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サイレント・ブルー  作者: kaku
12/15

12 放解(ほうかい)

「藤原さんはね、芽衣ちゃんの同級生のお母さんなの」

 その日の夜。

 光村は、コーヒーを飲みながら、千華子にそう教えてくれた。

「一言で言えば、『厄介な人達』」

 今は、子ども達も眠ってしまったか、自分達の部屋に引っ込んでいて、家の中は静まり返っていた。

 あの後。店から「てんちゃん」が救急車で運び出されてから、お店は一時騒然としていたけれど、結局は大騒ぎしていた「てんちゃん」の母親も一緒に連れて行かれて、火傷の原因となった雑炊を食べられたお客も、くわしく話を聞くためか、どこかに店員に案内されて行ってしまったので、店の雰囲気は落ち着いたものと言うか、まあ、何とかいつもの雰囲気に戻ったという感じになった。

 ただ、壊れた後片付けとか、床の掃除とか、そういったよけいな仕事に加えて、事後処理もあるのだろう。

 注文した料理が来るのに、結局一時間ぐらいかかってしまった。

 愛理はふくれっ面で文句を言いそうになっていたが、そこは光村が一瞥して黙らせた。

 愛理としても、ファミレスの食事の後の買い物は楽しみだったのだろう。

 食事の後、光村の約束通り、ショッピングモールに行って、子ども達は買い物を楽しんでいた。

『買い物なんて、久しぶり!』

 と、日頃あまり自分の感情を外に出さない幸恵ですら、喜色満面でそう車の中で言っていたので、千華子は思わずその言葉に耳を疑ってしまった。

『芳賀先生の考えでね』

 そんな千華子に、子ども達が買い物をしている間の空き時間に、光村はそう教えてくれた。

『店とかに気軽に行って、万引きが起こった時、一番に疑われるのは、施設の子達だから行かせるなって言われているの』

 それに対しても、思わず耳を疑ったが、

『私も今の方針とは合わないと思うんだけど、プライドが高い人達だから……』

 光村の言葉に、返す言葉がなかった。

 だが、「世間の目」というものは、そんなものなのかもしれない。

 少なくとも、「てんちゃん」の母親は、「育ちの知れない子」と言っていた。

 ただ、そうは言っても、子ども達にそこまで制限をかけるのは、やり過ぎのような気がした。

 それに、「気軽に店に行かせるな」と言っている本音は、自分達が悪く言われないためだと、光村の言葉からは想像できた。

 けれど、千華子はそれ以上に、光村があの時、千華子が「てんちゃん」のところに行くのを止めたことが気になった。

 だが、千華子が言いたいことも、何となく光村は察していたのだろう。

 芽衣が寝付き、子ども達が部屋に戻ってしまった後、台所でコーヒーを飲みながら、「てんちゃん」のことについて、話し始めたのだ。

「厄介って……モンスターペアレントみたいな感じですか?」

「モンスターペアレントが、最悪に進化したみたいな感じね」

 ふいに。

 千華子は、新見じゅえるの母親を思い出した。

「千華さん、しばらく前に流行った『叱らない育児』って知っている?」

「はい。子どもを叱らないで、きちんと説明して納得させるっていう方法ですよね」

「藤原さんは、その言葉を借りた、『甘やかし』の育て方を天河君にしている人なのよ。そして、自分(・・)と(・)同じ(・・)よう(・・)な(・)対応を、()でも(・・)求めて(・・・)いる(・・)の(・)」

「つまり、悪いことをしても怒らないでってことですか?」

「それよりもタチが悪いわね。藤原さんは、自分の子どもを王子様扱いしているのよ。それを、他の人達にも求めるの。自分の子どもが最優先。自分の子どもが、一番でないと許せない。そうして、肝心の躾は何一つできていない。幼稚園の先生が天河君を注意しただけで、怒鳴り込んで来たらしいわ」

「それは……」

「実際、天河君は幼稚園の子達から嫌われているし、他のお母さん達も藤原さんには、関わらない様にしているの。先生達も同様ね。だから、彼女は今、誰にも相手にされていないの。そんな人が、子どもが何かしらの怪我をして、手当てをしてくれた人に……感謝するとは、思えないのよ、正直」

 あの時。

 重度の口内火傷をしていた「てんちゃん」を見て、「てんちゃん」の母親は、ずっと叫んでいた。

 自分で近寄って、「てんちゃん」の手当てをすることもしなかった。

「同じ幼稚園に通う施設の職員がそこに関わったら、厄介になるってことですね」

「情けない話だけどね。今は、厄介なことは背負い込みたくないのよ」

 光村は、コップを片手にため息を吐くように言った。

「藤原さんのような人を相手にする余裕は、今のこの「若草の家」にはないわ。そんな余力があるなら、子ども達の方に使わなければならないと、私は思うの」

「……」

 確かに、光村の言うとおりだった。

 他の親子に難癖付けられて、その対応に時間を割く余裕は、今のこの「愛育園 若草の家」にはない。

 光村にとって優先すべきことは、「愛育園 若草の家」の子ども達のことなのだ。

「天河君は、かわいそうだとは思うけどね」

 光村の言葉に、千華子はのたうちまわっていた「てんちゃん」の姿を思い出した。

 躾を受けずに、自分の思うままに他の客が注文した食べ物を手に取るなんて、まるでヘレン・ケラーのようだ。

 目も見えず、耳も聞こえず、言葉もしゃべることができなかった彼女は、両親に不憫がられ、ろくに躾もされずに育った。

 だから、まるで子猿のような状態だったらしい。

 それを正したのが、アニー・サリバンと言う家庭教師の女性だった。

 ヘレン・ケラーの両親は、自分達にできなかったことを、彼女によって成すことができた。

 だけど。

 「てんちゃん」に、そんな人はいないのだ。

 自分で「てんちゃん」を躾なかった母親は、他の人達が自分の子どもを躾けることを禁じている。

 これから先、大きくなった「てんちゃん」は、どうなるのか。

「その人は、何か病気なんでしょうか?」

「病気?」

「はい。何かメンタル面での……」

 例えば、自己愛性人格障害の場合、人の批判に耐えられなかったり、他人を見下したりするような態度を取る。

 「てんちゃん」の母親の様子を見ていると、何かしらのメンタル的な病気になっている可能性があるような気が、千華子はしたのだ。

「それを考えるのは、私達ではないわ」

 だけど。光村はそう言って、千華子の言葉を切り捨てた。

「私達の仕事は、『愛育()園 若草の()』の子ども達を守ることよ」

 そこに、迷いはなかった。

 光村にとって、最優先すべきことは、「愛育園 若草の家」の子ども達を守ることなのだ。

 おそらく彼女はそのためには、芳賀のことですら平気で裏切るような気がした。

「でも、どうして千華さんは、そんなことを考えるの?」

 けれど、光村はそう言葉を続けて、千華子に尋ねて来た。

「何でだろうって、思うんです」

 その問いかけに、千華子は素直に答えた。

「どうして、そんなふうになるんだろうって。何が原因で、そうなるのか。それを知ったら、何かわかることがあるのかもしれないと、思うんです」

「わかったら、どうするの?」

「そうしたら、何か違うことが見えてくるかもしれません」

 どうして、自分の子どもの「死」を望む親がいるのか。

 何が、原因なのか。

 どうして、子どもを育てられない親がいるのか。

 理由は、何のか。

「千華さんは、まるで学者さんみたいに考えるのね」

 ふいに。ふわりと笑いながら、光村が言った。

 けれど、と光村は言葉を続けた。

「『愛育()園 若草の()』にいる時は、子ども達のことを一番に考えるようにしてね」

 それは、光村の言うとおりだった。

 今の千華子は、この「愛育園 若草の家」で働く職員だ。

 何を優先するべきかは、考えるまでもない。

 「はい……」

 だから。

 千華子は、光村の言葉に、素直に頷いた。

「ただね、救いはあるの。天河君は、かなりひどい怪我をしたでしょう? 多分、当分入院することになると思う。そうしたら、藤原さんと離れることになるから……他の人が入ることで、少しは天河君の状況が変わるかもしれない」

 それは、実の母親と離れることで、「てんちゃん」に良い環境が得られるかもしれない、ということだった。

 確かに、あのまま母親と一緒にいれば、「てんちゃん」は大切なことを学ばないまま、成長していくことになる。

 今は、まだ幼稚園生だから、良いのかもしれない。

 だが、大きくなっていくうちに、周りからは、排除されていくようになるだろう。

 人は、一人では生きていけない。

 けれど、「理性」というものがなければ、「社会」ではやっていけないのだ。

 親とは一緒にいない方が、子どもにとっては良い環境になる。

 それは、世間一般での常識には反することだった。

 子どもは、親と一緒にいるもの。

 それが、最善である。

 ほとんどの人が、そう何に疑いもなく信じている。

 だが、それが全てではないことを、千華子は今までの経験から知っていた。

 苦い。

 コーヒーを飲みながら、そう思った。

「じゃあ、千華さん。話はここまでにして、先にお風呂に入って休んでいいわよ」

「え、いいんですか?」

「私はあと少し仕事があるから、先に入ってもらえると助かります」

「わかりました」

 光村の言葉に、千華子は頷いた。

 お風呂に入った時に、軽く掃除をしておけば、明日は掃除をしなくてすむ。

 光村は書類を作成するためによくパソコンの前に座っているから、その他の仕事は率先してやっておこうと、千華子は思った。

「それと、愛理ちゃんのことなんだけど……愛理ちゃんが何か無理を言ってきたら、『それは光村さんに聞いて』と言うようにしてくれる? 愛理ちゃんのことについては、私が対処します」

 そうして、その忙しい最中でも、光村の子どもに対する視線は揺るがない。

 素直にすごいな、と思った。

「はい」

 千華子が光村の言葉に頷くと、

「それじゃあ、ゆっくりしてください」と言って、光村はコップを片手に、席から立ち上がった。


 「みつむらさん」がお部屋を出て行くと、「おねえちゃん」も椅子から立って、カップを水道で洗った。

 それからはあっと言って、台所から出ると、「めいちゃん」が寝ているお部屋に行って、お布団の近くに置いていたバックを持って、お風呂場に行った。

―ここからは、我らは入れぬな。

 だけど、「にんじゃの人」はそう言って、お風呂の前で止まった。

―どうして?

 それは、いつものことだった。

 「にんじゃの人」と「ひなにんぎょうの人」と「おじさん」は、「おねえちゃん」がお風呂に入っている時は、お外で待っている。

―どうして、入れないの?

 だから。

 今日は、いつも不思議に思っていることを聞いてみた。

―礼儀じゃよ。今さらだとは思うが、やはり、姫は女性であられるからな。

 そうしたら、「ひなにんぎょうの人」がそう言って、笑った。

―心配せずとも、我らはここにおる。……ここは、あまり良い場所ではないからな。

 「おじさん」は、こわいお顔でそう言った。

 「おじさん」は、階段の方を見ている。

―なにか、いるの?

 不思議に思って、自分は「おじさん」に聞いてみた。

―坊、行こう。

 だけど。

 「みはる」がそう言って、自分をお風呂場へと連れて行ったから、「おじさん」の答えは聞けなかった。

 自分は「おじさん」が何を見ているのか気になったけれど、服を脱いで、お風呂の中に入る「おねえちゃん」を見たら、そんなことはすぐにわすれてしまった。

 「おねえちゃん」は、お湯の中に入ると、目を閉じて、壁に背中をぴたっと付けていた。

―つかれているみたい。

 そんな「おねえちゃん」を見て、自分は心配になった。

―無理もない。こちらに来て、まだ半月も経っておらぬのに、事が立て続けに起きておるからな。

 「みはる」も、心配そうに「おねえちゃん」を見ながら言った。

―こん人は、本当に子どもの頃から変わらっさんね。

 「ぬい」も笑いながらそう言った。

―昔から、人の気持ちに敏感で、考えんでもよかことまで考えらすとたい。そぎゃんところば、あん人も心配しとらす。

―「あん人」って、ぬいが本当に守る人のこと?

―そぎゃんたい。こん人の、妹とたい。

―どうして、今はおねえちゃんのところにいるの?

 自分は、前からふしぎに思っていたことを、「ぬい」に聞いてみた。

―こん人は、かよのに似とらすとよ。

 「ぬい」はちょっと黙ってから、そう自分にそう言った。

―かよの?

―私の一番上の娘。昔、うちが生きとった頃、たいぎゃひどか飢饉があって、村のもん達と話し合って、子どもば一人ずつ、どこの家でも「減らす」ことにしたったい。そんで、一番体の弱かった子ば、家からは出すことにしたんばってんが……かよのが納得せんで、あん子は、その子ば連れて、「売られた」ったい。

―売られた……?

―昔はな、そういうことがあったんよ。今じゃ、考えられんけどな。

 「ぬい」の言葉がふしぎで聞き返した自分に、「みはる」がそう教えてくれた。

―でも。こん国でもほんの数十年前までは、そんなこともあったんよ。

 「みはる」の顔は哀しげで、自分は何も言えなかった。

―かよのちゃんには、会えたの?

 だから。違うことを、「ぬい」に尋ねた。

―あん子は、自分の人生に納得して、さっさとあの世に行きなはったとよ。母親のうちは、未練でこの世に留まっとるって言うとにね。

 そう言って笑う「ぬい」を見て、「おかあさん」って「ぬい」みたいな人のことなのかな、と思った。

―あなたの血を継いでいるのですから、似ていて当たり前じゃないですか。

―まあ、そぎゃんたいね。

 そんな「ぬい」に、「みはる」が言った。

 それに頷いて、「ぬい」はまた笑った。

 二人が話すことは難しくて、自分にはよくわからなかったけれど、「ぬい」が「おねえちゃん」のことを、とても心配していることはわかった。

―おねえちゃんの、いもうとのことも心配?

 だから。

 自分は、「ぬい」にそう聞いてみた。

―そりゃ、そぎゃんよ。うちの守る人は、実の姫さんだけんね。ばってん、その実の姫さんが、心配しなはって、うちがこん人とこに来たとよ。あんたがよく鳴らすあの鈴に、宿ってね。

 そうしたら、「ぬい」はやっぱり笑いながらそう言った。

―おねえちゃんのいもうとも心配しているの?

―そうじゃ。父と母もな。あん子は、自分のことばっかりしか考え付かんみたいばってん、たいぎゃ心配しとらすとよ。

 自分が聞いたことに、「ぬい」はそう教えてくれた。

 

『助けて』


 その時だった。急に、そんな声が聞こえた。


『助けて。誰か、助けて! ママ助けて!』


―坊?

―こえ……が、聞こえる。

 話しかけてきた「みはる」に、自分は言った。

―助けてって言っている。

―坊……?

 「みはる」の顔が、心配そうなお顔になる。

―何も聞こえんばってんが……

 「ぬい」も、首をきょろきょろさせて、自分に言った。

 ざばんっと「おねえちゃん」が、体にお湯をかけている音が聞こえた。

 お湯は、白い煙が出ていて、温かそうだった。

 そう、温かい。

 「おねえちゃん」の傍にいると、そうだった。

 温かくて、安心できた。けれど。


『やめて、ママ、やめて!』


 あの時、かけられた水は冷たかった。

 とても冷たくて、だから、何回でも言ったのだ。

「やめて」と。

 だけど、やめてくれなかった。

 冷たい水が、たくさんかかってきた。

 助けて、と何度も叫んだ。

 何回も何回も叫んだ。

 でも。

 水は、かかり続けて。


―かわいそうね。


 ふいに。誰かの「こえ」が聞こえた。

 それは、「ぬい」のものでも「みはる」のものでもなかった。


―哀しかったでしょう? 寂しかったでしょう?


 その「こえ」はやさしそうだったけど、とても嫌な感じがした。

 「ぬい」や「みはる」や「おじさん」や「ひな人形」や「にんじゃ」の人達のものとは、全然違った。

 「おじさん」達はときどき怒ったようなこえでお話するけれど、「こわい」と思うことは一度もなかった。


―ひどいよね、にくいよね。私達がこんなに苦しんでいるのに、あいつは楽しそうに、幸せそうにしているのよ。ずるいわよねえっ?


 ―ちがうよ。

 だけど。

 その言葉には、自分はそう言った。

―おねえちゃんは、ずるくない。

 だって、「おねえちゃん」は、いつだってがんばっていた。

 今だって、とてもがんばっている。

 何か難しいことを考えて、何かをしようとしている。何ができるんだろう、って考えている。

 そうして、自分の死体を捜すために、「お顔のない人」に頼んでくれた。


―なによっ……!


 ドウシテワタシダケ、ドウシテワタシダケ、ナンデアンタハエラソウニ、ワタシヨリモミジメナクセニッッッッッッッッッッッッッッ


 その時だった。


 アンタナンカ、アンタナンカ、アンタナンカアンタナンカ、アンタナンカッッッッッ!


 それは、前にも見たことがあるもの(・・)だった。

 あの時は、「おねえちゃん」といっしょに働いているひとが、黒いものを体から出していて、「おねえちゃん」を「こうげき」しようとしていた。

 けれど、それは「ひな人形」の人や「にんじゃ」の人がいなくなるようにしてくれた。

 自分は、こわいと思うあまり、「たむらさん」の所に行って、泣きながら「おねえちゃん」を助けてくれるように頼んだ。

 それぐらい、あの時はこわいと思ったのだ。

 今だって、こわい。

 どんなに優しい声をしていても、こわいものだった。


―坊! しっかりおし!

だけど。

 その黒いものをなくすように、「みはる」の声が聞こえた。

―みはる……?

―大丈夫か? 坊主。

 すぐ近くには、「みはる」だけじゃなくて、「にんじゃ」の人や「ひな人形」の人、それから「おじさん」もいた。

―坊主?

 「にんじゃ」の人が、心配そうに自分を見て、座った。

 自分は、「みはる」に抱かかえられていて、お風呂場の床に座り込んでいた。

―ぼく……どうしたの?

―正気に戻ったようじゃな。

 「ひな人形」の人が、笑いながら言った。

―大丈夫か?

 「おじさん」もこわいお顔をしたまま、自分に声をかけてくる。

―何か、思い出したと?

 その隣には「ぬい」もいて、自分に聞いて来た。

―うん……。

―つめたい水をかけられた。

 そうして、そう言ったら、みんなじっと自分を見つめてきた。

 とっとっと、うさぎの「シロ」と「クロ」が自分の方に来て、手をペロペロと舐めてくる。

―……そうか。

 それを見て、「おじさん」が長く息をして言った。

 それから、ぽんぽんと、自分の頭を叩いた。

―あのこわい人は、やっつけることはできないの?

 だから。

 自分は、「クロ」と「シロ」を抱っこしながら尋ねてみた。

 あの人は、こわい。

 どんなに優しい言葉で声をかけられても、こわかった。

―あの人は、生きている人だから。私達には、手が出せないの。

 それに、「ひめおねえちゃん」が、まるで歌っているような感じで、教えてくれた。

―辛うじて、な……。

 だけど。

 「ひな人形」の人はそう言って、お風呂場のドアを見た。

 自分も、そのドアを見た。

 ……ドアの向こう側に、黒いモノがいた。それは黒くて大きな煙みたいだった。 そこから何本も手みたいなものが出ていて、それは、「人」には見えなかった。

―あれは、何……?

 ぎゅっと、「シロ」と「クロ」を抱きしめながら、自分は聞いた。

―人が、人たることを止めた時、あのような姿になる。

 そんな自分に、「にんじゃ」の人が教えてくれた。

―人には、戻れないの?

 でも、次に聞いた時は、誰も何も言わなかった。

 黒い煙みたいなものは、ゆっくりとお風呂のドアから離れていって、どっかに行ってしまった。

―己の「闇」に、呑まれたのね。

 「みはる」が、とても哀しそうな声でそう言った。

 それは、「ぬい」も同じだった。

―あそこまでいったら、もうどきゃんもならん。


 そう。崩壊するまで。

 もう、止まることはない。


 と、その時だった。

 ザッパーンと、「おねえちゃん」がお風呂のお湯を体にかける音が聞こえた。

―我らがなすべきことは、千の姫をお守りすることだ。

 お風呂のお湯の中に入る「おねえちゃん」を見て、「ひな人形」の人が言った。

 それに、みんなこくんと首を動かした。


「部屋替え?」

 翌日。

 千華子達が朝食を終えた後、愛理が話しがある、と言って台所に入って来た。

「模様替えじゃないの?」

 千華子が洗い物をしている後ろで、テーブルの席に向かい合って座った光村が、けげんそうな口調でそう言った。

「違うわよ。部屋替え。どうせ悠馬は帰って来ないんでしょ? そうしたら、篤が一人部屋になっちゃうじゃない。だから、そこに私を入れて欲しいの」

「つまり、篤君と同じ部屋にして欲しいってこと?」

 光村は、本当はわかっているのだろうが、あえて見当違いのことを言ったようだった。

「違うわよ! 篤と幸恵を同じ部屋にして、私を一人部屋にして欲しいの!」

 案の定、愛理は千華子が予想通りの言葉を言った。

「どうして?」

 興奮して声を荒げる愛理に対して、光村は淡々とした口調で言った。

「何で愛理ちゃんが一人部屋になる必要があるの? それに、篤君は男の子だよ。女の子と一緒にはできないわね」

「じゃあ、篤はずっと一人で部屋を使うっていうの!?  それって、ずるいじゃない!」

「一人じゃないわ。悠馬君の部屋でもあるのよ」

「あのキチガイは、もういないじゃない!」

 愛理の言葉に、千華子は一瞬洗い物の手を止めそうになったが、光村の「愛理ちゃんのことは、私が対応します」と言う言葉を思い出して、そのまま洗い物を続けた。

「そもそも、何で一人部屋が欲しいの?」

 光村は悠馬のことには触れず、違う方向に話を持って行った。

「だって、私だってもう高校生よ。いいかげん、一人の部屋が欲しいわよ」

「そんな理由なら、却下ね」

 だが次の瞬間。

 にべもなく、光村はそう言い切った。

「何で!」

「そんなに一人部屋が欲しいなら、『園』に戻る? あそこなら、高校生以上は、一人部屋になるわよ」

「冗談でしょ!?」

 さらに、愛理の口調がエキサイト気味になってくる。

「だったら、それは無理な相談ね。『若草()()』は、一人部屋を作る余裕はないんだから」

 だけど、光村は相変わらず淡々とした口調で応じた。

 と、その時だった。

「おはようございます」

 榎本がそう挨拶をして、台所に入って来た。

「おはよう、榎さん。早いのね」

 光村が榎本の方を向いて、挨拶をした。

「おはようございます」

 千華子も洗い物の手を止めて、榎本を見る。

 そんな中、愛理ガタっと椅子から立ち上がり、台所から出て行った。

 ドン!と、入り口に立つ榎本にぶつかったが、ぎろっと榎本を睨むだけで、謝ることはしなかった。

「どうしたんですか?」

 その後ろ姿を見送りながら、榎本が聞く。

「一人部屋が欲しいんですって」

 ため息を吐きながら、光村が答えた。

「一人部屋ねえ……。それは、この家じゃ無理ですね」

「そうなのよね……。一人部屋が欲しかったら、『園 』に戻るしかないんだけど」

「まあ、無理でしょう。あそこは、ここ(ホーム)よりも規則が厳しいし、どっちかと言うと、寮に近い。ここでの生活を知ったら、戻ることを希望するとは思えません」

「まあね……」

「それに、後のことも考えないと。おそらく、同室の子が部屋に居にくいようにしてきますよ」

 榎本は、そう言葉を続けた。

 それはまるで、養護施設にいる子ども達のことを知っているかのようだった。 千華子が知る限り、榎本は警察の人間のはずなのだ。

 なのに、どうしてそんなにわかることができるのか。

「それも、考えてあるわ。だけど、しばらく様子は見ないとね」 

 榎本の言葉に、光村はそう答えた。

 光村にしても、どうも愛理のこの後の行動は予想できるもののようだ。

 何故だろうと思って、光村が「愛育園」の出身だということを、千華子は思い出した。

 つまり、自身の経験から予想できるのだろう。

 そうしてそこまで考えて、ふと気付いた。

 光村が同じ児童養護施設にいたからわかることができるように、榎本もそうなのだろうか。

「そういうわけだから、千華さんも、幸恵ちゃんの様子は気をつけて見ていてください」

 千華子がそんなことを考えながら洗い物を終えると、光村がそう話しかけてきた。

「わかりました」

 光村の言葉に、千華子は振り返りながら頷いた。

「それじゃあ、千華さんはお疲れ様でした。また明日よろしくお願いします。それから私は事務所で仕事をしますから、榎さんは、洗濯物と芽衣ちゃんのお世話をよろしくお願いします」

「わかりました」

「じゃあ、私は仕事に行くわね」

 光村は榎本が頷くのを見て、椅子から立ち上がり、台所を出て行った。

 千華子は、最後に生ゴミをゴミ袋に捨てて、流しを綺麗にしてから帰ろうと思い、生ゴミ入れを手に取って、ゴミ箱に向き直った。

 と、その時だった。

「あんた、まだ帰らないのか」

 榎本が、そう声をかけてきた。

「これを捨てて、流しを洗ったら帰ります」

「細かいな……」

「水場ってちゃんとしないと、すぐカビが生えてしまいますから」

「それって、常識か?」

「家庭科の授業を真面目に聞いていたら、誰でも知っていると思いますけど」

 千華子がそう言うと、ふーんと、気のない返事を榎本はした。

「今日、ちょっと付き合え」

 だがその言葉には、千華子も目を丸くした。

「仕事終わったら、連絡入れる」

 そうして、榎本はさっさと台所を出て行ってしまった。

 千華子は目を丸くしたまま、その後ろ姿を見送っていたが、チリンっと、小さく鳴る鈴の音が聞こえて、はっと我に返った。

 ズボンのポケットに入っている携帯に付けたストラップの鈴を、ナツが鳴らしたのだ。

「そうだね、早く帰ろう」

 千華子は、ナツにだけ聞こえるように小さく呟くと、作業に戻った。

       

 天野(あまの)美恵(みえ)―「はーちゃん」の母親は、確かに子どもを二人産んでいた。

 男の子が一人。女の子が一人。無事成長していれば、男の子は七歳、女の子は四歳になっているらしい。

 どうしてそのことがわかったのかと言うと、出産した病院が、きちんと彼女の記録を残していたのだ。ただし、出産した病院は違った。

 男の子は東北の病院で、女の子は東京の病院で出産していた。

「そうして、これが天野美恵の写真だ」

 そう言って、榎本は千華子に「はーちゃん」の母親の写真を見せた。

「……似ていますか?」

 その写真を見ながら、千華子は榎本に聞いた。

「あんたはどう思う?」

 だが逆にそう尋ねられて、千華子はズボンのポケットから携帯を取り出した。 それから、データの中の写真から、「はーちゃん」の画像のデータを取り出す。

「『はーちゃん』に、よく似ていると思います」

 優しそうな顔立ちをしたその女性は、「はーちゃん」とよく似ていた。

 そうして、水の中に沈んでいく幻の子どもにも、似ているような気がした。

「面差しは、あるな」

 千華子の言いたいことを察したのだろう。

 千華子の誰もいない空間を見ながら、榎本は言った。

「だけど、それは証拠にはならない」

 でも、そう言葉を続ける。

「このガキがこの女に似ているということは、証明できないからな。まして、このガキは死んでいる人間だ」

 それは、榎本の言うとおりだった。確かに「はーちゃん」の母親と、ナツは似ているのかもしれない。

 でもその「似ている」という事実だけでは、「二人が親子である」ということは言えないのだ。

 ましてナツが死んでいる人間である以上、現実での捜査では何の役にも立たない。

 ただ。千華子には、現実の捜査に関して、口や手を出すことはできないのだ。

 千華子が、「はーちゃん」の母親が生んだ子ども達のことを調べるように頼んだのは、それがナツの可能性があって、もしかしたらナツの死体を捜す手がかりが掴めるかもしれない、と思ったからだ。

「この人の……『はーちゃん』の母親の行方は?」

「未だわかっていない」

 千華子が問いかけると、榎本はそう言った。

「お前は、何か思い出さないのか?」

 そうして、やっぱり千華子の隣の、誰もいない空間に向かって、そう言った。 千華子は、自分の隣にはナツがいて、榎本の言葉に首を振っているのだろうな、と思った。

「つまり……『はーちゃん』の母親が見つかるまでは、くわしいことはわからないってことですね?」

 千華子の言葉に、榎本は頷いた。

「まあ、そういうことだな」

「それじゃあ、この部屋掃除して良いですか?」

「はい!?」

 だが千華子のこの言葉は思ってもいないものだったらしく、榎本は驚愕の表情で千華子を見た。

「ご飯を食べる前に、ちょっと掃除したいんです」

 千華子も、それが非常識なことだとはわかっていた。

 だが、榎本の部屋は、食事するには適した部屋とは思えなかった。

 今、千華子は榎本とテーブルに向かい合って座っているが、その周りには洗濯物が干してあった。

 それも、洗濯物の下の部分が付くぐらいにかけてあるのだ。

 千華子達は、洗濯物に囲まれていると言っていいかもしれない。

 あげく、台所の流しの中には流しの底が見えないぐらい、食器が積まれていた。

 そう言った者達に囲まれて、千華子はご飯を食べるつもりはなかった。

 もともと、千華子がこの榎本が住んでいるという部屋に来たのは、彼が「話がある」と言って、仕事が終わった後、千華子が借りているマンスリーマンションまで車で来て、自分の部屋まで連れて来たのだ。

 そこは、お世辞にも「綺麗」と言える部屋ではなかった。

 「()部屋(べや)」になる一歩手前と言えばよいのか。

 最初は、失礼かとも思ったのだ。

 やっぱり、人の住んでいる家に口を出すのは、常識的に考えてもやるべきではない。

 だが、とりあえず「はーちゃん」の母親の話を聞いて、結局「はーちゃん」の母親が見つかるまでは、ナツのことは何もわからない、ということがわかった瞬間。

 千華子は、何かしら、とてつもなくこの部屋の掃除がしたくなったのだ。

「まあ、いいが……」

 呆気に取られていた榎本は、呆気になりながらもそう頷く。

 その瞬間、千華子は威勢よく立ち上がった。

「じゃあ、洗濯物をたたんでください」

「オレもやるのか!?」

「ご自身の部屋ですよね?やらなくて、どうするんですか」

 千華子がそう言うと、榎本はため息を付き、立ち上がった。

 そうして、紐にかけた洗濯物を降ろし始めた。

「洗濯物なんて、どうせ着るんだから、干したままでいいだろうに」

「そのままだったら、部屋も狭くて衛生的にも悪いじゃないですか。それに干したままの服って、死んだ人が着る物って言われているし」

 千華子は台所に移動しながら言った。

「霊感があるのに、部屋は綺麗にしていなくていいんですか?」

 千華子は霊感がないからよくわからないが、田村によると、部屋が汚いとやはり悪い霊が集まりやすくなるらしい。

 そのせいか、レイキのアチューメントを受けに行った時に訪れた田村達の仕事場は、とても綺麗に片付けられていた。

「それは、あんたが世話になっている霊能力者が言っていたのか?」

「はい、そうです」

 流しの前に立って、千華子は榎本の言葉に頷いた。

「そもそも、何であんな霊能力者と知り合ったんだ」

「ネットで……まあ、知り合いました」

 まさか自分を休職に追い込んだ教頭達を呪うために探していた、「呪い代行」のサイトで知り合いました、と言うわけにもいかず、千華子は言葉を濁した。

 ジャーと、水道から水を流して、スポンジに洗剤を付ける。

 それから水を止めて、千華子は流しの中に積まれた食器を洗い始めた。

「あの霊能者、ネットで、商売でもやっているのか?」

「今から五年前のことですから。今は、どうかは知らないです」

 もしかしたら今でもしているかもしれないが、千華子はあえて断定はしなかった。

 田村のことはもちろん信頼しているが、具体的に何をやっているのかは、千華子もくわしくは知らないのだ。

 優れた霊能力者であることはまちがいないのだが、お払いとかをメインにやっているわけでもなく、ただ、千華子が知り合った当時は、呪い代行のサイトを運営していた。

 千華子が実際お世話になったのは、双子の妹の真紀の方だ。田村の方は、時々「占い」をしてもらっている。

 それは好意で「助言」と言う時もあったし、千華子が「鑑定」としてお願いすることもあった。

 ただ、ナツの件以来比較的連絡を取るようになっていたが、それまでは、年に数回ぐらいしか取っていなかった。

 それでも、千華子が九州から以前いた中国地方の街に行こうと思ったのは、彼女達がいたからだった。

 今までとは違う場所に行こうとは思っていたが、彼女達が近くにいれば安心できる、と考えたのだ。

「あの街に引っ越したのは、彼女達がいたからか?」

 榎本は、千華子が田村と親しいことは、知っているようだった。

 おそらく、警察の捜査が、田村まで行っているのだろう。

 ただ、田村は千華子には何も言って来ない。

 それは、田村の気遣いなのかもしれなかった。

「まあ、まったく知らない人ばっかりの街よりは良いかなあって思ったんです」

 この件が解決したら、改めて田村達にお礼を言わないとなあと思いながら、千華子はそう言葉を返した。

「よく見知った人間がいない所に、行く気になったな」

「まあ……勢いです」

 皿をすすぎながら、これまた千華子は言葉を返した。

 そうして、ふと手元の食器を見て気付く。

 その茶碗は、ピンク色をしていた。

 どう見ても、大人の男が使うものではない。

 彼女の物だろうかと思い聞いてみようかと思ったが、それは止めた。

 榎本は、今は「榎本」と名乗って、「榎本」の姿をしているが、彼本来のものではないのだ。

「しかし、普通勢いで行くか?」

 そんな千華子の様子に気付かない榎本は、あきれたように言った。

「警察の方だって、転勤とかあるじゃないですか。それと似たようなものですよ」

 榎本=警察の人間、とすっかり認識している千華子は、そう言い返す。

「……ただの転勤とは、全然違うだろう」

「そうですか?」

 あまり変わらないような気がする千華子は、首を傾げる。

「それよりも、榎本さんの方が不思議ですよ。霊能者なのに、警察にお勤めなんですね」

 それに対しては、榎本は何も答えなかった。

「やっぱり修行とかされたんですか?」

 だが千華子は、かまわずに問いを重ねた。

 田村の場合は、霊能力の強い家系に生まれ、祖母に付いて修行したらしい。

「あんたの知り合いの霊能力者も、修行したのか?」

「そうみたいですね」

 千華子がそう答えると、

「俺は、十二歳の時から、師匠に付いた」

 あっさりと、榎本は答えた。

「掃除とかされなかったんですか、その方」

「そこに拘るのか……」

「いや、一番の浄化方法って言うじゃないですか、掃除って」

 少なくとも、田村達はそう言って千華子に掃除をするように薦めた。

「まあ、一番簡単な方法だからな」

「簡単な方法?」

「素人が一番やりやすい方法だ」

「つまり、一番やりやすい浄化の仕方ってことですか」

「掃除をすると、清潔になる。清潔な場所は、人の心身を安定させる。たいがいの人間は、霊よりも強いからな。普通に暮らしていたら、何の問題もない」

「……それ、ご自身にも言えることじゃないんですか?」

 榎本の言葉に千華子が突っ込むと、しばらくの間、沈黙が漂った。

 千華子は食器を洗いながら、でも、榎本は違うのかもしれないな、と思った。 確かに、この部屋は普通の部屋と違って汚くはあるが、霊能力のある榎本には、また違う手段もあるのだろう。

 そんなことを考えながら、食器を食器籠の中に入れていった瞬間。

「……前言撤回!」

 千華子は、流しに食器を放り出して叫んだ。

「な、何だよ!?」

「掃除しますよ、掃除!」

 人は人とは思うのだが、やはり千華子は我慢できなかった。

 少なくとも自分がいる以上は、このままにさせておくことはできない、と思った。

 カビは、やはり千華子にとって、幽霊以上の敵である。

「洗濯物を片付けたら、お風呂場とトイレと洗い場の掃除をしますよっ!」

 スポンジを片手に、リビングに入った千華子を、榎本は呆然とした表情で見上げた。


 綺麗になった部屋に、榎本は呆然となって座っていた。

 そうして、ふと素の自分に戻りそうになっていることに気付く。

 榎本巽。

 それが、今の自分だ。

 「捜査」の時は、たとえ部屋で休んでいる時でも、素の自分に戻ることはない。 

 それは、榎本が持っている特異な才能でもあった。

 それがあったからこそ、この仕事に就くことができた。

 「擬態」と、仲間内では言われる自分の能力は、しかし千華子には通用しなかった。

 あの「能力」を無意識のうちに使っているのだから、そら恐ろしい。

 しかも、このアパートの部屋にたむろっていた霊達も、瞬く間に除霊してしまった。

 「除霊」だから、追い払っただけだが、しかし、幽霊達は千華子がいなくなった今も戻って来ない。

 いくら破魔の力を持つ者達が付いているとはいえ、千華子が掃除をするごとに、『きゃあああ~』と今にも叫び出しそうな表情で、幽霊達がわらわらと外へと逃げ出して行く光景は、見ていて気の毒になるぐらいだった。

 霊達が傍にいることは、榎本にとっては普通のことだった。

 確かにタチの悪い霊が付くこともあるが、彼らも榎本に手を出したらどうなるかはわかっているから、簡単には手出しをしては来ない。

 どんな人間でも、大なり小なり霊は付いている。

 もちろん程度にもよるが、幼い頃から霊を見てきた自分には、彼らは近しい存在だった。

 否。

 むしろ、「嘘」がない分、生きている人間よりも信頼できるとすら思っていた。

 だけど、それは危険なことでもあった。

 まだ霊の知識が何もなかった頃、彼ら(・・)が傍にいなかったら、自分はあちら側に行っていた可能性もあったのだ。

 幼い頃から、相手が望むように自分を変えていた榎本にとって、彼ら(・・)は、何時だって素の自分を見せることができた相手だった。

 彼らがいたから、あの頃の自分は人の世に留まっていられたのだ、と榎本は思う。

 そうして、同じ場所で育った、彼らのことを思った。

 榎本は、物心付いた頃からあの場所にいた。

 悪い場所ではなかった。

 ご飯はきちんと食べられたし、着る物も寝る場所も清潔に保たれて、叱られることはあったが、暴力なんてものは一度として振るわれたことはなかった。

 ただ。

 それでも、周りの大人達は、自分のことをあまり良く思っていないことはわかっていた。

 子どもの集団で生活していると、やはり年上の者が幅を利かせる。

 年上の者が年下の者に理不尽なことをすることだってあった。

 そんな時、自分は相手の子がどんな行動を望んでいるのかを、手に取るようにわかった。

 どんな相手であっても、そのことができたからか、色んな年上の子達にかわいがってもらった。

 だけど、それが大人には異様に見えたらしい。

 加えて、物心付いた頃の自分は、周りに見える霊達のことを、よく職員に言っていた。

 自分に見えているものは、他の人にも見えていると思ったのだ。

 小賢しい子。

 気味の悪い子。

 そんな風に、大人達には思われていたみたいだった。

 大人にも、好悪の感情はある。

 表面上は、他の子達と変わらない態度で接していたが、やはり自分に接する時には、何らかの壁があった。

 そうして、子どもはそんな大人の空気を敏感に察知する。

 だから。

 榎本と年の近い子達は、あからさまに避けていた。

 まあ、今ならわかるのだ。

 年上の子にゴマすりをして、時々、変なことを言う。

 どう考えても、仲良くして楽しい子ではない。

 それどころか、小憎らしいとすら思うだろう。

 けれど、その頃はわからなかった。

 だから、自分をかまってくれる年長の子達のところに行っていたが、中高生ともなれは、自分のことで忙しいから、早々相手をしてくれるわけでもない。

 結局。

 あの頃の榎本は、あの場所ではとても浮いた子だったのだ。

 そんな自分に、よく突っかかって来たのが(ゆずる)だった。

 譲は、自分よりも一つ年上の男の子で、同室の子だった。

 歳も近いから、生活リズムが一緒だったので、たいがいは同じような場所にいた。

 そんな中、他の子達は自分を避けていたのに、譲だけは違っていた。

 何かしら一緒に活動して、それでもってケンカになって、施設の職員によく怒られた。

 そうして、そんな自分達のケンカに割って入るような子達も現れた。

 その筆頭が。(かおり)だった。

 香は自分達が小学生になってから入って来た子だったが、とても貫禄のある子だった。

 何と言うか、「おっかさん」が小学生になった感じがする子だった。

 だから。

 ケンカをする譲と自分の間に入ろうとする香に、自分達が『うるせえ、女は黙っていろ!』と叫んだら最後、鉄拳制裁が待っていた。

 当時香は、自分と同い年だった。

 そら恐ろしい。

 子ども心にも、そう思った。

 そして、そんな香に纏わり付くように、若葉(わかば)は懐いた。

 若葉も同い年だったけれど、こちらは無邪気で、自分達よりも幼いところがあった。

 多分、相反する性格が、上手く一致したのだろう。香と若葉は、姉妹のように仲が良かった。

 そんなこんなで、気が付くと、自分達はよく四人で固まって行動するようになっていた。

『あんた達は、まるで兄弟みたいね』

 職員が、そう言って笑うぐらいだった。

 そんな日々が、師匠に引き取られる十二歳まで続いた。

 あの頃。

 「ごく普通」の人しかいないあの場所で、孤独にならずに済んだのは、彼らがいてくれたからだった。

 と、その時だった。テーブルの上に置いたスマホが震えた。

「はい」

『あ、榎さん?』

「香……」

 過去の記憶を漂っていた榎本は、つい相手のことを素で呼んでしまう。

 それは、通常の榎本では有り得ないことだった。

 いくら相手が香だとは言え、やってはならない失態だった。

大丈夫(・・・)?』

 榎本がいつもと違うことを察した香は、そう言って来た。

 その瞬間。

 榎本は、我に返った。

「ああ……大丈夫(・・・)です」

 そうして、スマホを持ち直して、香にそう返事をする。

 『ごめんなさい、仕事が終わっている時間で申し訳ないんだけど、今からこっちに来られる?』

 一方の香は、榎本が持ち直したことを察したようで、「榎本」に対しての話し方をしていた。

 今の香にとって、自分は「榎本」なのだ。

 「榎本」は、「愛育園 若草の家」で働く、児童指導員の職員だ。

 年齢は、二十九歳。

 児童指導員になるために、ずっと勉強をしてきた男だ。

 千華子の能力は、確かに驚愕に値する。

 人の心の奥底の襞を無意識のうちに感じ取り、それを明確にして突きつける。 人は、己の全てを見破られて、正気でいられるほど強くはない。

 芽衣の父親を背負い投げしたのは、あれ以上やれば、確実に芽衣の父親の心が壊れるからだった。

 実際、歯止めがきかなかった悠馬を殺そうとした少年は、今でも心が狂ったままだ。

 だが、今の自分も、この「擬態」の力を駆使してやってきたのだ。

 架空の人物になりきり、捜査をやってきた。

 だから。

 圧倒されるな、と自分に言い聞かせて、榎本は香にーいや、光村に言った。

「大丈夫です。車で行っていいですか?」 

『と言うか、車で千華さんを迎えに行って欲しいの。千華さんには、今から連絡入れるから』

「わかりました」

 光村の言葉に頷いて、榎本は通話を切った。

 おそらく、「愛育園 若草の家」で何かあったのだ。

 だから、光村はこんな時刻にもかかわらず、連絡をして来たのだろう。

 そして、何があっても愛理は荒れる。

 もうあの子は、若葉の影響を完全に受け入れてしまった。

 そのことは、光村もよくわかっていた。

 この「任務」に着く時に、自分が説明したからだ。

 光村は、その時に何かあった時は、「子ども」達を優先することを、決めた。

 育った場所を愛おしく思う気持ちも、若葉を案じる気持ちもあるが、光村に迷いはなかった。

 大人は、自分の身は自分で守れる。

 でも、子どもは違う。

 それは、愛理も含めた言葉だった。

 愛理。若葉。そして、千華子。

 鍵は揃った。後は、始まるだけだった。

 そう。この瞬間から。

 崩壊が、始まったのだ。

 誰にも止められない、崩壊が。


 光村から携帯に連絡が入ったのは、榎本に送ってもらって、お風呂に入ろうとしていた時だった。

 千華子は、テーブルの上に置いたテーブルの携帯を手に取ってすぐに出た。

 着信の画面は、光村の名前が出ていた。

「はい」

『あ、千華さん? 今大丈夫?』

 光村の落ち着いた声が、耳に届いた。

「はい、大丈夫です」

『突然で申し訳ないんだけど、今から来れる?』

「今からですか?」

『そうなの。もしかしたら、泊まることになるかもしれないから、その用意もして欲しいの』

「あ、はい。わかりました」

 本当に申しわけなさそうに言う光村の言葉に、千華子は直ぐに頷いた。

 光村は、野間が退職してから、ずっと「愛育園 若草の家」に泊まりこんでいる。

 それなのに、千華子や榎本には必ず必要以上に仕事がいかないように、気遣ってくれていた。

 その光村がそう言うならば、よほどのことがあったということなのだ。

『それじゃあ、今から榎さんがそちらに迎えに行くそうだから、準備をお願いしますね』

「わかりました」

 千華子は携帯の通話を切ると、テーブルの上に持っていた着替えを置いた。

 そうして、クロゼットを開けて、泊まり用にしているバックを取り出した。

 そうすると、着替えの隣に置いた携帯の着信音が鳴った。


『どうしたの』


 携帯の画面を開けて見ると、そうテキスト画面になった携帯に、ナツの言葉が打ち出されていた。

「光村さんが来てくれって言うの。何かあったみたい」

 ナツの問いかけに、千華子はそう答えた。

 そうして、手早くテーブルの上に置いたパジャマと下着をバックの中に入れる。

 それから、もう一度クロゼットの中を覗いて明日着る洋服を出した。

 そうして、それもバックに仕舞って、チャックを閉じる。

 だけど、何があったんだろう? 

 バックといつも持って行く通勤用のリュックを玄関の近くに持って行きながら、千華子はそう思った。

 だが、考え付かない。

 愛理の件で、何かトラブルでも起きたのか。

 と、その時だった。

 テーブルに置いたままにしていた携帯が鳴った。

「はい」

 慌ててテーブルまで戻り、通話ボタンを押す。

『光村さんから電話ありましたか?』

「榎本さん?」

 その口調がいつもと違ったので、千華子はけげんな声を出してしまった。

『……あったみたいだな』

 だが、次の瞬間には、いつもの(と言うか千華子と二人でいる時の)口調に戻った。

「あ、はい。さっき電話があって。今準備しているところです」

『わかった。今、そっちに向かっているところだから、しばらく待っていろ。それから、あんたに言っておく。あんたがこれから接するのは、「榎本巽」だ。それだけは、言っておく』

 千華子が榎本の言葉に頷くと、彼はそう言葉を続けてきた。

 そうして、通話が切れる。  

 千華子は、首を傾げてしまった。

 今榎本が「榎本」と言う名前を名乗っているのは、わかっている。

 それなのに、何故今更「榎本巽だ」と念を押すようなことを言うのか。

 千華子が携帯を片手に考え込んでいると、後ろの方から、「わかってやれ~」と誰かが言っているような気もした。

 がしがしと頭を掻いて、しばらく考えていると、携帯が鳴った。


『しらないふり』


 千華子が携帯の画面を見ると、そんな文字が打ち出されていた。

「つまり……私は、榎本さんが本当は『榎本さんじゃない』ってことを、知らないふりしてくれってこと?」

 千華子がそう呟くと、ちりんと、携帯に付けたストラップの鈴が鳴った。

「そういうことか……」

 なるほど、考えてみれば榎本は警察の人間なのだ。(はっきりとは言わないが)とすれば、千華子がさも榎本の正体を知っているような態度を取れば、まずいだろう。

「まあ、へんな顔をしなければ良いか」

 千華子がそう納得して呟いた時だった。ピンポーンと、玄関のインターフォンが鳴った。

「はい」

 千華子は携帯をズボンのポケットに入れると、立ち上がった。

 そうして、玄関のドアを開ける。

「すいません、遅くなりました」

 玄関には、人の良さそうな笑顔を浮かべて、榎本が立っていた。

 千華子は、思わずうわあとなりそうになったが、そこは耐えた。

 榎本は、「仕事」をしているだけなのだ。

 千華子とて、「仕事」を邪魔されたら、はっきり言って腹が立つ。

 だから、

「大丈夫です。わざわざありがとうございます」

 素直にそう言って頷いた。

 例え今の榎本が素の榎本でなかろうとあろうと、千華子が今から取る態度に、変わりはない。

 今の千華子は、「愛育園 若草の家」の職員として、仕事に行くのだ。

 だから、態度を変える必要はなかった。

 千華子の態度に、榎本は少しだけ目を見開いたが、

「それじゃあ、行きましょうか」

 そう言って、千華子に踵を返して歩き出した。

 千華子も、バックを持ってその後に続く。

「何があったんですか?」

 駐車場に止めてあった榎本の車の助手席に座りながら、千華子は尋ねた。

「わかりません。光村さんは何も言わなかったので」

 それは、どういうことなのか。

 子どもが傍にいて、言いにくかったのか。

 それとも、くわしく話せる状況ではなかったのか。

 車の運転中、榎本は何も言わなかった。

 だから千華子も黙ってどんなことが起こっているのかを、考えて過ごした。

「着きましたよ」

 そうして、五分ぐらいで車が「愛育園 若草の家」の近くに止まった。

「俺は車を駐車場に止めて来ますから、先に行ってください」

「わかりました」

 千華子は榎本の言葉に頷くと、車から降りて、「愛育園 若草の家」に向かった。

「光村さん、瓜生です」

 玄関のドアのチャイムを鳴らし、千華子はそう言った。

 しばらくすると、キイとドアが開き、隙間から芽衣が顔を出した。

「芽衣さん、まだ寝ていなかったの?」

 幼児である芽衣は、八時半には寝る。

 だから、彼女が寝る場所として使っているテレビのある部屋は、芽衣が寝るまでしか使えないのだ。

「お客さんが来ているの」

「お客さん?」

 千華子がマンスリーマンションの部屋を出たのは、九時過ぎだった。

 今は、九時半近くだろう。

 そんな時間帯に来る客とは、どんな客なのか。

「千華さん?」

 芽衣と話しながら中に入ると、台所の方から、光村が出て来た。

「光村さん」

「ごめんなさいね、時間外なのに」

 そう言って、光村は玄関に歩いて来た。

「大丈夫ですよ。でも、何があったんですか?」

 千華子は光村に頷きながらそう言った。

「とりあえず、くわしいことは後で。今は、芽衣さんを寝かし付けてくれない?」

「わかりました」

 光村の言葉に頷くと、千華子は靴を脱いで部屋に上がった。

 そうしてテレビのある部屋へと芽衣と一緒に入ろうとした時だった。

「ここの先生ですか?」

 台所の方から、そんな声と一緒に一人の男の子が現れた。

「え……?」

大久保(おおくぼ)君、まだあなたとの話は終わっていないわ」

 年は、愛理と同じぐらいに見えた。まだ高校生ぐらいだろうか。

 小太りな体型に、丸い顔が載っている、そんな印象を受けた。

「あなたなら、わかってくれますよね?僕は、ここに住んでもいいはずだ」

「あなたは、自分の家があるんじゃないの?」

 どうしようかと思いつつも、千華子はそう言った。

「あんな家、僕の家じゃないですよ! 僕の気持ちを、親はわかってくれない!!」

 待っていましたと言うように、大久保君はそう叫んだ。

「だから、ここに僕を置いて欲しいんです。ここは、親がいない子達が住む家でしょう?」

 その言葉に、どうしようか、と千華子は思う。

 ちらっと光村を見ると、ふうっという感じの表情になった。

 どうやら同じ会話を、光村ともしたのだろう。

「あなたのどんな気持ちを親御さんはわかってくれないの?」

「それは、色々です。今から勉強しようとしているのに、『勉強しろ!』ってうるさいし、おこづかいあげて欲しいのに、それは駄目だって言うから、アルバイトをしようとすれば、それも駄目だっていうし。そんな暇があったら、勉強しろって言うんですよ!?」

 それは、普通の反応だと思った。

 「親」であれば、子どもに対して、その程度のことは言うだろう。

 おそらく、この大久保君は、実際の年齢に対して少し幼いのかもしれなかった。

「ここは、勉強する時間が決まっているんだけど?」

 親の小言から逃れるために「愛育()園 若草の()」に来たいと言うのであれば、それはあまりにも浅はか過ぎた。

「え……?」

「中学生になったら、洗濯物は自分でしなきゃいけないし、もちろん自分の部屋は自分で掃除しなきゃいけないの。これは、小学生でもやっているわ。テレビは、夜の八時半までしか見られないし、ゲームも一日一時間しかできない。学校帰りの買い食いも禁止だし、そもそも店で買い物することも、めったにないわ。高校生でもスマホはもちろん携帯も持てないし、おこずかいはあるけれど、おこずかい帳は必ず書かなきゃいけないわ」

 大久保君にとっては、思ってもいなかったのだろう。

 目を見開いたまま、千華子を見ていた。

「何ですか、それ。まるで虐待じゃないですか!」

「違うな。それは、ルールってやつだよ」

 千華子の言葉を聞いて、大久保君がそう叫んだ時だった。

 玄関の方から、榎本の声が聞こえた。

「榎さん」

 その姿を見て、光村がほっとしたように言った。

 やはり男の子相手だと、不安だったのだろう。

 篤のような年頃の子だったらともかく、高校生ぐらいになるとやはり体格的には敵わないものがある。

 もちろんやりようによっては抑え込むこともできるが、他にも子ども達がいるとなると、男手はあった方が安心できる。

「ここは、親がいない子達が住む場所じゃない。いろいろな事情があって、親御さん達と一緒に今は住めないから、ここで暮らしている。だから、君のお家と一緒で、この家にもルールってものがある」

 玄関で靴を脱ぎながら、榎本は言った。

「少々窮屈と思っても、その家その家の考え方があるんだから、そこに世話になろうと言う君が文句を出す資格はない」

「……っ」

 玄関から自分の方に来る榎本を、大久保君は睨み付けた。

「虐待されている子どもを助けるのが、児童養護施設の仕事でしょう!?」

「わがままを聞かないのは、虐待じゃない。君が今言っていたことは、すべて『わがまま』だ」

 確かに、榎本の言うとおりだった。

 「欲しい物を買ってくれない」とか、「口うるさく注意する」のは、虐待ではない。

 もちろん、限度はあるが、その程度であれば、「躾」の範囲だった。

「俺がしたいことを全て否定することが虐待じゃなくて何だって言うんですかっ!」

「なら、話し合えばいい。自分の思い通りにならなくて泣き叫ぶのは、子どものすることだよ」

「俺は子どもです!」

「だったら、よけいに戻らないとね。君は、まだ保護者が必要な立場だ」

 大久保君の声が大きくなるのとは反対に、淡々と落ち着いた口調で、榎本は言った。

「あなたは、養護施設の職員失格だ!」

「君が話す相手は、俺じゃない。そして、俺は君の話を聞く必要はない」

 そうして、榎本が叫ぶ大久保君にそう答えていた時だった。

「夜分にすいません、大久保です」

 中年の男性らしい声が玄関から聞こえた。

「どうぞ、お入りください」

 光村の方が、その声に対して答えた。

「親に連絡したんですか!?」

「ええ。だって、親御さんも心配されるでしょうからね」

 そう言って光村は玄関に歩いて行くと、ドアを開けた。

「すいません、うちの息子がご迷惑をかけまして」

 中年の男女が、そう言いながら中に入って来た。

 これが、大久保君の両親らしい。

「御連絡がすぐに行ったようですね」

「ええ。教頭先生から御連絡をもらいました。本当に、うちの愚息ご迷惑をかけまして」

 大久保君の母親がそう言って、光村に頭を下げる。

「いいえ。すぐに御連絡が行って良かったです」

「本当にお手数をおかけしました。幸一(こういち)、帰るぞ。これ以上ご迷惑をかけられないからな」

 父親の方も光村に頭を下げると、まだ廊下から動かない大久保君に声をかけた。

「……嫌だ!」

 けれど。

 大久保君は、そう大きな声で叫んだ。

「嫌だ、僕は帰らない!」

「幸一!」

「そうよ。幸一、これ以上ご迷惑はかけられないわ」

「だって、父さんも母さんも僕の言うこと全然聞いてくれないじゃないか! 言うことを聞かない子はうちの子じゃない、「若草()()」にでも行ってしまえって言ったじゃないかっっ!」

 その言葉を息子が言った瞬間。

 大久保君の両親は、気まずそうな顔をした。

 まさか、自分の息子がその言葉通り、「愛育園 若草の家」に行くとは思わなかったのだろう。

 一般的に、未だ「児童養護施設の子は、親がいない子」という認識は残っている。

 千華子もこの「愛育園 若草の家」に来るまでは、事情があって親と一緒に暮らせない子や親がいない子達が多いのかと思っていたが、実際は違い、さまざまな事情があった。

「うるさいのよ!」

 と、その時だった。

 階段の途中から、愛理が大きな声で叫んだ。

「愛理さん」

「今何時だと思っているの!? 他人の家にずかずか入り込んで来て、あげくに親子ゲンカ!? 冗談じゃないわよ!!」

 キレると言う言葉があるが、まさに今の愛理の状態はそれだった。

「なっ……!」

 自分と同じ年頃の女の子に怒鳴られた大久保君は一瞬ひるんだが、

「何だよ、児童養護施設にいるくせに!」

 そう言い返した。

「その児童養護施設に、親が自分の言うこと聞いてくれないからと駆け込んできて、挙句の果てに親子ゲンカ始めた馬鹿がえらそうに言わないでくれない!?」

「愛理ちゃん、止めなさい!」

 そこに、冷静な声で光村が切り込んだ。

 さすがに光村に止められたら、愛理も黙るしかないのか、黙った。

 だけど次の瞬間。

「言っとくけど。児童養護施設にいる子達より非常識だから、あんた達の子ども! そんな子に育てたのはあんた達だからねっ!」

 そう言い放って、二階へと上がって行った。

「愛理さん!」

 光村は、そう愛理の名を大きな声で呼んだが、

「申し訳ありません……」

 ため息を吐きつつ、大久保君の両親に頭を下げた。

「いいえ。こちらこそ、失礼なことを言って、申し訳ありませんでした」

 だが、大久保君の父親は頭を振って、そう言いながら、千華子達に頭を下げた。

「親父!」

「帰るぞ、幸一。ここは他人(ひと)様の家だ。お前の言い分は、我が家で聞いてやる」

「ちなみに、帰らないなら児童相談所だぞ。あそこは、しばらくは寮で出入り禁止になるけれど、それでもいいのか?」

 大久保君は父親に反抗しようとしていたが、榎本が続けて言った言葉で、黙り込んでしまった。

 そうして、そのまま、黙って玄関の方に行って靴を履いた。

「それじゃあ、本当にご迷惑をおかけしました。また後日、改めてご挨拶に来ます」

 大久保君の父親は、隣に立った息子を確認して、頭を下げた。

「いいえ。お気になさらないでください。それよりも、もう夜分遅いので、気をつけてくださいね」

「本当に重ね重ねお気を使わせて申し訳ありませんでした」

 大久保君の母親も、そう言って頭を下げた。

「いいえ。こちらこそ、失礼なことを子どもが言って、申し訳ありませんでした」

 光村が頭を下げるのと一緒に、千華子と榎本も頭を下げた。

 それでは失礼します、と大久保君と両親が外に出て、玄関のドアをパタンと閉めた。

「もうね、いいかげんにして欲しいのよ!」

 三人でやれやれと顔を見合わせていると、愛理がそう二階から叫んだ。

「愛理ちゃん!」

 さすがに、光村の声に怒りが宿る。

「だって、そうでしょ! キチガイの子がやっといなくなったと思ったら、今度はあんな変な子が来て、あげくの果てにあの親は、私達のことを捨て子か何かのように言ったのよ!?」

「それは、言葉の綾よ。愛理ちゃんだって、言っているじゃない」

 ぴちゃん、という音が聞こえた。

『お母さん、今度のお家は広いの?』

 それは、親子がお風呂に入っている光景(シーン)だった。

『そうよ。ここよりもずっと広いわよ』

『本当!? 愛理の部屋もある?』

『あるわよ。だから、篤の面倒をみて、良い子にして待っていてね』

『うん、わかった!』

 母親の言葉に、まだ小学生の低学年らしい愛理が、笑顔で頷いた。

 それは、母と離れ、「愛育園 若草の家」に行く前日の記憶。

 愛理の母親は、自分が入院している間だけ「愛育園 若草の家」に預けるのだと、愛理には言っていた。

 その後はこの家から引っ越す。

 引っ越す先の家は大きくて、愛理は自分の部屋がもらえると聞いて、楽しみだった。

 母が迎えに来てくれるものだと、ずっと信じていた。

 だけど。

 母は、結局迎えに来なかった。

 愛理は自分の部屋をずっともらえないまま、なのだ。

 と、その時だった。

―戻って(・・・)来い(・・)!

 パシーンと、何かに弾かれるようにして、千華子は、はっと我に返った。

「関係ないわ、そんなこと! 私達が親に捨てられたと思われることが、我慢ならないのよ!」

 その瞬間。

 千華子の耳に、愛理の尖った声が聞こえた。

「絶対に、一人部屋にしてもらうわよ! そうしなきゃ、こんなとこやっていけないわっっっ」

「……それで、愛理さんは満足なの?」

 ふいに。千華子は、そんな愛理の言葉を遮るように呟いた。

「一人部屋をもらって、それで終わり?」

 千華子の言葉に、愛理は言葉を詰まらせた。

 その瞬間を、光村は見逃さなかった。

「とりあえず、愛理ちゃん。あなたは今日、テレビのある部屋で寝なさい。私も今日はそこで寝るけれど、それまでは一人になるからいいでしょ。でも、テレビは着けないでよ」

 言葉遣いは淡々としていたが、底には揺るぎのないものを秘めた言葉は、愛理を黙らせるのには十分だった。

「明日までに何とかしてよ!」

 足音も荒く、愛理は二階の部屋へと戻って行った。

「千華さん、ああいう時は、いきなり口を出さないでください」

 それを見上げながら、光村が千華子に言った。

「あ、すいません」

 それに対して、千華子は謝った。

 愛理に対しては、確かに光村が対応することにしていたのだ。

 千華子が話している時に口を出すのは、それに反したことになる。

「まあ……いいきっかけにはなりましたけどね」

 光村はやれやれという感じで言うと、階段を上がっていった。

「愛理さん、早く準備して」

 そうして部屋の前で、そう言っているらしい声が聞こえた。

 すると続いて、ばんっとドアが乱暴に開いて、

「今行くわよ!」

 着替えのパジャマと枕を持った愛理が階段を下りて来た。

 どんどんと乱暴に音を立てて、千華子達の前を通り過ぎると、そのままテレビのある部屋へと入って行った。

「絶対入って来ないでよ!」

「それは無理よ。とりあえず、私は寝るために入るしね」

 とんとんとんと、リズムカルな音を立てて、光村が階段を下りて来ながら、そう言った。

「じゃあ千華さん、芽衣ちゃんを上の愛理さん達の部屋に連れて行って寝かせてください。芽衣ちゃん、今日は幸恵ちゃんと一緒に寝れるわよね?」

「うん、大丈夫」

 光村の言葉に、芽衣はこくんと頷いた。

「それで申し訳ないんだけど……千華さんも榎さんも、今日は泊まれる?」

「あ、はい。それは大丈夫です」

「俺も準備して来ました」

 光村の言葉に、千華子も榎本は頷いた。

「時間外なのに、本当にごめんなさいね。千華さんはお風呂入った?」

「いえ、まだです」

 千華子が首を振ると、

「じゃあ、芽衣ちゃんが眠ったら入ってください」

「わかりました」

 光村がそう言って、千華子は頷いた。

「俺は出かける前にシャワーを浴びてきたから大丈夫です」

 榎本の方も、どうやら泊まりになるようだと予想していたらしい。

「助かります、二人とも。ただ……これも申し訳ないんだけど、明日はそのまま勤務に入って欲しいの」

「わかりました」

 光村の言葉に、千華子は即答した。

 光村は、率先して無理な勤務をしている。

 その光村が申し訳なさそうに言う以上、拒絶することはできない、と思ったのだ。

「わかりました」

 榎本も、多分そうなるのだろうとわかっていた様子だった。

 あっさりと頷くと、

「俺は篤君と一緒に寝れば良いですね?」

 そう、光村に確認を取る。

「ええ。お願いします」

 と、その時だった。

 芽衣がふわわああ~と、大きなあくびをした。

「ああ、もう眠いのね。千華さん、芽衣ちゃんを二階に連れて行ってくれる?」

「はい、わかりました」

 千華子は光村の言葉に頷くと、

「芽衣さん、行こうか」

 そう、芽衣に声をかけた。

 芽衣はこくんと頷くと、目をこすりながら歩き出した。

「ちょっと危ないから、階段は抱っこしていって。でも、いつもはだめよ」

 芽衣を抱っこしながら、千華子は光村の言葉に首を傾げた。

 子どもは、時々抱っこをしてもらいたがる。

 それは、アタッチメント(愛着行動)から来るものだ。

 アタッチメントを通して、幼い子どもは愛情や信頼を学んでいく。

 千華子は大学でそう学んだ。

 だから、小さい子どもを抱っこしたりおんぶしたりすることは、逆に必要なことだと千華子は思っていた。

「芳賀さんの方針なのよ」

 そんな千華子に対して、光村は短く答えた。

「抱っこしたら、抱きぐせが付くって」

「はっ?」

 思わず声を上げてしまったが、光村は、それ以上は何も言わないで、と言いたげに首を振った。

「……わかりました」

 納得がいかなかったが、経営者の方針である以上、千華子は頷くしかなかった。

        

「それは、私が来た時からそうだよ」

 芽衣を抱っこして、二階の愛理達の部屋に入った千華子は、階下の声が聞こえていたらしい幸恵にそう言われた。

 「えっ?」

「抱っこが駄目だってこと。私がここに来た時も、そう言われたもの」

 勉強中の机から顔を上げて、千華子を見ながら幸恵は言った。

「そうなんだ……」

 千華子は、愛理のベッドに芽衣を寝かせながら幸恵を見た。

 幸恵は、勉強していた机に視線を戻すと、また手を動かし始めた。

「私が『愛育園』に来たのは、今の芽衣ちゃんぐらいの頃なの。あの頃はまだこんな今みたいな感じじゃなくて、『園』で、皆で暮らしていたの。先生達が抱っこしてくれなかったから、愛理ちゃんが私をよくおんぶとか抱っこしてくれていたわ」

 けれど、手を動かしながらそう言葉を続けた。

『おとうさん、抱っこして』

 幼い頃。

 千華子がそう言って父にねだると、父はうれしそうな顔をして、千華子を抱き上げてくれた。

 小さな子であれば、当たり前にねだることを、芽衣は―「愛育園」に来た子達は、禁じられていたのだ。

 グループホームは長期的に家庭に戻ることができない子ども達を対象に、通常の児童養護施設では体験できない『家庭』の雰囲気を体験させることが目的なはずなのに、それを禁じている。

 それは、矛盾しているような気がした。

「前の愛理ちゃんは、あんなんじゃなかった」

 千華子がそんなことを考えていると、ぽつりと幸恵が頷いた。

「幸恵さん」

「私と一緒にこの『若草の家』に来ることになった時、愛理ちゃんはとても喜んでくれたの。『幸恵と一緒なら、楽しい』って。でも……悠馬が家に帰れるかもしれないって聞いた頃から、何か変わちゃった」

 愛理にとって、発達障害ゆえに己を自制できない悠馬は、見ていて苦々しい存在だったのだろう。

 もしかしたら、ただの「わがまま」と思っていたのかもしれない。

『本当!? 愛理の部屋もある?』

『あるわよ。だから、篤の面倒をみて、良い子にして待っていてね』

『うん、わかった!』

 幻の中で母と話していた、愛理を千華子は思い出した。

 あの時。

 確かに、愛理は母を信じていた。

 母の言葉を、微塵も疑っていなかった。

 だけど。

 母親の言ったことは、嘘だったのだ。

 その一方で。苦々しく思っていた悠馬が母親のもとに帰れるかもしれない、と聞いて。

 愛理の中にずっとあったものが爆発したのかもしれなかった。

 千華子は、何も言えずベッドに入った芽衣の体を、ぽんぽんぽんと、リズムカルに叩いた。

 千華子は、中学生になった時に一人部屋をもらった。

 それまで実華子と同じ部屋だったから、大人になった気分だった。

 それと同時に、とてもうれしかったことを今でも覚えている。

「愛理ちゃんは、お家に帰りたいのかもね」

 いつも言葉少ない幸恵が、今夜はとても饒舌だった。

「だけど、家に帰っても、どうしようもないもの。私は家に帰ったら、きっと学校に行けない」

 それは、幸恵が抱える「現実」の一つだった。

 幸恵は、家に帰ってもほとんどの子が当たり前のようにできる、「高校に通うこと」はできない。

 家に帰っても、「普通の生活」ができないことを、彼女は十分理解していた。

「幸恵さんは、どこの学校に行くの?」

 千華子は何も言えなくて、でも何か言わなくてはと思い、そう幸恵に尋ねた。

「看護科のある高校に行くの。私立だけど近くにあるし、『愛育園』は、高校までは出してくれるけど、大学とか専門学校には行かせてくれないから。看護師だったら、卒業したらすぐに働けるでしょう?」

 それは、とても現実的な進路の選択だった。

 幸恵は、自分の「現実」をしっかりと捉えて、将来のことを考えているのだ。

「高校の看護科は、准看護師の受験資格が取れるから、合格したら病院で働いて、お金を貯めて正看護師の資格を取るために、高等看護学校に行くつもりなの」

「そっか……」

 そこには、幸恵の硬い意志があるような気がした

 。一人でしっかり生きていく力を付けて行こうという―。

「あと三年……正確には、三年半。そうしたら、私はここを出て行けるから、それまでは頑張るの」

 そうして、そう言って、幸恵は視線を机のテキストに落として問題を解き始めた。

 その姿を見てから、千華子は芽衣に視線を落とした。

 幸恵は、光村の話からも勉強がかなりできるようだった。

 頭も良く、きちんと毎日勉強をしている。

 幸恵がどうしてこの「愛育園 若草の家」に来たのか、その理由を千華子は知らない。

 他の子達と違って、その理由を知らされていないのだ。

 子どもの資料にも、書かれていなかった。

 おそらくは、簡単には言えない事情があるのだろう。

 特に千華子は、証人保護プログラムを受けている間だけの職員だ。

 迂闊に言って、それが外部に漏れるとも限らない。

 千華子にその気がなくても、事情を知る者は少ない方が良い、という判断なのかもしれない。

「千華ちゃん、ねんねんして」

 と、その時だった。目を閉じていた芽衣が、目を開けて、千華子にそう言った。

 「ねんねん」とは、芽衣が眠る前に千華子が時々歌う、子守唄のことだ。

「芽衣さん、今日はちょっと駄目だよ」

「いいよ、私は別に」

 けれど、今は幸恵もいることから我慢してもらおうと思っていたが、幸恵はテキストに視線を降ろしたまま、あっさりとそう言った。

「ありがとう。じゃあ、小さい声でね」

 千華子は幸恵に礼を言うと、子守唄を歌い始めた。

 それは、千華子が幼い頃に、母に歌ってもらったものだった。

 千華子が「愛育園 若草の家」の子ども達に分け与えていたのは、父と母からもらった愛情(もの)の欠片だ。

 それは、千華子にとっては当然のものだった。

 けれど。

 そうじゃない子も、いる。

 そんな事実に、千華子は一瞬だけ唇を噛み締めそうになった。

 でも。その時だった。

「ああ、これ。私も知っている」

 幸恵が、そう呟いた。

「私も、母さんに歌ってもらった」

 千華子は、歌いながらも幸恵を見た。

 幸恵は、あいかわらず視線をテキストに置いたまま、手を動かしていた。

 だけど、その言葉は、千華子には思いもしないものだった。

 幸恵には、子守唄を歌ってもらった思い出があったのだ。

 けれど、幸恵は「愛育()園 若草の()」にいる。

 それは、何故なのか。

 確かに、愛情はあったはずなのに。

 望んで、産んだはずなのに。

 どうして、子を手放す親がいるのか。

 千華子は、そんなことを考えながら子守唄を歌い続けた。

          ★

 そこにあるのは、扉だった。

 真っ暗な中に、白い扉が浮かび上がっていた。

 千華子は、何だろうと思いながら、その扉に手を伸ばした。

―そこに触るな!

 けれど。いきなり、闇の中にそんな声が響いた。

 見ると、そこに榎本が立っていた。

―榎本さん……?

 千華子は驚いて、榎本を見る。

 だが、千華子が知っている「榎本」の姿ではなかった。

 鷹のような目をしている、鋭い眼差しを持った男だった。

―そこに触るんじゃないっ。それは、幸恵が触れられたくない記憶(もの)だ。

 「榎本」の姿をしていない榎本は、厳しい口調で千華子に言った。゜

―幸恵さんの「記憶」……?

 千華子は、その言葉に、白い扉をまじまじと見つめた。

―それを赤の他人のあんたが、無遠慮に解き放つ権利はない!

―そんなつもりは……

 思った以上のきつい口調に、千華子は閉口した。

―あんたはそんなつもりじゃなくても、使っているんだ、「力」を。無意識にな。だから、愛理の時も、あいつの心の底の望みを覗き込んでいた。

 けれど、この言葉には、はっとなった。

―自覚しろ。今のあんたは、やたら無闇に「力」を使っているんだ。それも、蝋燭の火を、消防車のホースで消すレベルでな。自覚しないと、あんたにとっても良いことはないぞ。

―どうすればいいんですか……?

―あいつらに、情をかけなければいい。

―無理ですよ。

 だが、榎本の言葉には、あっさりとそう言い返した。

 実際、「情をかけるな」と言うことは、千華子の性格では無理な話だった。

―あっさり返すな! ……赤の他人だ。あんたには、何の関係もない子達だろうが。

―目の前にいて、一緒にいるのに「関係ない」とは思えません。

 千華子がきっぱりと言い返すと、榎本はため息を吐いた。

―ならば、ある程度自分でも注意することだ。前にも言ったが、あんたには、もともとその手の「力」を使う能力はないんだ。気を付けないと、命を縮めてしまうことにもなりかねないぞ。

―はい……。

 ただ、そうは言っても。

 どうやら「力」はあって使いこなしている榎本に言われると、やはり言葉に重みがある。

 千華子は、榎本の言葉に頷きながら、暗闇に浮かぶ白い扉を見つめた。

 榎本のいうとおり、ずかずかと考えもなしに、人の心に入るものではないのだ。

 それは、たとえ子ども相手であっても、同じである。

 千華子が教員時代にあったことを、触れて欲しくないように、幸恵にも愛理にも、触れて欲しくない部分はあるに違いない。

―とりあえず、レイキとやらとかでもいいから、あんたの周りにバリアー張っとけ。バリアーを張ることで、あんた自身が無意識に「力」使っても、簡単には使えないようにできるから。

 ―バリアーを張ることで、私の「力」が抑制されるんですか?

―簡単に言えば、そうだ。あんたの「力」が解放されても、バリアーがその力を抑えてくれる。

―わかりました。

 榎本の言葉に、千華子はこくんと頷いた。

 自分でも、無意識に「力」を使ってしまうのだから、自分にできることはしよう、と思った。

 明日からは、「FES」のフラワーエッセンスで、「防御」をしてくれる「環境フォーミュラ」を眠る前に、水に入れて飲んだ方が良いのかもしれない。

 少なくとも、そうすることで相手にとって不本意なことをしてしまうのは、防げられるのだ。

―あんたは……素直だな。

 そんな千華子を、今度は榎本がまじまじと見つめた。

―だって、プロの方の言葉ですから。

 千華子にとって、榎本は霊のプロだった。

 確かに榎本自身からはそのことについては何も話してもらっていないが、その言葉の端々に、「プロ」としての意識が感じられたのだ。

 千華子の言葉に、榎本は何も言わなかった。

―早く、戻れ。

 そうして、次に言われた言葉は。

 とても、あっさりとしたものだった。

―いつまでも自分の体から離れているのは、良くない。

 その瞬間。

 千華子は、とんっと何かに肩を押されたような感覚に陥った。

 そうして、今まで見えていた白い扉も、榎本の姿も見えなくなって。

 そのまま、暗闇の中に紛れていった。


 目が覚めたら、朝だった。

「おはよう、千華ちゃん」

 ベッドに座っていた芽衣が、千華子を覗き込みながらそう挨拶をした。

「……おはよう、芽衣さん」

 千華子は、そう言いながら起き上がった。 

 ベッドの枕元に置いた携帯を開いて見ると、まだ六時前だった。

「芽衣さん、まだ眠っていて良いよ」

 千華子の朝の勤務は、六時から始まるのでこのまま起きるつもりだったが、芽衣達が起きる時刻は六時半だ。

 もう少し眠っていても良いのだが、

「芽衣ちゃんも起きる」

 と言って、芽衣は首を振った。

「それじゃあ、下に行こうか」

 隣のベッドを見ると、幸恵はまだ眠っていた。

 千華子はベッドの近くに置いていたバックから櫛を取り出すと、手早く髪を整える。

 千華子は、泊まりの勤務の時は起きたら直ぐに勤務に入れるように、服を着てそのまま眠っているのだ。

 バックを持って、芽衣と手を繋ぎながら下に行くと、台所の方から包丁で何かを切っている音が聞こえた。

「おはようございます」

 千華子達が、そのまま台所に顔を出して挨拶をすると、

「おはよう、千華さん、芽衣ちゃん」

 光村が振り返りながら、そう挨拶をしてくれた。

「光村さん、私がしますよ?」

 千華子は泊まりの勤務の時には、できるだけ朝御飯は自分が作るようにしていた。

 過剰な勤務をしている光村の負担を、少しでも楽にしたかったのだ。

 けれど光村は千華子の申し出には首を振り、

「大丈夫よ、ありがとう。千華さんは、芽衣さんの着替えをお願い」

「でも、愛理さんがいますけど、いいんですか?」

「いいわよ。もともと、芽衣ちゃんの服が置いてあるのは、あの部屋なんだもの。それをぶつくさ言うのは、違うからね」

「わかりました」

 あっさりと言う光村の言葉に、千華子は頷いた。

 光村は、そのまま野菜を刻んでいる。

 光村は、以前と変わってしまった愛理のことを、どう考えているのだろうか。ふと、芽衣と一緒にテレビのある部屋に行きながら、千華子は考えた。

 愛理のことを一番知っているのは、光村だ。

 付き合いの長さを考えれば、愛理のこの変わり様の原因を、理解しているのかもしれない。

 と、その時だった。

「千華ちゃん……芽衣ちゃん、お部屋に入りたくない」

 部屋に入ろうとした芽衣が、入り口で固まった。

「どうしたの? 芽衣さん」

「お部屋に入りたくない!」

 だけど、はっきりとした口調でそう言った。

「どうしたの? 一体」

 千華子はげげんに思いながらも、テレビのある部屋を覗き込む。

 そうして、その瞬間、息を呑んだ。

 暗いカーテンを引いたテレビのある部屋は、真っ暗だった。

 そこには、まだ眠っているはずの愛理の姿があるはずだった。

 確かに、綺麗に畳まれた布団の横には、布団にもぐり込んだ愛理の姿がある。 だけど。

 その姿とだぶるように、()か(・)がいた。

「何……?」

 それ(・・)は、何か黒い塊のように見えた。

 黒い塊は愛理が眠っている場所にいて、黒い煙を出している。

 その瞬間。

 千華子は、部屋の中に入ると、すぐさま窓のカーテンを全部開けた。

 夏の眩しい日差しが、一瞬にして入って来る。

 陽は聖なるもの。

 ゆえに、最強の魔よけとなる。

「何でいきなりカーテンを開けるのよ!」

 と、次の瞬間。

 千華子は、尖った声で叫ばれた。

 見ると、布団の中にもぐり込んでいた愛理が起き上がり、怒った表情で千華子を見ていた。

「ごめんなさい、でも、もう起きる時間だから……」

「後十五分は寝ていられたわよ!」

「だったら、自分の部屋で寝ていれば良かったのよ」

 謝った千華子に、愛理は怒りの声を上げたが、それを遮るように光村の言葉が切り込んで来た。

「自分の意志でこの部屋で寝たんだから、いつもより早く起こされてもしょうがないでしょ。ここは、芽衣ちゃんの着替えだって置いているんだから。あなた達が起きる前から、私達はこうやって準備しているんだし、それで起こされても、文句は言えないわよ」

 それに、と光村は言葉を続けた。

「今日は学校に用事があるんでしょ? だったら、ちょうど良かったじゃない。私も何回も起こさずにすんで、助かったわ」

 その言葉に、ぐっと愛理は口を噤んだ。

 実際、愛理は寝起きがあまり良くないのだ。

 何度も愛理を起こしに光村が階段を上って行くのを、千華子は泊まりの勤務の時に見ている。

 愛理はいきなり乱暴に立ち上がると、そのまま部屋を出ようとした。

「布団をたたんで、しまってから行って」

 それを遮るように、光村は言った。

 愛理はぎっと千華子を睨みつけると、乱暴に布団をたたみはじめた。

 本当は光村に文句は言いたいのだが、それは怖くてできないから、千華子に八つ当たりをしているのだ。

 千華子はその視線に気付いていないふりをして、芽衣にタンスから服を出すように言っうと、窓に近寄って、カーテンをまとめて、紐で縛った。

「眩しいじゃない!」

 けれど、やっぱり何か言いたかったのか、愛理は金切り声でそう叫んだ。

「あなたのその声の方が、よほどうるさいわよ」

 だが、やはり光村の方が上手であった。ダメ押しと言うばかりに、そう愛理に声をかける。

 文句を言うと光村から必ず辛辣な言葉が返って来ることがわかったのか、愛理はぎりっと唇を噛み締めた。

 そうして、乱暴に押し入れの戸を開けると、そこにたたんだ布団を押し込めた。

 それから、乱暴な足音を立てて、二階へと上がって行った。

「すいません、光村さん……」

 千華子は、ため息を吐いている光村に頭を下げた。

「良いわよ。ああいう時って、ヘタに気を使われるのも、腹が立つものなの」

 やれやれ、という感じで光村は言った。

「だけど……どうして、急にカーテンを開けたの? いつもの千華さんだったら、開けなかったでしょうに」

 確かに、それは光村の言うとおりだった。

 千華子も、芽衣の着替えはカーテンを開けてまでやる気はなかった。

 だけど。

「芽衣ちゃんが、こわかったの」

 黙りこんでしまった千華子の代わりに、芽衣がそう言って答えてくれた。

 「こわかった?」

「お部屋に、何かいたの。それで怖くなって、入れなかったの」

「すいません、それで愛理さんはお布団の中にもぐっていたので、大丈夫かなと思ったんです」

 咄嗟に、千華子はそのまま芽衣の言葉を引き継いでそう答えた。

 実際、いつもは芽衣が起きたら、カーテンを開けてから、着替えをやっていたので、嘘ではなかった。

 でもあの瞬間、確かに感じたのだ。何か、とてつもなく「嫌なもの」がいる、と。

 それ(・・)は、カーテンを開けた瞬間、いなくなった。

 ただ、それが何なのかは、千華子にはわからなかった。

「これは……もう、今日決行するしかなさそうね」

 またしても頭を下げた千華子を見て、再度ため息を吐きながら、光村は言った。

「え?」

「本当は、もう少し様子を見るつもりだったんだけど、仕方ないわね」

「おはようございます」

 と、その時だった。榎本が挨拶をしながら階段を下りて来た。

「どうしたんですか? 愛理ちゃんがすごい勢いで階段上って来ましたけど」

「癇癪起こしたのよ。どうも、一人部屋が欲しくてイライラしているみたいね」

「部屋は、ただの口実でしょう?」

「……まあね」

 どうやら、光村達にも愛理の「部屋が欲しい」と裏にある思いは、読み取れるらしい。

「自分の思い通りに、やりたいんでしょうね」

「根っこには、昨日の子と同じ感情(もの)があるはずです」

 光村と榎本は、少し声を落としてそう話した。

「でもまあ、とりあえずやってみようと思うので、今日はお願いします」

「何をするんですか?」

 イマイチ話が見えない千華子は、そう尋ねてみた。

「ああ。千華さんにはまだ話していなかったわね。部屋を作ろうと思うのよ」

「えっ? 部屋をですが??」

 だが、言われた言葉には、目を丸くしてしまった。

「そう、部屋」

 そんな千華子に、光村は真面目な顔をして頷いた。


「何、これ!」

 夕方―と言うか、ほとんど夜になって帰って来た愛理は、自分の部屋に入るなり、大きな声を上げた。

「何で私の部屋に篤がいるのよ!」

「姉ちゃん、何言ってんだよ。ここは、俺の部屋だぜ」

 だが、怒りで顔を真っ赤にした愛理に対して、篤は平然とした態度で言葉を返している。

 その会話は、台所で洗い物をしていた千華子にも聞こえるぐらいの大きさだった。

 やがて、どっどっどっという荒い足音がして、

「どういうこと!?」

 と、台所に愛理が怒鳴り込んで来た。

「何であんなふうに、私の部屋がなっているのよ!」

「うるさいわよ、帰る早々。こんなに遅くまで、どこに行っていたのよ」

 だが千華子が何か言う前に、事務所の扉が開いて、光村が出てくるなりそう言った。

「そんなことより、あの私の部屋は何なのよ!?」

「ああ。あれ? 愛理ちゃん、一人部屋欲しがっていたじゃない。だから、みんなで協力して作ったのよ」

「あれのどこが一人部屋なのよ!」

 愛理は、ほとんど絶叫という感じで叫んだ。

 光村の言う一人部屋とは、本当の意味での「一人部屋」ではない。

 もともと二段ベッドだったというベッドを部屋の真ん中に置いて、互いの部屋になる部分で、使わないベッドの片側を板で塞ぐ、というものだった。

 愛理達の場合は、愛理は二段ベッドの下の部分を使うので、上のベッドの愛理の部屋側は板を張ったのだ。

 そうして、上の部分を使う篤は、下の方のベッドを、篤の部屋側の部分は板で塞いでいる。そうすることで、ベッドを使って、部屋に簡易の壁を作ったのだ。

 完全に部屋を区切ることはできないが、大部分が隠れているので、一人部屋としては十分にプライバシーは、守れそうだった。

 もちろん、その作業は大変だった。

 光村は愛理の方が耐えられなくなった時の場合を考え、以前から準備はしていたらしいが、それでも実際の作業はそう簡単にはいかなかった。

 光村が事前調査してくれた店に、榎本が材料を買いに行き、それを持ち帰るのだけでも一時間はかかった。

 その間に、愛理以外の子ども達は自分の荷物を整理して、千華子や光村は邪魔になる家具を移動させたり、子ども達の荷物の整理を手伝ったりした。

 榎本が店から材料を調達してからは、大人三人でにわかDIY状態で、寸法はきちんと測って、店で切ってもらっていたものの、素人がやろうとすると、それはそれは大変な手間と時間が必要になった。

 その間にも、子ども達の世話はあるので、三人で手分けして、子ども達にもお手伝いをしてもらって、何とか一連の作業をすませることができたのだ。

 ちなみに、篤が悠馬と一緒に使っていた部屋には幸恵が移り、そこは芽衣と一緒に使うことになった。

 篤が男の子である以上、異性である二人と一緒にするわけにはいかないし、そろそろ芽衣にも部屋が必要だと光村は考えていたらしい。

 何はともあれ、どうにかこうにか愛理が帰って来るまでには、全ての作業を終了することができた。

 本来なら無断外出になるのだが、その点では助かった部分もあった。

 けれど。

「あんなのが一人部屋なんて、馬鹿にしないでよ! 今すぐ元に戻してよ!!」

 愛理は金切り声でそう叫んだ。

「無理よ」

 けれど、光村はあっさりとそう言った。

「愛理ちゃんが、『一人部屋が欲しい』って言うから、あんな風にしたんだもの。確かに完全な一人部屋じゃないけれど、十分にスペースはあるでしょう?」

「私が欲しいのは、ちゃんとした一人部屋よ! それを今すぐちょうだいよっっっっ!」

 自分の言葉を遮り、金切り声で叫ぶ愛理の姿を見て、光村は目を細めた。

「どうしても、一人部屋が欲しいの?」

「そうよ! 何回も言っているじゃない!!」

()を(・)して(・・)も(・)?」

 けれど。

 次の問いかけには、明確な意図が宿っていた。

 千華子は思わず、台所の入り口を振り返る。

 光村はこの瞬間、愛理を「切る」ことを選んだのだ。

「そうよ!!」

「じゃあ、『園』に戻りなさい」

 そうして、紡がれた言葉は。

 野間に自宅待機を告げた時と、同じ口調で言われた。

「何でそんな話になるのよ!」

「何をしても、とあなたはさっき言ったじゃない」

 光村は、愛理のことを「あなた」と呼んだ。

「つまり、何をしても、一人部屋が欲しいんでしょ? だったら、『園』に戻りなさい。『園』だったら、小さいけれど、自分の部屋が持てるわ。あなたが求めるものは、この『若草の家』では与えることはできないのよ」

「本気で言っているの……? それって、虐待じゃない!!」

「違うわよ。あなたの自分勝手に、私達が付き合う必要はないってことよ」

「学校はどうなるのよ!」

「通えるでしょう、十分。同じ市内にあるんだから」

「自転車で三十分以上の!? 通えるわけないじゃない!」

「じゃあ、辞めなさい」

 まるで放り出すように、光村はあっさりと言った。

「なっ……」

「あなたは何かを勘違いしているみたいだけど、私達にあなたを養う義務はないの。あなたは、もう高校生よ。義務教育は、終わっているの。事と次第によっては、あなたを自宅に帰すことに、何の問題もないのよ」

 光村の言葉に、愛理は目を大きく見開いた。

「自分の思い通りに生活したいのなら、あなたは「愛育園」を出ればいい。私達は、できることはしたわ。それ以上のことを望むのだから、『園』に戻りなさい」

 そうして、愛理は続けられた言葉に、体を震わせた。

 そのまま、ぱっと駆け出して、どんどんどん、と荒い足音を立て、階段を登っていった。

「最後通告か」

 それに入れ替わるようにして、台所に入ってきたのは、榎本だった。

「榎本さん……?」

 けれど、その口調は「榎本」の時のものではなかった。

 千華子といる時の榎本―つまり、「素」の榎本のものだった。

「いいの?」

 光村は、ちらっと、流しの前にいる千華子を横目で見て、榎本に言った。

「今更だしな」

その言葉に対して、榎本は肩をすくめながら答えた。


 くさい。

 「おねえちゃん」がお仕事で行っているお家のドアを開けたとたん、自分はそう思った。

―もう、ここまで進んでおるのか。

 自分のすぐ傍にいる「ひな人形」の人は、怒ったようなお顔でそう言った。 

―あまり、姫を近づけたくはないのだがな。

 「にんじゃ」の人も、同じようなお顔をして言った。

 そのくさいにおいは、お二階の上から来ていた。

―ぼくのお部屋も、こんなにおいがした。

 そうして、自分はその「におい」を知っていた。

 そう。

 あの、「はーちゃん」と言っていた「いもうと」と一緒にいたお部屋と、同じ「におい」だった。

―そうか……。

 するといきなり、「ひなにんぎょう」の人が、自分の頭をがしがしと撫でた。

―しかし、ここまで酷くなると、もう今日明日かぐらいではないのか?

 そう、「へんな人」が言った時だった。

 ずっずっずっと上から何か黒いものが、おりてきた。

 その黒いものは、まるでミミズのようだった。

 黒い真ん中のところからは、前に見た時と一緒で、手みたいなものが何本も出ていた。

 それを見た瞬間、こわい、と思った。

―あそこまで、「同化」が進んでおるのか……。

 ぎゅっと、自分を後ろから抱きしめてくれながら、「みはる」が言った。

 黒いものは、上から降りてきて、しばらく「おねえちゃん」が行った方を見ていたけれど、ずっずっずっと動きながら、おそとへと行ってしまった。

「今、玄関のドアが開く音がしませんでしたか?」

 そう「おねえちゃん」が言いながら、お部屋から出て来た。

「愛理ちゃんでしょう」

 お部屋からは、「みつむら」さんの声が聞こえた。

「……いいんですか?」

 「おねえちゃん」は、お部屋に戻りながら言った。

 自分達は、その「おねえちゃん」の後をついて行く。

「一応、外出届けは出ているのよ」

 「みつむらさん」は、お部屋に入って行く「おねえちゃん」に、振り返りながら言った。

「それに、あの子携帯……スマホを持っているのよ」

「えっ?」

 だけど、「みつむらさん」の言ったことに、「おねえちゃん」はびっくりしたように言った。

「わざと持っていくように、昨日テレビの部屋に置きっぱなしにしていたの。……単純以外の、何者でもないわね」

 だけど、この言葉は哀しそうな感じがした。

「つまり、GSPで位置がわかるようになっているんですね?」

「今は、便利ね」

 「おねえちゃん」の質問に、「みつむらさん」はそう言った。

「私のスマホがなくなったんだもの。私がスマホのアプリを使って、私のスマホを探すのには、何の問題もないわ」

 そう言って、「みつむらさん」はお皿をゴシゴシ始めた。

 「おねえちゃん」も何だか哀しそうなお顔をしていたけれど、お荷物を置くお部屋に入って行った。そうして、お荷物を、お荷物()を入れる(ッカ)場所(-)に置くと、じっと何かを見ていた。

 何を見ているんだろう、と思って「おねえちゃん」の見ているものを見たら、それは大きいお人形だった。

 赤ちゃんを抱いた女の人が、目を閉じている。

 「おねえちゃん」は、その大きな人形をしばらく見つめていたけれど、頭を振って、立ち上がった。

―おねえちゃん、どうしたの?

 心配になって、近くにいる「みはる」に聞いてみる。

―考え事をしていたのじゃろう。

―これは、キリシタンの像たいね。

 「みはる」はそう教えてくれたけれど、その隣にいた「ぬい」は、女の人のお人形に近付きながら行った。

―神の子を産んだ人たい。

 そうして、自分を見ながら言った。

―神の子?

―キリストさんたい。

―ぬい、ナツには難しいですよ。

 首を傾げる自分を見て、「みはる」がそう言った。

 確かに、「ぬい」の言うことは難しかった。

―じゃあ、この人は「お母さん」?

 でも、「子どもを生んだ人」ということはわかった。

―そうたい。このマリアさんは、お母さんたい。

―この人は、赤ちゃんをたいせつにしたの?

 そう言うと、「ぬい」も「みはる」も、しばらくだまってしまった。

―そぎゃんたい。たいぎゃ、大切にしなはったごたっよ。

 だけど、「ぬい」がそう言って、

―そっかあ……

 自分は、そう言った。

 いいなあ、と思ったことは、言わなかった。

 言ったら、きっと「ぬい」も、「みはる」も、困ることはわかっていた。

 自分の「おかあさん」は、この大きいお人形の人みたいに、自分を大切にしてくれなかった。

 自分をころしたのは、「おかあさん」だということも、なんとなくわかっていた。

 だけど。

 どうして、自分はころされたんだろう。そう、思った。

―どうした?

 じっと女の人のおにんぎょうを見ていたら、「お顔のない」人が、自分に話しかけてきた。

 と思ったら、今日の「お顔のない人」は、お顔があった。

―それが、真のあなたですか。

 自分はびっくりして「お顔のない人」を見ていたけど、自分のすぐ傍にいた「みはる」がそう言った。

―あんたらは、『母』か。

 けれど。

 「お顔がない人」は、「みはる」達を見て、そんなことを言った。

―「母」が二人も付いているのも、あいつの性質のせいか?

 そう聞いてもきたけれど、「みはる」も「ぬい」も何も言わず、黙っていた。

夏生(なつき)、お前の母親は、あいつじゃない。

 だけど、「お顔のない人」は、いきなりそんなことを言ってきた。

―そして、あんたらも、あいつや夏生に自分の子どもの面影を重ねて、こいつを引き止めるんじゃない。

―当たり前のことば、言いなすな。

 それに、「ぬい」が言った。

―あん子は、うちの子じゃなか。うちの守るべき子も、本当はあん子じゃなか。ぱってん、うちにそのことを願った人がおらすけん、うちはあん子の傍におっだけたい。

―「守るべき者」がそのことを望んで、あんたはここにいるのか。その「守るべき者」も、大した「力」がありそうだな。

 「お顔のない人」は、そう言ったけど、

―早く、あいつの所に行け。いつまでもここにいると、心配するぞ。

 けれど、いきなり自分にそんなことを言い出した。

―行こう、坊。

 「みはる」が自分の手をひっぱってくれた。

 ふわふわと浮かんで「おねえちゃん」のいるところに行くと、「おねえちゃん」は、お風呂の掃除をしていた。

 「ナツ?」

 自分が近付くと、「おねえちゃん」が小さい声で、自分を呼んだ

 。とても、心配そうな声だった。

 昨日。

 お仕事が終わって「おねえちゃん」のお部屋に帰った時も、「おねえちゃん」はとても疲れていた。

 だから、「おねえちゃん」が出してくれた自分用のパソコンで、「しゃけのおむすびがたべたい」と打って、「はやくねよう」と打った。

 「おねえちゃん」は笑って床から立ち上がって、シャケのおむすびを作ってくれた。

―だいじょうぶ。

 そんな気持ちで「おねえちゃん」の傍まで言って、「おねえちゃん」のポケットに入っている、けいたいに付いた鈴をさわった。

 ポケットに入った鈴はへんな音がしたけれど、「おねえちゃん」は小さく笑って、頷いた。 


 鍵穴に鍵を差し込んだとたん、空気がちりっと動いたような気がした。

「千華ちゃん?」

 動きを一瞬止めた千華子に、隣にいた芽衣がけげんそうな顔をする。

「何でもないよ、芽衣さん」

「芽衣ちゃん、あついよ」

「そうね、早く入ろう」

 アスファルトから立ち上がる熱気は、もう夕方近くだと言うのに、おさまることはない。

 近くのスーパーに買い物に行っただけなのに、千華子も芽衣も汗をびっしょりかいていた。

 千華子は手早く鍵を鍵穴に入れて、回した。

 ドアを開くと、中の熱気が外に溢れ出てくる。

「芽衣ちゃん、アイスクリーム食べたいな」

「一本だけならいいって、光村さんが言っていたよ」

 芽衣の言葉に、中から流れてくる熱気に顔をしかめながら、千華子は答えた。

「香ちゃんはどうしたの?」

「今日は『園』でお話合いをするんだって」

 千華子は早足で台所に行くと、まずはテーブルの上に持っていたエコバックを置いた。

 今日の光村は、前に沖が言っていた「月イチの話し合い」に出ている。

 榎本は、図書館に幸恵と篤を連れて行っていて、千華子と芽衣は、近くのスーパーに歩いて行って、買い物をして帰って来たのだ。

 炊飯器に付いたタイマーを見ると、ちょうど夕方の四時だった。

「芽衣さん、アイスクリームは、一本だけね」

 お徳用のアイスクリームのパックをエコバックから出しながら、千華子は言った。

 袋を開けて、芽衣に好きな物を一本だけ選ばせると、それを冷凍庫にしまい、次に流しの前にある窓を開けた。

 ふわっとした風が、閉め切った部屋の熱気を押し流して行く。

「椅子に座って食べてね」

 個別包装されたアイスを開けている芽衣にそう言うと、千華子は、今度は台所を出てテレビのある部屋へと向った。

 と、その時だった。

 トウルルートウルルートウルルー

 テレビのある部屋の、玄関近くの方の入り口のすぐ傍に置かれた電話が、三回鳴って切れた。

 電話に出ようとして行きかけていた千華子は、そのまま台所の方の入り口からテレビのある部屋に入り、サッシの窓を開けた。

 レースのカーテンが風に翻り、揺れる。

 その風に乗るようにして、カタンと小さな音が聞こえた。

 千華子は、思わず天井を見上げた。

 テレビのある部屋の真上は、幸恵と芽衣の部屋がある。

 だが千華子はそのまま、テレビのある部屋を出て、台所に向かった。

「芽衣ちゃん、アイスクリーム食べたから、テレビ見ていい?」

 ちょうど芽衣がアイスクリームを食べ終わったらしく、千華子にそう話しかけてきた。

 千華子は少し考えて、

「ちょっと用事があるから、千華ちゃんの携帯で見てくれるかな」

 ズボンのポケットから携帯を出すと、それを芽衣に渡した。

 芽衣は慣れた手つきで、携帯をいじり出した。

 トウルートウルー

 玄関の方から、また電話の音が聞こえた。

 今度は、二回、鳴った。

 千華子は、目を閉じて息を吸った。

 早くしないと、芽衣だけではなくて、篤や幸恵まで帰って来てしまう。

 ……汚いものは、大人がまず見なければならないのだ。

「千華ちゃん?」

「芽衣さん、ここにいてね」

 千華子は芽衣にそう言うと、歩き出した。

 階段をトントントン、と上る。

 昼間だというのに、階段は薄暗く感じた。

 まとわりつくような、湿った黒い煙みたいなものが渦巻いているような気がした。

 けれど千華子は真っ直ぐに階段を上がり、芽衣と幸恵の部屋まで歩いた。

 カチャリと、ドアを開ける。

 一瞬、千華子は真っ黒い煙が、自分に襲い掛かって来たような気がした。

 だけど、それはすぐに消えた。

 そうして。

 千華子の目の前に広がっていたのは。

「……何をしているの?」

 反吐が出る。そう、思った。

「お前こそ、何をしているんだ!?」

 幸恵のベッドで、太った体を半裸にして愛理と抱き合っていた芳賀が、そう千華子に叫んだ。

「私は、タオルを取りに来たんです」

 怒りが全面に出る時、人は返って冷静になるのだと、千華子は実感した。

 何故に。芳賀か、ここにいるのか。

 何故、半裸で同じく半裸の愛理と抱き合っているのか。

 どんな行為をしようとしていたのかは、一目瞭然だった。

「これは、合意だ!」

 そうして、次に芳賀が言った言葉はそうだった。

「あ、愛理が誘って来たんだ!」

 千華子が愛理を見ると、愛理は千華子を見て、にやりと笑った。

「芳賀先生、この人に見られても大丈夫よ。だって、芳賀先生が雇っている人なんでしょう?」

「そ、そうだ! あんたはどうせ他に行き場はないんだろう! このことをばらさなければ、あんたはずっとここにいていい!」

 気持ち悪い。

 千華子は、そう思った。

 それは、太った半裸の体を揺らして、叫んでいる芳賀だけではなくて、芳賀に抱きしめられたまま、にやにや笑っている愛理に対しての思いだった。

 今の愛理は、「自分の部屋を持つこと」が、一番の望みなのだ。

 けれど、それは些細な野望(こと)に過ぎない。

 本当の望みは、芳賀を零落して、この「愛育園 若草の家」を、自分が望みどおりに動く場所に変えたいのだ。

 けれど。それは、とても「愚か」としか言えない手段だった。

「それは、無理だな」

 その時だった。

 千華子の後ろから、榎本の声が聞こえた。

「俺は、現役の警官なんでね。犯行現場を、見なかったふりすることはできない」

「なっ……!」

「巽君!?」

 いきなり現れた榎本に、愛理も芳賀も目を見張った。

「児童買春の現行犯逮捕、非行補導させてもらう」

 右手に縦長の警察手帳を示しながら、榎本は言った。

「何で警察がうちにいるんだっ!」

 けれど、芳賀はそれでも声を荒げて叫んだ。

「警察か誰だか知らないが、何勝手に人の敷地に入ってんだっ! お前こそ不法侵入だろうっっっ!」

「許可はもらっていますよ」

 それに対して、飄々とした態度で榎本は言った。

「芳賀さん、あんたにね」

「そんな話、わしは知らんっ!」

「いいえ。きちんとお話したはずです。警察のお話を受ける前に。書類にも、署名されましたよね?」

 と、その時だった。

 榎本の後ろから、今度は光村が現れた。

「光村、お前、会議じゃ……!」

「終わりましたよ。『用事』だとお聞きしましたけど、これが『用事』なんですか?」

 光村は、真っ直ぐに芳賀を見つめながら言った。

 その言葉の底には、怒りがあった。

「ち、違うんだっ。 愛理が誘って来て……!」

「それがたとえ事実だとしても、大人である方がこんな様を起こした理由にはなりませんよ」

 怜悧な声が、その怒りの大きさを表しているようだった。

「た、頼む、見逃してくれっ! このことがばれたら、愛育園はなくなってしまうぞ!!香、お前が育ったところがなくなってしまうんだぞ!」

「ええ。なくなりますね。でも、それはあなたのせいです」

 手前勝手な芳賀の言い分に、光村は眉一つ動かさなかった。

 けれど。

 これ(・・)は、光村が本当は一番避けたい事態だった。

『もう、愛理は持たないな』

 昨日。愛理が文句を言い放ち、部屋に戻った後。

 入れ替わりに台所に入って来た榎本が、小さな声で言った。

『……もう少し、待ってくれない?』

『それは、お前の好きにしろ。ただ、こいつには話すぞ』

 そう言って、榎本は視線で千華子の方を示した。

『仕方がないわね』

 それに対して、光村はあきらめたようにため息を吐いた。

 一方千華子は、榎本と光村という思ってもいなかった二人が、とても親し気に話すのを見て、呆気に取られていた。

『千華さん、今日はお疲れ様でした。榎さんに送ってもらって、ゆっくり休んでください』

 だがそれにも関わらず、光村はいつもの口調で千華子に言った。

 視線で榎本に「行こう」と言われ、千華子は光村の言葉に頷くと、挨拶をして榎本と一緒に、「愛育園 若草の家」を出た。

『もう、愛理をあのままにはしておけない』

 そうして。車に乗った瞬間、運転席の座った榎本は千華子にそう言った。

『あのままにしておけば、己ずと「同化」してしまう』

『「同化」?』

 車が動き出したことを感じながら、千華子は榎本に聞き返した。

『簡単に言うなら、化け物になっちまうってことだ』

『えっ……?』

 本当に簡単に言われて、千華子は目を見張った。

『それって……私を狙っている「生霊」さんと関係があるんですか?』

『普通の人間だったら、取り込まれることはめったにない。だが、愛理はあれ(・・)を受け入れることを、自分で決めたんだ』

『どういうことですか……?』

 榎本が言うことは、よくわからなかった。

『愛理は、己の中にある闇に負けたのさ』

 だが榎本は、どこか他人事のように言った。

『でも、このままじゃ愛理さん死んでしまうってことなんじゃないですか!?』

『それは、愛理の自業自得さ。拒否することだって、できたんだからな』

『なっ……』

 あまりと言えばあまりの言い様に、千華子は絶句した。

『まあ、いつもだったら、そう言って放り出すんだがな』

 けれど、次に続いた言葉は。

『香が、命がけで守ろうとしている子だからな。そういうわけにもいかない』

 千華子が、思ってもいないものだった。

『榎本さんは、「愛育園」のご出身なんですか?』

 今までの榎本の言動を考えると、それが一番納得の行く答えのような気がした。

 光村を、「香」と呼んでいること。

 そうして、愛理の気持ちを想像できること。

 光村と同じ児童養護施設で育ったとすれば、頷ける。

『香には、恩がある。できることなら、あいつが望む結果にはしたい』

 だが榎本の方は千華子の問いかけには答えずに、そう言った。

『光村さんが望むことは、その生霊さんが愛理さんから離れて、元の愛理さんに戻ることですよね?』

『一番優先するべきは、愛理の命。次にできたら、あいつの心と体が傷つかないように』

『それは……売春絡みってことですか?』

『本当に、あんたは鋭いな』

 千華子が言葉を選びながら問うと、榎本は苦笑いを浮かべた。

『香には言っていないが、明日愛理は芳賀の所に行く。……芳賀を篭絡(ろうらく)するつもりなんだろう』

『見えて(・・・)いらっしゃるん(・・・・・)です(・・)か(・)?』

 その口ぶりから、千華子は田村と同じ「力」を感じた。

『確信はない。確証もない。未来は、不安定なものだからな』

 だから、と榎本は言葉を続けた。

『香は、信じている。あの男が、正気に返ってくれるとな』

 それが誰のことなのかは、榎本は言わなかった。

 けれど、「あの男」と言うのが、芳賀であることは、まちがいなかった。

『明日愛理が芳賀を篭絡するように行動することは、香には言っていない。……まあ、薄々予想はしているみたいだが』

 榎本の声に、苦い感情(もの)が混じったと思ったのは、千華子の気のせいではなかった。

『でも、どうして明日何ですか?』

『明日は、香は「園」での会議だ。午後イチで出かける』

 以前、沖との会話で言った「月一の会議」のことなのだろう。

『それで、私はどうすればいいんですか?』

 千華子は、運転をする榎本の横顔を見つめながら言った。

 もう榎本の中には、愛理に対しての対策ができているのだ。

 千華子には、どうしていいかわからない。

 自分に付こうとしていた「生霊」に関わりがあるかもしれないが、自分には何ができるのかですら、わからないのだ。

『あんたには、第一発見者になってもらう。ヘタに幸恵や篤に見られたら、……特に幸恵に見られたら、厄介なことになる』

 それは、幸恵が「愛育園」に来た理由にあるのかもしれない、と千華子は思ったが、敢えて言うことはしなかった。

 そうして。

 榎本の予想通りー予知どおり、愛理は芳賀に迫り、芳賀は篭絡された。

 それは、光村とて覚悟していた結果だったのだろう。

 けれど、望んでいた結果ではなかった。

 最後の最後で―正気に戻ってくれないのか、と。

 そんなことを、願っていたに違いなかった。

 けれど。

 今顔を怒りで染めて、叫んでいる芳賀には、そんな光村の思いなど考えも付かないようだった。

「この恩知らずがっっっ!」

 半裸の体で立ち上がり、その瞬間、愛理の体が幸恵のベッドからずり落ちる。

「愛理さん!」

 千華子が愛理に駆け寄ろうとした―その時だった。

「馬鹿、離れろ!」

 愛理の体から、黒い煙みたいなものが出始めた。


ドウシテワタシダケ、ドウシテワタシダケ、ナンデアンタハエラソウニ、ワタシヨリモミジメナクセニッッッッッッッッッッッッッッ

 

 むくりと、愛理は起き上がった。

 だが、その起き上がった時の愛理は、()()で(・)は(・)なかった(・・・)。

(ばく)!」

 その瞬間。

 千華子は、まるで映画を見ているような感じがした。

 黒い煙のようなものを、愛理は口、鼻、耳、目から出していた。

 そうして、ゆらりゆらりと体を揺らし、千華子の方に来ようとするが、動くことができない。

(りん)(びょう)(とう)(しゃ)(かい)(じん)(れつ)(ざい)(ぜん)!」

 千華子の後ろにいた榎本は、手を動かしながらそう叫んでいた。

「な、なんなんだ!?」

 ベッドの上にいる芳賀は、後ずさる。

 愛理の表情は、生きている人間の表情(もの)ではなかった。


 ドウシテワタシダケ、ドウシテワタシダケ、ナンデアンタハエラソウニ、ワタシヨリモミジメナクセニッッッッッッッッッッッッッッ


「相田さん……?」

 どうして、そう思ったのか。

 どうして、その黒い煙みたいなものを出す愛理を見て、相田の名前を呟いたのか。

「馬鹿、名を呼ぶなっっっ!」

 「名」は、「(たい)」を表す。

 「態」とは、すなわち「魂」。

 その者の、全てを表すもの。


 つかまえたああああ!


 その瞬間。千華子は、確かにそんな「声」を聞いたような気がした


「消えた……!?」

 その瞬間。光村が呆然としたまま呟いた。

「な、何だ、何が起きたんだ!?」

 半裸姿の芳賀はベッドの上で叫んでいる。

 だが部屋には、千華子の姿も愛理の姿もなかった。

「どういうこと!?」

「連れて(・・・)行かれた(・・・・)」

 つまりは、そういうことだった。

 めったにないことだが、違う世界へと、千華子と愛理は連れて行かれてしまったのだ。

 思っていた以上に、力を付けていたようだった。

 榎本は、ぐしゃりと前髪をかき上げた。

「どうするの……?」

 光村が―香が、声を震わせて尋ねて来る。

「追うさ」

 どのみち、それが自分の役目だった。

 自分のような「力」のある者達が集うあの部署が、担う案件なのだ。

 もともと、あの子どもの殺人代行を募集サイトには、不可解な部分が多すぎた。

 まずは、「感染」するのがあまりにも早すぎた。

 千華子が見つけた時、あのサイトはまだ開いて三日ぐらいしか経っていなかった。

 それなのに、瞬く間にあのサイトが関係していると思われる事件が、日本各地で立て続けに起きたのだ。

 子どもの殺害を依頼する側と、受ける側。

 どちらとも、冗談では済まされない事をしようと言うのに、あまりにも、話は簡単に進みすぎている。

 たいていの人間ならば、「子どもを殺す」ことには、躊躇するだろう。

 だが、サイトを見て、依頼した者も依頼を受けた者も、まるでそうすることが当然のように、話を進めて行ったのだ。

 そうして、もう一つ。

 あのサイトを閲覧した者達の中から、行方不明者が出ているのだ。

 それも一人二人ではなく、十数人という数である。

 その中には、ナツの―夏生の母親でもある、天野美恵も含まれていた。

 こうやって、千華子と愛理が消えたのを目の当たりにして、彼らの行き先は、現実の世界でないことは、はっきりとした。

(若葉……)

 榎本は、あどけない表情で笑う幼馴染を一瞬脳裏に描いた。

「おい、いい加減にお前達どうにかせんかっ!」

 だがその姿は、横柄に叫ぶ声に掻き消された。

 榎本は、半裸のまま、ベッドの上でふんぞり返る芳賀を見つめた。

 自分が「愛育園」にいた頃、この男はまだまともだった。

 こんなに禍禍しい「気」をまとってなどいなかった。

 警視庁が、この「愛育園 若草の家」を千華子の証人保護プログラム先に選んだのは、偶然ではない。

 芳賀はもともと、公的な資金を不正に流用していた。

 子ども達のために使うはずのお金を、自分のために使っていたのだ。

 警視庁は、そのことを不問にする代わりに、千華子の潜伏先の提供を求めた。 だがそれは、芳賀がそのことに味を占めて、新たなる不正及び罪を犯した時、現行犯逮捕できるようにとの、裏工作の意味もあったのだ。

 ただ、千華子の関わる事件の内容が内容だったから、警視庁の一部の人間しか知らず、「裏」と呼ばれる部署の自分が、潜伏することになったのだ。

「おい光村、さっさとせんか!」

 そうして、芳賀は自分のしでかしたことも忘れて、横柄に香を呼び付けようとした。

 この男は、「変わらない」と思っているのだ。

 これからも今までのように公的なお金を自分のために使い、誠実に働いてきた職員が自分のために働くと、信じて疑わない。

 自分がこの「愛育園」を卒園した後、この男に、何があったのか。

 ふいに、榎本はそう思った。

 だが、それも一瞬のことだった。

 香が嫌悪の表情で芳賀を見つめ、それに対して芳賀が怒鳴ろうとした瞬間。

 榎本は、芳賀の頭を確実に狙い、昏倒させた。

「香。後のことは頼んでいいか?」

 振り返りながら香を見ると、香は青ざめた顔のまま、こくんと頷いた。

「とりあえず、俺の部署の奴に連絡を取る。芳賀(こいつ)は縛っておくから、そのままにしておけ」

 すぐに仲間達は動くだろう。

 芳賀は現行犯逮捕されたのだから、そのまま縛っておくのには問題はなかった。

 優先すべきことは、あれ(・・)を追うことなのだ。

「ただ、意識が戻ったら厄介だからな。何だったら、応援が来るまで、芽衣を連れて出かけているか?」

「そうね。どうせ篤君と幸恵ちゃんを迎えに行くつもりだったから、芽衣ちゃんも連れて行ってくるわ」

 榎本の言葉に、香は頷いた。

「わかった。じゃあ、鍵をかけないまま出かけていろ。対応は、こちらでやっておく」

 子ども達に、見せたい代物ではない。

 榎本の言葉に、香は頷いた。

「気をつけろよ」

「あなたもね。どうやって、あの子達がいる場所に行くつもりなの?」

 自分を気遣う言葉に、榎本は小さく微笑んだ。

「心配ない。案内人がいるからな」

 そうして、後ろを振り向く。

 そこには、メイド姿の若い女性が立っていた。



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