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別称『霧隠れの大樹』──エデニア大神巨塔・三十八階層にて。
パッチモン・マングースは頭を悩ませていた。
その目の前には床に転がった一つのグラス、そして溢れてしまったであろうワインの水溜り。
しばらくの沈黙の後、パッチモンは自分の右手を見つめ、それをぐっぱーぐっぱーと開いては握りしめる。
何かが気に入らないのだろうその表情は険しく、握りしめる手もだんだんと力の籠もったものになる。
耳を澄ましてみると、右手から何かが擦れるような、引っ掛かっているかのような異音がしている。
「…ちょっと設計を間違えましたかね」
そして百回ほどそれを繰り返したところで、彼──彼女──いやあるいはそんな性別はないのかもしれないが──は自分の手を文字通り、ボロボロと崩壊させた。
だが、血液は溢れない。
体液の一つすら滴ることはない。
その代わり、床に散らばったのはバネやネジ、歯車や細かな駆動部品の数々だった。
有機成形族。
自身の身体を部品から自在に組み換え、操ることを可能にする人外種族。材料となる素材さえあれば必要な部品を自ら作り出すこともできる実に器用な種族。
パッチモンは床に散らばった部品を魔法で空中に浮かばせると、そこから丁寧に自分の右手を再構築していく。
カチリ、カチリ。
プシュルルル。
と組み立てる音や駆動音が小さく鳴っている。
「…これでよし、ですね」
数十秒後。
そこにはまた右手を開いては握りしめるパッチモンの姿があった。
ただ先ほどと違うのは、その顔は実に満足気な表情をしているということ。
そして何かが擦れるような異音が綺麗さっぱり聞こえなくなっていることだ。
パッチモンは青い瞳を細めて頷くと、黒い手袋を右手にはめ直し、懐から小さな金色の呼び鈴をつまむように取り出す。
長い廊下に二度、涼し気な鈴の音が鳴り響いた。
「──お呼びでしょうか」
「申し訳ありません。グラスを落としてしまいましたので、掃除をお願いします」
「かしこまりました。替えの方もご用意いたしますか?」
「いりません。気が変わりました」
「かしこまりました」
鈴の音の余韻が聞こえなくなるのと同時に、空間が歪んで音もなく一体のメイドが姿をあらわす。
そのメイドはパッチモンに深々とお辞儀をすると、静かな声で伺いを立てた。
メイドに指示を出したパッチモンは白銀色の髪をなびかせ、ツカツカと廊下を歩いてその場をあとにする。
彼はもともととある用向きで三十階層に向かっている途中であった。
ただ、ちょっとした寄り道で三十八階層にある自身のバーに寄ってワインを楽しみながら歩いていたところ、先程のようなことになってしまったのだった。
「やはり、使い慣れない素材は使うべきではないですね」
そうつぶやくパッチモンの手元には、何やら小さな白い歯車が三つ。表面はざらついており、見たところ金属製ではないようだ。
「…研磨すればいいのでしょうか?」
彼はその素材について、少しばかり思いにふける。
その骨はとある少女のものだった。北にある大陸の、辺境にあった村で一番美しかった少女。
初めて、自分の中に記念に残しておきたいと思えたほど美味しかった少女。彼女のことを思い出すだけで、出るはずもない涎が口元から溢れそうになる。
「まあ試行錯誤は大事ですからね。ゴラあたりにでも頼んでみましょう」
パッチモンは歯車たちを愛おしそうに撫でやり、小さな布袋に入れてポケットにしまい込む。
廊下を歩き、重厚な扉を開いて、長い階段を降りる。
それを何度か繰り返して、正面に見えたのは三十階層へと続く巨大な門扉。
豪奢な装飾と独自の紋章が施されたその門扉は六十階層にもあるものであり、緊急の防御壁として三十階層ごとに設置されていた。
そこを通り抜け、コツコツと大理石の階段をさらに降りていくと、ようやく執務室のような場所に出る。
炎の意匠をあしらった円形の絨毯、シャンデリア、縦長の本棚がいくつか。
広さは人間三十人ほどが両腕を広げて寝転がれそうなほどあり、部屋に一つしかない窓のそばには木目調の机が一つ。
そしてそこの椅子に座る女の姿があった。
「あら? いらっしゃい、てっきり跳んで来るものかと思ってたわ」
「たまには運動しないとですよ」
「必要ないでしょうに。変なところばかり人間の真似するわよね」
「そりゃあれほど面白い生物もなかなかいませんし」
黒塗りの、バンダースナッチの革製の椅子に座る女の名前は、ユーロ・シャトーム。
色素のない真白の瞳に黒いウェーブ髪、赤い東洋の着物風の服装の彼女は、地獄種であるケルベロスの末裔である。
「それで、何か良いのは捕まりましたか?」
「それなんだけどねぇ…あなたより先にレルレロが来ちゃったのよね」
「ぇ゙え?」
机の向かいに立っていたパッチモンは、驚きと嫌悪のあまり変な声を上げてしまう。
「そ、それで? 持っていったんですか?」
「二体ほど持って行ったかしら。それも結構な上玉を」
「───んんンンン」
苦虫を噛み潰した表情のまま、眉間を右手でつまむようにして天を仰ぐパッチモン。
彼はそのままの姿勢で数十秒ほど硬直すると、大きなため息とともに身体を弛緩させて頭を振った。
「…まあ、良いです。残っているのを見せてください」
「ええ、いつもの場所にあるわ」
いつもの場所とは二十階層に用意された牢獄である。
パッチモンは転移でその執務室から二十階層まで空間移動すると、その奥の方にある牢獄に向かって歩き出す。
第一階層から第三十階層までは『地獄御殿』と呼ばれており、その名の通り多種多様な地獄を模倣した造りとなっている。
その中でもここ二十階層は比較的安全な階層であり、獄卒と呼ばれる連中が闊歩している程度。
「開けなさい」
二十階層の奥、炎を纏う扉。
他よりも一回り大きい二体の獄卒にそう命令すると、彼らはゆっくりとその扉を開け放った。
柱に取り付けられた松明だけが照らす薄暗い廊下に、パッチモンの歩く足音だけが響いている。
だがしばらくすると、パッチモンが向かう方向からいくつかの啜り泣くような声が聞こえてきた。
だんだんと大きくなる声。
それらの声はどうやら、一つの大きな檻から聞こえてきているようだった。
パッチモンはその檻の前に立つと、吟味するようにジロリと中にいる数体の人間を見下ろす。
「だ、誰だ!」
「…うるさいですね」
直後、パッチモンを中心として電撃のような細かな光が拡散し、檻から聞こえていた声が途端に聞こえなくなる。
中には泡を吹いている様子の身ぐるみを剥がされた男が二人、女が三人。
もう少し早く来れていればここにあともう二人、良さげな人間がいるはずであった。
「クソが…」
そう悪態をつかずにはいられなかった。
パッチモンは檻の魔法鍵を開け、中の人間をひとしきり吟味し終えると、懐から呼び鈴を取り出して二回鳴らす。
「そこと、そこの二体を運びなさい」
「かしこまりました」
男一人と女一人。
メイドはその二人を両肩に担ぎ上げると、檻をあとにする主人の後ろに続く。
彼らが去った牢獄にはひとりでに閉まる魔法鍵の音だけが残された。
「跳びますね」
牢獄を出たところでパッチモンは振り返り、メイドの胸元に触れて転移を発動する。
次の瞬間には彼らは三十階層の執務室の入口にいた。
書類整理をしていたユーロは驚く様子もなく、眼鏡の位置を直しながら、ブスリとした表情のパッチモンを見やる。
「お気に召したかい?」
「…まあまあです」
「早いもの勝ちだからねぇ。しょうがないさ」
「ムキーッ! あんの人間もどきがッ!」
燕尾服にはそぐわないガニ股でドスドスと執務室を歩き、三十一階層に向かうパッチモンをユーロは紅茶を飲みながら見送る。
全くもって、騒々しい嵐であった。