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サイレント・ブルー  作者: kaku
10/15

10  劣化

―ナッくん。

 自分は、そう呼ばれていた。 

 いつも暗い部屋で一緒にいた。

―ママ、帰ってこないね。

―そうだね。

 そんなことを話しながら、いつも「ママ」が帰って来るのを待っていた。

 「ママ」は、いつも自分達の傍にはいなかった。

 時々帰って来て、「ご飯」を置いていった。

 だけど、その「ご飯」はもうない。

―はーちゃん、お腹が空いた。

―うん。もらいにいこうか。

―うん!

 泣きそうな顔をしていたのに、自分が立って手を伸ばすと、うれしそうな顔をした。

―ママ、早く帰って来るといいね。

 そうして、そう言った。

   自分も、そうだねと言った。

 だけど、「ママ」はいつまで経っても戻って来なかった。

                  

―坊!

 「みはる」の声が聞こえた。

―みはる……。

 気が付くと、そこは「おねえちゃん」のいるお部屋だった。

 「とうきょう」というところに来て、「おねえちゃん」が住み始めたお部屋。

―僕、どうしたの?

 たったったと、シロとクロも自分の方に来る。

―覚えておらぬのか? 坊は倒れたのじゃぞ。

―たおれた?

 「みはる」が言ったことに、自分はびっくりしてしまった。

―そうじゃ。あの方を尋ねてきた幼子を追いかけて行った後、急に倒れて……まあ、簡単言えば、眠ってしまったのじゃ。

 「みはる」はそう話してくれたけれど、よくわからなかった。

 ただ。あの女の子を見たとたん、何故か追いかけたくなった。

 そう。

 追いかけなきゃいけない、と思った。

―おねえちゃんは?

―仕事に行っておられる。

 自分が「おねえちゃん」のことを聞くと、「みはる」はそう教えてくれた。

―じゃあ、行かなきゃ。

 自分はそう言って、立ち上がった。

―これ、坊。

―だって、サイもハルもおじさんも、ひめおねえちゃんも、おねえちゃんのところにいるんでしょ?

 だったら、自分も行かなくちゃいけない。

 そう、思った。

―お前は倒れたのじゃぞ? 今しばらくは休んでおれ。

―ううん、大丈夫。

 そうして、自分はふわりとうかんだ。

 シロとクロも、自分の後を付いてくるようにうかんで来た。

―やれやれ。

 そう言って、「みはる」もうかんでくる。

 と、その時だった。

―おねえちゃん……!?

 何故か、急に胸がどきどきし始めたのだ。

―坊?

―おねえちゃんが、あぶない!

 自分は、傍に来た「みはる」に言った。

 そうしたら、すっと、「みはる」が手を伸ばして来て。

 いきなり、周りが変わった。


                  ★★★

 ショッピングセンターは、巨大な迷路のようだった。

 規模的には、郊外型のもののはずだ。

 だから、普通に買い物をする分には、そこまで困らない。

 だが、悠馬が乗った車が入ったショッピングセンターは、巨大な駐車場を持っていた。

 千華子はタクシーの運転手にショッピングセンターの出入り口で降ろしてもらったものの、悠馬をどう探そうかと、考えあぐねていた。

 悠馬達が乗った車を見たのは、ショッピングセンターの駐車場入口までだったのだ。

『多分、あの子達は西駐車場の方に車を止めるよ』

 と、降りる時にタクシーの運転手は教えてくれた。

 料金も、後日のツケにしてくれたので、それもありがたかった。

 自分の携帯番号を運転手に教え、タクシーの会社を携帯のテキストメモに書き込んだ千華子は、礼を言ってタクシーから降りた。

 そうして、ショッピングセンターの入口で、案内のパンフレットを入手して、それを広げる。

 二階立てのショッピングセンターは、一階が食料品と家庭用品雑貨、二階が衣料品を扱っている典型的なタイプのもので、その間に専門店も入っている。

 まずは、運転手が言っていた西駐車場の方に、建物の中から行ってみようと、千華子は思った。

 悠馬達が西駐車場から店の中に入ってくることを考えると、店の中から西駐車場に向かった方が、出会える可能性が高いと考えたのだ。

 パンフレットを片手に、小走りで移動しようとした時だった。

 ズボンのポケットに入れた携帯が、バイブで震えた。

 画面を確認すると、光村からだった。

「はい」

『千華さん? 今どこ?』

「ショッピングセンターの中です」

『建物の中にいるのね』

「はい。あの子達は、西駐車場の方に車を入れたみたいで。今からそちらに向かおうと思っているところです」

『それだったら千華さん、ゲームコーナーの方に行ってくれない?』

「え?でも……」

 それだと、悠馬達とすれ違ってしまうのではないだろうか。

 千華子はそう思ったが、

『さっきも言ったけど、こっちはこっちで動いているの。もうすぐしたら、圭君もこっちに来るから、私もそちらに行くわ』

 携帯電話の向こう側にいる光村は、そうきっぱりと言い切った。

「わかりました」

 その瞬間。

 警察が動いているのだと、千華子は確信した。

 光村は、はっきりとは言わなかったが、そういうことなのだろう。

 「警察」と言う言葉を使わないのは、千華子の周りを気にしてなのか、それとも子ども達に気遣ってなのか。

『着いたらまた連絡します。千華さんも、もし悠馬君達を見つけたら、連絡して』

「あ、はい」

 光村の言葉に、千華子は頷いて通話を切った。

 警察が動いている以上、千華子がヘタに動いても、邪魔になるに違いない。

 だからこそ、光村は千華子に「ゲームコーナーに行ってみて」と言ったのだ。

 確かに、車の封鎖をしようとしたところに、千華子がのこのこやって来て、千華子を見た悠馬達が逃げ出したら元も子もないだろう。

 それに、子どもが家を飛び出したりしたら、まず行くのはゲームセンターや本屋である。

 警察の邪魔にならず、じっと待っていることもできない千華子には、ゲームコーナーに行って、悠馬達の姿を探すのが一番良いのだろう。

 そう思って、案内のパンフレットを見ながら歩き出した時だった。

プルブルと、ズボンのポケットに入れた携帯がまた震えた。


『あっち』


 取り出した携帯の画面には、そんな文字が打ち出されていた。

「ナツ……?」

 千華子は、その文字を見て、小さく呟く。

 千華子の携帯に文字を打ち出せるのは、ナツ以外にいない。

 だが、ナツはマンスリーマンションに置いて来たのではないのか。

 携帯に付けたストラップの鈴が、まるで返事をするようにチリンッと鳴った。

「悠馬君がいるところ?」

 小さい声でそう呟くと、またチリンッと鈴が鳴った。

「こっち?」

 千華子が携帯でエスカレーターの方を指すと、鈴は鳴らなかった。

 つまり、二階に悠馬達はいない、ということだ。

 次に、千華子は雑貨売り場へと続く通路に携帯を動かした。

 今度も、鈴は鳴らない。

 レストラン街へと続く通路、そして食品売り場へと続く通路に向けても、鈴は鳴らなかった。

「もしかして……外?」

 千華子がそう呟くと、今度は鈴がチリンと鳴った。

 だが、千華子は考え込んでしまった。

 光村は「ゲームコーナーを探して」と言われている。

 それに、今、外に出れば警察の捜査の邪魔になってしまうかもしれないのだ。

 だけど。

 チリンっと、鈴が鳴った。

「わかった。行こう、ナツ」

 倒れてしまっていたナツが、わざわざ自分のところに来て、こうやって教えてくれるのだ。

 何か、あるのだと千華子は思った。

 おそらくは、自分や警察みたいに生きている人間には、わからないものが幽霊のナツには見えるに違いない。

 千華子は携帯を手に持ったまま、外に出た。

 ショッピングセンターは、出入り口から出たとたん、広大な駐車場になっている。

 チリンと、右手に持った携帯のストラップの鈴が鳴った。

「こっち?」

 小さい声で聞くと、チリンとまた鈴が鳴る。

 千華子は、出入り口からすぐに右の方向に走り出した。

 だけど、すぐに駐車場を囲む植木のレンガに阻まれる。

「ナツ?」

 小さく尋ねるようにナツの名を呼ぶと、チリン、チリンと、鈴が二回続けて鳴った。

 つまり、「こっち」で正解、と言うことらしい。

 千華子は、頭を手でぽりぽりと掻いたが、植え込みのレンガの上にひょいっと上り、植木と植木の間にある隙間を探して、そこを通り抜けた。

 チリン、チリン、チリンと鈴がまたしても続けて鳴った。

 どうも、焦っているような感じがする。

「こっち?」

 千華子が携帯を持った手を右側に向けると、鈴は鳴らなかった。

 つまり、左ということなのだろう。

 そのまま、千華子は左側の方に走り出した。

 しばらくすると、水の流れる音が聞こえてきた。

「川……?」

『新見さんが天降川で死ぬ前にね、幼稚園の男の子がやっぱり天降川で水死体として発見されたの。だから、新見さんが続けて死んだ時、地元じゃけっこう大騒ぎだったの。だって、二人続けてだからね。だけど、その男の子が中学の制服を着た女の子と一緒だったという目撃証言があったらしくて……新見さん、その時、学校休んでいたらしいの』

 どうして、今。

 柚木の言葉を、思い出すのか。

 チリンチリンチリンと、鈴が鳴った。

 ふいに、目の前にゆらっと人影が見えたような気がした。

 それは、ゆらゆらとまるで陽炎のように、アスファルトの道路の上に浮かび上がって見える。

「足……?」

 子どもの足のようなものが、千華子の前を走っていた。

 チリン、チリン、チリンと鈴が何かを告げるように鳴る。

 千華子は携帯を握り締めると、その足の影を追って走り出した。

 同じことが、起きようとしているのかもしれない。

 川に突き落とす。

 それは、一番やりやすい人の殺し方なのかもしれない。

 深さがあれば、泳げなかった場合は、溺死する。

 新見じゅえるがしていたかもしれないことを。

 悠馬が「ひー君」と呼ぶ子も、しようとしているのだ、おそらくは。

 今ならまだ、間に合う。

 まだ、止められる。

 それは、千華子にとって突き動かされる、十分な理由だった。

 誰のために、とか。

 何のために、とか。

 その時、千華子はそんなことは考えていなかった。

 ただ、今なら間に合うと。

 それだけの感情(おもい)が、千華子を突き動かしていた。

 チリンチリンチリンと、手に握り締めた携帯のストラップの鈴が、まるで「早く、早く」と言っているように、繰り返し鳴った。

 そうして、ふと気が付くと、橋の袂まで来ていた。

 だけど、子どもの足のような影は、橋を渡らずに、道の横にある川原へと降りていく階段に向かっている。

 千華子は、躊躇なくその後を追った。

「悠馬君!」

 間に合った。

 その姿を見たとたん、千華子は、まずそう思った。

 川の真ん中に、悠馬はいた。そう。川の中に入っていたのだ。

 しかし、悠馬は一人だけで川に入っていたのではなかった。

 もう一人、川の中に入っている人物がいた。

 その子は、中学生ぐらいに見えた。

「何で人がいるんだよっ!」

 中学生ぐらいの男の子―おそらくは、この子が悠馬の言っていた「ひー君」だろう。悠馬の首を、両手でぎゅっと握り締めていた。

「何をしているの!」

 だが千華子は、その「ひー君」の叫び声を遮るようにして、叫んだ。

「いらない子を殺しているんだよ」

 だけど、「ひー君」は淡々とした言葉でそう言った。

 千華子を見た時に出した声とは、まるで正反対だった。

 その声は淡々としすぎていて―千華子は、一瞬で体に寒気が走ったことを感じた。

 人を殺す、ということ。

 それは、単純なことではないはずだ。

 何故、人を殺してはいけないか。

 はるか昔太古の時代から、人は理由もなしに、他人を殺すことは良しとしなかった。

 他人を殺すのは、自分が生き延びるためだった。

 それは、動物の本能でもあったから、仕方がない部分はあったのかもしれない。

 確かに、今だって戦争はある。テロだってある。

 だけど、今の日本では、それはあまりにも遠い。

 日常的では、昔のように「生きるために人を殺す」と言うことは、起こりえない。

 だけど。それでも、人は人を殺す。

 恨みや怒りからだけではなく、罪もない、何の関係もない人達を殺そうとする人達がいる。

 何故、なのか。

 何故、自分達よりも小さい子どもを、殺そうと思うのか。

「助け……」

 悠馬は、朦朧としているのか、虚ろな瞳を千華子に向けて、手を伸ばしてきた。

「悠馬君!」

「動くなっ!」

 千華子は、悠馬に近づこうと川の中に入ろうとしたが、「ひー君」はそう叫んだ。

「あんたが動いたら、俺、こいつの首絞めるよ?」

 そうして、半笑いの顔で千華子を見た。

 何故に。

 何故にそんな笑いで、人を見るのか。

 全てを超越したような瞳をして。

 自分が何もかも知っているような顔をして。

 どうしたらいい、と千華子は思った。

 千華子はこれまでの人生において、殺人犯と対峙したことなんてない。

 普通に生活していたら、そんなことはまず、めったにない。

 だけど、今。

 目の前にある現実は、そんなことは「関係ない」と切り捨てる。

 今、できることは。

「こいつは、殺しても良いんだよ」

 自分をじっと見つめ、でも動けない千華子を見て、「ひー君」は笑った。

「こいつの親は、こいつが死ぬことを望んでいる。キチガイの子どもはいらないんだってさぁ」

『だから、探したの。人を殺して欲しい人達が集まっているサイト。そしたら、簡単に見つかった。ねえ先生、知ってた? 世の中には、自分の子どもを殺して欲しいと思う人がたくさんいるんだね』

 その「ひー君」の言う言葉に、新見じゅえるが千華子に言った言葉が重なる。

 がんっと頭を叩かれたような衝撃を、千華子は感じた。

 この子もまた、あのサイトを見たのだ。

 我が子の死を望む親が集うサイトを。

「愛理がこいつのことキチガイだって言ってたし、親も言ってたし、キチガイは死んだ方が、いいんだよ」

 千華子は持っていた携帯を、ぎゅっと握り締めた。

 何故。

 何故、自分は人を殺しても良いと思うのか。

 新見じゅえるは、母親を見返すためにあのサイトを見て、自分より幼い子を殺すことを選んだ。

 ならばこの「ひー君」も同じように、誰かを見返すために、悠馬を殺すと言うのだろうか。

「いいんだよ。どうせ、愛理と同じいる場所 にいる奴だろう? 親から捨てられた子なんだから、殺したって、哀しむ奴なんていないだろう?ましてコイツは、親がコイツのことをいらないから殺してくれって言っているんだぜ?」

 その瞬間。びくんっと悠馬の体が震えた。

「何? お前、本当に母親が迎えに来てくれるって信じてたワケ? キチガイのくせに、そんなこと信じていたんだ? 」

 あざ笑うかのように、「ひー君」は、悠馬の方を見て言った。

「お前、キチガイのくせにずうずうしいんだよ。キチガイならキチガイらしく、殺されたらいいんだよ!」

「……だから、何?」

 まるで正義の味方のごとく、「ひー君」がそう叫んだ時だった。

 するりと、千華子の口からそんな言葉が出た。

「それが、どうしたって言うの?」

「あんた、馬鹿か?」

 「ひー君」は悠馬から千華子の方に、視線を向けた。

「俺の言ったこと、理解できないのか?」

「あなたの言った通りだったとしても、この子には、探してくれる人達がいるわ。この子がいなくなった時、心配して、探そうとする人達がいる!」

「金で雇われた奴らじゃねえかっっ」

 千華子の言葉に、「ひー君」はせせら笑った。

「金で雇われていようが何だろうが、この子がいなくなったら私は探すわ! 例えこの子や私があなたに殺されても、他の人達が、この子や私を探すわよ!!」

 そう。

 確かに、今の千華子は児童養護施設の職員だった。

 給料をもらい、悠馬達の面倒を見るのが「仕事」だった。

 けれど、それが「仕事」であっても、悠馬を心配して、探そうという気持ちは嘘ではなかった。

 それは、光村や野間とて同じはずなのだ。

「うるせぇ!」

 悠馬の首から手を離し、「ひー君」は叫んだ。

 じゃばんっと、川の中に悠馬の体が落ちる。

 だが、浅瀬のようで、沈む込むことはなく、半立ちで、悠馬は、ごほごほと咳き込む。

「……じゃあ、あなたはどうなの?」

 千華子はそれを確認しつつ、言葉を紡いだ。

 人を傷つけるのに、何も、体だけを攻撃する必要はないのだ。

 言葉でも、人は傷つけることはできる。

 核心を突き。

 一番心を―魂を打ち砕く言葉を紡げばいい。

 ぱちゃんと、水の音がした。

「あなたには、いるの? お金を払ってもらわなくても、いなくなったあなたを、心配して探してくれる人」

 その瞬間。

 「ひー君」の体が、ぶるぶると震えだした。

「いるのよね? 悠馬君を『殺していい』って言っているんだから、あなたには、そんな人達がいるんでしょう?」

 それは、彼が一番言われたくない言葉だった。

 そんな人達は、いない。

 少なくとも、この「ひー君」は、「いない」と思っている。

 だからこそ、あのサイトの殺人代行の依頼を見て、人を殺そう、と決めたのだ。

「うるさい、うるさい、うるさい!」

 「ひー君」はそう叫んで、ばちゃっと、千華子の方に一歩踏み出して来る。

「あなたには、誰もいないのね」

 だから。千華子は、また言葉を紡いだ。

 自分が助かるために。

 悠馬が助かるために。

 彼の(こころ)を打ち砕く言葉を。

「悠馬君の母親は、確かにあなたに殺人を依頼したのかもしれない。だけど、悠馬君には心配する人達はいる」

 たとえ、お金をもらっての「仕事」であろうとも、悠馬を心配する人達はいる。 そして、それは「仕事」の部分だけではなくて、「情」の部分があるのも確かなのだ。

「でも、あなたには誰もいないのね。あなたを、心配してくれる人は」

 それは、「闇」だった。

 この「ひー君」が、抱えているであろう「闇」。

 自分が一人だと、感じている「闇」。それを、千華子はわかる(・・・)こと(・・)が(・)できた(・・・)。

 だからこそ、彼は悠馬を殺そうとしたのだ。

 誰かに、見て欲しくて。

 自分を、認めて欲しくて。

「あなたは、一人ぼっちなんだ」

 ぱりーんと、何かが砕け散る音が聞こえたような気がした。

「あっ、あっ、あっ……」

 ばちゃんっと、「ひー君」の体が崩れるようにして川の中に落ちる。

 だけど悠馬の時と同じで、浅い場所だったので、腰までの部分が沈んだだけだった。

「あああああああああああああ!」

 そうして、まるで天に届くがごとく絶叫が響いた。

 あの時と―広川由香が闇の中で叫んだ時と、同じように。

 (こころ)を打ち砕かれた者が、叫んでいる。

 ただ違うのは、(こころ)を打ち砕く言葉を紡いだのは、千華子だと言うことだった。

「―ごめんね……」

 その叫び声を聞きながら、千華子は小さく呟いた。

 携帯を、両手でぎゅっと握り締める。

 遠くの方で、パトカーのサイレンが鳴り響いていた。


―思い上がりも甚だしいことじゃ。

 長いお椅子に座る「おねえちゃん」を見て、「おじさん」が言った。

ー蛟。

 「みはる」が、ちょっと困ったようにして「おじさん」の名前を言う。

―己が助かるために「力」を使ったことを、何故に後悔せねばならぬ? 「力」を使わねば、あの罪人に殺されたかもしれぬのに。

―「子ども」が相手だったけんよ。うちが守って(実)いる(華)人(子)も、「子ども」は「守る存在(もの)」と思っとらすけんね。

 と、「ぬい」もそう言った。

―己を殺そうとした者ぞ? それを救えると思うのが、思い上がりなのじゃ。

 だけど、やっぱり「おじさん」は怒っていた。

「お待たせしました、瓜生さん」

「加藤さん」

 「おねえちゃん」の方は、廊下を歩いてきた人とお話を始めている。

「すいません。確認を取るのが遅くなりました」

「確認?」

 「おねえちゃん」は不思議そうなお顔をしていたけれど、

―薬物を使ったかと、疑われたか。

 とても怖いお声で、「にんじゃ」の人が言った。

「はい。でも、もう確認も取れましたから、瓜生さんは戻られても大丈夫です」

 「おねえちゃん」が「かとうさん」と呼んでいる人は、そう「おねえちゃん」に言っている。

「わかりました。ただ、一つお尋ねしたいことがあるんです」

「何でしょうか?」

「もしかして、私の携帯は、GPS機能で追跡されるようになっているんですか?」

 「おねえちゃん」がそう聞くと、「かとうさん」は、黙ってしまった。

「……すいません、捜査上のことはお答えできないんです」

「そうですか……」

 「かとうさん」は、ぺこりと頭を下げた。

―つまり、監視をしているということじゃな。あの小僧に薬を使ったことを疑ったのも、その監視の一つか。

 それを見て、「にんじゃ」の人はやっぱり怒っているように言った。

―でも、おねえちゃんは、あの人とお話していただけだよ。

 そう。

 自分が「みはる」に「おねえちゃん」のところに連れて行ってもらった時、「おねえちゃん」は、「ゆうまくん」を探していた。

 「ゆうれい」である自分には、「ゆうまくん」が、大きいおにいちゃんと一緒に歩いていたのを見つけることができた。

 だから、鈴を鳴らして「おねえちゃん」に「ゆうまくん」のところまで連れて行ったのだ。

 「みはる」から、大きいおにいちゃんが「ゆうまくん」をころそうとしていると聞いた時は、本当にこわかった。

 だからあわててしまったけれど、「おねえちゃん」はちゃんと「ゆうまくん」のところまで着いて来てくれた。

 そうして、「ゆうまくん」をころそうとしていた大きいおにいちゃんのじゃまをしたのだ。

 でも、「おねえちゃん」がやったことは、大きいおにいちゃんとお話しをしたことだけだ。

―それが、あの子の「力」。あの子には、人の痛みが見える(・・・)の。いつもだったら、それを「癒し」に使うけれど、今回は、「攻撃」に使ったの。

 「ひめおねえちゃん」がそう教えてくれたけど、自分にはよくわからなかった。

―怪我をしたところに、さらに攻撃をして、傷を深くしたのじゃ。

 「セイ」も、そう言ってきたけれど、やっぱりよくわからなかった。

 ただ、わかるのは。

 「おねえちゃん」が、あの大きいおにいちゃんをすごく傷つけて、だけどそれをすごく哀しく思っている。

 それだけは、わかることができた。

―それが、思い上がりなのじゃ。あの小僧が刃物なぞを持っていたら、どうなっていたのかわからぬのに。

―おじさんは、おねえちゃんのことが嫌いなの?

 それでもずっと怒っている「おじさん」に、自分はそう聞いてみた。

―え、あ、え?

―だって、ずっとおねえちゃんをおこっているもん。おねえちゃんのこと嫌いなの?

―あの、え、その、あ、あのな。

―坊主、蛟はツンデレなのじゃ。

 「おじさん」がすごく困っていて、「ひな人形」の人が笑いながらそう言った。

―つんでれ?

―これ、セイ!

 「みはる」が慌てたように呼んでいる。

―あの方のことが心配じゃから、怒っているのじゃよ。

―あ、あ、あのなあ、セイ!

―じゃあ、おねえちゃんのことおこっていないの?

―怒ってはおるぞ。心配じゃからな。

 「ひな人形」の人が言うことは難しくて、よくわからなかった。

―千の姫を心配するからこそ、蛟は怒るのじゃ。千の姫が、傷ついたりつらいめにあったりして欲しくないのじゃからな。

 しゃがみこんで、自分を見て「みはる」がそう言った。

 今度は、少しだけわかるような気がした。

 そう言えば、「おねえちゃん」に助けを求めていた、「じゅえる」という人が来た時は、「にんじゃ」の人も、「ひな人形」の人も、「みはる」もすごく怒っていた。

 「おねえちゃん」を、つらい目にあわせたと言って。

「話は終わりましたか?」

 だけど。この声が聞こえてきたとたん、「みはる」は、がばっと立った。

 さっきまで慌てていた「おじさん」も、怖いお顔をして、「おねえちゃん」に話しかけている人を見ていた。

 その人は、「お顔のない人」だった。


「烏丸さん……」

 千華子は、自分の前に立つ烏丸を見て、目を丸くした。

「お迎えに来ました」

 烏丸はそんな千華子に微笑みを浮かべて、そう言った。

 素人の千華子でさえ不自然に思うことを。

「わざわざ、烏丸さんがですか?」

「私も取り調べを受けたからついでですよ」

「烏丸さんまで?」

「私が、悠馬君の担当ですからね。と言っても、くわしいことは、中塚先生の記録ぐらいしかないんですが」

 千華子は、烏丸を見た。嘘を言っているとは思えなかった。

 だけど。

 何か、陽炎のように揺らめいて見えるのだ。

 千華子にとっては、幽霊のナツの方が、よほど信頼できる。

「お迎えの方ですか?」

 加藤が、話している烏丸に声をかけてきた。

「はい。児童相談員の烏丸です。瓜生さんは、もう戻っても大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ」

 烏丸の言葉に、加藤は頷いた。

「ありがとうございます。それじゃあ、行きましょうか、瓜生さん」

 烏丸はぺこりと加藤に頭を下げると、千華子にそう言った。

「……はい」

 本当は嫌だったが、拒否する理由もなかった。

 ここは舞場市の警察署だが、ショッピングセンターまではタクシーで、そして悠馬が殺害されようとした川岸(げんば)からは、加藤が乗っていたパトカーで移動した千華子には、「若草の家」までの帰り道がわからないこともあった。

 烏丸が送ってくれると言うのであれば、それは時間の節約にもなる。

 何せ、今は仕事時間中なのだ。

 千華子は、悠馬の件のこともあるから、できるだけ早く「若草の家」に戻りたかった。

 烏丸の後を続いて、千華子は階段を降りた。

 取調室みたいな場所は警察署の三階にあるので、帰るには一階まで階段で降りなければならないのだ。

 そんなことを千華子が考えながら、三階の踊り場まで降りた時だった。

「あんた達ね!?」

 その空間いっぱいに、甲高い声が響いた。

 声のした方を見ると、二階の踊り場から続く階段に、両脇を私服の刑事に挟まれた、中年の女性が立っていた。

 その女性は、きっとした表情で、千華子達を睨み付けている。

「あんた達がよけいなことをするから、こんなことになったのよ!」

 それは、尖った声だった。

 千華子は、はっとなって、その女性を見た。

 そんな千華子の表情を見たせいか、女性はそのまま、階段を駆け上がって来そうになったが、両脇の刑事達に止められる。

友永(ともなが)さん、落ち着いてください!」

「あんた達のせいで、あんた達のせいで、計画が全ておじゃんよっっっ! やっと…やっと、幸せになれると思ったのに!!」

 刑事達から押さえつけられたその女性は、千華子へと手を伸ばした。

 それが、一瞬「ひー君」に首を絞められながら、千華子へと手を伸ばして来た悠馬の姿と重なる。

「私は……一人の『大人』として、対応しただけです」

 その瞬間。

 千華子は、女性に―悠馬の母親に向かって、そう言っていた。

 おそらく、どんな言葉を使っても、この悠馬の母親には、あの時の悠馬の様子を伝えることはできないだろう。

 母親に会えると信じて、そしてそれを本当に心の底からうれしく思っていたのに。

 「母親は、自分が死ぬことを望んでいる」と知って、殺されかけて。

 あの時の悠馬は、どんな気持ちでいたのか。

 千華子は、自分で教員を辞めると決めた時に言われた、母や父の言葉が今でも心に引っ掛っている。

 大人である千華子ですら、父親や母親の言動には傷ついているのに、子どもである悠馬は、母親が自分の死を望んでいると知って、どれだけの衝撃を受けたのか。

 言いたいことは山ほどあったが、今のこの悠馬の母親に言っても、何も伝わらないことはわかっていた。

「あの子さえいなければ、私は幸せになれるのよ!」

 だけど。

 せめて、「我が子を殺そうとすることは、常識的におかしい」と伝えたかったけれど、それすらも、悠馬の母親には伝わらないようだった。

「私に、一生あの子を面倒みていろって言うの!?」

「行きましょう、瓜生さん」

 烏丸はそう言うと、今来た階段を戻り始めた。

「非常階段の方から降りましょう」

 千華子は、黙って烏丸の後を追った。

「返してよ、私の幸せを返して!」

 後ろから、悠馬の母親が叫んでいる声が聞こえた。

 四階に戻って、建物の外にあるらしい非常階段へと向かう。

「何で、あんなことを言われたんですか?」

 ぎいっと非常階段のドアを開けた後、烏丸は、千華子にそう尋ねて来た。

 非常階段に出たとたん、かっと、夏の日差しが突き刺さって来た。

 その眩しさに、千華子は目を細める。

「本当に、信じているのか? 人間が生まれつき、母性や父性を持っていると」

 だが、この烏丸の問いかけには、はっとなった。

「烏丸さん……?」

 振り返った烏丸の顔は、あの時と同じものだった。

 そう。千華子と初めて出会った時。

 そなえられた花束を見て、「自己陶酔の塊だな」と言っていたー。

「あの母親は、シングルであの子どもを育てていた。だが、あんたも知ってのとおり、子どもは発達障害だ。しかも、こだわりが強くて、パニックを起こすと、攻撃するタイプ」

 夏の日差しを遮るように、風が吹き、烏丸の髪を揺らす。

「療育を受けさせようにも、あの手のものは平日の午前中ぐらいしかやっていない。生活していくのが手一杯のシングルマザーには、手に余る物件だろうさ」

 烏丸の口調は、あの時と同じものになっていた。

「でも、それが子どもを殺す理由にはならないと思います」

 自分の髪も、風になびいていくのを感じながら、千華子はそう言った。

 確かに、そんな中生活をしていくのは大変だったかもしれない。

 だけど、それが子どもを殺す理由にはならないはずなのだ。

 母親が自分の「死」を望んでいることを知った悠馬の顔は、絶望に満ちていた。

 そして、死してもなお、自分の母親に拒絶された子ども達は、死よりも寂しい場所に行かなければならなかった。

 それは、子ども達自身のせいなのだろうか? 

 子ども達自身が悪かったから、普通の子ども達ならば当然与えられる母親の「愛情」を、もらえなかったのだろうか?

「『衣食住を足りて礼節を知る』」

 だが、そんな千華子をあざ笑うかのように、烏丸は言った。

「大抵の生き物は、優秀な子孫を残すために、弱い子は見殺しにする。それは、生き物としての本能だ。ただ、人間はやっかいなことに、『理性』ってヤツがある。だからまあ、ハンデのある子どもも見捨てることなく、育てようとする。だがな、それは余裕があるからさ。精神的余裕があって、初めて、『理性』ってヤツは発動する。実際、幼いわが子がどんな運命を辿るかわかっていても、人買いに子を売る親は、世界中にいくらでも存在しているだろう?」

 確かに、それは事実だった。

 子どもの人身売買。そ

 れは今なお、存在している。けれど。

「だったら、考えればいい。その方法を。どうすれば、良いのか。それが、大人の役目じゃないんですか? 」

 千華子は、あざ笑う表情をした烏丸を真っ直ぐに見ながら言った。

「綺麗事を言っているな」

「子ども自身が悪いと言う結論には、納得できません」

 そして、だから殺されてしまうんだ、と言う理由になるのも。

「あんたは、そう思えるように育ったんだな」

 そう言いながら、烏丸は前を向いた。

「だが、世の中には、そう考えられない人間もいるんだ」

 それから、風に逆らうようにして、階段を降り始めた。

 下から吹いてくる風に髪をかき乱されながら、千華子はそんな烏丸の後ろ姿を見下ろした。

 そうして、確信する。

 この男は、児童相談員ではない、と。

 多分、違う異質な何か。

 自分とは違う、何か。

 彼の正体はわからないけれど。

 自分とは、違う。

 それだけは、確信することができた。


「千華さん、お疲れ様」

 「若草の家」に戻ったのは、もう夜の九時を過ぎた時刻だった。

 玄関の明かりを頼りに、一番奥の台所に入ると、待っていてくれたらしい、光村が声をかけてきた。

「ただ今戻りました」

 千華子は、そう言ってペコリと頭を下げた。

「とりあえず、ご飯を食べて。ご飯を食べながら、くわしいことは話しましょう」

「わかりました」

「じゃあ、準備するわね」

 そんなことを言いながら、光村か椅子から立ち上がった時だった。

「こんな奴に、ご飯何て出す必要ないですよ」

 野間が、千華子を睨み付けながら、台所に入って来た。

「圭君、あなたはもう帰って良いって言ったでしょう?」

「光村さん、こいつのせいでこんなことになたんですよっ! 何で『お疲れ様』なんて言えるんですか!?」

 落ち着いた口調で言う光村に対して、野間は声を荒げた。

「言えるわ。飛び出した悠馬君を追っていって、探してくれて、殺されそうな現場に居合わせて、悠馬を助けてくれて、警察の取調べまで、受けてから帰って来てくれたのよ。これで、『お疲れ様』と言うなと言うの?」

「それは自業自得だろうが!」

「違うわ」

 その瞬間。

 光村の口調が厳しいものとなる。

「自業自得でも何でもない。彼女は、今回、良く対応してくれました。悠馬君が出て行った件で彼女の責任だと言うのであれば、今回の件。まちがいなく、責はあなたにあります、野間(・・)さん(・・)」

 光村は野間のことを「圭君」と呼ばずに、「野間さん」と言った。

「言うまでもなく、愛理ちゃんに悠馬君の母親が彼の引き取りを拒否していることを教えたのは、あなたのミスです。あれは、悠馬君自身にもまだ言うべきことではなかった。なのに、あなたは全然関係のない、愛理ちゃんにそのことを教えた。仮に、今回のことが起こらなかったとしても、それは、やってはいけないミスでした」

「俺は……俺は、あいつに現実を教えたくて……!」

「小学三年生の子どもに、自分がキチガイだから母親に拒絶されるのだと、あなたは教えたかったの? 野間さん」

 それは、あまりにも無謀のように、千華子には思えた。

 そもそも、悠馬は「キチガイ」ではない。

 「広汎性発達障害」という、障害の持ち主なのだ。

 その障害がネックとなって、母親が引き取りを拒否している事実は、悠馬には理解することは難しいだろう。

「児相が悠馬君の帰宅を打診し始めたのは、あの子の療育を進めるためよ。今のままじゃ、あの子のために、良い療育は受けられないからね。お薬が効いていることもあって、家庭に戻して療育が進められないかってことだったんだけど、少し早かったか、という結論の基、あの子にはそれを目標にさせてみようか、という方針だったのよ。その会議には、あなたもいたわよね?」

 そこで一度、光村は言葉を切った。

「私達が話し合って決めた方針(こと)を、あなたは勝手な判断で反故にしたのよ。あなた個人の考えは、問題じゃないわ。あなたが勝手に判断して、関係のない子どもに伝えるべきでないことを伝えた、それが問題なのよ」

「光村さん……!」

「自宅待機をしてください、野間さん」

 何かを言おうとした野間を遮るように、光村は言った。

 その厳しい口調に、千華子は言葉もなかった。

「首ってことですか!?」

 さすがに、野間も青い顔になっている。

「俺がいなくて、どうやってここを回していくつもりですかっ!」

「あなたの件に関しては、私が一任されています。今のあなたがいても、子ども達には良い影響があるとは思えません。こちらから連絡があるまでは、自宅待機をしていてください」

 必死になって野間は光村に言いすがったが、彼女は、淡々とした表情でそう言った。

「辞めてやるよ、こんな職場(とこ)!」

 だがそれは、いっそう野間の感情を煽ったのだろう。

 そう荒げた声で叫ぶと、野間は台所を飛び出した。

 そのまま、ばたばたと走る音がして、ばんっとドアを開ける音が聞こえた。

 光村は、それを、目を伏せて黙って聞いていた。

 それを見て千華子は、光村だって、野間にあんなことを言いたくなかったのだと気付いた。

 ただ。

 野間は悠馬が怒って出て行ったのは、千華子が悪いんだと考えていた。

 愛理に悠馬の母親が引き取りを拒否していると、笑いながら教えた自分を、少しもおかしいとは思っていなかった。

 多分、この後ずっとここにいることになっても、野間は自分がやったことを、「おかしい」とは思わないだろう。

 悠馬をキチガイ扱いして、自分は正しいんだと信じて、やっていくのだろう。

 悠馬への方針を無視しているのにも関わらず、である。

 どうして野間がそう考えるのか、千華子にはわからない。

 ただ彼が「自分は正しい」と思っている以上、これからのことを考えれば、共に働いていけないのは、あきらかだった。

「……良い先生だったのよ」

 やがて、光村はポツリと言った。

 千華子は黙って、光村を見た。

「この仕事をね、辞めないでいてくれた。それが、一番『良い先生』なのよ、この仕事ではね」

 光村はそう言って、炊飯器の前まで行くと、ぱかっと蓋を開けて、ご飯を茶碗に入れ始めた。

 千華子は光村に近づくと、ご飯を入れてもらった茶碗を受け取る。

「ありがとうございます」

「それでね、千華さん。今後のことなんだけど。明日夜勤が開けたら、悠馬君がいる病院に行ってください」

 茶碗を千華子に渡した光村は、今度は冷蔵庫の方に行って、扉を開けると、中からお皿を取り出した。

 そうして、それを冷蔵庫の上に置いてある電子レンジに入れると、ボタンを押した。

「私で良いんですか?」

 千華子は、ピッピッと電子レンジのボタンを押される音を聞きながら、光村に聞いた。

「悠馬君は、児相の預かりになりました」

 一方光村は、そう言いながら、今度はガスコンロの前に立ち、コンロのスイッチを入れる。

 ぼっと火が付く音がして、ガスコンロの上に置かれた鍋が、カタッと揺れた。

「お見舞いに行くのは、悠馬君の様子見と、児相への引継ぎなの。児相への引継ぎは、私が書類を作成するから、それを渡すだけで大丈夫です」

 ピッピッピッと、電子レンジが鳴り、千華子は電子レンジの扉を開けて、中からお皿を取り出した。お皿に載っていたのは、ハンバーグだった。

「幸恵ちゃんが作ってくれたのよ」

 光村は、鍋をかき混ぜながら、そう教えてくれた。

 綺麗に盛り付けられたお皿をテーブルの上に置き、千華子はおはしを食器入れの引き出しから取り出した。

 受験生の幸恵に、ご飯を作ってもらわなければならない程、光村達もパタパタしていたのだろう。渦中の人になった愛理や悠馬もそれどころではなかっただろうし、千華子がいない間は、ここも大変だったに違いない。

 今は子ども達も眠っているのか、とても静かだった。

「おそらく、明日からかなり忙しくなるわ。悠馬君が児相に移ったり、野間さんがいなくなったりしたことで、子ども達も動揺するだろうしね。とりあえず、私はしばらく泊まりを続けます」

「それは……大丈夫なんですか?」

 千華子は、お箸をテーブルの上に置いて、光村に尋ねた。

「緊急事態だからね。良いも悪いもないわよ。ただ、新しい人は、もう来る予定なの。本当は、その人を入れて四人体制で行くつもりだったんだけどね……」

 光村は、スープ皿にスープを注ぐと、千華子が座る席の前に、それを置いた。

「千華さんも入ったばっかりだし、その人が慣れるまで、私がしばらく泊まり込んだ方が、早いと思ってね。私も気楽な独身だし、千華さんとその人に夜勤を任せられるようになるまでは、そうします」

「……」

 千華子は、何も言えなかった。

 子ども達のことを考えれば、光村の言う通りにするのが一番だった。

『良い先生だったのよ』

 と、光村は野間のことをそう言っていた。

 千華子から見れば、問題ありまくりの野間でも、一日ごとに来る夜勤をこなして、仕事を頑張っていたのだ。

「千華さんは、明日は八時半に夜勤明けになるから、児相の人と一緒に悠馬君の病院に行ってください。悠馬君には……もし伝えられるなら、『元気で』と伝えて。あ、温かいうちに食べて」

「あ、はい」

 光村にそう言われて、千華子はテーブルの席に座った。

 そうしてお箸を持った千華子を見て、

「それじゃあ、私は事務所で仕事しているから。それを食べて食器を洗ったら、お風呂に入って休んでください。就寝は居間で。布団は敷いてあります。勤務時間以外になるから、好きに過ごしていいけれど、芽衣ちゃんが寝ているから、静かにね」

 そう言って、光村は微笑んだ。

「わかりました」

 千華子が頷くのを見て、光村は台所から出て行った。

 と、その時だった。

 チリンと、ズボンの中に入れた、携帯のストラップの鈴が鳴った。


『だいじょうぶ』


 千華子がポケットの中から携帯を取り出すと、そんな言葉がテキスト画面に打ち出されていた。

「まあ……大丈夫にするしかないよね」

 携帯をテーブルにぽんっと置くと、千華子は椅子の背に体をもたれさせた。

 あれから、千華子は烏丸が運転する車でこの「愛育園 若草の家」に戻って来たのだが、車の中は何の会話もなく、カーラジオが聞こえてくるのみだった。

 車に乗っていた時間は二十分ぐらいだったが、千華子は、すっかり疲れてしまった。

 それなのに、帰って来た早々に野間の「辞めてやる!」という騒ぎがあり、「明日からは大変になる」と予告されて、何と言うか、さらに疲れてしまったのだ。

「まあ……でも、私がこんなことを言っちゃいけないんだよ」

 だけど。

 救急車で病院へと運ばれた悠馬のことを思い浮かべながら、千華子はもたれさせた体を起こした。

「私より、悠馬君の方が大変なんだから」

 今一番傷ついているのは、自分ではない。

 一番愛して欲しい人に「死」を望まれた悠馬が、一番つらいはずなのだ。

 チリンと、テーブルの上に置いた携帯の鈴が、小さく鳴った。

 それが、千華子には『頑張って』とナツが言っているように聞こえた。

「そうだね……頑張るよ」

 千華子は小さく笑って頷くと、「いただきます」と言って手を合わせ、ご飯を食べ始めた。



 ……泣き声が聞こえた。

 慟哭。

 まさに、そんな言い方がぴったりの泣き声だ。

―やっと……やっと幸せになれると思ったのに!

 千華子から少し離れた場所に、黒い影が見えた。

 泣き声は、その黒い影のものだった。

―それなのに、それなのに、全部ダメになってしまった!

―悠馬君の……お母さん?

 黒い影が言う言葉は、昼間に会った悠馬の母親が言っていた言葉と同じだった。 千華子は、暗闇の中そう呟く。

 すると、黒い影は、くるりと千華子に向き直った。

―どうしてあの子を助けたの!?

 その黒い影は、本当に真っ黒で、人の形には見えなかった。

 だけどそれは、まちがいなく、悠馬の母親だった。

―溺れている子どもがいたら、普通の大人なら助けると思います。

 だから。

 千華子は、昼間と同じ返事を彼女にした。

―それじゃあ、私は幸せになれないじゃない!

 悠馬の母親は、そう言って甲高い声を上げた。

―あの子が生まれてから、私はずっと不幸なのにっっっっ!

 その瞬間。

 真っ暗な空間だった場所が、急に明るくなる。

 そこに見えるのは、華やかな結婚式だった。

 恋愛をして。

 好きな人と、結婚した。

 確かに、相手は妻子ある人だったけれど、彼は自分を選んでくれた。

 だから、きっと幸せになれると思っていた。

 そんな思いがあふれ出ているかのように、結婚式での悠馬の母親は、まるで勝ち誇ったような顔で笑っていた。

 彼女のお腹の中には、新しい命が宿っていた。

 華やかなドレスの下には、悠馬がいたのだ。

 映像を見ているだけで、千華子には、そんな情報が入ってくる。

 これは、悠馬の母親の「記憶」なのだ。

 この時。彼女は、信じて疑わなかったのだ。

 自分の生む子は、かわいくて仕方がない子だと。

 手の懸からない、元気で良い子なのだと。

 だから。

 漫然とそして傲慢に、自分はずっとこの「幸せ」な状態である、と思い込んでいた。

 けれど。彼女の「結婚」の夢を叶えてくれた()(ども)は、彼女が夢見た子どもではなかった。

 赤ん坊の時は良かった。

 子どもはかわいくて、元気な子だった。

 ほとんど病気もせずに、とても楽な子だと思っていた。だけど。

 結婚式の次に浮かび上がって来たのは、大の字になって、泣き叫んでいる幼い悠馬の姿だった。

 悠馬の母親は、きつく叱っているけれど、悠馬は激しく泣き叫び、手足をばたつかせている。

 周りの冷たい視線に、悠馬の母親は、焦りを感じている。

 そうして場面が変わり、今度は悠馬がもっと大きくなっていた。

 四・五歳ぐらいだろうか。

 悠馬の母親が謝っている。悠馬は何か叫んでいる。

 それを見て、相手の親が眉をひそめた。

 冷たい視線が、悠馬の母親に刺さる。

 さすがに「おかしい」と思って、悠馬の母親は悠馬に検査を受けさせた。

 そうして。出た結果は、広汎性発達障害。

 彼女は、夫にそのことを伝えた。

 出た結果に信じられない思いで、でも悠馬の母親は、夫にもこの事実を受け入れてもらって、二人で頑張りたいと思っていたのだ。

 だけど。夫の言葉は。

『何で、俺の息子がそんなものになるんだ? 春乃(はるの)(あき)()はそんなことなかったぞ』

 悠馬の母親には、屈辱としか言えないものだった。

 それはそうだろう。

 彼女は夫が自分を選んでくれたことで、前妻に勝ったと思っていた。

 だから。

 前妻の子ども達の名前を出されて、『そんなことはなかった』と言われたことに、大きな衝撃を受けたのだ。

 実際、夫が彼女の息子である悠馬のことを、日頃から苦々しく思っているのは、一目瞭然だった。

 それに対して、前妻の高校生になった娘達は、片や県内でも有数の進学校、片やこれも県内でも部活が盛んな実業校に通い、それぞれが学業や部活動で、高い評価をされているらしく、彼女達と面会をする度に、夫の心が自分の息子から離れていくのを、悠馬の母親は感じていた。

 だけど。

 夫には、『面会に行かないで』とは言えなかった。

 前妻が出した離婚の条件が、「養育費を必ず払うこと」と、「面会を定期的に行うこと」だったのだ。

 と、その時だった。

『ママ、お腹空いた。お菓子食べたい』

 眠っていたはずの悠馬が、がらっと襖を開けて、両親が話していた台所に入って来た。

『もう遅いから、寝なさい』

 夫が厳しい口調でそう言った。

『いやだ、食べる!』

 だが、まだ四歳ぐらいの悠馬は、夫の言葉に首を振った。

『もう遅いから、寝よう?』

 夫が駄々をこね始めた悠馬に苛立っていたのを感じた悠馬の母親は、慌てて宥めるようにそう言った。だけど。

『いやあ~~~~食べる、食べたいぃぃぃ!』

 一度スイッチが入ったら、自分が納得するまで拘り続ける。

 これは、広汎性発達障害の特徴の一つだ。

 言い方一つ工夫すれば良いのだけれど、悠馬の母親はもちろん、夫にもそんな知識はなかった。

 だから。

『ダメだって言っているだろう!』

 夫はそう言って、悠馬に拳骨を食らわせた。

『あなた、止めて!』

『お前が甘やかすから、我がままになったんだろうが! 障害やら何やらわけのわからないこと言っていないで、きちんと躾けろ!』

 甲高い声で泣く悠馬をさらに拳骨を食らわせながら、夫はそう言った。

『いやややややああああああ!』

 もう、絶叫といってもいいほどの声で泣く悠馬を見て、悠馬の母親は呆然となった。

 その泣き声は、悠馬の母親にとって、信じていた「幸せ」が崩壊していく音に聞こえたのかもしれなかった。

 「崩壊」は、始まってしまえば、本当にあっという間だった。

 まず、夫から離婚を言い渡された。

『こんなキチガイが俺の息子とは思えない』

 夫は、「普通の子」とは違う息子との生活に、限界を感じていたのだ。

 体よく言えば、夫は「逃げた」のだ。

 そうしてあろうことか、前妻とヨリを戻してしまった。

 何、これ。

 悠馬の母親は、そう思った。

 最初は、離婚を拒否していた。

 でも、自分と自分の息子である悠馬を、まるで汚い物でも見るかのように見る夫に、夫の心がもう既に自分の下にないことは、一目瞭然で。

 慰謝料と養育費と当座の生活費と。

 結局、お金と引き換えに、離婚を承諾した。

 そうして残されたのは、発達障害の()(ども)

 けれど、悠馬の母親だって、離婚をしたばかりの頃は、頑張って悠馬を一人で育てようと思っていたのだ。

 渡された慰謝料と生活費があるうちに、看護学校に行って、看護師の資格を取ろうと考えて、勉強を始めた。

 だけど。心機一転の気持ちで始めた生活も、悠馬の発達障害のおかげで、躓き始めた。

『すいません、友永さん。悠馬君がまたお友達と喧嘩して、怪我をさせてしまって……』

 毎日、毎日。

 迎えに行く度に、幼稚園の先生に話しかけられて、そんなことを報告される。

 どれだけ言い聞かせても、悠馬は癇癪を起こして、何かしらのトラブルを起こしていた。

 そうして、家に帰ったら帰ったで、悠馬は癇癪をよく起こした。

『今日のご飯は何?』

『カレーだよ』

『いやだ、ゆう君唐揚げがいい!』

『駄目よ、もう作ったから』

『いや、唐揚げ! 唐揚げがいい~!』

 そうして泣き出しながら、周りの物を投げ始める。

 悠馬の母親は、黙って部屋の襖を閉めた。

 悠馬の泣き叫ぶ声と、物が襖にポンポン当たる音が聞こえる。

 それを聞きながら、ため息を吐いていると、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。

『はい』

 慌てて玄関のドアを少しだけ開くと、

『ねえ、あなたのお子さんの泣き声、外まで聞こえているんだけど』

 このアパートの住人が、渋い顔で悠馬の母親にそう言った。

『すいません』

 アパートの住人に頭を下げる悠馬の母親に、

『どんな子育てしているの? 母親なら、もっとしっかりしないと!』

 と言う、アパートの住人の言葉が突き刺さる。

 そうして奥からは、悠馬のまるで地の底からのような泣き声が聞こえた。

『……もうやだ』

 ドアをパタンと閉めて、悠馬の母親は小さく呟いた。

 誰もが、自分を責める。

 夫も、幼稚園の先生も、同級生の母親達も、アパートの住人達も。

 そうして、自分が身を挺して庇っている悠馬でさえ、自分を責めるのだ。

 やっていられない。

 悠馬が泣き叫ぶ声を聞きながら、そう思った。

 好きなだけ、泣き叫べばいい。

 もう、私は知らない。

 悠馬の母親は、悠馬が泣き叫び続ける中、玄関から台所に行き、カレーとサラダを皿に盛り付けて、ビールを開けた。

 襖の向こう側では、悠馬があいかわらず泣き続けているから、台所の床の上にお皿を置いて、食事をしながらビールを飲んだ。

 悪くない、と思った。

 子どもを相手にしないで、好きなようにする。

 うん、悪くない。

 もう一度、悠馬の母親はそう思った。

 そうこうしているうちに、悠馬の泣き声が止んだ。

 それから、そっと襖が開く音がする。

 見ると、悠馬が泣きはらした目で、おずおずと悠馬の母親を見ていた。

 だけど、悠馬の母親はそれを一瞥すると、すっと立ち上がり、床に置いていたお皿やビールの缶を流しへと運んだ。

 要らない。

 悠馬を見た瞬間、悠馬の母親が思ったことはそれだった。

 先に手を離したのは、子どもの方だった。伸ばした手を拒絶したのは、我が子の方ならば、もう私が手を伸ばす必要はない。

『ゆう君、お腹空いた……』

 悠馬が洗い物をする悠馬の母親に声をかけるが、もうその心には、悠馬の言葉は届かない。

 要らない。

 そう思った瞬間から、悠馬の母親にとって、()(ども)は不必要なものになったのだ。

 いつもと違う母親の反応に、悠馬は呆然とした。おずおずと母に近づき、その背に手を伸ばす。

『触らないで!』

 だが、それをぱしんっと悠馬の母親は払いのけた。

 その瞬間。悠馬は信じられないような顔で、悠馬の母親を見た。

 散々自分(ははおや)を拒絶しながら、自分が母親から拒否されたら、傷つけられたような顔をする。勝手なものだ。

 悠馬の母親は、再び悠馬に背を向けると、洗い物を済ませて、コンロの上に置かれた鍋を開けて、タッパーに詰め始めた。

『ゆう君、カレー食べる』

 そう言った子どもの声も無視して、タッパーにカレーを詰め続ける。

 ヘタに手を伸ばして、鍋をひっくり返されたら、よけいに手間がかかる。

 そう、思ったのだ。

 そうして、冷凍庫にカレーが入ったタッパーをしまうと、悠馬の母親はパチンと、台所の電気のスイッチを消した。

 要らない者の、面倒を見る必要はない。

 暗闇の中で、子どもの泣き声が響く。

 だが気にせずに、悠馬が投げ散らかした物を片付ける。

 明日児童相談所に行こう、と悠馬の母親は思った。

 要らない子は、もう育てられない。

 そのまま放置したら、自分が殺人者になってしまうから、「生活が大変で育てられない」と言って、手放すつもりだった。

 泣く悠馬の声すら、もう悠馬の母親の心を動かさなかった。

 それよりも、悠馬がいなくなった後のことを考えて、それが楽しみで仕方なかった。

 そうして。

 悠馬は、程なくして児童相談所から、養護施設の「愛育園」に預けられた。

 それからの生活は、天国と言って良かった。

 心置きなく、看護学校の受験勉強ができて、悠馬は養護施設の子ども達が通う幼稚園に転園したから、悠馬が乱暴をした子どもの保護者達に頭を下げなくてもいい。

 悠馬は自分の思い通りにならないとよく癇癪を起こしたから、外出も躊躇っていたけれど、それもなくなった。

 自分のために時間を使うことが、これほど楽しいことだとは思わなかった。

 そうして、半年間の勉強期間を置いて、悠馬の母親は看護学校に合格した。

 児相には、「生活の安定のために受験勉強をしている」と言っていたから、きちんとする必要があった。

 それを怠ると、悠馬を手元に引き取れ、と言われそうで怖かった。

 始まった学生生活は、大変だったけど楽しかった。

 勉強はわけがわからないことが多くて、図書室に通ったりネットで調べたりして、それでもわからなかったら、教員に聞いたりした。

 若い友達もできて、居酒屋にも飲みに行った。二年生になってからは実習も入って来て、レポート作成に追われたりした。

 そんな中、出会ったのが、今の恋人だった。

 出会いは、若い友人達と行った飲み会だった。

 その時にメアドを交換して、すぐに付き合うことになった。

 年下の恋人は優しくて、幸せだった。

 だけど、その恋人には悠馬のことは言わなかった。

 言う必要もない、と思ったのだ。

 悠馬の母親にとって、悠馬は「必要のない」存在(もの)だった。

 児相の手前、夏休みや冬休みに面会には行っていたが、それだけだった。

 会いに行った時の悠馬は、とても大人しかった。

 「借りてきた猫」という言葉がぴったりの様子で、悠馬の母親が話しかけても、首を振って答えるだけで、あまりしゃべらなかった。

 普段はもっと元気で、調子の悪い時は手も出てしまうということも園長らしき人に聞いたが、特に何も思わなかった。

 だから。

 無事に看護学校を三年で卒業して、国家試験にも通って、病院に就職して。

 仕事にも慣れた二年目に、児相から悠馬を家庭に戻すための相談を受けた時、晴天の霹靂だった。

 どうして今更。正直、そう思った。

 児相の立場から言えば、それは当然のことだった。

 悠馬の母親は、「生活を安定させるために、看護学校に行く。だけど、このままの状態ではそれは困難である」という理由で、悠馬を預けたのだ。

 学校を卒業して、無事に就職した以上は、そろそろ家庭に帰す方向で動いていくのも、道理だ。

 千華子が児相の立場だったならば、同じことを考えただろう。

 だけど、悠馬の母親にとっては、そうじゃなかった。

 「要らない」と思って、「捨てた」子どもが帰ってくる。

 あの、周りの人に頭を下げまくり、身を呈して庇っているのに、その庇った子どもからも責められる。

 そんな日々がまた始まるのか、と思うとぞっとした。

 冗談ではない、と思った。

 ちょうどその頃、年下の恋人と結婚の話が出ていたから、なおさらだった。

 今度こそ、自分は幸せになるのだ。

 優しい旦那とかわいい子どもを作って、幸せになるのだ。

 そう、悠馬の母親は思った。

―それなのに、それなのにぃぃぃぃ!

 いつの間にか、辺りはもとの暗闇に戻っていた。

 そうして、その暗闇の中、悠馬の母親は号泣している。

 千華子は、何も言えなかった。

 嘆く悠馬の母親は、全ての不幸を悠馬のせいにしていた。

 そこにどんな言葉をかけても、届きはしない。

―あの子さえいなかったら、私は幸せになれたのにっっっっ! あなたさえ、邪魔しなければ!

 だが、嘆いていた悠馬の母親は、突然そう叫ぶと、千華子の首に手を伸ばして来た。

 ―触るでない!

けれど次の瞬間、パシンッという音がして、悠馬の母親は弾き飛ばされる。

 はっとして見ると、悠馬の母親と千華子の間に、二つの人影がある。

 一人は、平安貴族の格好を、そしてもう一人は忍者の格好をしていた。

 千華子には背中を向けているから、二人の顔はわからない。

 だけど、千華子はその二人の名を知っている。

―サイ……セイ……。

 と、その時だった。

 くいっと手を引っ張られた。

―お姉ちゃん、帰ろう。

 それは、ナツの声だった。千華子は振り返ろうとしたが、

―それは、駄目。

 急に目隠しをされたように、何も見えなくなった。

―それ以上、あなたは「力」を使っちゃ駄目。

戻れなくなってしまうから。

 その「声」は、まだ幼い女の子のものだった。

―お姉ちゃん……?

 咄嗟に、千華子はそう呟いた。

 たがそのまま、何かに押される様にして、千華子は急速に意識が遠くなるのを感じた。

「千華さん!」

 そうして。

 次の瞬間、目を覚ました場所は、「愛育園 若草の家」の居間だった。

「大丈夫? 千華さん」

「光村さん……」

 まだ薄暗い中、光村が心配そうに千華子を覗き込んでいた。

「すいません、私……」

 千華子がそう言いながら起き上がると、光村は、冷たいコップを差し出して来た。

「飲むといいわ。落ち着くわよ」

「ありがとうございます」

 千華子はそれを受け取ると、一口水を飲んだ。

「落ち着いた?」

 ほうと体の力を脱くと、光村がそう聞いて来る。

「すいません、光村さん」

 どうやら、千華子はうなされていたらしい。

「悪い夢でも見たの?」

「……そうですね」

 光村の言葉に、千華子は頷いた。

 確かに、あれは悪夢だった。

 必死に幸せを求め、そうして「()(ども)のせいで幸せになれない」と思い込んだ、母親の夢。

 だけど。

 あの母親だって、最初は悠馬のことをきちんと育てようとしていたのだ。

 でも、うまくいかなくて。

 周りにも責められて。

 「悠馬さえいなければ」と、思うようになってしまった。

「そんなにショックだった? 昼間のこと」

 そんな千華子に、光村は静かに言った。

「そうですね……。正直、ショックでした」

 本当は、夢で見た悠馬の母親の姿がショックだったのだが、あの悠馬を殺そうとした少年の姿も、そして自分と悠馬が助かるために、あの少年の魂を深く傷つけたことも、ショックだった。

 だから、夢のことを言うわけにはいかないが、嘘ではなかった。

「千華さんは、そう思えるように育ったんだね」

 頷く千華子を見て、光村は小さく笑った。

「見ていてもわかるもの。千華さんは、真っ当に育てられた人だなって。家のお手伝いとかもやったり、母親と一緒にお菓子を作ったり、父親から紙飛行機の作り方を終えてもらったんだろうなあって」

 それは、当たっていた。

 千華子が「若草の家」で作った料理のレシピは母親から教えてもらった物だったし、芽衣にねだられて作った紙飛行機は、父が幼い頃に教えてくれた作り方だった。

 それらは、千華子が今まで「当然」と思っていたことだった。

 親であれば、誰でもそうするであろう、と。だけど。

「へんなこと、言っちゃったわね」

 微苦笑を浮かべながら、光村は言った。

「もう眠った方がいいわ。明日からは―もう、今日ね。忙しくなるから」

 そうして、千華子からコップを取り上げながら、立ち上がる。

「はい……」

 千華子はそれを見て、コクンと頷いた。

 光村の言うとおりだった。

 夜が明けたら、きっと今まで以上に忙しくなるのだろう。

 逡巡も。後悔も。今は、するべき時ではない。

「おやすみなさい」

 部屋を出る時、襖を開けながら光村が言った。

「おやすみなさい」

 千華子はそう言って、光村が出て行くのを見送ってから、布団に入り直した。

 閉じた視界に見えたのは、限りなく続く闇だった。


「あら、残念」

 閉じていた瞳を開きながら、田村はそう呟いた。

「せっかく千華ちゃんの『力』が、発揮されるチャンスだったのに」

―それじゃあ、困るの。

 と、その時だった。

 部屋の隅に、小学生ぐらいの女の子の姿が現れる。

()()ちゃんは、厳しいわね」

 弱視の田村の目には現実の物は何一つはっきりと映らないけれど、この少女のような存在は別だった。

 少女の名は、「()華子(かこ)」と言った。

 彼女の両親は、生まれて来なかった娘を偲んで、その名を付けたのだ。

 顔立ちは、やはり「千里」の力で見る時の千華子とよく似ている。

―あの子には、そんな「力」は必要ないもの。

 そうして、千華子とよく似た瞳を田村に向けながら、理華子は言った。

 彼女は、類まれな「力」を持つ(ちかこ)が、それを使うことを良しとはしていない。

―それは、何故だ?

 と、その時だった。

 不意に、第三者の声が入り込んできた。

 田村は、声のした方に視線を向けた。

 若い、男だった。

 鷹のような目をしている。

 まだ二十代後半ぐらいだろうか。

「生霊ね」

 田村は理華子の隣に現れた男を見て、そう言った。

―お顔のない人。

 そうして、理華子の方も意外だったのか、少し驚いたような顔をして男を見ていた。

「なるほど。あなた(・・・)に(・)は(・)そう(・・)見える(・・・)のね」

―あんたには、俺はどう見えるんだ?

 田村の言葉を聞いて、生霊の男はそう尋ねて来た。

「生霊に見えるわ」

 なので、田村は正直にそう答えた。

―切り替えし方まで、あいつと一緒じゃなくていい。

 生霊の男の言葉に、この男が千華子に『あんたは何者だ?』と問いかけて、『ただの……そこらへんに転がっている一般人ですけどと』千華子が答えている場面が見えた(・・・)。

「私は、現のものはあまりはっきり見えないの。あなたの姿も、あなた自身の本質の姿でしか見えないわ」

 その場面を見つめながら、田村はそう答えた。

 確かに、「ただのそこらへんにいる一般人」ではないわよね、と思った。

 ただのそこら辺にいる一般人は、幽霊に自分の死体を探してくれるように頼まれないし、幽霊の子どもと携帯やパソコン越しとは言え、会話をしたりしない。

 そしてその現状を、受け入れたりもしない。

―あんたの「力」と同じ類のものを、あいつも持っているのか?

 問いかけるように、生霊の男は言った。

 それに対して、田村は何も答えなかった。

 だが生霊の男は、それが肯定だと受け取ったらしい。

―あんたは、何であいつに「力」を使わせないんだ。

 次に、自分のすぐ隣にいる理華子にそう言った。

―必要ないから。

 それに対して、理華子は短くそう答える。

―じゃあ、何故あいつの「力」を完全に抑えない? 

「抑えきれない(・・・・・)のよ」

 その問いかけには、田村が答えた。

「けれど、それ以上にことは聞かない方がいいわ。生きている人間が、知る必要はないことよ」

 そうして、そう言葉を続ける。

 実際、死者である理華子の考えを、生者である生霊の男が知る必要はない。

 ヘタに知ったら、関わらなくてよいことに関わってしまい、人生がメチャクチャになってしまうことにもなりうる。

 千華子のように、幽霊と関わっているのに、何事もなく日常生活を送っているのは、本来有り得ないことなのだ。

「あなたの大切な人を守りたいのならば、戻りなさい」

 そう、田村が言った時だった。

―あの子は、きっとわかって(・・・・)しまう。それは、もう私にも止められない。

 と、理華子が口を開いた。

―けれど、あの子にも、あなたの力は必要だから。だから、助けてやって欲しいの。

―そうすることで、俺に何かメリットはあるのか?

―あなたの心配事は、消える。

 そして、生霊の男の問いかけに、短くそう答える。

―あの子は、あなたの邪魔はしない。あなたが、あの子をきちんとわかれば。

「そうね」

 理華子の言葉に、田村は頷いた。

「劣化したものが崩壊するのは、自然の摂理。どうしようもないわ」

 だけど。

「それをあの子は、一緒に見届けてくれる。多分、そうすることで、あなたの苦しみは少し減るわ」

 千華子のことに関しては、田村はほとんど「見えない」。

 だが、その場面だけは、浮かび上がって来た。

 千華子とこの男が、「男と女」として、思いを交換し合うことはない。

 けれど、互いを助け合うことはできるはずだった。

 そこに関する「感情」は、穏やかではないにしても。

―……肝に命じておくよ。

 生霊の男は短く言うと、その瞬間、姿を消した。

「しかし、変わった人ね」

 生霊の男がいた空間を見つめながら、田村は呟いた。

 あれだけの霊力を持ち、生霊を己の意思で飛ばせるとなると、それなりに修行もしていたに違いない。

 だが、あの男は自分とは違う生き方を選んでいる。

―考えても仕方がないわ。あなたには、あなたの役目があるもの。

 そんな田村に、理華子が言った。

 それは、他の生き方があったのでは、と田村が考えるのを諌める言葉(ないよう)だった。

「姉さん?」

 と、その時だった。カチャリと部屋のドアが開き、妹の真紀が入ってきた。

「まだ寝ないの?」

 自分とよく似た顔立ちを持つはずの双子の妹は、心配そうな顔で自分を見ている。

 それは、両の瞳がよく見えなくても、気配で察することができた。

 自分とは違って、この妹には「霊力」の類は一切与えられていなかった。

 自分達が生まれた「家」では、妹のような存在はまれだったから、つらい思いもしていた。

 だけど、そのことで彼女は一切、自分を責めなかった。

 それどころか、自分を支えて生きることが自分の使命だと、考えているようだった。

「そうね……」

 おそらく、この「運命」を受け入れなければ、自分はこの大事な半身を、与えられることはなかったのだ。

 ならば、確かに理華子の言うとおり、「考えても仕方がない」のだろう。

「千華ちゃんのことを『見ていた』の?」

「ええ」

 こくんと、田村は真紀の言葉に頷いた。

「あの子は、本当におもしろいわ」

 そう言って、笑う。

 家族以外では唯一未来(さき)のことが「見えない」存在。

 その千華子の「現在(いま)」を見ることは、千華子を心配する気持ちも、もちろんあるのだが、田村には救いにもなっていた。

 人間と言う生き物には、まだまだ自分には及ばぬ可能性があるのだということを、信じることができる。

「千華ちゃんは元気?」

「相変わらず、『先生』しているわよ」

「そう。やっぱり、あの子は『先生』なのね」

 小さく真紀は笑って、でもと言葉を続けた。

「姉さん、宵っ張りは体に毒だから早く寝て」

「真紀……」

「明日も仕事あるんだから。ちゃんと九時には起きてもらうわよ」

 自分にこんな「普通」のことを言うのは、真紀だけだ。

「真紀もね」

 田村は、笑って頷いた。


 日浦明彦(ひうらあきひこ)

 それが、「ひー君」の本名だった。

 高校一年生の男の子で、愛理とは同じ高校の同級生で、クラスメイトでもあったらしい。

 加藤から渡された「ひーくん」こと日浦明彦の写真は、人を殺そうとする子には見えなかった。

「……大丈夫ですか?」

 じっとその写真を見つめる千華子に、隣で車の運転をする加藤が、そう声をかけてきた。

 千華子は今、加藤の運転する車で、悠馬が入院している病院に向かっているのだ。

 夜勤があけて、光村に託された資料を持って、「愛育園 若草の家」の前に立っていたら、車に乗って現れたのは、加藤だった。

 どうも児相の人間が迎えに来ると光村が言ったのは、カモフラージュのためで、最初から、加藤が来ることになっていたらしい。

 加藤が、「光村さんから書類を預かっていますか?」と車の窓を開けながら聞いて来たので、千華子はそのことに気付いた。

 子ども達が寝ていたのに用心深いな、と思ったけれど、光村はどうやら警察とは連絡を取り合っているみたいだし、そもそも、「愛育園 若草の家」では、千華子が証人保護プログラムを受けていることを唯一知っている。

 おそらく、警察との連絡係も請け負っているのだろう。

 だから、千華子の携帯を使って警察がGPS追跡を行っていることを知っていたし、悠馬を追っていた時も、『携帯の電源を入れておいて』と言っていたのだ。

 そうして、加藤と一緒に悠馬の入院している病院に車で向かっている最中に、千華子は加藤から「ひー君」のことを聞いた。

「……人を殺そうとする子には、見えないですね」

 写真の「ひー君」は、悠馬を殺そうとしていた時の表情とは、全然違った。

 何かの行事で写したであろう写真には、数人のクラスメイトと一緒に「ひー君」が写っている。

 そこにいるのは、ごく普通の。高校一年生の男の子に見えた。

「どうして、この子はあの殺人代行の依頼を受けようと思ったんでしょうか?」

 それは、いつも思うことだった。

 どうして、と。「かあくん」の母親の時も、新見じゅえるの時も思った。

 どうして、「人を殺そう」と考えるのか。

 確かに、そこには理由はあった。

 「かあくん」の母親は、発達障害を抱えた「かあくん」を我が子とは思えなくなって、殺人代行を頼んだ。

 新見じゅえるは、母親から母親の望む通りにできないことを責められ、自分を「証明」するために、殺人代行を引き受けた。

 だけど、普通ならば、そこに躊躇いが出てくるはずなのだ。

 たいていの人間はそうなのに、何が彼らにその躊躇いを捨てさせるのか。

 悠馬の母親は、悠馬がいたら幸せになれないと思い込んでいた。

 確かに悠馬がいたら、その生活は大変だったのかもしれない。

 けれど、悠馬を殺しても、根本的な解決にはならないのだ。

 彼女は、悠馬のことを一人で背負うべきではなかった。

 離婚した夫にケンカを売ってでも、悠馬のことはきちんと責任を果たせるようにするべきだったのだ。

「私は、この仕事をする前に、悪いことをする人には、悪い魂が宿っているんだと思っていました」

 と、ふいに加藤が運転をしながら、そう言った。

「私の友人は、通り魔の殺人者に殺されました。瓜生さんはご存知ありませんか? 東京の繁華街で起きた、連続の通り魔殺人事件」

 それは、千華子が教員になったばかりの頃に起きたものだった。

 ニュースにもなって、一時期マスコミを騒がせた。

「友人は、何もしていませんでした。その日も、バイト先に急いで歩いていただけです。それなのに、殺されてしまった。当時学生だった私は、それが理不尽でたまりませんでした」

「加藤さん……」

「だから、この仕事に就こうと思ったんです。悪い人を一人でも多く逮捕して、友人みたいな人を無くしていきたいと考えていました」

 だけど、と加藤は言葉を続けた。

「その殺人者も、決して幸福とは言えない人生を送っていました。母親の望むように進学して、でも付いていけなくて、それで学校も辞めて……。そうして、働き始めたんですけど、上手くいかなかったみたいです」

「でも、それは加藤さんのお友達には関係ないじゃないですか」

 千華子がそう言うと、加藤の横顔は小さく笑った。

「私も、そう思っていました。でも、この仕事を始めてから、気付いたことがあったんです。悪いことをした人達も、『こんなはずじゃなかった』って思っているんだなって」

 千華子は、言葉もなく加藤を見つめた。

「もちろん、罪は罪です。やってはいけないことをした以上、その人は犯罪者です。ただ、どうしてその人が犯罪に手を出してしまったのか、その時にどんな思いでいたのか……そんなことを、考えるようになりました」

 それは、千華子と同じ思いだった。

 どうして、「我が子を殺そう」と決めたのか。

 そして、どうして、「人を殺そう」と決めたのか。それで、幸せになれるわけもないのに。

 どこかで、止める術はなかったのか。

 「殺す」以外に、解決の方法は思い付かなかったのか。

 どうすれば、一番良かったのか。

「ただ、今回の件では救いがあります」

 考え込む千華子に、加藤はそう言った。

「救い……ですか?」

「まず、殺されかけた子は瓜生さんのおかげで助かりました。このことで、殺そうとした子の罪は、少しだけ軽くなります。もちろん、殺人未遂ですから罪は罪ですが、それでも、殺すよりも遥かに救いはあります。それに、殺人代行を依頼した母親も、我が子を殺さないですみました。これも、後の人生を考えたら、殺してしまった時の場合と比べたら、救いはあります」

「加藤さん……」

「生きていますから、希望は持てます」

 それは、実感のこもった言葉だった。

         ★

 悠馬の入院している病院は、舞鶴市の市立病院だった。

 車で二十分のその病院は、丘の上に建っていた。

「児童相談所で保護した子どもが入院する場合、主にここの病院を利用しているそうです」

 千華子と一緒に病院の廊下を歩きながら、加藤はそう説明してくれる。

「悠馬君には、別段体に関しての異常はないとのことです。昨日の時点でも退院しても良かったのですが、まだ落ち着かないので、もうしばらく様子を見るとのことでした」

「私が、会いに行ってもいいんですか?」

 千華子は、その言葉を聞いて、加藤に尋ねた。本来であれば、この見舞いは施設長である光村が行くべきなのだろう。

 だが、今の光村はそれどころではない。今日は野間に代わって新しい職員が入って来るし、愛理のことだって気にかかるだろう。

 今の「愛育園 若草の家」は、光村がいないとたちどころに崩れていってしまうのだ。

 そうなると、まだ入って一週間も経っていない千華子が行くしかない。

 と言うか、千華子しか、行くことができる人間がいないのだ。

「行ってあげてください。悠馬君は、昨日から何一つご飯を食べていないそうです」

 だが、加藤はそう言った。

 ご飯を食べないという行為に、千華子は悠馬の抗議を感じた。

 自分を殺そうとした母親への、自分を騙した「ひー君」への、そして勝手に自分のことを決める、千華子達「先生」と言われる大人達への。

「それに、児相の方と私は部屋の前で待機していますから、会ってあげてください」

 加藤がそう言って見つめる先には、病室の前に、一人の初老の男が立っていた。

「児童相談所の佐々(ささき)です」

 初老の男はそう言って、頭を下げた。

 もしかしたら烏丸が来るのかと思っていたが、やはりこういう時は、彼は来ないようになっているのだろう。

「瓜生千華です」

 千華子はそんなことを考えながら、佐々木に頭を下げた。

「早速で悪いんですが、会ってあげてください。今朝も朝御飯をひっくり返したみたいで」

 どうやら、悠馬の態度に手を焼いているようだった。

 自分に何ができるかわからなかったが、千華子はとりあえず佐々木の言葉に頷くしかない。

 持っていた紙袋とリュックを持ち直すと、千華子は病室のドアを、コンコンと叩いた。

 そうして、ガラガラとドアを開ける。

「入ってくんな!」

 とたんに、枕が飛んで来た。千華子はそれをキャッチすると、

「いきなり投げないでよ」

 と、悠馬に言った。カラカラと、後ろ手に引き戸になっているドアを閉める。それは、病室の向こうにいる加藤や佐々木を隠すためでもあった。

「何であんたが来るんだよ!」

「誰に来て欲しかったの?」

 枕を片手に持ちながら。

 千華子は悠馬のベッドに近づいた。

 病室は一人部屋らしく、他に患者の姿はなかった。

 そんな千華子を、悠馬は睨み付けてくる。

「……お母さんは?」

 だけど、次の瞬間には唇を噛み締めながら、そう千華子に聞いて来た。

 悠馬の母親は、悠馬の「死」を望んでいた。それを、悠馬も「ひー君」から聞いて、知っている。けれど、それでも。

 悠馬は、千華子には聞かずにはいられないのだ。「お母さんは?」と。

「ごめん、それは知らないんだ」

 本当のことは、言えなかった。

 それに、今は言うべき時ではない。

 それを担うのは佐々木達であって、もう千華子の所属する「愛育園 若草の家」の職員ではないのだ。

「俺は、いつお母さんに会えるの?」

 次に、悠馬はそう尋ねて来た。

「それも、知らないの」

 だけど千華子がそう答えると、唇を噛み締めたまま、下を向いた。

 虐待を受けた子は、それでも親を庇い慕うということを、千華子はまだ教師だった頃、研修で聞いたことがあった。

 それが今、目の前で起こっている。

 悠馬は、母親に会いたいのだ。

 自分の死を望んだ母親だと知っていても、会いたいと思ってしまうのだ。

 千華子は、悠馬と同じ小学三年生の時に、そんなことは思ったこともなかった。

 学校から帰れば、母親は必ず家にいて。

 一緒に宿題をしたり、おやつを食べたりしていた。

 それが、当たり前だと信じて疑ってもいなかった。

「ご飯食べないんだって?」

 胸の奥に苦い物を感じながら、千華子は悠馬に言った。

 だが悠馬は下を向いたまま、何も言わない。

 たった九歳の子が背負うには、重すぎる事実なのだ。

 自分の母親が、自分の死を望んでいた、ということは。

 悠馬自身も嘘であって欲しいと思いながらも、それが本当であるということをわかっているのだ。

「……悠馬君は、お母さんが好き?」

 千華子は、そう質問を変えた。

 その言葉に、悠馬が黙って頷く。

「なら、お母さんに会えるように、頑張ってみようよ」

 千華子がそう言うと、悠馬は驚いたように千華子を見た。

「悠馬君が怒ってご飯を食べなくても、誰もお母さんを連れて来てはくれないと思う」

 それは、「事実」だった。

 今の悠馬の母親の状態では、どんなに悠馬がハンストしても暴れても、母親は病室には現れないだろう。

 それはお互いのためにならないと、周りが判断するためだ。

「……ひー君は、俺にお母さんに会わせてくれるって言った」

「そう……。ひー君とは、どうやって知り合ったの?」

「前に、愛理ちゃんと一緒に帰っている時に会ったことがあった」

 もしかしたら、それも、作戦だったのかもしれなかった。

 「ひー君」が、自分の同級生から聞いていた「同じ施設の子」がターゲットになっていると気付いて、殺人代行を引き受けたのだとしたら。

 そこまで考えて、千華子は目を閉じた。

 それは、今考えることではなかった。

 自分にできることを、するしかないのだ。

 多分、光村が言いたかったこと。

 それを、自分は伝えなければならない。

「悠馬君の望みを叶えてくれないからって、周りにいる人達がみんな、悠馬君の敵じゃあないんだよ。皆、悠馬君のことを心配しているよ」

 それも、「事実」だった。光村は、夜勤明けでそのまま悠馬の病院に行く千華子に、「悠馬君には、元気でいるように伝えて」と言いながら、紙袋を渡した。

 それは悠馬に言付けるようにと、言われたものだった。

 病室の前に立っていた児童相談職員の佐々木も、食事をひっくり返したみたいで、と言った言葉には、心配する気持ちが溢れていた。

「あんたも?」

 ふいに、悠馬はそう尋ねて来た。

「あんたも、心配すんの?」

「するよ。当たり前じゃない」

「俺が愛育園からいなくなっても?」

 悠馬は、もう自分がどうなるのかわかっているようだった。

 もしかしたら佐々木が、千華子が来る前に話しをしたのかもしれない。

「愛育園にいようがいまいが、悠馬君のことは心配するよ」

 ほんの数日しか関わっていない子だが、それでも、その言葉に嘘はなかった。

「これ、光村先生から預かってきた」

 何も話さない悠馬に、千華子は持っていた紙袋をサイドテーブルに置いた。

「まずはご飯をしっかり食べて、元気にならないと。光村先生も、悠馬君がご飯を食べないって聞いて、お仕事で寝たのが遅かったのに、朝早く起きてこれを作ってくれたんだよ」

 紙袋の中身は、ニンジンケーキだった。

『悠馬君、気に入っていたみたいだから』

 そう言って、光村は朝食を作る傍ら、千華子と一緒にニンジンケーキを作った。

「それ、あんたが作ったんだろう?」

 だけど、遮るようにして、悠馬は言った。

「一緒に作ったよ」

「おいしかった、それ」

 悠馬はそう言うと、ベッドの中に潜り込んだ。

 もうこれ以上は、話したくないということなのだろう。

「元気でね、悠馬君。みんな、あなたのことを心配していることは忘れないで」

 そう言って、千華子は悠馬の枕をベッドの上に置いた。

 だけど。これは、本当はまだ小学三年生の子どもに対して言う言葉じゃなかった。

『みんな、あなたのことを心配していることは忘れないで』

 なんて、そんなこと、千華子自身が小学三年の時に、言われたことはなかった。 父がいて、母がいて、妹がいて。

 周りの誰もが敵なんて、思ったこともなかったし、考えたことすらなかった。

 それが、当たり前だった。

 でも、それ以外言う言葉がないのだ。

 それしか、悠馬に希望を与える言葉がないのだ。

 どうして。

 どうして、そんなことがあるのか。

 千華子が当たり前だと思っていたことを、与えられない子がいる。

 それは、親が悪いのか。

 けれど、『どうでもいい』と思って我が子を切り捨てた悠馬の母親は、そう思うまで、必死に頑張っていた。

 でも、それは悠馬が哀しい思いをする理由にはならない。

 どうすれば、良かったのか。

『だったら、考えればいい。その方法を。どうすれば、良いのか。それが、大人の役目じゃないんですか?』

 昨日、烏丸に言った自分の言葉が蘇る。

 考えるしかない。

 現実を知って、事実を知って、自分に何ができるかを考えるしかない。

 ただ。

 病室を一歩出て、千華子は足早にドアから離れた。

「瓜生さん……?」

 加藤が声をかけてくるが、構っていられなかった。

 この泣き声を、悠馬に聞かれるわけにはいかない。

 これは、千華子の勝手な感傷であって、悠馬には関係ない。

 そうは思っても、溢れて来る思いを止めることはできなかった。

 哀しかった。

 まだ小学三年生なのに、重い事実を背負う悠馬も。

 我が子を、「いらない」としか思えない悠馬の母親も。

 とても哀しい、と千華子は思った。


 後に。

 千華子は、長じた悠馬が有名なシェフになっていたことを知る。

 その時、彼が「忘れられない味」についてインタビューされて答えていたのは、「施設でお世話になっていた時に、作ってもらったニンジンのケーキ」だった。

 だけど、それはまだ、ずっと未来(さき)のことである。


「……号泣していたそうだ」

 「お顔のない人」が、けいたいでんわを持ったままそう言った。

 ごうきゅう、という言葉の意味がわからなかったけれど、「おねえちゃん」が泣いていたことは、知っていた。

―たくさん泣いていたことよ。

 そんな自分に、「ひめおねえちゃん」がそう教えてくれる。

 「おねえちゃん」は、「ゆうまくん」のおみまいに病院に行って、そうしてお家に帰ったけれど、自分と「ひめおねえちゃん」は、ここに戻って来ていた。

「そう……」

 そうして、「お顔のない人」とお話しているのは、「おねえちゃん」が「みつむらさん」と呼んでいる人だった。

「いちいち事あるごとに感情移入していたら、やっていけないだろうに」

 そう言って、「お顔のない人」は、けいたいでんわをぼいっとテーブルの上に投げた。

「ごく普通に、育った人だからね」

 「みつむらさん」は、「お顔のない人」にそう言った。

「それで、いちいち同情して泣かれていたら、溜まったもんじゃないぜ」

「けどね、やっぱりショックは大きいわよ。自分の母親が、自分を殺そうとしたって言う事実は」

「似たような話は、山ほどあるだろう。俺達(・・)の(・)身近に(・・・)は(・)」

「一番信用していた人間に殺されかけても、その台詞言える?」

 「みつむらさん」がそう言うと、「お顔のない人」は黙った。

「……まあ、私がしようとしていることも、似たようなものかもしれないけどね」

「香」

 それまで立っていた「みつむらさん」は、すとんと椅子に座った。

「心配するな。お前一人に背負わせるつもりはない」

 そうして、「お顔のない人」はくるっと自分達の方を見ているみたいだった。

「それで、さっきから何を見ているんだ? ()で(・)、お前達(・・・・)は(・)ここにいる?」

 「お顔のない人」は、自分達に言っているみたいだった。

「あなた、何言っているの? 誰かいるの?」

「あいつの守護者達がいる」

―手伝って欲しいの。この子の死体を、捜すのを。

 怒ったような感じで、言ってくる「お顔のない人」に、「ひめお姉ちゃん」は、そう言った。

「……何だって!?」

―あの子だけじゃあ、この子の死体は捜せない。あなたの「力」が必要なの。

 真っ直ぐに「お顔のない人」を見ながら、「ひめお姉ちゃん」はそう言った。


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