終わるための音楽、君と奏でる最後の曲
卒業式まであと二週間という中途半端な時期に、校内放送で呼び出されるのは、だいたい面倒ごとだと相場が決まっている。
瀬尾奏多はそう思いながら、三年二組の席で開きかけていた弁当箱を閉じた。唐揚げが一つだけ顔を出しかけていて、昼休みを途中で止められた感じが少し残る。
『三年二組、瀬尾奏多くん。至急、第二音楽室まで来てください』
放送が流れると、教室の空気がわずかに動いた。前の席の男子が振り返って、楽しそうに口角を上げる。
「呼び出しってことは何かやっただろ」と軽くからかわれ、奏多は肩をすくめて立ち上がる。「してないと思う」と曖昧に返すと、「その言い方が怪しいんだよ」と笑われた。
適当に手を振って教室を出る。廊下に出た瞬間、三月の乾いた空気が頬に触れる。受験を終えた三年の空気は軽いが、どこか落ち着ききらない静けさが残っていた。
特別棟に向かう足取りは自然とゆっくりになる。避けてきた場所に向かうのだから。
第二音楽室の前で足が止まる。扉の向こうから、ピアノの音が漏れていた。途切れがちで、次の音に進むのを迷っているような弾き方だった。
数秒だけその場に立ったまま、音を聞く。誰が弾いているかは考えるまでもない。
「失礼します」
扉を開けると、窓際のグランドピアノの前に白石莉音が座っていた。合唱部の部長で、卒業式では学年全体の合唱をまとめる立場にいる。
子どもの頃から同じ音楽教室に通っていた幼なじみで、中学から高校一年の終わりまで付き合っていた相手でもある。別れてから、奏多はピアノに触らなくなった。
莉音は鍵盤から指を離し、ゆっくりこちらを見る。「来てくれてありがとう」と口にする。その声はやわらかく、無理に距離を詰める感じはない。
奏多は扉を閉めながら一歩だけ中に入る。「放送で呼ばれたら来るしかないだろ」と軽く返すが、視線は鍵盤から外せなかった。
莉音は小さく息を吐く。
「直接だと、来ない気がしたから」
少しの間が空く。余計な話を長引かせる気にはなれず、奏多が先に口を開く。
「それで、何か用があったのか」
莉音は譜面台に置いた楽譜に手を添える。端には細かい書き込みが並んでいて、卒業式の合唱曲だとすぐに分かる。
「伴奏、お願いしたいの」
短い言葉だったが、意味ははっきりしていた。
奏多はすぐに答えず、ピアノの黒い表面に映る自分を見た。伴奏は目立たないが、崩れれば全体に影響が出る役割だ。
「もう演奏者は決まってたはずだろ」と視線を外したまま聞くと、莉音は頷く。「昨日、指を痛めてしまって」と説明し、そのまま「先生も無理はさせられないって判断した」と補足する。
奏多は腕を軽く組む。「他にも弾けるやつはいる」とだろと選択肢を出すと、莉音はすぐには否定しない。
「いるよ。でも少し違う」と言葉を選びながら続ける。「今回の合唱、伴奏で結構変わるから。崩れたら全体も崩れちゃう」
落ち着いた説明だった。
「この学校で奏多が一番いいと思った」
まっすぐな結論だけが残る。
奏多は少しだけ眉を寄せる。「もう弾いてない」と短く口にする。
莉音は頷く。「知ってる…」
そのあと少しだけ視線を落とす。
「弾けなくなったわけじゃないのも分かってる」
その一言で、言い訳が一つ減る。
「……今さらだろ」
低く出た声に、自分でも少し驚く。
莉音はそのまま受け止める。
「うん、今さらだと思う」と否定しない。
短い沈黙が落ちる。
莉音は譜面から手を離し、奏多を見る。
「音楽やめたの、私のせいだよね」
静かな声だったが、目は逸らしていなかった。
奏多は答えない。否定も肯定も、どちらも簡単には言えない。
別れてからピアノに触れなくなったのは事実だった。嫌いになったわけではない。思い出すのが嫌で、距離を置いた。
莉音はそれ以上踏み込まない。ただ、その事実をそこに置く。
空気が少しだけ重くなる。
奏多は鍵盤を見る。触れれば戻ると分かっているから、触らなかった。
莉音は一度息を整える。
「それでもお願いしたい」と続ける。その声はさっきより少し低い。
「上手い人に弾いてほしいだけなら、他の人に頼んでる」
そこで言葉を切る。
「でも、今回はちゃんと合わせたい」
少しだけ間を置く。
「最後に一回だけでいいから、一緒に音楽やってほしい」
押しつける強さはないが、引くつもりもない響きだった。
奏多はすぐに答えない。断る理由はある。怖さも残っている。
それでも、その言葉は外れない。
「それはあのときの……今それ出すのか」
小さく息を吐くように漏らすと、莉音は視線を外さない。
「今しかないと思った」
短い言葉だったが、迷いは感じなかった。
奏多はしばらく黙る。天井を一度見上げてから、ゆっくり椅子を引く。
「一回だけな」
軽くはない言葉だった。
莉音の表情がわずかに緩む。
奏多はピアノの前に座る。遠ざけていた時間のわりに、素直に受け入れることができた。
最初の音を鳴らす。
響きがそのまま次に繋がり、考えるより先に指が動く。流れは止まらない。
最後まで弾き切り、音が消える。
奏多は鍵盤の上に手を置いたまま、小さく息を吐く。「……弾けてるな」と自分に確認する。
莉音は小さく頷く。「うん」とだけ声を置く。
奏多は視線を落としたまま動かない。
弾けるかどうかじゃなかった。弾いたあとに残る感覚の方が、避けていた理由に近い。
「……いろいろ思い出しちまうな、やっぱ」
言葉がそのまま落ちる。
莉音は何も挟まない。
奏多はゆっくり息を吐く。
「卒業式までだ」
短く区切る。
「最後に一回だけ、一緒にやる。それで終わり」
莉音は小さく頷く。
奏多は楽譜を受け取り、鍵盤に手を戻す。
莉音は横に立ち、姿勢を整える。
「お願い」
その一言のあと、奏多が音を鳴らす。
莉音の声が重なる。
声が重なった瞬間、さっき一人で弾いたときとは違う感覚が指先に伝わる。鍵盤を押す力の加減が自然に変わり、歌に合わせて音の出方を整えようと体が先に反応していた。
莉音は楽譜を見ながらではなく、少し前を見て歌っている。合唱の中で先頭に立つときの発声に近く、音を引っ張る意識がそのまま声に出ている。
一度目の通しは、途中でわずかにズレた。奏多の右手がほんの少し強く入り、歌の流れと噛み合わなくなる。それでも止めずに最後まで通す。
音が落ち着いたところで、二人ともすぐには言葉を出さない。余韻というより、どこがずれたのかをそれぞれ確認している時間だった。
奏多は鍵盤に触れたまま、指先を軽く動かす。「サビ前、少し重くなった」と短く整理する。責める響きではなく、事実を置くだけの言い方だった。
莉音は小さく頷き、譜面のその部分に視線を落とす。「入り、少し遅れたかも」と自分の方も確認する。言い訳はせず、そのまま言葉にする。
奏多は一度だけ鍵盤を叩き、テンポを取り直す。「ここ、軽めに入る」とだけ言うと、莉音は呼吸を整えて立ち位置を少しだけ直した。
もう一度同じ箇所に入る。今度は歌の入りに合わせて音を置く。鍵盤を押すタイミングがわずかに前に出るだけで、流れが自然に繋がる。
短いフレーズを終えると、二人ともほぼ同時に視線を上げる。言葉にしなくても、さっきより良くなったことは分かる。
「今の方がいい」と奏多が小さく呟くと、莉音は少しだけ肩の力を抜く。「うん、歌いやすい」と短く返る。
そのまま流れを切らずに、もう一度最初から通す。さっき調整した部分がそのまま反映され、音が途切れない。
中盤に入る頃には、余計な意識が減っていた。奏多は鍵盤だけでなく、莉音の呼吸に合わせて手を動かしている。莉音も伴奏に乗る形で声を伸ばしている。
最後まで通し終えると、音が揃ったまま止まる。さっきよりも自然な終わり方だった。
奏多はゆっくり鍵盤から手を離す。「この感じならいけるな」と軽く言葉を置く。確信というより、手応えに近い。
莉音は譜面を軽く押さえながら頷く。「うん、このまま詰めれば大丈夫そう」と落ち着いた声で答える。
壁の時計に目をやると、放課後の時間がだいぶ進んでいた。完全下校まで余裕はあるが、無理に続けるほどでもない。
奏多は椅子から立ち上がり、指先を軽く振る。「今日はここまでにするか」と言いながら、体に残った感覚を確かめる。
莉音も譜面をまとめながら頷く。
「明日も同じ時間で大丈夫?」
無理のない範囲で続けるつもりなのが分かる。
「問題ない」と答えると、莉音は小さく息を吐く。緊張が少し抜けたように見えた。
電気を消して廊下に出ると、校舎はさっきより静かになっていた。遠くの部活の音が、逆にこの場所の静けさを強くする。
並んで歩く距離は変わっていない。昔と同じ位置に自然と収まる。
階段を降りる途中、莉音が前を見たまま口を開く。
「さっきの演奏、よかった。引き受けてくれてありがとうね」
奏多は少しだけ視線を横に流す。「まだ一回目だろ」と返すが、否定の響きはなかった。
昇降口に着くと、外の空気が流れ込んでくる。昼よりも少しだけ冷えていた。
靴を履き替えながら、奏多は軽く息を吐く。
「明日、遅れないようにする」
莉音はわずかに笑う。
「無理しないでね」
校門の前で足が止まる。帰る方向が分かれる場所だった。
「じゃあ、また明日」奏多が言うと、莉音は一度だけ頷く。そのまま振り返らずに歩き出す。
距離は近かったはずなのに、どうしても越えられない何かがあった。
それでも、その隣にいた時間だけは、嘘じゃなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
派手な展開はないですが、少しでも空気や距離感が伝わっていたら嬉しいです。
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4000文字くらいだけど4時間かかりました泣




