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巡り愛  作者: 心ノ音
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海風の香り

 カーテンの隙間から差し込む朝陽が閉じた瞼の隙間から差し込む。仮眠室と違って朝陽が降り注ぐこの部屋で、ありさは自然と目を覚ます。念のためとセットしたアラーム音が鳴るのを聞くことはほとんどなくなった。いつもと同じ朝の始まりが唯一いつもと違うのは、開いた瞼の先に広がる景色。いつも見ている部屋の景色を遮るように、愛しい人の寝顔が視界いっぱいに広がる。男性にしては長いまつ毛が朝陽に照らされてキラキラと光る。短く切りそろえたもみあげも、高くて筋の通った鼻も、うすく開いた無防備な唇も、全てが愛しい。今この瞬間この愛しい寝顔を見ているのは地球上で自分だけだということが、何事にも代えられないかけがえのない時間。このままずっと、この時間が続いてほしいと願う。小さなベッドで肩を寄せ合い眠る休日がこんなにも幸せだなんて知らなかった。涼介とのお泊りはいつも、早起きが得意なありさが先に起き、こうして涼介の寝顔を見つめる。たまには自分の方が早く起きてありさの寝顔を見たいと言う涼介だが、未だかつてそれが叶ったことはない。アラームを五分おきにセットしても完全に起床するまでに一時間近く要する涼介が、普段どうやって起きているのか不思議に思いながら、アラームと格闘する姿もまた愛しく、いつまでの見ていたいと思う。

 涼介が一回目のアラームを止めようと枕元のスマホを手に取る。いつもならアラームを止めてまた夢の中に戻っていくが、今日はどうやら違うらしい。ありさの方に顔を向けた涼介がぱっちりと目を開け、ありさに満面の笑みを見せた。

「おはよう、ありさ。」

 再び布団をかぶってしまうと思っていたありさは、不意を突かれ一瞬キョトンとしてしまう。

「お、おはよう。今日は早いね?」

「うん。だって今日はお出かけだからね。」

 朝陽に照らされた笑顔があまりに眩しくて、ありさの胸がきゅんと音を立てるような気がした。まるで遠足前の子どものように胸を弾ませている涼介の姿が愛しくて、ありさは涼介の体に腕を回しその胸板に顔をうずめた。

「ん?どうしたの?」

 そう言いながら涼介がありさの頭をなでる。大好きな人の香りを胸いっぱいに吸い込みながらありさは幸せとはこういうものかと実感していた。頭をなでていた涼介の手がありさの頬を包み込む。涼介の顔が近づいてくるのを感じて、ありさは目を閉じた。朝の柔らかな日差しの中、二人の唇が重なる。お互いの唇を重ね合い、その手が頬から胸へとなでるように優しくありさを包み込む。心地よい火照りが体を包み、いつしか涼介の体がありさを覆い始める。その先の訪れる快楽に溺れるように、ありさは目を閉じて全身でその愛しい温もりを感じた。

 裸のまま抱き合う二人に窓から差し込む光がだんだんと温度を上げる。結局、二人がベッドから出たのは元々の起床予定時間から二時間近く後のことだった。散らばった下着を集めながら、離れがたい衝動に駆られては唇を重ねる。お互いの存在を確かめ合うように、見つめ合い、触れ合う。下着を履いた涼介が洗面所に向かう間もありさは追いかけるようについて行っては、その細い腰に腕を回す。ありさが朝食の準備を始めると、涼介もまた片時も離れまいとありさに触れる。普段なら慌ただしく過ぎる朝の時間が、二人でいればこんなにも穏やかに時間が流れていく。ようやく朝食を食べ終え、出かける支度が整う頃には太陽はすっかり天高く昇っていた。バスで涼介の家に向かい、涼介の車に乗り換えて目的の場所へと向かう。汗が滴るほどの残暑に照らされたバス停までの足取りも自然と軽くなる。

 看護助手時代に自動車免許を取得したが、ありさは車を持っていない。職場まで徒歩で通うことができて、近所には手頃なスーパーがあるため生活に困ることはない。アパートの近くにはバス停も駅もあるため遠出する際も便利だ。真由美が生きている時は、公共交通機関に乏しい場所に住んでいたこともあり、小さな軽自動車を二人で所有していた。しかし真由美が死んで、ありさは就職を機に今のアパートに引っ越した際、車を手放すことにした。一方涼介は一人暮らしを始めた際に購入した車だったが、職場の小学校までは徒歩で通える距離にあるため、普段通勤に車を使うことはない。通学中の小学生と挨拶を交わしながら通勤するのが涼介の毎朝の楽しみだ。職場から直接ありさの家に向かう際もバスで移動できるため、こうして二人で出かける時くらいしか車を運転することはない。

「こうやってちゃんと出かけるの久しぶりだね。」

「うん。前に出かけたのは神社のお祭りだったかな?」

 繋いだ手を揺らしながらバス停へと向かう。ジーパンに、空の色をそのまま映したような水色のポロシャツを合わせたシンプルな格好が涼介の爽やかさをより一層引き立てる。ありさは、最近買ったカーキ色のロング丈ワンピースに白いカーディガンを羽織った。頭にはお揃いのキャップを被り、並んで歩く道のり。高い建物がないため日陰が少なく、普段ならうっとしく思う道のりも道路も揺らす蜃気楼も、今日は気にならない。目に映る景色の全てが自分達を優しく見守っていてくれているような気にさえなるのだから、恋とはなんと偉大なものだろう。風がありさのワンピースの裾を揺らす。

 

 真っ青な空のキャンパスに飛行機雲を描きながら、飛行機が通り過ぎていく。一面に広がったひまわり畑を前に、ありさは思わず感嘆する。どこまでも終わりなく続く黄色い絨毯が二人の前に広がる。土曜日ということもあり、家族連れやカップルで賑わっていたが、皆一様にその美しい景色に感銘を受けているようだ。

「きれい…」

 ありさは両手を広げ胸いっぱいに空気を吸い込む。むわっと温かい空気と一緒に、土の匂いが鼻の奥に広がる。

「自然の匂いがするね。」

 ありさの仕草を真似るように涼介もまた両手を広げ深呼吸する。

「ホント。夏の匂いだね。」

 ひまわり畑の中に作られた細い道を手を繋いで歩く。背の高いひまわりに囲まれると、ありさの姿はほとんど隠れてしまう。背の高い涼介は、ちょうど顔の位置にその大輪が並ぶ。小さな子どもや女性のほとんどは姿が隠れてしまうため気付かなかったが、外から見る以上にひまわり畑の中には大勢の人がいた。途中、小さな女の子を連れた家族に写真撮影を頼まれた。三歳くらいの女の子は父親に抱きかかえられ、自分の顔より大きな大輪の花にきゃっきゃと声を上げている。見ると、母親はお腹が大きく臨月に近いのかもしれない。絵に書いたような幸せな家族を、涼介がカメラのフィルターに収める。

「いきますよー、はいチーズ!」

 涼介の定番の掛け声に幸せな家族の笑顔が弾ける。立派なカメラにはこれからもきっとこうして家族の思い出が納められていくのだろう。

「あの、良かったらお二人も写真撮りますよ?」

 カメラを受け取りながら父親が涼介に声をかける。親切な提案を受け、ありさと涼介も二人で写真を撮ってもらうことにした。涼介のスマホを渡し、二人でひまわりをバックに写真を撮ってもらう。立派なカメラはないけれど、スマホには二人の思い出が増えていく。スマホを受け取りながら、涼介が母親に声をかける。

「お子さんいつ生まれるんですか?」

「一か月後が予定日なんです。」

「楽しみですね!」

 仕事柄、人と接することも多く、コミュニケーション能力に長けている涼介は小さい子どもから高齢者まですぐに仲良くなる。

「お名前は?」

 今度はしゃがみこんで女の子に話しかけている。ピンク色のワンピースに麦わら帽子を被った女の子は、父親の膝の裏に身を隠しながらも涼介に興味を持っているらしく、恐る恐る顔を覗かせている。

「はなちゃん」

 小さな声で女の子が呟くように名前を教えてくれる。

「はなちゃんかー。かわいい名前だね。」

 涼介の笑顔に警戒心を解いたのか、はなちゃんと名乗った女の子は笑顔を見せた。涼介は本当に、人の心を掴むのが上手い。毎日小学生達の相手をしながら、同僚の先生達や保護者とも接しているからだろう。一方ありさも、看護師は人と接することが多い仕事だ。患者さんはもちろん、その家族や一緒に働く医療従事者など毎日多くの人と関わっている。涼介はもちろん、ありさも子どもが好きだ。

「可愛かったね。」

 別れ際、無邪気に手を振ってひまわり畑を駆けていくはなちゃんの後ろ姿を見送りながら、ありさが呟く。子どもの笑顔は純粋で、見ているとそれだけで心が温かくなる。人間の醜い感情とか汚れた部分を知らないその心は、湧き出たばかりの清流のように清く澄んでいる。

「うん。子どもって良いよなー。」

 涼介の優しい笑顔を見るとホッとする。子どもと変わらないくらい澄んだ心を持ち合わせているようで、付き合って一年になろうとしているがありさが涼介に対してイラ立ちや怒りを覚えたことはいまだかつて一度もない。


 好きな人と過ごす時間はいつだって驚くくらいあっという間だ。ひまわり畑を満喫した二人は、近くの古民家カフェに向かった。

 照りつける太陽の陽射しが外の気温をぐんぐんと上昇させている。最近流行りの古民家カフェは、昔ながらの古い建物や家屋をカフェとして利用したもので、そのレトロな雰囲気がSNS映えすると人気らしい。店内に入ると、冷やされた空気が汗ばんだ体を包み込み、肌に心地良い。人気の古民家カフェとあって、ランチタイムも活況を迎えた店内は若い女性客やカップルで溢れていた。流行りのSNSに載せようと、女の子達はみんな写真を撮ろうとスマホを握りしめている。ありさ達の前には二組の客が待合室の椅子に並んでいる。普段なら行列や混んでいるお店で並んで食事をするこてはほとんどないありさだが、涼介となら行列に並ぶ時間も全く苦にならない。待合室の椅子に腰かけ、二人でメニュー表を開く。女の子達が揃って写真を撮りたくなるのも納得のお洒落なランチメニューが並んでいる。十四時からのカフェタイムにはケーキセットもあるらしい。メニュー表の隅々まで目を通しながら、涼介が何を食べようかと迷っている。こういう時、だいたいいつもありさの方が先に注文を決める。ありさは直感で食べたいものを即決するタイプだが、意外にも優柔不断なところがある涼介はいつもメニュー表を何往復もしながら迷って決める。涼介が注文を決めるまでの時間、ありさは涼介の顔を眺めている。真剣にメニュー表とにらめっこする顔がまた可愛いらしく、夢中で見るあまりありさの視線にも気付くことなく無防備な表情を見せる。よくカップルや夫婦でどちらかが優柔不断だと待つ方はイライラすると聞く。そういえば、職場の後輩の愛莉も、自分が優柔不断だから彼氏の方がいつもイライラしていると言っていた。しかし、ありさは涼介の決断を待つ時間にイライラを感じたことなど一度もない。

 待ち時間の後、二人は窓際のソファ席に案内された。ありさはカルボナーラパスタを、涼介は迷った末にロコモコプレートを注文した。ランチセットには食後のデザートとコーヒーもついていて値段も手頃だ。料理が届くまでの時間に、この後の計画を立てる。目的のひまわり畑と古民家カフェを達成し、特にこの後の展開について考えていなかった。元々計画的な性格ではない二人だから、いつもこうしてその場のノリや気分で目的地を決めるデートがほとんどだ。ランチタイムで混み合う店内には、先ほどのひまわり畑でも見たカップルや家族連れがちらほら目に入る。どちらもSNSで話題のスポットで場所も近いためひまわり畑からこのカフェにやって来る人が多いのも納得だ。


海に反射した太陽の光が、寄せては返す白い波をキラキラと輝かせる。海水浴の季節は終わったが、砂浜には手を繋いで歩くカップルやはしゃぐ子ども達の姿がある。

 古民家カフェでのランチを終えたありさと涼介は海沿いの道をドライブし、途中の砂浜で車を停めた。もうすぐ今日が終わる。あっという間の週末が終わり、明日からまた新しい一週間が始まる。看護師のありさはシフト制のため曜日に関係なく休みがあるが、小学校教諭の涼介にとって休みは土日祝日のみだ。学校行事やテストの前にはその休日すらも返上される。涼介は小学生の頃、学校が夏休みの間は先生達も休んでいるものと思っていた。しかし、夏休みの職員室にはいつもと変わらず先生達の姿があった。もちろん子ども達が長期休みの間も職員は変わらず出勤し、仕事をしている。授業がない分いくらか時間に余裕はあるが、学校行事の準備や校内の壊れた備品の修理や掃除など、仕事は尽きる事なくある。

「涼介はどうして学校の先生になろうと思ったの?」

 砂浜から少し離れた階段に二人で並んで腰を下ろす。よく見るとコンクリートの階段に黒く水跡が残っている。砂浜に寄せる波も満潮時にはこの階段あたりまで水位をあげるのだろう。はしゃぐ子ども達の声を聴きながらありさが涼介の顔を覗き込む。

「ん?どうしたの、急に?」

「なんとなく、ちゃんと聞いたことなかったなーと思って。」

 そう言われてみればお互いになぜ今の仕事を選んだのか、きちんと話したことはなかった気がしてくる。ありさの場合は母親も看護師だったと言っていたから、その影響だろうと涼介はなんとなく思っていた。 

 涼介が教師を目指したのは小学校六年生の時だった。その頃はまだ具体的な将来の夢もなく、未来の自分を想像したことすらなかった。小学校六年生の秋、涼介は鉄棒から落ちて腕を骨折した。手術のため学校を休み入院することになった。夏休みが明けて間もない頃で、当時は秋に開催する学校がほとんどだった運動会に向けての練習が始まったばかりだった。小学校最期の運動会が見学になり、入院生活で授業にも出ることの出来ない涼介の元に、毎日授業のプリントを持って見舞いに来てくれたのが当時の担任だった北村先生だった。まだ若い新米の男性教師で、休み時間には生徒と一緒に外で遊んでくれる生徒からも大人気の先生だった。北村先生は毎日放課後の時間に病室にやってきては、授業の内容や学校で起きた面白い話を聞かせてくれた。おかげで涼介は入院中も授業の内容を勉強することができて、退院後スムーズに授業に戻ることができた。涼介が小学校を卒業した春、北村先生も異動で他の学校に行ってしまったため、卒業以来一度も北村先生には会っていない。しかし涼介は今まで北村先生のことを忘れたことはないかった。北村先生みたいな、生徒一人一人に寄り添える教師になりたいと思ったのが始まりだった。学生時代、たくさんの教師と関わってきた。お世話になった先生や印象的な先生も少なくはないが、涼介に学校の先生を目指すきっかけをくれたのは間違いなく北村先生だろう。そして実際教師になった今、北村先生が涼介にしてくれたことがいかに難しく大変なことか分かる。毎日業務に追われ残業も多い毎日の中で、一人の生徒のために毎日夕方の貴重な時間を見舞いに使うなんてなかなか出来ることではない。特にあの頃は教師が部活道の顧問まで請け負っていた。放課後は担当する部活の監督をしてから、その日の業務までこなしていたはずだ。そのうえ涼介がけがしたのは運動会前の忙しい時期だった。北村先生は涼介の病室を訪問した分、残業していただろう。部活動を学外クラブ化し、外部コーチに監督を依頼できるようになった現代、教師の仕事はかなり軽減された。

 卒業文集の将来の夢を書く欄に涼介は「学校の先生」と書いた。両親曰く、涼介は小さい頃から妹の明里の世話をしたがる子どもだった。小学生になってからも近所の小さい子どもの世話をするのが好きで、公園でも人気者だったらしい。涼介が学校の先生のなりたいと言い出した時、一瞬だけ見せた両親の戸惑った顔を涼介は覚えている。でも、すぐに二人とも笑って応援すると言ってくれた。今なら、両親のあの表情に隠された意図がなんとなく分かる。

 涼介の父親、結城輝明は結城ホテルグループの代表取締役、つまり社長だ。結城グループは日本国内にホテルを経営している国内有数のホテル会社だ。涼介の祖父のあたる先代が一代で築きあげた、資産数十億とも言われる大会社の息子として涼介は育った。自宅は高級住宅街の一角に建つ三階建ての豪邸で、いわゆるお金持ちだ。元々、大道寺病院という大病院の次男だった輝明は医者を目指し医大に入学した。しかし、血や内臓を見ることに耐えきれず医大を中退し、医者になる道を断念した。大道寺病院は輝明の兄が後継者となり、次男の輝明は結城グループの一人娘である涼介の母、結城清美と政略結婚することとなった。婿養子として結城家に入った輝明はホテルマンとして一からホテルの仕事を学んだ後、先代の跡を継いで代表取締役に就任した。輝明と清美の間に生まれたのが長男の涼介と妹の明里だ。つまり、普通に考えれば涼介は三代目として輝明の跡を継ぎ、結城グループの後継者となるはずだった。そんな息子が学校の先生になりたいと言い出したのだから、両親が戸惑いを見せたのにも納得だ。しかし、当時まだ小学生だった涼介の言うことを両親は子どもの夢として聞き受けてくてたのかもしれない、きっと成長して自分の立場が分かるようになるまでのことと思っていたのだろう。しかし涼介の夢が変わることはなかった。もちろん高校生になる頃には自分の立場も進むべき道を理解していた。それでも、学校の先生になりたいという夢を諦めることは出来なかった。涼介が教育学部のある大学に進学したいと言った時、さすがの両親も反対した。いわゆる家族会議が開かれ、両親は必死に涼介を説得しようとした。そんな中、涼介を救ったのは妹の明里だった。

「私がホテルを継ぐ。お母さんみたいにお婿さんもらって、後継者になる。」

 当時中学生だった明里がそんなことを考えていたなんて、涼介はもちろん両親をも驚かせた。

「明里、本気なの?」

 母親の問いに明里は力強くうなずいた。

「本気だよ。だから、お兄ちゃんには自分の夢叶えさせてあげて。」

 まだ子どもだと思っていた妹が自分の夢を応援し、そのために自分が後継者になると宣言する姿に、涼介は思わず涙ぐんでいた。それからしばらく家族会議は続いたが、結果として涼介は教育学部に進むことを許された。

 そして今、こうして涼介は小学校教諭として働いている。妹の明里は大学生になった。私立大学の経済学部に通いながら、休日は結城グループが経営するホテルでバイトしながらホテルのことを学んでいる。もちろん、明里が結城グループの跡継ぎ候補であることは他スタッフには知られていない。あくまで大学生のアルバイトとして清掃や、ホテル内のレストランで皿洗いなど裏方仕事を学んでいる最中だ。輝明がそうしたように、次期後継者としてホテル内の裏方仕事を学んでおくことは重要なことだ。しかし、社長の娘で次期後継者ということが分かれば他スタッフは余計な気遣いや贔屓に繋がりかねない。お客様第一のホテル業に身内の事情を持ち込むようなことがあってはならない。明里はホテルの仕事を気に入っているらしく、最近は大学の勉強以外にマナー講座や日本語検定の勉強もしているらしい。さらに、同じ大学の同級生で、明里と一緒に結城グループのホテルでバイトしている交際者がいる。どうやら、明里と一緒に結城グループを継ぐ気でいるらしい。大学卒業後は二人で結城グループのホテルに就職し、将来的には結婚してホテルを継ぐという話にまでなっているというから、涼介は我が妹ながらその行動力に感心している。すでに結城家にも何度か訪れており、両親とも顔を合わせている。涼介も何度か顔を合わせたが、明るく爽やかな好青年だった。涼介のこともお兄さんと呼び、慕ってくれている。涼介としては明里が涼介のために無理してホテルを継ぐと言ってくれているのではないかと心配していたが、どうやら杞憂だったようだ。話は逸れたが、涼介が今こうして小さい頃からの夢を叶え、教職に就くことができているのは理解ある両親と、行動力ある妹のおかげだと言っても過言ではない。

 頬を撫でる海風と鼻を擽る磯の香りが心地良い昼下がりの砂浜で、涼介は教職を目指したあの頃の自分思い出していた。隣には大好きな恋人。透き通るような白い肌にカーキ色のワンピースがよく似合っている。この人の笑顔を一生守っていく。涼介の心に愛しい人への強い気持ちが高まっていく。

二人で過ごした休日に終わりが近づく。

 ドライブを終えて、ありさを自宅に送り届ける頃には太陽はすっかり山の向こうに姿を隠していた。明日からまた一週間が始まる。涼介にとって明日からの一週間はこれまでで一番特別なものになる予定だ。

「じゃあ、また来週な!」

「うん。今日はありがとう、気を付けて帰ってね!」

 車を降りたありさが手を振り、涼介は寂しさを隠すように片手を挙げて車を走らせた。去り際はいつだって寂しさで胸が苦しくなす。でもそれをありさに悟られるのは格好悪い気がして、いつも格好つけてしまう。ありさもまた、寂しさを隠しながら、涼介の車が見えなくなるまで手を振り続けていた。


 


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― 新着の感想 ―
[良い点] ありさと涼介の爽やかな日常が魅力的でした。 [一言] 続きを心待ちにしています。
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