夕星のシエル
夕星のシエル
星の降る夜
流星と共に落ちてくる、水晶を携えた赤子
不老不死のごとく長命で、天性にして頑健
どこからともなく現れる彼らの事を、人は星の子と呼んだ
春の陽光が差し込む庭園は、まるで定規で引かれたかのように完璧な対称性を描いていた。
中央の噴水からは涼やかな水音がやわらかく響き、周囲を囲む低く刈り込まれたツゲの生垣が、赤いゼラニウムと青いロベリアの鮮やかな帯状のベッドを縁取っている。
遠くにガラス張りの温室が輝き、中には帝国の植民地から持ち帰られた蘭やシダが、湿り気を帯びた空気の中で静かに葉を揺らしていた。
短く刈りそろえられた芝生の上では、袖捲りをした黒い色のワンピースに大判のエプロンをした女たちが洗濯物を手に忙しなく庭と洗い場を行き来している。
そのざわめきから少し離れたバラのアーチの下、ひとり銀の如雨露を手にローズマリーの茂みに水をやっている女中がいた。
星屑を零したようなブロンドの髪が朝日を受けてキラキラと輝いている。
と、そこへ朝の喧騒を裂くように、朗らかな声が響いた。
「すみません!」
「シエルさんですよね!」
呼ばれた少女——シエルは、咲き誇る薔薇がそのまま映ったような褐色の瞳を、静かに瞬かせた。
目をやると、リネンのワンピースを身に纏った見慣れぬ少女が、屋敷から連なる小道を小さく跳ねるような足取りでこちらへ駆けてくるのが見えた。
「ああ、あなた……」
顔を知っているわけではない。
会うのはこれが初めてだ。
けれど彼女が誰なのか、シエルにはすぐに思い至った。
飾り気のない色褪せたグレーのワンピースに擦り切れた革靴。帝都に置かれたこの屋敷の庭先に立つにはあまりに場違いな佇まい。
けれどその素朴さが、どこか風の匂いを運んでくるようだった。
少女は息を弾ませながら立ち止まる。
その目は期待に満ちてまっすぐで、シエルの視線と重なると、ほろりと花が開くように笑った。
「侍女長から話は聞いてる。新入りの……」
「はい、リリー・ホワイトと申します」
シエルの言葉を遮るように、少女はきっぱりと名乗った。けれど、それを無礼だとはシエルは思わなかった。
むしろその真っ直ぐな眼差しと曇りのない声音に、どこか眩しさのようなものを感じていた。
「これから宜しくお願いします シエル先輩」
三つ編みを布切れのリボンで結んだだけのお下げの少女——リリーは屈託のない笑みを浮かべる。
素朴で人懐っこい笑顔。礼儀に縛られている様子はないのに、決して無作法にも思えない。
不思議な魅力を持った、太陽に愛されたみたいなそばかすの娘だった。
夕刻、壁付けのガス灯の明かりに壁面の蔦模様がふわりと浮かび、廊下にほのかな煤の匂いが満ちていく。
一通り仕事の説明をし、キッチンの奥で昼食のパンとスープを急いでかき込み、使用人部屋の割り当て、備品の支給などで一日はあっという間に過ぎていった。
カーペット張りの階段に、二人分の足音が鈍く沈む。
二階に上がると、沈みかけた西日が淡い色の“午後の仕事着”を朱色に染めた。
板張りの廊下を歩きながら、シエルは静かに言葉を紡ぐ。
「起床は五時。朝食はミサのあと下の食堂で——……、」
ふと、シエルの言葉が止まる。
屋敷の中を案内しているはずなのに、隣からの視線が妙にこちらに注がれている気がする。
ゆっくりと横を向くと、やはりリリーがこちらをじっと見つめていた。
その顔に、悪びれた様子はまるでない。ただ、何かを観察するような、どこか真剣な眼差しだ。
どうやら、気のせいではなかったらしい。
「……どうかした?」
「えっ!? あっ、ごめんなさい!じろじろ見るつもりはなかったんですけど……」
慌てたように言うリリー。
その仕草に、シエルの表情が僅かに硬くなる。
咎めるつもりはなかった。けれど、思わず身構えてしまう。
じろじろ見られる理由に心当たりがなかったわけではない。“また何か言われる”——そんな予感が一瞬、胸をかすめた。
だがそれに続いたのは、自分の予想とはまるで違う言葉だった。
「シエルさんって……すごく綺麗ですね」
「……えっ……?」
あまりに唐突で、意味がすぐに頭に入ってこなかった。
思わず、歩みを止めて彼女の顔を見返す。
そんなことを言われたのは生まれて初めてだった。
「あっ、いえ!帝都の人って綺麗な方ばっかりだな思ったんですけど、シエルさんはその中でも特別っていうか……!!」
リリーは気まずそうに笑いながら、手を振ってごまかすように続ける。
「最初は近づきにくい方かと思ってたんですけど、仕事のこととかも、すごく丁寧に教えてくださって……。」
その声に嘘やお世辞の響きはない。
こちらを見据える瞳は真っ直ぐで、下心や社交辞令の類いとはまるで無縁だった。
「こんなに素敵な先輩と一緒に働けるなんて、思ってもみませんでした!」
そう言って恥じらったようにはにかんだリリーの表情を、素直に直視することができなかった。
それは照れでも、嫌悪でもない。ただ、心のどこかが微かに軋んだ気がした。
何も返せずに、ただ視線だけが床の上を彷徨う。
“ありがとう”と言うべきなのだろうか。
それとも謙遜すべきか。
咄嗟に浮かんだのは、喜びというよりもそんな居心地の悪い思考だった。
だがリリーは特に気にも留めなかったのだろう、ほんの少し目線を下げ、やわらかな声を落とす。
「……そのペンダント、素敵ですね」
ごく自然に、興味を向けるような口調だった。
「えっ?……あっ、」
反射的に胸元へ手をやる。
そこで初めて、自分がそれを見せたままだったことに気づいた。
シエルの首からぶら下がっている、星を吊るしたような石の飾り。
食事のあと、急いで服を整えたせいだろう。つい襟の中にしまうのを忘れてしまっていたらしい。
まるで、心臓を他人の目に曝け出しているような感覚。
(……こんなもの、人に見られない方がいいのに——)
唇を噛んだがもう遅い。
慌てて指先で鎖を掴み、懐へと滑り込ませる。
そんな彼女の様子を、リリーは気まずがる様子もなく、ただ不思議そうに首を傾げた。
「……大事なものなんですか?」
それを聞いて、シエルの胸に妙な納得が降りた。
気まずいような感覚。何か言わないとと、思った。
リリーの言葉は、まっすぐで、無邪気で——そして、ある種の“誤解”を含んでいる。
このままではいずれ彼女の思い違いが、きっと後々の厄介の元になる。
口を開きかけたその時だった。
「シエル!!」
格式高いこの屋敷に場違いなほどに明るい男の声が響いた。
その声を聞いた途端、シエルは思わず顔をしかめる。
そして半歩、後ろへ退いた。無意識のうちに、リリーの陰に隠れるように身を寄せる。
「??」
戸惑ったように振り向くリリーが、ぱちくりと瞬きをした。
だが先ほどはっきりと名を呼ばれた。隠れても無駄なのがわかってしまった。
シエルは観念したように深く溜息を付くと、リリーに「先に部屋に戻るように」と伝え、ゆっくりと歩を進める。
「……また来たんですか。ジェンキンスさん」
眉間に皺を寄せながらも、目だけは逸らさない。
抑えた声で、努めて感情を排したまま。
それでもそこには微かな棘と僅かな諦めが滲んでいた。
「相変わらずつれないね。『ロバート♡』って呼んでくれていいのに」
紺色の詰襟に身を包み、ヘルメットの銀バッジが夕陽を受けてきらめく。夕焼けの色を映して、それは一瞬だけ金色にさえ見えた。
その声音もまた、夕方の空気の中で軽やかに浮かぶようだった。眼鏡の奥の目も細められ、どこか楽しげに揺れている。
相も変わらず軽口を叩けるものだ。その“ロバート”の最後の方が妙に間延びしているのも腹立たしい。
更に眉頭の皺が深くなりそうなのを、ぐっと堪える。
「さっき誰かの後ろに隠れただろ、あの子は新入り?」
「ええ新人のリリーです。ジェンキンスさん」
面白がっているのが言葉の端々に滲んでいる。
それに対し、シエルは努めて事務的な声で返した。
語尾をやや硬めに結んだのは、あくまで“他人行儀”を貫くためだった。
「職務中にナンパなんて、警視庁のお仕事はよほど暇なんですね」
「巡回連絡って言ってほしいなあ」
肩をすくめて、ジェンキンス巡査——ロバートは飄々とした笑みを浮かべる。
嫌味をぶつけてもこの調子だ。
巡回の合間にふらりと屋敷へ現れては、女中たちに混ざって他愛ない話に花を咲かせている。
そのくせ、気づけばいつの間にかその輪から抜け出し、何事もなかったようにシエルの隣に立っているのだ。
気まぐれなのか、誰とも連れ立たずいつも一人でいるシエルを哀れんでいるのか、それともただの物好きなのか……正直、よくわからない。
「ここから見る夕焼け空、好きだな」
ロバートが、窓の外へと目をやりながら言う。
波打ったガラスの向こう、広大に広がる庭園の遥か彼方、夕陽が沈もうとしていた。
金と橙と、わずかに赤。西の空は刻々と色を変えながら、ゆっくりと一日を閉じようとしている。
「君の目と同じ色だ」
「…………。」
その言葉に、ただ目を伏せた。
呆れたような戸惑いと、むず痒いような気持ちだけが募る。
けれどロバートはそれ以上何も言わず、鼻歌でも口ずさみそうな気楽な笑みを浮かべたまま、沈む太陽の方角を見つめていた。
シエルもまた、口を閉ざしたまま遠くの稜線をゆっくりと視線で辿る。
彼のベルトに吊るした鍵束が触れ合って、小さく音がした。それもまた、何かの言葉のようにそっとこの空間を満たしていた。
全く、皮肉なことを言うものだ。
星なんだか、青空なんだか、
夕焼けなんだか———。
その日は曇りだった。
厚い雲が陽を隠し、厨房にはぼんやりとした夕の光が差し込んでいる。
石造りの床は底冷えするような冷たさで、巨大なオーブンからは立ち上る湯気と肉の匂いが充満している。
長い調理台のまわりではメイドたちが野菜を刻み、コックが大声で指示を飛ばしていた。
鍋の蓋が打ち鳴らされ、火加減を巡ってのやり取りが交差するその場にあって、シエルは少し離れた棚の前に立っていた。
手にはリネンの布。ひとつひとつ、並べられた食器の埃を払うようにして、丁寧に拭き上げていく。
釉薬の薄くかかった陶器の皿。その表面に、曇天の光が揺れている。青みがかった釉が、ふとした角度で鈍く光を返し、それが少しだけ慰めのようにも思えた。
本来なら、これは別の侍女の仕事のはずだが、今日はその姿が見えない。
——まあ、よくあることだ。
そんな風に思いながら、次の皿に指を伸ばした、そのときだった。
「シエル」
振り返るとそこには、普段はシエルのことなど鼻にもかけない侍女長がしかめ面をして立っていた。
口は固く閉ざされ、視線はまっすぐに前を射抜く。そこには一分の穏やかさもなかった。
てっきり、つい先日から自分の手を離れ、一人で持ち場につくようになったリリーのことかと思った。
だが侍女長は眉ひとつ動かさず、端的に告げる。
「悪いけれど、薬局まで行ってもらえるかしら」
(こんな時間に?)
シエルは言葉にはせず、心のなかでつぶやいた。
もうすでに日は傾いている。夕食の準備だってあるのに……。
薬局〈アポセカリー〉に、大奥様の持病の薬を受け取りに行く役目。
その仕事は、普段は自分の仕事ではない。
それがどうしてこんな時刻まで放っておかれたのか……誰かの怠慢の尻拭いであろうことは容易に想像できた。
「薬局が閉まる前に行ってくるのよ」
街へ行くのは苦手だった。
『いいえ』と言ってしまいたかった。けれどそれを口に出せる立場ではないのは重々承知だ。
「はい、わかりました」
急ぎ足で行けば、日没前には十分戻って来れる。余計な波風は立てない。部屋の隅に置かれたアスパラガス・ファーンの鉢みたいに、壁際で息をひそめて。
目立たず、主張せず。誰の記憶にも残らぬまま、ただそこにあるように。
それがこの地で生きていくための、シエルの処世術だった。
使用人用食堂のざわめきは、主人の静かな食卓とはまるで別世界だ。
石造りの天井に響く談笑とスプーンの音が、早くも一日の終わりを知らせている。
日が落ちる前に、使用人は主人たちよりも先に食べ終えるのが通例だ。
長いテーブルに一斉に腰掛け、忙しないながらも賑やかな食卓が始まる。
硬くなったパンを野菜くずが浮いたスープに浸しながら、リリーは静かに溜息をついた。
余り生地で作られた冷めたパイに、茹でたジャガイモ、ローストのかけら。
農村の食事よりはよほど良かったが、それでも都会のお屋敷ならばもっといいものが食べられると期待していたのに。
現実は、夢見たほど甘くない。
壁とテーブルに挟まれるように窮屈に食事を摂っていたリリーのもとへ、数人のメイドがタルトのかけらをつまみながらひょいと近づいてきた。
「あんたがリリー?」
彼女たちのまとめ髪はきっちり整っていて、白いキャップのリボンが揺れている。
「シエルが教育係についたって新入りでしょ?」
「ねえ、あの子“どう”なの?」
慣れた目つきでリリーを値踏みするように見やりながら、そんなことを言い出した。
「あの、それ、どういう……」
ただの“印象”を聞かれたわけではないことは、鈍い自分にもはっきりとわかった。
けれどその“どう”の中身を図りかねて、頼りない声が漏れる。
優しい人だとか、仕事をきっちりこなす人だとか、そんなことを聞かれているわけではない気がした。
「ああ、そういえばあんた田舎の出だっけ」
「じゃああんまり聞いた事ないか」
「大きい街でも十人もいないくらいだもんね」
ひとりが言えば、すぐにもうひとりがそれを継ぎ、先輩メイドたちは顔を見合わせて口々に言葉を重ねる。
どこか得意げで、楽しげで、しかしそのどれもが、どこかよそ行きの声に聞こえた。
「………?」
リリーはスープの中でパンをゆっくりほぐしながら、小さく首を傾げた。
眉がわずかに寄る。何の話をしているのか、いまひとつ掴みきれない。
そんな彼女に、そのうちの一人がふっと笑いを引き、声をひそめるように言った。
「あの子、星の子なのよ」
“星の子”。
その言葉が、リリーの頭に妙に重く響いた。
その存在を知らなかったわけではない。
教会で、あるいは、旅回りの語り手の物語で。
夜空に還る魂のこと。
星の落とし子。人ならざるもの。
けれど、そんなもの御伽話か風言のようなものだと思っていた。
「……私、星の子って、いままで見たことがなくて……」
ぽつりとこぼれたその声には、自分でも驚くほど力がなかった。
「あー、やっぱそうなんだ」
「星の子って、夜になるとトカゲみたいに身体が冷たくなるらしいよ」
「えー、あたしは目が光るって聞いたー」
声の調子は一様に軽く、噂話の続きを囁くようだった。
リリーは俯いたまま、スープに沈めたパンを見つめる。
湯気の消えかけたその皿からはもうほとんど香りも立たない。
冷えたスープをくぐるスプーンの音が、なんだかいやに耳に残った。
日没前の霧の街はどんよりとしていた。
煤を吸いくすんだ煉瓦の壁も、道端に立つ鉄製の街灯も、遠くを通る馬車の車輪の音さえも、すっかり靄に包まれている。
石畳を踏むたび、靴裏がしっとりと冷えた。
薬局は、この路地を抜けた先だ。
(ベリーズ通り二丁目……確かこの辺りのはず——)
ひとりごちるように思考をめぐらせながら角を曲がった、そのとき。
霧の向こうから、誰かの怒鳴り声が跳ねるように響いた。
「やめて!」
甲高く、震えるような少女の——いや、もっと幼い、子供の声。
シエルはとっさに足を止めた。
建物の陰に身を隠し、気配を殺す。
視線を声の方へ滑らせると、路地裏の奥まった場所に、黒い外套の男たちの姿があった。
ふたり。
その顔までははっきりと見えなかったが、薄汚れたその身なりからして上品な身分の人間ではなさそうだ。
「嫌!!離して!!」
「うるせえ!いいから寄越せ!!」
その怒鳴り声と共に、薄暗い路地の奥で小さな影が両腕で何かを必死に守っていた。
小さな背中が揺れ、足元には崩れ落ちそうなほど痩せ細った膝。
そして次の瞬間。
その細い腕から水晶がひとつ無造作に、容赦なくもぎ取られた。
「へぇ、いい色じゃねえか。こりゃあ高く売れるな」
くぐもった笑い声が曇り空の下でぬめるように反響する。
もう一人の男が、水晶をつまむように持ち上げて鼻で笑った。
「しかしこんな気色悪いもんに金を出すなんて物好きだよなぁ」
「どんな刃でも傷つかないくらい硬いからな。縁起が良いってんで、金持ちが高く買うんだとよ」
淡い霧の中、水晶はひときわ白く光った。
その光を追うように、子供が震える声で叫ぶ。
「返して!!返してよ!!それがないと——」
銀の髪を振り乱し、子供は必死に男の腕へ縋りついた。
細い指が縫うように伸びて、奪われた水晶を取り戻そうとする。
しかしその身体は、風に吹かれた草の茎よりも簡単に振り払われた。
「触るな!!汚れるだろうが!!」
「あ……っ、」
声ともつかない声が夜気に溶けた。
「おいそんなの放っとけ」
「どうせそのうち死ぬ」
あまりに軽く、何でもないことのように。
その言葉だけが、霧よりも冷たく路地に沈んでいった。
星の子は体外に“核”を持つ。
星の子たちがその胸に携えて生まれてくるあの石。
それはただの飾りでも、お守りでもない。
あれは、心臓の代わりだ。——命そのものだ。
星の子の寿命は長いが、“石”を手放せば命の炎は急速に冷える。
芯から、音もなく、静かに。
「…………っ、」
シエルは思わず走り出していた。
靴が地面を蹴る音、背中に残る吐息、湿った風の感触。
全部が輪郭を持たず、ただ混ざり合う。
足がもつれてふらつくのに、心臓だけが先に走っていく。
哀れみはなかった。“石”を取り上げられてしまえばどうしようもない。自分があの子にしてやれることなんて何もない。
それどころではなかった。
頭の奥で警鐘が鳴っている。
もし自分が彼らに見つかったら。星の子だとばれてしまったら。
服の奥に忍ばせた星の石が、いまは妙に冷たく重く感じた。
心臓が早鐘を打ち、喉が乾く。
呼吸がうまくできない。吸いこんだ空気が肺の奥まで届かない。
それなのに何度も何度も呼吸をしてしまう。
彼らが追ってきていないことくらい、わかっている。
足音はしない。怒声もない。気配もない。それなのに、世界だけがぐにゃりと歪んだ。
濁った空気が視界を、感覚を曇らせる。
街が宵闇に沈んでいく。
彼らが咎められる事はない。
星の子を守る法律などないのだから———。
どれくらい経っただろうか。
走って走った先の路地裏で、シエルは身を縮めるように壁に背を預け、息を潜めたまま通りの様子を窺っていた。
脈打つ鼓動がまだ胸の奥で暴れている。
あの男たちがまだ近くにいるような気がした。
どこにも姿はないのに、すぐ近くにいるような、あの冷たい視線だけが追いかけてくるような、そんな気がしてならなかった。
しばらくして、ようやく薬局にたどり着いたのは、ちょうど店主が“closed”の札を店先に掛けようとしている時だった。
手ぶらで屋敷に帰るわけにもいかず、店主には小言を言われたが、謝るしかなかった。
足早に屋敷に戻り、なんとか大夫人の就寝の前に薬を届け終えた頃にはすっかり夜も更けていた。
当然キッチンには自分のための食事は残されていなかった。
……けれどどちらにせよ、なんとなく胃のあたりが重くて、食事を摂るような気分にはなれなかった。
薄暗い階段を登っていくと、廊下の先に小さな人影が見えた。
「あ……」
「リリー?」
足音に振り返ったリリーはどこか取り乱したようだった。
白いネグリジェに身を包み、ウールのショールを肩に羽織っている。
リリーの部屋は反対側の突き当たりのはずだ。
「…………?」
一体なにかあったのだろうかと、シエルは首を傾げた。
リリーとは持ち場こそ離れてしまったが、顔を合わせれば軽い雑談くらいはする仲だった。
周囲から距離を置かれているシエルにとって、リリーはこの屋敷で唯一と言っていい話し相手だった。
付きっきりで指導にあたることはもうなくなったものの、今でも仕事の疑問を持ちかけに来ることもあり、そのたびに素直に礼を言ってくれる。
それに自分は曲がりなりにも彼女の“教育係”だった身だ。
なにか困り事でもあるのなら相談くらいには乗るべきだろうかと、口を開きかけたその時、先に沈黙を破ったのはリリーの方だった。
「……私、星の子だなんて知らなくて」
絞り出されたようなその一言に、シエルは喉の奥が詰まるのを感じた。
「あの、でも」
続いた声はかすれていて、どこか頼りなかった。
胸の奥で、何かが鋭く裂けるような感覚が走る。
息が浅くなり、指先がじんと震え、思考の輪郭がぼやけていく。
「シエルさんだって、教えてくれたってよかったじゃないですか……」
ただそれだけ。
責め立てるでもなく、泣き叫ぶでもなく。
それだけを言ってくるりと踵を返すと、リリーはショールの裾を揺らしながら、小走りで自室の方へと去って行った。
目も合わせないまま。
リリーの声は、少しだけ泣きそうに聞こえた。
その揺れがシエルの精神に確かな痛みを落とした。
胸の中央に冷たい刃が突き刺さり、そこからじわじわと痛みが広がっていく。
息を吸うたびにその傷が深くなるようで、肺がきゅっと縮む。
リリーの言葉が、耳に残って離れなかった。
外套も着ないまま、星のない空の下をただひたすら走った。
逃げだしたい。けれどどこへ逃げればいいのかも、誰に、何に、すがればいいのかもわからない。
街灯の明かりが煤けたガラス越しにぼんやりと灯り、路面にくすんだ光を落とす。
足元でその光が揺れ、かすかに踊るように歪んではまた闇に呑まれていった。
冷たい夜気が肌を刺し、薄霧が足首に絡みつく。
通りを抜けるたび、夜の気配だけが濃くなっていく。
どこへ向かっているのか、自分でもわからない。
ただ、胸の奥が苦しくて、その痛みから逃れたくて、足が勝手に前へ前へと動いた。
遠くで馬車の車輪が軋み、どこかの家の窓辺でカーテンが揺れる。
誰もこちらを見ない。
まるで世界の端をひとりで歩いているようだった。
やがて、風が湿った空気の匂いに変わった。
鉄と水の気配が混ざり合い、肺の奥がひやりと冷える。
川だ。
欄干に手を添えて覗き込むと、濁った水面が街灯の明かりをぼんやりと映していた。
シエルは胸元に指を添え、小さな星の欠片のような飾りをそっと外した。
石は、軽かった。
空に向かって腕を振ると、指先で支えていた温もりがふっと消える。
小さな水音のあと、夕暮れにも似た淡い光が水面に一瞬だけ浮かび、次の瞬間には黒い流れへと吸い込まれていった。
脳裏に浮かんだのは、路地裏で見たあの子のことだった。
“石”を取り上げられ、ただ“その時”を待つだけになってしまった星の子。
あの子の絶望が、なぜだか自分の胸にも重なった。
守られない命。
誰からも見つけてもらえない影。
(……石なんて、もういらない)
こんな私なんて、いなくなってしまえばいい——。
シエルは身体の奥がずきりと痛むのを、テラコッタの廊下を踏みしめる足音に紛れさせた。
冷えた朝霧が屋敷の庭に薄く流れている。
ガス灯の名残りの匂いが、まだ空気に残っていた。
石を捨ててしまってからというもの、体の芯が妙に冷える。
指先がうまく力を入れてくれない。
息を吸うたび、肺の奥でひゅう、と細い風が鳴る気がした。
捨てた瞬間は、きっとただの衝動だった。
けれどそれを取りに戻る気力も、意味も、もうない。
『星の子なのに』
誰かがふと漏らしたそんな視線だけが肌に触れる。
丈夫な身体の造りのはずの“星の子”が辛そうにしていることに、周囲は不思議そうな顔を向けては何も言わず通り過ぎていく。
気遣いの言葉をかける者もいないが、問いただす者もいない。
けれどそんな周りに対しても、もう何かを感じる余裕はなくなっていた。
床を磨く手がかじかんでも手を止めることはしない。冷たい水に皮膚がひりつく感覚すら、もうどうだってよかった。
そのとき、ふと廊下を行き交うメイド達の会話が聞こえた。
何故だろう。同僚達の噂話なんて、いつもなら気にも留めないはずだった。
けれどどうしてか、この時だけは、その言葉だけははっきりと耳に届いた。
「ねえ、ちょっと聞いた? ロバートが撃たれたらしいよ」
すっと、胸の奥の空気が抜け落ちたような感覚。
気づけば、手の動きが止まっていた。
無意識のまま、視線が彼女たちのほうへと吸い寄せられる。
「えーっ、何それー」
「明け方に、向こうの通りで強盗事件があったんだって」
彼女達の会話は、まるで雑談のひとかけらみたいだったのに、その声が一拍だけ遅れて聞こえたような気がした。
呼吸が、気づかぬうちに浅くなっていた。
——撃たれた……?
——強盗?
…………ロバートが?
バケツの中の水が、ぱしゃりと音を立てたのがどこか遠くで聞こえた。
次の瞬間には、走り出していた。
「え、ちょっと シエル——」
そう呼び止めた同僚の声も、素焼きの床に反響する自分の足音も、耳に入っていたのに聞こえなかった。
滑稽だと思う。
自分は死にたかったくせに、いっそいなくなってしまいたいと願ったくせに、あの人の身に起きたその“現実”を受け入れることだけは、心が必死に拒んでいた。
どこへ行こうとしていたのかもよくわからない。けれど、今行かないと、胸の奥底にただ一つ残した“なにか”——それすら崩れてしまったら、自分の中の全てが壊れてしまうような気がした。
石畳を踏みしめるたび、視界の端が揺れていた。
林檎と梨の枝が重なる小道を、木漏れ日をかき分けるようにして駆け抜ける。
薔薇の香り、牡丹の香り。噴水のせせらぎ。
柔らかな春の陽射しだというのに、その中で自分だけが、凍てついた冬の空気に閉じ込められているみたいだった。
肉にも皮膚にも、まるで血が通っていないような気さえするのに、胸の奥だけが燃え盛るように熱い。
身体も心も、自分のものでないように動いているのに、痛みだけは確かに感じていた。
脚が、肺が、悲鳴を上げているのに、それでも止まれなかった。
月桂樹の生垣の角を曲がった、その瞬間だった。
「わっ!?」
どん、と鈍い衝撃。
反射する間もなく体が一瞬バランスを失い、足をもつらせる。
「……シエル……!?」
その声が耳に届いた瞬間、時間が少しだけ遅れて流れ出す。
聞き慣れた——いや、それ以上に、心の奥に深く刻まれた声。
顔を上げる。ヘルメットの銀のプレートに反射した光が目を刺す。
数秒遅れて、ようやく視界が追いついた。
「…………ジェンキンスさん」
自然と口から漏れたその言葉は、力を持たない掠れた呼気のような声だった。
それでも、自分でも驚くほど、胸の底からすっと湧きあがってきた。
レンズの奥の瞳と目が合った瞬間、心の中で何かがほどけた。
「………!!?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、シエルはただ彼を見上げる。
「え……、どうして………撃たれたって……」
小さな声が漏れたが、それ以上言葉が続かない。
目の前の“現実”は確かに温かくて、確かにここにあるのに。
まるで、夢を見ているかのようだった。
「え。ああ、いや」
ロバートはようやく合点がいったように、気まずそうに頬を掻いた。
「撃たれたのは撃たれたんだけど……」
そう言いながら、上着の内ポケットに手を差し入れる。
「君が守ってくれた」
彼が懐から取り出した星屑。
淀んだ流れの底にあるはずの“それ”は——朝の光を受けてキラキラと輝いていた。
「捨てたの見てて……返そうと思ったんだけど、遅い時間だったし——」
「でも、金剛石より硬いとは聞いてたけど、まさか銃弾を跳ね返すとは……」
困ったように眉尻を下げ、彼は苦笑した。
「駄目だろ、捨てたりして。大事なものなんだろ?」
言葉は叱るみたいだったのに、その声は包み込むように優しくて。
どうしてか、頬に熱が上がって視界が滲む。
「…………————。」
——私もきっといつか誰かに殺される
それならいっそ——。
あの時は、確かにそう思った。
そう思ったのに…………。
「……あのさ、考えたんだけど」
涙が溢れるより先に、ロバートが息を整えるように口を開いた。
「これ、僕が持ってちゃ駄目かな?」
思わず顔を上げる。
視界の端がまだ滲んでいるのに、彼の顔だけははっきり見えた。
「………え?」
「最近、星の石が高値で裏取引されてるって話がうちにも上がってきててさ……だから、向こうもまあ、人間相手には手出ししてこないだろうし」
彼は珍しく表情を引き締めていた。
いつもの軽口とは違う声。
静かで、選ぶような言葉だった。
「離れすぎてなければ大丈夫なんだろ?根本的な解決にはならないかもしれないけど」
「え え?」
情けない声だけが漏れる。声にしたい言葉はあるのに、それが何なのか自分でもよくわからなかった。
だって、そんなの無茶だ。私は女中、彼は警官。立場も仕事もまるで違う。
四六時中付きっきりでいるなんて、どう考えても現実的ではない。
「僕がずっと隣にいる」
その一言に、息が詰まった。
「でも、だって……私は星の子で……あなたには仕事だって……」
か細い声が、情けなく空に溶けていく。
ロバートは何も言わず、しばし沈黙した。
けれどその沈黙は拒絶でも困惑でもなく……何かを探すような、優しい間だった。
「……親父が倒れてさ、」
不意に落とされた言葉。
彼の声が、どこか遠くを見つめるように静かだった。
「実家の農場を継ぐんだ」
「結構大きい農場でさ、そこで孤児院もやれないかな」
そして、こちらを見る。
視線はまっすぐで、揺れていなかった。
「人間の子も、星の子も同じように」
「同じように……?」
ようやく絞り出した声に、彼は軽く頷いた。
「だってさ、シエル。」
「目がついてて耳がついてて、僕と君と、一体何が違うって言うんだい?」
彼の言っていることは、たぶん間違っていないのだと思う。
正しいのに、現実味がなくて。それでいて、どこかふわふわしていて。
遠くて、頼りなくて、触れようとすればほどけてしまいそうで。
夢物語みたいだと思う。
でも、それでも。
どうしてだろう。
その夢を、信じてみたいと思った。
「………ええ、ロバート」
声が震えたのは、寒さのせいじゃない。
世界が、ふわりとほどけていく気がした。
手のひらを伸ばせば、そこには確かにぬくもりがあった。
逃げずに、迷わずに——まっすぐにそれは差し出されていた。
長く凍えていた心に、ようやく光が差し込むように。
雪解け水が土を潤すように、胸の奥にあたたかなものが広がっていく。
春の陽だまりの中、ただそっと、二人の影が重なった。
それは遠い遠い昔話だった。
春の終わり、枝先に小さな蕾を宿した果樹のあいだから、まだ幼さの残る笑い声が跳ねていく。
林檎の木に囲まれた、小さな孤児院。
星の形の石を首に下げた子供達が一人の女性を囲んでいる。
「星の子っていうだけで殺されてた時代があったなんて……」
「それでそのあと二人はどうなったのかな?」
「きっと幸せに暮らしたんだよ!」
年長の子が勢いよく言い切ると、小さな子どもたちが「うんうん!」と頷く。
女性の頬がわずかにゆるむ。穏やかで、あたたかな表情だった。
そのとき、軋むような音を立てて扉が開いた。
入り口に立っていたのは、一人の老女。
ドアノブを握りしめる手はあかぎれだらけで、曲がった腰がゆっくりと揺れている。
「ジェンキンスさん、市長がお見えになっています」
女性——ジェンキンスと呼ばれたその人は、子供たちの頭をそっと撫でると、静かに立ち上がった。
一歩、二歩と進んでいく途中で、ふと窓辺に目をやる。
舗装された街路。行き交う車の排気ガスの中、早朝の配給所へ向かう“人間”たちが静かに列を作って通り過ぎていく。
星をぶら下げた者たちは、誰も目を合わせようとはしない。
「ええ。今行きます」
女は頷き、歩を進める。
後ろから、無邪気な声が背を追った。
「シエルさんって優しいよね。“人間の子”も雇ってあげてるんでしょ?」
“シエル”はなにも答えない。
ただ微笑んで———静かに扉が閉まった。
end




