いつもの朝食
「わっぷ」
「イテ」
階段をすべて下り終えて最後の一段、というところで腹に何かがぶつかった。
「痛たた……あ! カズちゃん!」
ぶつかってきたもの、いや、人、いや、母さんは頭を押さえながら言った。
「母さん、おはよう」
「うん、おはよう……じゃなくて! えっと、何が言いたかったんだっけ?」
母さんは首を傾げる。息子の俺が言うのもおかしいと思うが、ここには、「かわいらしく」という表現が望ましい。これには十人中九人が賛成するに違いない。
その理由は母さんの容姿にある。
さっき俺の腹にぶつかった、と言ったが、まあ、ほとんど下腹部に近い位置でぶつかった。たった階段ひとつでその位置である。段差なしでは、俺の胸の位置よりも低いところに頭がくる。
つまり、何が言いたいかというと、母さんの身長は低い。そのぶん横に大きいというわけではないから、本当に「小さい」と言っても過言ではない。その上、その身丈に合った幼くかわいらしい顔と声をいまだに保っている。知らない人が見たら中学生、または小学生と言っても通ってしまうだろう。公共交通機関、施設などは子供料金で大丈夫なはずだ。俺の前でやったことはないが。また、容姿について父さんが言うには、初めて会った高校の頃からずっとこのままだそうだ。そして、これだけは言わなければならない。
断じて俺はマザコンではない!
「ああ。そうだそうだ。ウタちゃんに呼ばれなかったの? 遅いから呼びに行こうと思っていたところなんだけど」
「うん。呼ばれたよ」
「それなら早く来なさいよ。ごはん冷めちゃうし、私も洗いものは全部一緒にしたいし、それにカズちゃん学校に遅れちゃうでしょう?」
「はいはい。わかってるって」
「ホントにわかってるの?」
「もう!」と、言って、母さんは俺に背を向けた。キッチンへと進んでいく。俺はその後ろをついて行った。
部屋に入ると、もうすでに詩美は朝食を食べ終え、皿洗いをしていた。
「あっ、お母さん。このままでもいい? 私、早く学校行かないといけないからさあ」
「そういえば、ウタちゃん、朝練があったんだったっけ? そうだねえ、……いいよ。あとは全部カズちゃんにやらせるから」
「え? 俺? さっきと言っていたことが違う。しかも全部って……」
「一番遅かったんだから当たり前でしょうが」
母さんは怒り顔を、詩美はあからさまに嫌そうな顔を俺にしてみせた。
「兄貴にやらせるくらいなら自分でやるよ」
毎度のことながら、なんだかグサッとくる言い方だ。慣れているとはいえ、精神的ダメージはゼロではない。
「ウタちゃん、時間ないんでしょう?」
「うん、そうだけど……」
ジトーとした目で見つめてくる。「こいつにだけは絶対にやらせたくない」って、言っているみたいな。
俺は思わず目を逸らした。
「はぁ……、わかった。ウタちゃんの分は私がやるから。それでいい?」
「……うん。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
「……」
俺が無言でいると、脇腹をど突かれた。言いたくないんだけど。
「……い、いってらっしゃい」
「……」
ほら、また無視された。
詩美は横を通り抜けていった。俺と母さんは横に並んでいたため、母さんの方の横を。
玄関のドアの閉まる音が聞こえた。
「ハァー」
大きなため息をついた。そうしたら、また脇腹をど突かれた。
「『ハァー』じゃないでしょう。なんでいつも言わないと『いってらっしゃい』も言えないの?」
「いや、言ってもさ、詩美いつも無視するじゃん」
「それはカズちゃんが心から言ってないからでしょう? 今のだって、なんかぎこちなかったし」
「そんなこと関係ないって。たぶんどう言っても同じだからさ。たぶん、詩美は俺のこと嫌いなんだろう?」
母さんが何か言おうとしていたが、その前に俺は席に着いた。もう朝食はテーブルに用意されていた。ご飯に味噌汁、それともう一品。いつもの朝食である。
しばらくすると、母さんは向かいの席に着いた。詩美の分の皿洗いが終わったようである。
「まだ食べてなかったの?」
「カズちゃんを待っていたの。というか、じゃあ、何でこの席にご飯が置いてあるのよ」
母さんは箸を持ちながら、ツンとした表情を見せた。まだ詩美のことで微妙に怒っているらしい。何か喋らないといけない。
「ほら、父さん帰ってきたのかなあ、と思ってさあ」
「この前行ったばかりなのに、そんなに早く帰ってくるわけないじゃない」
父さんは現在、海外に出張中である。四月に入ってから家にいない。確か今回は東南アジアのどこかの国に出張する、って言っていたような。あと何日向こうにいるんだったっけ?
「父さんっていつ帰ってくるんだっけ?」
「何言ってるの? 三ヶ月後でしょう。マー君の話を聞いてなかったの?」
ああ、そうだったな。
それにしても、母さんの機嫌も悪い。最近は、父さんの話をすると、三割方こうなる。やっぱり寂しいのだろうか。結婚して十八、九年くらい経っているから、もう慣れろよ、と思うこともあるが、口に出してはいけない。
ちなみにマー君とは父さんのことで、母さんは恋人時代からずっとこの名前で呼んでいるらしい。ちなみに、父さんの本名は輿水正幸である。母さんの場合、俺や詩美、それと、それぞれの友人の名前を呼ぶ時には、名前の略称に「ちゃん」付けで呼ぶ。これが昔からの母さんのルールらしいが、俺やおそらく詩美にしてみればたまったものじゃない。友人の前で「ちゃん」付けで呼ばれるのは恥ずかしい。
その後、特になんの話もしないまま、朝食が終わった。というのも。なんか話しづらかったからである。それになんか頭も痛いし。こんな日は、気分転換に早く家を出るにかぎる。
「あ、母さん、俺も早く行くからさ。俺の分の洗い物頼むよ」
「え? さっきウタちゃん以外の分はやってくれるって言ったじゃない」
「いや、そんなこと俺は一回も承諾してないよ」
「屁理屈ばっかり言って……。早く行く、ってカズちゃん何か早く行かなければならない用でもあるの? あと、ユミちゃんには連絡した? って、待ちなさい!」
俺は返答もせずに母さんの横をすり抜けていった。下に降りてくる際に通学鞄を玄関に置いていたため、二階に取りに行く時間を省くことができた。
「待ちなさいって言ってるでしょう!」
母さんが部屋から出てきたが、俺は両足に靴を履いたところだった。
「いってきます」
母さんに捕まる前に、家を出ることができた。