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綜錬の剣―ドブ浚いの少年が世界樹に至るまで―  作者: とんび


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3/19

3


「あら、遅かったのね……って、どうしたの?」

「……なんでもない」


 掛けられた言葉に、少年はごまかすように言った。

 ディアナも特に気にせず、彼の前に紙面を差し出す。


「これ、登録用紙ね。その後に初仕事を受けてもらうから、そのつもりで」

「初仕事?」

「ええ。床、掃除しろって言われてたでしょ? 報酬は銀貨一枚ね」


 どうやらディアナは、少年の汚した床の掃除、それを最初のクエストとして受注させてくれるつもりらしい。


「いい……んですか?」

「また汚れてここに来られると私も困るのよ。だから今日の宿代くらいはね。もちろんしっかり仕事はしてもらうけど」


 そう言って、ディアナはウィンクをした。

 群青の髪を後ろで一つに括った彼女の容姿は、客観的に見て整っていると言っていい。

 そんな彼女の茶目っ気のある仕草に、普通の男なら大いに胸を高鳴らせることだろう。


「ありがとう……。あと俺、字が書けないんだ」


 しかしながら、対する少年はあまりにも子供で、かつ色恋など人生で一度も考えたことのない無骨者である。

 彼の返答は破格の報酬に対してのみ。

 彼女の愛嬌はどこにも影響を与えることなく、彼女の心の中にだけ残るものとなったようだった。


「……こほん、ええと。字が書けないのね、分かったわ。……そういえば、あなた名前はなんて言うの?」

「ライ」

「はいはい、ライ君ね。年齢は?」


 紙面を自分のもとに引き寄せて、ディアナがさらさらと字を書き込んでいく。

 年齢は十二。性別は当然男。役割……つまり戦い方の志向を記載する欄は、未経験と記載された。

 その様子を、少年――ライは食い入るように見つめる。


「字、興味ある?」

「いや、うーん……どうだろ」

「私が教えてあげてもいいわよ? もちろんコレはもらうけど」


 そう言ってディアナは人差し指と親指で輪っかを作った。

 要は報酬がいるということである。


「やーねー、そんな顔しないでよ。ライ君は日銭も心もとないわけだし、言っても出てこないのは分かってるって。それじゃあまあ、署名だけは教えてあげる。それ以上はコレ、だからね?」


 渋面になるライに対し、ディアナは再び輪っかを作ってごまかすようにそう言った。


 そうしてディアナに自分の名前の書き方を教わった後、彼女が取り出したクエスト受注表に初めてのサインを書き加える。


「これは今日だけの、ライ君専用の床掃除クエストだからね? いい?」


 今日だけの特別、ということを強調するディアナの言葉に、ライは首肯を返す。

 彼女に掃除用具の在り処を聞き、彼は床掃除を開始した。


 掃除の方法は単純だ。

 手持ちブラシで汚れをこそげ取り、洗い場で水を汲んできた桶で洗う。

 水を含ませたブラシで更に擦る。

 その後、布で床の水気をふき取る。

 そんな流れである。


 ディアナに指示された掃除の範囲はギルドの入り口から受付まで、そして受付から通用口までである。

 そこは最も人通りのある部分であり、彼の持ち込んだもの以外にも、びっしりと汚れがこびりついていた。

 そうすると当然、掃除をするにしても、一回や二回の洗浄で済むものではない。

 ライはこんなに狭いエリアの掃除で銀貨一枚も、と考えた自身を殴りたいくらいだった。


 何度も何度も、洗い場とギルドを往復する。

 床に這いつくばって、手を動かす。


 この日は、すでにライはドブ浚いを終えた後である。

 疲労も蓄積しているし、陽も目に見えて傾いていく。


 しかし、彼は手を止めることはなかった。

 なぜならば、自身の付けた汚れ、そして汚れそのものが、どうしても気になったからである。


 それはほんの先ほど衝撃を受けた、清純な水に溶けだした自分の汚れによるものだろうか。

 彼自身にも分からないことだったが、とにかく彼は一心不乱に手を動かした。


 何度かライを邪魔だと蹴りをくれる探索者もいたが、気にならなかった。

 それをいさめるディアナの声も、遠くで聞こえているように感じた。


 そうして夢中になって指定の範囲外も掃除を続け、すべて終えてふと顔を上げる。

 窓の外は、もう真っ暗になっていた。


「お疲れ様」

「あ……うん」


 苦笑顔のディアナに声を掛けられ、ぼんやりと返事をする。


「すごい集中力だったわねぇ。ほらこれ、食事。夜勤の子の夜食と一緒に頼んでおいたから、こっちで食べなさいな」


 言われるままギルドホールの脇にあるテーブルの席に着き、目の前に置かれた盆に視線を落とす。


「これ、食べていいのか?」

「よく働いてくれたし、ついでだからね。あとこれも……キミの報酬」


 ディアナがそう言ってテーブルに置いた銀貨は三枚。


「ギルド長に掛け合ったら許可が出たの。実際キミは最初伝えた範囲の三倍くらい掃除したわけだし、順当な報酬よ」


 そんな説明があったが、ライはそれをじっと見つめるばかりである。

 夢でも見ているような、そんな気分だった。


 それでも腹の虫は鳴き、彼は緩慢な手つきで用意された食事を食べ始めた。

 簡素なパンとスープだったが、彼にとってはごちそうに他ならない。

 すぐに食べ終えて、彼は銀貨を握りしめ、席を立った。


 その後のことは、彼の記憶の中にあまり留まることはなかった。


 礼を言ってギルドを後にし、もらった地図に従って宿に向かい、人生で初めて宿をとって、人生で初めて寝台というものに体を横たえた。

 もちろん噂に聞く一等室にあるらしい、ベッドのような柔らかい寝台ではない。それでも裏町の路上で寝ることも多い彼にとっては、雲泥の差の、最上かとも思えるような寝心地だった。


 そうして疲労もあってか、彼はその日のことを振り返ることもなく、一瞬で眠りに落ちた。


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