信じられないこと
信じられないことが起こった。ちさが道路に飛び出し、神谷に向けて走り出していたのだ。身体にあれだけまとわりついていた鎖は途中から千切れたようで、それがちさの走った軌跡を描くように振り落されては黒い霧となって消えていく。
その走る速さは想像を超えていた。到底人間では追い付けないような速度で神谷の元へと駆ける。
「ひいちゃん!」
ちさの呼び声は届かない。そう思っていた俺だったが、ここでもう一つ信じられないことが起こった。
「……ちい、ちゃん?」
ちさの呼び声が神谷に届いたのか。かすかな反応を示した。いや、口の動きがそう見えただけかもしれない。だが、神谷の視線は確かにちさに向けられているようにも思える。
ちさは神谷に手を伸ばす。そして、次の瞬間、
「キャッ!」
神谷は小さな悲鳴を上げて、道路外に飛ばされ転がった。正確には、ちさに突き飛ばされたと言った方がいい。俺の目にはそう見えた。いや、確実にそうだ。そうでないと、この現象は説明できない。神谷は動けないで倒れていたんだ。それが、ありえない体勢で飛ばされた。そして、今は道路脇にいる。
トラックの進行方向にはちさ一人だけとなった。後ろ姿だけで、どんな表情になっているかは見えない。
「ちいちゃん!」
神谷が手を伸ばしたところで、ちさと神谷の二人の姿はトラックにより遮られてしまった。
トラックが通り過ぎる。そこで雪那は俺の拘束を解いた。そして、三人で神谷が突き飛ばされ、へたり込んでいたところに駆けつける。
「神谷! 大丈夫か!? 怪我とかは……」
どうした? 反応がない。というか、神谷の視線は俺の後ろに向けられていた。
「ちいちゃん……」
神谷は呟く。後ろに振り向くと、ちさが立っていた。
「神谷、見えるのか?」
「輿水君、ちいちゃんがそこに……」
そう言いながら座り込んだままで、ちさを指差す。どうやら神谷にはちさの姿が見えるようだ。どうして見えるようになったのかはわからない。幽霊が見えるようになったのか。いや、そうではないだろう。ちさの後ろには、雪那や来奈がいるはずだが、その二人の姿は見えていないようだ。二人のことは、全く触れていない。
「ひいちゃん、私のことが見えるの?」
ちさが近づきながら言うと、神谷はゆっくりと頷いた。ちさは驚いたような表情を見せた。そして、
「ひいちゃん……、会いたかった!」
涙。光子のような涙を振り撒きながら、ちさは神谷に飛びついた。今度は本当に。仮初めではない、本物の。ちさは、間違いなく神谷の隣にいる。神谷はちさの存在を感じることができている。
「私も、会いたかった。ちいちゃんに会いたかった。でも……」
神谷は顔を曇らせた。
「私には、ちいちゃんに会わせる顔がない」
ちさは神谷の身体を抱いているが、神谷の腕はいまだに空にあった状態である。「合わせる顔がない」というのは、おそらく事故のことを悔いているのだろう。
「神谷……」
言いかけたところで、来奈に手を出されて制された。
「和志君、ダメです。君は手を出さない方がいいと思います」
「そうだぜ、和志」
雪那もそれに同調する。それで、俺は一歩下がって見守ることにした。もうすぐで無粋な真似をするところであった。
「私に合わせる顔がない? どういうこと?」
「だって……、だって、私のせいでちいちゃんは、ちいちゃんは死んじゃったんだよ。私のせいで……」
神谷は震えていた。それを見たちさは首を横に振る。
「それは違うよ、ひいちゃん。ひいちゃんのせいじゃない」
「でも、それならどうしてちいちゃんはここにいるの? こういうのって、地縛霊ってやつでしょう? ちいちゃんは、何か未練があってここにいるんでしょう? だったらそれって……、私のせい……、私を恨んでいるんでしょう?」
ちさは神谷の肩にそっと触れた。やさしく。抱き寄せるように。
「違う。それは違うよ。私はそのことでここにいるわけじゃない。あの日のことを覚えてる?」
「あの日?」と、神谷は呟く。
「私が、私とひいちゃんが事故に遭った日。あの日はなんの日だった?」
「あの日は確か、……私の誕生日」
「そう。それが私の心残りだったこと。ひいちゃんの誕生日を祝えなかったこと。だから……」
一度、ちさは神谷を離してから距離を取った。そして、バッグからあるものを取り出す。