キズツケ G視点 01
嫌な夢を見ていた。
夢は漠然としている。
けれどわかる。中学生の頃のいじめの記憶だ。
いじめられているのは俺。
今よりも身長がなくて、力で敵わなければ口でも敵わなくて。
具体的なシーンは浮かんでこない。
粘着質な嫌悪感をまとって、夢が絡みついてくるだけ。
ノイズのように誰かの声が聞こえてくる。
一人ではない。
何人にも、何かを言われている。
ひどい言葉であることは確かなのに、聞き取れない。
雑踏のざわめきに似ていた。
もう思い出せない。
そのぼやけた罵倒を聞くたびに心が死んでいく。
死んで死んで死んで、
でもまだそれでも傷つく。
いっそ何も感じなくなれればいいのにと何度も思うのに。
何度だって俺は傷ついた。
ああ、眠れないのに。
眠っても、浅い夢に見るのは悪夢ばかり。
夢を見ないような深い睡眠が欲しい。
ずっと寝たいのに。寝たい、本当は、起きたくなんかないのに。
「…………い」
「……おい、」
「いいかげんにしろって」
「起きろ!」
「!?」
大きな目と、橙色の短髪。
少し高めの、少年の声。
夢の中とは違うクリアな音声に、驚く。
話しかけられたのはいつぶりだろう。
「起きた?」
視界いっぱいに広がる見知らぬ少年の顔に、俺は思わず息を呑んだ。
また。
また殴られる?
俺は慌てて上体を起こした。
「……っ」
頭が、痛い。
こめかみを押さえる。
「寝ぼけてるとこ悪いんだけど、お前がとっとと起きてくれないとこの部屋から出られないんだよね」
え?
あたりを見回す。
知らない部屋だ。
自分がいたのは周囲一面コンクリートに囲まれたさして広くもない部屋だった。
どこだ、ここ。
俺、自分の部屋にいたはずじゃなかったのか?
「立って」
「え?」
「モニターがあっちにあって、説明書いてあるから。見てこいよ」
「……はい」
何がなんだか訳がわからない。
部屋の隅に白いドアと、壁に埋め込まれたモニターがあって、少年はそれを指さしていた。
説明とはなんだろう。
これは夢の続き?
それにしては、視界がはっきりとしている。
ぼやぼやと寝ぼけた頭のまま、俺はふらふらと部屋の隅へ歩き出した。
白く光る画面の前に立つ。
???
画面にはデジタルタイマーが表示されている。
三十五分から、どんどん目減りしている。
画面をタップする。
と、『おめでとうございます!』という文字列が表示された。
おめでとう?
わけが分からずもう一度画面に触れると、今度は人名が表示された。
・対象者1 夏目晶 身長167cm 16歳男性 A型
・対象者2 黒鐘嶽徒 身長177cm 16歳男性 AB型
テキストが並んでいるが、頭に情報が入ってこない。
対象者2の黒鐘嶽徒とは自分の名前だ。
ということは、さっきの橙色の髪の少年が夏目晶というのだろうか。
少年は説明があると言っていた。
また、画面を触る。
『!あなたがたは120万人の中からこのゲームに選ばれた幸運な人物です!』
『全てのゲームにクリアすることで、対象者に合わせて様々な報酬が与えられます』
『この部屋はゲームの第一ステージです』
『この部屋は提示した条件をこなさなければ出ることが出来ません』
『この部屋に生物が生きていく上で必要なものは配備されておりません』
『この部屋の条件は以下の項目になります』
『"この条件を見てから1時間以内に相手の首に包丁でひと繋がりの傷をつけること"』
『画面に表示されるくじを引き、傷つける側と傷つけられる側を決定してください』
『出血のない傷は傷と認められません』
『傷つけられる側本人による創傷は条件クリアにはなりません』
『創傷によって傷つけられる側が死亡した場合、自動的にゲーム失敗となります』
『ゲームに失敗した場合、部屋の扉は開かれません』
……は?
やはりまだ夢を見ているとしか思えなかった。
陳腐なデスゲームを見たときのようながっかり感はなんだろう。
画面をタップする。
すると、黒い画面に文字が浮かぶ。
『対象者1は傷つけられる側に決定しました』
『対象者2は傷つける側に決定しました』
え?
くじを、引くのではなかったのだろうか。
「それさ」
「うわぁ!」
突然真後ろから話しかけられ、思わず大声を上げてしまった。
振り向くと、背後に立っていた少年は耳を押さえて顔をしかめている。
「声がでかい」
「それ、お前がいつまでも起きないから、俺がさっさとくじ引いたの。……結局、自分が貧乏くじ引くことになったけど」
少年は夏目くんというのだろう。
夏目くんは最初に俺を起こしたときからなんだかずっと、苛々としていた。
もしかすると、この『条件』とやらが自分が傷つけられる側なのが納得いってないからなのかもしれなかった。
「ご、ごめんな、さい」
俺は謝った。
突然大きな声を上げたことと、中々起きなかったことに対してだ。
不眠症の俺は、一度寝れると寝起きの覚醒が遅い。
こうして立ち上がって文字を読んでいる今もまだ、頭ははっきりとはしていない。
「……は?」
「……え?」
「……いや、なんでもない」
「????」
俺の謝罪に、夏目くんは何故だか目を丸くした。
それの意味がわからなくて、俺は首をかしげる。
夏目くんはそれ以上言及してくることはなかった。
なんだろう。
疑問は尽きないが、俺は一旦考えるのを置いておいて、夏目くんを見た。
無地のシャツにワイン色のスキニー。
その右手に、ギラリと光る銀色の金属が見えた。
「それ……」
「部屋の真ん中においてあった」
「これ、本当にやらなきゃいけないのかな……」
俺はモニターを指差す。
夏目くんはつまらなさそうに口を開く。
「ゲーム、って書いてあるから、やらなきゃゲームオーバーだろうね」
「死ぬってこと?」
「さあ?」
「こ、怖くないの」
「怖がってなにか解決するの?」
「……」
「読んだなら、内容はわかったよね?とっとと『条件』ってやつ、やってほしいんだけど」
「『条件』……って」
包丁で、相手の首に、ひとつながりの傷をつける。
頭の中でワードを並べて、整理する。
……。
いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや。
「で、できない」
「はあ!?」
今度は夏目くんが大声を張り上げた。
よく通る声で、ハリがあって、自信がある人の声色で、俺は萎縮した。
「そんなのもし、大怪我したら……」
「しなかったらもっと悲惨な死に方するかもしれないのに?」
「……そ、そんな事言われたって、どうして、どうして俺が傷つける側なの」
「……知らないよ。くじで引いたらそうなった、それだけ」
「夏目くん、が、僕の首を切る、じゃ駄目なの?」
「駄目じゃない?ルールに書かれてるわけじゃないけど、それをやって条件達成にならない可能性のほうが高いでしょ、常識的に考えて」
「常識って……」
こんな非常識な事態で?
と口に出しそうになってやめた。
問題はそこではないからだ。
「だ、だって、包丁だよ」
「そうだけど?」
「く、首だよ!?」
「そうだね」
「見ず知らずの俺に包丁持たせて、首を傷つけていいって許可するの、変だよ……!」
「俺だって別に、こんな事されたくない!」
何回言わせるんだ!というような態度で夏目くんがまた声を上げる。
「でも時間制限があるゲームで、脱出条件が一つしかないんだったらやるしかないだろ」
「ゲーム、なんでしょ……誰か助けに来てくれるかも……」
「あと三十分もないのに?ずいぶんお花畑な考え方してるね」
「……」
「それに、俺はともかくとしてお前、警察関係の知り合いでもいるの?」
「行方不明者なんて年に数えられないくらい出てて、家出だって思われて真面目に取り合ってもらえないことだって多い」
「こんな短時間短期間で、こんな特殊な施設に助けに来てくれる人、身近にいるの?」
「それは……」
いない。
いるわけない。
だって俺は……俺には仲のいい友だちもいなければ、家族とだって最後に顔を合わせたのがいつだったかわからないくらいの『引きこもり』なのだから。
「はあ……」
夏目くんはうんざりした顔で包丁を差し出してきた。
刃がこちらを向く。
「ひっ」
「怯えるなよ。怯えるならこっちのほうだろ。お前が持たなきゃ話が進まない」
「で、でも」
「いいから持て!」
部屋に声が響く。
音量が特別大きいわけでもないのに、夏目くんの声はよく通った。
「は、はい……」
俺は震える手で包丁を受け取る。
「あと二十六分しかない」
夏目くんがモニターを横目にまた舌打ちした。
そしてこっちを見て、口元だけで笑う。
目はちっとも笑ってない。
「いいか?傷の深さ、ちゃんとコントロールしろよ」
「包丁なんて、家庭科の時間にしか触ったことないんだけど……」
「お前ほんと使えないね」
ばっさり、呆れたように夏目くんが吐き捨てる。
「やれるかやれないかじゃなくて『やる』。それしか選択肢はないの。わかった?」
「……」
「人を傷つけたことある?」
「な、ないよ!」
俺はぎょっとした。なんてことを聞いてくるんだろう。
「傷つけられたことはあるだろ、お前」
「……!」
絶句した。
やはりいじめられっ子というのは空気ににじみ出るものなんだろうか。
「そん時のこと思い出して、やりすぎないようにすればいいから。早く」
夏目くんが、包丁を持った俺の右手を取って、自分の首元まで持ち上げた。
「う、うわ、」
「ここ、まず半分なぞって、半分切れたら反対側にまわってもう半分切って」
夏目くんの首の皮膚に包丁の刃先が触れる。
彼の行動のあまりの潔さにこちらはビビりまくりだ。
どう考えてもおかしい。
こんな意味のわからない場所に閉じ込められて。
知らない男に凶器を渡して。
自分の急所を曝して。
そこを傷つけろって?
どっかおかしいんじゃないか?
「む、無理……」
半泣きになって首を横に振る。
包丁を持つ手がブルブルと震える。
のに、夏目くんの手に押さえられていて、彼の首から刃先を離すことが出来ない。
危ない。
怖い。
傷つけたくない。
こんなの絶対狂ってる。
「うるさいやれ」
「……」
ピシャリと命令が言い渡される。
夏目くんの目は冷え切っている。
怖い。
夏目くんを傷つけるのも、夏目くん本人も、どうしようもなく怖かった。
「ああ、うぅ……」
救いを求めるようにモニターを見る。
あと、二十分を切っている。
もたもたしていると時間が無くなりそうだ。
「黒鐘」
ふいに、名前を呼ばれてびっくりする。
名字を呼ばれたのなんて、何年ぶりだろうか。
「お前が死ぬのは別に構わないけど、お前のせいで俺が死ぬのは我慢ならないから」
「もしこのゲーム失敗したら俺はこの包丁でお前を殺すよ」
「っ……」
死。
夏目くんの目は冷たく、本気だった。
何もしないでも地獄、何をするにしても地獄だった。
「う、うう……うぅ……」
「やり、ます……」
俺はもう、涙で視界が滲んでよくらかわなかった。
夏目くんの手が僕の手から離れていく。
手は相変わらず震えている。
「ん」
「……」
夏目くんは、首を差し出して、上目遣いに俺をじっと見た。
細い首だ。
ここに傷を、つける。
別に深くなくていいんだ。
血がちょっと出るくらいの、浅い傷を、一周。
胃液がせり上がってきて口の中が苦く酸っぱくなる。
背中にどっと冷や汗がにじむ。
「い、いき、ます」
「……」
夏目くんはもう何も言わなかった。
ただ俺を見ている。
その目が、何を考えているのかわからなくて怖かった。
俺の心の中は恐怖、恐怖、恐怖で満たされる。
歯の根が噛み合わずガチガチと震える。
加害者に、なる。
人を傷つけるなんて生まれて初めてのことだ。
「夏目くん」
俺が夏目くんの名前を呼ぶと、夏目くんは眉をピクリと上げた。
「……………………何」
ちょっとの間のあと、返事をくれる。
「ごめんなさい」
「ゲームの役割に謝罪はいらない。謝るんだったらやったあとに謝って。今はそんなの聞きたくない」
「はい……」
もっともなのかもしれない。
ただの、役割。
キャラクター1と、キャラクター2の役割がたまたま夏目くんと俺とに割り振られただけ。
だから、気にしたらいけない。
気にしたら……。
……。
無理。
無理無理。
でも、やるしかないんだ。
俺は包丁を持つ手に力を込める。
銀色の刃を、夏目くんの首に押し当てて、引いた。
「っ」
ぴく、と夏目くんが肩を揺らす。
皮膚が、少しだけ破ける。
本当に、少しだけだった。
血が、出ていない。
「……遊んでんの?」
怒気を含んだ声が投げかけられて、パニックになりそうになる。
「ち、力加減、わからなくて」
「次はもう少し上手くやって」
「うん……」
また、刃を押し当てる。
ゆっくりと、引く。
今度はすっと浅く、でも確かに血が流れた。
が、位置が悪い。
酷く斜めに線が入ってしまった。
コレでは、一周できない。
「お前さ……」
「ごめん、なさい。ごめん、ごめん……」
お互いに気分は最悪だった。
それから五分ほど格闘し、夏目くんの首、俺から見て右側は浅い傷だらけになってしまった。
自分の不器用さを今ほど呪ったことはない。
「……痛い……」
「う、うう、ごめん、ごめん」
流石の夏目くんも、強気だったのが嘘みたいに顔色を悪くしている。
当たり前だ。急所を何度も傷つけられているのだ。
生きた心地はしないだろう。
時間は後十五分を切っている。
俺は何度めかの挑戦をする。
震える手を制御して、ゆっくり、慎重に、刃を引いた。
何度めかの挑戦で、やっと真っ直ぐな線が、いくつものためらい傷の中に一本浮かんだ。
「は、半分でき、ました」
「時間ない。また失敗するかもしれないからすぐ反対側」
「はい」
俺は夏目くんの右腕側に回り込んで、狙いを定めた。
うなじ側から、刃を、刺す。
ぶつっ。
「いたっ……!!!!」
「え!?」
深く刃を入れすぎた。
血が、だくだくと流れ始める。
俺は真っ青になって包丁を床に落としてしまった。
がしゃんっ。
その音を聞いて、夏目くんが怒鳴る。
「拾え!」
「で、でも」
「時間がない!多少血が出たって死なない!続けろ!」
怪我をしているのは夏目くんなのに、俺よりよっぽどしっかりしている。
俺は、流れる血に卒倒しそうだった。
めまいを覚えながらかがんで、包丁を手に取る。
包丁にも夏目くんの血がついている。
銀色に、鮮血がぬらりと光った。
くらくらする。
「急いで。でももう失敗すんな」
「難しいよ」
「やらなきゃ殺す」
「……」
もうどうにでもなれ。
半ばやけくそになりながら、俺は夏目くんの首に刃を押し当てた。
ぶる、と夏目くんが震える。
本当は、やっぱり怖いんだと思った。
当然だ。
彼のワイシャツがどんどん赤く染まっていく。
平静でいられるわけがない。
でも、俺がやらないとここから出られないから、だから夏目くんは無理してる。
やらなきゃ。
やる。
俺は両手で包丁の柄を持って、ゆっくりとうなじ側から喉側へ、刃を引いた。
赤い線と線が、繋がる。
終わった。
終わった……!
「おわ、おわり、まし、た」
「…………このクズ!」
夏目くんが俺のすねを勢いよく蹴った。
「う、ぐ」
すねを押さえて俺はうずくまる。
折れてはいないが相当な痛みだ。
「殺されるとこだった」
「殺そうなんて、」
そんな事微塵も考えちゃいなかった。
けれど結果としては、殺しかけたのも事実だ。
夏目くんが首周りを真っ赤にしながら俺を見下ろす。
「お前が傷つけられる側なら良かったのに。俺が傷つける側だったら、もっと上手くやれた」
「そう、だね……」
反論できない。
彼がどの程度上手くやれるかは実際やってみないとわからないが、少なくとも俺がやったことよりはマシな結果になるだろう。
「ごめんなさい」
「この傷」
「多分一生残る」
「……」
「最悪、最悪だ」
「ごめん……」
薄い傷もそうだが、うなじ側の深めの傷はきっと一生痕が残るだろう。
申し訳なく思った。
どうしたらいいんだろう。
どうしたら、謝罪できる?
どうしたら、詫びになる?
きっと、許してはもらえない。
その時、
!
モニターからアラート音が響き渡った。