11 融解(ゆうかい)
#融解―固体が融けて液体になる現象
「初めまして。榎本巽と申します」
翌日。「愛育園 若草の家」に出勤した千華子は、新しく入った職員に、挨拶をされた。
「烏丸さん……?」
その男の顔を見て、思わずそう呟いてしまった千華子に、その男はけげんそうな顔になった。
「瓜生さん?」
その隣で男を紹介した光村も、きょとんとした顔になる。
「この人は、烏丸さんとは、全然似ても似つかないじゃない」
確かに、この榎本と名乗った男は、髭を生やして、頭もスキンヘッドでワイルド!っていった感じの人だった。
真面目な公務員です、と言った外見だった烏丸とは似ても似つかない。
だけど。そう、だけど。
何と言って良いのかわからないが、印象が、重なるのだ。
そうして。
多分、それはまちがっていないように千華子は感じた。
確証はないし、それを証明する方法もない。
けれど、榎本は烏丸なのだ。
それは、気のせいなんかではない。
「そんなに、よくある顔ですかね?」
一方、榎本の方はぽりぽりと頭を掻いている。
「すいません、勘違いしちゃって」
とりあえず、千華子はぺこりと頭を下げた。
今は詮索をする時ではないのだ。
多分、このまま何もないままにはしないだろう、という予感もあった。
だから。
今はとにかく、周りに合わせることにした。
「あ、いえ。自分けっこう強面って言われているんで、違う意味でびっくりしました」
はきはきした声は、烏丸のものとはあまり似ていないようにも思える。
だが、声の質は同じ性質だ。
「彼」は、いったい何者なのだろうか?
「でも、篤君が早速懐いていたから。まちがいないでしょ」
榎本の言葉に、横のテーブルの席に座った光村が笑う。
「とりあえず、しばらくはこのメンバーでやっていきますから、よろしくお願いします」
そうして、そう言葉で締めくくった。
「それじゃあ、早速千華さんは洗濯物と部屋の掃除をお願いします。巽君は、篤君の宿題を見てください。それが終わったら、部屋の掃除をさせて。私は、必要な書類を仕上げるために、更衣室にいますから」
「あ、はい」
「はい、わかりました」
てきぱきと支持を出すと、光村は椅子から立ち上がった。
続けて、千華子達もテーブルの椅子から立ち上がり、それぞれの仕事へと向かった。
千華子は、まず風呂場近くに置かれている洗濯機の前に行った。
それから、洗濯籠の中にある、山と積まれた洗濯物を前にして、洗濯物を分け始めた。
とりあえず、白物と柄物・色物を分けて、まずは白物を先に洗うために、全自動洗濯機の中に入れる。
と、ふとその中に、「友永悠馬」と書かれたバスタオルが入っていたのに気付いた。
『悠馬君に必要なのは、療育です』
あの時。
悠馬と会った後に号泣した千華子に、佐々木はそう言った。
『どうしたら、人と上手く付き合っていけるのか。どうしたら、上手く自分の気持ちを伝えられるようになるのか。それを、あの子は学ばなければなりません』
そうして。
こうも、言葉を続けた。
『しかし、今のままですと十分な療育は受けられません。児童養護施設にいる悠馬君は、受けられる療育が限られています。また、積極的に療育を受けさせたくても、それに割く時間も、今の施設の職員の人達にはありません。だから、自宅に帰ることを優先したんです。お母さんも看護師として働きだして、生活も落ち着いて来たし、これなら悠馬君を家庭に帰して、療育を受けさせることができる、と判断しました』
だけど。
悠馬の母親は、拒否をした。
既にいらなくなっている子どもと共にまた生活をするなど、彼女にとっては考えられないことだったのだ。
『あんなことになりましたが、それでも、悠馬君の人生は続いていきます。あの子には、必要な物を学べる環境が急務で必要だと、我々は判断しました』
佐々木は、とても誠実な人柄だった。
泣き続けるしかなかった千華子に、穏やかな声でそう話してくれた。
実際問題として、悠馬はこれから取り調べも受けなければならなくなる。
もちろん警察も配慮はしてくれるだろうが、それでもただでさえ「母親が自分の死を望んだ」という重荷を抱えた悠馬には、多大な負担だろう。
それを受け入れて、悠馬の心をケアしていくのには、千華子達の力では無理なのだ。
適切な処置ができる場所に、悠馬は行くべきだし、またそうすることでしか、きっと前に進めない。
けれど、考えることを止めてはいけないのだ。
何故、悠馬と悠馬の母親がそうなってしまったのか。
どうすれば、良かったのか。
「ねえ。早くしてくれない? 私、洗濯したいんだけど」
と、その時だった。
尖った声で千華子はそう言われた。
それは、何枚かの洗濯物を持った愛理だった。
「ああ、これを回してしまうから、もうちょっと待ってくれる?」
千華子は愛理に返事をしながら、棚に置いてある洗剤を手に取った。
「私、急いでいるから。先にさせてもらえない?」
「それは駄目よ。愛理さん達は、夜のうちに洗濯するのが決まりでしょう?」
そうして、ピッと全自動洗濯機のボタンを押して、洗濯物を始めた。
「じゃあ、一緒に洗って」
「それも駄目。とにかく、洗濯物が終わるまで待って」
「愛育園 若草の家」では、中学生になったら自分の服は自分で洗うことになっている。
そうすると、洗濯機が空いている時間を見つけて、洗濯をしなければならなくなる。
だから、愛理や幸恵は、夜のうちに洗濯をやっておくことになっていた。
「何よ、ケチね!」
しかし、愛理はその瞬間尖った声を出した。
「どうしても洗濯したいのなら、光村先生に許可をもらってくれる?」
だが、決まりは決まりである。
千華子の一存では変えられないのだ。
それは、愛理もわかっているはずなのに。
「うるさい、このくそばばあ!」
「私が『ばばあ』の歳になっている頃は、愛理さんもそれに近い歳になっているわよ?」
千華子は愛理の暴言に、そう返した。
だが、そうなのである。
千華子と愛理の歳の差はだいたい干支一つ分だ。千華子が「ばばあ」と呼ばれる歳になった頃は、彼女もそれに近い歳になっている。
「黙れ、デブ!」
「それも言わない方が良いわよ。二十年後は、自分もそうなっている可能性が高いから」
さらにそう言って、千華子は風呂場へと入った。
そうして、シャワーを手にとって、蛇口をひねる。風呂場の掃除を始めていると、足音荒く愛理は立ち去って行った。
やれやれ、と千華子はため息を吐いた。
愛理の状態も、あまり良くないようだった。
それはそうだろう。
愛理が言い放った言葉が悠馬を追い詰めたのだし、そもそもの犯人は、愛理の同級生だ。
「ひー君」に、愛理が悠馬のことをどれだけ話したかはわからないが、愛理自身もこの件に関しては、自分にも関わりがあることは、わかっているに違いない。
これは、光村に相談した方が良いな、と思いながら風呂の掃除をしていると、ふと人の気配を感じて、千華子は振り返った。
「すごいですね」
風呂場の出入り口に、榎本が立っていた。
「子ども相手にあんなこと言われて、腹が立ちませんか」
「子どもですから」
千華子は、榎本に背を向けて風呂掃除を始めた。
「あまり刺激しない方がいい。彼女も、関係者の一人だ」
だけど、次の瞬間そう言われて、千華子は振り返った。
そこには、千華子が知っている「顔」をした榎本がいた。
「榎本さん……」
「子どもは、いつまでも子どもじゃない。甘くみることはしないことだ」
榎本はそう言うと、風呂場から離れて行った。
千華子は、その彼の後ろ姿を見つめた。
やはり、榎本は烏丸だったのだ。
だがあっさりと、あちらはそのことをばらして来た。
そこに、どんな意味があるのか。
千華子は、ため息を吐いた。榎本は烏丸と同一人物だとわかったが、それが何を意味するのかは、わからない。
どうして、彼はこの「愛育園 若草の家」に入り込んでいるのか。
彼の正体は、いったい何者なのか。
そして、光村はこのことを知っているのか。
いや。
一番の問題は、「彼」は、いったい何を求めているのか。
何が欲しくて、ここにいるのか。
それなのだ。
最初は児童相談委員として、次は児童指導員として、彼は入り込んで来た。
そして、その前は「通りすがりの人物」として、千華子の前に現れている。
彼の狙いは、自分なのか。
それとも、この「愛育園 若草の家」なのか。
そうして、そこまで考えて、ふと気付いた。
そもそも、普通の児童養護施設が、どうして警察が関わる「証人プログラム」の潜伏先になるのか。
もしかしたら、ここは、何か警察に「借り」があるのかもしれない。
それは、どんな「借り」なのか。
だがそこまで考えて、千華子は頭を振った。
今、そんなことを考えている時ではないのだ。
それよりも先に風呂掃除を済ませて、さっきの愛理の様子を、光村に報告するべきだった。
考えるのは、帰った後にしよう。
千華子はそう思うと、洗剤が付いた風呂場の壁を、ざっとシャワーの水で洗い流した。
だが、帰った後で考えようと思っていた千華子は、帰るなりぐったりしてしまった。
東京に来てまだ一週間なのに、かなりハードな日程と、ハードな出来事が立て続けに起こっているのだ。
疲れていても無理はなかった。
『だいじょうぶ』
フローリングの床に転がっていると、いきなりナツ用の小型パソコンが現れて、ワードの画面にそう言葉を打ち出して来た。
「さすがに疲れたかなあ……」
その画面を見て、千華子は小さく呟いた。
「でもまあ、休めば大丈夫だよ」
だがナツを心配させないために、そう言葉を続ける。
しかし、体をゆっくり休ませたくても、明日には夜勤が入っている。
その夜勤が終わった明々後日が、千華子にとっては初の休日となる予定だった。
傍目から見てもかなりハードな勤務だとは思うが、光村はそれ以上にハードなのだ。
毎日、夜勤をしているようなものである。
そして、一緒に働くのは、まだ働き出して一週間も経たない千華子と、昨日来たばっかりの榎本である。
光村の負担は計り知れなかった。
光村は、「良いも悪いもない」と言っていたが、それでも、「勘弁して」と思うのが本音かもしれなかった。
「ご飯食べて、レイキの仕事の準備しなくっちゃ」
そう声をかけてみるが、なかなか起き上がることができない。
まずいなあ、と思った。
「愛育園 若草の家」の仕事は、千華子が思っている以上に大変になりそうだった。
確かに、警察から斡旋された「仮の仕事」とは言え、今の千華子は「愛育園 若草の家」に雇われている職員だ。
その仕事場が今、とても大変な状況に陥っている以上、千華子自身も大きな負担を覚悟しなくてはいけないだろう。
そうなると、レイキの仕事は、「愛育園 若草の家」が落ち着くまでは、あまり依頼を受けない方が良いのかもしれない。
「依頼、今のところで一回ストップするしかないかなあ……」
千華子にレイキを申し込む人達は、「癒し」を求めている。
その人達を癒すためには、やはり千華子自身が、きちんと落ち着いた状態でなければならない。
今レイキを送っているのは、四人だった。
それ以上の人数はさばききれないので、後の人達は順番に待ってもらっている。
千華子のレイキヒーリングのサイトでは、最長で二十日間までレイキを送ることができる。
そうして、大部分の人達が、その二十日間のレイキを申し込んで来ていた。
今ですら、一ヶ月以上、待ってもらっている人達がほとんどなのだ。
「新規の依頼は、ストップするか……」
そう呟きながら、千華子は起き上がった。
二十日間のレイキを送っている人達は、あと数日でいったん終了する。
新規の依頼をストップして、今申し込んでいる人達を、二人ずつレイキを送るようにしていけば、少しは負担が減るだろう。
『ごはん』
ナツ用のパソコンには、そう言葉が打ち出された。
これは、ご飯を催促しているわけではなくて、「ご飯食べないと」と言いたいらしい。
「とりあえず、今日はシャケのおむすびと、インスタントのみそ汁ですませようか」
ずりずりと体を起こしながら、千華子はそう呟いた。
教員を辞めてから、ご飯を作らない日はほとんどなかったというのに、それだけ、疲れが一気に来たということなのかもしれない。
『ぼくもいる』
そうして、ナツ用のパソコンには、そんな言葉が打ち出される。
それを見て、千華子は小さく笑った。
「はいはい、わかっていますって」
立ち上がりながらそう言うと、冷蔵庫の方へと行った。
それから冷凍庫を開けると、昨日炊いたご飯を入れた、タッパーを取り出す。
それを、冷蔵庫の上に置かれた電子レンジに入れて、「解凍あたため」のボタンを押した。
次に冷蔵庫を開けると、瓶に入ったシャケを取り出して、流しの上に置いた。 ガスコンロの上に置いたヤカンに水を入れて、お湯を沸かす。
適応障害になった時は、ご飯も食べられなかった経験から、千華子はどんなに疲れていても、ご飯はしっかり摂るようにしていた。
食べられる間は、まだ大丈夫。
それは、経験から来る確信だった。
ピピッと、電子レンジが、温めが終わったことを知らせると、千華子はボールの中にご飯とシャケを入れて、それをしゃもじで混ぜた。
それらを適当に分けると、おにぎりを作って、皿に盛る。
小さめな皿には、おにぎりを二個載せた。
「できたよ、ナツ」
両手に皿を持って、小さめの皿をナツ用のパソコンの前に置いた。
『ありがとう』
「ぼくもいる」の隣に打ち出された言葉に、千華子は微笑んだ。
「さて、さっさと食べて、予約のお断りのお知らせをアップしないとね」
そうしてそう呟いて、シュンシュンと鳴っているやかんの方へと歩き出した。
そこは、ふわふわとした場所だった。
いつも自分はふわふわと浮かんでいるけれど、そこは、ふわふわと動いていた。
―ここ、どこ?
―坊主、付いてきたのか!
びっくりしたように、「にんじゃの人」が言った。
―迷い込んで来たのね。
「にんじゃの人」の傍には、「ひめおねえちゃん」もいた。
―何をしているの?
「ひめおねえちゃん」に、自分はそう聞いてみた。
―悪い人を、追い返しているの。
そう言って、「ひめおねえちゃん」は、自分の傍に来た。
―わるい人?
―あ、違うな。
「ひめおねえちゃん」は、前を見た。
―哀しい人を、追い返すのよ。
―来るぞ、姫!
「にんじゃの人」がそう叫んだ時、それ(・・)は来た。
ドウシテワタシダケ、ドウシテワタシダケ、ナンデアンタハエラソウニ、ワタシヨリモミジメナクセニッッッッッッッッッッッッッッ
―なに……?
それは、とても怖い物だった。
ゴオオオーという音と一緒に、自分達の方に近づいてくる。
ナンデナンデナンデ。ドウシテドウシテドウシテ。ナンデワタシダケワタシダケワタシダケ……!
パーン!
それ(・・)を、「にんじゃの人」が、刀で叩く。
そうすると、それ(・・)はすぐになくなってしまった。
―あれは、何?
自分は、「ひめおねえちゃん」にそう聞いた。
―あれも、人のなれの果て。自分の思いに夢中になって、人を恨むことしかできなくなっているの。
―おねえちゃんを、うらんでいるの?
「ひめおねえちゃん」の言ったことを聞いて、どうして、と思った。
「おねえちゃん」は、とても優しい人なのに。
―八つ当たりじゃ。
すると、「にんじゃの人」が、怒ったように言った。
―己が不満を、あの方にぶつけて解消しようとしているのじゃ。それで、何も解決はすまいと言うのに。
―おねえちゃんが嫌いなのかな?
―あの子が、綺麗に見えるの。だから、憎く思ってしまうの。
歌うように、「ひめおねえちゃん」は言った。
―どうして?
そんな「ひめおねえちゃん」に、自分は聞いた。
―どうして、その人には、おねえちゃんはきれいに見えるの?
不思議だった。
自分にとって、「おねえちゃん」は、「おねえちゃん」だった。
明るくて、優しくて。
だけど、どうしてそれが、「きれい」に見えて、憎らしくなってしまうのか。
―自分にはできない、と思い込んでしまっておるのじゃ。同じ穴のムジナだと思っておるのじゃろう。
でも、そう教えてくれたのは、「ひめおねえちゃん」じゃなくて、「にんじゃの人」だった。
―うーん???
「にんじゃの人」の言葉は難しくて、自分にはよくわからない。
―ナツは、自分にできないことをお友達ができたら、うらやましいと思ったことはなかった?
すると、「ひめおねえちゃん」が、今度はそう言ってきた。
―うーん……。よくわかんない。
そう答えると、「ひめおねえちゃん」は、にこっと笑った。
―戻ろうか。ここ(・・)は、我々には馴染みやすい場所じゃが、長くいるべき場所ではない。
「にんじゃの人」が、そう言った。
―そうね。
それに、「ひめおねえちゃん」もこくんとした。
そうして、自分は、またふわりと浮かんだ。
ふわふわと、まるで風船みたいに動きながら、自分は「ひめおねえちゃん」に手をひっぱってもらって、どこかに向かって行く。
―ひめおねえちゃん、ここはどこ?
「ひめおねえちゃん」に引っ張って行かれながら、自分は聞いた。
―ネットの中よ。
―ねっと?
―そう。ここは、たくさんの人達が集まる場所。そして、たくさんの人達の思いが置いていかれる場所でもあるの。
「ひめおねえちゃん」が言うことを聞いて、まわりを見ると、そこには何かぐるぐると回りながらうかんでいた。それはよく見てみると、「あ」と「ほ」だった。
でも違う場所には、ハートの形をしたものがふわふわと浮いている。
けれど、「死ね!」と言う自分には読めない文字がそのハートの形をしたものを、まるで流れ星のように当たって落とした。
―いやだ、ここ。
それを見ていると、何だか嫌な気持ちになった。
―そうね。あまり、良い場所ではないわ。ここは、人の思念が溜まりすぎているから。
自分が言ったことを聞いて、「ひめおねえちゃん」はそう言った。
だけど。自分が「いやだ」と思うのは、それだけじゃなかった。
胸が、苦しいのだ。
まるで息ができないように苦しい。
そうして。急に、思い出したのだ。
―ひめおねえちゃん。
―どうしたの?
―僕、ここ前に通ったことがある。
「ひめおねえちゃん」にそう言ったら、「ひめおねえちゃん」と「にんじゃの人」は、自分の顔を見つめてきた。
目が覚めたら、朝だった。
フローリングの床に、直接横になって眠っていた千華子は、頭を掻きながら起き上がった。
「眠っちゃっていたのか……」
省エネモードになったパソコンを見ると、時刻は朝の五時だった。
帰ってからご飯を食べて、ホームページで新規の受付をしばらく止めることを知らせる作業をして、レイキを送る作業をして、といったことをしたのは覚えているから、眠ったのは、夜の八時ぐらいなのだろうか。
「とりあえず、お風呂入りますか」
そう呟きながら、千華子は一度、パソコンの電源を切った。
お風呂も入らないまま眠ったから、体がべたべただった。
千華子は、バスルームの方に行くと、お湯を溜めるために、シャワーの蛇口を捻った。
このマンスリーマンションは、バストイレ型だ。
気になる人もいるようだが、千華子はあまり気にするタイプではなかった。
ようは、清潔に使うようにすれば問題はない。
仕事には、八時に出れば良いから、それまでは家事をこなそうと、千華子はキッチンの方に向かった。
ご飯を炊く必要があったなあと思いながら、冷凍庫を開けると、案の定、冷凍しているご飯のストックは切れていた。
流しの下に置いた米袋から二合米を出して、釜に入れた。
それからお米を洗って、炊飯器にセットする。
その後、千華子はお風呂場へと戻って、蛇口を閉めた。
クロゼットになっている場所から下着を出して、洋服も出す。
それを持って風呂場に行きながら、いつもだったら、小型のパソコンがどこかしこに現れるのに、今日は現れないことに気付いた。
あれ?とも思ったが、いつもより早い時間帯である。
もしかしたらまだ眠っているのかもしれない。
千華子はそう思って、お風呂場へとまた向かった。
お風呂場のすぐ近くにある全自動洗濯機に脱いだ服と洗剤を入れて、スイッチを押す。
湯船に浸かりながら、夜勤の用意をまだ全然していないことに気付いた。
「いっけない!」
慌てて湯船から上がると、頭と体を洗い、湯船に浸かりながら歯を磨き、バスタオルで体を拭きながら風呂場を出た。
「今日の分のレイキを送っておかないと」
今日は夜勤なので、当然レイキを直接相手に送っている暇はない。
先に、レイキの送る時間を指定して、送っておかなければならないのだ。
レイキを送った後は、レイキを送っている時の様子や感じたことを、その日の内に相手へメールで送るようにしているし、レイキは毎日一人十五分間ずつ送っているから、最低でも一時間は必要とする。
となれば、出勤時間までは二時間半ちょっと。ぽやぼやしている時間はないのだ。
千華子は、髪の毛をタオルで軽く拭くと、ドライキャップに髪の毛をまとめて包み、化粧水をつける前に、パソコンの起動ボタンを押した。
パソコンが起動をしている間に化粧水と乳液をつけて、ついでにクロゼットから、夜勤用のバックを取り出した。
そこには、夜勤の時に必要な道具が、もう入れてあった。
先日の夜勤の時に使った道具を、そのまま入れて置いたのだ。
宿泊用の携帯用の化粧道具と櫛が入っているのを千華子は確認すると、そこにクロゼットから出した下着と、着替えの洋服、バスタオルを入れた。
そしてバックの口を閉めると、ベッドの上にぽんっと置く。
電源の入ったパソコンの前に座ると、レイキを送る作業に入った。
しばらくはその作業に集中していたが、ピーピーピーと、ご飯の炊き上がったことを知らせるアラームが鳴ったとたん、我に返る。
気が付くと、パソコンの時計の数字は、六時半になっていた。
「うわ、やば!」
千華子は、最後の一人へのメールを急いで書き上げると、送信ボタンを押した。
そうしてパソコンの電源を落とすと、立ち上がって、炊飯器の方に行く。
炊き上がったご飯をタッパーに入れていると、
『シャケ』
と、そんなワード画面で文字を打ち出した、パソコンが、冷蔵庫の近くの床に現れた。
「おはよう、ナツ」
千華子は、笑ってそう言った。
東京に来てからの朝は、毎日こんな感じだった。
千華子が起きて朝御飯を作っていると、ナツ用の小型パソコンが現れて、朝御飯の内容を指定して来る。
―お母さん、今日のお味噌汁には、豆腐入れてね!
―おはよう、千華子。
その瞬間。
幼い自分の姿が、ナツのパソコンと重なった。
千華子が当たり前と思っていたこと。
そして、今では何気なくやっていること。
それは、本当に何気ないことだった。
何気なく過ぎて、考えたこともなかったことだった。
そうして、ふと「愛育園 若草の家」にしばらく泊まると言った光村のことを思う。
今の時間帯は、勤務が始まった時間だった。
光村はあの台所に立って、朝御飯を作っているだろう。
あの頃の千華子と同じようなことを、芽衣や篤がしているのかもしれない。
悠馬と野間が突然いなくなって、子ども達は何も聞かないけれど、薄々事情は察しているみたいだった。
特に最年長の愛理や中学三年の幸恵は、「何があったか」を察するには十分な年齢だ。
だからこそ、光村はこんな「何気ないこと」を子ども達に見せたくて、泊り込みを続けることにしたのかもしれなかった。
千華子とて、今やっていることは、東京に来る前の生活とほぼ同じだった。
出勤時間が少し早い以外は、前の生活とあまり変わらない。
だから、「証人保護プログラム」を受けているとは、時々忘れてしまいそうになる時がある。
多分、非常時だからこそ、「日常」にやることが大切になるのだろう。
そう、千華子が思いながらシャケおにぎりを作っていた時だった。
ポーンという音が、聞こえた。
あれ?と思ってパソコンを置いたテーブルを見ると、何故かパソコンの画面が明るくなっていた。
「あれ……?」
千華子が使っていたパソコンは、さっき、電源を消したはずである。
しかし、おにぎりを小皿の上に置いて、テーブルの上に置いてあるパソコンに近づくと、画面が明るくなっている。
そうして、その画面に写っていたのは。
黒い…真っ暗な画面に、白い太字で、
「あなたの子どもを殺します。―依頼・代行者募集中」
前にも見た、ホームページの画面だった。
「何、これ……」
千華子は、その画面を見て呟いた。
何故、この画面が今現れるのか。
このサイトは、プロパイダーが閉鎖したのではなかったのか。
「……誰?」
けれど、次の瞬間。
千華子は、そう呟いた。
パソコンの向こう側に、誰か(・)が(・)いた(・・)。
―おねえちゃん!
パシーンと、ナツの声と共に、その誰か(・)が弾き出される。
「何……?」
はっとなってパソコンの画面を見ると、そこには、何も映っていなかった。それどころか、電源が切れていた。
「ナツ……誰が(・)いた(・・)の(・)?」
さっきのは、いったい何だったのか。千華子はそう思いながら、ナツに尋ねた。
『こわいひとがいた』
そうして、打ち出された言葉は。
千華子は、東京に来る前に、同じようなことがあったことを思い出した。
そう。
あれは、まだ中国地方の街にいた頃。
相田の肩に見えた、歪んだ顔。あの時、ナツは泣きじゃくって、田村のところに行っていた。
「ナツは……怖くなかった?」
千華子がそう聞くと、パソコンの前で頷いたような気配があった。
『こわいひとはこっちにはこれない』
どうやら、その「怖い人」は、パソコンの向こう側までは来ているが、千華子達の部屋には来られないらしい。
「前に見たことがある人だった?」
『わかんない』
だけどこの問いには、ナツはそう答えた。
「そっか……」
千華子はため息を吐くと、流しの方へと戻った。
そうして、もう一つシャケのおにぎりを作る。
それを小皿に置くと、
「とりあえず、ご飯食べよう」
とナツに言った。
小皿を二つ持ってテーブルの方に行くと、ナツ用の小型パソコンは、テーブルの上に移動していた。
「早いね、ナツ」
千華子は笑いながらそう言って、ナツ用のパソコンの前に、シャケのおにぎりが二つ載った小皿を置いた。それから自分用の皿を、その隣に置く。
「先に食べててね」
ナツに声をかけると、今度は食器棚に置かれたポットの前に行き、棚からコップを出して、インスタントコーヒーを入れた。
そこにポットのお湯を注ぎながら、相田のことを思った。
相田は、どういうわけか千華子に「悪意」を向けて来た。
その理由は何なのかは、未だにわからない。
『考えられないかもしれませんが……人は、時として理不尽な理由で他人に恨みを抱くものなんです』
戸口が、そう言っていたことを思い出す。
千華子にとっては「わからない」ことでも、相田にとっては、十分な理由だったのかもしれない。
だが、あの子どもの殺人代行のサイトと相田を繋げるのは、早計なような気がした。
確かに今時の人だから、パソコンでネットなどもしているかもしれない。
だけど、パソコンでホームページを作っているタイプには思えなかった。
「……」
そこまで考えて、千華子は頭を振った。
自分だけの「予想」で物事を考えても、それは確証のない「予想」でしかない。
そんなものに振り回されても、良いことがあるとは思えなかった。
千華子はため息を吐くと、コーヒーを入れたカップを片手に、テーブルの方へと戻った。と、その時だった。テーブルの上に置いたままにしていた、携帯の着信音が鳴る。
まだ早い時間帯なので、何だろうと思いながら着信の画面を見ると、加藤からだった。
加藤の携帯番号は、東京に来た初日に教えてもらっている。
仕事用の物かもしれないが、千華子は電話帳に登録していたのだ。
「はい」
『あ、瓜生さん。朝早くにすいません。加藤です』
「起きていたから大丈夫ですよ。何かあったんですか?」
『実は昨日の夜もお電話したんですが、出られなかったんで、出勤前にお話した方が良いと思ってお電話しました』
昨日は爆睡していたので、携帯が鳴ったことも気付かなかった。
「すいません。眠っていました」
『お話は聞いています。ただ申し訳ないんですが、本日はこちらに来ていただきたいんです』
慌てて謝った千華子に、加藤は用件を切り出して来た。
「ええと、それは、仕事を休んでってことですか?」
『はい。「愛育園」の方には、話を通しています。先日、瓜生さんが児童相談所の方に通報してくださった件でお話を伺いたいのです』
「もしかして……加藤さんと一緒に会った、あの子のことですか?」
『ええ。くわしいことは、そちらに伺った時にお話します。どのみち、現場検証に行かなければならないので』
だが、話は別の場所でする、ということなのだろう。
「わかりました」
だが、「はーちゃん」の件がこれで解決するならば、と千華子は思い加藤の言葉に頷いた。
ただ。
何故、わざわざ「はーちゃん」については、違う場所で話をしなければならないのか。それがとても気になった。
何か。大きな事件が絡んでいるのかもしれない。そんな予感がした。
そうして。
それは、当たっていたのである。
★
「行方不明?」
舞鶴市の警察署で。
千華子は、加藤の言葉を聞いて目を丸くした。
「はい。あの子の名前は、『あまのはづき』と言って、母親と兄と一緒に暮らしていたみたいです。母親の『天野美恵』……天の野原に、美しき恵みと書くんですが、不動産との契約書には、そのように書いてありました」
会議室らしい部屋のテーブルの向かい側の席に座った加藤は、そう千華子に説明してくれた。
「不動産会社の方には、一人で住むと言っていたみたいで、子どもがいるとは知らなかったみたいですね」
「でも……それ、本名何ですか?」
千華子は、疑問に思ったことを聞いてみた。
たいていの場合、そういった「秘密」持った人間は、本名は名乗らない。
「確認は取りましたが、まちがいないようです。ただ……」
「もしかして……」
言葉を濁す加藤に、千華子は思い当たった。
「ええ。出生届けが出してありませんでした」
つまり「はーちゃん」の母親は、戸籍上では子どもがいない、ということになっているのだ。
「じゃあ、お兄ちゃんとお母さんが行方不明ってことは……」
千華子は、絶句した。
加藤によれば、昨日、児童相談所の職員の人が、千華子がいるマンスリーマンションを管理する不動産会社に連絡して、部屋を開けたそうである。
そうして、中に一人、幼稚園ぐらいの女の子が倒れていたらしい。
それが、「はーちゃん」だった。
「はーちゃん」は意識不明で倒れてはいたものの、命に別状はなく、病院に運び込まれて数時間後には意識を回復し、ご飯も一人で食べられるようになっていたそうだった。
それでわかったことは、「はーちゃん」の名前が「あまのはづき」と言うことと、最初は兄と母親が一緒にいた、ということだった。
「はーちゃん」を遺棄して、母親は兄を連れて出て行ったとも考えられるが、出生届けを出さないような母親である。
もちろん偏見はいけないが、それでも、嫌な予感は拭えない。
まして、わざわざ加藤がネグレルトされた幼児一人のために、舞鶴市の警察署まで千華子を連れてくる理由は。
「もしかして……あのサイトが関わっているんですか?」
はっとなって、加藤に尋ねると、
「察しが相変わらずいいですよね……」
と、加藤はため息を吐きながらそう言った。
「そうです。お察しの通り、あの部屋に置いてあったパソコンには、あのサイトに接続したログがありました。はづきちゃんの母親は……」
―助けて。
その瞬間。
差し出される手が、千華子には見えた。
その手は、濡れていた。
水の中に沈もうとしている子が、千華子に向かって手を伸ばしている。
―ワタシヲコロサナイデ。ワタシハウマレテキタイノ。ママ、ワタシヲコロサナイデ!
―暑い。乾く。寒い。暑い。暗い。寒い。喉が渇く。ママ。何、これ。暑い。出られない。乾く。暗い。ママ。冷たい。乾く。助けて。助けて。お願い、助けて。
次に、声が聞こえた。助けて欲しくて、死にたくなくて、必死に叫んでいた子ども達の声が。
―死にたくない!
「瓜生さん!?」
それは、心からの叫びだった。
誰だって、死にたくない。生きていたい。
それは、幼い子どもでも同じだった。
それなのに、どうして死ななくてはならなかったのか。
「瓜生さん、しっかりしてください!」
その生死を決める権利が、手をかけた者達にあったのか。
何度でも、繰り返す問い。
―助けて! 誰か助けて!
水の中から手を差し伸べる子は、男の子だった。
小さな、五歳くらいの男の子。
どこか、「はーちゃん」に似ている、と千華子は思った。
「考えても、仕方ないわよ」
真っ白い中で、そんな声が聞こえた。
「子を殺す親は、いつだっているわ。あの子達が、特別だったわけじゃない」
「声」は、静かにそう言った。
それは、千華子もわかっていた。
けれど、考えてしまうのだ。
「死にたくない」という子どもの叫びを聞く度に。
どうして、この子達は死ななければならなかったのか、と。
「それは、わからない。誰にもわからないわよ。だから、千華ちゃんが考えても、やっぱりわからないわよ。どんなにあの子達の『声』を聞いても、答えは見つからないわ」
決して「運が悪かったから」と言わない「声」の持ち主を、千華子は知っていた。
「帰っていらっしゃい、千華ちゃん」
そうして。
その言葉と同時に、千華子は目を開けた。
「先生……」
「気が付いた?」
そう言って、パイプ椅子に座った田村は、サングラス越しに微笑んだ。
「先生、どうしてここに」
そう言いながら起き上がった千華子は、自分が知らない部屋で眠っていたことに気付く。
「大丈夫? ここは警察署の医務室だから、慌てなくても大丈夫よ」
「私……倒れたんですか?」
「そうよ。刺激が強すぎたのね」
千華子が尋ねると、田村は頷きながら教えてくれた。
「刺激……?」
「千華ちゃんは、ナツ君と一緒にいるからね。影響を受けるのよ」
「だから、『声』が聞こえたり、映像が見えたりしたんですか?」
だが千華子の次の質問には、弱視の目を守るためのサングラスの下で、目を細めた。
「千華ちゃん。間違えないで。千華ちゃんは、生きているのよ」
「先生……」
「ナツ君と付き合うことで影響を受けているけれど、解決方法は、生きて(・・・)いる(・・)人間の(・)やり方でやらなければならないわ」
「生きている人間のやり方?」
「そうよ。もともと千華ちゃんには、霊感がないんだから。あの子達の『声』を聞いても、その方法で解決することはできないでしょ?そうじゃなくて、千華ちゃんが、現実で今できることは、何?」
「私が、できること……」
千華子は田村の言葉に、視線を自分の手に向けた。
「それは多分、ナツ君の死体を捜すことじゃないの?」
千華子は、はっとなって田村を見た。
「何回も言っているけれど、あの子をこのままにしておいたら、千華ちゃんにとっても、あの子にとっても、良くないわ」
「先生……」
「いるでしょう? 近くに、力になってくれそうな人」
田村は、相変わらず千華子が話してもいないことを、当然のように言った。
「その人は……力になってくれますか?」
だから。千華子は、田村にそう尋ねた。
全てのことが「見えて」いるであろう田村には、事情を説明する必要はなかった。
「正直に話せば、大丈夫よ」
そんな千華子の問いに、田村はあっさりと答える。
「その人も、千華ちゃんの力を必要としているから」
そう言って、田村は微笑んだ。
「わかりました。頼んでみます」
千華子は、田村の言葉に頷いた。
と、その時だった。
「千華ちゃんの様子はどう? 姉さん」
コンコンとドアがノックされて、真紀が医務室の中に入って来た。
「真紀先生!」
「久しぶりね、千華ちゃん」
驚く千華子を見て、真紀は微笑んだ。
田村の双子の妹である真紀は、千華子にとってはレイキを伝授してくれた師匠だった。
彼女に会うのも、そして田村に会うのも、レイキを伝授してもらって以来だから、直接会うのは三年ぶりだった。
「真紀先生まで、どうしてここに?」
そもそも、彼女達は中国地方の街に住んでいるのだ。
なのに、東京の舞場市の警察署にいるとは、どういうことなのか。
「用事があったの。その前に、千華ちゃんに会っておこうと思って」
田村の言葉に、千華子は「どうしてここがわかったんですか?」とは聞かなかった。
田村には、「わかる」のだから、聞く必要もないのだ。
ただ。
「よく、私の面会許可してくれましたね?」
この舞鶴市の警察署が、意識を失った自分によく面会させたな、とは不思議に思った。
「ちょっと裏技を使ったの」
それには、真紀が笑いながら答えてくれた。
「せっかく千華ちゃんに会えたけど、これ以上はタイムリミットなの。ごめんなさいね、ゆっくり話せなくて」
そう言いながら、田村は立ち上がった。
その隣に当然のように、真紀が横に立つ。年齢不詳の双子の姉妹は、よく似ていた。
「わざわざありがとうございます。寄ってくださったんですよね」
そんな彼女達に、千華子は頭を下げた。
「ごめんね、本当に。次はゆっくり話そうね」
田村がそう言った時、コンコンと、医務室のドアが遠慮がちにノックされた。
「すいません、田村さん……お迎えに方がいらっしゃいました」
そうして、加藤が少し緊張した面持ちで医務室に入って来た。
「わざわざすいません。それじゃあね、千華ちゃん」
「またゆっくり話そうね」
「はい。先生達も気をつけて」
田村達は頷く千華子を見て微笑むと、医務室を出て行った。
「……あの方々は、何者ですか?」
それをベッドに入ったまま見送った千華子に、加藤がそう尋ねて来た。
「以前、お世話になった占い師の方々です」
それに対して、千華子はそう答えた。
本当の田村は「霊能力者」なのだが、世間一般的にはそう答えた方が良いことは、経験上わかっていた。
「そうですか……」
だが、加藤はまだ何か聞きたそうな顔をした。
「どうかしましたか?」
そんな加藤にけげんに思って千華子は逆に尋ねてみたが、
「いえ……」
と、加藤は首を振るだけだった。
―ありがとう。
車に乗り込むと、目の前に理華子が現れた。
田村は、それを見て目を細める。
「別にお礼はいいわよ」
声は小さめにしたが、それでも、運転席に座る人物にも、隣に座る真紀にもその声は聞こえているはずだ。
だが、彼らは何も言わなかった。
「それに、用事のついでだったのは本当だったしね」
それは、彼らにとっては当たり前の光景だった。
もちろん、田村も人前ではこんなことはやらないが、真紀と運転席に座る男には、気を使う必要はなかった。
二人とも、自分の「力」については、十分理解してくれているからだ。
「でも、やっぱり千華ちゃんには絶対『力』は使わせたくないのね」
田村がこの東京の舞場市にいる千華子に会いに来たのは、確かに「用事」のついでもあったが、理華子に頼まれたこともあった。
理華子は、自分の「抑え」が効かなくなりつつある千華子の「力」に、強力な「押さえ」をするように、田村に頼んだのだ。
方法は、簡単だった。
千華子に、「自分にはそんな力はない」と思い込ませること。
それだけで、「力」は使われなくなる。
人の「思い」というものは、それだけ強いものなのだ。
だから。
様々なことを死してもなお、引き起こしたりする。
あの幼子の願いは、「死にたくない」だった。
だけどその願いは叶えられず、助けを求めていた「声」を聞いて、千華子のもとへと導いたのが、理華子だった。
田村にも、目の前にいる少女の霊が何を考えてそうしたのかは、わからない。 ただ、「妹」のことを案じて行動していることだけは確かだった。
田村とて、「生き人」である。
普通の人間よりは霊のことはわかるが、それでも、「死人」の考えは理解できないこともある。
まして、相手は生まれて来なかった子どもの霊だ。
おそらくは、田村には「見えない」ものが見えているのだろう。
―あの子の宿命は、変えられない。
理華子は、田村にそう言った。
―あの子があの子である限り、今回のことは避けられないの。
ただ。それでも。
―ナツがいる限り、あの子は大丈夫だから。
まるで田村の考えを読んだかのように、理華子は言った。
「そう……」
宿命。
それは、人である田村には、どうしようもないことだった。
人の意思に関わらないところで、決定されているもの。
「宿命は変えられなくても、運命は変えられるってことかな?」
と、その時だった。
運転席に座った男が、ふいにそう言った。
「矢野さん」
「結果は変わらなくても、その過程は変えることはできるってことだろう?」
壮年の男は、前を向いたまま、言葉を続ける。
この男は、田村がどんな未来を告げても、その言葉を必ず言った。
言い方に違いはあれど、結局は同じことをいつも口にする。
だから。
自分は、この男にだけは、未来を正直に告げるのだ。
常に、この国の「未来」を見ている男に。
「俺の方にも、協力頼むよ」
「そうね」
この男も、自分に信じさせてくれる存在だった。
人間と言う生き物には、まだまだ自分には及ばぬ可能性があるのだということを。
その男の言葉を聞いて、理華子もふわりと微笑む。
それはとても子どもらしいもので。
田村は、正直驚いてしまった。
結局。
お昼過ぎには、警察署での話しは終わった。
これなら、「愛育園 若草の家」は半休にしてもらえば良かったのかな、と千華子は思った。
加藤によれば、千華子の勤務を夜勤から休みに変えてもらったということなので、千華子は明日出勤したら夜勤になる。
いきなりの勤務変更の要請にも、光村はきちんと対応してくれたのだ。
もちろん、千華子が証人保護プログラムを受けている身だから、捜査協力が最優先である。
だが、「若草の家」は今、不安定な状況なのだ。
できるだけ、光村の負担になることは避けたかった。
ただ、今からいきなり行っても、それはそれで休みをきちんと取っていないことになるのだから、よくないだろう。
千華子はそう考えながら、街を走る車の外の風景を見た。
「ご気分はどうですか?」
そんな千華子に、車を運転しながら加藤が聞いてくる。
「すいません、お手数をおかけしました」
「こちらこそ。瓜生さんは一般人の方なのに配慮が足りなくて、申し訳ありません。しっかりされているから、ついこちらも甘えてしまいました」
加藤の言葉を聞いて、千華子は苦笑しながら首を振った。
別に、千華子は自分がしっかりしているつもりはなかった。
確かに、幾つかの事件には遭遇したが、「恐怖」よりも、「驚き」や「哀しみ」の方が大きかっただけである。
親に「死」を望まれた子どもの哀しみや、「我が子」の「死」を望む親の思い、そして、「自分」を誰かに認めて欲しくて、自分より幼い子どもを手にかけた者達の叫び。
そういったもの達が、「恐怖」よりも大きい「哀しみ」や「驚き」を千華子に与えていたのだ。
「はーちゃん」のことでも、千華子は自分のできることは、全てやったはずである。
それ以上のことは、警察にまかせるしかない。
「はーちゃん」の兄に当たる子がどうなったかは、千華子にはどうやったってわかるはずがない。
探す術すら知らない千華子には、それ以上のことはできないのだ。
それはわかっているけれど、重い気分は残ってしまう。
でもそれは、思い上がり以外の何物でもないのだ。
だからこそ田村は、わざわざ千華子に忠告をしに来てくれたのだろう。
『千華ちゃんが、現実で今できることは、何?』
今千華子が一番、現実で出来る事。
しなければ、ならないこと。
チリンと、リュックの中に入れた携帯の鈴が、鳴ったように聞こえた。
と、その時だった。
携帯の着信を知らせるメロディが、リュックの中から聞こえた。
「すいません、携帯に出ていいですか?」
「はい、どうぞ」
加藤に許可をもらって、千華子はリュックの中から携帯を出した。
「はい、瓜生です」
『瓜生さん? 今どこ?』
「榎本さん?」
見知らぬ携帯番号が画面に表示されていた相手は、榎本だった。
『用件が済んだら、すぐに戻って来てくれ』
そうして、千華子の言葉を聞かず、そんなことを言う。
千華子は榎本の言葉に、眉をひそめた。
今日は、千華子は休みになっているはずである。
それなのに、榎本は、仕事場である「愛育園 若草の家」に「来てくれ」と言うのである。
そもそも、それを言うのは、光村のはずなのだ。
さらに、千華子が返事をしないうちに、通話は切れてしまった。
「どうしたんですか?」
首を捻りながら携帯の画面を見つめる千華子に、加藤がそう声をかけてきた。
「何か、若草の家に戻って来て欲しいって電話でした」
「誰からですか?」
「新しく入った方からでした」
その瞬間。
「急ぎましょう」
そう、加藤は言った。
「加藤さん?」
「嫌な予感がします。今日光村さんに電話した時は、確かに『休みにしておきます』と言われていたんです。なのに、光村さん以外の方が電話して来てそんなことを言われるならば、何かあったのかもしれません」
確かに、加藤の言うとおりだった。
警察との連絡をしているのは、光村だった。
責任者である光村が「休みです」と言っているのに、榎本は「急いで戻って来てくれ」と言うのだ。
光村は、千華子が警察署に行っていることを知っている。
証人保護プログラムを受けていることも知っているから、もし榎本が何らかの用件で連絡をしようとしても、止めるだろう。
なのに、それをしていないということは、それができない(・・・・)状態なのかもしれない。
「もちろん、考え過ぎの可能性もあります」
加藤は念を押すようにそう言ったが、千華子はその勘は当たっているような気がした。
それは運転している加藤も同じらしく、車のスピードは格段に上がった。
千華子は、パタンと携帯を閉じると、ぎゅっと両手で握り締めた。
ちりんっと携帯の鈴が微かに鳴った。
結論から言えば、加藤の「勘」は当たっていた。
さすが刑事と言うべきなのか、千華子が加藤の運転する車で「愛育園 若草の家」に行くと、子ども達が玄関に出ていた。
「千華ちゃん!」
千華子が加藤と走って子ども達の方に行くと、幸恵が駆け寄って来た。
「何があったの?」
玄関のドアから少し離れた道路に出ていたのは、幸恵と篤、そして愛理の三人だけだった。
「芽衣さんは?」
「まだ中よ」
千華子から少し離れは場所に立っていた愛理が、そう言った。
「さっき、芽衣のお父さんって人がいきなり訪ねて来て、そうしたら、台所から怒鳴り声とか聞こえて来て……榎さんから家から出て、千華ちゃんを待っていろって言われたの」
愛理の言葉に続けて、幸恵がそう言った。
いつも穏やかな幸恵の表情は真っ青で、がくがくと震えていた。
篤にいたっては、幸恵の服をがくがく震える手で握り締めているだけで、何もしゃべらない。
「急いで子ども達を避難させましょう。私の車で行けば、とりあえず大丈夫です」
そんな子ども達を見て、加藤は千華子に声をかけた。
「わかりました」
千華子も加藤に頷き、歩き出そうとした。
と、その時だった。
「待てよ、こら!」
ダミ声と言うのだろうか。
いきなり玄関のドアがばんっと開き、男が出て来た。
「待ってください、藤本さん!」
続いて、光村の声が後ろから聞こえた。
「どこに行くんだよ、客人をおっぽいてさぁぁぁ」
男の左側には、芽衣がいた。ぎっちりと腕を掴まれ、半泣き状態だった。
藤本、というのは芽衣の苗字である。
とすれば、この男が芽衣の父親なのだろう。
まるでよっぱらっているかのように赤い顔をして、脅すように叫んでいる。
加藤について行こうとした愛理達は、一瞬で固まった。
「―腕。強く握りすぎです」
ふいに。
千華子は、男にー芽衣の父親に、そう言った。
「あー?」
「そんなに強く握ったら、跡が残ります。と言うか、痛いです」
「うるせえんだよ!」
「それから、そんなに近くにいるのに、大きな声で怒鳴るのも駄目です。場合によっては、鼓膜が破れます」
千華子は、後ろで加藤が子ども達を誘導していく気配を感じながら、言葉を続けた。
「お子さんを引き取りに来られたんですか?」
「うるせえ女だなっ。見てわかるだろうが!」
「ならば、どうして児相の方に相談しないんですか?」
怒鳴ってばかりいるのは、怖いからだ。
体が小さい小型犬が良く吼えるのは、恐怖からくるためだ。
逆に、体の大きい犬はめったに吼えることはない。
自分の大きさを知っているからだ。
ならば、芽衣の父親も、小さい犬なのだ。
怖いから、怒鳴っている。
怒鳴ることで、自分を大きく見せようとしている。
「こんな引き取り方をしても、後で問題になるということは、わかっていらっしゃいますよね、本当は」
その瞬間。
芽衣の父親がびくっとなった。
「それに、芽衣さんを引き取った後も、あなたはきちんと世話をしてくれるんですか? ご飯を食べさせて、着替えもさせて、お風呂にも入れて、トイレにも付いて行って、幼稚園にも送って行ってくれるんですか?」
「うるせぇ―」
「違いますよね」
千華子は、芽衣の父親が怒鳴る前に切り込んだ。
言葉でも、人を追い詰めることはできる。
特に、芽衣の父親のような人間には。
「そうやって怒鳴って、周りを威嚇して、怖がらせたら満足なんですよね」
真実を、突きつければいい。
心の底にある弱さを、突きつければ崩れる。
「あなたは、自分よりも小さい子どもを怖がらせることでしか、己の自尊心を満足させられないんですか?」
「うるせえっっっっ!」
そうして。
千華子が突きつけた言葉に、芽衣の父親が、そう叫んだ瞬間だった。
彼の体は宙を舞って、道路に沈む。
「芽衣さん!」
千華子は、その横に座り込んでいる芽衣に近寄った。
「千華ちゃーん……」
芽衣は千華子に抱きついてきた。
よほど怖かったのか、号泣している。
芽衣の父親を道路に倒したのは、榎本だった。
無表情で倒れた芽衣の父親を見て、次に芽衣を抱きしめる千華子を見た。
「暴行罪で現行犯逮捕します」
そうこうしているうちに、加藤が近寄って来て、芽衣の父親に手錠をかけた。 千華子は、しっかりと芽衣を抱きしめて、その姿を見せないようにする。
「……ありがとう、榎さん」
光村は、榎本に近寄って礼を言った。
「いえ……」
光村の言葉に頷きながらも、榎本は千華子を見つめていた。
千華子はそんな榎本を見つめ返しながらも、芽衣を抱きしめ続けていた。
「本当にあんたが来てから、ろくなことがないな!」
千華子を見るなり、開口一番、芳賀はそう言った。
「悠馬の次は芽衣の父親か。昨日の今日じゃないか」
いらいらとした口調で、芳賀は言う。
それを黙って、千華子は聞いていた。
芽衣の父親が加藤に現行犯逮捕された後。
とりあえず、千華子達は「愛育園 若草の家」に戻り、子ども達を落ち着かせた。
千華子は泣きじゃくる芽衣を寝かしつけて、榎本は興奮している篤達の相手をし、光村は芳賀や児相への連絡を行った。
芽衣が寝付き、愛理達に昼ご飯を食べさせて、児相から来る連絡に対応し、やっと落ち着いた頃、芳賀がやってきたのだ。
そうして、テレビの部屋に光村、榎本、千華子と皆で集まった時、千華子を見るなりの一言である。
おいおいおいおい、と突っ込みたくなるのを千華子は堪えた。
「芳賀先生、警察の方がこの後来られます」
まだまだ嫌味を言う気満々だった芳賀に、光村がそう声をかけた。
「聞かれたら、まずいです」
「だがな、光村」
「瓜生さんがいなくなったら、警察への恩が売れなくなります」
それは、冷静な声だった。
情もなく、迷いもなく、ただ事実だけを言う声。
「とりあえず、芽衣ちゃんの父親のことでは、児相と相談して進めます。逮捕されましたから、状況は変わるかもしれません」
芳賀はそれを面白くなさそうに見つめていたが、その言葉に頷いた。
「まあ、その辺はお前にまかせる。それじゃあ、わしは帰るからな」
そう言って、芳賀は立ち上がった。
「わかりました。お疲れ様です」
見送るために、光村もそう言って立ち上がる。
「あ、そうだ光村。愛理が最近忙しくて、夜洗濯ができないらしい。昼間にやらせたらどうだ?」
だが、芳賀のこの言葉を聞いたとたん、光村は千華子の方をちらっと見た。
「……わかりました」
そうして、芳賀の言葉に頷く。
そのまま、玄関の方へと芳賀を見送りに出て行った。
「動き出したな」
ポツリと、千華子の横に座った榎本が呟いた。千華子は、思わず榎本の方を見た。
「軽いジャブってところだ。あんまり、愛理を刺激するなよ」
「……あなたには、お願いがあります」
頼むのは今しかない、と千華子は思った。
「私の後ろにいる子どもの霊の死体を捜したいので、手伝って欲しいんです」
できるだけ小さい声で、千華子は言った。
そんな千華子を、榎本はちらっと横目で見たが、
「車で送るから、その時にな」
と、短くそう答えて来た。その答えに。
千華子は、目を丸くしてしまった。
「乗れよ」
駐車場に止めてあった車のところまで来ると、「お顔がない人」は、そう「おねえちゃん」に言った。
「じゃあ、お願いします」
「おねえちゃん」はペコリとお辞儀をして、「お顔のない人」の車に乗った。
「密談するなら、車が一番手っ取り早いからな。しばらく、あんたの家の周辺ぷらぷらするぞ」
「わかりました」
車に乗った「お顔のない人」と、「おねえちゃん」がそんなことをお話した後、車が動いた。車は駐車場を出て、道路を走っていく。
「で、死体を捜して欲しいと言っているのは、あんたの横にいるガキか」
「やっぱり、見えていらっしゃるんですね」
「まあな。あんたが世話になっている、霊能力者には及ばないが」
「田村先生をご存知なんですか?」
「まあ、な」
そうして、「おねえちゃん」と「お顔がない人」は、お話を始めた。
「そのガキをそのままにしておくと、良いことはないな。あんた、本当は霊感なんかほとんど使ったことないんだろ。あんたみたいな素人が霊能力を使うのは、素人が銃を扱うようなもんだ。だが、今のあんたは、そのガキの影響で霊能力を使っているぞ」
「……そうなんですか?」
「自覚なかったのか? それでそのガキを成仏させるために、死体を捜すんじゃないのか?」
「田村先生に、ナツがいつまでも私の傍にいたら、お互いに良くないって……」
「おねえちゃん」は「お顔のない人」にそう言った。
「たむらせんせい」は、自分が「見える」人だった。
だから自分が「おねえちゃん」のところに来た時から、「ひな人形の人」や「にんじゃの人」は、よく「たむらせんせい」の所に行っていた。
「そうだな。それは当たっている。で、あんたは何が知りたいんだ?」
「この子の死体の在り処です」
だけど「おねえちゃん」のこの答えには、傍にいた「にんじゃの人」や「ひな人形の人」は、手を頭に持っていってしまった。
「直球過ぎだ、あんたの答えは」
―あんまり変わっとらっさんとよね、こん人は……。
「ぬい」も、おでこに手を当てながらそんなことを言っている。
「えーと……」
「おねえちゃん」は、困ったようなお顔になった。
「もうちょっと、言い方ってもんがあるだろう。本人を目の前にして」
―だって、本当のことだもん。
だけど。
自分は、「お顔のない人」にそう言った。
―僕は、おねえちゃんに僕の死体をさがしてって、頼んだんだから。
自分が、「死んでいる」ということは、わかっている。
「お前は、自分のことを何も覚えていないのか?」
―ねっとって言う場所を通って、おねえちゃんのところに来たの。僕には、「いもうと」がいたの。「ナっくん」って言っていた。
「他のことは?」
―わかんない。
そう言って、自分はお顔を動かした。
「あんたは、目星が付いているのか?」
次に、「お顔のない人」は、「おねえちゃん」にそう言った。
「……私が通報をお願いした、『はーちゃん』……『あまのはづき』ちゃんの顔、覚えていますか?」
「写真で、ちらっと見たぐらいだからな。よくわからないな」
「似ているんですよ、その子が。ナツに」
「ちょっと、待て! あんたは霊が見えないんだろう?」
「はい」
こくんと、「おねえちゃん」はお顔を動かした。
「でも、見たんです。警察署にいた時に。一瞬ですけど、ナツが……死んだ時のイメージが」
「それが、現実に起こったという証拠にはならないぞ?」
「別にいいんです。それならそれで。でも……あなたが言うとおり、私がナツの影響で霊能力を使っているのなら、それは事実なのかもしれない」
「おねえちゃん」はそう言って、車を運転している「お顔のない人」を見た。
自分には、「お顔のない人」はお顔がないようにしか見えないのだけど、この人は車を運転している。
お顔がないのに車が運転できるなんて、何だかヘンだった。
「なるほどな……。ただ、一つ確認しておきたいことがある」
「何でしょうか?」
「どうして、俺に頼もうと思った?」
「勘です」
そうして。「おねえちゃん」が「お顔のない人」の質問にそう答えると、
「……やっぱり、あんたは直球過ぎだ」
「お顔のない人」は、何か元気がなくなったような気がした。
―どうして、こぎゃんところは、小さか頃と変わらっさんとだろうか。
「ぬい」は、やっぱり手をおでこに置いてそんなことを言っていた。
「ひな人形の人」や、「にんじゃの人」も、「ぬい」と同じことをしていた。
「あ、でも。ただ当てずっぽじゃないんですよ」
けれど。「おねえちゃん」はそう言った。
「篤君が懐いていたから、きっと悪い人じゃないんだろうなあって」
「……俺の正体は気にならないのか?」
「加藤さんと同業の方でしょ?」
「どうしてそう思う?」
「あ、それも勘です。」
―気の毒にな……。
―今回ばかりは、そなたの言葉に同意じゃ。同じ(しの)立場の者としては、屈辱でしかないな……。
そうして、「にんじゃの人」と「ひな人形の人」が、そんなことをお話していて、そのお話の意味は自分にはよくわからなかった。
「みはる」を見たけれど、「みはる」もちょっと困ったように笑っているだけで、何も教えてくれなかった。
「……あんたは、無自覚過ぎる」
「お顔のない人」は、そう言った。
「何がですか?」
「わからないなら、いい。ただ、気をつけろ」
「えっ?」
「あんたは、かなりすざまじい『力』で守られている。だから、あんた本人には、影響を与えることのできないヤツ(・・)は、あんたの周りの人間達に、ターゲットを移した。芽衣の父親も確かに手前勝手な人間だが、あんなことを仕出かすような度胸はない。自分の妻だった女や子どもには暴力を振るうことはできても、「児相」というお役所の権力には、逆らう度胸はない人間だ」
「それって、『霊』が関わっているってことですか?」
「おねえちゃん」は、「お顔のない人」にそう聞いた。
「『霊』じゃない。『生霊』だ」
「『生霊』?」
「そう……生きている人間が出すエネルギー体の別名だな」
「それって、誰かが私を恨んでいるってことですか?」
「別に珍しいことじゃあない。どんな人間でも、恨みを買わずに生きることのほうが難しいからな。ただ、あんたに付いた『生霊』はタチが悪過ぎた」
「どういうことですか……?」
「おねえちゃん」はもう一度「お顔のない人」に聞いたけど、今度は「お顔のない人」は何も言わなかった。
―「思い」が強すぎた、ということじゃ。
その代わりなのか、自分には「みはる」がそう教えてくれた。
―あのこわい人は生きている人なの?
―そうじゃ。だから厄介なのじゃ。
「私は、どうすればいいんですか?」
「お顔のない人」が黙っているから、「おねえちゃん」は、今度はそう聞いていた。
「とりあえず、自分の『浄化』に専念しろ。後、言いがかりをしてくる奴は、相手にするな。ヤツ(・・)の影響がある可能性がある」
「浄化……ですか?」
「そう。あんたが知っているやつでいい。レイキとやらでも何でも。あんたが相手にするべきなのは、生きている、生身の人間だけだ。『霊』のことは、無視しろ」
「……わかりました」
「お顔のない人」に、「おねえちゃん」はそうお返事した。
「忘れるな。あんたが相手するのは、生きている人間だ。死んでいる人間じゃない」
もう一度、「お顔のない人」は「おねえちゃん」に言った。
「はい」
そうして。
「おねえちゃん」が首を動かした時、車が止まった。
「着いたぞ」
「あ。ありがとうございます」
「明日は何時も通りに出勤だそうだ」
「わかりました」
「おねえちゃん」はそう言うと、車から降りた。
それから、お部屋の方へと歩いて行く。自分も、その後を着いて行こうとした時。
車の前に、人の形をした何か影のような物が、立っているのが見えた。
ー坊主、気にせんでいい。行くぞ。
「にんじゃの人」がそう言うから、自分は「おねえちゃん」の後を着いて行こうと歩き出した。
「……もうお前達には、俺がわかんないんだな、若葉」
「お顔のない人」が、そんなことを言っているのが聞こえたような気がした。
マンスリーマンションの自分の部屋の前まで来た時、榎本の車が駐車場から出て行くのが見えた.
それを見て、千華子は体の力が抜けるのを感じた。
やはり、あの男を相手にするのは緊張する。
送ってもらったのはありがたかったが、二人っきりになりたい相手ではない。
そんなことを考えながら部屋の鍵をドアノブに差していると、ふと、「はーちゃん」が住んでいた、一番端の部屋の玄関が目の端に映る。
千華子は、ドアノブに鍵を差したまま、「はーちゃん」が住んでいた部屋の玄関を見た。
ここに、あの子はもういない。コンビニで客に集るように物を強請っていた子は、ここで、一人で住んでいたのだ。
あの小さい子は、どんな思いで日々を過ごしていたのだろうか?
まだ幼稚園ぐらいの子が、いきなりいなくなった兄と母を待ち、一人で過ごす。
身の回りの世話をしてくれる人もなく、あの幼い子は一人で、あの部屋で震えていたのだろうか。
何故、「はーちゃん」の母親は出生届けを出さなかったのだろうか。
どんな思いで、母親は二人の子どもを産んだのか。
何故に、出生届けを出さない子を、産もうと思ったのか。
一人の命を、十月十日その体内で育み産んだのならば、そこには「産もう」という意志があったはずだ。
「産まない」という選択肢をだってあったのに、「はーちゃん」の母親は、そうはしなかった。
なのに、何故出生届けを出さず、あんな幼い子を、一人でこのマンスリーマンションに残したのか。
『あんたは、そう思えるように育ったんだな』
ふいに、烏丸が……榎本が前に言っていた言葉を思い出した。
少なくとも、千華子は出生届けを出されない、ということはなかった。
「はーちゃん」のように、何日も一人で過ごすこともなかった。
確かに、父や母には未だにわだかまりは感じている。
でも、父や母は千華子をとても大切に育ててくれたのだ。
娘の苦しみよりも、自分達の世間体を優先した彼らだが、それでも、愛情は与えてくれていた。
チリンと、ズボンのポケットに入れた携帯の鈴が鳴った。
どうやらナツが、「早くお家に入ろう」と言っているみたいだった。
「はいはい。入って、ご飯の準備をしなきゃね」
そう呟きながら、千華子はドアノブに差した鍵を回して、部屋のドアを開けた。
とりあえず、考えるなら部屋に入って考えようと思ったのだ。
部屋に入り、電気を着ける。まだ夕方で薄暗かった部屋の中は、ぱっと明るくなった。
何となく、それが今まで見えなかったナツのことが見えた、それと同じように感じる。
千華子は部屋の中に上がると、そのままベットへと直行して、リュックと鍵と携帯をその上に置いて、自分もどすっと座り込んだ。
と、その瞬間、バイブにしていた携帯が震える。
『だいじょうぶ』
携帯の画面を見ると、そんな文字が出ていた。
千華子はそれを見て小さく笑ったが、ふとナツが今どう思っているのかを、聞いてみようかと、思った。
「ナツは……自分が、『はーちゃん』のお兄ちゃんだと思う?」
そうすると、しばらくまるで考えるように間があったけれど、
『わかんない』
そんな言葉が打ち出された。
「そっか……」
榎本に助けを求めたのは、彼が「警察の人間ではないか」と思ったからだ。
彼が「烏丸」とか「榎本」と名前や姿を変えて「愛育園 若草の家」に近付くのは、捜査のためではないか、と思い付いたのだ。
もちろん証拠はなかったが、さっき話していた様子からは、当たらずとも遠からず、なのだろう。
そうして、「はーちゃん」の「兄」だと思うのも、半分はあてずっぽうなのだ。
「ナツ」と「はづき」という名前と、警察署で倒れた時に見た幻影。根拠は、この二つだけだった。
『ぼくはおねえちゃんといっしょ』
だけど。次に打ち出された言葉は。
「ナツ……?」
『ぼくにはいもうといた』
「何か、思い出したの!?」
携帯を掴んだまま、千華子はベッドから起き上がった。
『なっくんてよんてた』
二つ目の「て」に濁点がなかったが、ようは「なっくんて呼んでいた」ということだろう。
「他に何か思い出したことはない!?」
『わかんない』
だが、次に打ち出された言葉は、千華子の期待をあっさりと裏切った。
「そっか……」
携帯を握り締めたまま、千華子はまたベッドにドスン、と座り込んだ。
ナツが、自分のことを少しでも思い出しているのだ。
それは、とても良い傾向ではあるけれど、肝心なことは、何一つわからない。
ただ、ナツが幼い子どもだということを考えれば、「思い出したことがわかる」ということは、とてもすごいことなのだ。
「『はーちゃん』の写真、見せてみるか……」
千華子には、霊は見えない。
こうやって携帯でナツとは話しているけれど、ナツの顔は見たことがない。(足とか見えたり、声は聞いたりしているが)
霊感のあるらしい榎本に、ナツと似ているか確認してもらおうと思いながら、千華子は携帯のデーターから、「はーちゃん」の写真を取り出して、それを確認した。
インターフォンの画像に映った「はーちゃん」は、どこかすがる様な目をしていた。
幼い子が、大人がいない中で一日一日を過ごしていたのだ。
必死に、がんばってやってきたのだろう。
たとえそれが「集り」という形であっても、それしか「はーちゃん」には生きる術がなかったのだ。
何故、こんなことが起こるのか。
何が、原因なのか。
千華子は、幼い頃そんなことは考えたことすらもなかった。
自分と、この「はーちゃん」の違いは何なのか。
携帯の中の「はーちゃん」を見ながら、千華子はそんなことを考えた。
「無知だからよ」
次の日。
出勤時間になり、千華子はいつものように、「愛育園 若草の家」に出勤した。
今日は泊まりなので、いつも使っているリュック以外に、大きなバックを持った千華子は、更衣室になっている部屋に荷物を置こうとして、ふと、台所からそんな言葉が聞こえて来た。
玄関に見覚えのない靴があったので、お客が来ているのだろうと思っていたが、どうやら台所で話しているらしかった。
千華子はできるだけ静かに更衣室になっている部屋のドアを開けたが、微かな開閉の音を聞きつけたらしい光村が、
「おはようございます、瓜生さん」
と、台所の方から光村が声をかけてきた。
「おはようございます」
声をかけられた千華子は、台所の方に顔を出して、挨拶をする。
「あら。新しい人ね」
台所には、光村以外に、五十代ぐらいの女性が椅子に座っていた。
さっきの言葉は、この人のものらしい。
「沖さん。こちらが、新しく入った瓜生千華さん。瓜生さん、『愛育園 若葉の家』の施設長の沖さんです」
「あ、こんにちは」
沖を紹介されて、千華子はぺこりと頭を下げた。
「もう、お仕事慣れた?」
人好きの性格らしいのか、気さくに沖は千華子に話しかけてくる。
「あ、はい。色々と教えてもらって助かっています」
その言葉に、千華子はこくんと頷いた。
「そう。無理せずに頑張ってね」
「千華さん、来て早々悪いんだけど、洗濯物干してくれる? 芽衣ちゃんがテレビのあるお部屋でテレビ見ているから、お願い」
「わかりました」
千華子は光村の言葉に頷くと、更衣室となっている部屋へと入った。
「それにしても、参ったわね。今月の小口現金、もうもらった」
「いえ、まだです」
沖はどうやら声が大きいようで、しっかりと話している内容が聞こえてくる。
「悠ちゃんのことについても、結局私達には何の説明もなしよ? ただでさえこっちは働く人が続かなくて、参っているのに。まあ……無理もないけど」
「沖さん」
千華子や子ども達のことを気にしているのか、光村が多少咎めるような口調で沖の名を呼んだ。
「そうね。愚痴っても仕方ないわね。あなたも一人で背負わないで、相談してよ?」
「はい。ありがとうございます」
「本当に……先代の時は、まだマシだったって言うのにね。と、もう言わないようにするわね」
「話を戻しますけど、それじゃあさっき言っていたのは、来週の水曜日でいいんですね?」
「月イチの話し合いの時でいいわ。多分、給料が遅れる話もその時……出ないわね、多分。と、いけない。とりあえず、お互い、この夏休みを乗り越えることに今は集中しましょう」
「はい」
光村はさっきとは違い、笑っているようだった。
「それじゃあ、今度は来週の水曜日に」
沖の方も、そう言って椅子から立ち上がる音が聞こえた。
千華子が荷物をロッカーに置いて、部屋から出ようとしていると、
「お仕事がんばってね」
と、沖が笑いながら言って、玄関の方へと出て行った。
「お気をつけて」
「はーい、ありがとう」
明るい声でそう返事をする沖は、どこか西に似ているような気もした。
「あいかわらず、元気な人だわ」
くすくすと、光村も笑っている。野間が辞めてから、光村がそんなふうに笑うのを見たのは、初めてだったかもしれない。
「沖さんって、お子さんいらっしゃるんですか?」
「大学生を筆頭に、五人いらっしゃるわ」
光村がそう言うと、
「そんな感じですね」
千華子も笑いながら頷いた。
「じゃあ千華さん、洗濯物お願いね」
「あ、それなんですけど……愛理さんの洗濯の件、どうしましょうか?」
光村の言葉に、千華子は気になっていたことを尋ねてみた。
光村はちらっと階段の方を見ると、
「洗濯の件だけは、芳賀さんの言う通りにして。洗濯の(・)件だけ(・・)ね(・)」
いたずらっぽく笑って、小さな声でそう言った。
「わかりました」
その言葉に、千華子は頷いた。
芳賀が言ったのは、愛理の洗濯を昼にするのを認めることだけである。
それ以外のことは、何も言っていない。
つまり、それ以外のことは、ルール違反であれば認めなくて良い、ということなのだ。
「それじゃあ、洗濯物と芽衣ちゃんのことをお願いします。榎本さんは今日夜勤明けなので、明日までいません。私は二階にいるので、何かあったら呼んでください」
「わかりました」
千華子にそう言うと、光村は階段の方へと歩いて行く。
千華子もその後に続いて、テレビのある部屋へと足を向けた。
「芽衣さん、何しているの?」
テレビのある部屋に入ると、芽衣はテレビを見ずに、広告用紙で紙飛行機を作っていた。
「紙飛行機作っているの」
昨日、父親に無理やり連れ出されそうになった芽衣は、号泣した後は眠ってしまったから、その後の様子はわからなかった。
ただ、今見ている分には、今日の芽衣の様子はいつも通りである。
「芽衣ちゃんね、パパに紙飛行機の作り方教えてもらったんだよ」
広告用紙で紙飛行機を作りながら、芽衣はそう言った。
「それでね、たくさん作って、一緒に飛ばしたの」
それから、にっこりと笑って言葉を続ける。
だけど。
その言葉は、真実ではなかった
今、芽衣が折っている紙飛行機は、千華子が教えた作り方だ。
芽衣は千華子が教えるまで、紙飛行機を作ったことがなかったのだ。
『ほら、千華子。この飛行機の方がよく飛ぶぞ』
父と共にたくさんの飛行機を作って、一緒に飛ばしたのは、千華子の方だ。
そのことを、芽衣に紙飛行機を作りながら話した。
その話が、芽衣にとっては自分の「記憶」として、入り込んだのだ。
芽衣は無意識に、千華子が話した「父親」が、自分のそれであって欲しいと、思ったのだ。
昨日、自分を乱暴に連れ出そうとした男ではなく。
「記憶」の父が、本物であると。
「そっか……」
千華子にとっては、それは「当たり前」のことだった。
父親というものは、休日になれば、一日一緒に遊んでくれる存在だった。
一緒にカブトムシやおたまじゃくしを採って、母に隠れて「やっちゃだめよ」と言われることもこっそりとやって、母に見つかったら庇ってくれて。
おそらく、芽衣が欲しくてたまらない愛情を、千華子は当然のように受け取っていた。
どうして、父や母はそんなことができたのか。
どうして、「子どもに愛情を注いで育てる」ということを、全うすることができたのか。
「かあくん」の時も、新見じゅえるの時も、悠馬の時も、考えた。
それでも、答えは出ない。
「子どもを育てる」ということは、それほどまでに難しいことなのか。
父親と飛ばした紙飛行機のことを話す芽衣を見つめながら、千華子はそんなことを考えていた。
でも。親と共にいることが、全てではないのだ。
それは、千華子もわかっているつもりでいたが、それを実感する出来事が、その日の夜に起こった。
その日は、皆で外食することになった。
光村が、お昼ご飯の時にそう提案してきたのだ。
「え、いいの?」
この話に一番に目を輝かせて声を上げたのは、篤だった。
「うん。夏休みだしね、どこにも行っていないから、たまにはね」
「ご機嫌取り?」
だけど、笑顔で説明していた光村に、愛理がそんなことを口に出して来た。
「別に無理に行かなくてもいいのよ? 行きたい人だけ行けばいいんだから」
しかし、それをさらっと流して光村は他の子ども達に、「どうする?」と聞くと、芽衣も幸恵もすぐさま「行く!」と即決だった。
「じゃあ、とりあえず三人は行くのね。愛理ちゃんはどうするか、行くまで決めてよ」
「行かない場合はどうなるの?」
「留守番よ」
「私のご飯は!?」
「カップラーメンぐらい、おこづかいで買えるじゃない」
見事なあしらい方だった。
光村は、愛理のわがままに振り回されることなく、しかし強制するわけでもなく、言葉を続けている。
さすがに子ども達と始終一緒にいるだけあって、愛理の性格を知り尽くした対応だった。
「それじゃあ、ご飯食べようか」
光村の声かけで皆が「いただきます!」と言って、ご飯を食べ始める。
愛理もふくれっ面をしているものの、黙ってご飯を食べ始めた。
「それで、ご飯はどこに行くの?」
わくわくした口調で、幸恵が聞いてくる。
「久々に、ファミレス行こうか? 回転寿司でもいいけど」
「俺、ハンバーガーが食べたい!」
「芽衣ちゃんは、お子様ランチ!」
「じゃあ、ファミレスかな?」
次々と上がる声を聞いて、光村はそう言った。そんな中、
ガタッ!
と、乱暴に音を経て、椅子から立ち上がった愛理は、食器を流しに運ぶと、何も言わず台所から出て行った。
「何だよ、姉ちゃん。感じ悪いなっ」
姉弟の気安さからか、篤が怒ったように言った。
「まあ、機嫌が悪いんでしょう。千華さん、ファミレスでいい?」
「あ、はい」
千華子は出て行った愛理を見ていたが、光村にそう声をかけられて、我に返った。
「じゃあ、それまで各自宿題とかやるべきことを片付けておいてね」
光村は千華子の言葉に頷くと、そう言った。
「わかった!」
「洗濯物たたんどこうっと」
「芽衣ちゃんも、手伝う!」
子ども達は、はしゃいだ声を上げて、それぞれに食べ終えると、「ごちそうさま!」と言って、流しに食器を持って行った。
「うれしそうですね、子ども達」
その後、千華子は洗い物をしながら、食器を流しに運んできてくれる光村に、そう話しかけた。
「本当はね、愛理ちゃんの言うとおりなのよ」
そんな千華子に、光村は苦笑しながら言った。
「そうなんですか?」
「いつもだったらね、夏休みとか冬休みとかの長期休みには、旅行に行っていたのよ。皆で近場の情報調べて、計画立てて行っていたの。でも、今年はそれどころじゃなくってね」
「そうなんですか?」
「まあ、いろいろあったから」
苦笑しながら、光村は言葉を濁した。
それは野間を含め、職員が何人も辞めたことで人手が足りないこと以外にも、何かありそうな気がした。
そうして、ふと沖が「給料が遅れる事……」と言っていたことを思い出す。
けれど、それを今聞くのは躊躇われた。
「洗い物は私がしますから、光村さんは少し休んでいてください」
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらって」
千華子が洗い物をしながらそう言うと、光村は食器棚からマグカップを出して、戸棚からはインスタントコーヒーの瓶を出すと、マグカップに粉を入れた。 それからポットからマグカップにお湯を注いで、そのまま台所のテーブルの椅子に座った。
「やっぱり、夏休みはハードだわ……」
そうして、珍しくそんなことをぽやく。
「やっぱり、夏休みっていつもよりハードですよね。私、『夏休みなんて、来なくていい!』って言っていたお母さん達の気持ち、わかりました」
「まあねえ。いつもだったら、何時間かは学校とか幼稚園に行っているけど、夏休みとか冬休みなんて、まる一日だもんね。それでも、冬休みと春休みはほんの二週間だけど、夏休みなんて、一ヶ月以上だもの。ほんと、一日が長いわよ」
「本当に、子どもを育てるのって大変ですよね」
「そうねえ。私も今更ながら、あの頃の指導員の先生達も大変だったんだなって、実感しているわ。実の親ですら大変なことを、やってくれていたんだものね」
さらりと言われた言葉は、光村が育った環境を示していた。
千華子は一瞬洗い物の手を止めそうになる。
「けっこう問題児だったんですか?」
けれど、そのまま洗い物を続けながら、そう尋ねてみる。
「と言うか……根っこにね、『本当の親でもないくせに』って思いがいつもあったのよ。だから、いろいろ注意されても、聞き流したり反発したりしていたんだけど、結局、私は『愛育園』に高校卒業までお世話になって、まあそれから親に会いに行ったりもしたんだけど、親は会うなり、私に金をせびって来てね。結局、私が奨学金もらいながら学校行って、こうして保育士として働けて、社会人としてやっていけているのって、あの時の先生達のおかげなんだなあって、実感させられたわ」
それは、児童養護施設で育った光村ならではの言葉だった。
と、その時だった。
「香ちゃん、ここの問題がわかんないから、教えて」
篤が算数のドリルを片手に、台所に入って来た。
「お、早速やっているね、篤君」
マグカップをトンとテーブルの上に置くと、光村は篤が持って来たドリルを覗き込んだ。
それを背中で感じながら、千華子は洗い物を続けた。
「あれ???」
けれど、急に戸惑ったような声を光村が出す。
「どうしたんですか?」
千華子は、洗い物をする手を止めて、振り返った。
「千華さん、この問題わかる?」
「え?」
千華子は、どれどれと手をエプロンで拭きながら、テーブルに置かれたドリルを覗き込んだ。
「ああ、これは平行四辺形の向かい合う線は同じ長さだから、ここが七センチでしょ? それからこの七センチの線を一辺とした三角形の頂点が六十度で、もう一つの頂点も六十度だから、三角形の内角は足すと全部で百八十度だから、これは正三角形になるわ。だから、イからウの線も、七センチになるのよ」
千華子はそう説明したが、
「えーと、千華さんごめん、何のことが全然わかんない」
光村にそう言われ、
「何語しゃべっているの?」
と、篤には言われてしまった。
「ええっと……」
千華子はもう一度、今度は篤に確認を取りながら説明をすることになる。
そうこうしているうちに、今度は幸恵が質問に来て、
「ごめん、ちょっとわかんないから、くわしく説明してくれる?」
と言われてしまい、教科書を貸してもらいながら、何とか説明することができた。
そうして、あっと言う間に夕方になり、出かける予定時刻になった。
「帰りに時間があったら、ショッピングモールに行って、買い物しようか。お小遣いがあったら、持って行ってね」
「わかったぁ」
「んじゃ、漫画でも買おうかなあ」
「芽衣ちゃん、お菓子買う」
光村の言葉に、子ども達が歓声を上げて、自分達のバックを片手に車に乗り込む。
愛理は何も言わなかったが、車に乗り込む表情を見ると、まんざらでもなく、うれしそうにも見えた。
三列シートの車に、後ろに子ども達が乗って、最後に助手席に千華子が乗って、光村は車を発車させた。
「三列シートの車は、やっぱり必需品なんですか?」
千華子が運転する光村にそう尋ねると、
「違うよ。これは、香ちゃんの車なんだよ」
後ろの座席に座った、篤が答えた。
「まあ、あんまり車を使うことなんてないからね」
確かに交通機関が発達している東京では、車を持っている人の方が少ないだろう。
光村の説明を聞きながら、千華子はそう思った。
「学校も歩いていけるところにあるし、まあ維持費もかかるから、近所にも持っていない人が多いわね」
ただ、それがどうも言い訳がましいと思うのは、気のせいなのだろうか。
「職員の方々は、車通勤の方ばかりですね」
「まあ、『愛育園 若草の(ち)家』は、駅も比較的近いし、バスの停留所もあるけど、帰る時間がどうしてもばらばらでしょ? 前は、朝の六時出勤とかあったしね」
「そ、それは……」
しかし次の光村の言葉には、その疑念も吹っ飛んでしまった。
「さすがに、そうなると始発とかに乗れる駅近くに住んでいる人達は良いだろうけど、無理な人は、自動車で通勤するしかないし、夜の十時までの勤務だったら、バスも最終出ているしね」
「ああ、なるほど」
「今は、人がいないからその必要もないけどね」
光村の言葉に千華子が納得して頷いていると、そう、愛理が切り込んできた。
「愛理さん」
「みんな、辞めていったもんね」
一瞬、車の中の雰囲気が凍り付いたような気がしたけれど、
「私はまだ辞めてないけど?」
光村の言葉で、その空気が一瞬にして変わった。
「私も、まだ辞めてないわよ、愛理さん」
千華子もそれに便乗して、言ってみる。
ちらっと後ろの座席を見ると、愛理はきっとした表情で、前の座席の方を見ていた。
「あ、着いた!」
何か苛立っているような愛理の苛立ちを吹き飛ばすかのように、芽衣が嬉しそうな声を上げる。
「芽衣ちゃん、まだ座っていてよ」
幼児の芽衣はチャイルドシートなので、勝手には降りないだろうが、何となく皆が浮き足立っている。
光村は、そう言いながら駐車場に車を止めた。
「千華さん、先に降りて子ども達を見ていて」
「あ、はい」
光村に言われた千華子は、頷いて助手席を降りた。
それと同時に、がらっと後頭部席のドアが開いて、篤が歓声を上げながら真っ先に降りてくる。
「篤君、勝手に店に入らないでよ!」
「悠馬じゃないから、大丈夫だよ」
光村の言葉に、篤はそう返事をする。
何気なく出てきた「悠馬」という名前に、千華子はぴくりと体を微かに揺らした。
それに気付いたのか、
「千華ちゃん、悠馬はいつ帰って来るの?」
と、篤が尋ねて来た。
「篤君、ケンカしたのに悠馬君に帰って来て欲しいの?」
千華子は、咄嗟にどう答えて良いかわからず、逆にそう尋ね返してしまった。
「だって、悠馬がいない間に俺達がご飯食べたってばれたら、あいつ絶対荒れるよ」
「まあ……そうだね」
一瞬。
「ずるいずるいずるい!」と、駄々をこねる悠馬の姿が脳裏に浮かんだ。
「帰って来なくていいわ、あんなキチガイ」
だけど。篤のすぐ近くにいた愛理が、素っ気無くそう言った。
「愛理さん」
「篤、あんただって、勝手にDSを触られたり、勝手に漫画を読まれたりしていたじゃない。そのくせ、注意したら逆切れ。いなくなって、清々しているのに、戻ってくるなんて、冗談じゃないわよ」
「愛理ちゃん。それ以上言うなら、車で皆が戻って来るのを待っていなさいよ」
だけど、車から出て来た光村が、そう言って愛理を咎める。
「何よ。ご飯食べさせないのは虐待よ!?」
「隣にコンビニあるし、おこずかいもあるでしょ? 虐待じゃありません。そう言うのは、自分勝手って言うの。それよりも、どうするの? 待っているの?」
文句を言う愛理を、相変わらず光村は軽くあしらう。
「早く入ろう!」
そうして、千華子のすぐ傍にいた芽衣の言葉に頷いて、
「そうね。早く入ろう」
と言いながら歩き出した。
光村の後を追いながら、千華子はちらっと後ろにいる愛理を見ると、ぶすくれた顔をしながらも、皆の後を着いて来る。
「いらっしゃいませ!」
芽衣がぐいっと入り口の扉を押して、皆で順番に入って行くと、カランカランと扉に付けられたベルが鳴って、店員が声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。何名様になりますか?」
「五名です」
「大変申し訳ないのですが、ただいま禁煙席が満席です。喫煙席なら空いておりますが、お待ちになられますか?」
大学生ぐらいの女性の店員にそう言われて、
「どうする?」
と、光村は子ども達に尋ねて来た。
「少し待つ?」
「芽衣ちゃん、お腹空いた!」
「いいよ、香ちゃん。私は別に気にしない」
「俺も!」
光村はちらっと愛理を見たが、愛理は何も言わなかった。
光村が愛理の扱い方を知っているように、愛理も光村の臨界点をきちんとわかっているのだろう。
「千華さんは大丈夫?」
「私は子ども達が良いなら、気にしません」
千華子も頷くと、
「はい、大丈夫です」
光村は店員にそう言った。
「できるだけ、禁煙席に近い席にご案内しますね」
ただ、そうは言っても子どもを何人も連れたお客だからと、若い女性の店員は思ったらしい。
比較的禁煙席に近い場所に案内してくれた。
「さて、何を注文しようかな?」
篤は早速奥の席に座り、メニュー表を開く。
「あ、芽衣ちゃんも!」
「芽衣ちゃんは奥に座るとトイレが大変だから、真ん中ね。千華さん、隣に座ってくれる?」
「わかりました」
光村の言葉に頷いて、千華子は篤と芽衣を挟むようにして、端の席に座った。
光村の方は、愛理を幸恵と挟むようにして、やはり向かい側の端に座る。
「俺、ハンバーグセットにしよう!」
「芽衣ちゃんお子様ランチ!」
「千華さんは何にする?」
「そうですね。唐揚げ定食にしようか、チキン南蛮にしようか……最近、あまり見ないから」
「あら。千華さん、チキン南蛮好きなの?」
「実家にいる時は、よく食べていたので」
千華子は何気なく言って、はっと我に返った。
千華子は中国地方の街にいたことになっている。
それなのに、九州・宮崎発祥の「チキン南蛮」をよく食べていた発言は、まずい。
「母がよく作っていたんです」
何気なく、そう付け加えてメニューを見て考え込むふりをする。
「私はステーキ定食」
向かい側に座った愛理は、メニューも見ずに言った。
「それから、ドリンクバーも付けてもらうから」
「じゃあ、皆にも付けようか?」
「いいの? 香ちゃん」
幸恵の方は、愛理と違って遠慮がちに言った。
「いいわよ。これくらいの贅沢は、やりましょう。私は、唐揚げ定食にしよう。幸恵ちゃんはどうする?」
「私は、ピザでいい」
「スナックセットも付けなさいよ。千華さんはどうする?」
「私はチキン南蛮定食にします」
「じゃあ、決まりかな」
光村は皆の注文を確認すると、テーブルの横に置いてある呼び出しのスイッチを押した。
ピンポーンと音が鳴り、
「はい、お待たせしました」
さっき席に案内してくれた若い女性の店員が、近付いて来た。
「ご注文はお決まりですか?」
そうして、注文を尋ねようとしてくれた時だった。
「ちょっと!こっちが先なんだけどっっっっ」
鋭く尖った声が聞こえた。それと同時に何か嫌なものを、千華子は感じる。
「はい?」
若い女性の店員は、その声の方に視線を向けた。
千華子もそちらの方に、視線向ける。
千華子達が座っている席の、すぐ近くの席に、四十代ぐらいの女性が座っていた。
「申し訳ありませんが、しばらくお待ちください。すぐに他の係の者が参ります」
「良いですよ。先にあちらに行かれてください」
文句を言ってきた女性の客に謝る店員に、光村はそう言った。
「すいません。すぐに伺いますので」
すると店員はほっとした表情になって、光村にぺこりと頭を下げると、怒鳴った女性が座っている席へと、急いで歩いて行った。
「芽衣ちゃんたちが先だったのに」
「まあ、いいじゃない。そんなにたいして変わんないよ」
そんな芽衣に、宥めるように千華子は言った。
「早くしてよ! だいたい、何であんな育ちの知れない子達を先に優先させるのよ!!」
だけど、苛立った女の声は、どうしても耳に刺さってくる。
どうして、あの女性はあんなにも苛立っているのか。と、その時だった。
ドウシテワタシダケ、ドウシテワタシダケ、ナンデアンタハエラソウニ、ワタシヨリモミジメナクセニッッッッッッッッッッッッッッ
「え……?」
アンタナンカ、アンタナンカ、アンタナンカアンタナンカ、アンタナンカッッッッッ!
それは、まるでどす黒い煙のようにも見えた。
女性から立ち上って来るものは、「声」となって、千華子の耳に届く。
「あの人、てんが君のお母さんだ」
それに混じって、芽衣の言葉が聞こえた。
「やっぱり、藤原さんだったのね」
次に、光村がため息を吐くように言う言葉が聞こえる。
そうして、その合間を縫うように、
ドウシテワタシダケ、ドウシテワタシダケ、ナンデアンタハエラソウニ、ワタシヨリモミジメナクセニッッッッッッッッッッッッッッ
女性の「声」が聞こえる。
「あなた、天ちゃんを呼んで来て」
「えっ? あ、あのお子様はどちらに……」
「あなた店員のくせに、天ちゃんを知らないの!?」
「あ、それは勝手に……きゃあああああ、駄目よっっっ!」
と、その時だった。
「声」と現実の会話が混じった中に、それを切り裂くように、女性の声で悲鳴が聞こえた。
その瞬間、ノイズのように聞こえていた「声」は、掻き消えた。
「ぎゃあああああ!」
代わりに、子どもの悲鳴が聞こえてくる。
「何……?」
千華子は、椅子から立ち上がり、悲鳴が聞こえた方に視線を向けた。
すると、ちょうど千華子達がいる席から、右斜め前のテーブルの前で、芽衣ぐらいの男の子が、喉を手で押さえながら、のた打ち回っていた。
「光村さん、救急車呼んでください!」
千華子は隣に座る芽衣を抱き上げながら、そう叫んだ。
「千華さん!?」
「口内火傷を起こしているみたいです!」
しかも、あの痛がりかたでは、重度だ。
千華子は芽衣を抱き上げたまま、テーブル席の外に出ると、芽衣を椅子の上に置きなおして、絶叫している男の子の方に向かおうとした。
「待って、千華さん!」
だが、それを光村が呼び止める。
「光村さん!?」
「きゃああああ、天ちゃん!」
その瞬間、近くの席に座っていたあの女性が、金切り声を上げた。
「いやあああ、何で? 何で!?」
「あんたのガキか!? 何でこんなクソガキを放置しているんだよ!」
その女性―「てんちゃん」の母親の声を聞いた、右斜め前のテーブルに座っていた男性が叫ぶ。
「このガキはなあ、俺達が注文した雑炊を一気飲みしやがったんだ!」
だが、次の瞬間に言われた言葉は。
千華子は、思わず「えっ?」と思ってしまった。
そんな時ではないのに、「えっ?」と思ってしまったのだ。
つまり。
今、のたうちまわっている「てんちゃん」と言われている男の子は、勝手に自分が注文していない、他の客が注文したものを食べたのだ。
しかも、熱い雑炊。
一気飲みなどしたらどうなるのか、想像に難くない。
「いやああああ、あんた達、天ちゃんに何したの!」
だが、「てんちゃん」の母親は、のたうちまわっている自分の息子の傍には行かず、叫んでいるだけだった。
「救急車は呼んだから。ここだったら、すぐに着くわ」
そんな中、冷静な声で光村が言った。
そして、確かに救急車のサイレンの音が、割れるようにして駐車場の方から聞こえて来た。
「後は、店と救急車の隊員達に任せましょう」
「はい」
千華子は、光村の言葉に頷くと、店の中に駆けて入って来る救急隊員達の邪魔にならないように、芽衣を抱き上げて、テーブルの席の中座りなおした。
と、その時だった。
「いい気味ね」
小さな声で、愛理がそう呟いた。
「愛理ちゃん」
それを、光村が首を振って咎めた。
「いいじゃない、別に。あの人私達のこと、『育ちの知れない子達』って言ったけど、自分の子どもが、あれよ」
そう呟く愛理の言葉を掻き消すように、救急隊員が通り過ぎて行く。
「本当に、いい気味だわ」
救急隊員が子どもを担架に寝かせたり、店員に話しかけたりする様子を見つめながら、愛理はもう一度、はっきりとそう呟いた。
その姿に。
千華子は、何か言いようのないものを感じた。
それが何なのかは、わからないけれど。
嫌な予感が、微かにした。
そして、それは、当たっていた。それが、始まりでもあったのだ。