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サイレント・ブルー  作者: kaku
4/15

4 混迷(こんめい)

 夢だ。

 それは、わかっていた。

 だが、妙な現実感(リアリティ)があった。

 と、その時だった。

 女が一人、自分に向かって叫んでいるのに気付いた。

 怒っているのだろうか。

 声は、聞こえない。

 まるで、サイレント映画のようだった。

 だが、自分はその怒鳴り声をうるさい、と思っていた。

 そうこうしているうちに、後ろのベッドで眠っていた赤ん坊が泣き出した。

「 自分は、それもうるさいと思った。

 しかし怒鳴っていた女は、そうではなかったらしい。

 慌てて赤ん坊に近寄り、抱き上げる。

 そうして、とんとんと背中を叩きながら、あやし始めた。

 さっきまでとはまったく違う、優しく穏やかな声だった。

 どうして、と自分は思った。

 あんなにうるさくしていたのに、どうして女は優しくするのだろう、と。

 自分には、叫び声しか聞かせないくせに。

 女は優しい声で囁くが、赤ん坊は、泣き止まない。

 その泣き声は、耳ざわりだった。

 うるさい。そう思った。

 うるさいならば、止めれば良いのだ。

 そう考えて、握っていたおもちゃの積み木を、赤ん坊に向かって投げた。

 何をするのっ!

 その瞬間。女の表情が、またしても変わった。

 さっきと同じように、すごい形相で自分に向かって叫んでくる。

 だって、うるさいよ。ママは、うるさくすると、ぼくにちゅういするじゃない。

 この子は、あなたの妹なのよっ!

 だって、うるさい。うるさいよ、うるさいよ、うるさいよ、うるさいよ、うるさいよ、うるさいよ、うるさいよ、うるさいよ。

 ぐわん、ぐわんと、その言葉だけが頭の中を巡って行く。

 止めて。そう呟いた。

 頭が痛くなる。耳も痛くなる。

 何よりも、心が痛くなる。

 うるさいよ、うるさいよ、うるさいよ、うるさいよ、うるさいよ、うるさいよ、うるさいよ、うるさいよ。

 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。

『簡単。いい子じゃないからだよ』

 

 だから、君は殺されるんだ。


 ―何なの、それはっ!


 怒り。そして、声が出る。

「ふざけるんじゃ、ないわよっっっ!」

 誰が。決めた。そんなことを。

 何を根拠に。どんな理由で。

 キミノママガ。


「そんな権利はないっ!」


 ダッテ、イイコジャナイカラ。


 走るノイズ。

「ふざけるなっっっっ!」


 次の瞬間。

 ばあんっと、強い日差しが広がった。

 その眩しさに、目を細める。

『何をしているの?』

 そして、若い男の声が聞こえる。

 目を開けると、白いミニの軽が見えた。

 どんな種類の物かは、わからない。

 だが、その車を自分は見たことがあるような気がした。

 その車の中から、若い男が顔を出していた。

 男は、家の門前で、しゃがみ込んでいる幼い男の子に話かけている。

 その姿を、自分は真上から見ていた。

 幼い男の子は、泣いているようだった。

『ママが出て行けって言ったの』

『悪いママだね』

 今時の。

 「イケ面」と言っても良い若い男が、そう言って笑う。

 だが、その笑顔は。

『お兄ちゃんと、ドライブに行こうか』

 車のドアを開けて、男が言う。

 伸ばされた手。掴む、小さな手。

 何故に。

 何故に、付いて行ったのか。

 その幼子は。

 知らぬ者に。


 さみしかった。かなしかった。つらかった。くるしかった。さみしかった。かなしかった。つらかった。くるしかった。さみしかった。かなしかった。つらかった。くるしかったさみしかった。かなしかった。つらかった。くるしかった。


 苦しい。

 ぐっと、喉に何かが詰まる感じがした。

 暑い。乾く。寒い。暑い。暗い。

 寒い。喉が渇く。ママ。何、これ。暑い。出られない。乾く。暗い。ママ。冷たい。乾く。助けて。助けて。お願い、助けて。

『キミは、イイコじゃないから』

 残酷な言葉を告げる男の声。

『ママはいらないってさ』


 ママ!


―そこまでじゃ!

 おねえちゃんっっっ!


 バシャン、という水音。

 はっと、我に返った。

「何……?」

 呆然となって、千華子は呟いた。

 気がつくと、風呂場の前にいた。

 そして、すぐ横にある自動洗濯機に体を預けて、座り込んでいたのだ。

確 かに、自分は眠るためにベッドに入ったはずなのに。

 闇の中に、風呂場の白いタイルが浮かび上がっているのがわかる。

 おかしい。そう思った。

 ベッドで眠っていたはずなのに、こんな風呂場の前まで来るなんて、今までなかったことだ。

 何が、あったのか。

 と、その時だった。

 カチャカチヤと、キーボードを打つ音が聞こえた。

 振り返ると、ナツ用の小型パソコンが、フローリングの床に鎮座していた。

「ナツ……」


『だいじょうぶ』


 闇の中に光るパソコンの画面に、そう文字が打ち出される。

「何が……あったの?」

 洗濯機に体を寄りかかせたまま、千華子はナツに聞いた。

 喉が渇いていた。

 だが、まだ体が思うように動かない。

 深く息を吐いていると、視線を感じた。

 もちろん、このマンションの部屋には千華子以外、人はいない。

 だが、どこか泣きそうな、そして心配そうな視線を、確かに感じる。

「ナツ……?」


『いたくない』


 「だいじょうぶ」の次に打ち出された文字に、千華子は微かに笑みを浮かべる。

 泣きそうな表情で、自分を見ているナツの姿が、想像できた。

「だいじょうぶよ」

 つまり、それぐらいのことが起きたということだ。

 あの夢。車に乗った男と、感じた喉の渇き。

 ―事実、なのだろうか。あの夢は。

 昨日の「かあくん」と呼ばれていた男の子が、実際に体験したことなのだろうか。

「水を欲しがっていた子が、戻ってきていたの?」

 千華子はナツにそう聞いてみたが、


『わかんない』


 ナツの返事は、短いものだった。

 無理もない。幽霊とは言え、幼い子どもだ。その子どもが、泣きじゃくる(?)ぐらい、混乱する事が起きたのだ。

 「何が起こったのか」ということを、説明するのは、ナツには難しいだろう。

 ふう、と息を吐き、洗濯機に寄りかかっていると、またしてもカチャカチャという音がした。


『だいじょうぶ』


 そうして、さっきと同じ文字が打ち出される。

 まだ「先生」と呼ばれていた頃。

 千華子が絶対にしてはいけないと思っていたことの一つに、「自分の体調の悪さを子どもに気付かれること」があった。

 子どもに弱った姿を見せれば、それだけで子どもは不安になる。

 子どもは、大人ではない。

 そのことを忘れてはいけないと、いつも思っていた。

 だから、

「だいじょうぶよ」

 もう一度小さく微笑んで、千華子はナツに言った。

 と、その時だった。

 携帯の着信音が、暗い部屋に響いた。

 それは小さめの音ではあったけれど、静かな部屋に響くには、十分だった。

それだけで、今が深夜なのだと思い知らされる。

 千華子は、携帯を取りに行きたいと思った。

 だが、体もだるく何よりも腰がぬけたのか、立ち上がることができない。

 どうしようかと思っていると、携帯が、いつのまにか、ナツ用のパソコンの横に転がっていた。

「―えっ?」

 思わずそう呟く。

 その間も、着信音は鳴り響いていた。


『だいじょうぶ』


 そうして、隣にあるパソコンの画面には、また新しい「だいじょうぶ」という文字が打ち出される。

「ナツ……」

 新しく打ち出された「だいじょうぶ」は、「だいじょうぶだから、携帯に出て」という意味らしかった。

 千華子は深呼吸をすると、着信音が鳴り続ける携帯に、手を伸ばした。

 二つ折の携帯をぱかっと開き、着信のボタンを押す。

『千華ちゃん?』

 携帯から聞こえてきたのは、田村の声だった。

「先生……」

 やはり、緊張していたのだろう。

 千華子は、どっと体の力が抜けたことを感じた。

『だいじょうぶ?』

 そうして、田村は相変わらず、全てを見通したようなことを言う。

「先生……」

 千華子は洗濯機に体を寄りかからせながら、そう言うのがやっとだった。

『やっかいな幽霊()に、魅入られたわね』

 田村の声が、やけにリアルに聞こえた。

 これは夢ではないのだと、千華子に教えるように。

「先生、私は……」

『引きずり込むつもりだったみたいね。千華ちゃんにその「夢」を見せた子は』

 その言葉に、千華子は目を瞑った。

『今は、もうだいじょうぶだけどね。退魔と言うか、その手の力を持った千華ちゃんの後ろの人が、「対処」したみたいだから』

「……死んでいるんですか? その子」

 田村の言葉を遮るように、千華子は言った。

『千華ちゃん』

 そんな千華子を、田村が咎めるように言った。

『安易な同情は駄目よ。いくら千華ちゃんの「守り」が強いとは言え、千華ちゃんはプロじゃないんだから』

「先生……」

『実際、レイキであの幽霊を退散させたけれど、それだけでしょ? 千華ちゃんは、それ以上のことはできないんだから、当たり前なんだけど。でも、幽霊への対処って、それだけじゃあ駄目だからね。結局、戻って来ているし』

 千華子が真実を話さなくても、田村は全てわかっているのだ。

 だが、あの夢。

 あれが事実なのだとしたら。

 重なってしまうのだ、昨日の出来事と。

 母親に疎まれた子ども。おそらくは、何らかの障害を持っている―。

 白い軽の車。

 千華子に事実無根の言いがかりをつけて来た、母親。

 そして見知らぬ若い男。

 まるで、ジグゾーパズルのように、全てが重なっていく。

『千華ちゃん』

 そんな千華子に、田村はもう一度呼びかけてきた。

『気持ちはわかるけれど、それが本当だと言う証拠はないわよ』

「―先生」

『千華ちゃんを引きずり込もうとした幽霊()よ? 嘘の光景を見せた可能性だって、十分にありえるわ』

 田村の言うとおりだった。

 千華子が見た夢だけで、全てを判断することはできない。

そう。千華子が見たのは、「夢」なのである。

 本当に起こった、「事実」ではないのだ。

 千華子の見た「夢」が、本当に現実だったのか、その確証もない。

 まして、自分を引きずり込もうとした幽霊(あいて)である。

 信用することは、あまりにも危険であることを、素人の千華子にも十分理解できた。

 ただ。それでも、一つだけはっきりしていることはあった。

「死んでいるんですね、その子」

 今度は、疑問でなく確認だった。

『―千華ちゃん』

 だが、千華子の問いに田村は答えず、千華子の名だけを呼ぶ。

 それは、肯定でもあった。

 田村は、確かに千華子が昼間助けた子のことは、知らない。

 だが、彼女は、千華子を引きずり込もうとした幽霊が、千華子が知る「かあくん」であることを、否定しなかった。

 ―気のせいでは、なかったのだ。

 あれから。

 病院に運ばれてから後、あの子は亡くなってしまったのだ。

「なんで……」

 まだ、幼い子どもだった。

 生まれて、まだ数年しか経っていない―。

『何度も言うけど、千華ちゃん。安易な同情は駄目よ』

「先生……」

『気持ちはわかるけれどー』

 と、言葉を続けようとした、田村はそこで言葉を止めた。

「先生?」

『ちょーと、やっかいな状態になったみたいよ、千華ちゃん』

「えっ?」

『あの幽霊()を追い払った人が戻って来たんだけど……千華ちゃんとは、完全には切れなかったみたい』

 その言葉に、千華子は目を丸めた。

「どういうことですか、それ」

『ちょっと待ってね……戻っては来ない……でも切れていない……教えるつもりはない……』

 携帯から、そんな田村の声が聞こえてきた。もちろん、千華子には何のことか、まったくわからない。

『結論から言うとね、千華ちゃん。千華ちゃんの部屋に戻って来られないように、「閉じ込めた」んですって。だけど、千華ちゃんがーまあ、あの幽霊()を気にかけていたから、完全には、「切れなかった」らしくてね。千華ちゃんにも関わりのある物に「閉じ込めた」んですって』

「えーと……」

 それは、つまり。

「鳥籠みたいな感じですか?」

 千華子は、精一杯自分の理解力を総動員して、尋ねてみた。

『そうね、そんな感じかな』

「で、その鳥籠になっているのが、私に関係する物なんですね?」

『マンションには、ないみたいよ』

「じゃあ、何に……」

『それは、教えるつもりがないんですって』

 だが、田村は思ってもいないことを言った。

「えっ?」

『関係ないでござろうって、言っているわ』

 おそらく、田村にはその人物の姿も、言っている言葉も、わかるのだ。

「関係ないって……」

『まあ、残念ながら、そこは私も同感なの』

「先生……!」

『霊に関わることは、そんな同情程度じゃあ駄目なの。来世まで人の因縁を背負うのよ。その覚悟、千華ちゃんにある?』

「……」

 その言葉に、千華子は唇を噛み締めた。

『本当なら、ナツ君のことだって、関わらせたくないのに。もう本当にナツ君のことは、例外中の例外だってことを、忘れないで』

 田村は、プロだ。

 千華子とは違い、霊を対処することも仕事の一つとしている。

 その田村が言うことには、やはり、実感が伴っていた。

 そして千華子には、田村が言うとおり、そこまでの覚悟はなかった。

『妙な因縁を背負って、仕事に差し支えても困るでしょ?』

「そうですね……」

 だから。素直に、頷くことしかできなかった。


 目覚まし時計の音に、まどろんでいた意識が、現実に戻された。

 千華子はベッドから手を伸ばし、音を止めるスイッチを押す。

 そうして、手を布団の中に戻そうとしたが、硬い感触がした。

「ナツ?」

 ナツ用のパソコンが近くにあるのかと思い、半身を起こすと、案の定、枕元にナツ用の小型パソコンが鎮座していた。


『だいじょうぶ』


 そして、ワードのテキスト画面には、そんな文字が打ち出されていた。

 やはり、心配でたまらないらしい。

 千華子は小型パソコンを両手で持ち上げると、膝の上に乗せた。

「だいじょうぶよ」

 そして、微笑みながら、ナツを安心させるように言った。

 千華子は、前の仕事のせいもあって、「極力子どもに心配をかけない」をモットーにしていた。

 もちろん、「大人」としての矜持があるのも事実だが、やはり、子どもには不安を与えたくないという思いがある。

 だが、正直に言えば、「だいじょうぶ」と言える精神状態ではなかった。

 昨日の、あの夢。

 あの夢の感触が、今でも残っているような気がするのだ。

 喉の渇き。まとわりつく熱気。

 そして何よりも。―見捨てられた、という絶望感。

 わかっては、いるのだ。あの夢が事実である、という証拠はない。

 まして、自分を引き込もうとした幽霊(あいて)だ。

 あのまま、ナツや自分の後ろの人が助けてくれなければ、死んでいた。

 それは、まちがいない。

 だが。

 幼い子どもにとって、母親から「見捨てられる」ということが、どれほどのものなのか。まして、あの子どもの霊は、殺されたのだ。

 母親がそう望んだがゆえに。

 と、その時だった。

 また、カチャカチャとキーボードを打つ音がして、千華子は我に返った。


『うそ』


 パソコンの画面には、そう打ち出されていた。千華子の「大丈夫」という返事に対しての、抗議らしい。

 どうやら、誤魔化されてはくれないようだった。

「嘘じゃないよ」

 千華子は、笑いながらそう言った。

 やはり大人である以上、たとえ嘘だとばればれでも、「大丈夫な自分」でいよう、と思ったのだ。

 ―そうやって、矜持を張れるうちは、まだだいじょうぶなのだから。

 『子どものためになら、がんばれる』と、昔、保護者達が口にする度に、「そうなのか」と思っていたが、こういうことなのかもしれなかった。

 人は、「守ろう」と思う者がいれば、自然とパワーが湧くのかもしれない。

 ナツは幽霊だし、姿も見えないけれど、それでもいてくれて良かったと、千華子は思った。



 優しい人だ。素直に、そう思った。

 あれだけの目にあったのに、それでも、自分を酷い目に合わせた幽霊()のことを、考えている。

―だから、心配なのじゃ。

 そう、「にんじゃ」の格好をした人が言う。

 あの人を連れて行こうとした「泣いていた子」を、追い払ったのは、この人だ。

―優しすぎる、我らが守る者は。

―まあ、それは同感じゃ。

 「ひな人形」みたいな格好をした人も、頷いている。

 彼らが見ているのは、台所で朝御飯の用意している、あの人の後ろ姿だ。

―でもその優しさに、我らのような者が救われたのも、また事実。

 と、長い髪をした女の人が言った。「みはる」と呼ばれている人だ。

―そなたは、別に命まで取ろうとはしなかったではないか。

 「にんじゃ」の格好をした人がそう言うと、「みはる」は首を振った。

―我らは、あの方を守るあなた達を恐れ、手出しできなかっただけのこと。隙あらばと思っていたのも、また事実。

―おねえちゃんが、なにかしたの?

 「みはる」に、自分は聞いてみる。

―何もしていないわよ。

 だがそれに答えたのは、自分達より少し離れた場所にいた、「おねえちゃん」だった。

 足元にいるうさぎを撫でている。どういうわけか、あの人には、動物の霊も付いていた。

―あの子はただ、一生懸命仕事をしていただけ。

 「おねえちゃん」がそう言うと、うさぎの霊は、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、台所にいるあの人の足元へと近寄って行った。

 もちろん、その姿はあの人には見えない。

―お仕事?

 それ以上は、誰も、何も言わなかった。

 「みはる」が微笑み、頭を撫でてくれた。

―坊のような子を見ると、何とかしてやりたくなるのじゃ、あの方は。

―だが、命まで取られるのでは話にならぬ。

―まろも、同感じゃ。

 大人達は、そんなことを話し、頷き合っている。

―でも、あの子はきっと知りたがるわ。

 そんな中、幼い声が入り込んでくる。

―姫。

―あのかわいそうな子の居場所を、そして自分はどうすれば良いのかを、知りたがる。

 まるで歌うように、「おねえちゃん」は言った。

 そして、それは当たっていたのである。


「私の後ろの人が、昨日の幽霊()を閉じ込めた物って、教えてもらえないのかな?」

 朝御飯の真っ最中。

 千華子がナツにそう聞いたとたん、ぴしっと周りの空気が凍ったような気がした。

 スクランブルエッグとロールパンを盛った皿の隣に置かれた、ナツ用のパソコンも沈黙している。

「えーと……」

 どうも、彼らにとってやはりこの質問は、禁句であるようだった。

 やがて、カチャカチャと、パソコンの画面に文字が打ち出された。


『やだ』

 

 短く、二文字である。

「ナツ~~~」

 千華子は、がくうとなった。


『やだ』

 

 続けてゴシック体、四十八ポイントで同じ文字が打ち出される。

 そして千華子の頭の上では、誰かが説教をしているような気配がした。……やはり、この件に関わることはダメらしい。

 実は、あの出来事の後。電話を切る前に、田村には、もう一度念を押されたのだ。

 深夜に、おそらくは千華子の後ろの者に叩き起こされただろうに、あっけらかんと、『いいのよ。また今度、レイキを流してくれれば』礼を言う千華子に対して、田村はそんなことを言ってくれた。

 だが、『わかっていると思うけれど、もうこれ以上関わったら、だめよ』とも、言われてしまったのだ。

 現実問題として、霊感がない―と言うか、霊から身を守る手段がレイキしかない千華子にとって、何かあった時、後ろの人達が対処してくれても、後のフォローは田村に頼ることになってしまうだろう。

 ナツの時も、そして昨日も、田村のところに行っていることを考えると、彼らも、すっかり当てにしているようなのだ。

 自分で責任が取れないのであれば、行動するべきではない。

 これも、大人として当たり前のことだった。

―だけど。そう、だけど。

『それでは、地元のニュースをお送りします』

 そこまで考えていた千華子を、現実に引き戻すように、テレビのアナウンスの声がした。

 千華子は、何とはなしに視線をテレビへ移す。ナツのことに関して、何か少しでも情報があればと思って付けていたのだ。

『昨日、四歳の男の子が熱中症で死亡しました。死亡したのは、伊佐木市健軍三丁目の会社員広川正彦さんの長男、克実君』

 画面には、千華子が見慣れたアルバイト先の店が映しだされていた。そして、広川克実君(四歳)のテロップが表示されていた。

『克己君は、駐車場に止めてあった白の軽自動に乗り込み、遊んでいるうちに閉じ込められてしまったものと思われ……』

 違う。

 知らず、千華子は自分の喉を手で押さえていた。

 泣き叫ぶ子どもがいる。

 助けて、と言って泣き叫んでいる子ども。

『警察は一緒に店に来ていた母親に、くわしい事情を……』

 母親に捨てられ、その死を望まれ、見知らぬ他人の手にかかって殺されてしまった子ども。

 ―何で!? 

 何故に、あの幼子は死ななければならなかったのか。

 何故に、殺されなければならなかったのか。


―ママ!


 そう叫んでいたのに。最後まで、母親のことを読んでいたのに。


 何故。何故!?


 ぱあんっと、目の前で、何かが破裂したような感触がした。

 そこで、はっと我に返る。

 いつの間にか、テレビの画面は、CMに切り変わっていた。

 百貨店のバーゲンの宣伝をしているCMを聞きながら、千華子はゆっくりと自分の喉から手を離した。

 そうして、アイスコーヒーの入ったグラスに手を伸ばし、一口飲む。

 カチャカチャとキーボードを打つ音が聞こえたので、テレビから、視線をナツ用の小型パソコンの方へ移した。


『だめ』


 短く、それだけが新たに打ち出されていた。

「そうなんだけどね……」

 そのナツに答えながら、千華子は髪をかきあげる。

 ……何ができる?

 そう、思った。

 田村のように、霊感があるわけでも、霊に対する何らかの能力があるわけでもない。

 まして、あの子どもを殺した犯人は、母親に頼まれた者だと、言えるはずもない。

 霊能力者でもなければ、警察や探偵と言った現実的に事件に対応できる者でもない自分は、いったい何ができる?

 田村にも迷惑をかけず、自分の命も危険に晒さない方法で、何ができる?

 千華子は、仕事用のデスクを見た。

 仕事用のデスクには、パソコンが載っている。

「ナツ……私は、レイキヒーラーなんだよね」

 ちいんっと、千華子の問いに答えるように、アイスコーヒーの入った、グラスが鳴った。

 うん、という返事だろう。

 多分、ナツには何で千華子がこんなことを言うのか、わからないに違いない。

 自分は、レイキヒーラーだった。

 そして、オラクルカードとタロットを使うことができる。

 千華子は、リモコンを掴むと、テレビの電源を消した。

 そして、意識を向ける。自分が掴みたい答え(もの)を、受け取れる(・・・・・)方向(・・)に(・)。

 リモコンをテーブルの上に置くと、立ち上がり、仕事用のデスクに向かった。

 デスクの引き出しから、タロットカードを取り出す。

 そして、カードを交ぜる(シャッフル)ために敷く布をデスクの上に広げると、カードを広げ、シャッフルを始めた。

 聞くことは、一つ。

 私は、あの子のために何ができる?

 千華子は、カードのシャッフルを終えると、今度は一つにまとめたカードを三つのまとまりに分け、適当な順番で上に積み上げていく。

 そうしてカードを二枚、その中から選び取り、クロスの上に置いた。

 千華子は深呼吸をすると、それらをゆっくりとめくった。


「あれっ? 珍しい」

 千華子がバイト先の店に入ったとたん、カウンターにいた店長が、声をかけてきた。

「瓜生さんがこんな時間に来るなんて。お昼、ここで食べるの?」

「はい、そのつもりです」

 店長の言葉に、千華子は頷く。

「店長こそ、めずらしいですね」

 もちろん店長職でもカウンターに入ることはあるが、この四十代直前の店長がカウンターに入るのを、千華子はあまり見たことがなかった。

「夏休みの間は、僕が入っているの。パートさん、お休みだからね」

「あ、なるほど」

 確かに、夏休みの子どもだけを家に置いて外に働きに出るのは、難しいところもある。

 夏は誘惑の季節。

 これは別に、大人だけの言葉ではないのだ。

「でも、またどうして昼をここで食べようと思ったの?」

「まあ、たまには良いかなあと思いまして。コーラも飲みたかったですし」

「コーラ?」

 千華子の言葉に、店長は首をかしげた。

 めずらしいね、という感じだ。

「本当は、お酒が飲みたかったんですけど、そういうわけにもいきませんしね」

 さすがにバイト前に酒を飲むことは、できない。

 だが、本当は猛烈にビールを飲みたい気分だったのだ。

「……もしかして、見たの? ニュース」

 人の良い顔を歪め、そんな千華子に店長は言った。

 はっとなって、千華子は店長を見る。

「警察から連絡が来たんだよ」

 あえて、誰がどうしたとは言わない店長に、千華子は軽く頷いた。

 カウンターに客はいないとは言え、店内にはちらほら客の姿があるのだ。その中で話すにはふさわしい内容ではない。

「仕方がないよ」

 店長は、千華子に背を向けて、サーバーからコーラを注ぎながら言った。

「瓜生さんも、皆も、やるだけのことはやったんだから。……気持ちは、わかるけれど」

 二児の父親でもある店長にとっても、やはり苦いものはあるのだろう。

「そうですね……」

 トレーにコーラが置かれるのを見ながら、千華子はそう言った。

 それ以上、言うべき言葉が見つからなかった。

 ランチセットのバーガーを頼むと、千華子はコーラの載ったトレーを持って、一人用の座席へと向かった。

 そうして、背負っていたリュックをテーブルの横に置いて、椅子に座る。

 ガタンっと思わず大きな音を立ててしまったが、かまわずに背もたれに体を預けた。

『瓜生さんも、皆も、やるだけのことはやったんだから。……気持ちは、わかるけれど』

 さっきの店長の言葉と同じことを、タロットも導き出した。

 出たカードは、「吊るされた男」と「女帝」。共に正位置だった。

 「吊るされた男」のカードは、文字通り両手と両足を縛られ、吊るされている男のイラストが描かれている。

 正位置の意味は、「身動きが取れない」や「努力を続ける」など、主に「忍耐」をキーワードにしたものがある。

 だが、絵柄から意味を読み取ると、「手も足も出ない」とも言えるのだ。

 実際、手と足を縛られているので、その男は何もできない。

 そして「女帝」のカードは、ふくよかな女性が座っている姿が描かれている。

 正位置の意味は、「女帝」=「女性」であることから、「妊娠」や「実り」と言った言葉がキーワードになる。

 「豊かさ」や「努力の結果が出る」という意味もあるから、良い意味のカードでもあるが、この場合は違う。

 つまるところ、タロットカードは、千華子に「あなたは、できるだけのことはやりました。女性らしい心で、あの子どもを助けようとしました。しかし現在のあなたには、何もできません。いえ、何もしないことが一番なのです。あなたにできることは、『何もしない』ということなのです」と言っているのだ。

 わかっていたこととは言え、やはりため息が出た。

 結局のところ、千華子があの幽霊()のために何かしようとすると、返って邪魔になるのだ。

 まあ、現実的に考えてもそうだろう。証拠もないのにあの母親を糾弾などできないし、そもそもよけいなことをして、警察の捜査を混乱させるわけにもいかない。

 だけど。そう―だけど。

 と、そこまで考えて、千華子はため息を付いた。

 考えていることが、ずっとループしているのだ。

 結局のところ、「自分は何も出来ない」とタロットにまで言われたのに、あきらめきれないでいる。

 それはきっと、あの夢のせいだ。

 実の母親に見捨てられたという絶望と、死の恐怖。

 多分、あれは体験しないとわからないだろう。

 あの恐怖と絶望感は、言葉では言い表せない。

 千華子は、喉の渇きを覚えてコーラに手を伸ばした。

「はい、お待たせしました」

 ちょうどその時、アルバイトの女性が注文したハンバーガーのセットを持ってきてくれた。

「ありがとうございます」

 千華子は、そう言って商品を受け取り……ふいに、頼んでいないチキンナゲットがトレーの上に置いてあるのに気付いた。

「おごりだそうです」

 小さくバイトの女性は言うと、カウンターの方へと戻って行く。

 千華子は、カウンターにいる店長の方を見た。

 店長は、そろそろ混み始めようとしている中、注文しているお客に対応している。

 店長なりに、気遣ってくれているのだろう。

 かつて働いていた街とも、実家のある街とも離れて、この街に来てからずっとこの店でバイトしてきた。

 店長との付き合いも、その頃からなので、もう三年近くになるのだ。

 多分、店長はこんな風に自分の子ども達も、優しく気遣っているのだろう。

 ほとんどの者達が当然と思う愛情(もの)を、どうして与えられない子がいるのか。

 千華子とて、父や母には原因があって三年会っていないが、それでも、幼い頃は大切に育ててもらっていたと思うのだ。

 千華子は、やるせない思いでハンバーガーを食べると、気合を入れる意味で、コーラとナゲットを一気に食べた。

 結局のところ、どう折り合いを付けるか、なのだ。

 「あの幽霊()のためには、何もできない」という事実を受け入れて、気持ちに折り合いを付ける。

 それしか、方法はない。

 だが、ため息が出てしまうことも事実だった。

「もう一度、聞いてみるかな……」

 千華子は、後一口でなくなるコーラを飲みながら呟いた。

 同じことをタロットに聞くのは、本来避けるべきことなのだが、「他に何かないの?」と聞く分には、問題はないのだ。

 それで、同じ答えを出されるのならば、それはもう仕方のないことだと、結論付けるしかない。

 「何もできないことを認める」ことが唯一できることであるならば、それを受け入れるしかないのだろう―苦い感情(もの)は、あるけれど。

 よしっと思いながら、千華子は席を立った。

 トレーに載った、紙くずをゴミ箱へと捨てていると、カウンターの店長と目が合った。

 千華子がペコリと頭を下げると、にっと店長は笑った。

 どこか、いたずらっ子のようだった。

 千華子はもう一度頭を下げると、トレーを台の上に置き、二階へと向かった。


 「あら。お疲れ様」

 そうして、更衣室へと行くと、案の定相田がパイプ椅子に座って、ハンバーガーを食べていた。

「お疲れ様です、相田さん」

 昨日のことを考えると、千華子はあまり会いたくない相手であったが、仕事の時間帯がほぼ一緒なので、仕方がない。

 千華子は努めていつもと同じ口調で、相田に挨拶をした。

 そのままロッカーまで行き、ガチャっとロッカーの戸を開ける。

 そして、背負っていたリュックをロッカーの前に置くと、吊るしていた制服に着替え始めた。

「瓜生さん、今日のニュース見た?」

 だがふいに、相田にそう声をかけられて、着替えていた手が止まった。

「ニュース……ですか?」

「そう。昨日の子のこと、言っていたわよ」

 あっさりと、相田は言った。

 どんな表情でその言葉を言っているのか、千華子には想像ができない。

「そうですか」

 だから、着替えの続きをしながら、そう答えることしかできなかった。

「気にならないの?」

 そして、そう尋ねてくる相田の言葉には、どこか含みがあるような気もした。

「店長に教えてもらいました」

 エプロンを付けながら、千華子は言った。

「どう思った?」

「かわいそうだなって思いましたよ」

 貴重品をジーパンのポケットに入れて、千華子はロッカーを閉めた。

 本当はもっと別の感情もあるが、それ以外に言いようがない。

「他には?」

 千華子は、相田を見た。

「あの母親が怪しいって思わなかった?」

 そう言う相田の目は、笑っていなかった。

「証拠がないですよ」

 千華子は、もう一度ロッカーの方に向き直って、鍵をかけた。

「腹は立たなかったの?」

「死んだ子どもより、マシですから」

 その言葉は、本心だった。

 本来ならば、一番愛情を与えてくれる存在から死を望まれ、絶望と恐怖を感じながら死んで逝った子に比べれば、あの母親にされた言いがかりなど、たいしたことではない。

 ―ロッカーの鍵を握る手に、力が入るのがわかった。

「あの人は、あなたの責任にしようとしたのよ」

「相田さん」

 なおも言い募る相田に、千華子は静かに呼びかけた。

「証拠がないです」

 そして、そう言葉を続けた。

 それは、自分に言い聞かせる言葉でもあった。

「私達は警察じゃないんですから。勝手に決め付けることはできませんよ」

 ロッカーの鍵を片手に、できるだけ落ち着いた声で千華子は言った。

「どうして、そんなイイコちゃんぶるの?」

「……相田さん?」

 相田の言いたいことが、千華子にはわからない。

 と、その時だった。

―タスケテ、タスケテ、ママ!

(えっ?)

―ワタシヲコロサナイデ。ワタシハウマレテキタイノ

 ばあっっっん!


  何かが立ち切られるように、空気が動いた。

「何か、あったんですか?」

 それに突き動かされるように、千華子は相田に尋ねる。

 相田は、黙って千華子を見上げた。

 だが何も言わず、持っていたハンバーガーに噛り付く。

「先に行っています」

 千華子はそう言うと、事務室から足早に出た。

 これ以上相田と二人きりになるのは、正直避けたかった。

 だが、相田の様子も気にかかった。

 昨日もそうだったが、今日の相田もどこかおかしい。

 確かに、千華子が余分に仕事をすることを牽制するところはあったが、あんな風にどこか挑発するようなことを言うのは、今までなかった。

 やれやれと思いながら、制服の上着のポケットにロッカーの鍵を入れようとして、千華子は何か別の物が入っていることに気付いた。

 先にロッカーの鍵をポケットに入れて、それを取り出して見る。

「あっ……!」

 それは、青いゴム人形だった。亡くなった子が、投げつけていた人形(もの)

 そしてそれを見た瞬間、千華子はタロットカードの意味が、もう一つあることに気付いた。

 

『なにあれ』


 マンションの部屋に戻ってきて早々、テーブルの上に置いた、ナツ用の小型パソコンの画面には、そんな文字が打ち出された。

「えーと……」

 画面に打ち出された文字を見ながら、千華子はあごを指で掻いた。

 パソコンのすぐ傍で、きっと自分を睨んでいるナツの姿が想像できた。

 もちろん、千華子にナツの姿は見えないが、やはりそんな「感じ」はわかるのだ。

 案の定、後ろからはさらに冷たい視線も幾つか感じる。

 でもこの様子だと、千華子の予想は大当たりだったのだろう。

 つまるところ。

 タロットカードが示していたのは、あの千華子が拾った青いゴム人形のことだったのだ。

 「吊るされた男」が示したのが、「青いゴム人形」そして、「女帝」のカードが示したのは、おそらく。

「あのゴムの人形をね、あの幽霊()のお母さんに届けてあげようと思っているの」


『ばかあほとくま』


「ナツ……」

 だが、次にパソコンの画面にはそんな文字が打ち出され、千華子はがくうとなった。

 最後の方の「とくま」とは、「とんま」の打ち間違いだろう。

「でもね、あの人形は一応、この部屋には入れていないし……」

 千華子がそう言うと、さらにぎっと睨まれている感覚が、強くなったような気がした。

 だが、ナツ達が怒るのも無理はないのかもしれなかった。

 千華子は、よりにもよって、あの子どもの幽霊が閉じ込められた人形(もの)を、持ち帰って来たのである。

 バイト先から持ち帰る時は、半信半疑だった。

 「まさかね」とも思っていた。

 しかし、帰ってきてから早々にナツから怒られるわ、後ろからは冷たい視線を感じるわ、千華子は自分が大当たりの物を持ち帰って来たことを確信できた。

 ただ、千華子としても、用心はしようと考えたのだ。

 そこで、あの青いゴム人形をコンビニのレジ袋に入れて、マンションのドアの外側のノブにかけて、部屋には入れないようにした。


『ばか』


 四十八ポイント、ゴシック体で打ち出された文字は、「言い訳なんか聞きたくない!」と言うナツの思いがこもっていた。

「ナツ~~~~」

 千華子は、床に座り込んで、ナツの名を呼ぶ。


『ばかばかばかばか』


「……まあ、そうなんだけどね」

 繰り返し打ち出される言葉は、だが逆に考えれば、それだけナツが千華子を心配している証でもあるのだ。

「でも、ナツ……」

 だけど、あの子は。

 確かに、自分を道連れにしようとした幽霊(あいて)だ。

 そう……自分を、殺そうとした子だ。

 けれど。

 それと同時に、殺された子どもでもあるのだ。

 一番愛して欲しい者にその死を望まれ、見も知らぬ大人に殺されてしまった―。

「できることがあるなら、やってあげたいな~とも、思うの。このままじゃ……私が、つらい」

 泣き叫ぶ子どもの感情(おもい)

 それが一日経った今でも消えないのだ。

 何故に、あの子が。

 あの幼子が、あんな哀しい残酷な感情を味あわなくてはならないのか。

 何故に、あんな絶望を抱えて逝かなくてはならなかったのか。

 もちろん、千華子とてあの子を救えるとは思っていない。

 だが、できることがあるならば、してあげたいーそう、思うのだ。


『どうやって』


 だが、ナツの方は容赦のない突っ込みをしてきた。

 本当に子どもなのか、と思う程の鋭さだ。

「えーと、それはタロットに聞いてみようかな~と」

 千華子がそう答えると、いきなり、パソコンの画面が暗くなった。

「ナツ?」

 どうやら、電源を消したらしい。何となく、

「知らないっ!」と言われたような気がした。

 いやおそらく、ナツはそう言いたいのであろう。

 千華子は、がしがしと頭を掻いた。

「心配かけて、ごめんね」

 そして、パソコンの近くにいるであろうナツに向かって、謝った。

 ナツが自分のことを心配してくれていることは、痛いぐらいにわかるのだ。

 だが、わかってはいても、自分ができることがあるのならば、それをしてやりたいと思うのだ。

 せめて、あの青いゴム人形を母親に元に届けてやりたいと。

 昨日夢で見た光景が真実かどうかはわからないが、あの幽霊()が母親を求めていることだけは、確かなのだ。

 やれやれと思いながら、とりあえず部屋の窓を開けようと、千華子は立ち上がった。

 と、その時だった。

 どさりという音がして、千華子のタロットカードが、ナツ用の小型パソコンの隣に現れた。

「……」

 千華子は、テーブルの上に突然現れたタロットカードを、まじまじと見つめた。

「ナツ?」

 どうやら、さっさとタロットでどうするか聞け!ということらしい。

 ナツにしても、そして千華子の後ろの人達にしても、妥協はするが時間はかけるな、と言いたいのだろう。

「ちょっと待って」

 千華子はそう言うと、まずは窓を開けた。

 それから風呂場に行くと、手早く手を洗う。

 ついでに顔も洗うと、千華子はリビングに戻った。


『おそい』


 そして、テーブルの上に置かれたナツ用のパソコンには、そんな言葉が打ち出されていた。

 いつの間にか、また電源を入れたらしい。

(みそぎ)をしていたのよ」

 笑いながら、千華子は言った。


『みそぎ』


「悪い気とかをね、水で洗い流すの。タロットやオラクルカードを使う時は、本当はそうしなきゃいけないのよ」

 そのパソコンの横にあるタロットを手に取りながら、千華子はナツにそう説明した。

 それからタロットを持ったまま、仕事用のデスクに移動する。

 引き出しからタロット用の布を出すと、それをデスクの上で広げて、タロットカードを置いた。

 深呼吸をして、意識をカードに集中する。

 あの殺された幼子の魂が閉じ込められた人形を、母親に届けるためには、どうすれば良いのか。その方法を教えて欲しいと、千華子はタロットに聞いた。

 意識をタロットに集中したまま、カードを混ぜる。

 そうして、意識を答えが来る方に向けた(・・・)。

 その瞬間、一枚のカードが飛び出して、床に落ちる。

 千華子はシャッフルしていた手を止めて、そのカードを拾い上げた。

「『正義』……」

 それは、「正義」のカードだった。天秤と剣を持った女神が描かれているこのカードは、その名の通り、「正しい方法を選びなさい」や「法律」と言った意味がある。

 「人形を届けるためには、どうしたらいい?」と尋ねて、このカードが出たとなると。

「郵便で送れってこと……?」

 まず考えられるのは、それだった。

 「正しい方法で届ける」となると、それは宅急便や郵便配達で届ける方法になる。

 だが、これには問題があった。

 何故ならば。

「でも、住所がわからないわよね……」

 同じ市内に住んでいることは確かだが、昨今の市町村合併のおかげで、その範囲はかなり広くなっている。

 適当に住所を書いて送っても、戻ってくるのがオチだろう。

 それにヘタをすれば、嫌がらせをしていると誤解される可能性もある。―となると、宅急便や郵便で送るのは、あまり良い方法とは言えない。

「あの幽霊()に道案内を頼むのはー」

 そうすると、次に考えられるのは「知っている者に道案内を頼む」ということだが、千華子がその考えを口にしたとたん、パシンパシンと家鳴りの音がした。

「……駄目なのね」

 この方法は、千華子の後ろの人達が大反対のようだった。

 まあ確かに、「閉じ込めている」あの子を解放するのは、危険なのだろう。

 それに、まだ幼い子どもだったことを考えると、正しく道案内できるかどうかも怪しい。

 「正義」のカードからも、あまり想像できない方法だ。

 「正義」のカードに描かれているのは、裁きの女神だ。

 左に人間の罪を図る天秤を持ち、右に持つ剣で不正を正す。

 ここから考えられるのは、「裁判」や「法律」である。

「裁判所、弁護士、検察、……警察」

 カードから想像できる言葉を呟いた千華子は、最後の「警察」と言う言葉に、ひっかかりを感じた。

 「警察」ならば、今はすぐ傍にいる。

 昨日、あんなことがあったばかりだから、捜査のために、またバイト先の店に来るかもしれない。

 交番に届ける方法もあるが、この間のことを考えると、またあらぬ疑いを抱かれてしまいそうだった。

 と、その時だった。

 テーブルの方から、カチャカチャと言う音が聞こえた。


『どうするの』


 千華子が「正義」のカードを片手に、テーブルの上に置かれたナツ用のパソコンに近づくと、そんな文字が画面に打ち出されていた。

 ぎっと睨まれている気がするのは、たぶん気のせいではないだろう。

「警察に届けるのが、一番いいみたいね」

 「正義」のタロットカードをパソコンの画面に向けながら、千華子は言った。


『けいさつ』

 

「お巡りさんのことよ」

 ナツにとっては、「警察」と言う言葉は、耳慣れなかったらしい。

 こういうところは、まだ幼い子どもなんだな、と感じさせられる。


『どうやって』


 だが突っ込んで欲しくないところに突っ込んで来るところは、本当に子どもか?とも思ってしまう。

 できることならば、そこには突っ込んで欲しくなかった千華子である。

「とりあえず、明日警察の人に会ったら、あの子の家族に渡してもらおうって思ってる」

 しかし、黙っているわけにもいかず、そう答えると、案の定ぎっと睨まれている視線が強くなったような気がした。


『すぐ』


 そして、そんな文字がパソコンに打ち出された。

「えっ? 今すぐ?」


『そう』


「え~」

 続けて打ち出された文字に、千華子は抗議の声を挙げた。

「明日で良いでしょ?」


『だめ』


 だが、ナツは納得しないようだった。

「うーん……」

 千華子は、「正義」のタロットカードを片手に、壁にかけた時計を見た。

 時計の針は、八時半をちょうど過ぎようとしている。今日の遠隔レイキヒーリングは、夜の十時からだ。

 いつもなら当然夕飯は作るが、買い物ついでにバイト先近くに行くのならば、同じくらいの時間が必要になる。

 自転車で片道十五分の距離だが、行ってついでにバイト先近くのコンビニで買い物して、帰って来てから御飯を食べるとなると、一時間以上はかかるのだ。

 本音を言えば、千華子は明日にしたかった。

 しかしナツの鋭い視線もそうだが、背後の方から「行け~行け~」というプレッシャーも感じるのだ。

 手の中にあるタロットカードは、「正義」。

 もう一つの意味は、「バランス」。

「わかった。コンビニで御飯を買うついでに、バイト先近くまで行ってくる」

 あれほど田村に関わらないように言われ、ナツや後ろにいる者達にも反対されているのに、あの人形を持ち帰って来たのは自分なのだ。

 今度は、自分が彼らの言い分を聞く番なのだろう。

 自分の言い分ばかりを通していたら、それこそ一方的になってしまう。

 千華子はがくうとなりながらも、そう言って出かけるしかなかった。


 だが、しかし。

 わざわざ買い物がてら、バイト先近くに来たものの、やはり刑事と会えるはずもなく。

 千華子はやれやれと思いながらも、バイト先近くのコンビニに入り、惣菜が置いてあるコーナーへと足を向けた。

 あまりゆっくりする時間もないので、手軽におにぎりとサンドイッチにするかと思いながら、陳列されたおにぎりを見ていると、

「こんばんは」

 と、声をかけられた。

 見ると、背の高い短髪の男が、すぐ傍に立っていた。

「お買い物ですか?」

 千華子は一瞬誰だろうと思った。

 だがすぐに、思い出す。

「お巡りさん」

 昨日、千華子に聞き取り調査をした刑事だった。

 だが、千華子はついさっきのナツとの会話のせいか、そんなふうに呼んでしまう。

 一瞬刑事は、妙な顔になった。

 その表情を見たとたん、千華子は我に返った。

「す、すいません」

 ついそう呼んでしまったが、刑事と交番に勤務する警察官とは、やはり違うのだろう。

「いえいえ。何だか、懐かしい呼び名ですね」

 しかし刑事はあまり気にしていないようで、そう言った。

「それに、私も『お巡りさん』ですよ。『刑事』は、私服で捜査をする警察官の俗称ですから」

「そうなんですか?」

 それは、初耳だった。

「こんな時間にまでお仕事ですか?」

「あ、いえ。たまたま買い忘れた物があったので」

 本当は違うのだが、話すわけにもいかないので、千華子は適当にそう答えた。

「買い忘れたもの?」

「ここのシャケおむすびが、急に食べたくなって」

 しかし刑事は、妙に突っ込んで来た。

 それが仕事柄のものなのか、それとも本当に仕事なのかー千華子には、わかりようがない。

 と、その時だった。

 ちりん、と小さく鈴の音が鳴ったような気がした。

「あ、そうだ」

 千華子は、自分がこのコンビニに来た、一番の目的を思い出した。

「お願いがあるんですけど」

「えっ?」

 千華子は右肩にかけていたリュックを手前に持ってくると、小さいポケットから、コンビニ袋に入れた、あの青いゴム人形を取り出した。

「それは?」

「あの子の……広川克実君のものです」

 千華子がそう言うと、刑事は目を見張った。

「あんなことがある前の日にも来ていて……その時、忘れていったのを私が預かっていたんです。今度来た時に、お返ししようと思っていたら、あんなことに……」

「それを、御家族に渡して欲しいと?」

 そして千華子がその言葉を言う前に、刑事がそう尋ねた。

「ご迷惑でなければ」

 そうして欲しいという意味を込めて、千華子は刑事を見る。

「わかりました」

 それに対して、あっさりと刑事は頷いた。

 千華子は、正直拍子抜けしてしまった。

「じゃあ、お願いします」

だが、あの幽霊()が閉じ込められたこの人形が、家族の下に―あの母親の元に、戻るのだ。

 自分ができる唯一のことは、ちゃんとやり遂げたかった。

「―そう言えば、克実君はかなり育てにくい子だったみたいですね」

 しかしふいに、刑事は千華子が差し出したレジ袋を受け取りながら、そんなことを言った。

「はい?」

「あなたなら、どうします? そのような子どもを持ってしまったら」

 どこかさぐるような目で、千華子を見る。

「相談します」

 それに対して、今度は千華子があっさりと答えた。

「えっ?」

 刑事の方は思ってもいなかった答えだったらしく、またしても目を見張った。

「ちゃんと公的な機関があるから、そこに相談して『療育』を受けます。一人じゃどうにもなりませんから」

 刑事は意外だったらしいが、今は子どもの障害については研究も進み、それに対しての「療育」―障害を持つ子どもが社会的に自立することを目的とする医療と保育のことであるーも、きちんとされるようになっている。

 ADHD(注意欠陥多動性障害)、高機能自閉症、アスペルガー症候群、そして自閉症……他人にはなかなか理解されない障害を持つ子ども達をサポートする体制は、かなりしっかり作られている。それを利用しない手はない、と千華子は思うのだ。

 もちろん、親の負担は大きいだろう。だが、一人で抱え込むよりは、はるかに良いはずだ。

「あなたは……」

 刑事は目を細めて、何かを言いかけた。

 だが。

「あの~すいません、よろしいですか?」

 ふいに、女性の客に声をかけられて、はっとなったようだった。

「あ、すいません」

 おにぎりの棚を見たがっているその客のために、千華子は棚の前から移動した。

「それでは、夜も遅いですから気を付けて帰ってくださいね」

 そんな千華子に、刑事はそう声をかけてくる。

「あ、はい。よろしくお願いします」

 千華子がそう言うと、彼は軽く頷き、コンビニから出て行った。

 それを見送ってから、千華子はふうと軽くため息を付く。やはり刑事と思うせいか、知らず緊張していたのかもしれない。

 と、その時だった。

 肩にかけているリュックから、携帯の着信音が聞こえた。

リュックから携帯を出して、ぱかっと開く。


『しゃけ』


 テキスト画面になった携帯に、そう文字が映し出されている。

「ナツ……」

 がくうとした気分になり、携帯の画面を見ながら、千華子は小さくナツの名を呟いた。ようは、自分の分のおにぎりはシャケが良いと、ナツは言っているのだ。さすが子どもと言うか、やはり子どもと言うのか。

 うっうっと思いながらも、千華子は棚に並んだシャケのおにぎりを、二つ手に取った。


―泣き声が聞こえた。

 あれは、子どもの泣き声だ。

 愛してもらいたい者に愛されず、孤独に打ちひしがれた、幼子の嘆き。

―どこに行く?

 誰が泣いているのだろう? そう思ってそこ(・・)に意識を向けようとした瞬間、呼び止められた。

―子どもが、泣いている。

 だから、行かなくてはならない。子どもが泣いているのに、放っておくことはできない。

―行ってはならぬ。

 白い装束に、腰には麻縄のようなものを巻き、そこに(つるぎ)らしきものを差し込んでいる男がそう言った。

 昔社会の図録で見た、古墳時代の兵士のような格好だ。

―でも、泣いている。

 そう言うと、男は首を振った。

―あれは弱き子。弱き子が死するは、生き物全ての定めでもある。

―そんな……!

 あまりの言いように、反論しようとした時だった。

―そなたの価値でものを言うでないよ、(みずち)

 ふわりと、今度は空から昔の平安貴族のような格好をした男性が舞い降りてきた。

ーセイ。

 「蛟」と呼ばれた兵士は、舞い降りてきた方の男の名を呼ぶ。

―我らが守護する者と、我らが生きていた時代とは、考え方が違う。

―だからと言って、自分の身を危うくされても困る。

―まあ、それは同感じゃ。

 「セイ」と呼ばれた、平安時代の貴族の格好をした男は、その言葉には頷いた。

―千の姫よ、戻られよ。(ことわり)の姫が、大層案じられておる。

―え……?

―坊主もな。

 そう言いながら、兵士の男が指で示した先には。

―帰ろう、お姉ちゃん。

 伸ばされた手。―まだ、幼い小さな手だ。

 自分を求めている手だ。

 泣き声は聞こえる。

 だが、自分が守るべき、そして差し伸べられた手を握り返すのは、この幼子の手だ。

―千の姫よ、そなたは自分のなすべきことは果たされた。それ以上のことは、何もできぬ。ゆえに、戻られよ。

 そして、「セイ」がそう言う。

―お姉ちゃん。

 伸ばされた手を、握り返した。その瞬間。

 子どもの泣き声が、大きく響いたような気がした。


 だるい。

 バイト先の店を出た瞬間、千華子はため息を吐いた。

 今日は、朝起きた時から体がだるくて仕方がなかった。

 そのせいなのか、気分もあまり良いとは言えなかった

 胸がつかえた感じと言うのか、何かすっきりとしない気分なのだ。

 おかげで、今日は調子が悪く、ミスを連発してしまった。

 掃除用のバケツの水はこぼすわ、注文をまちがえてしまうわ、店長にも「どうしたんだ?」と真剣な表情で聞かれてしまったほどだ。

 三年バイトをしているが、研修の時を除いて、今日ほどミスを連発してしまった日はない。

「どうしたんだか……」

 自分のことなのに、何故に自分がこんなにも憂鬱な気分でいるのか、千華子にはわからなかった。

 もっともそれは、今朝届いた、レイキヒーリングを問い合わせるメールのせいもあるのかもしれない。

そ のメールは、ただでさえ最悪な気分でいた千華子に、さらに追い討ちをかけるような内容だったのだ。


『もう限界なんです。助けてください。五歳の男の子が一人います。その子は、私の言うことを全然聞いてくれません。

 何でも自分の思い通りにしないと、気にいらなくて、たとえお店の中だろうが、横断歩道の途中だろうが、引っ繰り返って泣き叫びます。そんな時、周りは私を冷たい視線で見ています。

 「子どももきちんと育てられない母親」という目で見られていると思うと、たまりません。私はがんばって子どもを育てているのに、何回注意しても、何回叱っても、子どもは言うことを聞いてくれないのです。』

 

 そこに書かれていたのは、心の底からの叫びだった。

 子どもをちゃんと育てようとしているのに上手くいかず、周りから理解のない眼で見られ、苦悩している母親の。

 ―子どもを育てるのは、誰でもできることだと、大抵の者は思っている。

 特に子どもを持ったことのない者は、そうだろう。

 誰でもやっていること、動物ですらしていることだと。

 だが、実際はそうではない。

 自然界に生きる動物は、確かに子育てはするが、弱い子を見捨てるのにためらいはない。

 それが彼らの生きる掟であるし、許されていることなのだ。

 しかし、人間は違う。

 弱い子を見捨てることは悪だと、まちがったことだと、そうされている。

 そして、「悪い子」を育てていると思えば、容赦なく冷たい視線を向け、「自分は違う」「自分はちゃんと育てることができた」と思うのだ。

 多分、千華子にメールを出して来た母親も、その子を持つまではそう思っていたのだろう。

 もしかしたら、同じような視線を、そんな子を持つ親に向けていたのかもしれない。

「何……?」

 それは、幽霊の子どもの泣き声ではなかった。

 だが、あの子どもと同じ性質のものだった。

 そう。生きている者ではないー。

「その子を返して!」

 一方、母親は相田に向かってそう叫んだ。

「その子は私の子よっ!!」

「自分の子を、殺したくせに?」

 しかし相田は、子どもを抱きかかえたまま、言った。そ

 の瞬間、母親の表情が、真っ青になる。

「―あなた、あなたの子が熱中症で、救急車で運ばれた時、うちの店の二階に一人でいましたね?駐車場が良く見える席に座って、携帯片手に持って」

 赤ん坊の泣き声が響く。一つは、相田が腕に抱いた赤ん坊のもの。

そしてもう一つは、人には姿が見えない赤ん坊のもの。

 その赤ん坊は、相田の肩の部分に浮かんでいた。

―ワタシヲコロサナイデ。ワタシハウマレテキタイノ。ママ、ワタシヲコロサナイデ!

 聞こえるのは、生きていないーもう死んでいるであろう、赤ん坊の声。

「そしてあなたは、下の方が騒ぎ出してからも、そこにいましたよね? どうしてですか? あなたの子どもが熱中症になって、赤の他人である人達が、必死になっていたのに。しかも、その時あなたは赤ちゃんを連れていなかった」

 空中に浮かんだ赤ん坊は、泣きながら相田に話しかけるが、当然相田は気付かず、母親に向かってそう言葉を続けた。

「挙句の果てには、あなたの子どもを助けようとしていた人を捕まえて、犯人扱い。―何をするおつもりだったんです? 我が子が、死のうとしている時に」

 そして母親は、真っ青な表情のまま、相田の言葉を聞いていた。

「返して……」

 やがて、母親はそう呟いた。

 そうして、ゆらゆらと体を揺らしながら、一歩、相田と赤ん坊の方へと近づく。

「返して、私の子よ……」

「駄目よ」

 だが、相田は一歩、赤ん坊を抱いたまま後ろに下がった。

「あなたには、この子を抱く資格はないわ。この子も、いらないと思ったら、殺すんでしょ?」

「ち、が……」

 相田の言葉に、母親は首を振る。

 ぶるぶると体を震わせながら。

 そんな母親に、相田は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

 その肩には、泣いている赤ん坊がいると言うのに。

 そして闇の中に響く、泣いている赤ん坊の声。

 生きている者と死んでいる者。

 千華子は、人は異様と思うものを目の当たりしても、すぐに動けないことを、初めて知った。

 目の前にある光景は、おかしい。それはわかるのに、どう対応すればよいのか、どう行動すればよいのか、まったくわからないのだ。

「あなたは、本当にー」

 だが、相田の言葉を聞いた瞬間、千華子は叫んでいた。

「相田さんっ!」

 それは、言ってはならない言葉だった。

 赤の他人である、相田や自分が言う権利はない言葉だった。

「母親失格よね」

 しかし、相田は構わずにそう言葉を続ける。

「あっ……あっ…あっ……」

 その瞬間。母親の体がぐらりと大きく揺れた。

「あああああああああああああ!」

 そうして、闇の中を、まるで天に届くがごとく絶叫が響いた。

 駐車場のアスファルトに座り込んだ母親は、自分の顔をアスファルトにつけるようにして、叫び声を上げた。

 母親失格。

 それは、この母親が周囲にずっと言われ続けた言葉だった。

 母親失格。

 それは真実なのかもしれない。

 我が子の死を望み、そして我が子を、赤の他人に殺させた母親だ。

 だけど。そう、だけど。

 どうして、この母親はここまで追い詰められなければならなかったのだろう?

 何故、我が子を殺さねばならないほど、思い詰めたのか。

 人が、ばらばらと近づく気配がする。

 誰かが知らせたのか、パトカーのサイレンの音も聞こえた。

 それでも、まるで狂ったがごとく叫び続ける母親の姿を見つめながら、千華子は唇を強く噛み締めた。

 チリンと、ポケットに入れた携帯の鈴が、まるで千華子を慰めるように小さく鳴った。



 あの母親に投げつけられた物は、千華子が刑事の安藤に頼んで届けてもらった、青のゴム人形だった。

「我々も、母親の広川由香(ゆか)を最初から疑っていました」

 その安藤が、千華子のバイト先の事務室で、千華子に言った。

 安藤の向かい側のパイプ椅子に座った千華子は、手の中にあったゴム人形を見つめながら、その言葉を聞いていた。

「あなたは車をお持ちでないのに、あの母親は、我々にも『子どもがここの従業員の車にもぐりこんだ』と言い張っていた。あなたがきちんと鍵をかけていなかったせいだと」

「そうですか……」

 だが、安藤に事情を説明されても、千華子はそれしか言いようがなかった。

 ―結局、夢で見たことが、本当だったのだ。

「昨日、克実君が乗っていた車をレンタルした男の身元がわかったのです。その男の証言からー裏が取れて、明日にでも逮捕状を出す予定でした」

「明日?」

「今日は、克実君のお葬式でしたからね」

 安藤の言葉に、ああ……と千華子は小さく頷いた。

 それは、警察のせめてもの温情だったのか。

 警察がどんな風に考えるのか千華子にはわからないが、今回に限っては、素人の千華子から見ても穴だらけの犯行だ。

 日にちをずらしても逮捕に問題なし、と判断したのかもしれなかった。

「その人形は?」

 安藤は、千華子がじっと人形を見つめていたことに気付いたらしく、そう声をかけてきた。

「……克実君の、お母さんに投げつけられた物です」

「拝見しても宜しいですか?」

 ズボンのポケットから白い手袋を出しながら、安藤は言った。

 千華子は、黙ってゴム人形を安藤に差し出した。

「これは、あなたから預かった物ですね」

 人形を受け取った安藤は、確認するように聞き、それにも千華子は黙って頷いた。

「どうして、広川容疑者はあなたのせいにしようとしたんでしょうか?」

 そうして、安藤は真っ直ぐに千華子を見ながら尋ねてくる。

「何か、お心当たりはありますか?」

「ないです」

 それに、千華子は即答した。

 あの親子に会ったのは、千華子が覚えている限りでは、事件の前日が初めてだ。 この近くに住んでいたのであれば、もしかしたら来たこともあるのかもしれないが、千華子には覚えがない。

「では、どうして?」

 重ねて、安藤は問うてくる。

「わかりません」

 それにも、千華子は即答した。

「―本当に?」

「刑事さん?」

 それでも、何か言いたげな刑事に、眉を寄せる。

「広川容疑者と会ったことはないんですね?」

「少なくとも、私がバイトをしている時間帯に来る方ではないと思います。もしかしたら、来店されたこともあったかもしれませんが、常連さんでなければ、なかなか顔は覚えませんから」

「そうですか」

 安藤は、持っていたゴム人形を、テーブルの上に置いた。

「それでは、あなたの見解をお聞きしてよろしいですか?」

「見解?」

 プロの刑事が、素人の自分に何を聞くと言うのか。

 そんな思いを込めて、千華子は刑事を見た。

 その視線を真っ直ぐに受け止めながら、刑事は言った。

「ええ。何故、広川容疑者があなたを犯人にしようとしたのか。教員の立場から考えたら、何が原因だと思われますか?」―と。


 泣いていた子が、笑っていた。

 とても、うれしそうに。

―笑っている……。

 自分がそう言うと、そうじゃな、と「みはる」が言った。

 自分をここに連れて来てくれたのは、この「みはる」だった。―あ、お兄ちゃんだ!

 そうしたら、相手の方が自分達に気づいて、近寄って来た。その子は、本当にうれしそうに笑っていた。

―遊びに来てくれたの?

―かあくんは、もう泣いてないの?

 だから、名前を呼んで聞いてみる。

 初めて会った時、「かあくん」は、ずっと泣いていた。

 泣いて、「水、お水」と言っていた。

 あの人に頼んでお水を用意してもらったけれど、それでもずっと「水、お水」と言って泣き続けていた。

―うん! だって、ママと一緒だから。ママの傍には、赤ちゃんもいないし!

―赤ちゃん?

―僕の妹なんだって。でも、妹が来てから、ママは怒ってばっかりだから、妹なんて、いらないんだ。

―……。

 「かあくん」に「ママ」と呼ばれていた人は、自分達から少し離れた場所で、椅子に座っていた。

 さっきから、少しも動かない。

 目は開いているのだけど、まるで眠っているように、動かないままだ。

―おばちゃんも優しかったけど、おばちゃんのまわりにいる人達が怖いから、もう行かないんだ。

 「かあくん」が「おばちゃん」と言っているのは、あの人のことだ。

―泣いている時に、傍に来てくれたのは、おばちゃんだけだった。一緒にいてほしかったけど……。

―だめ!

 でもその「かあくん」の言ったことには、自分はそう言い返した。

―そうじゃな。

 自分の後ろにいた「みはる」も、そう言った。

―うん。だから、もういいんだ。だって僕には、ママがいるもん。

 本当にうれしそうに、「かあくん」は言った。

 そして、それでね、と言って言葉を続ける。

―たくさんおじちゃん達がいるところに連れて行かれた時は、哀しくてずっと泣いていたけど、おじちゃんの一人が、ママのところに連れて行ってくれたんだ。ママはぼくが入った(・・・)人形を、どこかに持って行こうとしていたけど、きっと赤ちゃんがいたせいだね。赤ちゃんがいなくなったから、ママは僕の傍にいてくれんだ!

―そうか……。

 「かあくん」がそう言うと、「みはる」が自分の肩に手を置いて返事をした。

 少し、その手が震えているような気がした。

―おばちゃんに「ありがとう」って言って。やさしくしてくれて、ありがとうって。

―必ず、伝えよう。坊、頼まれてくれるか?

―あ、うん。

 「みはる」がそう言ったから、うなずくと、「かあくん」はうれしそうに笑った。

―じゃあね。

 と言って、動かない女の人の傍に戻って行く。

―行こうか、坊。

 「みはる」がそう言って、自分の手を引く。

 ふわりと浮かび上がった。

―戻るの?

 自分の言葉に、「みはる」は頷いた。

 どこにとは、聞かなかった。

 自分達は、「みはる」達が「守る者」とか「千の姫」とか呼んでいる、あの人のところに戻るのだ。

―おねえちゃん、だいじょうぶかな?

 ここでの「おねえちゃん」とは、もちろんあの人のことだ。

 道路の上に座り込んで叫んでいた「かあくん」のママを、泣きそうな顔で見ていた。

 泣いてはいなかったけど、今にも泣き出しそうだった。

―坊。

 そんな自分に、「みはる」が声をかけてきた。

―なに?

―戻ったら、あの方を励ましてやっておくれ。

 そして、そんなことを言った。

―励ます?

―あの方は、優しい。そして頭も良い。だから、色んな者達の状況や思いを理解してしまう。何故そのようなことをしてしまったのか、何故こんなことになってしまったのか。そうしてその度に、傷つかれる。

―……。

―今回も、殺されてしまった子を哀れに思いながらも、あの子の母親にも、やるせない思いを抱かれている。理不尽な言いがかりをつけられたのにも関わらずな……。

 「みはる」の言うことは、とても難しくて良くわからなかった。

―何て言えばいいの?

 ただ、あの人を励まさなきゃいけないことは、わかった。

 泣きそうな顔で、「かあくん」のママを見ていたから、きっと哀しい思いをしているに違いないのだ。

―「一緒に帰ろう」とかで良いの。きっと、あの子は元気になるわ。

 と、その時だった。ふわりと「おねえちゃん」が現れた。

―姫。

 「みはる」が、「おねえちゃん」をそう呼ぶ。

―戻ってきたか、坊主。

 続いて、「にんじゃ」の人も現れた。

―おねえちゃんもおじちゃんも、迎えに来てくれたの?

 自分がそう聞くと、「にんじゃ」の人が、ちょっと顔をしかめた。

―坊主、姫への呼び方じゃが、我らが守る者と同じでは、ちと混乱するぞ。

 その言葉に、自分は首をかしげた。

―仕方ないではないか。「おばちゃん」と呼びかけて怒ったのは、あの方じゃぞ。

 代わりに、「みはる」が「にんじゃ」の人にそう言った。

―ああ、あの時な……。

 どこか遠くをみるような感じで、「にんじゃ」の人は呟いた。

 そう言えば、「「見も知らぬ人に、『おばちゃん』と呼びかけていいと思っているの!?」とあの人が言った時、「にんじゃ」の人は頭に手を置いていた。

―私のことは、「姫」と呼べば言いわ。

 くすくす笑いながら、「おねえちゃん」が―「ひめ」が言った。自分は、この人がこんな風に笑うのを見たのは、初めてだった。

―ひめ……おねえちゃん?

 そのことにびっくりして、自分はおそるおそる呟いてみる。

 すると、「ひめおねえちゃん」は、とてもうれしそうに笑ったのだ。それにさらにびっくりしていると、

「警察の方は、退職してからも、拳銃を使って犯人を逮捕することができるんですか?」

 ふいに、あの人の声がどこからか響いてきた。

 気が付くと、「みはる」と出かける前の場所に戻っていた。

 そうして、あの人が―「お姉ちゃん」が、「おまわりさん」と見つめあうようにして、椅子に座っていた。

「それは……」

「できませんよね? 警察を退職した以上、拳銃を持っていたら銃刀法違反になります。今の私に『教員として』の発言を求めるのは、それと同じことです」

 「お姉ちゃん」がそう言うと、警察の人は黙ってしまった。

―姫、良いのか?

 見ると、「お姉ちゃん」の傍には、「ひな人形」の人が立っていた。へんな格好をした、「みずち」もその隣にいる。

―千の姫は、疑われておる。気付かせなくて(・・・・・・・)良いのか?

 「ひな人形」の人が、そう言った。

―もともと聡い方じゃ。我々が干渉せねば、すぐに気付かれるぞ。

 「みずち」もそう言ったけれど、「ひめおねえちゃん」は、首を振った。

―それは、駄目。あの子は、あの子のままでいなくてはいけないの。

 そして、そんなことを言った。

―これから起こる出来事には、あの子があの子のままでいなくては、立ち向かうことはできなくなる。

 自分には、「ひめおねえちゃん」が言っていることは、全然わからなかった。

 ただ、「お姉ちゃん」が「うたがわれている」のだけはわかった。

 でもどうして、「うたがわれている」のだろう。そう、思った時だった。

「御質問は、以上ですか?」

 と、「お姉ちゃん」が言った。

 「おまわりさん」を、まっすぐに見ていた。

「……ええ」

 そんな「お姉ちゃん」を見て、「おまわりさん」が返事をする。

「じゃあもう、帰っていいですか? この後用事があるので」

 「お姉ちゃん」はそう言うと、椅子から立ち上がった。

「ご協力ありがとうございました」

 「おまわりさん」が、何か怖そうな顔をして頭を下げる。だけど、「お姉ちゃん」もべこりと頭を下げると、そのままドアを開けて外に出た。

 そうして、パタンとドアを閉めてから、とたんにふうっと息を吐いた。そうして、首を振って歩き出した。

―声をかけてくれる?

 「ひめおねえちゃん」が、自分にそう言った。

 目を閉じて、「お姉ちゃん」が持っている携帯に「つながる」。

 そうすると、目の前に、携帯の画面が現れるのだ。

 どうしてそうなるのかはわからないけれど、「かえろ」と自分が言うと、それは勝手に動いて、お姉ちゃんの服のポケットの中にある携帯電話が、プルブルと動いた。

 すると「お姉ちゃん」は、ポケットに手を入れて、携帯を取り出した。

 ぱかっと携帯を開いて、画面を見る。

 その時、「お姉ちゃん」は少しだけ笑った。

「帰ろうか」

 そして、自分に向かってそう言って、今度は笑ってくれた。

 「お姉ちゃん」は、携帯をまたズボンのポケットに入れると、歩き出した。

 たくさんの人がいて、「おまわりさん」の服を着た人も何人かいた。

 そんな中を「お姉ちゃん」は歩いて、自転車の置いてある場所へと行く。

 そうして、自転車をがっちゃんと動かすと、ふと、こんなことを自分に聞いてきた。

「ナツ……あの子は―かあくんは、今どうしているの?」と。

 だから、自分は答えた。

「わらっていたよ」と。

 そうしたら、携帯電話がまたプルブルと動いて、お姉ちゃんは自転車を手で持ったまま、もう一つの方の手で、また携帯電話をポケットから取り出した。

「そう……」

 その画面を見て、「お姉ちゃん」はそう言った。

「ままといっしょだからうれしいって」そして、自分が次にそう言って、携帯電話の画面に打ち出されると、「お姉ちゃん」は、

「そっか」

 と言って、携帯電話をパタンと閉じた。

 それは、とても哀しそうにも聞こえた。

 自分はそれがとても嫌で、「お姉ちゃん」の傍に近寄って、携帯に付いていた鈴をちりんっと鳴らした。

 それに気付いた「お姉ちゃん」が、ちょっとだけ笑ってくれた。

「帰ろう。コンビニで、シャケのおむすび買って」

 「お姉ちゃん」の言葉に、もう一度鈴を鳴らした。

 「うん」というつもりだった。

 「お姉ちゃん」はもう一度、少しだけ笑うと、自転車に乗った。

 自転車に乗った「お姉ちゃん」に、ふわりと浮かび上がって、自分達は付いていく。

ー早く元気になるといいな。

 と、自分が言うと、

―そうね。

 「ひめおねえちゃん」も、こくんと頷いた。





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