泣きっ面に矢
その竜を見つけたとき、最初に俺の脳裏をよぎったのは、ああ、竜の血も赤いんだな、という感想だった。
緑の幹に赤い葉を繁らせる奇怪な木々。絵の具を溶かしたように青い泉。
そんなデタラメな色彩の中をさまよい歩いてきた俺にとって、地球人の常識と符合する色と出会えたことは、ちょっとした奇跡も同然だったからだ。
だが、ぼんやり突っ立って感激している場合じゃない。
そもそも俺はまず、本物の竜が目の前にいることに驚くべきだ。
古生物で譬えるならば、羽毛のない獣脚類に翼竜の翼が生えたような。
多くの神話やファンタジーの中で語られる、最もオーソドックスな姿の竜。
そいつが今、俺の眼前にいる。
もっとも全長──鼻先から尻尾の先まで──は五十センチ前後とちんまりしていて、ドラゴンと呼ぶにはいささか迫力が足りなかったが。
「シャーーーッ!!」
ところが問題のチビ助は、茂みを掻き分けて現れた俺を見るなり長い首をもたげて牙を剥いた。ネコの威嚇に似た声を上げているし、翼を広げて体を大きく見せようとしているのも、典型的な示威行動で天敵を追い払おうとしているに違いない。
しかし全身を使って〝あっちへ行け〟と主張されたからと言って、大人しく引き下がるわけにはいかなかった。何故なら必死に威嚇するチビ助の後ろ脚──そこにガッチリと食い込んだ鉄製の牙が、雪のように白い鱗を血で汚していたからだ。
「トラバサミ……異世界にもあんなもんがあるのか……!」
ひと目で人工物だと分かる狩猟罠。それは異世界にも確かに人間がいて、他の生き物を脅かしながら暮らしている事実を示す何よりの証拠だった。
だが鉄の歯で獲物の肉を挟み込み、鋭利な刃を食い込ませて捕らえるトラバサミは、数ある狩猟罠の中で最も残酷と言われている代物だ。そのあまりの残虐性と獲物の骨をも砕く威力、そして人間が誤ってかかってしまった場合の危険性から地球では日本を始め、既に多くの国で使用が禁じられているほどだった。
そんなものが森に仕掛けられているという時点で、この世界の人類の文化レベルが知れた気がする。少なくとも二十一世紀の日本よりは文明が遅れているようだ。
アレをもし自分も気づかずに踏んでいたらと思うと粟が立つ。
未知の森を素っ裸で歩き回るだけでもかなりの危険が伴うというのに、ああした罠にかかることなくここまで来れたのはよほど運がよかったと思っていいだろう。
「おい、おまえ。えっと……おまえもジュンコみたいに人の言葉が喋れたりするのか? だとしたら落ち着け、俺は竜族の敵じゃない。どちらかと言えばむしろ味方だ。ほら、どっからどう見ても丸腰だろ?」
とは言え自分の幸運を喜んでばかりもいられなかった。何しろ目の前の竜は左の後肢を罠に挟まれ、夥しい血を流しているのだ。放っておけばあっという間に衰弱し、罠を仕掛けた人間が見回りに来るより早く力尽きてしまうかもしれない。
ゆえに俺はまず敵ではないことを示そうと、両手を上げてその場でぐるりと回ってみせた。そうして文字どおりケツの穴まで見せることで、凶器の類を隠し持っていないことを証明しようと思ったのだ。が、翼を広げた白竜の威嚇は止まない。
……これ、俺が全裸の変態だから威嚇されてるわけじゃないよな?
ひょっとしてこいつには言葉が通じないのだろうか? ジュンコとは当たり前のように会話が成り立ったから、アゴログンドの竜というのは人語を理解するものだと思い込んでいたのだが、どうやら現実はそう甘くはないらしい。
「くそ……そう言やジュンコは自分のことを神竜の末裔とか言ってたが、あいつが人の言葉を話せたのは特別な竜だったからなのか……? 単に厨二病をこじらせただけかと思ってたが……」
そもそもジュンコの話がすべて厨二病患者の妄想ならば、俺がこうして異世界で転生しているはずもない。とすれば目の前のチビ助に言葉が通じないのも納得で、言語による意思の疎通が図れないとなると、こいつはもはや竜の姿をした野生動物と表するのが適切だろうと思われた。
しかしそうなると、怒りと恐怖で興奮状態にある生き物を罠から救い出すのは至難の技だ。麻酔銃でもあれば眠らせた隙に罠をはずしてやることもできるのだが、生憎と俺は生まれたてで、持ち物と言えば腰に巻いた葉っぱの褌一丁しかない。
が、どうにか動きを封じなければ竜が暴れ回って、罠をはずすどころではないだろうし……と悩んだ末に、俺ははたとあるひとつの策を閃いた。
「お、そうか」
そうだ。蔓だ。幸いここには褌の素材にできるほどしっかりとした蔓植物が自生している。俺はそいつを探し出し、再び木の幹から引き剥がすと、邪魔な葉を取り除いて完全な紐状にした。それを子どもの背丈ほどの若木に回し、いわゆる〝馬つなぎ〟と呼ばれる結び方で輪を作る。
この結び方は名前のとおり、馬をつなぐ際によく使われるものだ。元綱を引けば輪っかは簡単に締まってほどけず、されど先綱を引けば一瞬にして結び目がほどける。実際に馬をつなぐ場合は元綱側を銜環──手綱を括りつける金属製の輪っかのこと──に結わえつけ、反対側を柵などに馬つなぎして留めるのが一般的だった。
俺はそうして作った蔓の輪っかを若木から引き抜き、いざそろりそろりと竜に近づく。相変わらずチビ竜は俺を見上げて威嚇を続けているが、脚の痛みと出血で弱りつつあるのか威勢が陰り始めていた。俺はそこを狙ってじりじりと距離を詰め、竜が首を伸ばしても届かないギリギリの間合いをキープする。
次いで慎重に腕を伸ばし、蔓で作った輪っかを垂らした。チビ助は今度はそいつを敵だと思い込んだのか、頭上に迫った輪っかを見上げてシャーッと声を上げている。直後、竜が小さな口でバクンと輪に食らいつこうとしたのを俺は躱した。
と同時に蔓を捌き、一瞬閉じた竜の口に素早く輪を引っかける。オオトカゲに似た上顎と下顎が輪の中に入ったのを確認し、一気に元綱を引っ張った。
途端にきゅっと締まった輪っかが、結束バンドの要領で竜の口を締め上げる。
よし、うまくいった!
飼育員時代のワニの捕獲経験が活きた。口を縛り上げられた竜は首を振って暴れているが、見たところこいつの前脚は体躯に比べてひどく短い。
首を折り畳むようにして頭を下げれば辛うじて爪が届くだろうが、俺はすかさず元綱を短く持って、チビが自力で蔓をほどけないよう調節した。
そうしながら急いでトラバサミへ飛びつく。チビはなおも口の拘束を解こうと暴れ「ウウウ、ウウウ……!」とうなっているが少しだけの辛抱だ。
幸いにしてチビの脚を咥え込んだトラバサミは、かなり原始的で分かりやすい作りのものだった。円形のハサミの両脇に〝バネ〟と呼ばれる、折り曲げられた鉄の板が伸びているタイプのもので、こいつを両足で踏んでやれば歯を抉じ開けることができる。もっとも大人が全体重をかけて踏み込まなければびくともしない代物だから、動物が多少暴れたくらいでは偶然はずれるわけもないだろう。
俺は渾身の力でそのバネを踏み込むと、身を屈めてハサミに手をかけ、力づくで押し開いた。すると後肢に食い込んでいたギザギザの歯がずるりと抜けて、解放された竜がたたらを踏むように罠からまろび出る。チビが安全な距離まで離れたのを確かめてから、俺もサッと手を離し、バネの上から飛びのいた。
直後、バチン!!と寒気がするほど恐ろしい音を立て、再びハサミが口を閉じる。
あのハサミを開いた状態で放置するのがトラバサミの正しい使い方だから、閉じたままにしておけば他の生き物が罠にかかる心配もないだろう。
「ふう……とりあえず何とかなったか」
俺は緊張のあまり額から噴き出しつつあった汗を拭って、ようやくひと息つくことができた。が、握った蔓の先ではまだチビ助が逃げようと体をくねらせ、懸命にもがいている。そのあまりに必死な姿を見たら、痛ましさで胸が軋んだ。
あいつは今、とにかく怖くて怖くてたまらないんだ。
だから一刻も早くここを離れて、安全な場所へ逃げ込みたいと暴れている。
人がせっかく助けてやったのに、なんて事情は野生動物には関係ない。
罠を仕掛けたのも助けたのも人間の勝手なのだから、恩着せがましく〝少しくらい感謝しろ〟などと憤るのは、傲慢にもほどがあるというものだろう。
「よし、よし。もう大丈夫だぞ。怖かったな。悪かった。ちょっと待ってろ。今、口の縄をほどいてやるから……」
だから俺は少しでもチビ助を安心させようと、やさしい口調で声をかけながら手を伸ばした。本当は口を拘束しているうちに脚の傷も診てやりたかったが、そうしたところで今の俺はこいつに何もしてやれない。
止血も消毒も、道具がなければどうしようもないのだから当然だ。
ならばあとはこいつが持つ自然治癒力を信じて、野に放してやるしかない。
俺は己の無力を噛み締めながら、ごめんな、と呟き先綱を引っ張った。
途端にするりと結び目がほどけ、蔓はその役目を終える。
が、かくしてチビを送り出そうとした直後だった。直前までの暴れっぷりを見るに、こいつは自由になるや否や一目散に逃げ出すだろう──などという甘い予想が腕を引くタイミングを半瞬遅らせたのがまずかったらしい。
「いッ、づ……!?」
次の瞬間、銀の鬣を逆立たせ、怒りの咆吼を上げた白竜が、渾身の力でもって俺の右手人差し指に噛みついた。第一関節と第二関節の間に走った鋭い痛みに、俺は思わず腕を引っ込めかけたが、なかなかどうして、こいつもチビのくせに力が強い。なおもウウウウとうなったまま、食らいついて離そうとしないのだ。
ちょ、待て、やばいぞ──このままだと指を食い千切られる!
異世界で第二の人生を歩み始めてから体感約一時間、こんな早々に利き手の人差し指を失うなんてさすがにシャレになってない。ゆえに俺は痛みをこらえながら、左手で白竜の首を掴まえようとした。が、対する白竜も俺の反撃を察知したのか、すんでのところで指を放し素早く飛びのいていく。
「いってててて……おい、これ感染症とか大丈夫だろうな……!?」
と、やっとのことで痛みから解放された俺は、真っ赤に濡れた人差し指を見やって青ざめた。皮膚にはしっかり噛まれた痕が残っており、指の左右に六個ずつ、牙が突き刺さってできた小さな穴が開いている。野生動物相手に一瞬でも気を抜いた俺が悪いとは言え、こいつはずいぶん幸先が悪い。さっき泉で生水をがぶ飲みしてしまった件もあるし、右も左も分からない異世界で未知の感染症にかかったりしたら、竜族よりもまず先に俺の方が息絶える羽目になるだろう──
「キュウッ!?」
ところが指の傷を舐めるべきか舐めざるべきか葛藤中の俺の耳に、チビ助の短い悲鳴が届いた。刹那、何事かと顔を上げた俺の鼻先を、すさまじい風音を立てて何かが通りすぎていく。目にも留まらぬ速さとはまさにこのことだった。
かと思えば白竜が小さく羽ばたき、またしても背後へ飛びのく。何を避けたのかと目をやれば、直前までチビ助がいた地面にドスリと突き立ったのは──矢、だ。
弓道とかアーチェリーとか、昨今、地球ではそういう競技でしか見ない類の。
「見ろ、ハネつきだ! 逃げられる前に翼を射て!」
次いで聞こえたのはアゴログンドへ来て初めて耳にする人間の言葉だった。唖然として振り向けば、白竜が罠にかかっていた獣道の先に複数の人影が見える。
そいつらは手に手に弓を持ち、獣の毛皮で作ったと思しい衣服をまとって、眼光に殺意を滾らせていた。ああ、あれはまごうことなき人間だ。
だが、ようやく同族と出会えた喜びに声を上げる暇もなく──銀の尾を引く鏃が今度は俺の耳もとを掠め、血のように赤い森を、白竜の悲鳴が劈いた。




