信仰
僕は、宗教が嫌いだ。
口に出して言う機会はないけど、はっきりそう思ってる。
小学生の頃、家に宗教の勧誘が来た。
「あなたの幸せを願ってます」なんて言いながら、勝手に玄関に足を踏み入れようとするその感じが、子どもながらにすごく気持ち悪かった。
高校に上がると、葬式で「お布施の額が少ないと角が立つ」と親戚が揉めていた。
死を悼むはずの場で金の話をするのを見て、心底うんざりした。
テレビをつければ霊感商法。
ネットでは、信者からの献金で暮らす教祖。
“信じる”って行為そのものが、どうにも信用できなかった。
誰かにすがることでしか立てない人間になりたくなかった。
だから僕は、「信じる」ことから距離を取ってきた。
少なくとも、あの日までは。
陽菜がいなくなって、もうすぐ二年になる。
交通事故だった。
朝、いつも通り「またあとで」って笑った君が、
夕方にはもう、いなかった。
ニュースではたった数行の記事。
でも僕にとっては、世界が止まったように感じた。
何もかもがどうでもよくなった。
君のことを考えないようにした。
声も、仕草も、あの笑顔も、全部。
けど、忘れられなかった。
気づけば、君がよく立ち寄っていたパン屋に足が向いていた。
バス停のベンチに立ち止まり、「今日、雨降るかな」なんて独り言が漏れる。
まるで、まだ君がそこにいるみたいに。
いや、「いる」と思わないと、生きていけなかったんだと思う。
ある日、自分の口から自然に出た言葉に、ハッとした。
──あれ、今のって、祈りじゃないか?
返事がこないのはわかってる。
君がどこにもいないことも、理解してる。
それでも僕は、空に向かって話しかけてしまう。
「明日、プレゼンなんだ。緊張する」
「また、君の夢見たよ」
「……今日も、生きてるよ」
僕が一番嫌ってきた“信じる”という行為を、今は毎日のように繰り返している。
相手が神様じゃなくても、“いない人”に何かを託すこの行動が、信仰とどう違うのか、もうわからない。
矛盾してるって自分でも思う。
でも、君がいなくなっても、君を想い続けることだけは、やめられなかった。
だから僕は今日も、何もない空に向かって、つぶやいてしまう。
「ねえ、陽菜。聞こえてる?」
答えが返ってこなくても…