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サイレント・ブルー  作者: kaku
3/15

3 勃発

『おねえちゃんぼくはもうしんでいるんだよ』


 朝起きた時、そう画面に打ち出された、ナツ用にクロゼットから探し出した小型パソコンが、ベットの上にあっても、千華子は驚かなかった。

「何、いきなり」

 そのかわり、自分の上に乗っているパソコンを落ちないように両手で持ちながら、ベットから降りる。

 千華子にしてみれば、昨日で十分衝撃を受けたので、今さら改めて驚く気にならなかったのだ。

 例え目に見えないことであろうと、普通では信じられないことであろうと、起こったことは起こっているし、それであれば、受け入れて先に進むしかない。

 それは、前の仕事を離れる時に、十分に感じたことだった。

 千華子が、テーブルの上にパソコンを置くと、それを待っていたかのように、画面に文字が打ち出される。


『だからねなくてもいいんだよ』


「夜は、寝るものでしょ」

 それに対し、千華子はそう答えた。

 そう。

 例え目の前で非現実なことが起ころうと、生活しているのは、自分だ。

 生きている、千華子自身なのだ。

 ならば、目の前の現象が何であろうが、たとえ相手が幽霊であろうが、千華子は自分の感覚を第一にすることにした。

 だが、ナツが言いたいことはそういうことではなかったらしい。


『おぼえてないの』


「何を?」

 画面に打ち出された文字を読んで、千華子は逆にそう尋ねた。

 だが、それに対する答えは画面に打ち出されない。

 気にはなったが、何しろクーラーが止まったままのマンションの部屋は、蒸し風呂一歩手前である。

 千華子はテーブルからいったん離れると、まずはベランダの窓を全開にした。

 壁にかかった時計を見ると、七時であった。

 予定通りの起床時間である。

 これであれば、今日も予定していたことを、バイトに出かける前にこなしていけそうだった。

「さて」

 千華子はそう呟くと、窓から離れて、まずは風呂場に向かった。

 小さい風呂場には洗面所があって、そこで毎朝千華子は顔を洗っているのだ。 

 そして、化粧水と乳液をつけた後は台所に行って、朝食を作るのがいつもの流れだ。

「あ、そーか」

 だが、今日はそうはいかなかった。

 自分勝手に、朝食を作るわけにはいかない。 

 好き嫌いを許すつもりはないが、しかし確認を取っておく必要はあるだろう。

「ナツー」

 千華子はタオルでもう一度洗った手を拭きながら、リビングにいるであろうナツを呼んだ。

 リビングに戻って、テーブルの上のパソコンを見る。

 「おぼえてないの」から、文字は打ち出されていなかったが、千華子は構わず続けた。

「ナツは、卵食べられる?」

 昨日は驚きのあまり、バタバタしている間にレイキを流す時間が来てしまい、トーストとコーヒー(ナツは牛乳)になってしまったのだ。


『なに』


「今から朝御飯作るけど、卵を食べて、体がかゆくなったり、気分が悪くなったりしたことある?」

 好き嫌いは許さないが、アレルギーは別である。

 だが、少し待ってみても、今度は何も画面に打ち出されてこない。

 ないってことなんだな、と千華子は判断して、

「じゃあ、適当に作るからね」

とパソコンの近くにいるであろうナツにそう声をかけて、台所に向かった。

 しかし、奇妙な感じもする。姿も見えない、実態のない相手に話しかけて、実際は食べられないのに、御飯を作る。

 千華子にも、ナツが言うことはわかるのだ。

 死んでしまった者には、食事や睡眠―生きていくことに必要な行為は、意味がないのかもしれない。

 だがその一方で。

 幼い頃、亡くなった祖母が、仏前に食事を供えていたように、ナツの姿が見えなくてもそこに「いる」ならば、食事を供えてやりたいと。

 そう思ってしまうのだ。

 そんなことを考えながら、スクランブルエッグを作るために、卵をボールに割っていると、携帯の着信音が聞こえて来た。

 携帯の着信音は、プライベート用のものだった。仕事上、千華子は携帯電話の番号を、お客に教えている。

 お客の場合は、一旦留守録の方にメッセージを入れてもらうようにしていた。

 これは、お客の依存を避けるためである。

 自分の抱えている悩みや苦しみを解決するために、何回も同じことを占ってもらったり、色々な占い師を渡り歩いたりする、「占い依存症」のお客は、千華子のレイキを受けるお客の中にも、やはりいるのだ。

 だが、今回は違うようなので、一旦ボールを流しの上に置いて、リビングに戻った。

  着信音が鳴り続ける携帯を、仕事用のデスクの上に置いたバックから取り出すと、画面には、家族の名が出ていた。

「はい」

『ちいちゃん?』

 案の定、携帯から聞こえて来たのは、二つ年下の妹・実華子(みかこ)の声だった。

「みぃ。どうしたの?」

 しかし、かつての自分と同じ職に就いている彼女が、こんな朝早くから連絡してくることは、珍しいことだった。

『どうしたの、じゃなくてさ。ちいちゃん、今年も帰省しないつもり?』

 そうして、やはり手早く済ませたいのだろう。久々の電話だと言うのに、千華子の近況を尋ねるわけでもなく、直球を投げてくる。

「いきなり、直球ね」

 苦笑交じりに千華子がそう言うと、

『時間ないから』

 と、電話越しに妹はそう答えた。

「お盆は無理かな。一応、本業も副業も年中無休だしね」

『今年のお正月も、同じこと言ってたね』

 妹の口調は、どこか責めるようでもあった。

「みぃ。いじめないでよ」

『愚痴を聞かされているのは、私よ』

 妹の言わんとすることは、わかっていた。

『いいかげん、帰って来てもいいんじゃないの? ……心配しているわよ』

 だが決して、誰がとは言わない。それが、妹の優しさでもあった。

「考えておくわ」

 それに対し、千華子の返す言葉は、あまり前向きなものではなかった。

 それは、妹にもわかっているのだろう。

『できるだけ、前向きにお願いね。じゃあ、またね』

 そう言って、電話は切れた。

 やれやれと思いながら、千華子も「切る」のボタンを押して、携帯をたたむ。

 家族と連絡を取らず、会わなくなるようになって三年近く。

 今では唯一、自分と連絡を取る妹は、やはり二番目という特性のためか、自分にも、そして他の家族にも、そつなく対応しているようだ。

 それでも、毎年盆と正月に帰省を促す電話をきっちりしてくるのは、妹として、姉を案じる気持ちもあるのだろう。

 ため息を吐きながら、携帯をバックに仕舞っていると、カチャカチャとキーボードを打つ音がした。

「ナツ?」

 千華子がけげんに思ってナツの名を呼ぶと、黒かったパソコン場面が、ぱっと明るくなった。

 

『たれ』


「妹よ」

濁音がなかったが、その画面を見て、千華子は答えた。

「い……も……う……と」と、続けて文字が出てくる。

 それが、「妹って何?」という意味らしいことを感じた千華子は、

「同じお父さんとお母さんから生まれた人のことよ。自分より年上だったら、お姉さん。年下だったら、妹。これは、女の人ね。男の人は、お兄さんと弟ね」と、説明した。

 まあ、正確に言うならば、父親が違う兄弟とか、母親が違う兄弟とかもあるのだが、小さい子ども相手に、そこまで言うこともないだろう。


『おねえちゃんの』


「そう。私には、お姉ちゃんとお兄ちゃんはいないけど、妹がいるの。あ、弟もいないのよ」

 そう答えて、千華子はしばし待ってみたが、今度は何の文字も打ち出されてこない。

 疑問が解決されたから、満足したのだろうと判断した千華子は、台所に戻ると、朝食の準備を再開した。

 手早く朝食を作りながら、ナツには兄弟姉妹がいなかったのかな、と考えた。そうであるならば、「妹」と言う言葉を知らなかったのも頷ける。

 もっとも、「記憶」を失っているから忘れている可能性もあるが、パソコンのキーボードを使いこなせ、ある程度の言葉を使えるところを見ると、前述の方が正解のようにも思えた。

 一人っ子。

 ナツという、五歳ぐらいの男の子。

 死体を捜してくれ、と言うぐらいだから、何かしら、事件性のあるものに巻き込まれたのかもしれない。

 小さ目のお皿にスクランブルエッグを乗せ、その隣にロールパンを置きながら、そんなことを千華子は思い付いた。

 それをトレーに乗せて、牛乳が入ったグラスをその隣に置いた。

「ナツ、朝御飯できたよ。先に食べてね」

 そして、そう言いながら、トレーをテーブルへと運ぶ。

 パソコンの近くにトレーを置くと、また、画面に文字が打ち出された。


『ぼくのしたいさがしてくれる』


 その文字に、千華子は目を細めた。

「……ナツ。そのお話は、ちょっと待ってくれる?」


『なんで』


「とりあえず、朝御飯を先に食べようよ。お話は、御飯を食べながらでもできるしさ」

 そう千華子は言いながら、千華子は台所に戻った。

 自分がナツぐらいの頃。「死」と言うものを、考えてあったことがあっただろうか。

 二つ違いの実華子と共に、ケンカをしながらも、毎日ぬくぬくと過ごしていたような気がする。

「死」とか、「死体」とか。

 そんな言葉を知ったのは、もっと成長してからだった。

 そんなことを考えながら、千華子は、残ったスクランブルエッグを自分用の大きめなお皿に盛り、トースターで焼いた食パンを一枚、その隣に置いた。

 トレーにそのお皿と、アイスコーヒーが入ったグラスを置いて、またリビングへと戻る。

「ちゃんと食べてる?」

 そうして、トレーをテーブルへ置きながら、ナツに聞く。


『うん』


 パソコンの画面には、そんな文字が打ち出される。

「そっか」

 千華子はその文字を確認すると、テーブルの前に置いている、テレビの電源を入れた。

 テレビは、朝の情報番組をやっていた。

 何らかのコーナーの時間らしく、若い女性レポーターが、街の人たちにインタビューをしていた。

 テレビをつけていたら、何らかの情報が入るかもしれない。

 そう思って、しばらく食事をしながらテレビを見ていたが、ニュースが自体は、そう目ぼしいものはなかった。

 最近の経済情勢や、外交問題。殺人事件。汚職問題。

 そして、公務員の不正。

 だが、幼い子どもが殺された、というニュースは流れなかった。

「……」

 ため息を吐き、パソコンの方を見ると、さっき置いたナツ用のトレーが、目に入ってきた。

「ナツ、これもう食べた?」

 死んでいる人間に、「食べた」も何もないかもしれないが、千華子は、「食事の精気」みたいにものは、幽霊でも摂っていると思うのだ。

 でなければ、古今東西、人は死者に「お供え物」などしないだろう。


『うん』


 さっき打ち出された「うん」の隣に、新たな「うん」が打ち出される。

「じゃあ、私が食べるね」

 そう言うと、千華子はパソコンの横に置いた朝食を、トレーごと自分の方に引き寄せた。

 冷えて、水滴のついた牛乳入りのグラスに、手を伸ばす。

「ねえ、ナツ」

 そして、牛乳を飲みながら、パソコンのすぐ傍にいるであろうナツに声をかける。

「私はさ、お巡りさんじゃないのよ」

 そのこと言葉に対する返事は、まだ打ち出されない。

 千華子は、言葉を続けた。

「だから、ナツの体を捜すのは難しいと思うんだ」


『おねえちゃんはれいきひら』


 チカチカと光るカーソルから、そんな文字が打ち出される。

 どうやら、「お姉ちゃんはレイキヒーラーだよね」と言いたいらしい。

「そうだけど……でも昨日も言ったけれど、タロットやオラクルカードで探すのは、無理だよ」


『ぼくのしたいさがして』


 だが、またしても、パソコンの画面に打ち出されたのは、そんな文字だった。

 もしかしたら、ナツもまた、勘違いしているのかもしれなかった。

 「レイキヒーラー」と聞くと、「霊能力者の人」と勘違いする人も多い。

 時々、「行方不明の人を探してくれ」とか、「犯人を捜してくれ」とか、そんな依頼を千華子にしてくるお客がいる。

 どうも、テレビで事件を解決する超能力者の姿を見て、レイキヒーラーである千華子にも、同じようなことができると考えるようなのだ。

 もちろん、千華子にそんな力はない。

 千華子ができることは、レイキを送ることと、オラクルカードやタロットカードで、その人のほんの少し先のことを予想したり、必要なアドバイスを探ったりすることだけだ。

 

『ぼくのしたいをさがして』


 再度打ち出された「お願い」に、千華子はため息を吐く。

 千華子が幾ら言葉を重ねても、今のナツは、おそらく納得しないだろう。

「警察のようには動けない」と言っても、イメージが沸かないのだ。

 子どもは、社会がさまざまなルールと約束事で保たれていることに、気付かない。

 生きている子どもだったら、「わがまま言わない!」ですむのだが、ナツは死んでいるのである。

 田村に頼んで除霊をしてもらったほうが、ナツにとっても良いのだろうか、とも思う。

 だが、しかし。

 「子どもだからね」「子どもの頼むことが聞けないのか!?」といった感じのプレッシャーを、後ろから千華子は感じた。

 それどころか、延々と頭上から説教されているような気もする。(もちろん、聞こえないが)

「ナツ……もしかして、私の後ろの人達……」


『ばかあほとんまだって』


 ナツは、素直にパソコンの画面にそう打ち出してくれた。ようするに、「バカ、アホ、とんま」と言っているのだろう。

「素直に言ってくれてありがとう……」

 冗談ではなく眩暈を感じて、千華子は頭を抱えた。


 別に、ナツが千華子の自宅にいるのはかまわないのだ。

 「幽霊だよ!?」と言われるのかもしれないが、幽霊だろうがなんだろうが、小さい男の子である。

 それに、パソコンのワードを使うので、多少不自由はあるものの、コミュニケーションもとれる。

 もちろん、千華子にもその状態は不自然だとはわかってはいるが、後ろにいる方々がけっこうな人数であるらしいことを考えると、まあ、一人ぐらいコミュニケーションできる幽霊がいてもいいのかな、とも思うのだ。

 ただ、この状態を続けることは良くない。

 それも、はっきりとわかっていることだった。

 だが、その解決方法が、「死体探し」というのが問題なのだ。

 「できない」と、昨日もそして今日も言ってみたが、なしのつぶてである。

 職場のロッカーを開けながら、千華子はため息を吐いた。

「何、ため息?」

 と、ふいに声をかけられる。

 後ろを振り返ると、更衣室に置いてあるテーブルで、昼食を食べているバイト仲間の女性がいた。

 彼女とは、シフトの時間帯がほぼ同じなので、毎日顔を合わせるのだ。

相田(あいだ)さん」

「疲れているの?」

 千華子が彼女の名を呼ぶと、そう彼女は言った。

「まあ、この暑さですからね」

 誤魔化すように、千華子は言った。

 まさか幽霊の男の子が昨日自分の家に来て、その死体探しを頼まれましたとは、言えるはずがない。

「自転車だっけ、出勤に使っているの」

「そうです」

 千華子はそう答えながら、手際よく制服に着替える。

「この暑いのに、がんばるわね~。買わないの? 車」

「まだまだですよ」

「けっこう貯めこんで込んでいるんでしょ?」

 これは、暗に「この仕事以外でも、儲かる仕事をしているんでしょ?」という意味なんだろうな~と思いながらも、

「車を買って、維持するまでのレベルじゃあないですよ。まだまだ先は長いです」

 と、言った。

「そうなの?」

 ハンバーガーを食べながら、相田は聞き返してくる。

「はい」

 真実なので、千華子は迷いなく頷いた。

 確かに、ありがたいことにレイキヒーリングの申し込みは、毎日必ずどんなに少なくても一件はある。

 ひどい時は、一ヶ月以上もお客を待たせることもある。

 だがそれでも、一ヶ月の収入は多い時でも十数万程度だ。

 このファーストフードのバイトをしていないと、とてもじゃないが生活できない。

 世の中、本当にただ生活しているだけで、お金がいるのだ。

 フリーター+自営業の千華子は国民保険に加入しているが、それの毎月の支払い、年に四回の住民税の支払い、そして三月には所得税の支払いもある。

 それに毎月ある、ガス代、電気代、水道代といった公共料金、マンションの家賃、携帯の料金、インターネットの接続料、そして食料や雑貨などの生活費。さらに、医療費などが必要な月もある。

 とてもじゃないが、車を購入し、維持する余裕はなかった。

「ふーん……」

 千華子が返事をした後は、相田はそう言ったきり、それ以上は何も言わなかった。

 納得してくれたかどうかはわからないが、千華子としてはありがたかった。

 相田が期待するようなお金の儲け方があるのならば、千華子も是非知りたい。

 だが、そんなものは、ありはしない。もしあったとしても、それは多大なリスク及び大きな代償を払うことになるのだ。

 そうしてふと、一昨日(おととい)見た、あのサイトのことを思い出した。

 あそこで、殺人代行を引き受けている者達も、「お金を儲けたい」と、そんなことを考えているのだろうか。

 人を―幼い子どもを手にかけてまで、お金が欲しいのだろうか。

 そこまで考えて、千華子は軽く頭を振った。

 これも、考えても仕方のないことだった。 

 千華子自身は、そういったことを「とんでもない」と考えるからだ。

「どうしたの?」

 相田がけげんそうに声をかけてきたが、「何でもないです」と千華子は答え、先に更衣室を出た。

 バイト開始まで後十分あったが、千華子は必ず十分前には、仕事に入るようにしていた。

 そんな千華子の姿勢が、相田の癇に障るのだろうが、これに関しては、もう性分なのだ。

 十分前の行動、五分前の行動。

 あの現場を離れた今でも、その習慣は消えない。

「いらっしゃいませ」

 そう言いながら、レジに並ぶお客に声をかけ、キッチンに入った。

「ぴったりですね、瓜生さん」

 そうして、奥にある、手洗い専用の洗面台に行こうとすると、そう声をかけられた。

 声をかけてきたのは、まだ二十代前半の、社員の男性だった。

熊谷(くまがい)さん」

「本当に、びったりなんですよね。早すぎもせず、遅すぎもせず。ちゃーんと毎日十分前に入ってくる」

 冷凍庫の材料の在庫をチェックしながら、熊谷はそんなことを言った。

「まずいですか?」

 手を洗うために、蛇口を捻りながら千華子は聞いた。

「感心しているだけですよ。瓜生さんって、本当にきっちりしていますよね」

「そうですか?」

「うん。時々、学校の先生みたいだなあと思う時あるし」

 一瞬。水にさらした手の動きが、止まったような気がした。

 だが次の瞬間、

「それは、生真面目ってことなのかな?」

 と、笑いながら千華子は言った。

「違いますよ、本当にマジで感心しているんですってば」

 男性社員は、慌てたようにそう言った。

 本当に、何も考えなく言ったらしい。

「マジと本気は、同じ意味の言葉ですよ」

 手をペーパーで拭きつつ、千華子は突っ込みを入れた。

「いや~だから、そういうトコが、先生っぽいって言うか」

「褒め言葉として、受け取っておきますね」

 千華子がにっこり笑ってそう言うと、熊谷は、ほっとした表情になった。 だが次の瞬間、ちょっとすまなそうな表情になる。

「すいません、瓜生さん。せっかく手を洗ってもらったんですけど、先に店の清掃をお願しないといけませんでした……」

「……さっきの言葉は、取り消しますね」

 はっはっはっと苦笑する男を横目でじろっと睨みつけると、千華子は、キッチンの流しの横に干してあるふきんと、消毒液入れを持ち、またレジの横を通ってキッチンから出た。

 客がいないテーブルに消毒液を軽く吹きつけ、ふきんでそれを拭き取る。

 その作業をしながら、ナツのことを考えた。

 ナツは今、ここにはいない。

 千華子は、ここに連れて来ようかどうしようかとも考えたのだが、ナツ自身が、「ここいる」とパソコンの画面に打ち出してきたのだ。

 それならと、千華子はクーラーをつけっぱなしで行こうとしたが、「ぼくはしんでいるんだよ」と、千華子の考えを読んだように文を打ち出されてしまった。

 実際、ナツ本人の方が、冷静に自分の状況を理解しているのかもしれない。

 千華子は、どうもナツを普通の子どものように扱ってしまう。

 もちろん、幽霊だとはわかっているのだが、どうしてもそうなってしまうのだ。

 ある意味、非現実なことを受け入れるように、無意識にそうしているのかもしれなかった。

 ナツが今どうしているか、幽霊が見えない千華子にはわかりようもないが、千華子の後ろにいる人達が、相手をしているのかもしれない。

 まあ、そう言った意味では、やはり生きている人間の子どもとは違い、手間はかからない。

 もし、ナツが生きている人間の子どもだったら、今日はこのバイトには来られなかっただろう。

 ただ。

 やはりどう考えても、自分がタロットカードやオラクルカードで、ナツの死体を捜すことは無理だった。

 あれから、もう一度そのことを言ってみたのだが、ナツは「ぼくのしたいをさがして」の一点張りで、らちがあかなかった。

 言葉で諦めさせるのは、難しいのかもしれない。

 千華子の後ろにいる人達の中で、一番偉い者も子どもらしいので、よけいにそうなのかもしれなかった。

 これはもう、実際にやってみせて、「難しいんだ」と実感させないと駄目なのかもしれなかった。

 と、そこまで考えて、千華子はふいに制服の上着のポケットに、何かが入っていることに気付いた。

 何だろう、と思って出してみると、それは青い色をした、小さいゴム製の人形だった。

 昨日、「かあくん」と呼ばれていた男の子が投げたものだ。

 帰る前に、店に転がっていたのを「危ない」と思って拾ったのだ。

 だがゴミ箱に捨てるのもしのびなくて、制服のポケットに入れて、そのままにしていた。

 千華子は少し考えたが、また、そのゴム人形をポケットの中に入れた。

 今度あの親子が来た時に、返せるような雰囲気だったら返そう、とそう思ったのだ。

 ―と、その時だった。

 千華子は何かに呼ばれたような気がして、自動ドアの入り口を見た。

「すいませんっっ!」

 まるでそれを狙っていたかのように、茶髪の今時のヒップホップの歌手の真似をしました、と言った感じの服を着た、若い男の子が飛び込んできた。

「す、すいません、み、水を、こ、子どもが!」

 慌てたように言うその言葉に、千華子は大声で叫んだ。

「熱中症ですか!?」

 少し離れた場所から言ったので、若い男性も他の客も驚いたように千華子を見たが、千華子は急いでその男性に近寄った。

「え、えと、子どもが車の中にいて、ぐったりしてて」

 その言葉に、千華子は目を見張った。

 今は八月の真っ昼間だ。最高気温は三十度を軽く超えると、ニュースでも言っていた。

「すいません、氷を用意してください! それからスポーツドリンクも!!」

 その最中に車の中にいたということは、最悪の場合、熱射病(日射病)を起こしていることが考えられるのだ。

「や、瓜生さん!?」

 レジのすぐ傍にいた若い女性のスタッフが戸惑ったような声を出したが、もう一人のパートの女性は、すぐさまレジ下に置かれた赤いバケツを取り出して、氷をそれに入れ始めてくれた。

「瓜生さん、これ持って行って!」

「ありがとうございますっっ!」

 カウンターの上にどんっと置かれたバケツを、礼を言って受け取ると、千華子は「案内してください!」と男の子に叫んだ。

「私も持っていきますから、氷を入れてください」

 と、スーツを着た男性客やレジで待っていた何人かの客がそう言っていたが、千華子はそれには構わず、若い男性と一緒に店を飛び出した。

 店に面した駐車場では、何人かのヒップホップ歌手風の格好をした若い男の子達が、団子のように固まって「おい、おい、しっかりしろ!」と、口々に叫んでいた。

「おい、氷を持ってきてもらったぞ!」

 千華子の前を走っていた若い男がそう叫ぶと、その固まりは、あっというまに立ち上がり、千華子に近寄って来た。

 何があったのかとか、どうしてこんなことになったのかなど、聞く間もなかった。

 彼らの仲間の一人だろう。若い真っ赤な髪をした男の腕に抱かれている子どもを見て、千華子は目を見張った。

 昨日の、あのゴム人形を投げた男の子だったのだ。

 この熱い最中、まるで氷のように青ざめた顔色をしている。

「すげえ、体が熱いんですよっっ。」

 途方にくれたように、男の子を抱いている男は言った。

「ごめんなさい、誰か上着を貸してくれますか!?」

 すぐさま、何枚もの服が千華子に差し出される。

 千華子はそれらすべてを受け取ると、まずは適当に何枚かを重ねて、その上に氷をぶちまけた。

「ここに寝かせてあげてください!」

 赤い髪の男は、すぐ様男の子を寝かした。

 寝かされた男の子は、ぐったりとして、意識もないようだった。

「しっかりして!」

 千華子はそう叫びながら、男の子の衣服の前を開き、着ていたズボンも脱がせた。

 そうして、散らばっている氷を集めては、その体の上に載せた。

 とにかく、体の体温を下げるのが一番なのだ。

「おい、氷ッッ!」

 氷を持った人達が、何人か立て続けに来た。

 若い男達に何か言ったり、自分の背広を脱いで、男の子の体に影ができるようにしてくれたりする人もいた。

「あんた、氷!」

 そう言われて、千華子は受け取ったバケツに入った氷を、また男の子の上にかける。

「店員さん、ここは私達がするから、あなたは何か仰ぐものをもってきてくれる!?」

 そうして、必死になって氷をかけていると、年配の女性がそう声をかけてくれた。

「仰ぐと氷が解けて、その蒸発する力でさらに冷たくなるのっ。ただ氷だけで冷やすより効果があるから!」

「わかりました!」

 スポーツドリンクの入っているらしい紙コップを持っていたその女性に頷くと、千華子は立ち上がった。

 ばたはだと再度走って店の中に入ると、

「瓜生さん、どう!?」

 若いバイトの女性にそう声をかけられた。

「意識がないんです! それと仰ぐものが必要だそうです!」

「トレーでいいなら、持っていきましょう!」

 氷をすぐさまバケツに入れてくれたパートの女性がそう言って、何枚かのプラスチックのトレーを持って来てくれた。

「救急車も呼びました! すぐに来てくれるって!」

 厨房からは、熊谷もそう叫ぶ。

「わかりました!」

 千華子は頷くと、パートの女性がくれたトレーを何枚か持ち、また再び店の外に出た。

 トレーを持って走ってくる千華子達を見て、手の空いている人達が近寄って来て、

「俺も扇ぎます!」

「こっちにも!」

 と、口々に言い合った。

 あっと言う間にトレーは、千華子の分までなくなってしまった。

 皆、子どもを助けようと必死なのだ。

 千華子はもう一度トレーを持ってこようと、店に戻ろうとしたーその瞬間。

「あなたのせいでしょ!!」

 そんな金切り声と共に、がしりと体にすがり付かれた。

「えっ!?」

「あなたが車のドアをちゃんとロックしていないから、かあくんがっ」

 髪を振り乱し、白いチュニックを着た女性が、千華子の体をぐいぐい押して来る。

「―彼女、車持っていませんよ」

 だがふいに、そんな冷静な声がした。

「それなのに、どうして彼女のせいだってわかるんです?」

「相田さん……」

 いつの間にか、相田が千華子達のすぐ傍に立っていた。

「それからあなたのお子さんがいた車は、レンタカーですよ。車のナンバーを見れば、すぐにわかります」

 相田は、真っ直ぐに、千華子につかみ掛かったままの女性を見て言った。

「赤の他人が、これだけあなたのお子さんのためにやっているのに、あなたは何をされているんですか?」

 相田の言葉に、白いチュニックを着た女性は、肩を震わせながら千華子から離れた。

 ちょうどその時、ピーポーピーポーと、救急車がサイレンを鳴らしながら、駐車場に入って来るのが見えた。

 車の扉が開き、救急隊員が出てくる。

「こっちです!」

「この子の母親は!?」

「こちらにいらっしゃいますよ!」

 救急隊員に向かって、相田が叫ぶ。

「病院に搬送しますから、ご一緒に!」

 四十代ぐらいの男性の救急隊員が、一人近寄ってきて、母親に声をかけた。

 彼女は隊員に言われるままに、救急車の方へと走って行った。

 男の子と母親が救急車に乗り込み、救急車が再びサイレンを鳴らしながら、病院へと走って行くと、張り詰めていた周りの空気が、一気に緩んだ。

 いつのまにか集まっていた人だかりも、氷で濡れた上着を絞っている若い男性達、広げていた背広を着るサラリーマン、持っていたトレーを店員に渡す人など、それぞれに動き出していく。

 そんな中、千華子は動くことができなかった。

「一応、車両ナンバーは控えておいたわよ」

 そう言いながら、相田は制服のポケットから、メモ用紙を出して、千華子に差し出した。

「相田さん……」

 相田が何を言っているのか、千華子にはわからなかった。

「気付かなかった? あの人、昨日の迷惑な親子連れの母親よ」

 それは、わかっていた。

 だが、何故その相手が千華子に縋り付いてきて、「あなたのせいよ!」と叫んできたのか。

 そして何故、相田は車両ナンバーを書いた紙を、千華子に渡そうとするのか。

「何を考えてあんなことを言い放ったのかはわからないけれど、注意した方がいいわ」

 はい、とそのメモを相田は千華子に握らせる。

「あ~、腹減った」

 そんな千華子の後ろを、安心した表情で、お客が通り過ぎていった。

「戻ろうか。忙しくなりそうね」

「……そうですね」

 相田の言葉に、千華子は頷いた。……頷くことしか、できなかった。


「お疲れ様でした」

 そう言って、千華子は店からもう真っ暗になってしまった外へと出た。

 外へと出たとたん、むわっとした暑さを感じたが、日差しがない分、昼間よりはまだましだった。

 そんな中で、千華子は軽く伸びをした。

 「かあくん」と呼ばれていた子どもが、救急車で運ばれた後。

 店は、地獄のごとく、ごった返し+忙しくなった。

 あの暑さの中、男の子の手当てをしてくれた人達が店に戻って改めて注文をしたのをスタートとして、騒ぎを聞きつけて野次馬で見に来た人達が、「じゃあついでに」という感じで店に入ってきて、あっと言う間に客が増えたのだ。

 子どもを助けるために氷を使ったこともあって、店長は近くの店に氷を取りに行ったり、持って来てもらったりするのに、バタバタしていた。

 それと同時並行で、警察が現場検証に来て、これまた店員達もパタパタとさせられた。

 警察としても、その現場にいた人間に、できるだけたくさんの話が聞きたい、ということなのだろう。

 協力しないわけにもいかなかったので、千華子も他の店員達も、店の事務所で事情聴取を受けた。

 皆誰もが初めての経験だったので、少しだけ興奮していた。

 だが、店の事務所という場所だったせいか、テレビで見るような緊迫感などはあまり感じなかった。

 事務所で事情聴取を受けたのは店員だけだったので、他の客や最初に車にいた男の子を助けた若者達には、外で聞いたのかもしれなかった。

 男の子がいた車は、白の軽で、ロックがされていたらしく、若者達は助手席の窓ガラスを割って子どもを助けたようだった。

 一応、事情聴取の時に、刑事には子どもの母親に言われたことと、しがみつかれたことは伝えていた。

 どうしようかとも考えたのだが、相田が伝えている可能性もあったし、相田以外にも目撃者がいた場合、ややこしいことになるのかもしれない、と判断したのだ。

 相田はあれから、忙しくなった店で、いつもと変わらない態度で働いていた。

 事情聴取を受けた後も、興奮していた他のバイトやパートの店員達とは違って、淡々とした態度だった。

 しかし、千華子は相田が何を考えているのかが、わからなかった。

 何故に、あれだけの騒ぎの中、あの男の子が乗った軽の車のナンバーを控えていたのか。

 そして、どうしてあのタイミングで、現れたのか。

 もちろん、偶然だったのかもしれない。

 だが―それにしては、ひっかかるものを感じるのだ。相田が現れたおかげで、あの母親のヘンな言いがかりからは逃れられたと言うのに、千華子は、どうしてか、素直に感謝する気になれなかった。

 もっとも、千華子は相田に対して少し思うところがあるので、そのせいもあるかもしれない。

 何はともあれ、千華子は助けてもらったのだ。

 明日にでも、改めて礼は言うべきだろう。

「やれやれ……」

 頭を掻きながら、駐輪場へと行き、千華子は自分の自転車の鍵を外した。

 と、その時だった。

「―やっぱり、自転車で出勤されていたんですね」

 不意に、そんなふうに声をかけられた。

 屈みこんでいた体を起こすと、すぐ傍に背広姿の男が立っていた。

 千華子と、そう年は変わらないぐらいの男だ。

 はっきり言って、見も知らぬ他人であった。

 背が高く鍛えているであろうと一目でわかる体と、切れ長の目と短髪の、いかにもという風体をした男だった。

「失礼しました。県警の安藤(あんどう)と申します」

 縦長のパースケースのようなものをー警察手帳を千華子に広げて見せながら、その男―安藤刑事は言った。

「瓜生千華子さんですよね?」

 念を押すように聞くその刑事に、千華子はとまどった。

「あの……?」

広川(ひろかわ)克実(かつみ)君の件で、確認に参りました」

 だが、この言葉には、目を見張った。

 克実という名前が、「かあくん」と呼ばれていた昼間の男の子を思い出させたのだ。

「あなたは、車は持っていらっしゃらないんですね?」

 そして、見ればわかることを、刑事は今一度聞く。それは問いかけではなく、確認のように千華子には思えた。

「前は持っていましたけど……」

 そう。「先生」と呼ばれていた時には、持っていた。

 だが、退職と同時に手放した。

 一番お金がかかっていた物だったからだ。

「ええ。それは、確認しました」

 千華子が正直に言うと、刑事はさらりと、だがとんでもないことを言った。

 千華子は、その言われた内容に驚いた。

 つまり、自分のことが「調べられた」のだ。

「車の免許はお持ちですか?」

 だがそんな千華子に構わず、刑事は質問を続けた。

「いえ、家です」

「家?」

「使うことないですから」

 今の千華子にとって、確かに車の運転免許証は、唯一の身分証明書でもあるのだが、日々の生活の中では、ほとんど使うことはない。

 それにバイト先では、貴重品は持っていかないようにしていた。

 財布と携帯はポケットの中に入れているし、まあ、バイト先は多数の人間が出入りするので、当然の配慮でもあった。

「なるほど……」

 刑事は切れ長の目をさらに細くして、頷いた。

「わかりました。ご協力ありがとうございました」

 そして、刑事は礼を言い、ベコリと頭を下げた。

「これは、あくまで裏付け捜査ですから、あまりお気になさらないでください」

「はあ……」

 刑事の言葉に、千華子は生返事するしかなかった。

 「裏付け捜査」とは言われたが、ようは勝手に「自分のこと」を調べられたのだ。

 当然だが、良い気はしない。

 こちらとしては、店員として、昨日も、そして今日も、きちんと対応していたつもりなのだ。

 それなのに、何故、「あなたのせい」と言いがかりをつけられ、こんなふうに勝手に自分のことを調べられないといけないのか。

 だが、刑事はそんな千華子にもう一度頭を下げると、店の駐車場に止めていたらしい車へと歩いて行った。

 まだ仕事中らしいとは言え、あちらは車で、こちらは自転車である。

 何か理不尽なものを感じつつ、千華子はしばらく刑事の後ろ姿を見ていたが、ため息を吐くと、自転車にまたがった。

 この後にも、本業の仕事があるのだ。

 腹も立つし理不尽なものも感じるが、今日千華子のレイキヒーリングを受けるお客には、そんなことは関係ない。

 お金をもらっている以上、中途半端なことはしたくなかった。

 と、その時だった。背負っていたリュックの中から、携帯が軽く震えていることに気付いた。

 バイト中はGバンのポケットに入れている携帯も、落とさないためにリュックの中に移動させているのだ。

 背負っていたリュックを降ろし、千華子は自転車にまたがったまま、携帯を取り出した。

 お客からだろうかと思いながら、二つ折りの携帯をぱかっと開く。


『みず』


 携帯は、テキスト画面になっていて、画面にはそう打ち出されていた。

「ナツ? いるの?」

 小さく呟くと、チリンと、お守りのストラップに付いた鈴が鳴った。

 千華子が続けて「水が欲しいの?」と聞くと、鈴がまた鳴る。

「ちょっと待てない? すぐに家に帰るわよ」

 今度は、鈴は鳴らなかった。

「じゃあ、先に家へ帰って……」

 言いかけて、千華子はふと気付いた。

 今の家に戻っても、「水」はない。

 確かに水道をひねれば水は出るし、冷蔵庫には麦茶も入っているのだが、幽霊であるナツには、それらのものは動かせないのかもしれない。

「あ~自分で水を出すのは、無理なのね。冷蔵庫の中に入るのは……」

 横で、冷たい視線を向けられているような気がして、千華子は言葉を続けるのを止めた。

「今すぐ欲しいの?」

 やれやれと思いながらそう聞くと、鈴が鳴った。

「わかった。コンビニで買うから、ちょっと待ってて」

 バイト先の店からちょっと行った所に、コンビニがあるのだ。

 チリン、チリンと、鈴が二度鳴った。

 どうやら、「早く、早く」ということらしい。

「はいはい、わかったから」

 千華子はそう呟くと、リュックの中に携帯を入れて背負うと、自転車をこぎだした。


 結局、コンビニで、ペットボトルの水を二本買う羽目になってしまった。

 ついでに、千華子は、ビールと今夜食べる弁当も買った。

 千華子は節約のためにも自炊派だが、帰る前に刑事と話したり、コンビニに寄ったりして、時間を食ってしまったのだ。

 本業の前に、食事とお風呂を済ませるようにしている千華子にとって、そのロスはけっこう痛かった。

 昨日はナツが来たことで、精神的にも時間的にもバタバタしてしまったが、たまたまレイキを送る客が少なかったから、まあなんとかなったのだ。

 しかし、今日からレイキヒーリングを受ける客が三名いて、その内の一人は初めてレイキヒーリングを受ける客だ。

 リピーターの客とは違い、どんな反応があるかわからない。

 きちんと対応するためにも、やはり落ち着いた気分でレイキを流したかった。

「やーれやれ」

 ため息を付きながら、マンションの部屋のドアを開ける。

 案の定、むわっとした空気が、部屋の中から流れてきた。

 その空気にうんざりしながら、千華子は部屋に入った。

 そう言えば、昨日もこのねっとりとした熱気には、うんざりしながら、部屋に入ったのだ。

 しかし、移動させた覚えがないパソコンがテーブルの上に載っているわ、パソコンの画面に文字が勝手に打ち出されるわと、その暑さを感じる余裕がなかったのだと、改めて気付く。

 だが、次の瞬間には部屋に充満した熱気に耐え切れず、千華子は玄関に荷物を置いたまま、リビングに直行した。

 千華子が部屋に入ったとたん、ナツ用のテーブルに置いてあった小型パソコンの画面が明るくなったが、千華子は構わず、窓へと直行して、ガラス戸を開けた。

 からからと戸を開けて、網戸にすると、新鮮な空気が入ってくる。

 外からの風も熱気を含んでいるが、それでも、清浄さがある分、千華子には涼しく感じられた。

 やれやれと思いながら、玄関に置いたままの荷物を取りに行こうとした、その時だった。

 テーブルの上に置いた、ナツ用のパソコンの画面に、文字が打ち出されていることに気付いた。


『みず』


 またしても、携帯のテキストメモと同じ言葉が、そこには打ち出されていた。

「ナツ?」

 千華子はけげんに思って、ナツの名を呼んだ。

「コンビニで買ったばっかりじゃない。足りないの?」

 玄関には、さっき買ったばかりのベットボトルのミネラルウォーターが、二本レジ袋の中に入って置いてある。

 もちろん実際には飲んでいないが、それでも、たとえ幽霊でも十分な量ではないかと思うのだ。

 実際、生きている人間だったら、どんなに暑くても、こんな短時間では二本で十分だろう。まして、ナツは幼い子どもである。


『うん』


 だが、パソコンの画面には、そう打ち出された。

「う~ん、ちょっと待ってね」

 千華子はそう言うと、リビングから、玄関のすぐ横にある台所に行き、冷蔵庫から毎日作っている麦茶が入っている容器を出した。

 それを持って、リビングに戻り、テーブルに載ったパソコンのすぐ隣に置いた。

「これでいい?」

 千華子がそう聞くと、チンと、ガラス製の容器が鳴る。

 グラスに注ぐべきだったかと思ったが、それは問題ないらしい。

 うーむと思いながらも、千華子は玄関に置いてある荷物のところに戻り、流しに買ったものを置いて、リュックを置くべく、もう一度リビングへと戻る。

 そうして、いつものように、リュックを仕事用のデスクの椅子に置いた。

 と、その時だった。

 今度は、デスクの上に置きっぱなしにしているノート型パソコンの画面が明るくなる。

「わっ!」

 一瞬びっくりした千華子だが、


『みず』


 と、ワードのテキスト画面になったパソコンに、そう文字が打ち出されたのを見て、さらに驚いた。

「ナツ? いくら何でも飲みすぎだって!」

 そうして、思わずそう叫んでしまう。

 幽霊とは言っても、この短時間での水の欲しがり方は、あまりにも異常だった。

「どうしたのよ、いったい。だめだって、いくらなんでも、飲みすぎよ」

 

『だってたりない』


 デスクの上のパソコンの画面にはそう打ち出されたが、

「だめ。いくらなんでも飲みすぎです!」

 千華子はそう言って、台所へと戻った。

 そうして、買ってきたベットボトルと、ビールを冷蔵庫にしまった。

 それから、レジ袋からコンビニで買った弁当を取り出すと、食器を入れているカラーボックスから、皿を一枚取り出した。

 ナツの分を、お弁当から少し取り分ける。

 どうせ後は自分が食べるので、問題はない。

 そうして、麦茶を入れるためのグラスを取ろうと、もう一度カラーボックスの方に体を向けたとたん、千華子は目を丸くしてしまった。

 食器を入れたカラーボックスの前に、ナツ用のパソコンが床に鎮座していたのだ。


『みず』


 そうして、そんな風に書かれたワードの画面が、写っていた。

「ナツ……」

 やはり幽霊とは言っても、子どもなのだ。

 わがままを許さない姿勢も大切だと、千華子は思い、

「駄目です」

 と、はっきり言った。

「もうすぐご飯を運ぶから。その時牛乳もあるから、それまで我慢しなさい」

 そして、そう言いながら、カラーボックスにしまっていたグラスを一つ出す。

 その間にも、カチャカチャとパソコンのキーボードが打つ音はしていた。

 千華子は、その音を聞きながら、冷蔵庫から牛乳を出し、ナツは水を飲みすぎていることを考慮して、氷を浮かべずにグラスに注いだ。

「ナツ、ほら。用意ができたから、あっちで先に食べてなさい」

 そして、パソコンの傍にいるのであろうナツに、そう声をかける。

 だが、パソコンの画面に打ち出された文字に、眉を寄せてしまった。


『ぼくじゃないの』


「えっ?」

 思わず、パソコンの画面をまじまじと見てしまう。

「ナツ?」

 ようするに、水を欲しがっているのは自分ではない、とナツは言いたいらしい。

 だが、千華子は考え込んでしまった。

 ナツは、幽霊である。

 当然のことながら、千華子にはその姿は見えない。

 だから、ナツの言っていることが本当なのかどうか、判断できないのだ。

 千華子は、基本的に子どもは素直なものだとは思っているが、その分、ずる賢いところがあることも、身をもって知っていた。

「とりあえず、ご飯テーブルに持っていくから、食べていなさい」

 そう言いながら、千華子は手早くナツ用の夕ご飯を、トレーに乗せた。

 そうして振り返ると、確かに床に鎮座していたパソコンは、もうなくなっていた。

 それに目を丸くしながらも、千華子はリビングへとトレ―を持って行った。

 案の定、リビングのテーブルの上には、さっきは台所にあったナツ用のパソコンが、ちょこんとのっていた。

「重くないの、それ」

 思わず、千華子はそう聞いてしまう。

 どうやら、ナツは自分用のパソコンは動かせるらしい。

 ホラー映画でも、フォークやスプーンが宙に浮かんだり、戸が勝手に開いたりと、物が動いたりしていることは確かにある。

いわゆる、ボルター現象と言うやつである。

しかし、千華子は、幽霊はあまり重いものは動かせない、と思っていたのだか、ナツは違うのだろうか。

 カチャ、とトレーをテーブルの上に置くと、パソコンの画面が、また明るくなった。


『ぼくのがない』


「ナツ……」

 千華子は、目を細めた。

()が(・)いる(・・)の(・)?」

 その瞬間。

 千華子は言いようのないものを感じた。

 ナツが千華子の言葉に答えるようにキーボードが打っているにも関わらず、すぐさま風呂場に行き、栓を入れて、思いっきり蛇口を捻り、水を出した。

 そうして、台所に行くと、調味料を入れているラックから、荒塩を取り出し、風呂場に戻った。

 それを、迷いなく入っていた塩を全部バスの中にぶちまける。

「何……?」

 そこで、千華子は我に返った。

 限界まで捻った蛇口は、勢いよく水を放出していて、小さいバスは後少しでいっぱいになるところだった。

 あわてて、蛇口を閉めて、持っていた荒塩の袋を見る。

 ポチャンと、閉めた蛇口から水滴の落ちる音が聞こえた。

「誰……?」

 そこに、()か(・)が(・)いることはわかった。

「ナツ……?」

 ナツの名を呼びながらも、それ(・・)がナツではないことを、千華子は感じていた。

 そして、とっさに場を浄化する力がある、レイキの記号(シンボル)を空中に描き、シンボルの言葉を呟いた。

 その瞬間、バスの中にいる、千華子には見えないそれ(・・)の気配が消える。

 気が付くと、汗がびっしょりと出ていた。

 それが、暑さによるものではないことは、十分にわかっていた。

 夕飯の前にシャワーを浴びようと思いながら、千華子はリビングに戻った。

 テーブルの上にあるパソコンからは、カチャカチャと、キーボードを打つ音が聞こえた。


『どうしたの』


 パソコンの画面には、そんな文字が打ち出されている真っ最中だった。

「ナツ……誰か、いた?」

 息を吐き出すように、千華子はナツに聞いた。

 そうして、今打ち出された文字の前の行に、打ち出されている文字があることに気付く。


『ずっとないてるこ』


 千華子には、それが、「ずっと泣いている子」という風に読めた。

「子どもが……いたの?」

 チンッと、それに答えるように、涼やかなガラスの鳴る音がした。

 ナツが、ガラス製の麦茶入れを鳴らしたのだ。

「そう……」

 千華子は、言葉と共に、息を深く吐き出した。

 

『いまはいない』


 つまり、今、千華子が風呂場で荒塩をぶちまけて、レイキを使って追い出した相手は、確かにいたのだ。

 千華子には、見えなかっただけで。

「……どんな子だった?」

 まさか、と思った。いくらなんでも、考え過ぎたと。


『わかんない』


 だがやはり、まだ幼いナツには、その質問は難しかったようだった。

「水を欲しがっていたの?」

 チンっという音が、また聞こえた。

「そう……」

 水を欲しがっている、幼い子ども。

 深いため息を、千華子は吐いた。

 偶然。そう思いたかった。

 あれだけ、皆で必死になって助けようとしたのだ。

 だが。氷をかけた体は、とても熱く。

 息も細かく。―と、その時だった。

 カチャカチャと、キーボードを打つ音が、部屋に響いた。


『どうしたの』


 パソコンの画面には、そんな文字が打ち出されていた。

 黙りこんだ千華子を見て、心配になったらしい。

 その文字を読んで、千華子は小さく笑った。

「何でもないわ、ナツ」

 そして、自分に言い聞かせるように、そう言った。

 そう。偶然なのだ。

 熱中症で亡くなった子は、他にもいる。

 去年、あるいはずっと前の夏に亡くなった子もしれないし、そもそも、あの「かあくん」と言う子が、死んだとは限らないのだ。

「ナツ。私、先にシャワーを浴びてくるね。悪いけど、先に食べてね」

 気分を変えるように千華子が言うと、チインと、ガラスが涼やかに鳴る音がした。



  だが。

 それは、気のせいでも、考えすぎでもなく。

 悪夢は、既に始まっていたのだ。




 

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