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綜錬の剣―ドブ浚いの少年が世界樹に至るまで―  作者: とんび


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2

 ドブから這い上がった彼は、ナイフを懐に隠すようにして走った。


 汚い水路に落ちた物など誰が拾うものでもない。

 ただ、ナイフを落とした男に見とがめられれば奪い取られてしまうと、そんな風に思ったからだ。

 

 彼が最初に向かった先は、ドブ浚いの仕事で使っている洗い場である。

 とんぼ返りでたどり着いたそこで、彼はそそくさと体と服を洗った。


 洗い場は仕事以外で使うのはご法度なのだ。決して監視があるわけではないが、見つかれば監督役から折檻を受けることは想像に難くない。

 水は肌を刺すような冷たさだったが、彼は気にも留めずに用を済ませ、すぐにその場を立ち去った。


 そうして次に向かうのは探索者ギルドだった。

 裏町から大通りへと出て、先に進む。

 人通りも増え町の人々の奇異の視線も感じたが、それも気にならない。


 あまりにも性急な行動だったが、手の中に転がり込んできた幸運を、彼はあまり信用していなかった。

 

 裏町に住む親無しのガキがナイフを持って探索者になるなんて。

 普段の収入からは考えられない、であれば盗みでもやったのではないか。


 そんな声が脳裏に浮かんで消えなかった。

 だから彼はギルドで登録を済ませてしまおうとそう考えた。

 登録してさえしまえば、後でナイフが奪われたとしても、次の武器を用意中だなんだとごまかせるかもしれない。

 そんな算段をつけたのである。


 道を進み、町の外壁に隣接した石造りの大きな建物……探索者ギルドにたどり着く。

 扉は重厚な木製で、彼は力を込めてその扉を開いた。

 中に入ると、通りで受けた視線よりも重いそれらが彼を打ち据えた。


「なんだあれ」

「ガキじゃねぇか」

「きったねぇ」


 そんな声が聞こえてくる。

 しかし、それらはドブ浚いの少年に掛けられる言葉としては、代わり映えのしないものだ。

 汚いことも、ガキであることも事実だからである。


 少年はいきなり摘まみだされることを心配していたが、大人たちの反応からそれは無さそうで安心する。

 彼は受付へと進んで、ナイフを受付台の上に置いた。


「うっ……えーと、いらっしゃい、何か御用かしら?」

「登録したい、です」


 顔をしかめて鼻を摘まんだ受付嬢に、そう返す。

 彼はもともとあまり舌の回る方ではなかったが、気持ちが先行し過ぎたせいか、あまりにもぶっきらぼうな一言になってしまった。


「え……と、武器がないと、登録できないから。武器が手に入ったので、探索者の……登録したい、です」


 困惑顔の受付嬢にまずいと思った少年が言葉を継いだが、やはりあまりよろしくない。

 ただ、かろうじて言葉に含まれていた要点を、受付嬢が汲んでくれたのだろう。


「登録ね、分かったわ。でもあなた、お金はあるの? 登録金が銀貨一枚必要なの」


 と、ため息まじりにそんな言葉が返ってきた。


 登録金。銀貨一枚。

 その事実に少年は愕然とした。


 『武器がねーと、探索者になれねーんだぜ?』


 裏町の人間のそんな言葉を発端にして、探索者ギルドの条文に記載があることを学んだ。

 それで全部の条件だと信じて疑わなかった。

 

 要するに、考えが足りなかった。

 所詮、学が無く世間も狭い裏町の少年の脳みそなどその程度のものである。

 とはいえ目下、その考えの無さを指摘された彼にとっては大問題であった。


「登録金……? そんな、手持ちはこれだけで……なんとかなりませんか」


 ドブ浚いで得た何枚かの銅貨。

 裏町でなら二、三食くらいにはなる金額ではあるが、少年にはそれがまるで無価値なもののように感じられた。


「残念だけど……」


 受付嬢は肩を落とす少年に少しの同情心を抱いたが、これも仕事である。

 特定の探索者に肩入れすることは、ギルド職員としてご法度であった。

 もちろん、少年はまだ探索者ではないが。


「あとはお金があれば登録できるわけだから、お金を貯めてまたいらっしゃいな」

「でも……」


 少年はなおも食い下がろうとする。それを見てどうしようかと受付嬢がため息をつきそうになったその時、彼女は少年の背後に立つ大きな人影に気が付いた。


「あら、あなたは……」

「その金、俺が建て替えておいてやるよ」


 少年の肩越しにずいと伸ばされた手には一枚の銀貨があった。

 それを受付台にパチりと置いて、男は太い笑みを浮かべる。


 茶褐色の肌と丸坊主の頭、額に横一文字の古傷のある大男。

 それが振り向いて見上げた少年が見た光景だった。


「ゲラルフさん、いいんですか?」

「俺にとっちゃはした金だ。それよりさっさと探索に出たいんだよ。そのためには受付が埋まってちゃかなわねぇからな」

「はあ……まあ、あなたがいいならいいんですが……」


 少年がゲラルフと呼ばれた男に面喰っているうちに、どんどんと話が進んでいく。

 受付嬢は銀貨を受け取ってなにやら書類を用意し始めた。


「あと、裏の水場を使わせてやってくれ。さっきから臭くてたまらん……」

「あの……俺……」

「ボウズ、これは貸しだからな? 忘れんじゃねぇぞ。……あと、てめぇが汚したんだ。水場使ったらここ、掃除しとけよ。それでディアナ、今日の探索位置だが――」 


 男に理由を尋ねるべきか、礼を言うべきか。

 少年が迷っているうちにゲラルフは一方的に彼に話しかけ、その返答を待つこともなく口早に自分の用件を進めていく。

 あれよあれよといううちに必要な手続きを済ませたのか、ゲラルフは少年に一瞥もせずに踵を返した。


「あの……、ありがとう!」


 かろうじてそれだけを口にすると、ゲラルフはひらりと手を振って去っていった。

 そうして残された受付嬢と二人、視線を交わす。


「せっかちな人なのよ。まぁ、ちゃんとしたお礼は次に会った時にでもしなさいな。……それより!」


 ビシっと人差し指を立てて、受付嬢……ディアナが水場の使い方などの説明を始める。

 登録金を受け取った以上、少年を探索者としてしっかりと待遇するつもりのようだった。


 ディアナ曰く、水場には大森林の河から水を引いた洗い場と、飲用や傷の洗浄のために使う清浄な井戸水があるらしい。少年には洗い場で石鹸(ゲラルフが買ってくれたもの)を使って体と服を清めたら、登録の手続きをしてくれるとのことだった。


 彼はドブ浚い達のための洗い場で身を清めたつもりだったが、どうにも不十分だったようである。少年自身がその臭いと汚れに親しみ過ぎていて、感覚がマヒしていたのだろう。ゲラルフが床を掃除しろと言ったのも、彼の靴に付着した汚泥が床を汚したことによるものらしかった。


「お金ももらってるから井戸も使っていいけど、汚さないようにね」

「わかった」

 

 石鹸を受け取り、少年はギルドの通用口から外へ出た。

 外壁に埋め込まれるようにして建っているギルドの通用口は、外壁の外へと繋がっている。そこから外に出た少年の目の前には、大森林へと続く一本道がまっすぐ伸びていた。


「……っ!」


 一瞬、息を飲む。

 眼前に現れた巨大な森。大森林と呼ばれるそれは、一本道のはるか先にある。にもかかわらず、視界の端まで埋めるほどの威容をもって、少年を出迎えたのだ。それはまるで世界そのものが、そこに根を張っているようだった。


「……体、洗わないと」


 いずれ自身が挑む大森林に気圧されながらも、彼は目的を思い出し、道の少し脇にある水場へと向かった。


 石鹸というものは、水をつけて擦れば泡立つものである。

 泡は汚れを落ちやすくさせるので、よく体に擦り付けて洗うように。


 石鹸を使うことすら初めてだった少年は、ディアナのそんな教えを思い出しながら体を洗った。

 ついでに服も泡を含ませて擦り、汚れを落とす。

 洗い場は大森林から流れ出る河から、人の手で支流のようにして作られた流れの一角にある。

 その流れが一時黒く染まるほどの汚れであった。


 洗い終えると、次に少年は井戸に向かった。

 特別井戸を使う必要はない。しかし使ったことのないその存在に、少し興味が湧いたのだ。


「ボウズ、壊すんじゃねぇぞ?」


 通用口付近にある井戸の近くに立っていた、門番のような男にそう言われた。

 聞けば彼もギルド職員で、風貌通り通用口と井戸の見張りであるらしい。


「ちっげぇよ、だからこの取っ手を上下に動かしてだな……」


 井戸の使い方が分からずまごまごしていると、見張りの男はそんな助け舟を出してくれた。

 彼の教えに従い、ポンプと呼ばれるそれを動かしていると、清浄な水がポンプの口のような場所から流れ出してくる。

 それを桶に貯め、少年はそこから両掌でひと掬い。口に運んで飲み下してみた。


「……う、わ……なんだこれ」


 少年にとって、それあまりにも、清純な味わいだった。

 彼は生まれてこの方、まともな水源から水を飲んだことがなかったのだ。

 食事を買った時も、お金がもったいないと飲み物を買ったこともなかった。


 衝撃を受けて、思わず桶に顔を突っ込む。

 もっと飲みたい。

 そんな思考に支配されて、ゴクゴクと獣のように、少年は夢中で水を飲んだ。

 

 喉を過ぎる冷たい感触が心地よい。

 舌にわずかな甘さが残るような感じもした。 

 

 あまりにも甘美な瞬間だった。

 だが、それも一瞬のこと。

 すぐに慣れた味と臭いが、彼の口腔に満たされた。


「なんだよ……うそだろ」


 その不快な味、そして臭いは、嗅ぎなれたはずのドブの臭い――すなわち彼自身の臭いだった。

 どうやら髪が十分に洗えていなかったらしく、それが顔を桶に突っ込んだ時に溶け出したらしい。


 少年にとって、その臭いはこれまでの人生でずっとそばにあり、ありふれたものだった。

 しかし、一度清純な水を味わったことでそれは異物となってしまったようだった。


「その桶、洗っとけよ」


 自分の臭さを自覚してショックを受けている少年を横目に、見張りの男がそう言った。

 がっくりと肩を落とし、桶を洗ったのち少年は再び洗い場へと向かうのだった。


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