『元日の地味な没個性とその周辺』(8)
「俺の人生は、クソゲーだった」
宗次は言った。
「親父は飲んだくれの無職DV野郎。母親は自分を哀れむしか能がなかった。家庭崩壊を絵に描いたような環境の中で俺は育った。死にかけたのだって一度や二度じゃねぇな」
抵抗する力を持たない幼い子供には、文字通りの意味で地獄だった。
「親という意味ではゴミでしかなかったが、俺を学校に通わせるぐらいの甲斐性はあったのが救いだな」
単に世間体を気にしただけなのかもしれないが、それでも学校という場所であったいくつかの出逢いが、宗次の人生に影響を与えたのだから。
「……あいつらに感謝することがあるとしたら、それだけだ」
今となっては顔も思い出せない連中のことを吐き捨てるでもなく、宗次は常と変わらぬ調子で言う。
記憶するのも馬鹿らしいが、自分のルーツに関わっているのだから、どう足掻いても完全には切り離せない。自分という存在に深く根付いてしまっているがゆえに忘れることすら出来ないのだから、せめて無関心であることを選んだ。
その結果だ。
「だからこそ、俺は、アイツに会えたんだからな……」
何日も起き上がれなくなるような打撲や骨折は日常茶飯事だった。
おかげで、人間のどこを殴れば効率的に倒せるかの勉強になった。骨の折り方や外し方なんてものまで覚えていた。
人間の限界も、ある程度までは理解した。
それが十歳になる以前。
宗次がそんな環境をギリギリのところで生き残れていたのは、献身的な手当てをしてくれる『家』が他にあったからだ。
だが、そこに至るまでには、やはり時間が必要だった。
傷だらけのケガ塗れ、唐突に何日も学校を休み、誰とも群れない孤高を気取った宗次は、学校でも浮いた存在だったから。
信用できるのは自分だけなどと自惚れていたわけではない。
もっと単純に、頼り方を知らなかったのだ。
そんな手段があることすら理解できていなかった。
他人とは恐怖の象徴であり、自分を傷つけるだけの存在だと思っていた。
無条件に与えられるべき愛を知らずに育ったのだから当然だろう。
だから――
ある日、唐突に差し伸べられた手の意味すら、しばらくはわからなかったのだ。
互いの気持ちはすれ違い、牙を剥き出しにした獣のように他人を拒絶する宗次に、彼はどこまでも辛抱強かった。
いつまでも待ち続け、どこまでも追いかけてきた。
「わけのわからない奴だったよ。ただ手を差し伸べるだけで、俺が握り返すのをずっと待っていやがった。アイツは何も言わなかったから、何も伝わらなかった。俺も無視って何も言おうとしなかったから悪かったんだがな。根本的に意思の疎通ができていなかったんだ」
傍から見ると、間の抜けた光景だっただろう。
誰も近づかない宗次の元に日参する存在感の薄い地味な没個性。
ほとんどの人間が気づいていない下らない根比べが、どれだけ続いたのか。
あまりに馬鹿馬鹿しくて、宗次は覚えてすらいない。
ただ結果だけは覚えている。
折れたのは宗次だ。
なんだよ? ――と、宗次は問いかけた。
ケガを治しに病院に行こう――と、アイツは言った。
そんな金はねぇよ――と、宗次は言った。
なら、ウチに来るといいよ――と、アイツは言った。
なんでだよ――と、宗次は拒絶した。
そうしたら、アイツは当たり前のような顔で――
きみが痛そうだから。
――なんて言いやがったのだ。
痛いのを一生懸命になって我慢してるなら、助けてあげちゃいけないんだって教えられたから、僕は君を助けたいんだ……とも。
「その言葉が、それまでの人生で、なによりも痛かったような気がするな」
痛くなんかなかった。
少しも痛くなんかなかった。
現実から逃避していただけかも知れないし――
とっくに身体が致命傷寸前まで壊れていたからかも知れないが、宗次は本当に痛みなど感じていなかったのだ。
「結局は必至に痩せ我慢していただけなんだろうな。孤独だとそこが限界なんだよ」
なのに、その一言が『痛み』を思い出させていた。
涙が止まらなくなるぐらい。
ただ痛かったのを今でも覚えている。
「そこから先に関しては、個人的な羞恥心により割愛させて頂くのでご了承しやがれ」
● ● ●
思いがけず深いところまでを晒してしまった自分語りを、宗次は乱暴に締め括った。
「……たくよぉ」
和真が絡むと調子が狂うのは、誰しも同じだ。
だが、宗次が共に過ごした時間は、他の連中の比ではない。
それなりに長い翔悟ですらも及ばず、家族という括りを除けば、宗次は『二番目』だ。
親友として、面映くて素直になれないが『家族』としても、多くの時間を和真の傍にいたという自負がある。
「つーわけだ。わかったかよ。ジャンルが違おうがなんだろうが、それでも俺とあいつはダチだ。それをお前らにゃ否定させねぇよ。くだらねぇイチャモンつけようもんなら潰すぜ」
静輝と奈々世を睨みつけながら、宗次は言う。
「珍しく素直じゃないか」
揶揄するような翔悟の言い方ではあったが、素直な驚きの方が色濃い。
天邪鬼な男の口から零れた『本音』は、尊いものだった。
「あいつの前じゃ、口が裂けても言わね~よ」
宗次は、けっと吐き捨てた。
「とにかくだ。俺をダシにしねぇと、あいつに関われねぇ程度の奴らが出しゃばってくんじゃねぇよ。俺に言わせりゃ、お前らも立派なジャンル違いだろうが」
「それを言われると弱いな」
奈々世は痛いところを突かれたというように、苦笑を滲ませる。
より正確に言えば、誰よりも変わり者と言えなくもない和真の方がいろんな意味で『ジャンル違い』なのだが、そっちを指摘するつもりは微塵もない彼らである。
傍にいること。
傍にいられること。
そして、離れないこと。
余計な装飾など必要ない。それが全てだ。
「所詮は同類といっしょくたにされるのは不愉快だが、否定はすまい。だが、彼に迷惑をかけてばかりいる貴様にとやかく言われる筋合いはないな」
奈々世の代わりに口を開いたのは、当然のように静輝だった。
「んだとぉ……」
「前から思っていたのだが、家族だか弟だか知らんが、お前は甘えすぎだろうっ!」
「んなっ!?」
「ダチだなんだと嘯いておきながら、お前がやっているのはおんぶに抱っこ。好き勝手をするばかりで、彼に後始末を押し付けているだけではないか。迷惑をかけているという自覚さえも失ってしまえば、もはやただの害悪に他ならん。そんな貴様が誇らしげに夕凪の親友を名乗るなど笑止千万っ!!」
「そうだっ!」
静輝の糾弾に追い風を感じでもしたのか、それともただの脊髄反射なのか。
好機と見て取り、普段から思っていたことを突きつけるために翔悟が立ち上がる。
「聞けば、お前は昔から風見鶏のようにフラフラと趣味を変遷させているっ! 彼の都合も考えずに次から次へと思いつきで東奔西走し、散々なぐらい付き合わせては和真の私生活を乱しまくってきたそうじゃないかっ!!」
「んぐっ!!」
宗次は顔を顰める。
「特にタチが悪いのは、R18のパソコンゲームを和真も巻き添えで何日も徹夜でプレイしたという話だ!」
「おい。場所を考えなさい」
「ちょっと待って、翔ちゃん」
奈々世と美命が思わずといった風に突っ込む。
男どもは聞いていなかったが、現在進行形で彼らがいるのは社務所の一室。
縁起物の売り場からは少し離れているとはいえ、なかなかの声量なので絶対に外まで聞こえているはずだった。
巫女さんや参拝客が怪訝な顔になっているだろうことが容易に想像できる。
だが、ヒートアップした翔悟は気づかない。
「ちゃんと十八歳になる前にするだけでは飽き足らず、親友と呼ぶ彼まで悪の道に引き摺り込むとは何事だぁっ!!」
彼もまた和真の親友であると自負している一人である。
常日頃から我が物顔をしている(?)宗次の存在を忌々しく思い、いろいろと溜め込んでいた…………のかも知れない。
確証はないのであしからず。
「今時、そんなレーティングを律儀に守ってる奴がいるわけねぇだろうがっ!」
「言い切ってしまうのは、どうなんだ?」
「そんなことはどうでもいいっ! お前が手遅れなのは周知の事実だっ!!」
「おい、こらっ!」
「和真の人格に悪影響が生じたら、どう責任を取るつもりなのかと聞いているっ! ありえないとは思うが、彼が色に狂ったらどうする? お前の与えた余計な知識で女を悦ばす快感にでも目覚めたらどうするつもりだっ!!」
「それはいくらなんでも妄想の領域に突入しているんじゃあ………」
「ある意味、夕凪くんを穢しているのは、誰よりも彼なのではないだろうか?」
ヒートアップするあまりに事実無根の言いがかりとなり、庇うべき相手を貶めようとしているのに気づいていない翔悟を、美命と奈々世は醒めた目で眺めていたりする。
盛り上がる男たちと違って、こういう時の女はクールだった。
きっと偏見ではない。
「エロゲの知識が実践にどの程度役立つかなんてのは知ったことじゃねーが、感謝してもらうに決まってんだろーがっ!!」
「ふざけるなぁっ!?」
「ふざけてるのは、お前らだぁぁぁぁ――――――――っ!!!!」
静輝の痛烈な二段回し蹴りが放たれ、ドガシャアンと派手な音と共に、いろんなものを巻き込みながら外に放り出される宗次と翔悟。
なお、この時点で騒ぎを聞きつけた若菜が大慌てで来ていたのだが、いろんな惨状を目の当たりにして、止めるのは無理だと諦め、あっさりと逃げたことに三バカは気づかなかった。
奈々世と美命は気づいていたが、止めなかった。
余談はさておき。
「ぐっ……。なにをする?」
外に蹴り出された宗次は、即座に身体を起こして臨戦態勢に入る。
「やかましいわっ! よぉくわかった。諸悪の根源は、自称親友の貴様らだ。彼に無用の苦労を背負い込ませ、何かと不自由を強いているお前らに彼の親友を名乗る資格などない。俺が、俺こそがもっと早く隣に立つべきだったんだっ!」
「ほざけぇっ! 騒ぎを起こす側に成り果てたお前が言えた義理かっ!!」
瞬時に頭に血が上った宗次が叫ぶ。
特大のブーメランが刺さるようなことを力一杯堂々と。
「お前が言うなぁぁぁっ!!」
翔悟が全力全開で突っ込むが、彼も言える立場ではない。
どころか、反論すればするほどに、二百日後ぐらいに刺さるのが確定しているブーメランが際立ってしまうという罪の底上げをしているのに、今の時点では全く気づいてはいなかった。当然だが。
「お前もだぁぁぁぁぁぁっ!!」
乾いた風が吹いた。
「……所詮は、同じ穴の狢でしかないということか」
「ならば、生き残るべきは、やはり一人だけだ」
「おかしな理屈のような気がしないでもないが、好都合ではあるな」
「不愉快だが、それだけは認めてやる」
「ならばこそ、最後まで立っていた者が資格を得られるということだな」
互いが互いを邪魔と判断する。
それはいつものことではあるのだが、今はちょっとした賞品が目の前にぶら下がっている。
和真の真の親友という肩書き。座り心地のよさそうな椅子。
ならば、戦って奪い取るのが自然な流れだった。
少なくても彼らの頭の中では。
中心人物である和真の意思がまるで存在していないという事実に目を瞑りながら。
成立した三つ巴の三竦み。
訳がわからないながらも参拝客に遠巻きに見物されている三バカの戦意が膨れ上がる。
混沌とした戦場となってしまった柳原神社で、火蓋が切って落とされようとしていた。
「………夕凪くんを呼んだ方がいいのだろうか?」
真面目なのは当事者だけで、傍観している女たちからすると心底アホらしいと断言してしまえる光景をジト目で眺めながら奈々世は言った。
「お金持ちに誘拐されたので、来るのは無理かと……」
いろいろと諦めた表情で美命は頭を振る。
「そうか。そうかぁ……」
奈々世はため息を吐いた。とてもとても重たいため息だった。
なんでこんな事になってしまったのだろう――という疑問が重くのしかかる。
あまりにあんまりなので検証する気にもならないが。
ともあれ。
張り詰めた緊張の糸は、大した前触れもなく千切れ飛んだ。
カッと同時に目を見開いた三人が、地面を蹴る。
死闘の幕開けだった。
「「「おおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!!」」」
だが――
互いの生命を奪わんと攻撃的な疾走をする三人が激突する寸前に、それは起こった。
その中心にひとつのシルエットが、天空からキュドンッと舞い降りたのだ。
大量の粉塵を巻き上げたその影は――
『にゃふん♪』
犬なのか猫なのかネズミなのかそれとも別の何か幻想的な生物なのか、未だに系統がはっきりしないシルエット。柔らかくもふわふわした感じの二・五頭身。背中に小さな翼を生やした、全体的に丸っこくもふくよかな体型の不可思議な何か……彼らのクラスの『不可侵領域』であり、マスコット(?)でもあるパトリシアだった。
「「「な――――っ!?」」」
突然の乱入に三バカは驚くが、今さら動きを止められない。
最悪のタイミングに、気色の悪い音を奏でグロテスクな形状になった着ぐるみが血飛沫とともに舞う光景を幻視する。
しかし――
次の瞬間に虚空に高々と舞い上がったのは、三バカたちだった。
「「「う、お、おぉ………っ」」」
何をされたのかを正しく把握できない。
羽毛で触れられたような感触だけが肌の一点に残る、まるで魔法のような手際だった。
そして、舞い上がったからには当然のように落下するわけで、
「「「おぎゃれるぼろんべれらああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~~~~~~~っ!!!!」」」
三バカは本日二度目となるノンストップな石段転落を経験するのであった。
今度こそ死んだかも知れないが、誰も気に留めなかった。
『にゅふるん♪』
パトリシアは軽やかな一礼をしてから、コミカルな足音をさせながらどこへともなく去っていく。
しばらく後に、参拝客からのなんとなくな拍手が送られた。
何が起こったのかを理解できた者はとても少なかった。
「これはまた……なんとも言えない結末を迎えたものだ」
最後まで見届けた奈々世は、完璧に疲れきっていた。
「なんかもうどうでもよくなってきた」
美命は言葉通りの表情になっていた。
「奇遇だね」
肩を並べて、ぼんやりと立つ二人は、なんとなく互いに顔を見合わせる。
「………お腹、空いた」
「よかったら、私とどこかに食べに行かない?」
「いいよ」
迷ったのは束の間、幼なじみが物の役にも立ちそうにないと見切りをつけ、美命は小さくうなずく。
「断られたら傷ついてしまいそうな気分だったから、安心した。こう言ってはなんだが、少し愚痴を聞いてもらいたい気分でもあったんだ」
「……ん。わたしも」
嫉妬といってもいいのかどうかはわからないが、自分たちを置き去りにして大いに盛り上がる三バカの態度にモヤモヤしたものを感じていた二人は、顔を見合わせる。
互いの瞳の奥に共感を見出し、じわじわと親近感が湧いてくる。
「行こうか」
「うん」
奈々世はあくまでも自然に美命をお姫さま抱っこし――この辺はもう条件反射のような王子様体質である――歩く手間が省けるので美命はあっさりと受け入れる。
どうでもいいような犠牲の果てに、新たな友情が生まれた瞬間だった。
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………………。
何が嘘で、何が真実で、誰がなんなのかを、まだ世界は知らない。
………………。
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些細な疑問に気づかされた。
日歩宗次と夕凪和真の人生は交わらない。
それは当たり前のような事実で、自然の摂理のように強固である。
何の変哲もない一般家庭に生を受けた和真。
生まれた瞬間にクソゲーと決まった人生を掴まされた宗次。
理由がなければ、決して動かない少年。
他人に頼る方法を知らない少年。
すれ違うぐらいはしても、交わることなどありえない。
互いの心の在り方が違い過ぎる。
なのに、何故そんな二人が出遭ったのか。
出遭うはずがないのに、出遭ってしまったのは、その縁をわざわざ繋いだ者がいるということに他ならない。
それは誰だった?
考えもしなかったからこそ、日常の中に入り込んだ小さな陥穽は疑問にすらならない。
けれど。
気づいてしまえば、容易に記憶を遡り、答えに到達する。
あまりにも簡単だからこそ、逆に気づかれないという最上の隠れ蓑が暴かれる。
「――――あぁ、お前しかいねぇよなぁ……」
宗次は驚きもしなかった。
簡単な消去法だ。
アイツの昔からの幼なじみという肩書きを持っているもう一人の女こそが、彼らの発端をわざわざ創った者に他ならない。
だからこそ。
「ちょうどいい機会だから、少し話をしようぜ」
「………………。」
「なあ、遊月愛莉」




