第一章 2 2人のさくら
生徒達にとっての授業という地獄が目下開催中。
そんな中、隣人はうんうんと唸りながらも何とか板書をし、チラチラと黒板の上に掛けられている時計を見てはまだかまだか、と思っているのだろう。目をぐるぐる回し頭を上下に揺らし奇怪な行動をする隣人。見方を変えればもしかしたらロックバンドでノリノリになった客に見えるかもしれない。
授業は4時限目、残り5分弱。これが終われば待ちに待った昼食時間。隣人曰く、学校生活の中で特に楽しい時間だそうだ。俺はガヤガヤと騒々しい状況よりも静かな授業の方が好きだと言ったら、まるで変態を見るような目をしてきた事を思い出す。ここに遺憾の意を表したい。断じてそのような事はないと。俺にとっては授業というのは知識を蓄える絶好の場である。得意分野は文系ではあるが、理系も決して悪くはない。隣人が楽観主義で快楽主義の勉強嫌いなだけで、自分は変態ではないのだとここに宣言しておきたい。
いよいよ授業終了残り3分という所で数学の教師、石和は、申し合わせたかのようにチョークを鳴らし黒板には数字の羅列が増え並んでいく。1年生の間で囁かれている通称『高速の石和』である。授業終了間際に一気にスピードを上げ宿題というプレゼントをくれるのだ。生徒達による質問タイム(妨害工作)は事前に練られていたが空腹の為かその余力もなく実行不可となってしまい急増していく数字達に辟易としている。
各々の生徒たちの行動はというと、板書をしながら問題を解き宿題を授業中に終わらせようと必死になる者。とにかく問題を写すのに必死な者。教師に宣戦布告なのかもはや諦めたのか、全く手を動かさず放棄する者。隣人のようにもはや廃人と化したのか魂が抜け真っ白になっている者。そして、それを楽しみつつも、せっせと問題を解く者。様々である。
残り1分。黒板の隅々まで埋め尽くさんと『高速の石和』は更に加速しラストスパートをかける。生徒達は必死に食らいつく。その姿はさながらマラソンかレースか。魔の峠に差し掛かり、教師と生徒は汗をかきつつお互いに健闘しているものの、惜しくも脱落し膝を落とす生徒が続出。ゴールテープは目前という場面でのリタイアは非常に無念であろう。長く苦しくもその先のゴールを目指し双方が死力を尽くし戦っている。険しい地獄の上り坂の上には爛々《らんらん》と煌びやかに映る、純白のゴールテープ。そのテープを切るために全力で取り組む姿、これこそが生徒の本質であり本懐ではなかろうか。
そして、ついにその時がやってきた。
授業終了の合図。校内放送のチャイムが鳴ると同時に黒板は全て数字で埋め尽くされ、石和の手が最後のチョークの音をカカッと鳴らし止まった。ゴールである。戦友達はお互いを称え励まし合い、肩を抱いて泣いている者すらいる。有終の美である。
「では、ここまでを宿題とします。お疲れ様」
そう締めくくり授業は終了し、石和は退室していった。
「あ~、もう無理だよ。こんなの、やってられませんよ。まったく」
真っ白だった廃人、いや隣人は色を取り戻して、そう呟いた。一応は戦友だ。多少の労いはしてやろうかと思い声をかける。
「おつかれさん。今日はいつもよりは粘ったんじゃないか」
「うん、頑張ったんだよ。頑張ったんだけど、でもあの先生には勝てないね。」
いつもの笑顔に覇気がなく、机に突っ伏して苦笑している。
「まぁ、飯だ。食って元気になれ」
「うん。そうだね。今日は~何かな~」
そう言うとさっさと勉強道具をしまっては、弁当が入っている袋を取り出そうとカバンに手をかけている。鼻歌まで聞こえてきた。いつもの事ではあるが切り替えが早く見ていて飽きないが、ここは先手を打っておかねば後々こいつの為にはならないだろう。
「宿題は自分でやっておけよ。俺は写させないからな」
ピタリと手を止めて、こちらに顔を向ける。弁当箱を開く直前で時間が停止したようだ。
「桜君は優しい優しい人ですよね」
パカリ、と自分の弁当箱を開ける。
「おっ、今日は野菜メインの和食料理か」
「幼馴染は野菜ではなくてですね。隣人のさくらですよ」
「この人参がまた美味い」
「そうだね。桜君のお母さんは和食料理が得意だもんね。でも私の話を聞いてほしいなぁと」
「悪いが助け舟は出さんぞ。自分で努力をして勝利を掴むがいい。他力本願になっては将来が心配だ。観念しろ」
「そこを何とか。お百姓様。お代官様。御屋形様。お助けください。本日のお召し物は一際豪勢であります」
と、ずずいと出されるは、ふむなるほど、豚カツのようだ。
「桜君のお母さんと違って家のお母さんは洋食が得意だからね。なかなか食べられないでしょう?お一ついかがですか。旦那様」
旦那様ときたか・・・。それは。さておき確かに自分の家は和食が主体。それに反し隣人は洋食料理が主体である。自分の母は料理本を出すほどの料理研究家で味は保証済み。しかし、和食主体のためなかなか洋食が出ないのは頂けない。豚カツが洋食か和食かと問うたら和食な気がするが、まず家では出ないだろう。揚げ物はてんぷらか、良くて鶏のから揚げ、これも滅多に出ない。交換条件としては悪くないが、もう一声欲しいところだ。
チラリと弁当の中身を見る。豚カツ、ポテトサラダ、玉子焼き、ミニハンバーグに鶏のから揚げ。お子様であるこいつにとっての大好物ばかりの品々。肉類が多いようなのでここは少し頂戴するのもよきかなよきかななどと算段し始めている自分がいる。圧倒的に俺には肉が足らん。許せ。
そこへ弁当箱の蓋の上に豚カツが投入されつつある。どうやら敵国はこの戦争の終結を早めるべく勝負を仕掛けてきたのか。何やら苦渋の選択を強いられている。これを暗黙の了解で受け取ってしまえば協定を締結したと見なされ、戦況が不利にならないだろうか。戦争や国交貿易はカードが多いほうが勝ちである。まずは条件を出し相手の出方を見るのが一番だ。先手を取られては対価を要求され、こちらの価値が下がってしまわないか。後手はだめだ、こちらが有利なのは明白。価格レートはこちらの方が上のはずだ。
「さくらさんお待ちなさい」
こちらの『名前』呼びを聞き、ピタリと豚カツが机と机の間で停止する。若干、喜んでいる様子にすでに負けたような気がして嫌になってきたが構わない交渉開始だ。
「宿題の対価に豚カツ1切れとは安くないですかね」
つり上げ交渉だ。さあどうする。
「あれ、桜君。私は豚カツを箸に掴んだだけだよ」
宙に浮いていた自分の豚カツを弁当箱へ―
と思い気やパクリ。小さな口に似合わない1切れの豚カツを口に頬張りもぐもぐと咀嚼し味わっている。時間が経ってもなおもサクサクと小気味いい音色が響き、口の中ではジューシーな肉汁と衣が合わさっているのだろうか。想像してしまい生唾を飲み込んでしまう。
そして、十分に味って飲み込み一言。
「うん。美味しいなぁ。お母さんが作ってくれた豚カツは」
一連の流れを見入ってからしまった。これは失策だと気づく。そのまま待っていればタダで手に入ったかもしれない、いわば献上品を見す見す逃す羽目になったのではないか。後悔の念がつきまとっている中、敵国は追撃の手を緩めない、箸は次にミニハンバーグをとらえ小さな口へ運ばれようとしている。なんたる不覚、兵糧があるのに兵糧攻めをくらっている錯覚に陥る。
「うあ・・・」
などと小さく喘ぐ始末である。
「どうしたの。桜君、お弁当食べないの?」
それとも私のお弁当を食べてみたいの、と囁いている。これは相手国も賭けなのだ。自国のカードをあえて減らし、こちらに飢餓感を与え欲求不満に貶める諸刃の剣。目の前で無くなっていく次々の料理たち。食欲はさらに増していき、自国の料理が目に映り洋食と比べ質素に見えてしまう和食。隣の芝生は青く見えるとはよく言ったもので脳裏には何故か『敗北』の二文字が浮かんでいる。
「っく・・・」
苦虫を潰したような顔をしているに違いない。両国との関係性を比べてはいけなかったのだ。何故ならば相手は何も恐れていないのである。交渉するにあたって一番恐ろしいのは戦う相手が、恐怖を物ともしないのである。そう、敵は『宿題』を恐れていない。それどころか、すでに『放棄』しているのである。
「桜君、食べる?」
弱ってきた相手に甘言を呟く。
「自分のお弁当」
そして、落とす。悪魔か。こいつは悪魔なのだろうか。俺に堕落せよと有無を言わさない悪魔なのだろうか。
「さ・・・」
さ、俺は一体何を口走ろうとしているんだ。
「・・さ・・・く」
駄目だ。それ以上言ってはならない。その言葉を口にしてはいけない。敗北してはいけない。理性を保てと、警鐘を鳴らしている。
「さ・・・く、ら」
口が勝手に動く。食欲という暴走を止めることができない。さらに追撃がやってくる。
「どうしたの?桜君。何か言いたいことがあるのなら聞くよ。桜君と違って私はちゃんとお話を聞くよ。言ってみて」
あぁ・・・ままよ。
「さくらさん。お一つ頂けないでしょうか」
「それじゃあ、宿題をお願いね」
残っていた豚カツが蓋の上に載せられ、すぐさま口に運ぶ。本日3回目の名前を呼んでしまった。宮地さくら、完全敗北である。
「でも意地が悪いよね。桜君も。私はもっと食事を楽しんでいたかったのにね。どうして素直じゃないのかなぁ」
「十分楽しんでいたじゃないか」
「あははは、バレてましたか」
バツの悪そうに舌を出す。それを見てはフン、と負け惜しみに鼻を鳴らす。
「ごめんね、桜君。お詫びに鶏のから揚げが参りまーす」
子供のように拗ねている俺の目の前にから揚げが鎮座している。結果的には久々の料理に喜びはしたものの、素直に喜べないのもまた事実。それに、
「お前のおかずが減っただろ。こっちの煮物でも食っとけ」
「いいの?桜君。ありがとう」
ひょいと芋の煮物を摘まんでは口に運んでいった。素直にありがとうと言われてどうも調子が狂う。普段子供のように無邪気で俺をおもちゃにして楽しんでいる癖に、こう素直になられると正直ずるい。
「やっぱり。お前はバカだ」
「なんですかぁーいきなりー」
笑いながらじゃれてくる隣人。こうでも言わないとこちらの身が持たないのである。自分の周りを少しは見てみろ。ニヤニヤと笑われているじゃないか。騒々しい昼食の時間は嫌いだ。いつも隣にいるこいつも嫌いだ。
そして、そう思う子供の自分もやっぱり嫌いだった。