王よ、さらば
俺の意識が飛んだのはたぶん二秒か三秒か、とにかくほんの短い時間だった。
確証はないが、そう思う。何故なら意識が戻ったとき、俺は全身が弛緩していたにもかかわらず、レクスの角を放していなかったからだ。
角を抱えるようにしながら押さえた布もまだ湿っている。
麻酔薬がほとんど気化してない。
ってことはほら、やっぱり、そう長い時間気を失ってたわけではなさそうだ。
「……レクス」
俺は覚醒したばかりの意識が揺れるのを感じながら、どうにか顔を上げてレクスを見た。そこには依然怒りに燃えたレクスの眼があって、万感の敵意を込めて俺を睨み据えている。牙の並んだ巨大な口から再び咆吼が吹きつけた。
──今度こそ息の根を止めてやる。
そう言われたような気がする。まあ、そりゃそうだ。俺だってあれやこれやと綺麗ごとを並べながら、結局やろうとしてるのはおまえを殺すことだしな。
許せないのは当然だ。だっておまえはこんなにも生きたがってる。
でも俺は一秒でも早く楽にしてやる以外に、おまえを苦しみから救う方法を見つけられなかった。しかも〝安楽死〟と呼ぶにはあまりにお粗末すぎる、こんな恐怖を与えるやり方で。
「……ごめん、な」
俺たちには時間が足りなかった。
お互いを分かり合う時間も、もっとうまいやり方を考える時間も。
せめてアゴログンドにも地球と同等の技術があればな。そうすれば俺だってきっともう少しうまくやれた。でも今はこれが俺たちの精一杯なんだ。ごめんな。
レクスの荒い呼吸が伝わってくる。苦しそうだ。
麻酔はまだ効かないのだろうか。俺も頭を打ったせいか、あるいはぶん回された拍子に麻酔を吸ってしまったのか、少し意識がくらくらする。
けどあと少し。あと少しなんだ。もう少しでレクスを眠らせてやれる。
が、唇を噛んでそう念じたのも束の間、俺の意思とは関係なく両足がわずかに床を離れた。あ、やばい。これはまたぶん回される──
「──ダメ!!」
ところが次の瞬間、レクスの頭ががくんと下がり、俺の足は再び石の床を踏み締めた。どうしたのかと驚き顔を上げれば、途端に飛び込んできた予想外の光景に息が止まる。イヴ。一体いつの間に檻内へ飛び込んできたのか。
とにかくそこにはイヴがいて、必死の形相でレクスの首に抱きついていた。
レクスも彼女の乱入は予想外だったようで、戸惑い混じりの威嚇の声を上げている。けれどもイヴは離れず、レクスの頭部から伸びる何本かの角状の突起──けれどもこちらは鱗に覆われている──を押さえ込むようにして、叫んだ。
「リュージ、レクス、たすけたい! だから、たべちゃダメ……!」
「……! い、イヴ、おまえ……」
「レクス、もう、こわくない……こわい、こわい、しなくていい。イヴたち、いっしょにいる。だから……おやすみ……!」
ああ、同じだ。
アリスター魔獣研究所で、ブルーの気持ちをラドニアに伝えたあのときと。
いつもは一歳児くらいの語彙しか持たないイヴが、たどたどしいながらも言葉を紡ぎ、何とかレクスの怒りを鎮めようとしている。
そして、どうやらその想いはレクスに通じた。何故ならイヴが首もとに顔をうずめた刹那、あんなにこわばっていたレクスの体からすうっと力が抜けたからだ。
「レクス」
俺は改めてレクスと見つめ合った。閉じかけた瞼の向こうの瞳は、もう激情に燃えてはいない。映っているのはただの静寂。やがてレクスの瞼が下りた。
最後まで残っていた筋肉の緊張も溶けてゆき、かつての王の巨体が静かに沈む。
「ラドニア!」
果たして麻酔が効いたのだろうか。俺はレクスが動かなくなったのを確かめるとすぐさま声を上げてラドニアを呼んだ。
檻の外で呆然としていたラドニアが、その声に打たれて我に返ったのが分かる。
ほどなく檻内へ駆けつけたラドニアは、左手でレクスの瞼を押し開け、右手の指先にパッと白い光をともした。恐らく竜術で光素を集めたのだろう。
そうしてともした白光をゆっくりと左右へ動かす。
次いでレクスの腹部へ移動すると、脇腹にぴたりと耳を当てた。
レクスの深い呼吸に合わせて、ラドニアの頭を乗せた腹部も大きく上下する。
「……腹式呼吸が始まった。対光反射も見られないし、無事麻酔が効いたみたい」
「ほんとか!? そいつはよかっ──」
「だけどリュージ、あなた無茶をしすぎよ! 危うく命を落とすところだったわ! さっき数秒意識を失ってたみたいだし、頭や骨を損傷してないかすぐに検査しないと……」
「あ、ああ、うん……し、心配させたのは悪かった。が、今のところはどこも痛まないから大丈夫だ。それより、まずは──ギゼル」
俺は眉を吊り上げたラドニアに詰め寄られ、しどろもどろになりながらも謝罪した。でもまだ若干頭がふわふわする以外は、本当にどこも痛くない。
だから今は、俺たちが最優先にすべきことをしよう。
俺は檻の外で待機していたギゼルを呼んだ。
あとのことは全部、こいつの竜狩人としての腕前に懸かっている。
「……本当にいいんだな?」
「ああ、頼む。──やってくれ」
覚悟を決めてそう答えたのち、俺はヘスペルに支えられ檻を出た。
檻内に残ったのはギゼルとラドニアのふたりのみ。
うちラドニアはレクスから少し離れて、処置が終わるのを見守るようだ。
ギゼルが鞘走る音がした。すらりと抜かれた刀身が、日当たりの悪い檻の中で生き物のようにちかりと光る。
ギゼルは眠るレクスの喉もとに佇み、その横顔をじっと見つめて、ほんの数瞬瞑目した。まるで祈りを捧げながら、低く轟くレクスの最期の呼吸を聞くように。
「……レクスは」
刹那、俺の傍らで呟くような声がした。見れば一緒にレクスの檻を出てきたイヴが、ヘスペルの真似をしているつもりなのか、はたまたこれから起こることに怯えているのか、俺の右腕をきつく抱いている。
「レクスは、もりに、かえりたかったの。かえりたかったの……」
俺は言葉を失った。
冷たい鉄格子の隙間からレクスを見つめて、イヴは涙を流している。
あまりにも透明な涙だった。
けれども俺が何か言葉をかけるよりも早く、檻の中で剣光が走る。
とても静かな終幕だった。レクスはもう暴れもしないし、鳴きもしない。
ただゆっくりと、着実に、呼吸が弱まっていくのが分かる。
……こうするしかなかった。
これが最も正しい選択だったと、理性がそう言っている。
なのに気づけば俺の頬も濡れていた。
王の最期だ。
レクスの厚い皮膚を裂き、喉もとの動脈を断ったギゼルの剣から、真っ赤な血が滴っていた。石の床にたちまち血溜まりが広がってゆく。
ギゼルも返り血を浴びたようだが、やつは顔色ひとつ変えなかった。
ただ無造作に剣を払い、鞘に戻して、頬についた血を拭っただけだ。
「これでいいのか?」
「ええ。この出血ならじきに失血死するでしょう。……おやすみなさい、レクス」
静かにそう囁いて、ラドニアが血溜まりに跪いた。
そうしてレクスの王冠を抱き、鼻先に顔をうずめる。
死はゆるやかに、ゆるやかに、レクスの全身を覆っていった。
救えなかった命との別れは、どれほど歳を重ねても、やっぱりつらい。




