黒歴史
「かーずしぃー」
昼休みになった。いつも通り、優実花とユートが俺の席の近くに来た。
「ねえねえ、和志。昨日のこと覚えてるぅ?」
昨日のこと?
「ああ、ユートの自転車のことか? あれなら置いてあった場所に返しておいたよ」
「そんなことはどうでもいいんだよ」
優実花の言葉を聞いたユートが、傷心したような衝撃的な表情をした。見なかったことにしよう。というか、気にしても無駄だ。
「昨日の朝の話だよ、かーずしぃー」
「昨日の話ってなんだ? この様子だと、俺の自転車についてのことじゃあねえだろうな」
ユートが尋ねる。
「昨日の朝和志が言ってたんだよ。『後で何でも言うことを聞きます。舐めろと言われれば何でも舐めます。舐め回します』ってね」
優実花は悪意ある脚色をして伝える。
「……本当かよ、和志」
「そんなこと言ってねえよ!」
ユートは大きい図体を震わせた。俺とユートのやり取りを無視して、優実花は続ける。
「それで、昨日帰ってから一晩中考えてたんだけど……、こういうのはどうかな?」
「なにがしたいんだ?」
「うーんとねえ、次の授業でねえ」
「つ、次の授業で……?」
これ以上にない悪意あるキラキラとした笑顔を、優実花は振り撒く。それに充てられたのか、ユートは冷や汗をかき始めた。
嫌な予感がする……。次の授業は現代文だったはずだ。つい先日、先生に悪い印象を植え付けたあの授業である。
「私の中学生時代における黒歴史の一つ。先生のことを『お母さん』と呼ぶのよ!」
指を差して決め顔決めポーズをとる優実花。
先生を「お母さん」と呼ぶ。誰でもその場面に出くわしたことがあると思う。覚えていないかもしれないが。それをしたのが自分であったら、それは絶対に覚えているだろう。だが、それも小学生の時というのは、よくある話だと思う。中学生時代にそれをするというのは稀であろう。
だから、鮮明に覚えている。優実花が先生のことを「お母さん」と呼んだことは。そしてその後、顔を真っ赤にし、パイナップルのようなサイドポニーが逆立っていたことも。
というか、
「それって、ただの罰ゲームじゃねえか!」
「ええ? でもさあ、和志は何でも言うこと聞くって言ってたよ。というか実際、してほしいことなんてないんだよねぇ。だからさあ、いっそのこと和志に恥ずかしい思いをさせようと私は考えてさあ。これってどう? 何でもするって言ってたから、拒否権はないよね」
それ、なんていうイジメ?
俺が嫌な汗を背中に感じながらそのようなことを考えていると、
「なんかおもしろそうになってるな」
雪那が現れた。今度は天井から逆さまにだ。
なんというか、予想通りだ。こういう、人が辱められることに目がない雪那のことだ。だから、出てくるのはなんとなくわかっていた。でも、一応訊いておこう。
どうして出てきた? どこかに行ったんじゃなかったのか?
「いやーさ、和志の心の叫びが聞こえたような気がしたからさ、一直線に飛んできたんだよ。ビューンって」
一直線。文字通り一直線なのだろう。
いや、にしても、そんな単純な理由で雪那は俺のところまで来たのだろうか? ほかに、もっと大きな理由が? まあ、コイツにそんなことはないか。
雪那は一度ムッとしたが、すぐに顔をニヤつかせる。おそらく、数十分後に俺が辱められることを思い出したのだろう。
「どうしたの? いきなり黙っちゃって。もしかして……、私の今世紀最悪の罰ゲームにショックでも受けたの!? もらさないでよ」
何をもらすというのか。
「今世紀最悪って……。それより超幼稚な考えだよな……」
「な・ん・か言った?」
凄味の効いた笑顔で、優実花が顔を寄せてきた。
「いや、あの……すいません」
ひとまず謝っておく。
昼休みの間中さっきの嫌な汗が止めどなく流れていた。