ある日の新婚バカップルとその一味―④ 『ほのぼの・イチャイチャ』
壱世と肩を並べて歩く通学路。
他愛のない雑談で家までの距離を埋めるこの時間が、不思議と心を安らかにする。
それは子供の頃から変わらない。
「ところで、少しスーパーに寄っていかないか?」
「何か買う物あるの?」
僕の提案に、頬に指を添えながら首を傾げる壱世。
「夜食とか、食後のお茶請けとか」
「そんなのばっかり食べてちゃダメって言いたいけれど……」
「お菓子類は壱世もいっしょに食べるじゃないか」
「そっちはいいの」
……そっちはいいんだ。
「でも、インスタント食品は体にあんまり良くないの。和くんのご両親にお世話を頼まれたからには、そんなのを食べさせるわけにはいかないの」
「日頃の食生活はおかげさまで健康バランスまでしっかりしてるから、たまにはああいうジャンクフード系をガッツリと食べたくなるんだよなぁ。なんとなくだけど」
「理由になってないよ」
がっくりと肩を落とす壱世だが、
「そろそろ和くんの家の冷蔵庫の中が少なくなってるし、買い足しておきたいものがいろいろあるからお買い物には付き合うけど、たくさん買ったりしちゃダメだからね」
年の離れた姉が弟に対して言うような内容に苦笑が漏れるが、僕と壱世の関係はそんな風でもある。
休日などに白石家の掃除や洗濯などをしてくれているので、頭が上がらないのだ。
勿論、手伝う意思はあるんだけど、基本的に邪魔にしかなっていないというのが情けない自己評価だ。それでも下着類の洗濯まで任せるわけにはいかないと思うのは、男としての譲れない一線だと思うのだ。
「わかってるよ。……お金は大丈夫かい?」
「うん。ちゃんと和くんの生活費を預かってるから、それは大丈夫だよ」
にっこりとうなずく壱世。
白石家の一人息子の生活費が、隣の家の長女の手に握られている点からも、両親からの息子への信頼度が伺えるというものである。
普通に一人暮らしをしていると汚部屋の腐海というダブルコンボから逃れられる未来がまるで見えないと僕自身ですら思うのだから、文句が言えようはずもない。
――で。
そんなこんなでスーパーを出た後の買い物袋の中身を比較してみよう。
僕がインスタントやスナック類が主であるのに対して、壱世は食材や生活用品で占められているのを鑑みるに、互いの生活に対する意識の差が浮き彫りになっているのではないだろうかと軽い自己嫌悪を覚えなくもない。
「それじゃあ、また明日ということで」
家の前まで来たところで、別れを告げる。
「え? ウチでご飯食べるんだよね?」
「いや、今日は久しぶりにコレをガッツリと………」
袋の中のカップ麺を見せると、壱世は不服そうに眉を上げる。
「そんなのダメだよ」
「いやいや。たまには、こんなのが無性に食べたくなるんだっ」
「絶対にダメっ。認めません。体に悪いもん」
「後生だから。たまには――」
「絶対に許しません。そんなに執着するならこんなのは『ポイッ!』するよ」
「ぎゃぁぁぁぁぁぁっ! やめてくれぇぇぇっ!」
僕が手にした買い物袋――より正確に言うならば、その中にあるインスタント食品――を巡る軽い攻防を続けていると、
「いやはや、若さを感じるくすぐったい光景だねぇ」
唐突にそんな声が割り込んできた。
二人してそちらへと視線を向けると――
「おや? 二人ともどうしたね。入らないのかい?」
天宮家の玄関先で煙草を片手に夜空を見上げていた衛さんが柔和に微笑んでいた。
「あ、パパ。和くん、今日はウチでの夕飯を遠慮するって……」
しつこく買い物袋に手を伸ばしながら壱世。
「………ふむ。和也君」
思案するような表情になった衛さんが、煙草を携帯灰皿に放り込む。
衛さんは喫煙家ではあるものの家の中と子供たちの前では吸わないというルールを遵守している。
「こんばんわ」
壱世を牽制しながら、買い物袋を背後に隠す僕。
「お義父さんと呼んでくれと、いつも言っているだろう? 我が愛しい息子」
舞台役者のような大げさな身振りで、とても良い笑顔を披露するおじさん。
冗談のような話だけど、マジで背景がキラキラと輝いている様が幻視できる。
「あぁ、いや……その勘弁してください」
「なに? では、君は娘を捨てるというのかね」
……捨てるって。
この人の中の僕と壱世はどこまで進展した関係なんだろう?
「勿論、多大な好意を抱いてはいますが、まだ正式な関係を結んだわけではないので、そういう飛躍した表現は、ええ。許してください」
「詳しい話は、夕食の場でしよう。来たまえ。ママも待っている」
聞いちゃいない。
「毎朝毎晩お邪魔しては、天宮家の家族の団欒が……」
「こちらからすれば君も家族同然だ。何の問題も無い。あぁるはずぐぅあ、あぁるものくぅあっ!」
今度は歌舞伎のようなイメージでの発音である。
「………。」
「ママの料理に共に舌鼓を打ち、その後に一杯酌み交わそうじゃないか」
「僕はまだ学生です」
「外出しなければいい」
「そういう問題では……。というか、明日も学校なのですが」
「それはつまり、翌日が休みなら付き合ってくれると解釈していいのだね?」
「揚げ足を取らないでください」
「一緒に孫の名前を考えようじゃないか」
「もうすぐ生まれるような微妙な含みを持たせた言い方をしないでください」
「君たちは若いのだから、時間の問題だろう? 私が君ぐらいの頃にはもう何人かに手を出して、責任問題を各方面から追及されていたよ。全て揉み消したがね」
衛さんが何気に最低な発言している!
「衛さんに見えている僕の性格はどんな風に捏造されているのでしょうか? てか、そんな風になるのは既に確定事項なのですかっ」
「異論でも? 君は敬意を表するほどに一途だが、何かの拍子で道から外れたらプレイボーイに目覚めそうな気もしているのだがね」
前半はともかく、後半は激しく否定したい。
「………少なくても学園は普通に卒業したいので。中退とかそんな形ではなく」
「孫が抱けるのなら中退しても構わない。安心したまえ。適当な社員の首を切った後で、君を雇うぐらいの権力は持っている。給料は弾むぞ?」
さらりと酷いことを言う大人が目の前にいた!
「就職に興味がないわけではないのですが、卒業するまでは学生でありたいので辞退させてください。――というか、そろそろ壱世が沸騰しますよ」
あわあわ言いながら、両手で顔を覆っている壱世を指差す。
「おや、顔が真っ赤だね。どうかしたかい?」
「………あぅあぅあぅ………」
「羞恥が臨界寸前なのだと思います」
「ふむ。まだ刺激が強いかな」
「僕もたまに反応に困っています」
高等学校に進学したばかりの子供に、孫を生んでくれとか言う親がこの世のどこにいるというのか。
多感な思春期には少し刺激が強い。
「私は至極真面目に言っているのだがね」
「それはそれで大問題だと思います」
「とにかく、そろそろママが待ちくたびれてしまうだろう。場も適度に暖まったところで、夕食の時間としようじゃないか」
本題がくるりと迂回して戻ってきた。おかえりなさい。
「………わかりました。ご相伴に預からせていただきます」
抵抗の無意味さを悟り、僕は降参の意を示した。
別に是が非でもインスタント食品を食べたいわけでもないのだ。
また後日、壱世の気が緩んでいる時期をゆるっと狙おう。
「あ。あ。じゃあ、わたしは先にコレを片付けてくるね」
僕が妥協したのを受けて、壱世が買い物袋を持ち上げた。ついでに僕の買い物袋もひょいっと自然に取り上げて、白石家へと足を向ける。
まだ顔は赤く染まったままで、いつもより少し早足だ。
壱世には家の合鍵を渡してるんだけど、習慣で僕も一緒しようとしたのだが――
「よしよし。では、軽く一杯飲もうか?」
衛さんにもう逃がさないといわんばかりのホールドをされて、ズルズルと天宮家へと引き摺られていく。
なんとなく売られていく子牛の気分を満喫。
「念押ししておきますが、絶対に飲みませんからね」
――なんて抵抗の言葉も虚しく、夫婦共謀で(お酒を)一服盛られた。
アルコールに対する耐性なんかは皆無に等しいので、同じく罠に嵌った双海ちゃんともども眠りに落ちて、壱世の膝枕で目を覚ましたり、いい感じに出来上がった衛さんと頼子さんにアルコールへの抵抗力の高さの必要性を説かれたり、からかわれたりと賑やかな団欒の一時を過ごした。
………なんだか今日の衛さんたちはテンションが高くて、とても疲れたよ。
● ● ●
午後九時三分。
「ただいま」
返事のない言葉を呟き、闇に飲まれた我が家に明かりを灯していく。
両親が海外出張したばかりの頃は、この暗がりを寂しく思ったりもしたものだけど、今ではすっかり慣れてしまった。
――というよりも、天宮家の人たちのおかげで寂しいと感じるヒマがない。
つくづく世話になってしまっている。申し訳なく思うぐらいだ。
かといって、幼稚な自立心を表に出すには、自分はまだまだ子供で怠け者である。
なによりもあの心地よさには抗えない。
「やれやれ。……まったく、僕ってやつはさ」
甘えているのだという自覚に、浮かぶのは苦笑だった。
ともあれ。
天宮家でお風呂もいただいているので、この後は就寝時間まで自由に過ごす権利が僕にはある。
どうしたものかと顎に手をやりながら考えたけれど、結局は遊びに走るには中途半端な時間だったので予習・復習――つまりは勉強に時間を費やすことにした。
天城学園は『優秀』である限りは、ある程度の自由が認められているけれど、裏を返せばそうでなくなった時に『慈悲』なんかはあんまり与えられない。
素晴らしい環境が整っている半面、そこで堕落した者には容赦をしないという方針なのだろう。
――なので、日々の積み重ねこそが肝要なのだと僕は考える。
将来の選択はまだ曖昧だけど、あの学園は多様な可能性を試すには最適だ。
文系・理系などにも様々な系統があるし、さすがに僕にその選択肢はないけれども芸術・体育系などを専門にしている人もいる。
様々な可能性を試すのに夢中になったあまり、自分のクラスにいるよりも他所のクラスで選択した授業を受けている時間の方が多いという人もいるとかいないとか。
壱世も芸術系の調理科に興味津々で、近々選択してみると言ってたっけ。
正人は政治・経済・経営関係を選択しているし。
鷹志はやっぱり情報工学だし。
柳はなんでか心理学を選んでいたりする。
僕と陽介はこれといったものを選んでいないので、みんなが将来を見据えて何らかの選択をしているのにちょっと焦っていたりもする。
そんなわけで。
まずは足元が大事とばかりに教科書や参考書を片手に、カリカリとノートにシャープペンを走らせること約二時間。
時計の針が二十三時を回った辺りで、僕は大きく伸びをした。
「そろそろ寝ようかな」
地味に押し寄せる眠気に、然程でもない集中力が阻害され始めてきたので、机の上に広げていたノートや筆記用具を片付けていると――
コンコン。
まるで見計らったようなタイミングで、正面やや右手の窓がノックされた。
カーテンを引き、鍵をかけていない窓を開けると、同じく勉強をしていたのだろうパジャマ姿の壱世が手を振っていた。
「勉強、終わった?」
僕のすることなんかお見通しな質問をする壱世の近くで、いつもの三匹の猫が鳴いている。
窓と窓の間に木の板の橋を作ると、たたっと部屋の中に入ってくる。二匹はベッドの上で丸くなり、まだ元気な黒い子猫が部屋の中を駆け回る。
「ちょうど終わりにしたところだよ」
「ちょっとお話してもいいかな」
「いいよ。入る?」
「ううん。窓越しで大丈夫。」
擦り寄ってきた黒猫を抱き上げ、喉を撫でてやりながら視線で壱世を促す。
「もうすぐ黄金週間だね?」
「そうだね。どこかに遊びに行きたいね」
「うん。みんなでね」
それは勿論だけど、個人的には壱世と二人きりでもどこかに出かけたいと思っている。
でも、まず優先すべきはみんなとの方かな。
正人や慧はこっちに来てまだ日が浅いし、千春もまだまだ距離感が掴み切れていない。
せっかくの黄金週間なのだから、より親交を深めるイベントみたいな遊びを企画したい。
「正人くんも帰ってきてくれたし、慧ちゃんとも仲良くなれたし……」
新しい学園に進学するという一つの節目で大きく変化したのは、この一ヶ月における人間関係の再構築だろう。
「せっかく知り合えたんだから、花守さんとももっと仲良くなりたいよ」
目を細めて微笑む壱世の笑顔が、よき日々を過ごしているのだという確信を僕に抱かせてくれる。
「千春はいい顔をしそうにないけれど、ごり押しすれば渋々でも付き合ってくれるよ」
「あーちゃんも、早く帰ってこられたらいいのにね」
「……そうだね」
なんとなく、二人で夜空を見上げる。
二つの月と星の瞬きが見える。
同じ夜空を見ているであろう遠くの幼なじみに想いを馳せる。
「………。ね。和くんは進路のこと、ちゃんと考えてる?」
わずかな沈黙を挟んでから、黄金週間の予定を簡単に話し合ったりしていると、ふと壱世が話題を変えた。
内心でちょっとだけ苦笑する。
本来ならば、親や教師に問われるような内容を、幼なじみが不意に口にするというこの状況――これではまるで壱世が母親代わりを務めているようではないかと思ってしまったのだ。
「まだちゃんとは考えてないよ」
少しだけ考えて、僕は曖昧な本心を口にする。
まだ高校生になってから一ヶ月も過ぎていない時期に、明確な将来を思い描くのも生き急ぎすぎているような気がしないでもない。
あんまりゆっくりするのも考えものだけど、今はまだ将来の展望が不鮮明でもいいと思う。
漠然と考えてはいるけれど、これからの三年間で違った展望が開ける可能性もゼロではないのだから。
でも、壱世からの問いかけなので、もう少しだけ踏み入って考えてみる。
意外と言葉は簡単に出てきた。
「う~ん。正確には決めかねるって感じかな。大学に進学するのもありだとは思っているけれど、衛さんがどこまで本気で言ってるのかは定かじゃないけれど、衛さんの仕事を手伝わせてもらうのも面白そうだと思ってるから就職というのも悪くないみたいな感じ。これをしたいって明確な目標が定まってないから、正直どっちでもいいみたいなところかな」
どちらを選んでも一長一短ではあるものの、どちらを選んだところで現時点では困った事態を誘発するような要素は無い。
故にどれを選んでもいいので、どれを選ぶか迷っているなんてのは、我ながら優柔不断といえよう。
「……相変わらずだなぁ。じゃあ例えばさ、子供の頃の夢とかは?」
「今も昔も僕の夢は綺麗なお嫁さんの素敵な旦那さんになって、愛らしい子供たちと誰もが羨む幸せな家庭を築くことだよ」
本気です。
大事なことなのでもう一度。本気です。
何なら強調点も付けましょう。本気です。
「………そ、そうなの」
ややびっくりした様子の壱世。
あえて繰り返しますが本気です。念のため。
「まあね。まあ、そのためには社会的に自立して、家庭を養う経済力が必要になるわけだから、そのための知識と技術を身につけるための手段として、進学か就職の二択を選ばなければいけないわけだけど、まだ将来の展望が上手く掴めないんだ。だから、あれこれと各方面の情報収集に励んでみようって思ってるよ。はい」
「そうなんだ。さっきは考えてないみたいな言い方だったのに、本当はちゃんと考えてるんだね」
何故だろう?
やんわりと捻くれ者といわれたような気がする。
「ところで、参考にするために聞いておきたいんだけど、壱世の将来の展望はどんな感じなのさ? ちなみに、僕にだけ語らせといてだんまりってのは感心しないよ」
「……えっと、その、笑わない?」
「想像の遥か斜め上をいく突飛な内容だったらその限りじゃないけど、少なくても人の夢を嘲笑するほど捻くれた性根の人間じゃないつもりだよ」
「………き、綺麗な花嫁さん、とか」
まっすぐに壱世の顔を見ながら返答を心持ちにしていると、壱世は口元を手で隠しながら視線を逸らして言った。
「お婿さんに立候補させてください!」
脊椎反射で手を上げていました。
「………………凄く早い反応だね。ちょっとした冗談のつもりだったんだけど、食い付きが凄くてびっくりだよ」
「それはもう躊躇ってなんかいられませんよ。予約は早ければ早いほどいい!」
「………予約って。えっと、うん、その、か、和くんなら、ちゃんと隣の席は取っとく、けど……」
「それは嬉しいなぁ」
腕の中の黒猫をわしゃわしゃと撫でる。気持ち良さそうにゴロゴロ喉を鳴らしてくれるのが嬉しい。
「あ、えっと……、わたしは進路については、まだとりあえずだけど――」
話を戻すように少し赤面している壱世が口を開いたのだが――
オッホン――なんていう、とてつもなくわざとらしい咳払いが割り込んできた。
「「………………。」」
嫌な予感がします。ワーニンワーニン。
二人揃って視線を移動させると、天宮家の門扉に天宮夫妻が立っていた。とてもイイ笑顔でわざとらしく手を振っていたりする。
てか、絶対にわざとだろ。
「いやはや、あまりにも初々しくて、傍から聞いてるこちらが赤面しそうなくらいに若い逢瀬だねぇ。私の若かりし日々を思い出してしまうよ」
「あなたはあんなに純情じゃなかったと思うけど……」
「ママに出逢うまでは、あいつととことんまで遊んでたからねぇ。はっはっはっ」
「あらあら。過去の戦歴とか聞いちゃうと妬いちゃいそうね」
「あ~はっはっはっはっはっはっ」
呑気な夫婦の会話。
しかし、娘であるところの壱世は、当然だがとても平静ではいられない。
「き、きききき聞いてたのっ!」
「いやぁ、就寝前の一服にと表に出てみれば、愛娘と愛息子の可愛らしい睦み合いが耳に届いてくるではないか。これは親としては聞き耳を立てるのが当然の義務というもの。ママにも声をかけて、じっくりまったりねっとりとご静聴を賜っていたよ。はっはっはっ」
いや、『はっはっはっ』じゃないでしょう。
そこはその場を離れるのが普通ではないでしょうか、衛さん。
「壱世ちゃんってば、とっても可愛いわね。お母さん抱き枕にしたくなっちゃうわ。今晩一緒に寝ない?」
どんな発想の飛躍が成されたのかをむしろ聞きたいぐらいです、頼子さん。
「ど、どこからどこまでっ」
「ヒントその1――綺麗な花嫁さん、とか♪」
「ヒントその2――ちゃんと隣の席は取っとくけど、とか♪」
割と小声だったのに凄い地獄耳ですね――などと呆れ半分の僕ほどに達観していられない壱世は、軽く意識を失いかけた様子でふらりと体を傾がせていた。
そのまま倒れるまではいかなかったが、かなり高いレベルでの動揺を露にしており、軽く青ざめていたかと思えば、次の瞬間には耳まで沸騰した。
不謹慎な感想だが、何かの芸みたいだ。
「いいなぁ~、お姉ちゃん。もう永久就職先が決まってるんだぁ~」
同じく玄関からひょっこり顔を覗かせた双海ちゃんが、ニヤッと笑いながら言う。
だけでなく、ヒューヒューと冷やかしの口笛や囃し立てるような拍手までが聞こえる。
夜も遅いというのにノリのいいご近所さんたちだった。
まさかとは思いたいのだが、彼らも聞き耳を立てていたりするのだろうか?
「きゃああああああああああああああああああああああああああああっ!」
ちょっと前まではそれなりに静寂だった夜の空気を引き裂く事件性の無い絶叫。
それは壱世の頂点に達した羞恥心から発せられた。
「あ、あああ、あ~あ、あうあうあうあう………」
「とりあえずは深呼吸から始めてみるといいんじゃないかと思うんだけど………そんな余裕はなさそうだね」
「ご、ごごごごめんなさい。き、きき今日のおは、お話はこれぐらいで続きはまた今度にしててててくれると………」
「わかったよ。おやすみ」
抱いた黒猫の手を持ち、ヒラヒラと軽く左右に振ってみせる。
おやすみというように「にゃ~ん」と鳴く黒猫。
猫なのに付き合いがいいなぁ、お前。
「お、おおおやすみなさいぃぃぃぃ~っ」
ピシャンと窓が閉じられ、カーテンが引かれ、間を置かずに部屋の明かりが消える。
ベッドにうつ伏せて、全身で毛布を被っている涙目の壱世が容易に想像できる。
………ちょっと、いや、かなり可愛いかも?
「また明日な」
幼なじみの部屋に向かって呟き、幼なじみの家の門扉に向かっては満面の笑顔で親指を下に向ける。
「あはは♪」
「うふふ☆」
まるで応えた風でもない笑い声だけが返ってきた。
………つくづく素敵な大人だなぁ、もう。
ちょっとだけ強めに窓を閉めて、部屋の中に向き直る。
「さて、と。僕も寝よう」
机の上の鞄からはみ出していた箱に目が留まる。
「……あぁ。そういえば、あったな」
珍しく鷹志に熱心に勧められたゲーム『スパイラル・ワールド』の存在を思い出し、何気なく手に取る。パッケージの表と裏を見比べたりしながら、らしくもなくプレイしてみてもよかったかなとか思ったけど、結局は眠気を優先する。
机の上に無造作に置き、猫に囲まれた寝床に入り、目を閉じる刹那――
今日一日の出来事を何気なく振り返ってみた。
「………あぁ、」
口元に自然と浮かぶのは、穏やかな笑み。
僕はとっても幸せだ。
眠りに落ちる寸前の意識で、いつものように思っていた。
新婚バカップルな二人。
恋人という手順を置き去りに、結婚に意識が向かっている辺りが〝らしい〟ような気がしますね。ほのぼのイチャイチャしてる二人にニヤニヤして、たまに壁を殴りたくなってもらえたならうれしいです。
次からは『隠れ御曹司』のお話です。お楽しみに。