みかん色のマグカップ
……なるほど、そういうことか。
「それは、マグカップ?」
神谷はゆっくりと立ち上がった。先程、転んだことに加えてちさに助けられた時に脚が少し擦り切れたようで、少し血が滲んでいる。
取り出した物はみかん色のマグカップだ。
「うん! 誕生日おめでとう! ……って、遅いよね。あの日に渡すつもりだったのに。えっと……、十年越しになっちゃったね」
頬を掻く、照れ隠しのような仕草を、ちさは見せる。
「私が、もらっていいの?」
「今さら何言ってるの? ひいちゃんの誕生日のプレゼントだよ」
長い沈黙の後、「うん」と何かを絞り出すように言って、神谷は顔を伏せる。ちさは近づいて下から覗き込んだ。
「受け取ってくれる?」
「……うん」
神谷は声もなく泣いた。両目からたくさんの涙が流れ出していた。それは先程までの悲しみを含んだものではない。
「そろそろだな」
雪那が独り言のように呟いた。何が「そろそろ」なのか、俺にはなんとなくわかったような気がした。それはつまり、
「じゃあね、ひいちゃん」
「えっ? ……ちいちゃん?」
神谷は伏せていた顔を上げた。そして、目の前にいるちさから、神谷も俺も、それに雪那も来奈も目を離すことができなくなった。
「浮いている?」
神谷の目の前で、ちさが浮いていた。シャボン玉が飛んでいくように。オレンジ――みかん色の光の粒子で軌跡を描きながら浮いていた。
「ちいちゃん、ちいちゃん!」
神谷はちさに向けて手を伸ばした。だが、もうその手が届くことはない。神谷の手が触れた瞬間に、その触れた部分が光の粒子となって消えていく。
「ひいちゃん、ありがとう。私、やっと旅立てるみたい」
「嫌だよ。せっかくまた会えたのに。私も言いたいことがいっぱいあったのに。こんな別れ方って……」
「いいの。本当だったら、ひいちゃんと話すことはできなかったかもしれないし、顔を見ることさえできなかったかもしれないから。おにいちゃんにも感謝しないとね」
ちさは空中で器用に俺の方向に向き直った。
「おにいちゃん、ありがとう! それと、おねえちゃんもねっ!」
ほとばしる粒子の中、笑顔で言った。そして、もう一度神谷の方に向いた。
「じゃあ、ひいちゃん。もう行くね」
ちさの身体が輝き始めた。全てが霊魂へと変わる瞬間だというのか。
「ちいちゃん……」
――――ありがとう。
「うん! 私からも。また、遊ぼうねっ、ひいちゃん!」
この言葉を残して、ちさは消えてしまった。それと無数の光の粒子を残して。その光はちさの好きなみかん色をしていた。
「こんなにも綺麗な霊魂、見たことがありませんね、雪那ちゃん」
「ああ、確かに綺麗だ。なあ、和志もそう思うだろ?」
雪那と来奈は浮かんで、ゆっくりと雪のように舞い落ちる光の粒子の中を漂っていた。
ふと、俺は神谷の方を眺めた。神谷は空を仰ぐように見上げている。
神谷の目にもこの景色は見えているのだろうか。この美しい光を。
その手には、みかん色の、ちさが好きなみかん色の、文字が下手で「目」と「童」に分かれているような「瞳ちゃん」と書かれたマグカップが握られていた。