ただの危ない人
だが、いつまで経っても、身体のどこともその攻撃と衝突することはなかった。その代わり、肩に乗ったような、学ランの袖を何かが掴むような感覚があった。恐る恐る目を開く。袖を掴んだのはちさだった。正確には何かに怯えるように、袖の陰に隠れていた。ちさは強く手を握る。袖の皺が広がった。握る手には力が込められており、ブルブルと震えていた。つぶらな両目は潤み、今にも涙がこぼれ落ちそうになっている。その目が見つめる先は、もちろん雪那であった。俺も雪那を見た。
さっきまでと違っている点がある。まず、雪那の表情に好戦的な感情は見られない。そこには俺が見たことのない、罰は感じているが、どうすればいいかわからないというような、困惑した表情をしている雪那の姿があった。視線は俺の目ともちさの目とも合わせないように、ちさ全体を見つめていた。瞳も焦点が定まらないかのようにぶれている。
一度俺と目が合う。だがそれも一瞬のことで、すぐに目を逸らされてしまった。
「……ゴメン、なさい」
雪那は弱々しく呟いた。今の状態では、さっきまでの威勢は感じられない。
「ハイハイ雪那ちゃん。そんなに、珍しくも萎らしくならなくていいから。あなたには似合わないし、こっちが調子狂っちゃうでしょう? まあ、でも……、ちさちゃん。私からも謝っておくね」
来奈はちさに近づくと、「ごめんなさい」と言って頭を下げた。
「来奈、言うなよ。恥ずかしい……。っていうか、『似合わない』とか『珍しく』とかなんだよ!」
「今みたいに喋っているほうが雪那ちゃんらしい、ってことですよ」
「フフフ」と笑ってから、俺たちのほうに向き直った。
「さて、ちさちゃん。私達が何をしたいのか、って訊いたんだよね?」
ちさの前にしゃがみ、来奈はちさと目の高さに合わせて喋る。ちさは緊張したようで、強く袖を掴んだのを感じたが、すぐにそれも緩んだ。そして一度、ゆっくりと首を縦に振る。
「ちさちゃんは、自分が生きていないってことはわかっているかな?」
ちさが目を伏せる。それから、小さく頷いた。
「おい、来奈! お前……」
「和志! 今は黙って見ていろ!」
今度はお前かよ。
後ろから雪那に羽交い絞めにされ止められると、後ろに引きずられる。来奈とちさが会話をしているが、それが聞こえないところまで引きずられると、そのまま組み伏せられた。
来奈もそうだが、どうしてこいつらは腕力がすごいんだ? それに、この俺の状態を誰かが見たら、俺はただの危ない人じゃないか!
「何すんだ!」
「じっとしていろ! お前が来奈の邪魔をしないためにだよ。というか、私に向かってそんなこと叫んでいる時点で、お前は周囲から危ない人認定だよ」
「うるせえ! わかってるよ! 邪魔ってなんのだよ!」
「……ったく、また説明しなきゃいけないのかよ。めんどくさいなあ」
雪那は腕を解いた。これで抜け出せる、と思ったのだが、まだ背中に馬乗りにされている状態なので、重みで身動きが取れない。手足を動かしてはみたが、全くと言っていいほど効果がない。
「ハハハハ! 悶えろ! ほらほら、もうすぐ抜け出せるぞ!」
改めてわかったことがある。こいつ、やっぱりドSだ。
雪那の高笑いを聞き流しつつ、引きずられる前にいた方向――来奈とちさが話をしていた方向に目を向けたが、誰の姿もない。そう思っていると、頭一つ分空いた先に来奈が下りてきた。
「……和志君、どうかしましたか?」
来奈は屈んで不思議そうに見つめていたが、だんだんその視線は奇異に満ちたものへと変わっていく。俺はものすごく惨めに感じた。