13 サイレント・ブルー
―宝。
初めてその名前を聞いた時、とても良い名前だと思った。
良い名前だね、と本人に言うと、うれしそうに笑った。
大きくなってからは、
『でも、そんな名前付けても、結局親は俺を捨てたからな』
そんなことを言うようになった。
だけどやっぱり自分は、彼の名は良い名前だと思った。
だから。自分が結婚して子どもを生んだら、絶対に付けよう、と決めていた。
それなのに。
そう、それなのに。
ずっと好きだった相手との結婚生活では、「宝」を身ごもることはできなかった。
相手には、子どもを作る能力がなかったのだ。
それでも、どうにかしたくて。
精子の提供を受けて生みたいと相手に言ってみたけれど、
『俺達二人だけじゃ、駄目なのか』
と、哀しそうに言われてしまった。
「俺達二人」じゃ駄目だった。「愛する夫」と、「宝」と「自分」と。三人揃って、幸せになりたかった。
その気持ちを伝えてみたけれど、相手はわかってくれなかった。
『俺には、お前の欲しいものは与えてやれないから』
そう言って、自分から離れて行ってしまった。
幼い頃から共にいて。
彼は、何時だって優しかった。
自分のお願い事を、どんな時でも笑いながら聞いてくれた。
それなのに、自分の本当の願いだけは、叶えてくれなかった。
彼が去って、しばらく自分は呆然自失だった。
別れたけれど、自分には帰る場所がなかった。
お金だけは、彼がたくさん渡してくれたから、しばらく働かなくて良かったけれど、寂しかった。
心の底から、寂しかった。
だから。
親友の、『いつまでも家に閉じ困っちゃ駄目よ』という言葉に押されるようにして、出たパート先で知り合った人と、付き合い始めた。
その人は、優しかった。
寂しかった自分にとても優しくて、自分はその人に縋るようにして、日々を送った。
『いずれ妻とは離婚して、お前と結婚したいよ』
そう、言ってくれた。
けれど結局その人も、彼の子どもがお腹に宿った時に、そのことを告げると、青ざめた顔になって言ったのだ。
『本当に、俺の子どもなのか?』と。
子どもの父親は、まちがいなくその人だった。
自分は、その人以外とは付き合っていなかったのだ。
それなのに。
『俺の子とは限らないだろう? 悪いけれど、おろしてくれないか?』
その人は、冷たく言った。
自分は、今度こそ「宝」に出会えると思っていた。
赤ちゃんができたと知った時、本当にうれしかった。
でも、「宝」ができても、「宝」だけじゃだめなのだ。
「愛する夫」が、いなければ。
「宝」と「自分」とだけじゃ、幸せになれない。
だから。
そう……だから。
―ワタシヲコロサナイデ。ワタシハウマレテキタイノ。ママ、ワタシヲコロサナイデ!
死にたくない!
何かに弾かれるようにして、目が覚めた。
千華子は、ゆっくりと体を起こした。
辺りを見回すと、そこは薄暗い場所だった。
―ここは……?
まるで窓に紙を張ったような薄暗さで、電気も点いていなかった。
千華子は立ち上がって、もう一度部屋を見回した。
どこかのアパートの部屋のようだった。
何故、自分はここにいるのか。
さっきまでは、確かに「愛育園 若草の家」にいたのに。
ねっとりとした感覚が体にまとわり付く。
その感覚は、不快なものだった。
夏の暑さみたいな自然なものとは違い、それ(・・)を感じるだけで、嫌な気分になる。
窓を開けよう。と、千華子は思った。
視線を窓の方に向けると、そこに窓はなかった。
窓がない。
だが、不思議と失望は感じなかった。
窓がなければ、ぶち抜けば良いのだ。
千華子は、何時の間にか手に持っていたハンマーで、壁を思いっきりぶち抜いた。
音もなく壁が崩れ、アパートにはよくあるアルミのサッシ窓が現れる。
その窓を躊躇なく開け、外の空気を部屋に入れた。
そうして部屋に視線を戻すと、床に物が散らかっていることに気付いた。
何かを食べたらしい袋、脱いだ洋服、タオル、そして薬。ビールの缶らしきものも転がっている。
点々と床に散らばっているそれらの先には、人が横たわっていた。
―私……?
ビール缶が散らかっている床のすぐ近くに横たわっているのは、千華子自身だった。
千華子は目を丸くして、もう一度近寄って、その人物を見つめた。
それは、まちがいなく自分だった。
―何で私……?
まじまじと眠る自分の姿を千華子は見つめていたが、横に散らばるビールの缶がふと目に付いた。
ゴミをまとめよう。
そう思った千華子は、これまた何時の間にか手に持っていた大きめの袋に、ビールの缶を入れた。
それをテーブルの上に置くと、今度はまた何時の間にか手に持っていたゴミ袋に、床に散らばったゴミを入れて行く。
それが終わったら、次は洗濯物を拾ってテーブルの上に置いた。
―洗濯機はどこかな?
そう呟きながら千華子は部屋を出ると、洗濯機は、部屋を出てすぐ横に置いてあった。
そうして、ふと気付いた。
この部屋は、千華子が教員をしていた頃の部屋だった。
そうすると、眠っているのは、教師を休職していた頃の自分、なのか。
もわんと、何かねっとりした物が体にまとわり付くのを感じた。
それは千華子の体を這い回り、ぎゅっと締め付けてくる。
―だったら、余計にしっかり掃除しないと。
けれど。
そのねっとりとした物を振り切るように、千華子は歩き出した。
そうして、洗濯機のすぐ横にある小さな窓を開けた。
それから、すぐ前にあるお風呂場にも入り、そこの小さな窓も開けた。
次に過去の自分が横たわっている居間に戻ると、テーブルの上に置いた洗濯物を持ってまた部屋を出た、洗濯機の中に洗濯物を入れると、洗剤を入れて、スイッチを押した。
洗濯機が動き出す音を聞きながら、今度は台所の方に足を向けると、流しには、洗ってない食器がたくさん置かれていた。
千華子はスポンジを手に取ると、それらをてきぱきと洗い始めた。
―ドウシテ、ソンナコトスルノ?
と、その時だった。
千華子の耳元に、まるで囁くような声が聞こえた。
―だって、気持ちが良いじゃない。
それに答えるようにして、千華子は言った。
―ナンデ? アソコニイルノハ、アナタダヨ? ミジメデ、カワイソウナアナタ。
―だからこそ、今の(・)私が(・)掃除をするのよ。少しでも、元気になってもらわないとね。
千華子が洗い物をしながら、そう答えた瞬間だった。
ドウシテワタシダケ、ドウシテワタシダケ、ナンデアンタハエラソウニ、ワタシヨリモミジメナクセニッッッッッッッッッッッッッッ
それは、何度も聞いた言葉だった。
あのバイト先のファーストフードで。
パソコンの画面の向こう側で。
ファミレスの、叫ぶ母親の声に混じって。
ドウシテ!?
その瞬間。
千華子は、ぐらりっと視界が歪むのを感じた。
『瓜生さんって、しっかりしている人ね』
そうして、まるでノイズが走るように、違う場所から、「声」が聞こえた。
『ああ。瓜生さんは、元学校の先生だからな』
『えっ? そうなの?』
『病気で辞めたらしい』
『それって、何? 心の病気で?』
『他の人に言わないでくれって言われているから、お前も他のパートには言うなよ』
『それはいいけど……どうして、人に言いたくないのかな? やっぱり、指導力不足で辞めさせられたから?』
『さあな。ただ、あの人が来てから、うちの店売り上げが伸びているんだ。本部も、あの人を正社員にしようか、と考えているみたいだ』
『ふーん』
教員を辞めさせられた、かわいそうな人。
私よりも惨めな立場にいる人。そう思った。
それなのに。
『どうして、そんなところを掃除しているの? 出勤前の時間でしょ?』
『まあ、少しの時間ですみますから』
元教師が、ファーストフードの店員。
笑っちゃうぐらい惨めな境遇なのに、仕事はとても熱心にやっていた。
あなたのやりたい仕事は、教師であって、ファーストフードの店員じゃないでしょ?
あ、お金? お金がないから、働いているの?
私は、譲からお金をたくさんもらったの。
だから、お金だけはあるの。しばらくは、働かなくていいぐらい。
『そう言って、お金貯めているんでしょ』
『そんなことはないですよ。車を持つのは、まだまだ先です』
お金がないから働いているんじゃないの!?
そう言えば、ネットで何かお仕事をしているって、あの人が言っていたっけ。
『ねえ、ネット使ってお仕事しているんだって? 私にもそのやり方教えてくれない?』
『私がやっているのは、アフィエイトみたいなものじゃないんですよ』
ねえ、あなたは惨めな人なんでしょう?
ファーストフードの店員なんて、あなたは死ぬほどやりたくない、仕事なんじゃないの?
私のように、彼氏もいないくせに、お金もないくせに、どうしてそんなに楽しそうに笑っていられるの?
『お金がないっていやね』
『そうですね』
そう言って笑いながらも、私が持っているブランド物には目をくれない。
『彼氏とデートに言ったの』
『よかったですね』
私の言葉に頷き、それ以上の反応はない。
どうして、と思った。
私よりも惨めなくせに、私よりも幸せそうに見える。
私は彼女よりもお金があって、彼氏もいて、彼女よりも恵まれた人間のはずなのに。
どうして、彼女を見ていると、惨めな気持ちになるのか。
そんな思いに苛まれている時に、妊娠がわかって。とてもうれしかった。
これで、自分は彼女よりも幸せになって、こんな思いも抱かなくてすむ、と。
けれど、結局あの人は、自分のために離婚する気なんかなくて。
……どうして。どうして、どうして、どうして、どうして!?
どうして、自分は欲しい物が手に入らないのか。
愛する夫と。「宝」と名前が付いた子ども。
欲しいのは、ただそれだけなのに。
誰もが当然のように持っている家庭を、どうして自分は持てないのか。
子どもを当然のような顔をして持っている母親が、子どもを虐待して殺しているのに。
ファーストフード店に来る親子連れでも、信じられない人達がいる。
子どもがうるさい声で泣き喚いても、注意をしない人達。
笑いながら一緒に来た人としゃべったり、スマホをいじったりしていて、子どもの方を見ることさえしない。
『子どもさえいなければ』
そんなことを、子どもの前で言い放つ親もいた。
そんなに子どもがいらないのならば、そんな人達は、子どもを殺してくれるサイトがあったら、どうするんだろう?
作ってみようか? そんなサイトを。
パアアアアーン。
その瞬間。
千華子は、はっきりと「何か」から弾きだされたように感じた。
「何……?」
呆然として呟く。
と、耳元で、カチャリという音がした。
「動くな」
冷たい感触を、頭に感じた。
「安藤さん……?」
千華子は、信じられない思いで、自分の東部に銃を付き付ける、男を見た。
その男は、九州の住んでいた街で出会った、刑事の安藤だった。
―いらっしゃいませ、ご主人様。
そのメイド姿の幽霊は、そう言って、榎本に頭を下げた。
―どちらにご案内しましょうか?
若い、まだ二十代にもなっていないような女だった。
―あいつが……若葉が行ったところに行きたい。
―かしこまりました。ご案内します。
そしてメイドの幽霊は榎本の言葉に頷くと、くるりと榎本に背を向けて歩き出した(・・・・)。
―えらく、あっさりと引き受けてくれるんだな。
頼んでおいてなんだが、榎本はこのメイドの霊が本当に案内してくれるとは、思っていなかった。
この霊のことは、知らない。
ただ、千華子達が消えた時に、今までいなかったこの霊が、いきなり現れたのだ。
―栞が気にしている子だからね。
栞、という名に榎本は覚えがあった。
千華子と「繋ぎ」をしていた刑事が、加藤栞、という名であった。
―まあ、あの子がいる場所までなら、案内するよ。
しかしそれ以上は何も言わず、メイドの幽霊は、空中に突然現れたドアを開いた。
開いたドアの向こう側に見えるのは、階段だった。
―どうぞこちらです。
そうして、メイドの幽霊は、その階段を上り始めた。
榎本もその後を追う。
階段は、英国風と言うのだろうか、木目のアンティーク調のものだった。
その扉の中に入ったとたん、ゆらっと周りの物全てが揺らぎだしたような気がした。
その感覚は、榎本も久々に感じるものだった。
大抵は、「生き人」のままでこちら(・・・)に行くことはほとんどない。
基本的に現実の世界と、こちら(・・・)の世界では、「存在」するエネルギーが違う。
例えて言うなら、アニメ(へいめん)の世界には、現実の人間は入ることはできない。
また逆に、アニメの世界の人間が、生きた人間とて現れることはない。
だが、両者はテレビというもので現実の世界では相対している。
それと同じようなことが、言えるのだ。
けれど。
千華子達が連れて行かれた場所は、そんな常識は通用しない。
「生き人」と「死人」が共にいる。
現実の世界では、霊が生き人を死に追いやることは、めったにない。
どうしたって、生きている人間の方が強いのだ。
だが、これから行く場所は。
現実の世界では考えられないことが、起こるのだ
霊に攻撃を受ければ、それで肉体が傷つく。
そうして。
「同じ存在」として相対した時には、霊の持つ「攻撃力」と言うものは、すざまじいものになるのだ。
榎本は、半袖パーカーの下に隠した拳銃を軽く撫でた。
この銃と共に、死線を何度か越えて来た。
今度も、越えなければならない。
超えて、帰らなければならない。
あの男がいる場所へと。
―物騒な物持っているのね。
先に行くメイドの幽霊が、前を向いたままそう言った。
「必要なものだからな」
―私を殺したヤツは、包丁だったけどね。
「そんなもんで相対していたら、こっちが殺される」
―「殺す」つもりなの?
嫌なことを聞く、と榎本は思った。
今から行く場所にいるのは、若葉だ。
否……かつて、「若葉」と言う名の人間だった、「悪鬼」だ。
「人」が、「悪鬼」になるのは案外簡単だ。
「心」を失くしてしまえばいい。
「心」を憎しみに支配され、周りを全て憎むようになった時、人は簡単に「悪鬼」になる。
このメイドの幽霊を殺した者も、全てを憎み、「悪鬼」になった。
そして、繁華街で無差別に人々を刺し、死刑となった。
―簡単に、読み取ってくれるのね。それ、一応トップシークレットなんだけど。
榎本が「力」を使ったのを察したのか、メイドの幽霊は苦笑した口調で言った。
「好きで読み取っているんじゃない」
現実の世界ではある程度制御できるが、この手の場所では、己ずと「入って」来るのだ。
―だけど、あそこにいるのは、あなたの知っている人なんでしょう?
「あれはもう、俺が知っている若葉じゃない」
榎本は、メイドの幽霊の言葉に、そう返した。
あの場所にいるのは、もうかつての「若葉」ではない。
心の闇に囚われ、こちら(・・・)側の「闇」と同化した、「悪鬼」だ。
かつての記憶もなく、己の闇に囚われ続け、人の意識すら失くしてしまった、「悪鬼」。
―そう……。
助けられないの?と、メイドの幽霊は聞かなかった。
そんなことを考える時は、もう過ぎたのだ。
そんな甘い考えを持ったら、榎本の方が殺される。
『宝ちゃん!』
そう言って、自分に無邪気な微笑みを見せた少女は、もういない。
そう……いない、のだ。
ただ、それでも。
あれは、かつて「若葉」だったものだから。
自分の手で、始末をつけたいのだ。
自分の名前を、「良い名前だ」と言ってくれた、幼馴染。
自分の親は自分を捨てたが、それでも「宝」という名を付けた。
生まれた瞬間は、「宝物」だと思ってくれたのだ、と。
若葉が「良い名前」だと言ってくれたおかげで、そう思うことができたのだ。
―どうして、人は「悪鬼」になるのかしらね?
メイドの幽霊は階段を上がりながら、独り言のように言った。
「恨んでいるのか? 自分を殺したヤツを」
―憎くないと言えば、嘘になるわ。私は、あの場所にたまたまいただけなのよ? そりゃあ、栞以外の学校の皆には内緒でメイド喫茶のアルバイトはしていたけれど、もっと言えばメイドの格好をするのが大好きだったけれど、それは誰にも迷惑をかけていない、私の趣味だったのよ。それなのに、あの男はあの場所にいた奴らは殺しても全然問題ない、って思っていたみたいだからね。
でも、とメイドの幽霊は言葉を続けた。
―あの男は、死刑になってしまった。死刑になって、こっち(・・・)に来たけれど、少しも救われていないわ。死んだ今でも、自分の殻に閉じこもって、思い続けているの。「こんなはずじゃなかった」って。
「そうか……」
全てが終わった時。
かつて「若葉」だった「悪鬼」もそう思うのだろうか。
そう、榎本が思った時だった。
―あら。先客がいるわ。
メイドの幽霊が、驚いたような声を上げた。
階段を上り切った先に、大きな両開きの扉があった。
その前には、数人の人物が立っていた。
一人は、平安貴族の仮衣姿の男。
一人は、忍び姿の男。
古代兵士の姿をした男もいる。
白い浴衣を着た女と、手に桑を持った一目で百姓とわかる姿をした女もいた。 言わずもがな、彼らは千華子を守護する者達だ。
だがそこには、ナツと理華子の姿がなかった。
「ナツと「姫」はどうした?」
―向こう(・・・)におる。
そう、「サイ」が答えた。その言葉に、榎本は眉を寄せた。
―まずいわね。
メイドの幽霊が、榎本の思いを代弁するかのように言った。
「子ども」の幽霊達は、弾き出されず(・・・・・・)に千華子と共にいる。
それは、千華子にとっては、何ら問題はないことだった。
理華子もナツも、千華子を守ることには何ら躊躇いはしないだろう。
ただーそう、ただ。
理華子もナツも「大人」にならないで死んでいった「子ども」だった。
子どもがゆえに、彼らは何のためらいもなく、千華子を守ることを優先するだろう。
―急ぐぞ。
そんな榎本の思いを読み取ったかのように、「サイ」が言った。
―どうなるかわからぬが、できることなら、千の姫の望みは叶えたい。
千華子の、望み。それはいったい何なのか。
―誰だって、人をできれば傷つけたくないわよね。
ぽつりと、メイドの幽霊が呟いた。
それは、榎本も抱く思いだった。
榎本も、できればかつて「若葉」だったものを、消したりしたくはなかった。
―開けてくれ。
だがそのために、己の命を犠牲にすることは、できなかった。
それは、千華子も同じだろう。
でも、だからこそ。
願ってしまうのだ。
元に戻って欲しい、と。
少しでもその可能性があるのならば、かけてみたいと。
それは、ほとんど祈りに近い願いであることは、わかっているけれど。
扉がギギギッと音を立て、開く。
―いってらっしゃいませ、ご主人様。
メイドの幽霊の言葉を聞きながら、榎本は一歩、その世界へと踏み出した。
「安藤さん……?」
千華子は、信じられない思いで、自分の頭に銃を突きつける安藤を見上げた。 どうして、九州にいる安藤が、ここにいるのか。
ゆらゆらと、周りがまるで陽炎のように揺らめいている風景の中、はっきりとした存在感が、安藤にはあった。
背が高く鍛えているであろうと一目でわかる体と、切れ長の目と短髪の、いかにもとはいう風体をした男。
「どうして、ここに?」
「その言葉が、まず出てくるのか」
千華子がそう聞くと、安藤は目を細めた。
そんな安藤の後ろには、黒い塊のようなものが見えた。
黒い真ん中のところからは、手みたいなものが何本も出ている。
「相田さん……?」
それを見て、千華子は小さく呟いた。
「しゃべるな」
カチリと音がして、銃の引き金に指が置かれた。
千華子は、それを横目で見ながら、息を飲んだ。
「言っておくが、この拳銃は本物だ。撃たれたら、あんたは死ぬぞ」
そんな千華子に、安藤はそう告げる。
「何で……」
でも、それでも、問わずにはいられなかった。
どうして、相田があんな姿になっているのか。
黒い塊は、千華子の知っている相田ではなかった。
あれが、かつて人だったものであったとは、とても信じられなかった。
だけど。
確かに、あれは相田なのだ。
「若葉のことが気になるのか?」
頭に銃を突きつけられつつも、かつて「相田」だったものに視線を向ける千華子を見て、安藤が尋ねる。
「どうして若葉がこんな姿になっているかは、俺にもわからない。ただ、若葉が望むことはわかる」
そうして、そんなふうに言葉を続けた。
「俺は、若葉によばれてここ(・・)に来た。……その頃は、まだ人の姿だったがな」
けれど、今は人の姿ではない。
あれ(・・)は、かつて人だった者。
人が、化生した姿。
黒い煙の塊の中から出ている手は、あれ(・・)に飲み込まれた人間のものなのだ。
そうして。
さっきまで、自分もあれ(・・)の中にいたのだ。
そのことに気付いた時、千華子はぞくりっとしたものを感じた。
生きていた人間を取り込んでいた、もの(・・)。
あれ(・・)に乗り込まれた人間は、どうなってしまったのか。
愛理は、あれ(・・)の中にまだいるのだ。
「どんな姿になろうと、若葉は若葉だ」
まるで愛を囁くように、安藤は言った。
「俺は、若葉の願いだったら、どんなものでも叶えてやる。若葉が一番願っていたことを、俺は叶えてやれなかったから」
それは、ある意味究極の愛の姿かもしれなかった。
安藤は、若葉が―相田が一番望むものを与えることができなかった。
「宝」という名前の、子ども。
相田が一番望んでいたものは、それだった。
だけど。
安藤には、それを与えることができなかった。
だから、それ以外のものは、全て与えようとしているのだ。
だけど。そうーだけど。
「もう若葉、元には戻らないだろう」
そんな千華子の考えを叩き切るように、安藤は言った。
確かに、その通りなのだろう。
あれ(・・)はもう、人ではない。
かつて、人であったもの。
元に戻ることはない。
それは、素人の千華子ですら、一目でわかった。
「だから、俺は若葉の望みを叶えてやりたい。あんたを、破滅させることをね」
だが、安藤のこの言葉の意味はわからなかった。
「どうして……?」
「さあな? ただ、少しだけ若葉の気持ちが、俺にもわかる。あんたは、真っ当すぎるんだ」
それは、どういうことなのか。
「教師を首になって、ファーストフードのバイトになって、今は警察の保護を受けている。転落劇一直線なのに、あんたは真っ当なままだ。ムカツクぐらいにね」
それは違う、と千華子は言いたかった。
千華子が教師を辞めたのは、自分の意志だ。
続けることは、できた。
でも、続けることは無理だったのだ。
千華子が欲しかったのは、「明るく元気に働くこと」
だから、教師を辞めたのだ。
「俺は、若葉が好きだった」
しかし、安藤は言葉を続けた。
「子どもの頃の若葉はとても可愛くて、俺は若葉と仲良くなりたかったのに、あいつは宝の方ばかりなついて、おもしろくなかった」
その瞬間。
千華子の目の前に、幼い女の子が現れた。
まだ、小学一年生ぐらいだろうか。
『宝って、良い名前だね』
そして、女の子が話しかけているのは、どこか怒ったような表情をした、同じ年頃の男の子だった。
でも、女の子が―幼い相田がそう言うと、ぱっとうれしそうに笑った。
千華子は、その男の子が榎本だと、一目でわかった。
これは、幼い日の思い出。安藤が見ていた、
記憶の一部の幻影なのだ。
「俺は悔しくって、いつもあいつにケンカを売っていたよ。『宝』って名前だけで、若葉に話しかけられるあいつがうらやましくって仕方がなかった」
安藤の言葉と共に、ケンカをしている男の子達が千華子の目の前に現れる。
一人は榎本で、もう一人は、幼さがあるものの面差しは安藤によく似た男の子だった。
こんな幼い頃から、安藤は相田のことを好きだったのだ。
「だから、あいつがいなくなって、若葉が俺のことを好きだって言ってくれた時は、本当にうれしかった。若葉の望むことなら、どんなことでも叶えてやろうって思っていた」
「なんで……」
けれど、相田の一番の思いを、安藤は叶えてやらなかった。
「あなたは、そればっかりだな」
どこか、苦笑じみた口調で安藤は言った。
「惚れた女が、自分以外の男の子どもを産むんだぞ? それをサシで見たい男が、どれだけいると思う?」
だが与えられた答えは、とても単純だった。
「俺は、若葉がいればそれで良かった。でも、若葉は、それじゃあ駄目だったんだ」
相田が欲しかったもの。
それは、「宝」という名の子どもと、愛する夫。
そのどちらもかけては、いけなかった。
そうして。
安藤は、相田がいればそれだけで良かったのだ。
「おしゃべりが、過ぎたな」
安藤は言葉を切った。カチリ、と銃が鳴る音が聞こえた。
その―瞬間だった。
『死にたくない』
千華子は、はっきりとそう思った。
ふいに。けれど、切実に、心の底からそう思った。
それは、生き物として本能だったかもしれない。
でも、千華子の心の底からの願いでもあった。
そう。
自分は、まだ死ぬわけにはいかないのだ。
父や母より先に死ぬわけには、いかない。
姉の時に感じたであろう、絶望と悲哀を、再び与えるわけにはいかないのだ。
それは、昔約束したことだった。
『私のように、早く死んでしまわないでね』
千華子の記憶の底に、いつもは隠れていて、けれど、絶対に消えることのない約束。
―そう。その約束を忘れたら、許さない。
その時だった。ふっと、そんな言葉が耳に届いた。
―その約束を、破らせるような人もね。
そうして、目の前に現れたのは。
千華子と似た面差しを持つ少女だった。
先ほどの昔の相田の幻影の少女と、年頃は同じくらいだった。
「お姉ちゃん……!」
その瞬間。
『『『死にたくない!』』』
たくさんの「思い」が、千華子を中心に広がっていった。
「おねえちゃん」が「こわいもの」に連れて行かれようとしていた時、自分は、「おねえちゃん」にしっかり捕まって付いて行った。
「みはる」達が自分を呼んでいたけど、「ひめおねえちゃん」が一緒に付いてきてくれたから、怖くはなかった。
そうして。
「おねえちゃん」が連れて行かれた先に。
「あの人」がいた。
なんで、わかったのか。
「あの人」を見るまで、自分は本当に「忘れて」いたのに。
真っ暗な中で、「たくさん」の人が眠っていた。
けれど、その人達の眠っているのは、何だかへんだった。
眠っている時、「おねえちゃん」は、目を閉じていた。
でも、そこにいた人達は、みんな目を閉じていなくて、大きく目を開けていた。そうしてとても怒っているようなお顔をしていた。
怖い、と思ったその時だった。
一人の女の人が、自分を見ていた。
その人は他の人達と同じように、目を開けて、怒ったようなお顔をしていた。
―ママ……?
『おいで、夏生』
あの日。
あの汚くて真っ暗な部屋で、「いもうと」と寝ていたら、部屋のドアが開いて、「ママ」が自分を呼んだ。
『おいで、夏生。お出かけしよう』
『待って。はーちゃんも起こすから』
そう言って、自分は隣に寝ていた「いもうと」を起こそうとしていたけど、
『いいから、おいで。ママと二人だけでお出かけしよう』
「ママ」は自分に言った。
「二人だけでママとお出かけ」の言葉に、自分は、「いもうと」を起こすのを止めた。
だって、「ママ」と二人だけでお出かけしたことなんて、なかった。
いつも「ママ」は一人でお出かけしていて、自分と「いもうと」はお留守番だった。
だから。
『二人でお出かけしよう』と言われて、自分はとてもうれしかった。
いつも一緒にいる「いもうと」を、部屋においていくぐらい、うれしかったのだ。
でも、「ママ」が自分を連れて行った場所は、とても「冷たい」場所で。
とても、冷たくて。
とても、哀しくて。
『助けて』と、叫んだ。何回も何回も。
さみしかった。かなしかった。つらかった。くるしかった。さみしかった。かなしかった。つらかった。くるしかった。さみしかった。かなしかった。つらかった。くるしかったさみしかった。かなしかった。つらかった。くるしかった。
暗い。冷たい。寒い。ママ。何、これ。ママ。冷たい。助けて。助けて。お願い、助けて。
『キミは、イイコじゃないから』
残酷な言葉を告げる女の声。
『ママはいらないってさ』
死にたくない!
思ったのは、それだけだった。
そう……自分は、死にたくなかった。
生きていたかった。
生きて、「いもうと」と一緒に遊びたかった。
「しょうがっこう」というところにも、「らんどせる」を持って行ってみたかった。
どうして、自分には、それができなかったのか。
どうして、自分は死ななくてはいけなかったのか。
―ぼくも、死にたくなかった。
―生マレテキタカッタ。
―どうして、ママはわたしをころしたの?
死ななくてはいけないほど、自分は「わるい子」だったのか。
そうなのかもしれない。
自分は、「わるい子」なのかもしれない。
でも、それでも。
―死にたくなかった。
死にたくなかった!!
爆発。
扉を開けて中に入った瞬間、榎本が―宝が感じたのは、それだった。
―坊!
その爆風の中心にいるのは、千華子と、彼女を庇うように立っている、ナツと理華子だった。
「譲……!」
そうして。
すぐ横には、安藤の姿があった。
それは、久々に見た幼馴染の姿だった。
大人になった幼馴染は、しかしその瞳に宝の姿を映すことはなく、大きく瞳を見開いたまま、倒れていた。
だが倒れているのは、安藤だけではなかった。
千華子を中心として、何人かの人間が倒れている。
それは、行方不明になっていた者達だということは、すぐにわかった。
皆両目を大きく見開いて、苦悶の表情で倒れている。
ほとんどの者達に生気がなく、死んでいることは明白だった。
だが、安藤の方は目を開けたまま倒れているが、微かに胸が上下に動いている。
それを確認して安堵しながらも、宝は注意深く辺りを見回した。
辺りをよく見ると、倒れている者達以外に、黒い物体のような物が小さく千切れて散らばっていた。
(若葉……)
それは、かつて「若葉」と言われていた化け物の欠片に違いなかった。
この手にかけることも、覚悟していた。
でも、自分がこの手にかける前に、「若葉」はいなくなってしまった。
おそらく、自分が「若葉」と対峙しても、同じ結果になっただろう。
「若葉」は、もう元には戻らない。
「悪鬼」になることを自ら選んだ若葉は、人であることを放棄したのだ。
そう……祈りは、祈りでしかなかったのだ。
それは、最初からわかっていたことだった。
ただ、それでも宝は、「誰が「若葉」をこんな姿にしたのか」、と思うことを止められなかった。
千華子か、と思いながら千華子を見たが、彼女はまるで何かに囚われているかのような目をして、座り込んでいた。
宝は千華子の方に近付こうとしたが、
―待て!
後ろにいた「セイ」に呼び止められた。
「ギャティ ギャティ ハラギャティハラソウギャティ バジソワカ!」
その瞬間。宝は真言を唱えて、一気に後方へと跳躍した。
死にたくなかったしにたくなかったシニタクナカッタ死にたくなかったしにたくなかったシニタクナカッタ
千華子の前にいたナツから、黒い煙みたいなものが溢れ出していた。
―坊!
「サイ」の後ろから、「みはる」がナツを呼ぶ。
―坊主……!
「蛟」もナツを呼ぶが、ナツの目は虚ろなままだった。
死にたくなかったしにたくなかったシニタクナカッタ死にたくなかったしにたくなかったシニタクナカッタ
「『悪鬼』……!」
ナツを中心として、死んでしまった―殺された子ども達の霊が集まって来ているのだ。
子どもの霊は、大人のそれとは違い、純粋な分やっかいなのだ。
まして、「悪鬼」化しようとしているのは、殺された―自分の親に、「死」を望まれて「殺された」子ども達の霊だ。
ナツの隣に立っている理華子は、じっとそんなナツを見つめている。
どうする、と宝が思った時だった。
ふいに。子守唄が聞こえて来た。
それは、宝も知っている歌だった。
その子守唄を、千華子が歌っていた。
子どもの泣いている声が聞こえた。
まだ幼い、女の子のものだった。その子は、声の限りに泣いていた。
『若葉ちゃん、いつまでも泣いていちゃ駄目よ。そんなに泣いていたら、お父さんもお母さんも安心して、天国に行けないわよ?』
そんな女の子に、まだ若い二十代前半ぐらいの女性が、話しかけている。
『そっちの方がいい! パパとママが帰って来てくれるなら、そっちの方がいいもん!!』
『そんなことを、言っちゃ駄目。若葉ちゃんは、お父さんとお母さんに哀しい思いをさせたままでいいの?』
『私と一緒にいるのに、パパとママが哀しいわけないもん!』
『哀しいわよ。今までのように、傍にいるのに、若葉ちゃんとお話もできない、抱っこもしてあげられない、そして若葉ちゃんはずっと泣いている。これで、楽しい気分になれると思う?』
優しく、女の人はそう言った。
その言葉に、女の子は黙り込む。
『あのね、若葉ちゃん。確かに、若葉ちゃんのお父さんとお母さんは天国に行ってしまったけれど、若葉ちゃんのことはずっと心配していて、天国から若葉ちゃんのことを見守ってくれているから』
それにね、と女の人は言葉を続けた。
『若葉ちゃんがご飯を食べて、たくさん遊んで、学校できちんとお勉強して、そうして大きくなったらね、きっと好きな人ができるから。その人と結婚して、子どもができたら、若葉ちゃんは新しい家族を作ることができるんだよ』
その言葉に、女の子は顔を上げた。
『それ……本当?』
『本当よ。だから、泣くのを止めて、ご飯をちゃんと食べようね』
優しく言われたその言葉は、親を亡くしたその子にとって、救いだった。
「自分の家族」が作れる。
自分は、一人ぼっちになってしまったけれど、大きくなったら、「けっこん」をして、赤ちゃんを産んで、「家族」を作るのだ。
―私は、幸せになりたかった。「家族」を作って、幸せになりたかったの!
それは、相田の「声」だった。
「幸せになりたかった」
そうなのかもしれない。
相田にとって、「家族」を作ることが、生きる目的だった。
「幸せになりたかった」
「家族」を亡くして。
新しい「家族」を作るのを夢見て。
それは、悪いことじゃなかった
。生きる目的は、様々だ。将来なりたい仕事に就きたいとか、「こんなふうになりたい」と思うことで、人は生きている。
未来を夢見ることは、誰だってする。
相田が「新しい家族を作って、幸せになりたい」と願うことは、少しも悪いことじゃなかった。
だけど。
そう―だけど。
それが、ナツ達が殺された理由になるならば。
これほど、理不尽な理由もなかった。
『この仕事を始めてから、気付いたことがあったんです。悪いことをした人達も、『こんなはずじゃなかった』って思っているんだなって』
「幸せになりたかった」
どうして、人の「死」を望むようになってしまったのか。
小さい女の子の夢は、どこで歪んでしまったのか。
わからなかった。
全然、わからなかった。
ただ、わかるのは。
「自分の望みが叶えられなかった」という理由で、人を-まして子どもを、殺すことは許されない、ということだけだった。
―ぼくも、死にたくなかった。
―生マレテキタカッタ。
―どうして、ママはわたしをころしたの?
『私は、ただ、場所の提供をしただけよ!自分の子どもを殺したいと思っている親と、人を殺したいと思っている者が出会うように、場所を提供しただけだわ!!』
これは、相田の「思い」なのだろうか。
―ちがうよ。
でも、その言葉を否定するように、ナツの声が聞こえた。
―この人が、僕をころした。僕は、死にたくなかったのに!
―死にたくなかった。
―しにたくなかった。
―シニタクナカッタ!
繰り返される、言葉。
それは、殺された子ども達の思いだった。
この子ども達は、何も知らないまま、わからないまま殺された。
相田のように、「どうして?」と思いながらも、自分の意志で、選んでいったわけじゃない。
ただ、周りの-大人の勝手な思惑で。
「殺されて」しまったのだ。
どうして、と。
何で、と思いながら。死んでいった―。
実の両親に疎まれて。
当然のように与えられるはずだった愛情も与えられず、殺されてしまった子ども。
―死にたくなかった。
―しにたくなかった。
―シニタクナカッタ!
その子ども達の「思い」が、クレッシェンドのように、大きくなっていく。
それは、当然の思いだった。
殺された子達は、皆「死にたくなかった」のだ。
だから。
その怒りは、哀しみは、とても大きいものになる。
まして、今、目の前には相田がいるのだ。自分達を「殺した」きっかけとなった人間が。
死にたくなかったしにたくなかったシニタクナカッタ死にたくなかったしにたくなかったシニタクナカッタ
その怒りが、その哀しみが、一つとなって相田に向おうとするのは、当たり前のことなのかもしれなかった。
でも。そうーでも。
「駄目よ!」
千華子は、知らずそう叫んでいた。
「駄目、それは絶対駄目!!」
それだけは。
やっては、いけないことだった。
確かに、相田はナツ達の子ども達が殺される原因を作った。
ナツを、その手にかけた。
でも。それでも。
同じことを、相田にやってはいけないのだ。
それでは、相田と同じ「罪」を背負ってしまうことになる。
死にたくなかったしにたくなかったシニタクナカッタ死にたくなかったしにたくなかったシニタクナカッタ
だけど、そうだったら、あの殺された子ども達の思いはどこに行けば良いのか。
「哀しい」という気持ちも、「死にたくなかった」という気持ちも。
自分達の「死」を望んだ親にすら向けていけないのならば、いったい、どこに向っていけば良いのか。
「幸せになりたかった」
相田は、確かにその原因の場所を作った。
でも、その根底にあるのは、小さな願いをー寂しい子どもが抱いた、小さな希望が打ち砕かれたせいだった。
けれど、それは相田が犯した罪を許す理由にはならない。
どうすれば、良かったのか。
どうすれば、良いのか。
答えはでない、ただ、わかるのは。
相田のやったことは許されないし、たとえ自分を「殺した」相手でも、同じことを仕返せば、それはおなじ「罪」を背負うことになる、ということだけだった。
それは、今までに見た親子も一緒だった。
「かあくん」も、「かあくん」の死を望んだ母親も。
自分の存在を母親に認めさせるために、人を殺した「新見じゅえる」も、そんな我が子の死を望んだ「新見じゅえる」の母親も。
彼らは皆、苦しんでいた。
けれど、その苦しみは、彼らの「罪」を許す理由にはならないのだ。
ふいに。
千華子は、「愛育園 若草の家」で見た、マリア像を思い出した。
目を閉じて、静かに微笑みを浮かべ、幼子を抱いていた。
『本当に、信じているのか? 人間が生まれつき、母性や父性を持っていると』
そんなのは、知らない。
信じているかどうかではなくて、「当たり前」だと思っていた。
でも。
今、ここ(・・)に集まろうとしている子ども達は、それを与えられなかった。
千華子が「当たり前」だと思っていた愛情を、与えられなかった子達の嘆きは、とても深くて。
とても、哀しくて。
千華子は、唇を噛み締めた。
どうしたら、良かったのか。
どうすれば、良いのか。
それすらわからない今の自分に、何ができるのか。
『ああ、これ。私も知っている』
と、その時だった。
幸恵の言っていた言葉が脳裏に甦った。
『私も、母さんに歌ってもらった』
それは、千華子が芽衣に子守唄を歌っていた時のことだった。
子守唄は、千華子が母親から与えられた愛情の欠片だった。
そして、千華子が、子ども達に与えられる愛情の欠片でもあった。
でも、それは。
もしかしたら、この子ども達にも与えられたものかもしれなかった。
殺されてしまった、子ども達。
その親たちは、確かに我が子の死を望んだ。
だけど、最初から、そうではなかったのかもしれない。
悠馬の母親だって、最初は離婚しても、ちゃんと悠馬を育てようと思っていた。
もちろん、それでその罪が許されるわけではない。
子ども達の哀しみが、苦しみが、癒えるわけではない。
ただ、それでも。
確かに、愛情はあったのだと。
喜びも、あったのだと。
続くことは、できなかったけれど。
愛し続けることは、できなかったけれど―。
千華子は、もう一度「愛育園 若草の家」にあった、マリア像を思い出した。
力を貸して欲しい、と思った。
そうして。
口から出たのは、子守唄だった。
千華子は、幼い頃に母から歌ってもらった子守唄を、歌い始めた。
その瞬間。
ナツの前に集まっていた子ども達の霊の動きが、止まった。
そうして。
次の瞬間、宝は目を見張った。
「何……?」
子守唄を歌っている千華子の後ろに、大きな女性の幻影が現れた。
それは、青い聖衣で身を包み、赤ん坊を抱いている女の姿だった。
「聖母マリア!?」
宝は、幼い頃施設で見たマリア像を思い出した。
天主の御母聖マリア、
罪人なるわれらのために、
今も臨終の時も祈り給え。
それは、祈り。
千華子が歌う子守唄は、誰もが知っているようなものだった。
「これが子守唄」と言われる、定番中の定番のものだった。
だが、宝はそのマリア像を見た瞬間、昔聞いた賛美歌が聞こえたような気がした。
『宝』
そうして、ふいに。
「声」が、聞こえた。
まだ若く、幼さが残る「声」だった。
『お前の名前は、「宝」にするね。私にとって、お前は宝物になるからさ』
「!?」
宝は、目を見開いた。
「宝」とは、自分の名前。
この名を、自分はずっと嫌っていた。
「宝」と名付けておきながら、結局自分の親は、自分を捨てたのだ。
それが自分の持つ「力」のせいであることは、明白だった。
でも。
この「声」は。
この、喜びと愛しさに溢れた声は。
確かに、微かに残る、母親の声だった。
『ここに、ぼくのいもうとがいるの?』
幼い、声が聞こえた。
『そうよ、夏生。夏生はお兄ちゃんになるのよ』
その声に、大人の女性の声が答えている。
見ると、お腹の大きな若い女性と、三歳ぐらいの男の子がいた。
男の子は、女性の膨らんだお腹に耳を当てている。
『おにいちゃん?』
『そう。ママのお腹にいるのは、夏生よりも小さいの。だから、夏生は妹に優しくして、ママや新しいパパのお手伝いをしてね』
それは、ナツの記憶なのだろうか。
ナツの母親であるその女性は、優しく微笑んでいた。
これは、ナツの記憶。
ナツの妹である「はーちゃん」が生まれる前の記憶なのだ。
傍から見れば、それはとても幸せそうな光景だった。
実際、この時のナツと母親は幸せだったのだろう。
「幸せになれる」と信じて、疑ってもいなかった。
その笑顔を見れば、一目瞭然でわかることだった。
でも、実際は違っていて。
「新しいお父さん」は、できなかった。
「新しいお父さん」は、結局ナツの母親を捨てたのだ。
そうして、残されたナツの母親は。
子どもを産んだけれど、育てることはしなかった。
挙句の果てには、ナツの命を奪ってしまった。
この瞬間は、確かに幸せだったのに。
『衣食住を足りて礼節を知る』
前に、烏丸はそう言った。
『大抵の生き物は、優秀な子孫を残すために、弱い子は見殺しにする。それは、生き物としての本能だ。ただ、人間はやっかいなことに、『理性』ってヤツがある。だからまあ、ハンデのある子どもも見捨てることなく、育てようとする。だがな、それは余裕があるからさ。精神的余裕があって、初めて、『理性』ってヤツは発動する。実際、幼いわが子がどんな運命を辿るかわかっていても、人買いに子を売る親は、世界中にいくらでも存在しているだろう?』
何故、子どもを育てられなくなるのか。
「子ども」を望んで、産んだはずなのに。
確かに、幸せな瞬間もあったはずなのに。
どうして、我が子の「死」を望んでしまったのか。
けれど、それは後で考えることだった。
今の自分ができるのは、歌うことだけだった。
「殺されて」しまった子ども達が、少しでも安らかになれるように。
少しでも、救われるように。
だけど。湧き上がってくる感情は、どうしようもなかった。
哀しかった。
苦しかった。
望まれて生まれて来たはずなのに、死を望まれてしまった子どもがいる、という事実が。
そして、子を望んで産んで、その誕生を喜んだはずなのに、我が子の死を望んでしまう親がいる、という事実が。
とても、哀しくて悔しかった。
『元気な男の子ですよ』
赤ん坊の泣き声が響く中で、看護師にそう告げられ、微笑む母親。
『お母さん、できた!』
『あら、すごいわね。正解よ』
わからなかった問題がわかって、うれしそうに微笑みあう母娘。
『こいつ、ちっこい……』
眠っている赤ん坊を、神妙な顔で見ている若い父親。
肌のままで走り回っている男の子を、走って追い回す母親と、それを見て笑っている父親。
それは、全部、思い出だった。
確かに存在した、幸せの記憶だった。
その幸せな記憶が、少しでも子ども達を癒せるように。
千華子は、子守唄を歌った。
救うことは、できなくても。
―おねえちゃん。
と、その時だった。
千華子の目の前に、一人の男の子が現れた。
それは、七歳ぐらいの男の子だった。
「ナツ……?」
一目で、それかナツだとわかった。
ナツの面差しは、前に写真で見た、「はーちゃん」の母親とよく似ていた。
優しげな顔立ちは、きっと母親譲りなのだろう。
―ありがとう、おねえちゃん。
目を見張る千華子に、ナツは頭を下げた。
―おねえちゃんのおかげで、僕は「あっき」にならなかった。
そうして、にこっと笑ってこう言葉を続けた。
―僕、もう行くね。
「ナツ!?」
―ぼく、思い出したんだ。ぼくには、「いもうと」がいたの。おねえちゃんと一緒で。それでね、「はーちゃん」の傍には、もう誰もいなくなっちゃったから、「はーちゃん」の傍に、行ってあげなきゃいけないの。
その言葉に、千華子は目を見張った。
―ママもいなくなっちゃったから、僕が行ってあげなきゃ。ママは、僕には見つけられない。でも、「はーちゃん」はどこにいるかわかるから。
「ナツ……でも、死体はまだ見つかっていないよ?」
そんなナツの言葉に、何故か、自分でも間抜けなことを言っている、と千華子は思った。
本当に言いたい言葉は、そんなものではなかった。
喉まで出かかった言葉は、でも、言ってはならない言葉だと、わかっていた。
―うん。でも、もうすぐ見つかるって、ひめおねえちゃんが言ってた。
だから大丈夫と、ナツは言った。
―ぼくも、まだおねえちゃんのところにいたい。おねえちゃんを守っている人達も、みんな優しかった。でも、「はーちゃん」は、これから一人だから。
「守ってあげに行くんだね」
千華子がそう言うと、にっこりと笑ったナツは、こくんと頷いた。
「そっか……」
千華子は、その言葉以外、何も言えなかった。
本当は、「行かないで」と言いたかった。
ナツといると楽しかった。
姿は見えなくても、携帯やパソコンで話していて、まるで、ずっと前から一緒にいるような気がしていた。
あのサイトを見つけてから、次々と起こった出来事を、耐えられたのは、ナツがいたからだ。
ナツと共にいる時、確かに哀しい親子を見た。
教え子の凄惨な姿も見た。
今まで住んでいた街を離れ、東京まで来て、やっぱりあのサイト関連の事件に巻き込まれて、哀しい親子の現実を突きつけられた。
でも、それでも。
ナツといると楽しかった。
―おねえちゃんは、大丈夫。
そんな思いをまるで読み取ったかのように、ナツが言った。
―だって、おねえちゃんは、一人じゃないんだもの。
祝福を。
千華子は、その瞬間、心の底からそう祈った。
この世に存在する慈悲深き存在達よ。
この小さき、しかし慈悲深き御霊達に。
どうか、祝福を与え給え。
これから先の新たなる行き先に、光溢れんことを。
哀しき生涯を終えたこの子らに、この先は、光だけが溢れれんことを。
祝福を、与え給え。
今の千華子には、そう祈ることしかできなかった。
ナツのためにできること。
それは、「行かないで」と止めることでもなく、「がんばって」と声をかけることでもなく、ナツを成仏させることでもなく。
ただ、「妹のところに行く」と決めたナツのために、祈ることが、今の千華子にできる唯一のことだった。
そうして。
千華子は、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう。私も、ナツと一緒で楽しかった」
その言葉に、全ての思いを乗せた。
それ以上の言葉は、言うべきではないことはわかっていた。
ばあああーん!
その瞬間、何かが弾けるような感覚があった。
それは、何かが壊れる音にも似ていた。
そして、次の瞬間目の前に広がったのは、漆黒の空だった。
「戻った(・・・)の(・)か(・)」
次に聞こえてきたのは、榎本の―いや、「宝」の声だった。
それは、「榎本」として接していた時の声と同じものだったが、
千華子は「違う」と感じた。
「榎本さん……」
だが、千華子に彼の名をそのまま呼ぶことは、躊躇われた。
だから、今までの呼び方で、彼を呼んだ。
「どうやら、『戻った』みたいだな」
だが、宝の方はあまりその辺は気にせずに、そう言った。
「戻った?」
「そう……現の世界に、俺達は戻った」
千華子はその言葉に、辺りを見回した。
ここは、「愛育園 若草の家」ではなかった。
何かの建築現場らしく、鉄の足場が組まれて、コンクリートがむき出したままのビルが建っていた。
「建設途中で、放棄されたビルだな」
「どうして……」
そんなところに、自分はいるのか。
確かに、自分は「愛育園 若草の家」にいたはずなのだ。
「ここを、ねぐらにしていたみたいだな」
千華子の問いに、宝は立ち上がりながら答えた。
「多少残っていた理性でも、人家の立ち並ぶ中じゃまずい、と思ったんだろう」
誰が、とは宝は言わなかった。
「安藤さんと愛理さんは?」
「一応、連れ帰った(・・・・・)」
宝が視線で示す先には、確かに半裸に近い格好の愛理と、私服姿の安藤が倒れていた。
「後の奴らは、知らない。あいつらを連れ帰るのが、精一杯だったからな」
そうして、千華子が何か言う前に、宝はそう言葉を続けた。
あの異界から、安藤と愛理の二人を「連れて帰る」ことがどれほど容易なことではないのか、いくら千華子が霊に関して素人でも、想像に難くなかった。
「あれは……何だったんですか?」
結局。
千華子は、一番根本になる疑問を、宝に問いかけた。
「さあな……俺達は、『悪鬼』と呼んでいるが、元々は、人間だった奴が変化して、あんな風になる」
「生きた人間でも?」
「俺も、若葉が初めてだったよ」
「若葉」という名を告げる時、微かに宝の口調が揺らいだような気がした。
千華子が「相田さん」と呼んでいた人物は、彼が「若葉」と呼び、幼い頃から共に育っていた人物でもあったのだ。
「相田さんは……」
「もともと、『悪鬼』となってしまった時点で、人間だった『若葉』は死んでいる。ここ(・・)に(・)いる(・・)若葉は、もう生きてはいない」
「……!」
その言葉に、千華子は唇を噛み締めた。
それは、あの現とは違う世界で相田の姿を見た時に、わかっていたことだった。「人」だった相田は、もういなくなってしまったのだ。
「相田さんは、どうして……」
「悪鬼」となってしまったのか。
幼い女の子が抱いた夢は、どうして、彼女を人とは違うそれへと導いてしまったのか。
「それは、俺にもわからない」
ズボンのポケットから、くしゃくしゃになったタバコの箱を出しながら、宝は言った。
「ただ……あいつには求めるものがあって、俺や香や、譲では、その代わりにはならなかったってことだろうな」
その口調は、とても苦いものが混じっていた。
本当は、彼も助けたかったのだ。
共に育った幼馴染を、できることなら、助けて元の姿に戻してやりたかったのだ。
でも。
そんな「思い」も、相田には伝わらなかった。
自分の思いに囚われ、そこから動かなかった彼女には。
「ガキ共も、行ったぞ」
そうして。くしゃくしゃになったタバコの箱から、タバコを取り出して、宝が言った。
だが、その言葉のニュアンスは、「あの世に逝った」という意味には取れなかった。
「どこに……?」
千華子の問いかけに、宝は何も言わなかった。
それは、宝にもわからないからだ。
死んだ―殺されてしまった子ども達の魂は、どこに行ったのかはわからない。
ただ、「あの世」と言われる場所でないことは、確かなのだ。
それは、ナツも同様だった。この現実の世界に戻る前に、ナツは千華子に言っていた。
『はーちゃんのところに行く』と。
それは、妹の……「はーちゃん」のとこに行く、ということであって、「あの世に行く」という意味ではないのだ。
千華子には、ナツを成仏させる「力」はない。
「……」
わかっているつもりではいたが、苦い物を感じて、千華子は唇を噛み締めた。
「『ありがとう』だってよ」
だけど。
ふいに、言われた言葉は。
「ガキ共が、そう言っていたぜ。『子守唄を歌ってくれて、ありがとう』ってな」
千華子が、思ってもいなかった言葉だった。
「確かに、あんたにはあいつらを成仏させる、『力』はない。
だが、あんたは、ガキ共を『悪鬼』にさせないように、自分の考え付く方法を実行した。自分の命だって、やばいって時にな。……それがわからないバカじゃないさ、あいつらもな」
白い煙を吐き出しながら、宝は言った。
『おねえちゃんは、一人じゃないから』
その瞬間。千華子は、ナツが言っていた言葉を思い出した。宝の言葉には、千華子の心情を思いやる気持ちが隠れていた。
ふいに。
涙が、溢れ出てきた。
千華子は、この世界に戻って来る前に、祈った。
殺されてしまった子ども達に、ナツに、その魂達が行き着く先に、光だけが溢れるようにと。
けれど。
どうして、生きている間に、その「光」が溢れなかったのかと。
千華子が今、宝の優しさを感じたように、この世界は、こんなにも優しい部分もあるのに。
どうして、こんな優しい部分を感じながら生きていくことが許されなかったのか。
そして、これほど優しい魂に触れながら、それでも自分の子の死を望んでしまった親達は、どうしてこの優しい魂に触れた思いを忘れてしまったのか、と。
「夜が、明けるな」
微かに地平線が白くなり始めた。そこからだんだんと、闇の中に青い色が混じり、上空に行くほど暗くなって行く。
その瞬間だった。
一斉に、セミが鳴き出した。
ミーンミンミンミンミン
ミーンミンミンミンミン
ミーンミンミンミン
それは、命の叫びだった。
セミは、七年間地下でさなぎとして過ごすけれど、地上に出たら、七日間しか生きられない。
だから。その短い生を燃やしきるかのように、精一杯命をかけて鳴く。
夜明け前の空に向かって。
その空の色は、「愛育園 若草の家」で見た、マリア像の衣の色とよく似ていた。
―おねえちゃん、大好きだよ。
ちりん、とポケットに入った携帯の鈴が鳴った。
それと同時に、囁かれた言葉は。
「……!」
最後の挨拶に、来てくれたのだと。
そのことに気付いた瞬間。千華子は座り込み、号泣した。
一緒にいた時間は、一ヶ月にも満たなかった。
それでも、様々な出来事が起こる中で、傍にいて支えてくれた存在だった。その子が今、行ったのだ。
千華子には、もう「わからない」場所へと。
自分の大切な存在を、守るために。
遠くの方で、宝が連絡したのか、バトカーのサイレンの音が聞こえる。
千華子は、もう一度空を見上げた。
白い輝きのすぐ上には、サイレント・ブルーの色をした空があった。
この夜明けの前の空に、それぞれの自分の行くべき場所へと旅立っていった子達に、そして今、この瞬間生まれようとしている子達に。
光あれ、と。
もう一度、千華子は心の中で祈った。




