2-①
夜、布団に体を預け、毛布をまとう。
瞳を閉じると、思考の煙がぐるぐると交わって、ひとつになるような感覚が身を包む。窓が風を押し返す音に感じる心地よさと浮遊感の狭間、とぷん、と意識が闇に落ちる。
落ちて、落ちて、そのまま沈むと思ったところで、雑念が顔を出す。
途端、体を纏っていた穏やかな何かが弾けるように霧散し、起きるともなく瞼の裏の暗闇を意識が捉える。
そんな夜が、稀によくある。
人間関係の悩みや、期末テストに対する不安。様々なものが雑念になりうる。
一日の終わりにそれらが脳裏をかすめるのが耐え難く、はっきりと気持ち悪い。食後に歯を磨かなかったり、就寝前にシャワーを浴びないといった感覚に近く、物心ついた頃からこの感覚は付きまとっていたように思う。
この厄介な性格と付き合っていく術を見出したのは、ここ数年になってのことだ。即解決に動くのは当然のこと、何より効果的だったのは『極力人と関わらない』というシンプルな予防策だった。人間関係は言わずもがな、そこから派生する約束や相談といった事柄も雑念になりうるので、根本を断つのは理にかなっていた。
しかして、人が嫌いな訳ではないし、友人が欲しくない訳でもない。
人間関係は慎重に、という訳だ。
そんなポリシーで長いことやってきた自分だが、齢16、高校2年生の春にして、何を間違ったのかラブレターを頂戴するという大きめの雑念(と表現するのは失礼とも思うが)を抱えることとなってしまった。
毎朝、洗面台で鏡と顔を突き合わせてきた自分である。ラブレターなど生涯縁の無いものと考えていた。というか、考えたことすらなかった。
人が嫌いな訳ではないし、友人が欲しくない訳でもない。当然、恋人が欲しくない訳でもない。
嬉しいかどうかで言えば、当然嬉しい。だが、友人かどうかも怪しい距離感の同級生相手に『イエス』で返すのは、いささか不誠実が過ぎるだろう。どうしたものかと悩んだ末、その手の話題に強い中学時代の友人から知恵を拝借し
「お友達からという事でどうでしょうか」
という、ありふれた回答を導き出したところ、返ってきたのは――
「フラれた云々より、アンタの中でアタシが友達未満だったことが衝撃だわ」
という苦い顔とともに放たれた一言だった。
平々凡々、尋常一様な知恵とはいえ、借りたからには借りひとつである。後日、その友人から「相談がある」と持ち掛けられれば応じないわけにもいかない。ゴールデン・ウィークも明けてしばらく経った5月下旬。外部活の生徒が解散する頃合いに、知恵の借り先――もとい高永憂一と喫茶店でお茶をしばいているのは、そういった流れだ。
「で、例の件が結局どうなったか聞かされてねーんだけど、俺。連絡くらい入れろや」
右腕の肘と拳をテーブルに滑らせながら、三白眼を有した鋭い視線を、対面からグイと向けられる。この辺りでは珍しい学ランに、ドスの利いた声と口調が相まって、客観的に見ればいじめ現場のソレだが、助けの手はどこからも伸びてこない。周囲の客たちは、各々のテーブルに置かれたコーヒーやらケーキやらを必要以上に見つめている。
「苦い顔で嫌味を言われたけど、とりあえず『お友達』に落ち着いた感じかな」
「んだよ、大成功ってことじゃねーか」
今の関係値のままお断り出来ればと相談を持ち掛けて、結果、友達未満から友達へ進展したことは高永君から見ると大成功に当たるらしい。僕としてはどちらなのか分からない。
だがまぁ、友達と決まってしまえば気は楽になるもので、現状、のほほんと日々を過ごしている。
「何にしても良かったな。当分は気持ちよく寝られそうじゃねーか」
それなりに付き合いも長いため、僕のやっかいな性格も熟知しており何かと気にかけてくれる。相談があると呼び出しておきながら、会話の出だしがこれなのだから、人物像は推して知るべしである。口調と外見で損することが多いのはもったいないし、何より見ていて心が痛む。
「まぁね。そのお礼ってワケじゃないけど、そっちの相談って何なのさ?」
こちらの問いに応じて、隣の椅子に立てかけていたラケットバッグをまさぐり始める。中学時代から彼が愛用しているそれは、僕にとっても見慣れたものだ。
「陽介に相談ってのも悪いとは思うんだが、ちょっと他に当たれそうなヤツがいねーんだよな……っと、コレだ」
見慣れたバックから、見慣れない、しかし、最近目にしたモノが顔を出す。
手のひらサイズの紙が、机を滑りせコチラに寄越された。
手のひらサイズの紙が、しゅるしゅるとテーブルの上を滑りながら手元に届く。寄越されたのは、物としてはただのレター用封筒だ。表面には「高永憂一様へ」の一文と、名前の横に添えられたクローバーのイラスト。封筒の縁はキラキラとしたラメのような塗料で飾られている。
「俺の方も手紙絡みなんだが、そっちと違ってネガティブもいいとこだ」
封を開けるジェスチャーは、開けてみろということだろう。
紅葉を模した綺麗な封止め用のシールは、何度か開閉した様で粘着力が落ちていた。
品の良い封筒、綺麗なシール、取り出したるオシャレな便箋からは、どうにも彼の言うネガティブさは感じられない。
というか、どう見てもラブレターである。
二つ折になっている便箋を手に、改めて高永君の方を見やる。
どうぞ、と手のひらを向けられて、申し訳ない気持ちでソレを開く。
そこに書かれていたのは、ただ一文字。
筆跡は太く、濃淡はやや薄いが、便箋いっぱいに
『呪』
と書かれていた。
高永君の風貌や言動が与える第一印象は、総じて『怖い』である。
実際、その影響で悪評や根も葉もない噂が流れることが多く、このような嫌がらせ受けることも少なくない。やれ『暴力沙汰で停学になった』だの『女子をとっかえひっかえして遊んでいる』だの『カツアゲの常習犯』だのといった具合だ。
接してみれば、顔が怖くて口が悪いだけの人格者だという事が分かるのだが、そこまでたどり着く人は多くない。
多くないので、彼の人柄を知るところとなった少数精鋭の女子たちは、かなりの割合でコテンと転ぶ。
「ラブレターなら良いんだよ。いつも通り『部活で忙しい』で終いだからな」
そしてこの通り、お付き合いの申し込みについては、今まで漏れなくお断りの返事をしている。曰く『部活が忙しい上に、好きでもないのにOKするのは失礼』とのことだ。
「差出人を突き止めてくれとか無茶言うつもりはねぇ。ただ、こういう嫌がらせに対する防衛策とか今後の予防策みてーなのが欲しいんだよ」
「『普段からニコニコ笑顔を作って、愛想のいい口調で喋る』っていう、簡単な答えがあるじゃない。印象を和らげれば効果はあると思うよ」
「そりゃ難しいな。俺自身を変えちまったら、そりゃ負けだろ」
ならせめて制服が学ランの学校は避けるべきだったのでは――とは、手遅れ過ぎて口には出せない。ウチの学校みたいなブレザーの制服なら、幾分柔らかい印象になる気もするのだが、よりにもよって学ランである。一方で、女子の制服はウチのスカートタイプの制服とよく似ているものだから、一層口惜しい。
「まぁ、そう言うとは思ったけどさ」
僕の性格を気遣ってか、昔から相談事や愚痴をこぼさない彼の『相談』である。今まで発揮していた友達甲斐のなさを挽回する良い機会だ。
手元でラブレターをくるくる回し、改めて見てくれを確認する。
「というワケで、防衛策については力になれそうにないんだけど……この手紙、下駄箱経由だったりする?」
「あぁ」
高級感のあるレターセットは、細部にわたり意匠が施されており、イタズラで使うにしては些か過分な代物だ。その点だけを取って見ても、コレはれっきとしたラブレターだろう。というのは流石に論理の飛躍が過ぎるだろうが、それでもこれは間違いなくラブレターなのである。
何故なら僕は、それがそうだと知っていた。
『他校の生徒に一目惚れしたのでラブレターを出そうと思っている。相談に乗ってほしい』
そんな趣旨の話を、つい先日、まさに今いるこの喫茶店で僕は受けていた。厳密には相談を受けたのは友人で、僕は隣に座っていただけなのだが。思えば相手の名前は話に出てこなかった。
和紙で作られた淡い暖色のレターセットに紅葉のシール。今、僕の手元にあるこの手紙は、その時の相談相手が見せてくれたモノと同じものだ。
まったくの偶然という可能性もあるが、流石にそれで片付けられる範疇は超えていると思う。少なくとも、僕はそこまで偶然というものを信用できない。
「もしかすると、力になれることがあるかもしれない」
断りを入れて店の外に出る。
夜風が冷たい。
スマートフォンの連絡先から件の相談相手を選び、耳元で鳴り響く規則正しい電子音に耳を傾けた。
返ってくるであろう答えに気を重くしながら、頭の中で先日の出来事を振り返る。
事態に関するおおよその見当が、すでに僕にはついていた。