8.5優しいバカと嘘つきな世界
「俺ってバカだからさ」
彼の口癖はそれで、私はそれがとても嫌だった。自分を卑下するのは、誰も得をしない。バカだと思われれば周りからもそういう評価を受けるし、周りからバカだバカだと言われれば、何をしても自分がバカだから仕方ないというように割り切ってしまう。そんなくだらない割り切り方は嫌だった。けれど割り切って、自分がバカだから仕方ないと割り切って、生きていかなければならないこともあるのだと知ったのは、遥か昔のことだった。
身長は高く、痩せ型。筋肉がないわけではないが、筋肉質というわけでもない。髪はワックスを使う程度で、染めてはいない。学校は高校中退。部活は入ってはいたものの幽霊部員。いつもニコニコ、というかへらへらしていて、今さえ楽しければいいみたいにして、私の彼は生きていた。
デートをしていても、いつだって本当に楽しいのかもわからなかった。私の前では彼はそんなに笑わない。静かに笑っているだけで、学校で友達としゃべっていたときのように、大声で笑ったり、おどけて見せたりということをしない。私は、嫌われているんだろうか……
私が彼と付き合い始めたきっかけは、私からの告白だった。クラスでも一番のお調子者。正直に言えば、苦手なタイプだった。けれど、だからこそ憧れがあったのだろう。初めての接点は、図書館だった。いつも騒いでいるような彼が、本を読んでいるのが珍しくて、当時図書委員で仕事をしていた私から話しかけた。
「何を読んでいるの?」正確には覚えていないが、確かそんなようなことを聞いたように思う。一瞬彼は私のことが誰かわからなかったようで、不思議そうな顔をしていた。それからふっと思い出して、私の名前を確認するように口にする。私は頷いて、もう一度何を読んでいるのか尋ねた。彼は本の表紙を見せて、「俺ってバカだからさ、ちょっとくらいは色々知っておいたほうがいいかなって思って」と言った。本の題名は“一年のレシピ”。普段から料理をするのかと尋ねればそんなこともないという。本当に、ただ思い立って読んでいただけなのか。それからは別に何か特別なことを話したわけでもなく、図書委員の仕事に戻る。本の貸し出しと返却、それから本の整理くらいしか仕事はないのだけれど。
付き合うきっかけになったのは、やはり図書館でのことだった。おすすめの家事の本はないかと聞かれたのだ。家事をするのかと聞けば、またそんなことはないという。彼はへらへらして、「でもちょっとでも家事とかできた方がいいじゃん。俺ってバカだから、どうせいいとこの会社なんか入れないし、それだったら俺が家事して嫁さんに働いてもらえばいいかなって」そうした彼の態度は、私をなぜか苛立たせた。努力もしないで自分のことをバカだバカだというのも嫌だったし、他人に働かせようという魂胆も、結婚できるだろうという謎の自信も、私にはどうにも我慢ならなかった。私はその場が図書館であることを忘れて怒鳴ったように思う。思うというのは、頭に血が上っていて内容なんかロクロク覚えていないからだ。多分、怒鳴ったのだろう。彼に後から聞いた話によれば。
それから数日後、図書委員の仕事をして、本の配架をしているとき、私から告白をした。彼の言葉は芳しくなく、「俺ってバカだから、俺と付き合うと苦労するからさ。ほら、それにお前俺のこと嫌いそうじゃん」と言われた。それでも好きになってしまったものは仕方がない。それでもと食い下がると、彼は少し考えてから承諾してくれた。ただし、「俺と付き合うと後悔する。別れるのは自由だし、いつ言われても構わない」という言葉がついていたが。
付き合ってからというものの、イメージしていたデートとは少し違うことに驚いた。初めてのデートは映画館だったが、その後は別にどこかに特別いくわけではない。喫茶店でくだらないことを話したり、公園にいってぼーっとしたりした。本屋を巡ったりするのにも付き合ってくれた。そういう意味では、とても幸せな時間だったと言えた。
ただ、彼には少し不可思議なところがあった。デートと言ってもいつも夕方には帰っていく。だいたい、こういう時は男のほうががっついて、すぐに夜のデートにもっていって、性関係を結ぼうとするものだと思っていただけに、少し拍子抜けをした。別にそういったことをしたいわけではなかったが、全くそういう対象として見られていないのかもしれないと思うと、それはそれで付き合っているという意味が失われそうで怖かった。
いつもいつも夕方には帰ってしまうので、ついに私のほうから声をかけた。浮気の可能性もあった。いくら自分に魅力がないことがわかっているとはいえ、浮気をされてまで付き合ってはいられなかった。彼氏持ちであるという、女の子の間でのステータスよりも、自分のプライドのほうが大切だった。たとえそれがどんなに小さなものであったとしても。
長い話し合いの末(その殆どは私が言いがかりをつけるように話していたわけだが)、彼の家に招待されることになった。
学校から歩いて一時間。遠い場所に彼の家はあった。うちの学校は自転車通学が認められている。使わないのかと聞けば、小さく笑ってごまかしていた。周りからどんどん民家が減っていった。代わりに、プレハブの小屋が目立つようになった。家の殆どは真っ暗で、沈んでいく太陽だけが私たちの足元を照らしていた。私は前を向くのことが怖くて、前を行く彼の足ばかり見ていた。後悔し始めていた。もっと単純な話だと思っていたのだ。そう、例えば家が案外厳しくて門限がある、だとか。
「ここだよ」その声と共に顔をあげる。あげるのが怖かったが、あげないわけにはいかなかった。普通の家であってくれればいいと思った。プレハブの小屋でないことを祈った。しかし現実はもっと厳しかった。「ただいま」の声と共に入っていったのは、鶏小屋のような建物。トタン屋根に、トタンでつぎはぎをしたような壁。漫画でしかこんな家を見たことがなかった。
私は彼に促されて家に入る。家財道具は殆どない。布団が一組と、ロウソクと鍋があるきり。ぼろきれがそこかしこに置かれている。迎えてくれたのは、まだ小さな弟と妹。着ているものはボロボロで、ところどころ縫い合わされている。私のことを不思議そうな顔で見ている。「この人はね、俺の彼女なんだ。ほら、挨拶してごらん」二人とも、兄のことが好きなのだろう。言われると素直に私に挨拶をしてくれる。私も二人に自己紹介を済ませると、両親はいないのかと聞いた。父親は連れていかれて、母親は一日中仕事というのが彼の答えだった。予想できていたが、もしかしたら違ってくれればと思った。
「借金がさ、あるんだ」突然に彼が口にした。「3億」と続けて。「宝くじ当たっても返しきれないんだぜ、笑っちまうだろ」彼はいつものへらへらした笑いをしていた。「うちの親父がさぁ、中々最低なやつでさ。ギャンブルが好きなの。それも弱いのに。最初のうちはまだよかったんだけど、だんだん大きなのに手を出し始めて、ヤクザのやってるとこにいって大負けしたんだって。それで俺たちの住んでた家とか、家財道具とか全部持っていかれて、親父はどこかに連れていかれちまった」聞かなければ良かったという後悔と、まだどこか物語を聞いているかのようなふわふわした感覚が身を包んでいた。「それも今までに俺たちに黙って何回も借金してたりしてたらしくて、自己破産とかもしてたらしくて、もう国も何もしてくれなくなってさ。ほんと、見捨てられた気分だよ」何も面白い話をしているわけではないのに、彼は笑っていた。
「でもさ、良かったことがあるんだ」と、私のほうを見て、妹と弟を見て言う。「俺が帰っても一人じゃないってこと。いいだろ、俺の兄弟。可愛いだろ」そう言って、本当に嬉しそうに、大切そうに、頭をなでる。「俺ってバカだからさぁ……学校とか行ってるんだったら、こいつらを守ってやんなきゃいけないって思ってさ。それでバカなりに色々考えた結果、学校やめて働くことにしたわ。ヤクザの人たちとも話したんだけど、俺が働けばこいつらは何もしないでいてくれるんだって。信じられるかはわかんないけど、何かされないかもしれないって可能性に賭けるしかないじゃん」そう言って彼は二人を抱きしめる。その背中が見ていられなくなって、かける言葉が見つからなくて、私は立ち尽くしたまま目を伏せていた。「なぁ、そろそろ帰れよ。送ってくよ」彼に促されて、私は家を出る。帰ってからも彼の言葉が、行動が、頭から離れなかった。私は本当に誰かを守らなければならないとなったときに、自分の人生全部を捨ててまで、守ることができるのだろうか……
翌日から、彼は学校にこなくなった。担任も理由は聞いていないらしい。知っているのは多分、私だけだろう。あれから家にいくことはなかった。正直に言えば、いくのが怖かった。あれだけ大きなものを抱えている彼の不安を、強さを隣に立っていることなんてできる気がしなかった。私は、逃げたのだ。
私の人生はよく言えば順調、悪く言えばつまらない人生だった。それから誰とも付き合うことはなく、大学に進み、就職をし、適当な人と結婚をした。今では幸せと言えるような生活を送っている。ただ、時々思い出すのだ。そして傲慢ながらも不安に思うのだ。彼が、あの小さな二人を守って生きていくことが出来ているのかということを。