虫
その古本屋は十年前と変わらぬたたずまいで、オフィス街のビルの谷間にポツンと残っていた。
古びた看板も学生時代そのままだ。
かびくさいにおい。
愛想のない店の主人。
乱雑に積まれた本の山。
ところせましと並ぶ本棚。
店の中も当時と少しも変わっていない。そう、アイツが消えた十年前のあの日と……。
あの日。
いつものようにここに入りびたり、アイツと二人して立ち読みをしていた。ところがそのさなか、アイツは私に一言も告げず、店から忽然と姿を消してしまったのだ。そして、そのまま行方不明となった。
捜索願が出されると――。
私は警察署に呼び出され、あることないことを聴かれた。それもうんざりするほどにだ。最後まで一緒だったこともあり、責任を感じた私は自分なりにどれほど探したかしれない。
その後。
アイツがもどってくることはなかった。
私は店の奥へと進み入った。
百科事典が並ぶ本棚の前で足が止まる。ここはアイツのお気に入りのコーナーだった。
それとはなしに一冊の本を手に取ると、指先にホコリがついた。このあたりは客が、あまり立ち寄る場所ではないのだろう。アイツのように、よほどの本好きでもなければ……。
本棚から別の本を引き抜いてめくってみた。やはりホコリがひどいうえ、それらのなかには虫喰いの穴が見られるものまである。
ふと、アイツの顔が思い出された。
「全部、読めたらなあ」
うず高く並んだ本をあおぎ見ながら、アイツはその言葉をよく口にしたものだ。
何冊目かの本をめくっていたときだった。
――えっ?
私はおもわず自分の目を疑った。
アイツが目の前にいきなり現れたのだ。それもなぜか芋虫になって本の中にいた。
顔のほかは虫の幼虫そのものである。
アイツと目が合った。
「オ、オマエ……」
突然のことで、のどが引きつり言葉が続かない。
ひきかえアイツは、なんとものんきな声で挨拶をよこしてきた。
「やあ、ひさしぶりだな」
「オマエ、ここにいたのか?」
「ああ、そうだよ。ずっとここで好きな本を読んでいる」
「ずいぶん探したんだぞ」
アイツが虫になっていることも忘れ、そのとき私は本気で腹を立てていた。
「そいつはすまなかったな。でもな、オレも知らないうちにこうなってたんだ。ところでオマエ、卒業してからなにをしてるんだ?」
「働いてるに決まってるじゃないか。仕事に追われてるよ、毎日な。今日は仕事の都合で、たまたま近くまで来たんで、なつかしくて立ち寄ってみたんだ。十年ぶりだよ」
「そうか、もう十年か……。そういえばオマエ、学生の頃バイトばかりしてたもんなあ」
アイツが当時のままの顔で笑う。
そのとき、ふと背後に人の気配を感じた。
近くに学生風の若者がいて、いぶかしげな目でこちらを見ている。
私はあわてて本を閉じ、いそいで元の棚に差しもどした。それから若者が立ち去るのを待って、再びアイツのいる本を取り出した。
しかし……。
アイツはもういなかった。
隣はおろか、近くの本を手当たりしだいにめくってみた。だが二度と、アイツを見つけ出すことはできなかった。
指先で両まぶたをもんでから、私は首筋をほぐすようにグルグルとまわした。
見つからなくて当たり前だ。
近ごろ、出張と残業が続いている。疲れのせいで幻覚でも見たのだろう。
今回の出張。
今日のうちに残りの営業をすませ、明日には会社にもどらなくてはならない。
――人が虫になるわけがない。
自分に言い聞かせるようにつぶやき、私は足早にその古本屋をあとにした。
翌日。
帰りの電車の中、学生時代のアイツのことを思い出していた。それも最後の試験が間近にせまっていた頃のことを。
アイツは講義をさぼっては、あの古本屋へ通い何時間も過ごしていた。だから就職も当然のように決まっていなかった。
「卒業したらどうするんだ?」
心配になって聞いたことがある。
「仕事についたら、本を読む時間がなくなるじゃないか。オレはアリのように、あくせく働く気なんてないんだよ」
今でもよく覚えている。のんきに笑ったアイツの顔を……。
――アイツの言ったアリになっちまったな。
卒業してからは、ずっと仕事に追われてきた自分のことを思った。
――まあ、それもいいじゃないか。好きで働いてきたんだろう。
自分をさとすようにつぶやく。
私は電車を降りると、その足でタクシーを拾い会社へと直行した。
「お客さん、着きましたよ」
運転手の声で目を覚ました。
出張の疲れが出たのか、私はいつしか眠ってしまったようだ。
料金を支払い、歩道側のドアが開く。
と、そのとき。
「ない!」
私はおもわず声をあげていた。
会社がないのだ。社屋である五階建てのビルが、敷地だけを残し跡形もなく消えている。
場所はまちがいなくここだ。まわりのビルは以前と変わらずあるのだから……。
とりあえずタクシーを降りて、私は雑草のしげる敷地の中に足を踏み入れた。
――どういうこと?
思考能力がこわれてしまったのか、何も考えられない。その場で、ただ茫然と立ちつくしていた。
「どうだった、出張は?」
背後からの声で、ふと我に返った。そして振り向いた瞬間、私は目を大きく見開いた。
なんと……。
片手をあげた同僚が、顔以外すべて、アリに姿を変えている。さらに周囲は、うっそうとした緑のジャングルである。
「なにやってんだ。早いとこ、出張の報告書を作らなきゃならんのだろう」
とまどっている私の腕をつかむと、同僚は先導するようにジャングルの中を速足で進んだ。
そこには洞窟があった。
やっと入れるほどの小さなもので、入り口には階段があり、それは地下に続いているようだった。
――ああ、そうか、そうだったんだ。なんのことはないじゃないか。
ふいに記憶がよみがえる。同時に、胸の中の不安はたちどころに消え去っていた。
私はひとつ深呼吸をした。
ここちよい風が私の触角をくすぐる。
風のにおい。
土のにおい。
草のにおい。
それらがとてもなつかしく感じられた。