないで。生きている人間だもの。たまには、そんな時もあるわよ。たまたまよ、たまたま』
しかし田村は、そんな千華子の様子に気付いているのかいないのか、軽い口調で言葉を続けた。
「たまたま……ですか?」
『千華ちゃん(・・・)に(・)、霊感は(・)ない(・・)でしょ(・・・)?』
「そうですけど」
確かに、田村の言うとおりだった。
千華子には、霊感はない。
今でこそナツとパソコンやら携帯やらでナツと会話をしているが、ナツの姿は見えないし、見ることもできない。
『ただ時々、波長が合ったりして、見ちゃったりすることもあるのよ。まあ、用心はしておいた方がいいけどね』
「用心ですか?」
『いくら霊感はないと言っても、霊感のない千華ちゃんがわかるぐらい、その人は生霊を出して(・・・)いるのよ? 鈍い人でも、それなりに影響が出る可能性はあるわよ』
「鈍いんですか? 私」
『……その質問、何回聞いても突っ込みたくなるわね……』
「はあ……」
「見える」田村には、千華子の周りにいるものも色々とわかるらしいのだが、くわしくは教えてくれない。
ただ千華子は、どうやら霊感がないだけではなく、「鈍い」らしい。
これも何がどう「鈍い」のかよくわからないが、たまに「鈍いんですか?」と聞くと、先ほどのような答えを返されていた。
『とりあえず、千華ちゃんの知っている防御方法でいいから、やっておいて』
「レイキやフラワーエッセンスでいいんですか?」
『十分よ。本格的なものはやる必要はないわ。あれはちゃんと手順を守らないと、逆にやっかいだから』
「あ、でも、ナツはそれをして、だいじょうぶなんですか?」
そのことに気付いて、千華子は慌てて田村に尋ねた。
「それは、大丈夫よ。千華ちゃんの『後ろのえらい人』が、ナツくんのことは匿っているようなものだしね」
「あ、そうですか」
田村の言葉に千華子が安心したように頷くと、
『随分、情が移っちゃったみたいね』
苦笑するように、田村が言った。
「先生……」
『ナツくんが千華ちゃんに懐いちゃったのは、いつものパターンなんだけど……。やっぱり、これはまだしばらく様子見ね』
しかし田村は、千華子が思ってもいないことも言った。
「いつものパターン?」
って、それはどういうことなのだろうか?
千華子はもっとくわしく聞こうと思ったのだが、
『とにかく、くれぐれも言っておくけれど、ナツくんはイレギュラーなんだからね。それ以外は、絶対、必要以上に(・)関わっちゃダメよ』
と、逆に念を押されてしまった。
「あ、はい」
だが実は、「かあくん」の件では、ぎりぎり関わっていた千華子は、罪悪感を抱きつつも頷く。
その辺のことまでは、後ろにいる人達も、田村には伝えていないらしい。
『本当はね、会わない方が一番いいのよ。千華ちゃん、バイト辞める気ない?』
「はいっ?」
だが、次に言われた言葉は、思ってもいないものだった。
『その人は、同じバイト先の人でしょう? これからもずっと一緒にいるってことは、やっぱりあまりいいことじゃないからね』
「はあ……」
田村の言うことはもっともだったが、現実的な問題として、いきなり辞めることは難しかった。
貯金は教員を辞める時にもらった退職金が少しは残っているし、今の仕事を始めてからも、少ない金額ではあるが積み立て貯金はしている。
しかし、不況の嵐が吹きまいている昨今、バイト先とは言えど、すぐに見つけることはできないのだ。
しかも、千華子の場合、それは生活費の一部なのである。
『ああ、さすがに今すぐってわけじゃないわよ。ただね、千華ちゃん。それとは別にして、そろそろレイキの方を、本格的に開業することを考えてもいいんじゃない?』
「開業ですか?」
『そう。いいかげん、レイキマスターを取って、「伝授」することも始めてみたらどうかな? 真紀も千華ちゃんなら、いいレイキマスターになれるって言っているし』
真紀とは、田村の双子の姉妹であるレイキマスターの名前だ。
千華子に、レイキを「伝授」してくれた人でもある。
レイキは、「レイキマスター」と言われる人に「伝授」をしてもらうことで、使えるようになる。
そして、その「レイキマスター」になるには、さらに新たな「伝授」をしてもらう必要があるのだ。
千華子は、レイキが使えるようになる「レイキヒーラー」の「伝授」はしてもらっていたが、レイキマスターの「伝授」はまだ受けたことがない。
正直、考えていなかったと言うのが本音だ。
いや……考えるのを避けていた、と言うべきか。
レイキの「伝授」を望む人達は、たいていはレイキを使えるようになることで、何らかの幸運が手に入ることを期待している。
それは、自分の幸運を求めて、「幸運の壺」や「幸福の印鑑」などを買う人達と、似たようなものだろう。
その気持ちは、千華子にもよくわかる。
休職をしていた時に、千華子が一番望んでいたものが、その「幸運」と言うヤツだ。
奇跡が起きて欲しいと、幾度となくそう思った。
だが、そんなものは、起きはしなかった。
千華子が今、レイキである程度まで稼げるようになったのは、三年という時間を積み重ねてきた結果だし、休職してから退職した後、バイトで働けるようになったのも、目の前にある問題を、少しずつ解決していったからだ。
そのためには体が資本だったわけで、健康を保つ意味では、レイキの効果は絶大だったと、千華子は思っている。
しかし、そのことを何人の人達がわかってくれるのか。
そして、そのことを自分は上手く伝えられるのか。……「伝授」の料金は、ヒーリングのそれよりも一桁多くかかる。
決して安いとは言えない料金を出す人達に、自分の考えが上手く伝わるかどうか、千華子は自信がなかった。
『千華ちゃん。これもすぐ結論を出す必要はないのよ』
考え込んでしまった千恵子の耳に、田村の声が柔らかく響く。
「そうですね……」
『ただ、そろそろ考えても良い時期だとは思うの』
だが、そう田村は言葉を続けた。
まるで、神託を告げるがのごとく。
「先生……」
『とりあえず、バイトを今すぐ辞めることはできないでしょう? バイトに行く前に、ちゃんと自己防衛の処置をしてね』
「はい……」
立て続けに思ってもいないことを言われた千華子は、頷くことしかできなかった。
『じゃあ、またね』と言って田村が電話を切った後、お礼を言わなかったことに気付く。
携帯をぽんっと仕事用のデスクに放り出して、千華子は椅子の背もたれに体を預けた。
仕事でもないのにこんなふうに声をかけてくれるのは、ナツがまあ、ギャン泣きしたせいもあるかもしれないが、純粋に田村の好意からだ。
それは、十分にわかっていた。
そうでなければ、夜中に叩き起こされても、厭わずに電話などしてくれるはずがない。
だが、そうだからこそ、その言葉は千華子の胸に響いた。
『そろそろ考えても良い時期だとは思うの』
―きっと田村は、そろそろ先のことを考えるべきだ、と言いたいのだ。
千華子は、今度の秋で二十九歳になる。
転職するには、ぎりぎりの年齢であることは、転職活動をしたことがない身でも、十分にわかっていた。
転機、と言う言葉が頭に浮かんだ。
今日一日で、正社員の話と開業の話、正反対の話が出てきたのだ。
どちらにしても、今の千華子がやっていることに、成果が出たとも言えるのかもしれない。ただ……。
そこまで考えて、千華子はため息を吐いた。
そのどちらの道も、今の自分には進めファーストフードの店をがんばって切り盛りしている自分の姿も。レイキヒーラーとして、レイキを「伝授」の姿も。
どちらも、思い浮かべることができない。
『どうしたの』
と、その時だった。
デスクの上に置いてあったパソコンがパッと明るくなって、ワードの画面にそんな文字が浮かび上がった。
「ナツ」
千華子は、椅子の背に預けていた体を起こした。
『どうしたの』
もう一度、同じ言葉が画面に打ち出される。
「……だいじょうぶよ」
千華子はパソコンの画面を見つめながら、微笑んだ。
『うそ』
だがしかし、ナツはそんな文字を打ち出してくる。
「嘘じゃないって」
千華子は微苦笑を浮かべて言ったが、ナツは誤魔化されてはくれなかった。
『うそ』
三十六ポイントゴシック体で文字を打ち出してくる。
「ナツ~」
本当に、鋭い子である。千華子が担任をしていた子達よりも年下なのに、誤魔化されてくれないのだ。
じろっと、上から見られているような気もする。
もしかしたら、デスクの上に乗っているのかもしれない。
「……だいじょうになるように持って行くのも、大人なんだよ」
机にひじを付き、あごを手で支えながら千華子は言った。
だが、今度は画面には何の文字も打ち出されて来なかった。
「私は大人だからさ、大丈夫になるように持っていきなきゃいけないの。……本当にできなくなったら、それは『大丈夫じゃない』けどね」
それがどういうことなのか、千華子は十分にわかっているつもりだった。
自分は一度、「大丈夫じゃない」状態になった。
何もできず、ひたすら眠ることしかできなかった。
だけど。
「まあ……今は、頑張らせてよ」
あんな状態から、今、こうやって将来のことを悩むことができるようになったのも、事実なのだ。
―が、そんな複雑な大人の心境など、やはり、いくら鋭くても子どもであるナツに理解できるはずもなく。
きっと、さらに強い眼差しで睨まれてしまったように感じる。
さすがに今回ばかりは、千華子の後ろの人達も、困惑しているのか、あまり責めるようなものは感じない。
誰かフォローしてくれっとも思うが、霊の見えない千華子には、自分の後ろの人達がナツをフォローしているかどうかもわからない。
『ばか』
七十ニポイントゴッシク体の文字が、画面に打ち出された。
「ナツ~~!」
千華子はがくうっと肩を落とした。
心配のあまり、田村のところまで行ってギャン泣きまでしたナツにとっては、納得いかないのかもしれない。
「ちゃんと田村先生が言ったとおりにするから。今は、それで許して?」
ね?と、千華子は首を傾げながら、パソコンの画面に向って言った。
だがそれに対しての反応は、なかった。
千華子は軽くため息を吐くと、ワードの画面が映し出された仕事用のパソコンに手を伸ばし、インターネットの画面を起動させた。
とりあえず、田村の言うとおり、自分を保護してくれるフラワーエッセンスを通販で買うことにしたのだ。
と、その時だった。
「車に閉じこめられて死亡の幼児。殺人の可能性」
検索サイトのトップに、そんな見出しが載っていることに気付いた。
その瞬間。
千華子は、自分が息を飲んだことがわかった。
自分の手が震えるのを感じながらも、ポインタをその見出しの上に置いて、クリックをする。
パッと画面が切り替わり、記事のページが現れる。
「車に閉じこめられて死亡の幼児。殺人の可能性か。
昨日、ファーストフード店の駐車場で、車に閉じ込められて、熱中症で死亡した広川克実くん(四歳)に、殺害された疑いが出てきた。警察が捜査したところ、克実くんが乗っていた車はレンタル車であり、借りた男と克実くんと同じ店内にいた克実くんの母親を任意同行して、慎重に捜査を進めていく予定」
―それは、予想通りのことではあった。
このまま捜査は進み、あの母親は改めて逮捕されるだろう。
だが、千華子がそれ以上にショックだったのは、朝、自分がこの部屋を出る時にはあんなに頭の中にあったことが、自分の正社員の話が出たとたん、見事に吹き飛んでいたことだ。
……結局、他人事なのだ。
どんなに、殺されたあの子どもを哀れに思っても。
どんなに、我が子を殺さねばならなかった母親の気持ちを考えても。
事、自分に何かあると、そんなのはきれいさっぱりと忘れてしまう。
千華子は、デスクから立ち上がると、台所へと向った。
レイキヒーリング(仕事)の前に飲むのはルール違反だとわかっていても、今はむしょうに飲みたかった。
冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、ブシュッと缶を開けて、一気に飲み干す。
苦い。そう、心の底から思った。
と、その時だった。
デスクの上に放り投げた、携帯が鳴った。
千華子は冷蔵庫の前で缶ビールを飲んでいたが、仕事用の着信ではないことはわかった。
どうしたものかと思ったが、まずは相手を確認してから出るか出ないか決めようと思いなおし、缶ビールを片手に、デスクに戻る。
鳴っている携帯画面に出た名前は、かつての同僚のものだった。
久々の連絡に、千華子は目を見張る。
千華子が教員の仕事を辞めた後も、連絡は取っていたが、なにぶん、忙しい身の上の人だ。
特に新年度である一学期は、忙殺と言ってもいい。
また夏休みも、研修に継ぐ研修で、ゆっくりしている間もないのだ。
「柚さん?」
千華子は携帯に出ると、彼女の愛称を呼んだ。
柚木香子。
それが、彼女の名だった。
『久しぶり、千華ちゃん』
良く言えば女性らしい、悪く言えば甘ったるい声が耳に届く。
彼女と話すのも、四ヶ月ぶりだった。
『元気にしていた?』
そして四ヶ月前と同じように、そう千華子に聞いてきた。
「はい」
それに対して、千華子も四ヶ月と同じように答える。
柚木が必ず「元気?」と聞いてくるのは、「適応障害」だった千華子を知っているからだ。
朝は起きられずに、下痢が続き、食欲はなくなる。
仕事に行こうとすれば、眩暈がして、吐き気が起こり、そして実際、吐きまくった。
気分不良で早退して病院に行っても、「異常はありません」と言われ、そんな千華子を見て、当時同じ職場で働いていた柚木が、引きずるように精神系の病院に連れて行ってくれたのだ。
もしあのまま無理して働いていたら、冗談抜きで千華子は精神的に追い詰められて死んでいたかもしれないと、千華子を診察してくれた医師も言っていた。
そういった意味からも、柚木は、千華子にとって命の恩人と言っても、決して言い過ぎではない人だった。
「柚さんは、どうですか?」
『暑いわよ~。クーラーのない中で仕事やっている時もあるから、毎日汗だくだく』
千華子の問いに、その声とは全然合っていない、男前な言葉が返って来る。
思わず、千華子は笑ってしまった。
「相変わらず、お元気なようですね」
『まあ、ぽちぽちやっているわよ。千華ちゃんの方は?』
「何とか、やっていっています」
「お仕事の方は、もうかっているみたいね」
笑いながら千華子がそう答えると、柚木の笑いを含んだ声が耳に響いた。
千華子が持っている「マジックイノセンス」は、この彼女がくれものだ。
前の仕事を離れる時に、「転職祝い」と言って、それを贈ってくれたのだ。
『ところで千華ちゃん、明日暇?』
笑いが収まったらしい柚木は、そう尋ねて来た。軽い口調だった。
それこそ、まるで明日暇だったら会わない?とでも言いそうな感じである。
「えーと明日は、バイトは休みなんですけど、夜はお仕事なんですよね」
『あ、そうなんだ。じゃあ、明日昼間に会わない?』
「はっ!?」
だが、まさか本当に言われるとは思っていなかった千華子は、目を丸くする。
「ゆ、柚さん。そんないきなり言われても……」
『だいじょうぶよ、始発で来るから』
「始発って行っても、柚さん住んでいるところ、九州ですよ!?」
そして、現在千華子が住んでいる県は、中国地方にある。
『新幹線でほんの数時間じゃない。乗り換えの時間もちゃんとチェックしたから大丈夫よ。お昼過ぎには着く予定だから』
だが、柚木の方はあっけらかんとしたものだった。
と言うか、最初から行く気まんまんで、もう事前に準備までしているようだった。
「ゆ、柚さん、仕事は!?」
『明日から週末でしょ? それに合わせて、盆休みも取ったから』
あっさりと、返ってくる言葉。
もう、千華子は絶句するしかなかった。
柚木は、もともと思い立ったら、即実行の人であった。
何か活動を思いついたら、そのためには何が必要なのかを調べ始上げ、計画を練る。
そして、実行するタイミングを伺うのだ。
自分の考えている通りに進まなくても、臨機応変に対応していくその姿には、千華子も見習いたいと思ったものだった。
だが、しかし。
「本当にいらっしゃるとは……」
柚木から電話があった、翌日。
駅のテナントにあるファーストフード店で、柚木と向かい合わせの席に座った千華子は、思わずそう呟いてしまった。
「そんなに驚くこと?」
コーラを片手に、柚木は笑いながら言う。
予告通り、柚木は昼過ぎに駅の改札口の所に現れたのだ。
「夜行バスで福岡に出て、昼過ぎに着く新幹線に乗ったのよ。ネットカフェで仮眠もとったから、夕方まで付き合ってね」
「レイキのお仕事は、八時からですから、夕飯まではお付き合いできますよ」
「そう言ってくれると、うれしいわ。せっかくここまで来るんだから、絶対に千華ちゃんに会いたいと思っていたし」
携帯やメールでは連絡を取り合っていたものの、実際に合うのは三年ぶりだった。
最後に会ったのは、千華子が退職届けを出した後、すぐに引越し準備をしていた時だ。
その前に、柚木には「仕事を辞めて、レイキヒーラーとしてやっていく」とメールで知らせていたのだ。
自分を病院に連れて行ってくれて、その後も心配をしてくれていた柚木には、自分の決めたことを知らせるのが筋だと思ったからだ。
『大変だと思うけど、がんばって』そう言って置いていってくれたのが、「転職祝い」と銘打ったプレゼントである、「マジックイノセンス」だったのだ。
もらった当時は、大量のお香に「はいっ?」となったが、今思えば、適応障害になった頃の千華子は、よく煙草を吸っていた。何時ぞや、『煙草はお香のようで落ち着く』と柚木に言ったことがあり、そのことを覚えていた柚木が、千華子がレイキヒーラーとしてやっていくことを聞いて、「商売繁盛するように」という願いも込めて、贈ってくれたようなのだ。
「……まあ、でも元気そうにしているから安心した。柳瀬先生も心配なさっていたのよ」
「柳瀬先生は、お元気ですか?」
柳瀬とは、千華子が教師をしていた小学校を管轄している教育委員会の長である人だった。千華子が、異動を希望していた時の交渉相手でもあった。
千華子の思いを受け止めて、学校を異動できるようにしようとしてくれたが、結局、それは叶わなかった。
……それだけ、教員と言う世界は、精神系の病気になった者には、冷たいということだ。
だがそれも、今は過ぎたことだった。
「退職されてね、ゆっくりされているみたいよ」
「そうなんですか?」
思ってもいなかったことを言われ、千華子は目を見張った。だが考えてみれば、柳瀬もそろそろ定年を迎える年齢ではあったのだ。
「夏休みの水泳大会で、久しぶりにお会いしてね。千華ちゃんのことを心配されていたから、元気だってお伝えしたんだけど……私も、元気な千華ちゃんが見たいなって思ったから、今年の旅行は中国地方経由で、出雲に行こうと思ったの」
「出雲……島根県にですか?」
「婚活の一環でね」
ぶほっと、千華子は飲んでいたコーラーを噴出しそうになった。
「こ、婚活されているんですか!?」
「あら。千華ちゃん、私もアラサーなのよ?そこまで積極的じゃあなくても、婚活はしてもおかしくないじゃない」
少し過去のことを思い出し切なくなっていた千華子だが、柚木の言葉には、それを吹き飛ばす威力が十分にあった。
「まあ、柳瀬先生から、千華ちゃんへの伝言を頼まれたこともあったのよ」
だが、柚木の方は一転して、真面目な声でそう言った。
「伝言……ですか?」
「そう。千華ちゃん、あなた教育現場に戻る気はもうないの?」
コトン、とコーラのカップをテーブルに置きながら、柚木は言った。
「柚さん」
「もう一度、教員をやってみる気はない?」
「……今のところ、ないです」
一瞬、間があったものの、千華子はそう答えた。
「さすがに、もう一度教採の試験を受けるために勉強する気力は湧きませんよ」
笑いながらそう言葉を続ける千華子に、柚木は一瞬だけ、目を細めた。
「じゃあ、子ども相手の仕事は?」
しかし、今度はそう尋ねてくる。
「柚さん……何でそんなこと聞くんですか?」
それが不自然に思え、千華子はそう尋ねてみる。
「柳瀬先生、今度学童を作るんですって」
「学童を?」
学童とは、正式には学童保育と言い、労働等で昼間保護者が家庭にいない小学生の児童に対し、放課後や長期休暇中に、保護者に代わって行うことだ。
一般的には、「放課後児童クラブ」と呼ばれている。
「そう。一応、委託という形にはなるんですって」
「市か県からの要請なんですか?」
「ううん。福祉法人と協力して作るみたい」
学童は、市や町と言った自治体が作って直接運営しているものが多いが、社会福祉法人や保育園が作っているところもある。柳瀬の場合は、社会福祉法人と協力して学童を立ち上げるつもりなのだろう。
「そこの指導員としてね、千華ちゃんに、是非来て欲しいってことなのよ」
「はいっ?」
だが柚木が続けた言葉は、千華子が思ってもいないことだった。
「千華ちゃんを指導員として、雇いたいってことよ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
なおもそう言葉を続けた柚木に、千華子は待ったをかけた。
「柚さん、さっき柳瀬先生は、退職してゆっくりしているって言われませんでした!?」
「教育長なんてもの退職したら、ゆっくりできるに決まっているでしょう。あの忙しさは、ほとんどボランティア精神がなきゃ乗り切っていけないわよ?」
「まあ、そうですけど!」
柚木の言うことはもっともだったが、だが思ってもいないことを言われた千華子は、それどころではない。
「真面目な話、私はいいんじゃないかな、と思うのよ」
だが思いっきりとまどっている千華子を見つつも、柚木はそう言った。
「柳瀬先生は、正社員として、千華ちゃんを雇いたいんですって。千華ちゃんが信じてやっていることを否定するつもりはないんだけど、レイキって結局水物でしょう? 今は依頼してくる人もいるかもしれないけど、この先どうなるかわからないじゃない」
それは本当に、至極真っ当な意見だった。
「それにね」
だが、千華子の心に一番届いたのは、次の言葉だった。
「千華ちゃん、教員の仕事好きだったじゃない」
その言葉に、千華子は、はっとなった。
「教員だった頃の千華ちゃんは、確かに忙しかったかもしれないけど、とても楽しそうにしていたもの。……教員に戻ることは考えられなくても、同じ小学生相手の仕事よ。もちろん、教員とは全く違う仕事内容だけど、教員としてやってきたことを、生かせる仕事だと、私は思うの」
「柚さん……」
千華子は、柚木を呼ぶことで精一杯だった。
「すぐに返事はしなくてもいいから、考えてみて。資料も預かってきているから」
柚木はそう言うと、持っていたバックの中から、A4サイズの茶封筒を出して、千華子に差し出した。
「すいません、ありがとうございます」
それを余計なことだと、拒絶することは、千華子にはできなかった。
柚木も、柳瀬も、千華子を心配してくれていることがわかるからだ。
三年経った今でも、気にかけてくれる彼らの思いを、無碍にすることはできなかった。
そう。
たとえそれが、「千華子を見捨ててしまった」という罪悪感から来ているのだとしても。
テーブルに広げた資料を前に、千華子はため息を吐いた。
柚木と夕食を一緒にした後、別れて自宅のマンションに戻り、レイキの仕事の前に、渡された資料に、一通り目を通してみたのだ。
千華子自身は、「学童」と言う言葉を知ってはいたものの、通り一変の知識しかない。
だから、まず、「学童」の管轄は文部科学省ではなく、保育園と同じ厚生労働省となっていることに驚いた。
簡単に言えば、「教育」ではなく、「保育」をすることが「学童」の目的になるのだ。
それは、一見すると簡単そうに思えるかもしれないが、そうではない。
その証拠に、保育園は、ただ、子どもを預かっているわけはない。
子どもの「保育」のために、検温などの健康状態の把握、バランスの良い食事(給食&おやつ)の提供、安全な遊びの場を提供し、創作活動や年中行事などを計画して、子ども達が心身共に「健全」に発育できるようにしている。
それと同じことが、おそらく、学童にも言えるのだ。
『児童福祉法第六条のニ第ニ項の規定に基づき、保護者が労働等により昼間家庭にいない小学校に就学しているおおむね十歳歳未満の児童(放課後児童)に対し、授業の終了後に児童館等を利用して適切な遊び及び生活の場を与えて、その健全な育成を図るものです』
厚生労働省のホームページを印刷したらしい紙には、学童について、そのように書かれていた。
その紙を見ながら、千華子は、またため息を吐く。
……小学校の教員になったのは、決して、軽い気持ちからではなかった。
千華子自身、小学校の頃、何かと力になってくれたのは、担任の教師だった。
千華子は、幼い頃から女の子同士の付き合いが苦手で、どうしても浮きがちだった。
あの女の子特有の同属意識とか、そのくせ互いを引っ張り合う嫉妬感情とか、とにかく苦手だったのだ。
当然、クラスからは浮いていた。
そんな千華子と、クラスの女子達を上手に橋渡ししてくれたのが、五年生と六年生の時の担任だった。
その担任のおかげで、千華子の世界は広がったと言っていい。
だからこそ、千華子も学校の先生になりたいと思ったのだ。
自分と同じように、人間関係を築けない、集団行動が苦手な子の力になってあげたいと。
だが、実際教師として働いてわかったのは、「理想と現実は違う」という言葉ではすまされない現状だった。
一言で言えば、皆、疲れていた。
山盛りある業務、注意しても聞かない子ども、そして自己中心的な保護者。
ただ……それでも、やりがいはあったのだ。
どんなに忙しくても、どんなに苦しくても、子ども達と一緒に過ごすことは、楽しかった。
「仕事を辞める」ことなど、考えたこともなかった。
だけど。教師として最後の年に、担任となったクラスに、難題な保護者がいたのだ。
率直に言えば、モンスターペアレントだった。
それに千華子は振り回された。もっと悪かったのは、管理職にまで千華子の力不足だと責められたことだった。
「……」
そこまで考えて、千華子は頭を振った。
もうそれは、過去のことだった。
思い出しても、仕方がない。
退職したのは、まちがいなく、自分の意思だった。
続けようと思えば、教師の仕事も続けられたのだ。
教師の休職は、三年は認められていたし、給料の満額ではないが、傷病手当だって出る。
ただ、異動は認められなかった。
何度依頼しても、答えは一緒だった。
医者から、「異動は絶対に必須事項」と言われていたのにもかかわらず、だ。
休職して半年で、千華子は教師の仕事に見切りをつけた。
幼馴染の友人に、「あんたは、いったいどうなって欲しいの? 教師を続けたいのなら、もうきちんと復帰するしかないじゃん。でも、あんたは、元気に働きたいんでしょ?」そう言われた、数日後のことだった。
教師を辞めることは、身を切られる程つらかった。
でも、あの職場で、自分を追い込んでくれた管理職の下で、もう一度明るく元気に働いている自分は、想像できなかった。
だから。千華子は、教師を辞めたのだ。
柳瀬はもう少し考えるように言ってくれたが、千華子自身が、休職を続けることに限界を感じていた。
実家で静養していた千華子を、両親は決して良い感情は持っていなかった。
「適応障害」は、傍目にはなかなかわかりにくい病気だから、両親には、千華子が怠けているようにも見えたのかもしれなかった。
実家には「静養」をするために戻って来ていたのに、全く「静養」している気がしなかった。
父がいらいらしているのも、母が腫れ物に触るように接してくるのも、全て感じ取ることができた千華子には、つらい環境だった。
しかも、「教師を辞める」ことを決めて、両親に伝えた時に、父が言い放った言葉は、
「何を馬鹿なことを。お前を養う金など、ないぞ」だった。
母は、「そうよ。せっかく良い仕事に就いているのに、馬鹿なことを言わないで頂戴」と千華子に言った。
この時に、千華子は「この人達は、私を心配する気持ちはないのだ」と、はっきりと感じたのだ。
教師は、確かにステイタスのある仕事ではあった。
だが、千華子は、決してそのステイタスに引かれて教師の仕事を選んだわけではなかった。
また、辞めることを決めたのも、決して安易に決めたわけではなかった。
学生の頃からなりたかった仕事なのだ。
「異動ができれば」と言う思いから、職場のあった管内の当時の教育長である柳瀬に、直談判で何通も手紙を書いた。
「異動できなくても、復帰できれば」という思いからレイキを使えるように伝授してもらったし、カウンセリングにも通ったし、病院にだって真面目に通院したのだ。
全てのことを、千華子は自分で考え、時にカウンセラーやレイキを伝授してくれた真紀や田村に相談し、自分一人でやったのだ。
必要な経費も、自分で払った。
だがそれでも、「異動ができないと、復帰は難しい」と医者にもカウンセラーにも言われたし、千華子もそうだろうなと思った。
そして何よりも、医者に、「もし復帰したら、あなた、今度は死ぬかもしれませんよ」と言われたことが一番大きかったのだ。
死にたくないのであれば、教師を辞めるしかなかった。
本当に、断腸の思いで出した結論だったのだ。
「頭を冷やせ」と父にそう言われて、その時の話は終わった。
翌日、千華子は身の回りの物だけを持って、職場のある街に車で戻った。
全てを、清算するために。
たれかきた
と、その時だった。
いつの間にか、ナツ用のノートパソコンが、千華子が座っている横の床に現れ、そう文字が画面に打ち出されていた。
「えっ?」
千華子がそう言うのと同時に、ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。
「すいません、宅急便ですが」
玄関越しに男性の声でそう言われて、千華子は確認のために、ドアスコープを除いた。
小さい箱らしい物を抱えた、宅急便会社の服を男性が、立っている。
「はい」
千華子は、返事をしながらドアを開けた。
「瓜生さんですか? お届け物です」
そして、そんな千華子に、宅急便の男性は、そう言いながら持っていた箱を渡した。それを受けとり、認めにサインをした千華子は、箱を持ったまま、テーブルのところへと戻った。
それなに
ナツ用のパソコンの傍で箱を開けていると、気になったのか、パソコンの画面にそんな文字が打ち出される。
「ああ。田村先生にも言われていたから、買ったのよ。一応、『防御』してくれる、フラワーエッセンスを」
千華子はそう言いながら、箱からフラワーエッセンスを出した。
フラワーエッセンスとは、花の出しているエネルギーを水に移して、その水を体に取り入れるものだ。簡単に言えば、千華子が持っている瓶に入っているのは、水なのである。
ただ、そこには、植物のエネルギーが含まれている、と考えるのがフラワーエッセンスなのだ。
眉唾ものと思われがちではあるが、意外にこのフラワーエッセンスの歴史は古く、一九三六年にイギリスで作られた「パッチフラワー」は、現在のイギリスでも手軽な代替療法として、利用されている。
薬局や空港でも売られていると言うから、日本の薬局に、生姜湯が売られているのと、似たような感覚なのかもしれなかった。
今では、日本人向けに作られた「マウントフジ」、海の生き物や鉱物からエッセンスを作る「パシフィック」など、さまざまな種類のフラワーエッセンスが発売されている。
千華子がこのフラワーエッセンスを知ったのは、当時通っていた病院で、渡されたからだ。「薬を使いたくない」と言った千華子に、保険外にはなるけれど、と医者が漢方薬の処方箋と一緒に、フラワーエッセンスの瓶を渡してくれたのだ。
ただ、その時渡されたものが、「パッチフラワー」ではなく、どういうわけか、「FES」と言う、アメリカのカリフォルニア州のシエラネバダ山脈の山麓のテラフローラにて作られている、フラワーエッセンスだった。
それは、「恐れを手放して、本当の自分を解放できるように、力を貸してくれる効果がある」と、千華子は医者に説明された。
実際飲んでいると、まあ、プラシーボ効果かもしれないが、肩の力が抜けていくような気がしたのだ。
その後、千華子は自分でもフラワーエッセンスのことをネットで調べて、「パッチ」や他の製品があることを知った。
そして、病院で渡されるフラワーエッセンスも、「FES」だけではなく、「パッチ」や他のフラワーエッセンスを渡される時もあった。
その中の一つに、「FES」のフラワーエッセンスで、「防御」をしてくれる「環境フォーミュラ」があったのだ。
このフラワーエッセンスには、人の悪意や電磁波などから防御してくれる効果があるらしいのだ。
これもまた使っていた当時、「効果がある」と思ったフラワーエッセンスの一つだったので、千華子は、今回ネットで通販を頼んだのだ。
ふ、ふら
だが、耳慣れない言葉を聞いたナツは、そんなふうにパソコンの画面に文字を打ち出してきた。
「フラワーエッセンス。まあ、あまり聞く言葉じゃないしね」
最近では、雑貨屋やデパートにも、「パッチ」のフラワーエッセンスは置かれるようになっているが、日常的にはあまり見ないもので、スーパーなどには置かれていない。
レイキと同じで、「知る人ぞ知る」ものであることは否めない。
まして、幼い子どものナツには、聞いたことなどない言葉だろう。
「一応、これで身を守ろうと思って。田村先生も、ナツ達には影響ないって言っていたしね」
笑いながら、千華子はナツにそう言った。
ナツにどこまで理解できるかはわからないが、あれだけギャン泣きされるほど心配をかけた身としては、きちんと言っておくべきだと思ったのだ。
だが、それに対して、ナツ用のパソコンは、何も文字を打ち出してこなかった。
「ナツ?」
けげんに思い、千華子がそう呼びかけた時。
たれかいる
パソコンの画面に、そんな文字が打ち出された。
透き通って(・・・・)見える(・・・)壁の向こう側で、女の人が、こっちに来ようとしていた。だから自分は、
―だれかいる。
それを見て、そう言った。だけど自分がそう言った瞬間、あの人の足の傍にいたうさぎ達が、ばっと走り出す。
―シロ、クロ、その者をそれ以上進入させるでない!
そして、「にんじゃ」の人が、背中におんぶしていた刀を出しながら、そんなことを叫んだ。
黒と白の二匹のうさぎは、こっちに来ようとする女の人の足元で、ぴたりっと止まった。
女の人は、なぜか泣きそうな顔をして、こっちを見ていた。
だけど、二匹のうさぎ達がいるところからは、歩いてこようとしない。
―姫。今回ばかりは、譲りませぬぞ!
そして、「にんじゃ」の人が、その女の人に剣を向けて、自分の後ろにいる「ひめおねえちゃん」にそう言った。
―サイ……。
「ひめおねえちゃん」が、「にんじゃ」の人にそう言う。
―あの者は、我らが守護する者に、多大な苦しみを背負わせたっ! 他の者達を元気にするほど優しく、明るかった我らの守護する者が、死を望む程のな!!
それは、ものすごく怒っている声だった。
―あまり興奮するな、幼子がおるのじゃぞ。
そんな「にんじゃ」の人に、今度は「ひな人形」の人が話しかける。
―じゃが、同意じゃな。今回だけは、そなたの言い分、一寸の狂いもなく、我と同じじゃ。
ばさっと「ひな人形」の人は腕を降って、何かを描く様に手を動かした。
「ナツ? 誰かいるの?」
そうして、「おねえちゃん」がそう自分に聞いていくと同時に、「セイ」の手から光が出て来た。
それはなんかものすごく速くて、そして、そのまますぐになくなってしまった。
そうしたら、さっきまでこっちに来ようとしていた女の人もいなくなっていた。
「ナツ?」
「おねえちゃん」が不思議そうに自分の名を呼ぶ。
―言う必要はない。
だけど、自分が答える前に、そう「セイ」か言った。
「姫おねえちゃん」の方を見ると、こくんと頷いている。
「いなくなった」
自分用のパソコンには「繋がる」ことはしなくて、そのまま、ひらがなが書いてあるボタンを押した。
そのまま、「おねえちゃん」の傍にあるパソコンの画面に、文字があらわれる。
「いなくなった?」
その画面を見て、「おねえちゃん」はへんな顔をした。
「誰だったの?」
「わかんない」
これは、本当だった。「にんじゃ」の人や「ひな人形」の人、そして「ひめおねえちゃん」はわかっているみたいだったけど、自分にはわからない。
「そっかあ……」
打ち出された文字を見て、「おねえちゃん」は息を吐いた。
自分のようなものを「見えない」ようにされているから、「おねえちゃん」は、自分の言葉を信じたようだった。
そうして、「おねえちゃん」はパソコンの画面を見ながら、頭をがりがり掻いていたけれど、やがて、立ち上がって、
「ナツ、御飯にしようか」
と、言った。
「私は食べたけど、ナツはまだだもんね。コンビニでシャケのおにぎり買ってきたから、それ出すね」
『あの者は、我らが守護する者に、多大な苦しみを背負わせたっ! 他の者達を元気にするほど優しく、明るかった我らの守護する者が、死を望む程のな!!』
「にんじゃ」の人は、さっきそう言っていた。
優しい人だと思う。
「ゆうれい」である自分にも、とても優しい。
普通だったら、怖がったり嫌だったりするだろうな、と「子ども」の自分でも思うのだ。
台所に行って、お盆の上に麦茶の入ったコップとか用意してくれる「おねえちゃん」を見ていると、
―坊。
「みはる」が、自分を呼んだ。
―先ほどの者のことは、あの方に伝える必要はないぞ。
いつも自分を優しい顔で見つめている「みはる」も、怖い顔をしていた。
―うん。
きっと、「みはる」もあの女の人のことを、怒っているのだ。
あの女の人が何をしたかはわからないけれど、「おねえちゃん」が「死」を考えるぐらい、ひどいことをしたから。
「ナツ、用意できたよ」
お盆に、シャケのおむすびを二個と、麦茶を載せて、あの人がテーブルへと戻って来た。
どうして、あの女の人は、そんなひどいことができたんだろう。
「おねえちゃん」は、こんなにも優しい人なのに。
―だから。
そんな自分に答えるように、「ひめおねえちゃん」が呟くように言った。
―だから、傷つけようとする人がいる。あの子の持っているものが、とても綺麗に見えて、それを壊したくなる人達が。
翌日。いつも通り、千華子がバイト先に行ったら、そこは現場検証の場と化していた。
いつもだったら、自転車を降りて、駐輪場へと入って行くが、駐車場の周りにはあの「入っちゃダメ!」と英語で書かれた黄色のテープが張られて、周りには青いビニールシートが張り巡らされている。
テレビでしか見たことのない光景に、さすがの千華子も目を丸くした。
どうやら、前に店長が言っていた「現場検証」が行われていることはまちがいないらしいが、しかし、千華子は事前に何の連絡も受けていなかった。
どうしたもんだろう、と思って自転車を支えたまま、青いブルーシートに覆われた駐車場を見つめたていたら、ふいに、自転車の籠に入れたリュックの中から、携帯の着信音が聞こえた。
『あ、瓜生さん?』
リュックから携帯を取り出し、通話のボタンを押すと、熊谷の声が聞こえた。
「熊谷さん。お店……」
『そうなんです。いきなり一時間ほど前現場検証するって連絡があって……。本部の方にも急な事前連絡で、もうお店閉めるしかなくってですね。もう、俺も店長もバタバタで、すいません、連絡が遅くなりました』
「そうですか……」
警察としては、直前まで連絡しないことで、証拠物件などを消すことを阻止するのが狙いなのかもしれないが、それをやられた方の立場からすれば、たまったものではない。
実際、客への対応やその後の諸々の処理に当たるのは、店長や熊谷、そして千華子達店員なのだ。
「それで、お店はどうするんですか?」
千華子は、ため息を吐きそうになるのを抑えながら、そう尋ねた。
だが、もう既に現場検証は行われているのだ。
それならば、今後のことを聞くのが一番手っ取り早い方法だった。
『とりあえず、自宅待機でお願いできますか? 本部は、現場検証が終わり次第、店を再開しろと言っているので』
「わかりました」
千華子が頷くと、それじゃあ、と通話は切れた。
おそらく、「社員」である店長や熊谷は、今後のマスコミ対策も含め、いろいろと本部で決定しなければならないこともあるのだろう。
千華子はため息を吐くと、リュックに携帯を戻し、もう一度ブルーシートに囲まれた駐車場を見た。
一昨日、ここで起きた事が、まるで夢のように思えた。
あれからまだ三日しか経っていないのに、どこか遠い出来事のようにも思える。
唯一の救いは、あの幼子の魂は、母親の傍へと戻り、満足しているということだろうか。
ナツに「かあくん」の様子を聞いた時、「わらっていたよ」と携帯の画面に打ち出され、千華子は何とも言えない気持ちになった。
発達障害児、と言われる子ども達の育児が大変なのは、千華子も十分わかっているつもりだった。
だが、我が子の死を望み、殺人代行を頼むほど追い詰められたあの母親の気持ちは、わからない。
ただ、あの幼子が母親を求める気持ちと、母親の気持ちが重なることはなかった。
それだけは、千華子にもわかる事実だった。
―急に、煙草が吸いたくなった。
千華子は、自転車にまたがると、バイト先から少し離れた場所にあるコンビニへと向った。
コンビニで、煙草を買って、一服しようと思ったのだ。
煙草はずっと止めていたが、さすがに今の精神状態では、吸わずにはいられない。
自転車を自転車スペースに停めると、千華子はリュックを片側にかけて、店の中に入った。
店員に、「ビアニッシモとライター下さい」と言って、煙草を買う。
再び外に出ると、夏の日差しが強い光を放ち、千華子は微かに目を細めた。
そのまま日差しを避けるようにして、喫煙スペースへと移動した。
幸い、公衆電話の影がちょうどできていたので、その影に入って、煙草の火を点ける。
勢いよく煙草を吸い込むと、肺に独特の空気が染み込んでいくような気がした。
ゆっくりと、紫煙を吐き出す。久々の感覚は、やはり、苦いものを感じた。
立て続けに人生の選択肢を示されたことで、意識を向けることができずにいたが、捜査が進み、あの母親が糾弾されるであろうことを想像すると、良い気持ちはしなかった。
おそらく、この一件は、「母親が悪い」で皆終わらせるだろう。
そして、ほとんどの者達が、「何故母親は、子どもを殺すことを望んだのか」などということは、考えないに違いない。
泣き叫ぶ子ども。
あれを事あるごとにされるならば、確かにたまったものではないだろう。
だが、方法はあったはずなのだ。
あの母親が、我が子の死を望まないようにする―。
「煙草。吸われるんですね」
と、その時だった。
ふいに、そう声をかけられて、千華子は顔を上げた。
見ると、自分よりも頭一つ分以上の高さから、覗き込まれていた。
「刑事さん……」
覗き込んでいた男は、刑事の安藤だった。
「休憩ですか?」
安藤は、スーツのポケットから煙草とライターを出しながら千華子に聞いた。
「刑事さんこそ、休憩ですか?」
それに対し、千華子もそう問い返した。
一瞬、煙草を箱から出していた刑事の手が止まる。
「ええ」
だが、次の瞬間には、何事もなかったように、その手は煙草を口へと運んだ。
「何時ごろ終わりそうですか?」
次に、千華子はそんなことを聞いた。別に、他意はなかった。終わりそうな時刻を聞くことで、バイト先に行く時刻の検討をつけようと思っただけだった。
もっと言えば、安藤との話の繋ぎで出した話題だった。
あの更衣室での一件以来、千華子は安藤には含むものがあった。
もう既に辞めたはずの「教師」としての立場から、発言を求められたことに、何かしら引っかかりを感じるのだ。
だから一番無難な話題を出して間を持たせ、さっさと帰ろうと思ったのだ。
「……そう言えば、店長さんにあなたのことを聞いた時、とても褒めていらっしゃいましたよ」
しかし安藤は、千華子の言葉に答えず、そんなことを言い出した。
「えっ?」
意外なことを言われ、千華子は煙草を持ったまま、安藤をまじまじと見返した。
「あなたが入って来てから、売り上げが確実に伸びたらしいですね。仕事振りも丁寧で的確、そして素早いとおっしゃっていましたよ」
「はあ……」
何故安藤がそんなことを言い出すのかわからない千華子は、曖昧に返事をするしかない。
「そんなあなたが、何故、あのような場所でバイトをされているんですか?」
「バイト先を探していたからです」
だがその問いには、即答した。
実際、田村のいるこの街に引っ越すことは決めたものの、何のツテもコネもなかったので、住む場所を決める時に、求人情報もついでに買い、それを新幹線でパラパラと見て、今のバイト先に募集することにしたのだ。
ちなみに、面接は、引越しの翌日だった。
しかし、安藤の方は思ってもいない返事だったのか、ぽかんとした表情で千華子を見た。
だがすぐに、
「そうではなくて。もっと、やりがいのある仕事に就こうと思わないんですか? 学校の先生とか」
そう、聞いてきた。
「ファーストフードの仕事は、やりがいがないように見えるんですか?」
千華子にしてみれば、失礼極まりない質問だった。
確かに、自分は、この仕事に対して、以前のような熱情は持てない。
だけど、以前の千華子のように、熱情を持ってこの仕事をしている者もいるのだ―そう。例えば、店長のように。
「もう、未練はないと言うんですか?」
「何にですか?」
安藤が何を言いたいのか本気でわからず、千華子は問うた。
「教師の仕事にです」
そんな千華子に、どこかイラついたように安藤は単刀直入に言う。
だがそれにも、
「未練があったら、辞めていません」
千華子はそうきっぱりと言い切った。
それは、半分は本心であり、半分は意地の気持ちから言った言葉であることは、自分でもわかっていた。
「……そうですか」
安藤は視線を伏せて、煙草を灰皿の上に置き、とんとんと軽く叩いた。
「これは、もう、あなたのお耳に入っているかもしれませんが」
そうして、そんな前置きに続いて言われた言葉は。
「あなたが以前担任をされていた、新見じゅえるさんが、亡くなりました」
まるで、鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。
何故に今この瞬間、その名を聞くのか。
既に「過去の事」と思っていたのに。
……千華子はその瞬間、置いてきた「過去」が、再び自分を追いかけてきたように感じた。