前編
「好きだよ。大切だと思っている」
その言葉を聞いた時、三波は自分の足元が崩れ落ちていくような気がした。
***
矢澤三波は平凡な女子大学生である。
外見的に目立った特徴はないが、どちらかといえば痩せ型で奥二重のせいかねむそうな顔つきをしている。
一度も染めたことのない髪は真っ黒で肩の辺りで切り揃えられている。
服装はカジュアルなものを好みジーンズをよく履いている。
お気に入りのスニーカーはコンバースのハイカットで色は黒かグレー。
靴下にはこだわりを持っていてジーンズの裾で隠れてしまうくせに毎日生地の違う靴下を選ぶ。
三波は口数の少ない方で大学に入学するまで友人と呼べる存在はあまり多くなかったが、大学の映画サークルに入った今ではサークル仲間達とそれなりに仲良くなっている。
特に仲が良くなったのは同級生の瀬川亘だった。
三波は今、彼と付き合っている。
世話焼きの亘が非社交的な三波を他のサークルに馴染めるようかまってやっているうちに亘の方が三波に惚れたとサークル仲間は思っているが、三波は初めて会った時から亘に惹かれていた。
ブランド物の眼鏡を掛けた知的な横顔は三波の好みのど真ん中だったし、生れつき人より耳の遠い三波にとって亘のゆったりとした喋り方は聞き取りやすかった。
何より亘は愛想のない三波にいつも笑いかけてくれた。
一年前、アルバイト先の居酒屋に亘がひとりで現れた。
亘はいつものように笑わなかった。
代わりに泣きそうな顔をした。
たくさんお酒を飲んで居酒屋のカウンターでつぶれてしまった亘を三波は自分のアパートに連れて帰った。
三波のベッドの中で亘は涙を流した。
涙の理由を口にすることはなかったが、亘が泣いているというだけで胸が痛くて堪らなかった。
生まれて初めて男性の震える肩を抱き締めた夜、三波は亘に抱かれた。
翌朝、目を覚ますと亘が額に優しくキスしてくれて三波は有頂天になった。
以来、亘は三波の恋人である。
***
亘と友人の会話を聞いてしまったのは本当に偶然だった。
午前中、突然休講になったので三波は駅前のファーストフード店で早めの昼食をとることにした。
注文を済ませて店内の空いている席を探していた時、亘と友人の坂下を見つけた。
三波は亘に会えたことが嬉しくてふたりの座るテーブルに近寄った。
声を掛けようとした時、坂下の言葉に耳に届いた。
「千夏と別れた。やっぱりお前のこと忘れられないってきっぱり言われた。天罰だな。一年前、お前らが両想いだと知っていたくせにお前の人の良さにつけこんだ罰が当たった」
三波は茫然とその場に立ち尽くした。
ふと初対面の時に見た坂下の表情を甦った。
一か月前、亘と高校からの付き合いのあるという友人の坂下を紹介された。
初めて会った時、三波を見た坂下はひどく驚いた様子だった。
今頃になってやっと三波は坂下の驚いた理由を知ったのである。
なあ、と坂下は頭を抱えるようにして低い声で言った。
「亘、お前は千夏のこと好きだよな。今でも好きなんだろう」
その後の沈黙は実際のところ一分にも満たなかっただろうが、三波にとっては永遠のように感じた。
ようやく亘が答えた。
「好きだよ。大切だと思っている」
飾り気のない言葉。
それは亘の本心。
急に何もかも怖ろしくなって三波はその場から逃げだした。
***
「別れて下さい」
三波は喫茶店のテーブルに頭が触れそうなくらい深く頭を下げた。
情けない顔を見られたくなかった。
「なんで」
亘の声は怒っているように聞こえた。
怒りを感じるのは三波を気にかけている証拠だ。
他に好きな人がいたとはいえ、亘は三波と向き合おうと努力してくれた。
三波はそういう誠実さをとても好きだと思う。
「他に好きな人ができた」
三波は用意しておいた理由を述べた。
お互い他に好きな相手がいると分かっていれば、亘の罪悪感を持たずに好きな人の元に行ける。
一年間彼女として大切にしてもらったことに対する三波なりのお礼のつもりだった。
何も言わずにカップを受け皿に置く亘を見つめながら小さく息を吐いた。
ちゃんと言った。
全部が終わったんだ。
後は亘の返事を聞いてお別れするだけだ。
大丈夫だと三波は自分に言い聞かせた。
亘はきっと「分かった」と言う。
そしたら「ありがとう。ごめんね」と言う。
簡単なこと。
三十秒もかからない。
少しだけ泣くのを我慢すればいいんだ。
三波は唇を噛んだ。
「誰だよ」
「え?」
三波は予想外の返事に戸惑った。
誰って誰のことだろう。
三波が返事をできずにいると亘は苛々したように声を荒げた。
「相手の男は誰かって聞いてんだよ!」
喫茶店の店員や客達が三波達の方を一斉に振り返る。
三波は驚きすぎてぼんやりしていた。
これほど怒りを露わにする亘を見るのは初めてだった。
今思えば、亘が優しかったのは罪悪感のせいしれない。
でも、どうして今になって怒るのだろう。
「バイトの人だよ」
「付き合っているのか」
「まさか」
三波は首を横に振って激しく否定した。
付き合っているも何も好きな人自体がでっち上げの嘘なのだ。
亘が相手を知りたがっている理由は分からないが、ぼろを出す前に帰ろう。
三波は五百円玉を財布から取り出してテーブルの上に置いた。
立ち上がろうとした瞬間、亘に手を掴まれた。
「まだ話は終わってない」
「でも、」
「俺は三波のことが好きだ。別れたくない」
三波は亘の手を振り払おうとしたが、力の差があり過ぎて無駄な抵抗に終わった。
我慢の限界だった。
三波は溢れる涙を拭おうともせず、亘を睨んだ。
「離して。別れてよ。私はもう亘君のことなんか全然好きじゃない。他にもっと好きな人がいるから亘君とは付き合えないの!」
「そんなの三波の都合だろう。俺は三波が好きなんだ。これからもずっと好きだし、三波にもまた俺のことを好きになってもらう」
空いている方の手で亘の肩を叩いた。
「嘘つき。嘘言わないで。他の人が好きなくせに。千夏さんが好きなくせに」
三波は我に返って口元を押さえた。
亘の見開かれた目に驚愕の色が浮かんでいた。
「どうして千夏のこと知っているんだ?」
「坂下君との話聞いちゃったの。亘君、まだ千夏さんのこと好きだって言っていたよね」
「それは、」
「私には好きな人がいるし、亘君には千夏さんがいるでしょ。もう無理して付き合わなくていいと思う」
ごめんなさい、と三波は言い残して喫茶店を出た。