17
「はぁ、はぁ……中々……難しいな」
長屋の中庭である。
その日の訓練を終えたライは、大の字になって寝転がりそう呟いた。
不可視のエネルギーを感知する修練をスタートしてそれなりの日数が経過しているが、気の習得には一切の進展がない。
加えて言えば、魔力も聖気功も気配すら感じ取れていなかった。
もちろん、修練によって得たものが無いかと言えばそれは嘘になる。
若い肉体は厳しい体力錬成で強く鍛え上げられているし、学習意欲もあってか年齢相応の知識や考える力も付いてきた。絵や粘土細工は上達はしていないが、絵筆や粘土の扱いには慣れてきている。
ただ一点、主たる目的への道のりにおいて、自分がどの地点まで進めているか分からないことが問題だった。
ライにとって、これほど手ごたえの無い修練は初めてだったのだ。
「お前、明日から休みな」
「え?」
そんな中で、トラッドからいきなりそう告げられた。
唐突さ加減は抜剣を許可された時と似たようなものだろう。
ただ、あの時とは少々事情が異なる。
現在のライは何にも到達できておらず、それゆえ困惑の度合いは大きかった。
「だんだんワケ分からなくなってきてるみてぇだからな。ま、息抜きってやつだ」
そういうわけで、その日の午後は回復運動を少し行って終了。
次の日の午前は回復運動をするよう指示は受けたが、そこからは完全に自由時間ということになった。
そして翌日。
ライは朝一の運動を終え、中庭の中心にある井戸で水を汲み、顔を洗った。
「はぁ……自由時間って言われてもな」
寝て起きて訓練を積む。休息は訓練のためで、探索は生活のためだった。
そんな生活を過ごしてきたライにとって、完全な自由時間というのはほとんど経験のしたことのない、未知のものだった。
「珍しいね、ライ君ひとりなの?」
と、声を掛けてきたのはライの住む長屋の大家の娘、リリーである。
手に持つ籠に入った衣類を見るに、洗濯をしに来たのだろう。
「ああ、休みをもらった」
「休み! キミって休みとかあったんだ……」
驚きを見せつつも、彼女はすぐに「まあいいや」と言い、ライに手伝ってくれないか申し出てきた。
長屋で住む人々の交流はそこまで盛んではないが、二人は年が近いこともあり(リリーはライの二つ年下である)、こうしたやり取りをするくらいには打ち解けていた。
「私は洗い桶準備するから、ライ君は水を汲んできて」
「ああ、分かった」
と言ってもさして口の回らないライのことである。
どんどん会話を進めるのは、いつもリリーの方であった。
裏町でも年の近い者はもちろんいたが、お互い信用していない上に仕事や食料を奪い合うライバルでもある。リリーがたとえ無知なライに対しお姉さんぶってきても、ライは彼女とのやり取りを好意的なものとして捉えていた。
「そういやさ、ライ君ってこの後も暇?」
じゃぶじゃぶと衣類を洗いながら、リリーが言う。
流石に洗濯自体を手伝わせる気はないようだが、いずれにせよ濯ぎに水が必要になるため、ライはその場に留まっていた。
「むしろやることが無いんだ」
「ええー、変なの。でもだったらお使いも手伝ってくれないかな? ライ君がいたら一回で済むと思うし」
「まあ、それくらいなら」
ライの返事に、リリーは「えへへ、ラッキー」と嬉しそうに笑う。
その笑い声に合わせて、朱色のポニーテールがゆらゆらと揺れた。
その後洗濯物を干すところまで手伝って、ライはリリーの先導で市場へと向かうことになった。
「ライ君、市場なんて来ないでしょ」
「まあな。最近はペンと紙を買いに来たけど」
「あー、なんか勉強始めたんだって? アタシけっこうできるよ? 教えてあげよっか」
「分からないところがあったらな」
そんな雑談を交わしながら街路を進む。
市場に着けば、食材やら日用品など、リリーに従いどっさりと買い込んでいく。
ライも彼女の勧めに従って、衣類をいくつか購入した。
「うひー、やっぱりライ君に来てもらって良かった。アタシじゃ持ちきれないよ」
そう声を上げるが、持っているのはほとんどライである。
やることが無く気まぐれで手伝うことにしたが、その先にこうしたことが待っていることを、ライは記憶に刻んだ。
「それにしてもさー、ライ君ってなんでそんなに強くなりたいの?」
「トラッドが開く剣術道場の師範になるんだ。前にも言ったろ」
「そうだっけ……大森林に行くのも?」
「師範になるためにも、名声がいるからな」
その辺り、具体的なことをトラッドと話したわけではない。
ただ先日大森林の奥に興味があると言った時の反応を見るに、ライが大森林の奥に挑戦するのはトラッドとしても既定路線だったのだと、ライはそう判断していた。
実際、評判の皆無な師範のもとで修業したい者はそういないだろう。
トラッドの名声があったとしても、彼が直接指導することは難しいのだから。
「ねぇ、大森林って、どんなところ?」
リリーの質問を受けて、ライは少し考える。
先に話した通り、大森林は目的を叶えるための場所である。けれど、あえて繰り返すように聞いてきたリリーの求めるものは、きっとそれではない。
「ライ君って結構大森林のこと好きだよね。アタシは怖い場所だと思うんだけど」
ライの言葉を待つ前に、リリーが言った。
その言葉を受けて、ライは自問する。
――自分は、大森林が好きなのだろうか。
ガレナウルフ討伐後、バリスに死んだら森に埋めてもらうよう言ったことを思い出す。
きっとあの時、あるいはもっと前から、彼にとって大森林は重要な存在になっていたのだろう。
初めて見た時から、そこに在り続けるその威容。
中から見た時の静けさ、暗がり、ひそやかな生命の息吹。
好きだ嫌いだという単純なものではないように思えたが、少なくともすぐにそうした景色を想起できるくらいには、惹きつけられているのは確かだった。
帰り道を歩きながら、ライは午後、大森林に向かうことを決めた。
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