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ドトーノ・マキシマはエルフである。
それもムーンエルフと呼ばれる、今では希少な存在に類する種族だ。
第百六十一階層から百八十階層に造られた大図書保管室。戦争の影響で蔵書数が大幅に倍増したこの保管庫の、唯一の司書として彼女は長らくここで暮らしている。
ただ厳密には司書というわけではない。
彼女が詰め込まれていた本を勝手に整理し、本棚に収め、目録をつけているだけ──とはひどい言様いいざまだがその言葉通りであることには間違いなく、主人であるグレイルもとくに任命したことはない。
しかしながら、彼女がそうし始めてからグレイルや他の住人たちが彼女の図書整理に協力していたのもまた事実であるため、彼女が司書であることは暗黙の了解として、塔の住人の誰もが知るところとなっていた。
そんな彼女のマストアイテムは、ところどころすり切れ古びたお多福の仮面。
顔を隠すためにどんなときも身につけており、それゆえ彼女の素顔を知る者はほとんどいない。
それから容姿に関して、彼女は茶色いローブを愛用している。それは大きなフード付きの厚手のローブで、どちらかと言えば大事なのはそのフードのほう。
海のように深い青い髪とエルフ特有の尖った耳を隠すために、フードは彼女にとって欠かせないものなのだ。
大図書保管室は『深樹海洋』と同じく、階層の天井と床をくり抜いて造られている。空間の拡張はさほど施されていないが、それでも相当な広さだ。
円柱形の室内には首を痛めてしまいそうなほど背の高い本棚がずらりと並び、その壁もまた、一面が多種多様な本の背表紙で隙間なく埋め尽くされている。
一部、窓が取り付けられている個所もあるものの、空間の広さに対して採光量が足りているとは言い難く、吊り下げられたいくつかのランプが光を振り絞って室内を照らしていた。
「ごきげんようドトちゃん」
「おはようございますぅ。アンノウさん」
彼女が机でファッション誌を眺めていると、入口のベルがカラカラと鳴り響く。
足音が本棚の隙間を縫うようにして近づいてくる。ドトーノは本から目を離し、その方向をじっと眺めていた。
足音が止まり、本棚からひょこっと姿を現したのは深紅の髪の女、クイーン・カム・アンノウ。
第九十一階層から百二十階層の住人である。
髪の色よりもやや明るい赤のドレスを着こなす彼女は、しとやかな歩みで机の前までくると、満月のような瞳を細めてにこやかな表情でドトーノに声をかける。
「朝からなにを読んでいらっしゃるの?」
「服について書かれた本です。参考になるんですよぅ」
ドトーノは開いていたファッション誌を閉じて、その表紙がクイーンに見えるように持ち上げた。
──『カナリヤ月刊九月号・あの人を射止める秋コーデ』。表紙にはコートを羽織った女性の写実的な絵が描かれており、キャッチコピーから分かるように「恋」がテーマになっている服を掲載しているようだ。
クイーンはそのファッション誌を借り受けると、ページを一枚一枚めくりながら中を流し見し始める。
「…この本ももう古書に。なんだか、ちょっと不思議な感じですわね」
彼女はその本を散策で外出した時に見たことがあった。
雑踏にあふれかえる街並みの一角にあった書店にて、ほんの少し興味を惹かれて内容を覗き見たことがあった。
不思議なものだ。
自分たちが止まった時間の中にいるうちに、外界では二千年あまりが経過しているなど。
にわかには信じられない、聞くだけなら荒唐無稽にも思える話だが、実際に世界の変わりようを見たあとでは疑いようもなく。
「どうかしましたかぁ?」
「いえ、なんでもありませんわ」
目の前で憂いを含んだ表情を浮かべたクイーンを、ドトーノは心配そうに見上げる。
クイーンはそれに気づくと本を彼女に返し、再び柔和な笑顔を浮かべた。とはいえ、彼女の心はまだ少しだけ暗い霧に覆われている。
彼女は密かな思いにふける。
この一ヶ月、ふとした時に抱いてきた思いがあった。
──二千年。その間にどれだけの人間が死に絶えたのだろうと。
一体どれだけの血肉が私の口を、のどを、内臓を潤すことなく死んでいったのだろう。私をより美しく彩ってくれるはずだった多くの命。
その無駄を憂うほかにない。
「悪食」の名を冠する彼女にとってそれはひどく悲しむべき事柄であり、今まで感じたことのない「病み」という感情さえ、うっすらと自分の中に自覚しまうほど。
「ところで今日はどうしてこちらに?」
本を受け取ったドトーノはそんな彼女の憂いに気付くことなく、朝の朗らかな気分そのままに話しかける。
その陽気にあてられて、クイーンも少しだけ気分が楽になったような感覚を抱く。
「実は、近々外に出ることにいたしましたの。それで新しいドレスを仕立てていただきたくて…」
「そうなんですかぁ! それは楽しみですね!」
先日行われた会議にて、住人たちの行動制限が緩和されることが決まった。
これまでは状況を的確に把握できるまで、外出などはしないようにとのお達しが出されていたわけであるが、それがなくなったのである。
もっとも外出と言っても、塔の建っている島から出るなということであり、そこまで息苦しかったわけでは無いが。
そうして一ヶ月ほど、隠密部隊による大規模な偵察が行われたあと、厄介事を引き起こさない程度での自由な外出が許可されることとなったのだ。
「じゃあ、色とかデザインはどうしますぅ?」
「黒系の控えめな雰囲気がいいですわね。このドレスだと、ちょっと色々目立ちすぎてしまいますから」
クイーンはそう言いながら自身の胸元をちらりと見る。
彼女が今着用しているドレスは鮮やかで華やかなうえ、胸元が大きく開いていて良くも悪くも人の目を引きやすい。
彼女が外出先でする予定のことを考えれば、人目に付きにくく、人を誘惑しやすく、かつ汚れが目立ちにくい服装であることが望ましいといえるだろう。
そうしてそれらの要望を伝えて数分、クイーンはドトーノとドレスの詳細を詰め終える。
「よろしくお願いいたしますね」
「任せてください! 完璧に仕上げてみせまっす!」
「代金のほうは…これで足りるかしら?」
クイーンがポケットに手を入れてごそごそしたかと思うと、彼女は机の上にずっしりとした膨らんだ金貨袋を置き、ドトーノはそれを見て仮面の下の目を丸く見開く。
「いえいえ要りませんよぅ! これは私の趣味ですし、こういう依頼があるだけで嬉しいんです!」
「でも、それだと私の気が晴れませんわ。なにかあなたにお礼を送らせてほしいのですけど…」
ドトーノは言葉を詰まらせるが、すこし思い悩むと何かをひらめいたようでぱちりと横手を打った。
「それなら本がほしいかもです。そろそろ新しく蔵書を増やしたいなと思ってましたので」
彼女は保管庫内の本棚を見渡す。
それらの本棚は隙間など見当たらないほど書物で潤っているが、その中に一つだけ、本が一つも収められていない本棚があるのがわかる。
その本棚はドトーノが新しく調達したものであり、これから手に入るであろう書物に先んじて、それを入れておくために彼女が地下工房に頼んで手に入れたもの。クイーンが本を持ってきてくれれば、とらぬ狸の皮算用とはならないに違いない。
「ふふふ、わかりました。街で面白そうな本をいくつか見繕ってきますわね」
「楽しみにしてます! わたしもアンノウさんが外出を楽しめるように、腕によりをかけて仕立てておきますよぅ!」
本人は趣味の範囲というけれど、ドトーノの服飾の腕は確かなものだ。
それこそ王宮お抱えの一流テーラーにも引けを取らないかもしれない。彼女ならばきっと、クイーンの気にいる完璧なドレスを用意できるだろう。