涙を瓶詰めする男
泣く、って不思議だよな。嬉しい時も悲しい時も、同じように涙が出る。もし、その一滴に込められた感情を、そのまま保存できたら? そんな技術があったら、人は幸せになれるのか。また、少し皮肉の効いたSFを書いてみた。
僕の店は、路地裏にひっそりと佇んでいる。看板には、ただ一滴の涙のマーク。僕の仕事は、「涙の瓶詰め屋」だ。
人が流す涙。その一滴には、流した瞬間の感情が、完璧な形で保存されている。僕の店は、特殊なスポイトで涙を採取し、「感情結晶」として小瓶に封入する。客は、いつでもその小瓶を開け、結晶に触れることで、過去の感情を寸分違わず追体験できるのだ。
人々は、幸福な記憶を求めてやってくる。結婚式の日に流した「歓喜の涙」。子供が生まれた日の「感動の涙」。それらを小瓶に詰めて持ち帰り、時々開けては、幸せな瞬間に浸るのだ。
僕は、いわば「感情のソムリエ」。涙に含まれる、微細な感情の機微を読み取り、最高の状態で瓶詰めにするのが僕の腕の見せ所だった。
ある日、場違いなほど美しい女性が、店を訪れた。
「あなたが、この店のご主人? 最高の『幸福』を、私に作っていただけるかしら」
彼女は、ビロード張りのケースをテーブルに広げた。中には、色とりどりに輝く涙の小瓶が、何十本も並んでいる。
「大学を首席で卒業した時の『達成感』。初めての恋人ができた時の『ときめき』。事業を成功させた時の『高揚』。私の人生は、幸福に満ちているわ。これらの涙を調合して、究極の『幸福の涙』を創り出してほしいの」
僕は、いくつかの小瓶を手に取り、その感情を「テイスティング」した。ルーペで結晶の形を確かめ、微かな香りを嗅ぐ。なるほど、どれも純度の高い、強いポジティブな感情だ。だが……。
「奥様。失礼ですが、お断りさせていただきます」
「なぜ? お金ならいくらでも払うわ」
「いえ、そういう問題では……。奥様のコレクションには、調合に不可欠な、ある要素が決定的に欠けております」
「欠けているですって? 私の完璧な人生に?」
彼女は、心外だというように眉をひそめた。
「ええ。ここに、『悲哀の涙』はございますか? 誰かの死を悼んだ涙、失恋に暮れた涙、目標を達成できなかった『悔し涙』は?」
「あるわけないでしょう。私の人生に、悲しみなど存在しないもの」
僕は、静かに首を振った。
「それでしたら、お作りすることはできません。闇がなければ、光の眩しさが分からないように。悲しみを知らぬ幸福は、ただの刺激に過ぎません。それは、深みのない、上滑りした感情です」
彼女は、侮辱されたように顔を赤くして、店を飛び出していった。
数ヶ月後。
季節が冬に変わった頃、あの女性が、再び店を訪れた。やつれた顔に、高価なコートもどこか色褪せて見える。
彼女は、黙って一つの小瓶を僕に差し出した。それは、今まで見たこともないほど、深く、澄んだ、青色の結晶だった。
僕は、その涙をテイスティングする。
口の中に、冷たく、しょっぱい味が広がった。それは、信頼していた部下に裏切られ、築き上げた全てを失った、絶望と、そして、どうしようもないほどの「悲しみ」の味だった。
「……素晴らしい涙です」
僕がそう言うと、彼女の瞳から、また一筋、涙がこぼれ落ちた。
僕は、その新しい涙を、そっとスポイトで採取した。
そして、彼女が以前持ってきた、「大学卒業の達成感」の小瓶を開ける。二つの感情結晶から、ほんの僅かな欠片を削り取り、乳鉢の中で慎重に混ぜ合わせた。
できあがった、乳白色の結晶を、彼女の指先にそっと乗せる。
彼女の身体が、びくりと震えた。やがて、その瞳から、とめどなく涙が溢れ始めた。それは、悲しみでも、喜びでもない。ただ、温かくて、懐かしくて、そして、どうしようもなく愛おしい、そんな感情の涙だった。
「……これが、これが……」
幸福とは、喜びの記憶そのものではない。悲しみの記憶を乗り越えた先で、喜びを思い出した時に、初めて生まれるものなのだ。
僕の店には、今日も、一人の客が、人生で一番大切な一滴を求めて、扉を開ける。
悲しみがあるから、喜びも輝くって話だ。ベタかもしれねえけど、こういうのが真理なんだろうな。