月夜に憂う
「……というわけで、予定どおり明日の午前十時より、元老院会議に提出する資料の読み合わせを行うそうです。そして内容に問題がなければ、あとは我々から陛下に奏上し、決裁を仰いでほしいとのこと。この進捗であればよほど大きな見落としでもない限り、会議には充分な余裕をもって臨めるでしょう。現時点で何かご指摘はございますか?」
「いや。今の報告を聞く限りは特にないな。やつらが作成した計画書の中身についても、おまえがおおよそ目を通したのであろう?」
「はい。愚見ながら、内容に目立った不備や怪しい点はなかったように思います。問題はむしろ竜嫌いの元老たちをいかに説き伏せるか、でしょうね」
「それについては心配無用だ。計画の内容さえ十全ならば、あとは陛下がいつものご辣腕を揮って下さるだろう。とにかくまずは明日十時、アルコル宮だな」
「はい。こちらには九時頃お迎えに上がります」
と執務机の向こうで姿勢を正しながら答えた従弟に、フリーダはうむと頷いた。
セント・ソフィア宮殿の本宮内にある、皇属竜狩猟団の執務室でのことである。
その日、いつものように夜の二十時を回る頃に報告へ現れたギゼルは、今日も竜の園では特に異常なく一日が過ぎたと告げた。
夜間は常駐のギゼルとは別に、皇属近衛騎士団所属の騎士がアルコル宮の警備に当たり、奴隷たちが脱走を企てたり、怪しい動きを見せたりしないか見張ることになっている。が、このところ竜の園は驚くほど平穏だ。
無論、数日前に謎の女が空から降ってきたことを除けばだが、しかしリュージが園の管理責任者の座に就いてからというもの、竜の脱走騒ぎや奴隷の死亡事故などはぴたりと止み、園から逃げ出そうとする奴隷もいなくなった。代わりに奴隷に読み書きを教えろだの、休日を与えろだのと厚かましい要求は次々上がってくるが、それが結果として園の運営の円滑化に寄与しているらしいことは否定できない。
もっともフリーダにしてみれば、そうした異様な管理能力の高さもまたヤマタ・リュージという男の正体や魂胆を怪しむ一因となっているのだが。
「して、例のティアとかいう女の様子はどうだ? 確か手習い塾に加わってから明日で一週間だろう?」
「え、ええ、それが……アレは途中から塾生に加わったこともあり、きっと早々に授業についていけなくなるだろうと思われていたのですが、意外にも物覚えはよいようでして」
「何?」
「普段の言動からはとてもそうは見えないのですが、知能については我々の想定よりもずっと高いようです。しかも本人も手習いを楽しんでいるらしく、来週以降もぜひ受講を継続したいと……」
「……では、リュージが花竜の担当飼育員とやらに任命したエルタニン人はどうだ?」
「そちらも早々に音を上げるかトラブルを起こすかのどちらかだろうと予測していたのですが、思いのほか従順に業務をこなしています。相変わらず態度は悪いものの、今のところは問題行動を起こす兆候もありませんね」
「ほう……驚いたな。皇宮で買い上げてからというもの、どこへやっても問題ばかり起こしていたあの奴隷がか?」
「はい。次にまた大きな問題を起こせば今度こそ廃棄処分にするつもりだったのですが、どうもリュージがやつを気にかけているようでして……ルイバを花竜の担当に任命してからというもの、熱心に声がけや指導を重ねているようですから、ルイバも問題を起こす隙がないのかもしれません」
というギゼルの報告が、またもフリーダの胸に一抹の疑念を植えつけた。
というのも、リュージがあのアスバル・ルイバなる奴隷を気にかける理由が分からない。やつらに虐げられていたというもうひとりの奴隷の方を案じるのなら合点もいくが、反抗的で自制心に欠けるルイバにまで気を配っているのは何故なのか。
園の奴隷をまとめる立場にあるリュージにしてみれば、ルイバのような不穏分子はむしろさっさといなくなってくれた方が問題も起きにくくなり、仕事がやりやすくなるはずだ。ゆえにわざとルイバにちょっかいをかけ、やつが再び騒ぎを起こすよう仕向けているのかとも思ったが、ギゼル曰くリュージにルイバを挑発している様子はなく、むしろ本気で更生させようとしているように見えるという。
(とするとやつはやはり、園の奴隷どもの懐柔を狙っているのか……?)
思えば奴隷に読み書きを教えろという要求も、充分な食事や休暇を与えろという要求も、言葉巧みに園の運営のためだと謳ってはいたが、見方によっては奴隷たちの歓心を買うためと捉えられなくもなかった。
やつはそうして配下の奴隷どもを手懐け、皇家への反逆を企てているのではないかという疑惑をフリーダはずっと拭えずにいる。
というのも、園にいる三十人足らずの奴隷だけなら大した脅威にはならないが、リュージには蜂起と同時に園の竜を解き放つという奥の手が使えるためだ。
その混乱に乗じて奴隷たちが反乱を起こせば、さすがのフリーダたちも手を焼くだろう。リュージがあのイヴという半人半竜の化け物を傍に置いているのも、竜と意志疎通するアレの力を利用せんともくろんでいるためかもしれない。
いや、そもそもリュージが母大樹の森から連れてきたジュンコという名の幼女の正体が、人に化けた炎王竜である時点で……。
「……フリーダ様? いかがなさいました?」
「いや……すまない、少し考えごとをしていただけだ。まあとにかく、諸々懸念はあるものの、園の運営に支障を来していないのであれば今のところは問題ないな。だが少しでも妙だと思うことがあれば、これまでどおり逐一私に報告するように」
「はっ。心得ております」
と、左胸に手を当てて一礼してみせたギゼルに、フリーダは再び頷き返した。
このギゼルの報告をもって、狩猟団団長としてのフリーダの一日は終わる。
今も竜害の対応などを依頼され、団長自ら遠征に出ることもたまにあるものの、フーヴェルオが竜族保護令を発してからは執務室で過ごす時間の方がずっと長いのが実情だ。実を言うとフリーダはそんな日々にいささか倦み始めており、毎日がアゴログンド中の竜を狩り尽くしに行きたい衝動との戦いだった。
されど絶対にして唯一無二の主君たるフーヴェルオを人質に取られている以上、その願いは叶わない。ゆえに物憂い嘆息をひとつ零してから、フリーダはおもむろに席を立った。そうして執務室中の灯を落とし、ギゼルと共に皇宮をあとにする。
月の明るい夜だった。それぞれの屋敷を目指し、戛々と馬を歩ませるフリーダとギゼルの家路は、夏の虫たちが奏でる大合唱に彩られている。
ここが帝都の真ん中であることを忘れてしまうほど緑豊かなセント・ソフィア宮殿の庭園は、この時期になるといつも夜の方が賑やかだ。見上げた空には大小の月がひとつずつ。大月と小月と呼ばれるふたつの月が照し出すアゴログンドの夜の世界は、晴れていればランプもいらないほど明るいのが有り難い。
今頃、陛下もあの月を眺めておられるだろうか。そんな思いを馳せながら、フリーダは日に焼けた左頬に今も残る古傷へ、そっと指先を這わせた。
「……しかしいよいよ元老たちが各地から乗り込んでくるな。伯父上を迎える準備は順調に進んでいるのか、ギゼル?」
「ええ……今のところは。私が屋敷にいられる時間は限られていますので、段取りは家令任せになっていますが、まあ、彼なら万事うまくやってくれるでしょう」
「そうか。おまえには面倒な仕事を押しつけてしまってすまないと思っている。だが伯父上が帝都に滞在される間は、おまえも極力屋敷で過ごせるよう計らおう。何せ二年ぶりの再会だろう? たまには休暇を取って里帰りでもしてこいと言っているのに、おまえはまったく休むということを知らんからな」
「いえ……以前から申し上げているとおり、私は父の反対を押し切って半ば家出してきたようなものですから、領地には帰りづらいと言いますか……父とも未だに顔を会わせにくいですし、元老院会議の開催中も、私はいつもどおりの勤務で構いませんよ」
「またそういうことを言う。いい加減、伯父上と互いに腹を割って話し合うべきではないのか? まだ当分先の話とはいえ、伯父上が引退された暁には、おまえが次期当主としてブルグント領を継ぐことになるのだぞ。とすれば今のうちから諸々の教えを乞うておかねば、領主になってから後悔するなどということになりかねん」
「ええ、まあ、それはそうなのですが……」
「第一、伯母上とハゲネが世を去った今、伯父上はおまえにとってただひとりの血のつながった家族だろう。私は敬愛する父への報恩も叶わなかったが、おまえはまだ間に合うのだ。竜狩人を辞めて騎士に戻れ、とまでは言わんから、たまには伯父上の親心も汲んでやれ」
「……」
やがて行く手に総門が見え始めた頃、フリーダがそう助言すれば、隣を騎行するギゼルが拗ねたように黙りこくった。この従弟は狩猟団に入団してからというものずっとこんな調子で、実家のブルグント伯爵家から逃げ回ってばかりいる。
まあ、竜狩人になると言い張って領地を飛び出してきた手前、今や竜を狩るどころか保護する役回りを担っているのが恥ずかしく、父とも顔を会わせづらいのだろうが、フリーダから言わせればそんなものは些細なことだ。
現にギゼルの父のグンダハールは今も息子を気にかけていて、少しも失望した様子はないし、いずれは立派に当主の座を継いでくれると信じているようだった。
実際、ギゼルは若くしてあの青獅子伯爵をも打ち負かした剣才の持ち主で、いささか真面目すぎることに目を瞑れば器量も悪くない。むしろ優秀すぎるくらいだ。
グンダハールは今回、西の元老であるパンノニア侯爵の警護役として同道してくるのだが、この機に息子の縁談もまとめてしまおうと張り切っているそうだし、しばらくは宮殿が賑やかになることだろう。
(縁談、か)
自分とはまるで縁のない言葉にうっすらと自嘲を浮かべつつ、フリーダは敬礼する門衛に見送られ、セント・ソフィア宮殿をあとにする。
(だが私には陛下とおまえさえいれば充分さ。そうだろう、グラニ?)
と胸中で呼びかけながら、ぽんぽんと愛馬の首を叩けば、湾曲する二本の角が勇ましくブルルと震えた。そう、フリーダ・ゴンデシャルのすべてはメアレスト帝国の第九代皇帝、フーヴェルオ・ブリッグズ・メアレスト三世のためにある。
それ以外には何も要らないのだ。とうに別れを告げた侯爵令嬢としての未来も、女としての幸せも、地位も名誉も、何もかも。




