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エデニア大神巨塔第二百階層、その一角にあるグレイルの執務室にて。
ナハト・ボンバーダはソファに腰を下ろして、目の前の机に置かれた書類の山と格闘していた。
本来そこに座っているはずのグレイルは先日から、北方──デアデリング大陸へと出張中である。
ナハトはとんとんと整理し終えた書類の束を揃え、紐でくくってまとめ終えるとぐっと控えめな伸びをした。
いま整理した書類は、塔へのエネルギー供給に関するキンエマキからの報告書。
ここエデニア大神巨塔は地殻からエーテルを吸い上げたり、大気中に満ちるエーテルを吸収することでその運用エネルギーを確保している。
それらのエネルギーは塔に組み込まれた魔法や魔術を維持するために使用されており、決して欠かすことのできないもの。
【時の牢獄】から解放された折、当然ながらその供給機能の損傷が心配されていたが、そちらは特に異常はなかった。
問題が起きていたのは貯蓄装置のほう。
エーテルを保管するための装置が大破してしまったのだ。
エーテルは、使用するだけならそのままでも問題ないのだが、保存し貯蓄するとなるとそのままでは難しいものがある。
大量のエーテルを一所に留めておくとなると、それらが霧散しないようにある程度手を加える必要が出てくるのだ。
塔を襲ったエーテルバーストのように結晶化させられればいいのだろうが、結晶化させるにはそれこそもう一度時間を止めるくらいしか方法はない。
そこで地下エリアにある装置、「錬成蒸気機関」の出番となる。
この装置では吸い上げたエーテルと混合液を練り合わせ、エーテルを霧散しない液体の状態にすることができる。
効率がいいため普段はキンエマキの地下工房で使用されているそれだが、本来は塔に組み込まれた装置の一つであり、それをグレイルがキンエマキに貸し与えていた。
グレイルが【時の牢獄】で使用した量は全体の八割以上。それを今後また十割まで貯めていくには、「錬成蒸気機関」を使用して三ヶ月ほどかかるだろうか。
そしてそれがエーテルバーストで大破した。
厄介なことに、その時に塔との紐づけが外れてしまったらしく、自動修復機能がまるで役に立たないという状況であったのだが……この報告書はその修理が完了したことと、無事にエネルギーの貯蓄を開始したことを伝えるものであった。
どんな状態だったのか、具体的にどこが破損していたのか。それを直すのに使用した材料や今後の改善案などが事細かに記載されている。
加えて、キンエマキが報酬として望むものも。
グレイルの血液。それが無理なら次点でナハトの血液。
「──あの……血を所望します……」とおずおずと要求する彼女の顔が浮かぶようだ。
まあ報酬の話は置いておいて。
そんなわけで、懸念事項の一つがめでたくも解決した今日この頃。
グレイルの直属行動部隊である「メイドオブグレイル」を隠密部隊とした計百名と、ナハトの鬼武者で構成された偵察部隊四十六名。
加えてユーロ・シャトームのデミデビルたちおよそ二百名。
それら合わせて計三百四十六名と、ナハトとアンダーグリーンを動員して行われた約一か月間の情報収集は一旦の区切りを迎えていた。
具体的に何を実施したかといえば、ゲネア皇国に対する集中的な偵察行動、大陸全体の大雑把な調査、惑星変動の被害と実態確認。
そして──バベルの塔の確認と監視。
その任にはアンダーグリーンが就くことでグレイルも納得した。「あいつなら休みもいらないし、監視役にはぴったりだね」と。
そしてそれらが小康状態にある今、ナハトは次から次へと流れてくる仕事に追われ続けている。
もっとも、それらの仕事は本来であればグレイルが手をつけなければいけないものなのだが、当の本人はデアデリング大陸に高飛びしている。
「さて、と──」
とりあえずは今日中に、ラファリアとカルーカルアの居住階層を除く全階層に使用されている空間拡張魔法を、あのレルレロが構築した仮想・空間拡張魔法にアップデートしなければならない。
グレイルの二百階層とナハトの百八十一階から百九十九階層はすでに終わっており、あとはそれ以外。
今日の日付であらかじめ全員に準備をしておくよう伝えているため、おそらくすぐにでも出来ると思われるが……。
ナハトはソファーに座ったまま青いウィンドウを開き、死んだ目で、ひとまずはレルレロに連絡を取ることにした。ナハトは嫌いなものは最初に食べるタイプである。
《これから更新を行う。万が一に備えておけ》
件のエーテルバーストで百二十階層あたりまで塔が損傷した中、レルレロの仮想・空間拡張魔法を使っていたゴラの居住区「深樹海洋」のみ、何の影響も受けていなかった。それはつまりそういうこと。
──あいつのことは気に食わないが、あれの魔法に対する理解力はグレイル様も認めている。
それだけが、ナハトがレルレロ・ベンジャミンという男を嫌いながらも頭の片隅に記憶している理由だった。
《問題ない》
レルレロからの返信を確認したナハト。
彼女はやはり舌打ちをして立ち上がると、部屋の中の開けた場所に移動して精神集中を始める。
塔と精神を同期させることでその内部にアクセスを行う。
(今現在、このエデニア大神巨塔のシステム構築ができるのは、グレイル様からその権限を分け与えられている私のみ。
あの方に比べれば出来ることはたかが知れているけれど、それでもグレイル様がいない今、出来ることからその代わりを務め果たさなくてはならない。)
彼女が精神を研ぎ澄ませるのに合わせて、彼女を覆うようにたくさんの魔法陣や映像が空中に展開される。使用されている魔法や魔術であったり、組み込まれている多くの聖遺物の情報だ。
それらは全て彼女の胸元付近に浮かぶ、エデニア大神巨塔を模した立体図形に紐づけられており、どこにどれがあるのかがある程度わかりやすく整理されてある。
その立体図形を拡大し、レルレロの居住階層である百五十一階層から百六十階層に使用されている魔法を確認する。
ここで見れるのはシステムに含まれる魔法のみ。逆にそうでなければ、特にレルレロのいる階層などはごちゃごちゃし過ぎて見れたものではないだろう。
彼女は羅列される魔法の中から空間拡張魔法を選び出し、その魔法陣を自分の目の前に展開させた。
あとはこれを仮想・空間拡張魔法の様式に変えるだけ。
ナハトはその魔法陣の上から重ねるように十個ほどの小さな図式を空中に描いていく。
それらの極小の魔法陣は、レルレロの構築した魔法を使いやすくするためにグレイルが作ったもの。
付け足しというとあれだが、これにより、展開している空間拡張魔法を剥がすことなく仮想・空間拡張魔法に移行することができる。
いまレルレロのいる階層区画では、魔法や魔術に使われるエラド文字が次々に浮かび上がっては消えていることだろう。
「手が滑った」なんて言ってこの魔法陣をパンチで壊してしまったらどうなるだろうか、なんて考えるものの、そんなことをグレイル様は望まないだろうなとナハトは思い直す。
《終わったぞ》
《確認した。ご苦労》
なにがご苦労だこのヤロウ。
更新を終えてレルレロに連絡をしたナハトはふんと鼻を鳴らす。あの自分以外を見下したような、なんとも思っていないような顔を思い出しただけで反吐がでる。
嫌なものを思い出すために時間を浪費するような暇はない。
彼女は塔に同期をかけたまま、他の階層に連絡をし始める。
タームテールにクイーンとパッチモンは不在のため、代わりのメイドが待機しているはずだ。
彼女たちにはナハトの保管している予備の文通の指輪を渡してある。メイドでも使えるようにしておいたから使用に際する問題はないだろう。
キンエマキとユーロに先に連絡をし、タームテール・クイーンの階層と続いて、最後にパッチモンの階層に待機しているメイドに連絡を入れたナハト。
そこで彼女はふと、先日目撃した疲れた表情のメイドを思い出す。
数日前、「構造変更計画書」の件でゴラのいる「深樹海洋」を訪れたときのこと。
──彼の住む階層。その大森林の入口がある「深樹の館」で彼女は、額縁やら人形のようなものをアリのようにせっせと運び入れるメイドたちを見かけた。
確認してみると、どうやらパッチモンの専属メイドのようである。
「いったい何をしているのか」と問うてみれば、どうやら六十階層のパッチモンのコレクションルームにある骨格標本や剥製標本といった多数の芸術品を、模様替えに際してそれらを整理するため「深樹海洋」まで運んでいたとのことだった。
とはいえ、空間拡張をかけた箱なりなんなりを使えばもっと楽に運べるだろう。
なぜそうしないのかを彼女たちに聞けば、「壊れてしまうかもしれないから」と手で運ぶようにパッチモンが命じたらしい。
ナハトはそれに対して強い懸念を抱いた。
別に運ばせることに対してではない。メイドがそうして運ぶ途中で、それを壊してしまった場合に対してである。
かなり前にも似たようなことがあり、その時もパッチモンはメイドに手で運ぶように指示を出していた。
ところが運んでいる途中でメイドが転んでしまい、持っていた彼の芸術作品を粉々に破壊してしまったのである。
そしてそれに激怒したパッチモンが、怒りに任せてそのメイドを殺してしまうというショッキングな出来事があった。
聖遺物によって生み出されたホムンクルスとは言え、その身体能力は人間より少し高い程度。
疲れもすれば転ぶことだってあるだろう。
それを聞きつけたナハトは「流石にやり過ぎだ」とパッチモンにキツいお灸を据えたのだが、それで理解したかどうかはわからない。
ちなみに殺されたホムンクルスは聖遺物によって生み出される千体のうちの一個体のため、また聖遺物を通して生まれてくることになる。
しかし問題がないわけではない。
殺された時の記憶をそのまま保持しているため、PTSDのような状態になってしまうことがあるのだ。
氷結戦争の最中、試験的に彼女たちで編成された二十名の部隊。その全員が廃人になってしまうという嫌な出来事もあった。
幸いにして。今回はメイドに手を上げるようなことはなかったようだが、また同じことが起こらないように目を光らせなければならないとナハトは振り返った。
──しばらくして各階層のメイドを含め、ユーロとキンエマキからも了承の返事が届く。
ここからはあとは、またひたすら魔法陣を描く地道な作業が始まる。
パッチモン・マングースはかつて、グレイルが地獄界を統べる女神ヘラに殴り込みをかけたときに、キンエマキやユーロと共に地獄界から連れ帰ってきた人物である。
この世界において有機成形族は存在が疑われるくらいには珍しい種族であり、どうやらそれは地獄界でも同じだったらしく。
隠れ潜んで生きていた彼だったが敢え無くヘラに捕まってしまい、めでたくも彼女のお人形となってしまったとのことだった。
「……一応は一戦交えたんですよ。手も足もでなかったですけどね」とは、ユーロの専属メイドが小耳に挟んだ台詞。
パッチモンとユーロは普通以上に仲が良いが、その理由は地獄界で交流があったからだろう。
悪魔族の中でも地獄種に分類されるケルベロスの末裔。
いわゆる先祖返りであり、巨大な三つ首の番犬の姿に転身することができるのが最たる特徴であるユーロ・シャトーム。
彼女は女神ヘラにペットとして捕われており、鎖に繋がれて犬小屋に入れられるというお粗末な扱いを受けていた過去がある。
一見するとなんの関わりも無さそうに思えるがこの二名、どうやらヘラの言いつけでしょっちゅう闘技場で拳を交えていたらしく喧嘩仲間ならぬ闘技場仲間というわけだ。
ではキンエマキ──キンエマキ・ユイユ・パラドクスはどうなのかと言えば、彼女はヘラのお気に入りであったらしい。
下半身が蜘蛛のアラクネである彼女は珍しく全身が白磁のような白い肌をしており、唯一その髪のみが闇のように黒いというコントラストの映える美しい身体をしている。
しかしそれゆえに服を着ることを禁じられていたとのことで、今でも着ないほうが心地良いと、地面をずるずる擦るその長すぎる黒髪で胸元を隠すだけの格好を好んでいる。
彼女はヘラのお気に入りだったとのことだが彼女自身はヘラが大嫌いだったようで、結局は騒乱のドサクサに紛れ、グレイルの影に隠れて地獄界を抜け出したのだとか。
そんな連れ帰ってきた三名について、無事に戻ってきたグレイルは一貫して「さらってきた」と悪し様に言い張っていた。
「……そういえば宝物庫は無傷だったらしいですが……さすがは神代の遺物といったところでしょうか」
──黙々と魔法陣を描き続けること三十分。
アップデート作業も終わりが見え、最後に一番損傷がひどかったという地下エリアの更新を行いながら、ナハトはグレイルが大事にしている宝物庫のことを思い返す。
キンエマキの地下工房がある地下エリアの、さらにその奥には黄金の壺のような宝物庫が設置されている。
そこはグレイルの作った半人形であるテンパランスが常に警備しており、基本的にグレイル以外の者が立ち入ることはできない。
ナハトだけは一度その中を見せてもらったことがあるが、宝物庫の広い空間内には山積みの金品の他に、所狭しと数多くの聖遺物が飾られていた。
グレイルはそれを「ただの神の忘れ物」と評していたが、それらを眺める彼女の表情は何とも言えず寂しいものであった。
宝物庫自体は神代に、鍛造神が贈り物として神々をたばねる全能神へと捧げたものであり、神樹の根元の土をよく練り上げて金属を生み出し加工することで造り上げたものであるらしい。
「終わった……」
その言葉とともに、ナハトの周囲を埋め尽くしていた魔法陣やらがすべて消え去る。
仮想・空間拡張魔法は無事にエデニア大神巨塔のシステムに組み込まれた。これにより個々で魔法の維持をしなくても、塔のシステムによる維持が可能となる。
ナハトは魔法陣を描き続けていた右腕をぷらぷらと弛緩させながら、またソファにどかりと腰を下ろした。だいぶ処理したとは言え、机の上にはまだまだ書類が残っている。
それを前にして、「休憩がてら紅茶でも入れようか」なんて考えていたナハト。
すると部屋のドアがノックされ、彼女はドアのほうを見る。
「いいぞ」
「……失礼致します。ナハト様、掃除が完了致しました」
入ってきたのはメイドの一人。
二百階層の清掃を担当しているチームの者だった。
「そうか。ありがとう」
「ご命令通り、あの一部屋のみ掃除はしておりませんが……よろしいのでしょうか?」
「あそこは……ああ、必要ない。そも、私以外は入れないだろうからな。気にする必要はない」
「かしこまりました」
ナハトはメイドが出ていったのを確認すると、「休憩するのは後回しだな」と立ち上がり、自身もまた執務室をあとにする。
向かう先はグレイルの旧私室。
すれ違うメイドたちに頭を下げられながら、彼女は二百階層の最奥へと歩みを進める。
一本道の長い廊下を歩いた先にある、二重の扉で閉め切られた部屋。
二重とはいえ手前の木製扉はただの飾りであり、その奥にある紋章の刻まれた両扉──黒を基調とした金属製の扉にしか鍵は掛かっていない。
その杯の紋章が刻まれた扉の向こう。其処こそがこのエデニア大神巨塔の女主人の、以前まで私室だった場所である。
一枚目の扉をゆっくりと閉め、二枚目の金属製の扉の前に立ったナハトは、手の平を杯の紋章に押し当てる。
魔力が自動的に扉に吸い取られ、杯の紋章が蒼く光り輝く。その蒼い光は次第に、水路を流れる水のように扉に刻まれた溝を通って扉全体に広がる。
──ガチャリと、扉の解錠された重々しい音が鳴った。
風が吹いている。
扉を抜けた先にあったのはどこまで続くかもわからない、地平線を望む草原であった。
空には雲一つない青空。
蒼天に太陽が穏やかに世界を照らしており、まるで気づかぬうちに外に出てしまったのかと錯覚するような景色。
その草原にはところどころに瓦礫の山がある。
瓦礫の山、というよりかは彫刻像の残骸と言うべきだろうか。
長い年月を経て崩れ朽ち果てたのか、あるいは完成させる前に壊してしまったのか。
いずれにせよ、今はもう瓦礫の山でしかないが。
ナハトは何度となく見てきたそれらには目もくれず、草原の向こうに立つ四体の彫刻像に向かって歩く。
やがて、彫刻像の正面に辿り着いた彼女。
見上げるほど大きなそれらに対し、しばらく目を瞑って祈るような所作をしたあとで、彼女はポーチから四つの花束を取り出してそれぞれの彫刻像の前に供える。
水の巫女「聖女シエンタ・ニア・ロムレース」。
火の巫女「天龍レグレイア」。
風の巫女「呼び声のカナリヤ・フェル・アプローチ」。
土の巫女「デモスラナの巨人ガンマ・ベータ」。
像の下のネームプレートに書かれた名前。
それらは神代を綴る創世神話、サルムスラ叙事詩に語られる神々の名前である。
ここはグレイルにとっての追憶の場所であり、誓いの場所。
いつかを夢見るための場所であるのだ。