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アリシアは森の中を無我夢中に走っていた。
木の根に足を取られ、アリシアは勢いよく地面を転がった。
涙は枯れることなく、地面にポツポツと染みを作っていく。
「始めから希望なんてなかったんだ」
アリシアは右手首に輝くブレスレットを見つめた。
「唯一の希望が半分になってしまったわ。これでは、目的を達成することは不可能。キョウヤに悪いことをしちゃったかな。無関係の人間を巻き込んでしまったわ。後で、謝っておかないと…………もう会うこともないか。私に愛想を尽かして好きな場所へ行ったよね。私に人と仲良くする権利なんてないというのに…………」
パキッと木の枝が折れる音がした。
アリシアは立ち上がる。ガサガサと揺れる茂みを見つめた。
「もしかして、キョウヤが私を追って…………」
アリシアの顔に笑みという明るみが灯った。
「そういえば、キョウヤは記憶喪失だったわね。この世界のことを何も知らずに生きていくのは大変でしょう。仕方ないわね。一緒にいてあげようかしら。キョウヤも一人で心細いだろうし、仕方なくよ。よしっ」
アリシアは茂みに向かって大声を出した。
「いるのは、わかっているのよ。出てきなさいっ!」
茂みから二つの鋭い眼光が現れた。鋭い牙を地面に突き立て、口からよだれを垂らす獰猛な狼がいた。狼から黒いオーラが溢れていた。
「キョウヤじゃ…………ないっ!」
アリシアは驚いて、腰を抜かしてしまう。地面に思いっきりお尻をつく。
狼が一歩ずつゆっくりと前進すると、それに合わせて、アリシアも地面に腰をつけながら後ずさりをする。
「黒い魔獣…………もう、こんなに《混沌》の影響が…………」
ガサっと茂みから音がすると、周りから次々と狼が姿を現した。
アリシアは四方八方を狼の群れに囲まれていた。逃げ場など、どこにもなかった。
「いや……私なんて、食べてもおいしくないわ……来ないで………………」
アリシアの声は震えていた。身体は小刻みに振動していた。細い腕を持ち上げ、手を狼に向けて叫んだ。
「束縛せよ! グレイプニル!」
空中に出現した魔法陣から鎖が伸びる。一匹の狼を縛った。
それを合図に、狼達がアリシアに襲いかかった。
アリシアは狼を視認し、鎖で狼達を次々と束縛する。新たに三匹の狼を拘束した。狼達は恐れることなく、次々と大地を蹴り、アリシアに牙を向ける。
アリシアは素早く動く狼に照準を合わせて、鎖で狼を拘束する。狼の数は多かった。
背後から現れた狼に気を取られ、鎖の軌道がずれた。
「――しまった」
アリシアは一匹の狼に押し倒された。襲うタイミングを図っていた他の狼達が一斉にアリシアに飛びかかった。
「ぎゃっあああああああああああああああああああああ!」
アリシアを倒した狼とは別の狼が、アリシアの腕に喰らいついていた。柔らかな白い肌に刃物のような牙が突き立てられ、鮮血が流れる。アリシアのふくらはぎにも狼が噛みついていた。
アリシアに乗っかった狼が鋭く尖った犬歯を見せた。歯茎から溢れた液体がアリシアの顔に垂れる。
「――きゃあああああああぁぁぁぁぁああああああああああああああ!」
アリシアは甲高い悲鳴を上げた。狼を体の上からどかそうと身を捩るが、狼はびくともしない。
魔獣が出る森の深くまでやってくる人など滅多におらず、他人の助けは期待できなかった。
狼がアリシアの首に狙いを定めた。狼が噛み付くまでに反撃する猶予などないであろう。
他の狼を縛っていた鎖が消えると、巫女の周りに狼達が集まってくる。
巫女の目が引きつり、極寒の地にいるように体の震えが止まらない。顔色が絶望に染まる。
「い、いやだ………………こんなところで、死にたくない…………死にたくない…………」
アリシアの祈りも虚しく、狼が大きな顎を開けた。この狼なら無防備な少女の命など一瞬で奪い取ってしまうだろう。
アリシアはきつく目を閉じて、叫んだ。
「――助けて、キョウヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァアア!」
その瞬間、巫女の右手首の腕飾りが光を放った。
轟々と燃える炎が辺りを焼き、狼達を後退させる。
「――ったく、仕方ないな」
アリシアが恐る恐る目を開けると、瞳にとある少年の姿が映った。炎を纏った大剣を担いだキョウヤだった。
「何、勝手に死のうとしてやがる。アリシアに死なれたら、この封印が解けないだろう」
キョウヤは左手首に輝くブレスレットを揺らしてみせる。
アリシアが両手を祈るようにギュッと握り、消えそうな声で呟いた。
「…………あ、ありが…………」
「お礼なら、コイツらを倒したあとで聞かせてくれよ、なっ」
キョウヤは狼の群れと向かい合った。
アリシアが腰を地面につけたまま、キョウヤの後ろから声をかけた。
「気をつけて、その魔獣は普通じゃないわ。《混沌》に侵食されている。だから――」
「――燃やし尽くせ! 燃え盛る炎の大地!」
アリシアの忠告を最後まで聞かず、キョウヤは大剣――レ―ヴァテインの豪炎を解き放った。
大熱量の炎が狼達を一瞬で燃やし尽くした。その炎は残った灰ですら燃やし尽くしてしまうほど強烈だった。
「ちょっと、やり過ぎたか?」
目の前に広がっていた森が消失していた。山火事でも起きたとかと思ってしまうほど、開けた大地があった。しかし、それは山火事なんて甘いものでなかった。
大地が焼かれ、所々に灼熱のマグマがブクブクと泡を立てていた。
その力は人の領域を遥かに超えた力だった。
キョウヤが地面に座ったアリシアに左手を差し伸べる。
「立てるか?」
「うん」
アリシアがキョウヤの手を取り、立ち上がった。
キョウヤはアリシアの全身を観察した。
「どうやら、怪我はないみたいだな」
アリシアの手足に狼に噛まれたような傷はなかった。
立ち上がったアリシアは炎の熱気にやられたのか、顔が火照っていた。もじもじと手を胸の前でいじっている。
「キョウヤ…………どうして、助けに来てくれたの?」
「俺にもよくわからないが、ブレスレットが光ったと思ったら、ここにいた。俺は別にアリシアを助けたわけじゃない。あの狼達を倒したいと思ったから、倒した。俺はやりたいことをやっただけだ」
「た、助けてくれて、あ…………あり………………あ、ああああ、もうっ!」
アリシアがブンブンと頭を横に振った。
「召喚した主を助けるのは、召喚者として当然のことよ。これくらいのことでいい気にならいでよね!」
「なんだよ、それ………………」
キョウヤはやれやれと肩をすくめる。
アリシアはその様子を見て、クスッと小さく笑った。
「でも、少しくらいは褒めてあげなくもないわよ」
アリシアはコホンと咳払いをした。照れた顔を隠すように横に向けて、キョウヤに手を出した。
キョウヤは首を傾げた。
アリシアはむっとして、さらに、キョウヤに手を近づけてくる。
「封印を解除して欲しいんでしょ。封印が解除できるまでの短い間だけど、協力してあげるわ」
「そもそも、アリシアが封印をかけたんじゃないか?」
「何か言ったかしら?」
「いいや、なんでもない」
アリシアはキョウヤからレーギャルンを回収して、元に戻したい。
キョウヤはレーギャルンを解除して、心に刻まれた
「アリシアが好き」
という気持ちを消したい。
両者の利害は一致していた。
キョウヤはアリシアの手を握った。
「よろしくな」
「よろしくね、キョウヤ」
アリシアはもう片方の手を胸に手を当てて、爽やかな笑顔を浮かべた。それが、キョウヤの前で見せた初めての笑顔だった。