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「あら、遅かったのね……って、どうしたの?」
「……なんでもない」
掛けられた言葉に、少年はごまかすように言った。
ディアナも特に気にせず、彼の前に紙面を差し出す。
「これ、登録用紙ね。その後に初仕事を受けてもらうから、そのつもりで」
「初仕事?」
「ええ。床、掃除しろって言われてたでしょ? 報酬は銀貨一枚ね」
どうやらディアナは、少年の汚した床の掃除、それを最初のクエストとして受注させてくれるつもりらしい。
「いい……んですか?」
「また汚れてここに来られると私も困るのよ。だから今日の宿代くらいはね。もちろんしっかり仕事はしてもらうけど」
そう言って、ディアナはウィンクをした。
群青の髪を後ろで一つに括った彼女の容姿は、客観的に見て整っていると言っていい。
そんな彼女の茶目っ気のある仕草に、普通の男なら大いに胸を高鳴らせることだろう。
「ありがとう……。あと俺、字が書けないんだ」
しかしながら、対する少年はあまりにも子供で、かつ色恋など人生で一度も考えたことのない無骨者である。
彼の返答は破格の報酬に対してのみ。
彼女の愛嬌はどこにも影響を与えることなく、彼女の心の中にだけ残るものとなったようだった。
「……こほん、ええと。字が書けないのね、分かったわ。……そういえば、あなた名前はなんて言うの?」
「ライ」
「はいはい、ライ君ね。年齢は?」
紙面を自分のもとに引き寄せて、ディアナがさらさらと字を書き込んでいく。
年齢は十二。性別は当然男。役割……つまり戦い方の志向を記載する欄は、未経験と記載された。
その様子を、少年――ライは食い入るように見つめる。
「字、興味ある?」
「いや、うーん……どうだろ」
「私が教えてあげてもいいわよ? もちろんコレはもらうけど」
そう言ってディアナは人差し指と親指で輪っかを作った。
要は報酬がいるということである。
「やーねー、そんな顔しないでよ。ライ君は日銭も心もとないわけだし、言っても出てこないのは分かってるって。それじゃあまあ、署名だけは教えてあげる。それ以上はコレ、だからね?」
渋面になるライに対し、ディアナは再び輪っかを作ってごまかすようにそう言った。
そうしてディアナに自分の名前の書き方を教わった後、彼女が取り出したクエスト受注表に初めてのサインを書き加える。
「これは今日だけの、ライ君専用の床掃除クエストだからね? いい?」
今日だけの特別、ということを強調するディアナの言葉に、ライは首肯を返す。
彼女に掃除用具の在り処を聞き、彼は床掃除を開始した。
掃除の方法は単純だ。
手持ちブラシで汚れをこそげ取り、洗い場で水を汲んできた桶で洗う。
水を含ませたブラシで更に擦る。
その後、布で床の水気をふき取る。
そんな流れである。
ディアナに指示された掃除の範囲はギルドの入り口から受付まで、そして受付から通用口までである。
そこは最も人通りのある部分であり、彼の持ち込んだもの以外にも、びっしりと汚れがこびりついていた。
そうすると当然、掃除をするにしても、一回や二回の洗浄で済むものではない。
ライはこんなに狭いエリアの掃除で銀貨一枚も、と考えた自身を殴りたいくらいだった。
何度も何度も、洗い場とギルドを往復する。
床に這いつくばって、手を動かす。
この日は、すでにライはドブ浚いを終えた後である。
疲労も蓄積しているし、陽も目に見えて傾いていく。
しかし、彼は手を止めることはなかった。
なぜならば、自身の付けた汚れ、そして汚れそのものが、どうしても気になったからである。
それはほんの先ほど衝撃を受けた、清純な水に溶けだした自分の汚れによるものだろうか。
彼自身にも分からないことだったが、とにかく彼は一心不乱に手を動かした。
何度かライを邪魔だと蹴りをくれる探索者もいたが、気にならなかった。
それを諫めるディアナの声も、遠くで聞こえているように感じた。
そうして夢中になって指定の範囲外も掃除を続け、すべて終えてふと顔を上げる。
窓の外は、もう真っ暗になっていた。
「お疲れ様」
「あ……うん」
苦笑顔のディアナに声を掛けられ、ぼんやりと返事をする。
「すごい集中力だったわねぇ。ほらこれ、食事。夜勤の子の夜食と一緒に頼んでおいたから、こっちで食べなさいな」
言われるままギルドホールの脇にあるテーブルの席に着き、目の前に置かれた盆に視線を落とす。
「これ、食べていいのか?」
「よく働いてくれたし、ついでだからね。あとこれも……キミの報酬」
ディアナがそう言ってテーブルに置いた銀貨は三枚。
「ギルド長に掛け合ったら許可が出たの。実際キミは最初伝えた範囲の三倍くらい掃除したわけだし、順当な報酬よ」
そんな説明があったが、ライはそれをじっと見つめるばかりである。
夢でも見ているような、そんな気分だった。
それでも腹の虫は鳴き、彼は緩慢な手つきで用意された食事を食べ始めた。
簡素なパンとスープだったが、彼にとってはごちそうに他ならない。
すぐに食べ終えて、彼は銀貨を握りしめ、席を立った。
その後のことは、彼の記憶の中にあまり留まることはなかった。
礼を言ってギルドを後にし、もらった地図に従って宿に向かい、人生で初めて宿をとって、人生で初めて寝台というものに体を横たえた。
もちろん噂に聞く一等室にあるらしい、ベッドのような柔らかい寝台ではない。それでも裏町の路上で寝ることも多い彼にとっては、雲泥の差の、最上かとも思えるような寝心地だった。
そうして疲労もあってか、彼はその日のことを振り返ることもなく、一瞬で眠りに落ちた。
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