第一章 3 2人のさくら
「葉山さん。葉山さん」
「うぁい」
昼食が終わって本日最後の6時限目。5時限目は耐えぬいた小人もとうとう限界になってきた様子である。
日本史の教師に呼ばれ隣の小人が跳ね起きる。「寝ないで起きてくださいね」などと言われて頭をコクコクと上下に大きく動かし、目をぱちくりしては、ぼーっとして数秒後に目が線になり、すぐに船を漕ぎ始めている。あぁ、駄目だなこれはと小さくため息をつく。
さてさて、今回は趣向を変えて日本史担当教師に対し敬意を込めて話させていただきます。
神崎豊教師。御年63歳。普段から字が『睡眠導入剤』や『百戦錬磨の老兵』と呼ばれ慕われております。一部の生徒には大変好評です。
特徴を申しますと非常にゆったりとお話されます。そして小さくも大きくもないちょうどよい声で静かにお話になられます。非常に聞きやすく一音一音はっきりとしています。そして耳にすんなりと入り頭にゆっくりじんわりと浸透していきます。その結果どういう事になりましょうか。
辺りは静寂に包まれ、まるで時が止まったかのようにゆったりと時間が流れていきます。教師の足取りもゆっくりと淡々となさっておられるものですから、生徒達は静けさを保ったままです。そして、この昼食後の満腹感も相まって・・・一人、また一人と生徒達を夢の中へと誘ってしまわれるのでございます。どんな兵の生徒も神崎教師の優しい言葉遣いに含まれる魔力によって、やはり、一人また一人と首を垂れて静かになり、やがては同様に眠りの中へと迷い込んでしまいます。
とまぁ、これが神崎教師の解説である。
昼の威勢はどこへやったのか、今やノックアウト寸前のボクサーのようにふらふらして今すぐにでも落ちそうになっている。始めの内は俺も声をかけて起こしてやってはいたが、今はもうやめて授業に集中する事にした。さっさと寝てしまえ。そうすればこっちは静かに受けられるのにと思っていると、神崎教師は普段うるさいこいつを狙いすましたかのように何度か注意をして起こしている。授業妨害もいいところだ。小人の割には存在感があるようでこういう時でも俺の邪魔をしてくれる厄介なものである。
さて、日本史というのは暗記するものと思っている人が多いだろうが、これは半分正解で半分不正解だと言っておこう。確かにテストで良い点数を取ろうとするならば、テスト範囲内を丸暗記してしまえば良い事なので覚えてしまえば楽だろう。しかし、知識として蓄えるに関してはただ暗記するだけでは足りず、何故その事実が起きたのかという点を理解し覚えなければ全くの無駄になってしまう。そして、ただ覚えるだけという行為は、特に文系をつまらなくしてしまう一因になっているのではないだろうか。
ここに宮地家の家訓の一つに『文武両道』とある。これは勉学に対しても運動に関しても両方を極めるとまではいかなくとも研鑽していきなさいとの教えである。
父、春はそれを実践し武では柔道県大会出場を果たし、文では現在の職業であるシステムエンジニアの第一線を任されているらしいと母から聞いている。また、叔父は剣道師範と茶道を人生の共とし現在も活躍しているとの事だ。
では宮地さくらはどうかというと、平々凡々。文武共に平均以上ではあるが秀でている程ではない。あと一歩努力をすれば更なる高みに登れると父は言うが本人はそうはせず、ただ静かな日常を暮らせればよしとしている。
また、宮地家のしきたりにもう一つ特徴としてあるのが何を隠そう名前である。男児「春冬・草木名付けし」女児「夏秋・山川名付けし」とされていて、男である宮地桜には「春」と桜の「木」の意を付けられたのである。さらに誕生日は3月3日であり男とは真反対の行事ひな祭りに産まれたとあってか、自分の名前に思うところがあるのも無理はないだろう。宮地家としても意味を持って付けているのだが宮地桜当人は忘れてしまったようである。
そして、桜に因んだものとして桜山高等学校に在学中との事に加え自身の席からすぐ見られる校門前の立派な桜の木、幼馴染の葉山さくらとまさに桜づくしの為、一層自分の名前を好きになれなくなってしまった。
幼馴染に関してはどうなのか。幼い頃から寝食を共にする事が多かったと聞かされその当時から仲が良かったのよとは母の談である。
自分としても仲が悪いとは思わないし良好であろうとは第三者から見てもそうだろうと思う。だからこそ距離感には気を使っているのだ。いくら幼馴染で仲が良いといっても男女である。自分は一歩、二歩線を引いた形で歩んでいるつもりでもさくら、こほん。小人がどうしてもついてくるので常にゼロ距離なのである。母が冗談混じりに孫が早く見たいわねぇなどと言っていたがこちらとしては冗談でもそんな事を言われたくないものだ。決してそういう関係ではないのだ。当人の気持ちを無視されてたまるものか。当人。そう小人はどう思っているのだろうか。昔と一緒でただ楽しいと感じているだけでここまでついてこれるものだろうか・・・。
ただ楽しかったあの頃。今のように悩むこともなく。後ろを見ることもなく前だけを向いていた日々。
小さなせせらぎも大海原のように見えた大きな世界。
空を見上げればどこまでも青く、どこかに吸い込まれそうになって怖かった思い出。
幼い頃の記憶がぷかぷかと風船のように浮かんでくる。
夕日。大きな公園。小さな2人。2人だけの世界。
泣き声。聞きなれた女の子の声。
前を向き手を離さないようにと。
握った手は小さい自分の手よりももっと小さく。
男の子の声が2人のいる世界にこだまする。
『泣くなって。ぼくがいるから。だいじょうぶだ。げんきだせ』
男の子の声が頭の中で響いている。だいじょうぶだ。だいじょうぶだ・・・。
・・・だいじょうぶだ。・・・だいじょうぶ、大丈夫ですか。男の声がふと老齢の声に変わる。
「大丈夫ですか。葉山さん、葉山さん。もう・・・仕方がないですね」
まどろみの中の風船が弾けて頭が覚醒する。
あまりにも長い時間熟考していたからか神崎教師の接近に気付けなかった。もしかしたら、いつの間にか自分も夢の中に入っていたのかもしれない。寝ていた自覚がないが、夢を見ていた気がする。白昼夢だろうか。数分の事か数秒の事かそれすらも分からない。ただ懐かしい。そんな記憶。
まずいな、授業に集中しないといけないと思い直し、小人に目を配ってみる。相変わらず夢を見ているのか、小さな寝息が聞こえてくる。どうしようもない奴だ。でも・・・でもなんだろう。何を言いかけたのか。まだ寝ぼけているのか自分は・・・。どうも自分らしくないな。
完全に机と同化していてる小人に神崎教師も諦めてしまったようだ。『百戦錬磨の老兵』は伊達じゃない。生徒を夢の彼方へと送り見届け壇上に戻っていくその背中にはどこか哀愁を感じる。
視界に見える窓の外では日が傾き始め、教室がオレンジ色に染まりつつある。
周りを見れば過半数以上が撃沈している。そんな中、自分だけでも神崎教師に応えるべく身を引き締め授業に取り組むことにした。