家に帰ろう
「……あの、何をやってるんですか?」
「あっ、来奈。もう終わったのか?」
「いや、『終わったのか?』じゃなくてさあ、これ……」
来奈は、俺と雪那を交互に指を差しながら見る。それを何往復か繰り返していると、いきなり雪那が「ふんふん」と納得したような声を上げて続ける。
「和志が、『どうぞ俺のことは気にせずにお願いします。どうせ俺は虫けら以下の存在ですから』だって」
「俺はそんなこと全然言ってな……ブフッ!?」
後頭部を掴まれて、顔を地面に押し当てられる。強制的に、口を塞がれたため、文句と異議申し立てが強制終了させられた。
「雪那ちゃん。もうやめてあげてください。和志君がかわいそうでしょう?」
「えー? どうして?」
「『えー? どうして?』って……、じゃあ、この報告書に書きますよ。いいんですか?」
報告書?
俺はなんのことかわからない。来奈が「この」と言っているからには、手か何かに持っているのだろうが、俺は顔を掴まれて地面に伏せられている状態なので見えない。だが、
「それは止めてください、来奈さん!」
なぜか焦ったような声の早さになる雪那。そして、即座に俺の後頭部を掴んでいた手の力を緩め、離した。報告書というのがそれほどにも恐ろしいのか。来奈はうまく権力を行使するなあ。
「大丈夫ですか?」
雪那が話したその代わりに、来奈の片手が差し伸べられる。それを俺は掴んで立ち上がった。このやり取りも何回したことやら。
「三回目だよ」
雪那はそっけなく答える。その言葉の意味がわからない来奈は首を傾げた。
「うーんと……、何のことかわからないけど。……まあいいか。さて、行きますか」
「オウ」と、雪那はそれに答える。だが、俺には意味がわからなかった。
「ちょっと待て。どこに行くんだよ。ちさはどうするんだ!?」
「和志、お前はさっきから『ちさはどうする?』って言うけどな、今からお前にできることなんてあるのか? 私はないと思うね。今できることと言ったら、来奈と私にちさを斬ってあの場所から魂を送るように頼むしかないな」
雪那は近づいて続ける。
「けどな、お前にそれを言える権利はない。それを言った時点でお前は終わりだ。負けだ。もちろん、『勝負を』じゃない。『人間として』だ。それはわかっているよな?」
雪那は俺の目を覗き込んだ。目の奥を通り抜けて脳髄を覗かれているような感覚に俺は陥っていた。
「まあ、でも、本来なら私達の仕事でもある。ちさだけでなく、死者の魂を送るのはな。サポートはちゃんとする。ちさに関する情報、状況、その他諸々を教えたりしてな」
「こんな感じでどうだ?」と、はにかみながら来奈に、続けて言った。
「まったく、雪那ちゃんはこういう時に限って真面目な語りをするんだから……。まあ、的は射ているけどね。でも……、私の立つ瀬がなくなるでしょう?」
来奈に至っても口ではそう言っているが、雪那のはにかみに答えるがごとくに微笑んでいる。
「なんだ。そんなこと考えてたのかよ。まあ、私もあんなセリフ恥ずかしくてなかなか言えたものじゃないけどな。それよりも、今のちさの状態は?」
「そのことなんですが……」
来奈は俺の顔を見る。それに倣うように雪那も俺の顔を見た。
「和志君の家に帰ってからにしましょう」
「えっ? なんで?」
思わず声に出してしまった。さっき「行きましょう」と言ったのも、「俺の家に帰ろう」という意味だったのだろうか。それならそうと、ちゃんと説明してほしい。
「まあ、そうだな。来奈はしっかりしてそうに見えて、案外うっかり屋だからな。どうだ? かわいいだろう?」
雪那は腕を組んで「うんうん」と、納得する。
「それはどうでもいいんだけど。どうして俺の家に行くんだ?」
「なんだ? 和志、お前自分の家に帰りたくないのか? あっ、もしかして家に自分の居場所がないとか? それはそれは、誠にかわいそうに」
「そういう意味じゃなくて……」
いや、実際そうかもしれないが、今はそういうことを談議しようとしているわけではない。どういう理由で来奈が率先して俺の家に帰ろうとしているかが知りたいのである。
「えーと、わかっていますか? 私と雪那ちゃんは、おそらく和志君以外の人には見えないんですよ? 君が言っていたように他の人が見たら『一人で宙に向かって話をしている危ない人』っていう認定を受けるようになってもいいんですか?」
「ああ、なるほど。それは御免だ」
確かに、さっきから横を通り抜けていく自動車の数が多くなって、数えた限りでは二台に一台は俺に注目して通り過ぎていった。外に一人で身振り手振りしているのを不審に思ったのだろう。
なんにしても、雪那に組み伏せられているときに誰にも見られなくてよかったのだが。
「ああ。そういえば車と自転車が一台ずつ通っていったぞ。確か……、そうだ。自転車のほうは和志の学校の生徒みたいだった。女子の制服が同じだったもん。両方ともお前のことをジロジロ見ていたぜ」
…………。
「…………はあっ!?」
「いや、だからお前が地面舐めているときに車とか通り過ぎていったって」
「そんなこと訊いてんじゃねえよ! というか、地面舐めた覚えなんてねえよ、コノヤロー!! なんでその時放してくれなかったんだよ!!」
「それは、私が他人を虐げて満足するような人種だからな。知ってるだろ?」
涙が出そうになった。だがそうは言っても、その女子生徒とやらに顔を見られなかっただけ幸いだろう。「地舐め男」とかいう名前で、学校での噂くらいにはなるかもしれないが。
「和志、やっぱりお前はセンスないと思うぜ」
涙が出そうだ。というより、もう出ているんじゃないか? 俺はもう何も言わないし、考えない。
「はいはい。そこまでですよ、雪那ちゃんも和志君も。全く……、私がわからないからって盛り上がらないでくださいよ」
「わかったわかった。そう怒るなって。来奈はかわいいなあ」
「怒ってませんよ」とトーンと頭を低くして来奈は答えた。もちろん「『かわいい』は否定しないのかよ」という質問はなしだ。
「なあ、来奈。和志が来奈のことかわいく……」
「ああ!! なんでもない、なんにも思ってないって! ……さあ、早く帰ろうぜ」
「ちぇっ、おもしろくない……」と悪態つく雪那と「また二人でそうやって……」とさらに顔を伏せる来奈。そんなマイナスなオーラを後ろに感じながら、俺達は家路についた。