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硝子の破片

作者: 天ノ瀬 蒼

季節は梅雨、憂鬱な雨が続く6月の半ば。

人見知りの少年、近江律(おうみりつ)は真っ白な進路希望調査を目の前にして悩み耽っていた。

卒業してすぐ働くか。働くとしたら、今から勉強して資格を取ったりできるだろうか。今まで働くために勉強してきた同級生に遅れを取る事はないだろうか。

大学や専門学校へ行くか。行くとしたら、何を学びたいかなんて決まってない。そもそも勉強なんてなるべくしたくない。

ああ、悩ましい。

まだ白い進路希望調査を鞄にしまい込み帰り支度を済ませ、さっさと帰路に着くことにした。



その日は珍しくカラッと晴れていた。汗すら滲むほど気温も上昇している。

家に帰ろうと自転車に跨ったが、帰ったところで忙しく両親が仕事をしているので、一人になろうと家とは反対方向に自転車を漕ぎ始めた。

家の近くの海岸沿い、律のお気に入りである開けた砂浜まで来た。階段上になったコンクリートから大きな消波ブロックに飛び乗り、その上に荷物を置いて座る。

空を見上げる少年の瞳に映る世界は、どこまでも青く、そして広い。

「どうしたらいいんだ!」

気がついた時にはそう叫んでいた。

しばらくして消波ブロックから飛び降りると、足元に陽の光が反射してキラキラ光るものを見つけた。

「なんだろう」

それは角が取れて丸くなった、硝子の破片だった。しゃがんで手に取って眺めてみる。

「硝子の破片はね、時間をかけて海に流されて角が丸く削られていくんだ。悩める少年、君もそうやって色んな経験をして、きっと大人になるんだよ」

横からひょっこりと、眼鏡をかけた長髪の女性が現れた。全く見知らぬ人に顔を覗かれた律は動揺し、思わず挙動不審になる。

「どう、お姉さんに興味ある?近くにうちがあるから、そこでお茶でもしない?」

「……」

律は人見知りを発揮してしまい、黙り込んでしまった。顔を真っ赤にして俯いている。

「……あ、あの、ぼ僕になにか……よ、用があるんでしょうか」

やっとのことで絞り出した声は、酷く震えていた。

「んー、特に用事はないけど」

彼女は顎に人差し指を置いて考える振りをしたと思ったら、

「うーん、ナンパ?ってやつかな。物思いに耽ってる君を見てたら声掛けたくなっちゃって、つい。大きな独り言、呟いてたでしょ。口は災いの元、って言うよ」

そう言って笑い、八重歯を覗かせた。

「ま、理由はさておき。着いてきなよ、ほら」

有無を言わさず律は手を引かれて連れて行かれてしまった。



連れて来られたのは小綺麗なアパートの一階にある、ワンルームを作業部屋にしたような場所だった。

「ここが私のアトリエだ!毎日ここで仕事をしている」

その部屋には、机は作業台のようなものくらいしか置かれていなかった。 その上にもたくさんの絵の具が置かれていて表面が見えない。椅子なんて、給食の牛乳瓶をしまうようなケースをひっくり返して使っている。

「……これ、お尻痛くないんですか」

気になって思わず訊いてしまった。

「ああ、クッション敷いてるからね、痛くないよ。でも何時間も座ってるとさすがにきついね。うーん、そこにでも座ってて」

律は不安そうに、ピンクのギンガムチェック柄の丸いクッションが敷かれた牛乳ケースの上に座る。

絵の具まみれのつなぎを着たその女性は高めの声で笑って、キッチンへと向かう。

「そうだ。名前は?」

「……ええと、……近江律、です」

「律くん!変わった名前だね。私は岸波千夏(きしなみちなつ)。で、飲み物……今カフェオレしかないんだけど、それでもいいかい?」

カフェオレしかない家って一体なんなんだろう。

「あ、カフェオレしか飲み物がないのは、絵を描く時に集中するために飲むのがカフェオレだからだよ。言わばあたしの原動力ってとこだな」

「じゃあ、……お願いします」

律はキョロキョロと落ち着かない様子で、千夏のアトリエを見回す。窓辺にはたくさんのカメラが並べられていた。レンズが十数本と、本体が数個、フィルムカメラもある。フィルムケースがバラバラに置かれているのが、なんだかとても気になった。

キッチンからお盆にコップを乗せて千夏が戻って来た。

「お待たせ。ほれ、カフェオレ持ってきたよ」

「ありがとうございます」

渡されたコップの中でカラン、と氷が溶ける音がした。



「それであんなところで一人で物思いに耽ってたわけだ」

悩める律は、千夏に進路希望調査が真っ白なのだと打ち明けた。見知らぬ人に自分の話ができるほど社交的ではない律だったが、なぜか千夏にだけは話してもいいと思えた。

「あの……岸波さん、にも悩んだことってあるんですか」

「あはは、千夏でいいよ。もちろん私にだって悩みはあるさ。生きてると悩みなんて尽きないもんだよ」

「……なんだか強く生きていそうだなって」

律には、自分のやりたいことがありそれを叶えられている千夏が少し羨ましくも憧れても見えた。

「そういう律くんにはやりたいことはないの?何かこう、勉強が好きとか、乗り物が好きとか、なんでもいいからさ」

「特に……何もなくて。小さい頃から特に夢がないんです」

「そうか……なら、このアトリエでなにか興味があったものはない?さっき一眼レフの方じっと眺めてたみたいけど」

「一眼レフ?」

「ああ、そのカメラのこと。一眼レフカメラって言うんだよ」

千夏はカメラにレンズをセットして律に渡してきた。使い方の分からない律はただベタベタと触ることしかできない。

「じゃ、説明がてら写真でも撮ってみるか」

律はカメラを片手に、再度手を引かれて外に連れて行かれた。



簡単に一眼レフの使い方を教えてもらった律は、楽しくなって何枚も何枚も写真を撮っていた。乱反射が眩しい、初夏の海の写真。白いもくもくした入道雲と、どこまでも広い青い空の写真。自分の乗ってきた愛車の写真。それらを、隣でノートパソコンを使い編集し加工していく千夏。

今まで何にものめり込んだことのない律が、生まれて初めて興味が持てたのはこのカメラ。何でも知りたいと思うのも初めてだった。

「すごい……こんなに楽しいと思えたこと、初めてです」

「それは良かった。また気が向いたら、このアトリエまで来るといいよ。いつでも待ってるからさ」



結局悩んだ末に、律はアトリエで興味を持ったカメラを勉強するため、千夏の卒業した大学に通うことにした。でも彼女にはそれは知らせないでおこうと思う。きっと卒業生として大学に千夏が来た時、律がいたらさぞかし驚くだろう。その驚いた顔が見たくて黙っておくことにする。

今からでも遅くない。いつかまた、彼女に近づくことができる日を夢見て、律は真っ白だった進路希望調査を提出したのだった。


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