2-⑥
純白のカップにたゆたう暗闇を、乙瀬さんはじっと見つめていた。
ミルクの入った陶器に手を伸ばしかけ、首を横に振る。えいやとカップに口をつけ、小さくひとつ、喉を鳴らす。
「朝陽は私の事すごく信頼してくれてるんです。まぁ、悪く言えば依存気味ってことなんですけど」
にが、と口の中で呟いたように見えた。
「主体性がないといいますか、自分で決めるのが苦手なんです。『ハジメちゃん決めて』って。テニス部だって、私がいたから入ったようなもので、更に言うなら高校だってそんなカンジで選んだんです」
彼女から、嫌悪は一切感じられない。むしろ枕木さんのことを語っているその目には、優しさが浮かんでいるように見える。
「先輩も聞いてたと思いますけど、朝陽はそんな性格を変えたがってるんです。ずっと悩んでるのも知ってた。だから、私に相談無しで急に告白するって言い出したのにはびっくりしました。自分で決めて、自分でやる! って、あんなに気合入った朝陽を見るの初めてだったし、嬉しかった。絶対、成功させてあげたかった――」
その目には、一転して濁りが浮かぶ。
「相手が、高永憂一じゃなければ」
握られた両の拳は小刻みに揺れていて、内から溢れる何かをぐっと抑え込んでいる様に見える。
あぁなるほど、と腑に落ちた。
この一点が、僕と乙瀬さんとで食い違っていたのだ。
「ちょっと調べるだけで、悪い噂が山ほど出てくる。あんな男に告白して、万が一OKされでもしたら、朝陽が可哀そうです。だいたい何なんですか、6股した上に本命は人妻で、中絶までさせてるって。それはもう悪魔でしょう」
僕や高永君の知らぬところで、壮絶な噂を流布する悪魔のようなヤツがいるようだ。
「でも、朝陽が告白する事自体は、私は絶対止められません。もしそうなったら朝陽の中で『ハジメちゃんに言われて止めた』になっちゃうから」
「つまり「自分だけの判断で告白をやりきった」という部分は叶えてあげて、自信を付けてもらいたい。一方で「告白の成功は枕木さんの為にも絶対阻止したい」と」
乙瀬さんはこくりと首を縦に揺らす。
告白の妨害が乙瀬さんに何らかのメリットを生み、それこそが動機になるのだと思っていたが、それが大きな勘違いだった。
2人の仲を見ていれば、まずそんなことはしないだろうと思い至りそうなものだ。しかし、僕が高永君に寄せる信頼ゆえに、『告白の失敗が枕木さんにとって良い事』という可能性を完全に失念していた。
「とまぁ、こんなところですよ」
乙瀬さんは背もたれに深く体を預けると、体中の空気をすべて入れ替えるように、深く、大きく息を吐いた。浮かべる晴れやかな表情には、ふわり赤みが差している。善行を成したという余韻に浸っているのかもしれない。
ふたを開けてみれば、悪人などどこにもいなかったというワケだ。乙瀬さんのイメージする高永君以外には。
さて、どう誤解を解いたものかと腕を組む。
人の間違えを指摘するというのは、どことなく申し訳ない気持ちが伴う。下ろしたての服に値札が張られたままなのを見て、面と向かって「あなたの値段は3,980円なんだね」などと言う胆力は僕にはない。いいところ、値札の張られた個所をそれとなく見たり、自分の服の同じ個所を執拗にいじったりするのが精一杯だ。
「ところで、この手紙はどんな経路で先輩のところに来たんです? これさえなきゃ、変に先輩の手を煩わせることもなかったのに」
ご丁寧に差し出されたとっかかりに、これ幸いと手を掛けることにする。
「どんな経路と言われれば、まっすぐ一直線ということになるね」
聡明な彼女の事なので、これで全部理解してくれるだろうと期待を込めて表情をうかがう。
薄紅を浮かべていた肌から、さっと赤が抜け落ちていくのが、ありありと見て取れた。『血の気が引く』のサンプル映像に採用できそうだなぁ、なんて呑気に思っていると、乙瀬さんがおずおずと手を挙げる。
「……つまりはこういう事ですかね。赤根先輩と高永……先輩、は友達同士、みたいな?」
頷く他ない。
「という事は何ですかね。まことに恥ずかしながら、その流れだと、私、とてつもなく失礼な勘違いをしているという結論になるのですが……」
ソファから背中を引きはがし、ぐいと上体を机に寄せる。体を支えるように体重が乗った両腕は小刻みに震えている。
「……高永先輩は、もしかしなくても『良い人』、ということでしょうか」
「良い人かどうかは置いておいて、少なくとも女の人と付き合ってるところは見たことないかな」
ガンッ! という音と共に、乙瀬さんの額が机の上に落下した。
声にならない声が咽喉を振るわせ、「ん」に濁点のついたような音が、あたりに低く、小さく響く。
どうやら彼女は僕のことをそれなりに信頼してくれている様でひとまず安心。高永君の評に引っ張られ、赤根陽介が悪い人間だという方向には行かず、高永くんの方を上方修正してくれたようだ。ありがたいことである。
唸りの終息と共に、乙瀬さんは机に衝突したときと同程度のスピードで顔を上げた。両手のひらでパンと頬を叩いたその表情は、いつもの乙瀬さんのものだ。
「重ね重ねお手数をおかけして申し訳ないんですけど、高永先輩に謝りたいので取り次いでもらえないでしょうか!」
高永君にどの様に伝えれば互いに角が立たないかと思案していたので、渡りに船である。了承を伝え、取り急ぎLINEで高永君に連絡を入れる。
「今電話してもいいかメッセージを入れたから、良さそうなら経緯を話して紹介するよ」
「ありがとうございます。許してもらえるかはともかく、まず謝ります。ちょっと怖いけど」
「見た目と口がすこぶる悪いだけで、中身はいたって普通だよ」
ポコンという通知音でスマホの画面に明るさが灯る。「今どこだ?」という短いメッセージが通知窓に表示されていた。質問に質問で返してくるのはどうかと思う。 「この前の喫茶店。ていうか通話は無理そう?」と返事を返すと、即座に既読のアイコンが付く。暇なのかそうでないのか分からない。
「とにかくあまり心配する必要はないと思うよ。どっちかというと、乙瀬さんとは気が合うタイプだと思うし」
鳩時計の鳴き声と同時にドアベルの音が響く。無関係なはずの2つの音が、示し合わせたかのように綺麗に重なって耳に届いた。
改めて周囲の音に意識を傾ければ、客の歓談やカップをソーサーに置く音、サイフォンの密やかな沸騰音なんかが見事な空間音楽を奏でていて心地よい。問題が解決した心理的な作用かとも思ったが、何度となく通う内、純粋にこの空間に過ごしやすさを感じるようになったのかもしれない。
「よぉ」
気を抜き切ったところに、ぶっきらぼうな声がかけられる。
振り向くと、鋭い三白眼がこちらを見下ろしていた。この辺では珍しい学ランを羽織り、シャツの胸元からはカラフルなインナーが覗いている。
不良だ!!
「不良だ」
「おいコラ」
不良がコチラに向かって、肩にかけた大きいバックをぐいと押し付けてくる。
もしかしなくても、高永君であった。
間近で見たのは初めてだったのだろう。乙瀬さんはというと、ピンと背筋を伸ばして口をVの字、目を真ん丸にしてこちらを見ている。
「ちょうど近くにいたから直で来たんだが……」
高永君は、チラリと視線を乙瀬さんの方にやる。
彼女からしたらジロリ、もしくはギロリといったところかもしれない。
「で、コイツ誰?」