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分水嶺の夜

作者: 柊ゆるな
掲載日:2026/08/17


ある日の夕暮れの事である。一人の若者が、シャッターの下りた商店街の、雑居ビルの軒下で、雨が落ち着くのを待っていた。

 この数年、ニュースを見れば、似たような見出しばかりが並んでいる。「闇バイトに応募、逮捕」「高齢者宅に押し入り強盗」「実行役の少年、組織の指示役から報復におびえる」。SNSの求人には、いつからか「ホワイト案件」「即金」といった言葉が氾濫し、応募した若者の多くは、身分証の写真を送った時点で、もう後戻りができなくなるのだという。世間はそれを、愚かな若者の自業自得だと言う。誰もが、自分だけはそんな道を選ばないと信じている。しかし、追い詰められた者にしか見えない道というものが、たしかにあるらしかった。

 広いアーケードには、若者のほかに誰もいない。ただ、所々ペンキの剥げたシャッターの継ぎ目に、大きな蟋蟀が一匹とまっている。この商店街が、かつては駅前の顔として賑わい、正月には福引きの列ができ、夏祭りの晩には浴衣姿の親子連れで埋め尽くされたということさえ、今となっては信じ難い。シャッターには、剥がれかけた「閉店セール」の貼り紙と、誰が描いたとも知れないスプレーの落書きとが重なり合い、雨に濡れて滲んでいた。街灯はところどころ切れていて、水たまりに映る光は、途切れ途切れに揺れている。アーケードの屋根を打つ雨音だけが、規則正しく、いつまでも続いていた。時折、この道を近道に使う通行人が、傘も差さず足早に通り過ぎていくが、誰も、軒下にうずくまる湊に、目を留めようとはしなかった。人々は、皆それぞれの生活に追われていて、他人の困窮に構っている余裕などないのだろう。湊は、そういう視線の無さにこそ、かえって自分の孤独を思い知らされる気がした。

湊は、その日の昼過ぎ、三年近く勤めていたコンビニエンスストアから、いきなり解雇を言い渡されていた。フランチャイズ本部の判断で、店舗そのものが閉店になるのだという。深夜シフトの割増を当てにして組んでいた生活は、その一言で音を立てて崩れた。もとより湊の暮らしには、余裕というものがなかった。専門学校の学費として借りた奨学金の返済、地方から出てきて借りたアパートの家賃、途切れがちな光熱費の督促状。そこに加えて、去年から入院を続けている母の医療費が、毎月の仕送りとして重くのしかかっていた。母は、湊が高校生の頃に父を亡くしてから、女手一つで湊を育て上げてくれた人だった。その母が、二年前に倒れて入院してからというもの、湊は自分の生活を切り詰めながら、毎月いくらかを実家に送り続けてきた。それすらも、この解雇でどうなるか分からない。スマートフォンの画面には、督促アプリの通知が絶えず点滅している。次の仕事を探す当てもなく、今日と明日の食事代さえ怪しい。そういう状況で、湊はシャッター街の雨の中に、傘も差さず立ち尽くしていたのである。

湊は、どうにもならないことをどうにかしようとして、考えれば考えるほど途方に暮れていた。雨は依然として降っている。雨の中を、この雑居ビルの下から、他に行く所のない自分が、この後どうなるべきかを考えると雨の音を聞きながら、そのことを、あるいはそのことのみを、考えつづけていたといってよい。手段を選んでいる余裕は、もはやなかった。選ばないとすれば、手段はほとんど一つしかない、というところまで、思考は行き詰まっていた。しかし「一つしかない」というこの結論を、積極的に肯定するだけの勇気は、まだ湊の中に生まれていなかった。もし積極的に肯定すれば、湊はおのずから、自分がこれからしようとしていることを、まっすぐに見つめなければならなくなる。それを避けるために、湊の思考は、いつまでも同じ場所を巡っていた。雨に濡れたコンクリートの匂いが、鼻の奥にまとわりついている。スマートフォンの画面に目をやると、もう夜の九時を回っていた。今夜中に、何か決めなければならない。そういう焦りだけが、次第に現実味を増していった。

 その「一つ」というのが、スマートフォンの画面に浮かんでは消える、あの言葉であった。

「日給5万円、身分証不要、即日振込、簡単な受け取り作業」

 SNSのタイムラインには、そうした募集が絶えず流れてくる。詳細は明かされないが、誰もがそれが何であるかを知っている。所謂「闇バイト」――特殊詐欺の受け子や出し子、あるいはもっと危険な仕事への入口である。ニュースでは、そうした募集に応じた若者が使い捨てのように逮捕され、あるいは組織に監禁され、家族の写真を送りつけられて脅され、抜け出せなくなる例が、繰り返し報じられている。湊は、これまで幾度となく、その投稿を見ては指を止め、そして結局はスクロールして通り過ぎてきた。まっとうに生きようとする自分と、目先の金に飛びつこうとする自分とが、いつも頭の中でせめぎ合っていたのである。しかし今日ばかりは、通り過ぎるだけの力が、湊の中に残っていなかった。母の病室の白い天井を思い出すと、 迷いは、いつしか、ためらいの形を失いつつあった。

 半年前、同じ専門学校を出た友人の裕太が、ちょうどこの手の仕事に手を出し、案の定というべきか、受け取り役の現場で警察に取り押さえられたという話を、湊は人づてに聞いていた。裕太は、逮捕された後も、指示役の名前も顔も知らないと言い続けているらしい。すべては匿名のアプリでやり取りされ、末端の実行役だけが切り捨てられる。そういう仕組みだということは、湊も知識としては知っていた。知っていて、なお、その先へ踏み出そうとしている自分がいる。湊は、そのことに、うっすらとした自己嫌悪を覚えながらも、その気持ちは、目の前の切迫した事情の前では、次第に薄れていった。

 雨脚が強くなってきた。湊は、どこか屋根のある場所で夜を明かそうと考え、ビルの奥に、非常階段があるのを見つけた。上の階には、以前は雀荘だか消費者金融だかが入っていたはずだが、今では窓ガラスの半分が割れ、テナント募集の看板も色褪せて読めなくなっている。誰もいるはずがない。湊は、ただ雨を避けるためだけに、その錆びついた階段を、一段ずつ上り始めた。踏板が軋むたびに、腹の底に響くような音がした。

 踊り場ごとに、雨漏りのする窓から、外の水銀灯の光が斜めに差し込んでいた。埃と、湿った紙の匂いと、どこかで死んだ小動物の匂いらしきものとが、階段全体に薄く漂っている。湊は、その匂いを吸い込むたびに、自分がどこか異界の入口に足を踏み入れているような、奇妙な感覚に囚われた。

 三階まで上がると、踊り場の奥に、鉄扉が半分開いた部屋があった。中から、かすかな光が漏れている。懐中電灯だろうか、それともスマートフォンの光だろうか。湊は息を潜めて、扉の隙間から、その内側をうかがった。

 部屋の中には、潰れた事業所の名残らしい段ボール箱がいくつも積まれ、その周りに、白髪の痩せた老人が一人、しゃがみ込んでいた。老人は、床に広げた紙の束――どうやら誰かの個人情報が印字された名簿らしい――を、一枚一枚、丁寧に選り分けていた。氏名、年齢、住所、家族構成、預金残高の見込み。老人はそれらを仔細に検分しては、使えるものと使えないものとに振り分け、脇にある紙袋に詰め込んでいく。時折、古びたスマートフォンでどこかに連絡を取り、抑えた声で何事かを打ち合わせている様子だった。傍らには、他人名義らしい銀行口座のカードが、輪ゴムでいくつもの束にまとめられている。部屋の隅には、かつてこの部屋が消費者金融の店舗であった名残なのか、色褪せた金利表のポスターが、剥がれかけたまま壁に貼られていた。天井の蛍光灯は割れて久しいらしく、光源は、老人の手元に置かれた小さなLEDランタン一つだけである。その頼りない光が、老人の落ち窪んだ頬と、名簿の白さとを、交互に照らし出していた。老人が着ているのは、季節外れの薄い作業着一枚で、その袖口は、擦り切れて糸がほつれている。膝の脇には、コンビニのおにぎりの空き袋が、丸められたまま転がっていた。

 湊は、その光景を見て、まず強い嫌悪を覚えた。名簿の一枚一枚が、誰かの生活そのものであることは、想像に難くない。年老いた一人暮らしの女性の名前、退職金の額、孫の名前まで書き添えられたものもある。それを、まるで商品のカタログのように扱っている老人の姿は、人間として最も忌むべきものに思われた。湊は、この老人に対して、悪に対する反感が、一分ごとに勢いを増してくるのを感じた。もしこの時、誰かが湊に、先刻あの階段の下でどうすべきか迷っていた、あの選択について尋ねたなら、湊は恐らく何の未練もなく、飢え死にする方を選ぶと答えたに違いない。それほどまでに、この老人に対する憎悪は、燃え上がっていたのである。

 湊は、扉を大きく引き開け、部屋の中に踏み込んだ。老人は、驚いた様子で顔を上げたが、逃げようとはせず、むしろ探るような目で、湊の全身を見返した。

「何をしている」

 湊の声は、自分でも思いがけないほど、冷たく響いた。

 老人は、しばらく無言のまま、湊の顔と、その手にした何もない拳とを見比べていたが、やがて、しわがれた声で、ゆっくりと話し始めた。

「見ての通りだよ。名簿を選り分けているのさ。この歳になって、他にできることがあるかね」

「これがどういう名簿か、わかっているのか。この人たちから、金を騙し取るための道具だろう」

「わかっているとも。だがな、若いの」

 老人は、名簿を持った手を止め、湊をじっと見上げた。その目には、怯えよりも、むしろ何かを見定めようとする、冷たい光が宿っていた。

「ここに名前のある年寄りたちが、みんな清く正しく生きてきたとでも思うかね。この女は、若い頃、保険金目当てに親の介護を人任せにして、施設で死なせた。この男は、下請けの職人たちを何人も騙して、路頭に迷わせた。悪いことをして、のうのうと年金暮らしをしている連中から、いくらか頂いたところで、罰は当たらんだろうよ。わしがこうして名簿を選り分けなければ、この連中の悪事は、誰にも裁かれずに終わっていくだけだ。それに――」

 老人は、湊の濡れた靴と、痩せた頬とを、値踏みするように見た。

「お前さんだって、今夜ここへ、まっとうな用事で来たわけではあるまい。行く当てもなく、腹も減っている。そういう顔をしている。わしがこうしなければ生きていけんのと、お前さんが今夜これからしようとしている事と、どれほどの違いがあるかね。わしとて、若い頃はまっとうに工場で働いていた。それが潰れて、次の会社も潰れて、気づけばこの歳で、こんな仕事しか回ってこなくなっていた。誰だって、好きでこうなったわけじゃあない」

「それでも、これに名前がある人たちは、あんたに騙される謂れはないだろう」

 湊がそう言い返すと、老人は、ふ、と息だけで笑った。

「謂れがあるかないかなんぞ、わしにわかるものか。わかるのは、わしがこれをやらねば、明日の飯にありつけんということだけだ。若いの、お前さんだって、腹の底では、もう似たようなことを考えているんじゃないのかね。じゃなけりゃ、こんな夜更けに、こんな廃墟の三階まで、上がってきやしないだろう」

「俺は、あんたとは違う」

 湊は、そう言い返そうとしたが、声にはならなかった。違うと言い切るだけの根拠を、湊自身、持ち合わせていなかったからである。老人は、その沈黙を見て、もう一度、ふっと笑った。それは嘲りというよりも、むしろ、かつての自分自身を見るような、疲れた笑いであった。

「無理に否定せんでもいい。誰だって、最初はそう思うものさ」

 その一言が、湊の胸の奥にある、まだ言葉にならずにいた考えを、正確に言い当てていた。

 老人の言葉は、無論、湊のした事を、そのまま是認するものではない。しかし、その言葉の調子には、抗い難い理屈があった。湊は先刻、この老人を捕まえて、警察にでも突き出してやろうという、単純な、そして正義感に基づいた勇気を持っていたはずだった。ところが、この老人の話を聞いているうちに、湊の心には、ある勇気が生まれてきた。それは、先刻、あの階段の下で湊に欠けていた勇気とは、全く逆の方向に働こうとする勇気であった。飢えて死ぬか、悪事をして生き延びるか――その二つに一つしかないのなら、迷う理由はどこにもない。そう思い定めた瞬間、湊の中では、何かが音もなく切り替わった。それまで湊を押しとどめていた、漠然とした良心とか、世間体とかいうものは、急速に色褪せ、代わりに、ある種の、投げやりな明るさに似た感情が、胸の底からせり上がってきた。それは、崖から飛び降りる直前の人間が味わうという、奇妙な解放感に、あるいは似ていたかもしれない。もう後には引けない、それならばいっそ、迷わず先へ進んでしまおう――そういう、乾いた覚悟であった。

 湊は、老人が名簿を選り分けている理由に、飢え死にするか、それとも悪事をするかに、迷わなかった事だけは、確かであろうと思った。そうして、もしこの理屈が正しいとすれば、今の湊が、これから「闇バイト」に手を染めようとしている事もまた、飢え死にしないための、やむを得ない選択として、許されるのではないか――そう考え始めていたのである。雨の音は、いつのまにか遠くなっていた。頭の中では、母の病室の白い天井と、督促アプリの赤い通知と、目の前の老人の言葉とが、ぐるぐると入り混じって渦を巻いていた。

「では、俺がここにあるものを、いただいていっても、文句はないわけだな」

 湊は、努めて平静な声で、そう言った。

 老人は、何を言われたのか、一瞬理解できなかったらしい。湊は、老人の胸ぐらをつかみ、床に押し倒すと、脇に積まれた紙袋を奪い取った。老人は、痩せた手足をばたつかせて抵抗したが、湊の力には敵わなかった。

「待て、それを持っていかれては、わしは――」

「お前がそうしたように、俺もこうする。恨みっこなしだ」

 湊は、そう言い放つと、紙袋を小脇に抱えたまま、鉄扉の外へ走り出た。老人の、追いすがるような声が、階段の下まで響いていたが、湊はそれを振り返ることなく、雨の降りしきるシャッター街へと駆け下りていった。

 紙袋の中には、名簿だけでなく、老人が組織との連絡に使っていたらしいスマートフォンと、複数枚の他人名義の銀行口座のカードが入っていた。湊は、雨に濡れた路地の隅にしゃがみ込み、その中身を検めた。スマートフォンの画面には、見知らぬグループチャットの通知が、次々と流れてくる。「本日の指示」「受け取り場所」「本人確認は不要」――そうした文字列が、暗闇の中で青白く光っていた。湊は、それをしばらく見つめていたが、やがて画面を消さずに、自分の元のスマートフォンをポケットの奥へしまい込んだ。

 これから自分が進むべき道を、湊ははっきりと理解した。もう、迷う必要はない。あの「日給5万円」の投稿に返信するための、道具は、すでに揃っている。指先が、震えているのが自分でもわかった。それが寒さのせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、湊自身にも判然としなかった。

 湊は、老人から奪ったスマートフォンの画面に、指を滑らせた。グループチャットの一番上には、まだ既読のついていない新しいメッセージが届いていた。「明日の朝九時、指定の駅で新人を待つ。誰か手が空いている者はいるか」。湊は、しばらくその文字を見つめていたが、やがて、自分の指が、迷いもなく「はい、行けます」と打ち込んでいくのを、どこか他人事のように眺めていた。送信ボタンを押す音は、雨の音にかき消されて、湊自身の耳にさえ、ほとんど届かなかった。

 シャッター街の外れまで来て、湊は一度だけ振り返った。雑居ビルの三階の窓には、もう光は見えなかった。老人がどうなったのか、追ってくるのか、それとも動けずにいるのか、それを確かめる余裕は、湊にはなかった。湊は紙袋の口を握り直し、濡れたアスファルトを踏んで、夜の底へと歩き出した。

 雨は、まだ止む気配を見せなかった。傘も差さぬまま歩き続ける湊の背中を、街灯の光が、ぼんやりと照らしては、すぐに闇の中へ沈めていく。湊の足音は、やがて、水たまりを踏む音とともに、シャッター街の暗がりの奥へと遠ざかっていった。その足音も、やがて雨音にかき消されて聞こえなくなった。


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