彼女の家②
「俺は……、幽霊が見えるんだ」
「……………………ハァ?」
神谷は目を見開いた。そして立ち上がる。
「ふ、ふざけないで! なに? 幽霊が見える?」
「バカじゃないの?」とでも、言いたげな表情だ。それもそうだ。俺の言ったことは突飛な話である。普通は信じられない。
「だから? それで次は……、あの子が見えた、って言うんじゃないでしょうね?」
あの子……。ちさのことか。
「…………そうだ」
そう言った直後に、神谷は立ったままの体勢から近づいて、
「ッ!?」
俺の胸倉を掴んだ。昨日の神谷からは想像できない行為だ。
「私の家まで、そんな冗談を言いに来たの? ふざけたことを言わないで! あの子がいるわけない。あの子は、だってあの時に……」
「冗談じゃない! 俺はそれを伝えに……」
「嘘よ! 嘘! あの子はあの時に、私の目の前で死んだんだから!」
神谷は聞く耳を持たない。掴む手の力だけが大きくなっている。
ああ、やっぱり俺と同じだ。
「だから! 俺はそれを見ることが……」
「嘘! あそこにいるわけがない!」
「じゃあ、どうすればいい。ちさについて言えばいいのか?」
「何も知らない君が、軽々しくその名前を呼ばないで!」
もはや金切り声に近く、嗚咽を含み掠れていた。それでも、俺は続ける。ここで止めるわけにはいかない。
「俺が見た時、ちさは髪をオレンジ――いや、みかん色のゴムでくくっていた。みかん色のバッグを持っていた。服装についての詳しいことは、知識がなくてわからないけど……」
オレンジではなく、ちさの呼んだように「みかん」色と、俺は言った。
どうしたんだ? 掴む力が弱くなっている? それに、神谷の顔も青ざめている。震えも始まっている。
「それは……、あの日、持ってた……。あの子の……、あの子の……。あの、子の……」
神谷は崩れた。崩れ落ちた。俺の目の前で屈んで、声もなく泣いている。やはり、雪那の言ったことの方が正しかったのか?
だが、もう引き下がることはできない。再三言ってきたことだが、これが最後のチャンスだ。
「神谷、落ち着け!」
意を決して、俺は神谷の肩を掴んだ。神谷は顔を下に向けた状態から身体をビクッと震わせ、顔を上げた。
俺は固まっていたらしい。確実に神谷の表情に衝撃を受けていた。この顔はどこかで見たような気がする。目を真っ赤にさせながら、下から見つめてくるという状態。
ここで伝えなければ後がないのはわかっている。だが、俺に次の言葉を紡ぐことはできなかった。
「…………帰って」
「えっ?」
神谷は呼吸を整えてから小さく呟いた。その次に、俺の手を払って離れる。そして、部屋のドアに近づくと乱暴に開けた。
「もしかしたら、謝ってくれるのかと思って、あの事故の新聞記事を持っていたのだってなにか事情があって、今日、それを私に伝えに来たのかと思ってた。だから、家にも入れた。それなのに、輿水君は……」
「神谷……」
「もういいの。頼むから帰って。それと、君とはもう必要以上に口も利きたくない」
神谷の拒絶。圧倒的な拒絶。
身体の芯に突き刺さるような感覚に陥った。
もう、無理か……。
俺はそう悟って部屋を出ようとした。だが、一歩出たところで自然と足が止まった。
いや、なにかしないと。やっぱりあきらめてはいけない。これだけは伝えなければならない。
俺は振り返って神谷を見た。目に映るのは、神谷の後ろ姿だけだ。その背中には、悲しみや怒りに取りつかれたような黒い影、鎖のようなものが見えたような気がした。
「これは俺の独り言だけど、明日、ちさとお別れをしようと思っている。神谷のよく知る場所で」
返事はもちろんない。だが、俺ができるのはここまでだ。
俺は、ドアを静かに閉めた。