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「おう、目が覚めたか」
覚醒と同時、目を開けるよりも先に声を掛けられた。
誰かが声を掛けてきた、とう事実が夢か現か判然としないままライは目を開ける。すると視界に広がるのは見慣れない部屋であり、彼はそこが知っている場所でないことに気を動転させた。
そしてそのすぐ後、ようやく声を掛けられたこととその声の主のことを認識するに至った。
「な、な、なんだ……」
「俺はトラッドってモンだ。まあ水でも飲んで落ち着けよ」
ベッドのそばの椅子に腰かけた声の主……白髪交じりのこげ茶髪の男が大きな木のカップを手渡してくる。
しかしライがそれを受け取ろうとしても男がカップを離そうとしない。ライは怪訝に思ったが、それと同時、自分の手がぶるぶると震え力が入らないことに気が付いた。
「手当はしてやったが、ひどく痛めつけられてたからな。しっかり持てよ、じゃないと落とすぞ」
言われ、ライは注意深くカップを両手で受け取って水に口をつける。
半ば無駄だと知りつつも警戒して少量を口に含んだつもりだったが、よほど喉が渇いていたのだろう。欲求に負けて、ライはその水を一気に飲み干した。
「……っ、ぷはぁっ」
息を吐く。
すると男の言ったように、少し落ち着いてきたようだ。
ライが自身の姿を確認すると、ガルムウルフの銀毛に削られた腕が包帯でぐるぐる巻きになっている。加えて、打撲した箇所にべっとりと軟膏が塗られ、それに被せるように布が貼り付けられている。
どこもかしこも熱で焙られるような鈍い痛みがあったが、軟膏のひやりとした感触が多少は痛みを和らげてくれていた。
「あんた、どうして俺を」
自分が助けられたのだと、ようやく呑み込めてきてぽつりと呟く。
その問いに、トラッドと名乗った男が我が意を得たりと笑みを浮かべた。
「そりゃ目的があるに決まってんだろ。……お前、俺の元で剣術を習え」
「え?」
あまりにも唐突な提案だった。
目的と言われても、直ぐに飲み込めるような話ではない。
そもそもなんらかの技能を習得するには対価が要るのが普通だ。
それなのに、トラッドはライの手当を対価にして技能を与えると言う。
そのちぐはぐさも、ライの理解を遠ざける一因になっている。
しかしながら、男の口調は有無を言わせぬ命令形で、対価を与えたのだから当然返事は「諾」であるという圧力があった。
「俺は界隈じゃちょいと名の知れた剣士だったんだが、膝をやっちまってな」
戸惑うライを尻目に、彼は自身の膝をポンと叩いた。
「歩けはするが、剣を振れるほどじゃねぇ。もともと引退したら剣術道場でも開くつもりが、これじゃまともに教えるのも難しいだろ? そこで俺は考えたんだ。どっかから身寄りも金もねぇガキを拾ってきて、厳しく鍛えて、俺の剣術道場の師範にしようってな」
当たり前の考えのように語るトラッドだが、その論は飛躍がありすぎて、ライは困惑するばかりだった。
剣の技術に他流の変な色がついていないこと。
手足が伸び切る前から教えることで自分の剣術を染みつかせられること。
厳しく指導しても親兄弟に文句を言われないこと。
そうした条件をトラッドは求めているようだった。
根本的な理由は「自身の剣術を後世に伝えたい」という、一廉の剣士ならありふれた願望のようだったが、ライにはそれでも理解ができなかった。
「まぁ、色々条件付けてもどっかからガキを攫ってくるわけにはいかないからな。戦いに身を置く覚悟のあるやつでなきゃ意味がねぇし。年齢が若くて、何も持っていなくて、戦う意思がある。お前はちょうどいい存在だったんだよ」
「なんで俺が何も持ってないって分かったんだ?」
「少し前からちょっと話題になってたからな。登録金も無い小汚いガキが探索者になったってよ。それでそのうち声を掛けようと思ってたら、ヘマしたお前が道端に転がってると来たもんだ」
そうして渡りに船とライを手当てした、というのが経緯であるらしかった。
「で? 返答は?」
返答は一種類しかなく、その言葉がこの話の結論だとでも言うように、トラッドはライをにらみつけた。
「教えてくれるなら、教えてほしい。でも……」
ライが教えて欲しいと答えたのは、直近で人の生死に関わる迷惑をかけてしまい、それが自分の弱さが原因で引き起こされたものだったからである。
強さを得られるのならそうしたいという気持ちがあった。しかし、彼には素直にそれを受け入れるためにクリアしなければならない懸念材料があった。ここで遠慮をしても何にもならないと、彼は意を決してそれを口にした。
「俺には……ほんとうに何もないんだ。もうナイフも無いし、剣の修行で時間を取られたら、俺は今日もまともに生きていけない」
ライは裏町に生まれ、両親も無く、生まれた時から貧困の中にあった。
彼は汚いクソガキで、ドブ浚いなんかをしていれば道行く人に蔑まれることなんてざらにある。しかしそれを、彼はこれまで大して気とめたことはなかった。
そんな彼が今、人生で初めて自分の弱さを否定したい気持ちになっていた。
何もできないことは、何も生まないだけじゃない。
自分以外の全く関係のない誰かを巻き込んで、取り返しのつかない悪いことを引き寄せてしまうと、彼は実感をもって知ったのだ。
そんなことを考えてベッドのシーツを握りしめるライに、トラッドはニヤリと笑みを返す。
「そこら辺は考えてるさ。何も持たねぇガキを所望したのは俺だからな。……飯と寝床だ。しょぼい飯だが食わせてやる、使ってないボロの寝台だが使わせてやる。その代わりに! ……剣に関して俺に逆らうことは許さねえ。そういう約束でどうだ」
「どうしてそこまで……」
「理由はさっき話したので全部だ。お前にそれ以上必要か?」
「……いや、そうだな」
ライはそう言って、トラッドの差し出した手のひらをしっかりと握った。
底辺で生き、人生のその先には何の保障もないと常々ライは思っていた。
しかし、ドブに落ちたナイフが彼の人生を変えたのは事実であり、その先でトラッドと出会う未来を作ったのも、まぎれもなくあのナイフだった。
始まりの銀は手元からこぼれ落ちたが、引き起こした失敗の先に、新たな金が待っているなんて。
過去の彼に説明しても、理解はできないだろう。
それでも事実として彼の元に訪れた幸運に、手を伸ばさない理由は彼には無かった。
ドブ浚いの少年は、こうして見習い剣士へとなったのである。
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